立命館大学でのゲスト講義

1月6日、長年の友人である立命館大学のH教授の計らいで、彼の学部ゼミと院生ゼミでゲスト講義をする機会に恵まれた。学部ゼミは日本人学生の2・3年生、院生ゼミは5人のインドネシア人留学生と2人の日本人学生が対象で、前者は日本語で、後者はインドネシア語で講義した。

学部ゼミ生は、2015年12月にバリ島へゼミ旅行で行ったので、その時の感想を聞かせてもらいながら、いくつものインドネシアについてざっくばらんに話し合った。25年前の私のジャカルタでの留学生活の話が興味深かった様子だった。彼ら彼女らには、自分の見ているあるいは見えている世界が全体のほんの一部に過ぎないこと、物事を多角的に見れるようになること、自分と異なるモノやコトを善悪で判断せずに存在を認めること、そのための想像力を研ぎ澄ませること、などを伝えようと努めた。

院生ゼミでは、日本とインドネシアが本当の意味で対等のパートナーとなるために我々はどうすべきなのか、というテーマで議論した。日本人の中に暗黙にある上から目線を改めるためには、日本人とインドネシア人とが一緒に何かをしたり作ったりする機会をもっともっと増やしていくこと、国とか宗教とか人種とかで人を判断しないように努めること、双方が過度に甘え合う関係を普通の関係に変えていくこと、などを具体的な事例に即して、話し合った。

系統だった講義にならなかったし、敢えてそうしようとも思わなかった。講義する側が自分の世界を披露して押しつけるのではなく、一歩引いて、彼らの自発的な議論のできる環境を整えて、自分もその一参加者として、相手を打ち負かすためではなく、議論を深めるためのサポートを心がけることが大事に思えた。もともと、ディベートというのはどうしても好きになれないのだ。

最近読んだ若新雄純氏の「創造的脱力」という本の内容を思い出した。鯖江市にJK課を作った際に、いかに女子高校生が安心して何でも自由に話せる場を作るか、というのがすっと心に入った。そして、若い世代がそういう場を求めていることも実感できた。でも、きっと若い世代だけでなく、我々中高世代にも、いや、じっと中高世代にこそ、そんな場が必要なのかもしれない。

ゆるゆる脱力した、自分を隠さずに済む空間を広めていきたいと思った。大したことはできないが、そんな場をつくる、とちょっと力んでみた。

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