LEADプログラムの若者とディスカッション(2015.1.13)

1月13日、スラバヤ11月10日工科大学(ITS)にて、LEADプログラムに参加している若者9人とディスカッションを行う機会がありました。

LEADプログラムは、各国で将来指導者となる若者への教育訓練プログラムで、今回の9人はNGO活動家、大学教師、企業CSR担当者などでした。

与えられたテーマは「社会起業家と持続のための社会開発」。何を話したらいいのか、全くまとまらず、プレゼン資料を何も用意できないまま、ディスカッションに臨みました。

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社会起業家と単なる起業家との違いは何か、という問いから始め、利益獲得動機から始まる起業家と問題解決動機から始まる社会起業家との違いについて気づいてもらいました。

すると、一人の参加者から、自分が問題だと思っているものと村人が問題だと思っているものが違っていて、村人は何も分かっていないと思った、という経験談から、正しい問題を見つけ出すことが社会起業家にとって重要だという気づきが現れ、どうしたら問題を正しく認識できるかという話になりました。そこで、事実質問の重要性について少し話をしました。

準備不足のディスカッションで、参加者が果たして満足できたのかどうか、私としては何とも言えませんが、少なくとも、彼らにとって、よく聞く話ではなかったような印象を持ってくれた様子でした。

ともかく、やはり、インドネシアの若者たちとのディスカッションは楽しいです。

スラバヤで愛媛県商談会(2015.1.12)

スラバヤへ戻った翌日の1月12日、さっそく仕事開始!

というわけで、シェラトン・スラバヤで開催された愛媛県商談会へ出かけました。商談会自体への出席ではなく、愛媛県からきた中小企業の面談が3件あり、同じくJETROプラットフォーム・コーディネーターの宮本敬太氏とともに、スラバヤの状況等についてお話をしました。

夜は、愛媛県主催の懇親会に招かれ、愛媛県の中村時広県知事とも色々とお話する機会に恵まれました。県知事は以前、商社に勤めていた際、ジャカルタに度々来て仕事をしていたとのことで、1980年代半ばのインドネシアの話題で盛り上がりました。

商談会自体は、愛媛県からの企業さんにもそれなりに好評だったようです。スラバヤで商談会をやってよかった、と少しでも思ってくださったなら、個人的にはとても嬉しいです。

 

ジャカルタの恩人Sさんの死

昨日は、ちょっと落ち込んだ一日だった。私がインドネシアと深く関わるきっかけを作ってくださった恩人Sさんが亡くなったという知らせを聞いたからだ。

1980年代末、私は日本でインドネシア人留学生からインドネシア語を学んでいた。当時の職場から2年間、インドネシアに滞在し、インドネシア語を学びながら現地経験を積むとともに、インドネシア社会についての理解を深め、インドネシア地域研究者としての基礎を築く機会が与えられた。

当時はまだ20代。普通の駐在員のような大きな一軒家に住んで、運転手付き自家用車を使う生活ではなく、20代でしかできない滞在をしようと思った。日本人や外国人がほとんど住んでいないところに住み、インドネシア人のフツーのお宅に下宿し、交通手段は公共交通機関のみ、体全体で自分なりに「インドネシア」を身につけようと思った。

たまたま、インドネシア語の先生である留学生のE君は、外国人がほとんど居ない東ジャカルタに住んでいたので、彼の家に下宿させてもらえないかどうか、尋ねた。

E君は父親を早くに亡くし、母親のもとで育てられてきた。E君は母親であるSさんに相談したが、小さい家だったので、下宿を受け入れることは難しかった。そこで、ジャワ人の敬虔なカトリック教徒であるSさんは、地区のカトリック教徒のリーダーであるBS氏に相談した。そしてBS氏の家に下宿させてもらえることになった。余談だが、後で聞くと、BS氏の奥さんは昔、戦時中に家族が日本軍からひどい目に会ったのを覚えており、日本人と聞いてどんな「鬼」が来るのかととても怖がっていたという。

BS氏の家に下宿させていただいた2年間は、今から振り返れば、私のインドネシアに対する見方を養ううえでとても重要な2年間だった。毎日がインドネシア語オンリーの生活であり、衣・食・住すべてにおいて下宿先の家族とともに過ごした。スハルト政権の絶頂期であったが、エリートやメディアから伝えられるインドネシアとは異なるインドネシアを様々な観点から学び、いつの間にか、外国人でありながら、そこの人々と同じように政府や警察を恐れるような感覚さえ身についてしまうほどだった。

そう、E君の母親であるSさんがいなければ、私のインドネシア現地経験は深まらなかった。Sさんには折に触れてお世話になった。いつも笑っていて、冗談ばかり言う、しかしどこか奥ゆかしさを持ったすてきな方だった。

それから何年かして、Sさんは日本の大学院で学ぶE君を訪ねて、日本を訪れた。ちょうど、結婚して間もないE君のところにできた孫の顔を見に来たのであった。日本を楽しまれるSさんの笑顔が思い出される。

インドネシアと付き合いが始まってはや30年になる。この間、数えきれないインドネシアの方々が自分の恩人となった。Sさんはその初期の頃の研究者やエリート以外の恩人の一人である。そのSさんが亡くなったという知らせを聞いて、深い悲しみとともに、感謝の気持ちでいっぱいである。

そして、これまでの自分のインドネシアとの付き合い方を振り返りながら、これからのインドネシアと自分との関係を考えている。Sさんを含むインドネシアの恩人たちに対して、自分はどこまで恩を返してきたのか、と。

結果的に、インドネシアが単なる研究対象で済まなくなった背景には、Sさんを始めとする恩人たちの存在があった。これまでも、そしてこれからも。Sさんのご冥福をお祈り申し上げたい。心からの感謝をお伝えしたい。

Symposium on Indonesia – Japan New Partnership (28 Jan)

“Symposium on Indonesia – Japan New Partnership”, 28 Januari 2015, di Hotel Borobudur Jakarta, akan diselenggarakan oleh METI, Jepang.

Symposium

Saya akan bertugas sebagai moderator di dalam Bidang Ekonomi dengan Bahasa Indonesia dan Bahasa Jepang.

Rerefnsi: http://sp.nikkan.co.jp/jepang/index.html

Semoga ada manfaat untuk menciptakan fondasi dasar untuk masa depan antara hubungan Indoensia – Jepang. Saya usahakan memamerkan diskusi yang menarik.

Something starts from Old House in Fukushima

During my coming home to my hometown, Fukushima, I visited an old Japanese traditional house in 4 January, supported by my friend. This house was built in 1874, about 10 minutes from my parent’s house.

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We sat around an irori, a hearth in this house and talked many things. Owners told the history of the community since Edo era, how to utilize this house until now, how to conserve this house for the future, and so on.

I visited there not for just sightseeing.

I want to start something from this old Japanese traditional house in Fukushima.

 

福島の古民家から何かを始める

福島の実家に帰省中の1月4日、友人の紹介で1軒の古民家を訪問した。実家から車で10分、明治6年に建てられた大きな家である。

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囲炉裏を囲みながら、この家の所有者であるご夫妻から色々なお話をうかがった。江戸時代以来のこの辺りの村の歴史から始まり、この家に対する思い、どのように家が使われてきたか、これからどんな風に家を守っていきたいか、といった話をじっくりとうかがうことができた。

今回の訪問は、観光気分で観に行ったわけではない。

この福島の古民家から何かを始めようと思っている。

 

“Connect, Learn and Action” starts

A Happy New Year 2015 !

The year 2015 has just started. In transition from 2014 to 2015, we memorized 10 year after the Earthquake and Tsunami in Aceh/Sumatra/Thailand/SriLanka, an accident of AirAsia from Surabaya to Singapore, and will be 20 years after Kobe/Osaka Earthquake. Our life is just lucky. Deeply understood.

This year, I want to create and do ‘true’ works as an independent consultant, facilitator and catalyst.

I will set up my individual small consultant company this year. I try to connect people, regions, resources, technologies, and community beyond borders. I try to promote deep learning and more another learning among those connected ones. Through such deep learning, I promote them to create something new and valuable for the future.

Since this year, I will not be fixed only in Indonesia. Maybe one year will be divided among Japan, Indonesia, and other countries. I will be moving one to another.

Why will I be moving? Because I want to be ‘wind’. Not one-directed ‘wind’, but mutual-directed or multi-directed ‘wind’, I mean. I do not teach anything. I just support to make them find something by themselves, and to make them start to create something new and valuable. As a ‘wind’, I will tell and inform what they do to others. So, I will be moving one to another.

‘Wind’ must not be main actor. Main actor is people there as ‘soil’. I want to be professional catalyst.

For my self input to think new ideas, I will start my new private blog called “Connect, Learn and Action” this year. As an independent consultant, I want to write my own opinion without any intervention from any organization.

Thank you for your reading and I welcome your comments.

 

「つなぐ・まなぶ・うごく」を開始

明けましておめでとうございます。

2015年が始まりました。新年直前にスマトラ沖地震から10年、スラバヤ発のエアアジア機事故、今年になって間もなく阪神淡路大震災から20年と、生きていること、家族と一緒に東京の自宅で新年を迎えられたことを大変ありがたく、また幸運なことと、しみじみと感じながら新年を迎えました。

今年は、本当の意味で、独立コンサルタント・ファシリテーター・カタリストとして、本物の仕事を創り、実行していく、その初めの年にしたいと思います。

時期は未定ですが、今年前半に個人会社を設立し、活動を本格化させたいです。人、地域、資源、技術、社会などを、ときには国境を超えて、ゆるやかに結び、それらの結びつきのなかに、一方向ではなく、かつ深い学びを促し、その学びや、それから派生したさらなる学びを通じて、新しい価値を創り出すための行動を促していく。そのためのプロフェッショナルな触媒(カタリスト)として活動するための会社、です。

このため、今年から、必ずしもインドネシアのみにこだわらない活動をしていきたいと考えています。おそらく、1年間の活動が日本(福島、東京、その他の地方など)、インドネシア、その他の3つに分かれ、その間を行ったり来たり、モバイルで動きまわることになると思います。

なぜ、私は動きまわるのか。それは、風の人になるためです。一方向ではない、双方向または多方向の風として動き、私が何かを教えるのではなく、それぞれの場所の土(地元)の人が気づき、自らなにか新しい価値を生み出していく、そのプロセスへのお手伝いをするためです。風となって、ある場所での新しい価値を生み出す活動を他の場所へ伝えていく、という役目も果たしたい。だから、モバイルで動き回ることに意味があると考えるのです。

そして、風としての自分は決して主役にならない。その場所の人が自ずと主役になる。そんなカタリストになりたいと考えています。

そんなことを思いながら、通常の活動報告とは別に、本ホームページ内で、日頃ふと思うこと、考えることを徒然につづるためのブログ「つなぐ・まなぶ・うごく」を本日から始めることとしました。独立したプロフェッショナルとして、組織や団体にとらわれず、自分なりの意見や見解を述べていきたいと考えています。

他の書き込みと同様、引き続きご笑覧いただければ幸甚です。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

バニュワンギは可能性いっぱいの県

東ジャワ州東部のバニュワンギ県は、ジャワ島の最東部、バリ島に面した県です。なぜかスラバヤでは、「バニュワンギ県にはぜひ行きなさい」と様々な人から勧められていたので、何があるのか、一度行ってみたいとずっと思っていました。

12月18〜19日、そのバニュワンギ県へ行ってみました。18日、まずは、バニュワンギ県知事のアズワル・アナス氏と面会。まだ40歳の若いこの県知事は、様々な斬新で革新的な行政運営で、東ジャワ州内、いや全国的にも注目されている県知事です。

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県知事との面会は1時間弱でしたが、やる気満々の様子。1年間ほぼ途切れなく続くイベントを活用しながら、バニュワンギ県を対外的にアピールし、アグロ関連への投資を積極的に誘致しようとしています。許認可はもちろんワンストップサービス、許認可手続にかかる時間は全国でも有数の速さを自認しています。

県知事と面会した後、県許認可サービス局で細かな投資環境についての話を聞き、詳細な情報を得ることができました。この県許認可サービス局には相談室が設けられ、入口には、バニュワンギ県の年間イベントカレンダーに関する垂れ幕が掲げられていました。

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今回の出張でお世話になっているインドネシア銀行ジュンブル支店は、バニュワンギ県で有機農業の支援も行っている。インドネシア銀行はインドネシアの中銀ですが、もともとはオランダ植民地時代のジャワ銀行を起源としており、CSRの一環として、地方支店は地元の中小企業や地域産業の振興に貢献することが求められています。今回は、彼らとともに、有機農業で赤米や黒米を生産している農民グループを訪ねました。

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19日は、バニュワンギ県許認可サービス局の職員の案内で、まず、漁港とそのすぐ側にあるロングビーチを訪問しました。バリ島を前に見る素敵なビーチでした。

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バニュワンギの北方向の海岸はなかなかきれいですが、ここはけっこう深い海のようで、新しい港の建設計画がいくつかあるとのことでした。

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この海岸から遠くないところに、工業団地をいくつか建設する計画があり、そこにはすでに、インドネシアの大手食品工場や製粉工場のほか、中国の製鉄会社が進出を計画しているということでした。ここでのポイントの一つは、水深18メートルの港湾建設計画でした。

それら工業団地の一つを建設予定の民間企業ウォンソレジョ社で話を聞きました。すでに、政治家ルートで、日系企業からも問い合わせが来ているとのことでした。

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バニュワンギ県は、実はコーヒーの産地でもあります。標高の低いところでとれるロブスタ種ですが、バニュワンギ県内でのローカルブランドをいくつか立ち上げ、地場コーヒーの振興を試みていました。味もなかなかで、ロブスタ種でも美味しいものは美味しい、と感じました。

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端的に言えば、バニュワンギはいろいろな意味で可能性がいっぱいの県だと思いました。スラバヤよりもバリのほうが近い、という地理的条件も、このバニュワンギをユニークなものとしているように思われます。

バニュワンギ県の投資環境調査結果については、別途、ジェトロを通じて報告を行う予定です。

ニュースレター発行終了に関して

2012年9月から開始し、JACニュースレターとして2014年9月まで継続、JAC退職後も購読期間の残った方へ送り続けてきた、私のインドネシア政治経済に関する週刊ニュースレターの発行を本日付で終了。これまで全2615本の記事を送りました。

来年以降の活動の方向性を踏まえ、今後どうするか現在検討中です。

インドネシア政治経済に関する有料メルマガを新たに発刊するか。その場合、購読してくださる方はどれぐらいいるのか。他方、私家版として自分の作業用メモに留めるほうがよいのか。

ご意見・ご提案等あれば、よろしくお願いいたします。

Business Matching di Sheraton Surabaya (12 Januari 2015)

Bersama ini saya informasikan akan mengadakan Business Matching Event dengan perusahaan Jepang dari Ehime Prefecture di Sheraton Surabaya pada tanggal 12 Januari 2015. Silahkan klik rincian di bawah ini.

– Leaflet-BusinessMatching-Ehime_12Jan2015

– Ehime_CompanyProfiles

Kali ini ada perusahaan yang memiliki teknologi yang berguna untuk pengolahan makanan dan minuman. Misalnya:

1. Takenaka Wire Cloth Co. Ltd. memiliki jaring kawat dengan presisi tinggi yang bisa digunakan perusahaan yang membutuhkan bubuk yang sangat halus.

2. Hagio High Pressure Containers Co. Ltd. memiliki teknologi tahan sangat lama roda velt-conveyor yang digunakan di dalam pabrik pengolahan makanan dan minuman.

3. Top System Co. Ltd. memiliki sistem pengelolaan teknologi untuk mesin-mesin produk makanan dan obat.

4. Aiken Kakoki memiliki teknologi pengolahan rimbah secara canggih dari pabrik makanan dan minuman.

Saya mohon pihak Bapak/Ibu menyebar informasi dan leaflet yang terlampir kepada UMKM Makanan dan Minuman.

Semoga event ini ada manfaatnya untuk mengembangkan UMKM Makanan dan Minuman di Jatim.

 

枝豆のジュンブル県を訪問

12月17〜19日の予定で、東ジャワ州ジュンブル県とバニュワンギ県を訪問し、投資環境情報を収集中です。この2県は、スラバヤにてよく話題にのぼり、なぜそんなに注目されているのか、一度行ってみて中身を確かめたいと思っていました。

この2県には、スラバヤから直行便が飛んでいます。一つの州のなかだけで直行便が複数ルート飛ぶというのは、広大なパプア州などを除いてとても珍しいことです。

ジュンブル県へは、1日1便、ガルーダ・インドネシア航空がプロペラ機を飛ばしています。時間節約のため、今回はこれでスラバヤからジュンブルへ飛びました。

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ジュンブル空港にて

ジュンブル県は、もともと高級葉タバコの産地。国内のタバコ工場へ出荷するだけでなく、葉巻などの原材料としてヨーロッパへ輸出されています。葉タバコ栽培やタバコ工場が大きな雇用機会となっていますが、近年、合理化のためタバコ工場が相次いで閉鎖されたことが大きな話題となっています。

今回は、中銀であるインドネシア銀行ジュンブル支店のお世話になっています。インドネシア銀行はもともとオランダ植民地時代のジャワ銀行を前身としており、単なる金融管理だけでなく、CSRとして地場の事業者育成や地域振興に対しても取り組んでいます。ジュンブル支店は今回訪問したジュンブル県、バニュワンギ県のほか、ルマジャン県、ボンドウォソ県、シトゥボンド県の計5県を管轄しています。

インドネシア銀行ジュンブル支店のアレンジで、ジュンブルにあるインドネシア国内最大の枝豆工場へも訪問しました。

ジュンブル県の枝豆工場にて。

ジュンブル県の枝豆工場にて。

日本へは冷凍して枝豆を輸出していますが、かつて枝豆生産がここで始まった陰に、日本のジェトロ(日本貿易振興機構)の貢献が大きかったことを遅ればせながら知ることができました。

これからどのように生産規模を大きくしていくか、原材料供給増のためにどのように農家レベルでの枝豆生産を増加させていくかが課題となっています。枝豆自体は、インドネシアでは、通常の大豆よりもかなり価格が高く、消費者から見ればまだ高級品ですが、健康食品としての認知度が高まっており、Edamameという日本語が定着しつつあります。

今回は時間の関係で訪問できませんでしたが、ジュンブルには農業省管轄のコーヒー・カカオ研究所があります。次回、訪問する機会があれば、この研究所にも行ってみたいと思います。

また、ジュンブルは、ジュンブル・ファッション・カーニバル(JFC)というイベントでも有名で、毎年、違ったテーマを決めて、様々に工夫をこらしたコスチュームをまとった人々が街中を練り歩きます。この時期には、約10万人の観光客が訪れ、ジュンブルのホテルだけでは訪問者を収容できず、近隣のボンドウォソやルマジャンのホテルにまで人があふれるそうです。現在、ジョコウィ大統領が市長を務めていた時のソロをはじめ、インドネシアでは約20の地方自治体でカーニバルを行なっていますが、それを最初に始めたのがこのジュンブルだったとのことです。

なお、今回の訪問中に、地元のメディアからインタビューを受け、KISS FMというラジオ局の記事になりました。参考までにリンクを貼ります。私が話したニュアンスとはちょっと違うのですが、まあ、しかたないでしょう。

Investor Jepang Tertarik Berinvestasi di Jember Dan Banyuwangi

今回のジュンブル県、バニュワンギ県での投資環境調査の詳細については、別途、ジェトロへの報告書として公表する予定です。

JETROジャカルタで講演(2014.12.15)

2014年12月15日、JETROジャカルタ主催の「AECセミナー」にて、講演を行いました。

最初は、JETROバンコク事務所の伊藤博敏氏が「ASEAN経済共同体(AEC)の進捗と課題」と題して講演し、2015年に開始されるAECの進捗状況、各国の対応、何が今後の課題となるのか、について詳細な説明を行いました。

続いて、松井が「新生インドネシアのAECへの期待と不安」と題して講演し、中長期的な発展可能性と短期的な経済停滞のなかで、AEC開始によるインドネシア側の不安とそれに対するジョコウィ新政権の対応の方向性、とくに「国際海洋軸」構想についてやや詳しく論じました。

本セミナーについては、じゃかるた新聞に掲載されましたので、参考までにリンクをお知らせいたします。

AEC設立に課題山積 伊藤研究員と松井氏解説 ジェトロ講演会 (2014年12月16日)

当日は、体調が悪く、プレゼンテーション自体に精彩を欠いた部分もあったと反省しておりますが、それでも、最後までお聴きいただいた出席者の皆様に深く感謝申し上げます。

Mie Gondangdiaが焼失

12月9日、ジャカルタ出張中に、Mie Gondangdiaの前を通ったら、店がなかった。黄色い線が張られていた。焼けた跡だった。

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この店にはものすごく愛着がある。今から29年前の1985年8月、研究所に就職して休暇をとり、初めてインドネシアへ旅行に来ていた。バンドンやジョグジャカルタを長距離バスでまわって、ジャカルタにたどり着き、ジャカルタに滞在していた研究所の先輩研究者Mさんの家に2日間居候させてもらった。そのとき、Mさんが連れて行ってくれたのが最初のMie Gondangdiaとの出会いだった。

Mさんがこの店を勧めてくれたのは、麺のスープに化学調味料の味がしない、ということだった。なるほど、チキンベースのあっさりしたスープは、舌に味がいつまでも残らない。麺はやや縮れた細麺で、スープにうまく絡み合う。ゆで加減が絶妙で、シコシコした麺の味わいが何とも言えなかった。

その後、ジャカルタに来るたびに、この店へ通うようになった。定番はワンタンとバッソ(牛肉団子)の入ったMie Ayamで、濃い目に味付けしたマッシュルームと青菜が麺の上にのる。麺を食べる前に、机の上にあるオタオタ(細い笹かまぼこのような練り物を焼いたもの)をピーナッツベースの甘辛ダレにつけて食べながら麺を待つ。

デザートも充実していて、よく食べたのは、仙草ゼリー入りのシロップや、缶詰の果物やタペ(キャッサバを発酵させたもの)の入ったかき氷(エス・シャンハイ)。とくに、エス・シャンハイの満足度はとても高かった。

そして今に至るまで、この店とともに私はインドネシアと関わってきたといっても過言ではない。日本から来たインドネシア研究者の友人・知人たち、インドネシア人の友人たち、そして我が家族と、何度この店で麺を食べ、冷たいデザートを楽しんで、幸せな気分になったことか。

1968年に創業したこの店は、今年で46年目だった。新聞報道によると、焼失したのは12月4日で、プロパンガスの爆発によるものだったようである。私が見たわずか5日前の出来事だったのだ。いつも番台にいた華人系の店のご主人は、ご存命なのだろうか。

2年前、ジャカルタで私の最も好きなエス・チャンプルを出していた店が閉店した。少しずつ、確実に、私を育んでくれたインドネシアの古くからの食べ物屋が消えていく。「懐かしいインドネシア」がまた一つなくなってしまった。

【ジャカルタ】サリナの地下の「筑後うどん」

12月9〜10日はジャカルタへ。実は、福岡県アジア・ビジネスセンターという機関のアドバイザーを務めているのだが、そのセンターの担当者Nさんがジャカルタへお見えになるということで、一日、ジャカルタの街中をお付き合いした次第である。

やはり、福岡からの進出企業を訪問されたいということで、当然、ラーメン店にもお邪魔したのだが、彼女のお目当ては、実は「筑後うどん」であった。

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筑後うどんは、約1ヵ月前に、ジャカルタのサリナ・デパートの地下フードコートにオープンしたうどん屋である。福岡がうどん発祥の地だということを、今回の筑後うどんを訪問して初めて知った。

さっそく、丸天うどんをいただく。西日本のうどんなので、さっぱりとした、しかしダシがきっちり利いているとても美味しい汁である。うどんはコシの強さを強調することもない代わりに、ヤワヤワでもない、丸天と食べるにはちょうどよい固さである。

Nさんから分けてもらったゴボウ天も入れて、うどんを楽しんだ。

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おいしい。ジャカルタやスラバヤで展開中の丸亀製麺とはまた違った美味しさがある。

でも、濃い味の好きなインドネシアの人たちには、まだ物足りないのではないかと思う。どんなソースや調味料を付け加えると、インドネシアの人たち好みの味になるのか、楽しく研究してみる余地がありそうな気がする。

この「筑後うどん」、スラバヤにも出店してほしいと思った。毎日通っても飽きない味。皆さんに超オススメしたい。

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筑後うどんの関係者の皆さんと一緒に

Sudden Lecture in IEU, Surabaya

It was four days before. Suddenly I was requested to give a lecture at IEU, Surabaya. The theme is Business Communication with Japanese Businessmen.

I gave the lecture in 8 December night. At first, only 4 students were presented, even though I heard 15 students. At last, 8 students participated my lecture.

This is very impressive and good opportunity for me to learn the diversity of university students in Indonesia, maybe as same as in Japan.

They are very charming students and I got many friend request by Facebook and LINE after my lecture.

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IEUというよく知らない大学で講義

12月8日の夜は、スラバヤにあるIEUという大学で「日本人ビジネスマンとのコミュニケーション」という題で講義をしました。わずか5日前に頼まれ、聞いたこともない大学だったので、少々不安を感じながら、行ってきました。

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IEUというのは、Indonesia Europa Universityの略らしく、元々は、ヨーロッパの企業がなかなかいい人材を見つけられないので、企業にとってふさわしい人材を育てるために設立されたらしいです。今も、ベルギーに本校があり、ジャカルタにも校舎があるそうです。

学生は15人、時間は3時間、と聞いていたのですが、教室に入ると出席者はわずか4人。しかも、誰もノートなど筆記用具を机の上に置いていないのです。なぜ?と聞くと、「スマホにメモるから」との答え。講義を始めて15分ぐらいすると、さらに4人の学生が入ってきました。そして、インドネシア語で講義をしていたら「英語で講義してくれ」と言われ、途中で英語にスイッチ。彼らもまた、机の上には何も置いていませんでした。

パワポをきちんと準備して講義したのですが、どうやら、講義というよりも、講師と学生が経験を述べ合う形式のシェアリング(要するにおしゃべり)だそうで、「今日の講義はシリアスだった」との声も聞こえました。

ともかく、講義は何とか終了。日本の大学でもそうなのでしょうが、インドネシアでも、ジョグジャカルタの国立ガジャマダ大学や国立インドネシア大学で講義するときとは、ずいぶん学生の質が違うものだということを学びました。

今回の学生は、親が皆商売をしていて、それを継げばいい環境の子たちばかりでした。講義の最初に日本についてのプラスとマイナスの印象を聞いたところ、プラスは勤勉、時間厳守などいつもの答えだったのですが、マイナスは、フリーセックスの国、ポルノ産業が発達した国、といった答えでちょっとびっくりしました。日本のほうが文化が自由で、インドネシアは堅苦しいのだそうです。たしかに、インドネシアでは、私も名前を知らない日本のポルノ女優がけっこう有名らしく、そうした面からも日本のイメージが形成されているのだと改めて思いました。

Untuk Bekerja di Indonesia, TKA Harus S-1?

Dalam kalangan pengusaha Jepang di Indonesia, salah satu masalah besar saat ini adalah masalah visa kerja untuk orang asing. Menurutnya, latar belakang pendidikan orang asing harus di atas S-1 jika mau dapat visa kerja di Indonesia.

Apakah ini sudah ditentukan secara resmi oleh pemerintah lewat suatu peraturan? Atau aturan intern di dalam Kementerian Tenaga Kerja?

Saya belum menemu peraturan resmi yang tertulis tentang hal ini. Menurut Peraturan Menteri Tenaga Kerja dan Transmigrasi Republik Indonesia Nomor 12 Tahun 2013 tentang Tata Cara Penggunaan Tenaga Kerja Asing, ada persyaratan Tenaga Kerja Asing (TKA) di pasal 26. Dalam (1), sebut bahwa TKA yang dipekerjakan oleh pemberi kerja wajib memunuhi persyaratan sebagai berikut: a. memiliki pendidikan yang sesuai dengan syarat jabatan yang akan diduduki oleh TKA; b. memiliki kompetensi yang dibuktikan sertifikat kompetensi atau pengalaman kerja sesuai dengan jabatan yang akan diduduki oleh TKA paling kurang 5 (lima) tahun; c. bersedia membuat pernyataan untuk mengalihkan keahliannya kepada tenaga kerja Indonesia pendamping; dan d. dapat berkomunikasi dalam bahasa Indonesia.

Dalam Peraturan Menteri Tenaga Kerja dan Transmigrasi ini, belum terlihat persyaratan yang harus diatas S-1.

Mengapa ini dianggap masalah di dalam kalangan pengusaha Jepang? Karena pihak Jepang tidak bisa memanfaatkan teknisi orang Jepang lulusan SMA/SMK sebagai pembimbing terhadap tenaga kerja Indonesia, jika harus diatas S-1.

Di Jepang, umumnya, teknisi andalan di suatu perusahaan berasal dari SMA/SMK dan merekalah yang berperan untuk meningkatkan teknologinya dari lapangan. Gerakan Kaizen (perbaikan secara berkelanjutan) umumnya diperankan oleh mereka. Mengapa? Karena mereka yang paling paham kondisi dan masalah teknis sehari-hari di pabrik.

Sedangkan, di Jepang, lulusan S-1 umumnya bekerja sebagai “white-color”, kerja kantor. Lulusan S-1 percaya para teknisi yang menguasai urusan teknis dan pemecahan masalah. Para teknisi lulusan SMA/SMK disebut “blue-color” di Jepang. HUbungan saling percaya antara “white-color” dan “blue-color” inilah yang salah satu kiat pengembangan usaha terutama industri pengolahan di Jepang selama ini.

Dengan demikian, di perusahaan Jepang, “white-color” sulit memberi bimbingan teknis kepada worker. Harus dibimbing oleh teknisi berasal “blue-color”.

Selain ini, di Jepang, ada banyak mantan teknisi yang sudah pensiun ingin sekali berkontribusi untuk pengembangan industri di Indonesia. Sebagian besar mereka pernah bekerja di Indonesia dan tidak sedikitnya sangat mencintai Indonesia. Mereka tidak bermaksud mengambil kesempatan kerja dari orang Indonesia, melainkan membantu meninngkatkan SDM teknisi orang Indonesia.

Mereka tidak perlu mencari uang besar-besaran karena sudah menerima pensiun setiap bulan. Keinginan mereka bukan cari uang. Benar-benar murni mereka ingin membimbing kepada tenaga kerja Indonesia untuk meningkatkan teknik dan teknologi Indonesia di pabrik. Menurut suatu perusahaan HRD, ada daftar mantan teknisi sekitar ratusan orang yang siap datang ke Indonesia untuk pengembangan industri Indonesia.

Sayang, sebagian besar mereka adalah lulusan SMA/SNK, bukan lulusan S-1.

Dimana ada orang asing selain Jepang yang ingin bekerja bukan untuk negara aslinya sendiri tetapi untuk Indonesia? Mereka adalah seperti pelajurit bekas tentara Jepang yang tidak pulang ke Jepang dan berjuang bersama orang Indonesia untuk mengalahkan tentara Sekutu yang ingin menguasai Indonesia lagi pada waktu perang kemerdekaan pada tahun 1945-1949.

Kemajuan Indonesia adalah faktor penting untuk Jepang juga. Perusahaan sepeda motor dan otomotif Jepang sudah menentukan Indoensia sebagai basis produksi dan ekspor produknya di dunia dan tidak lari ke luar Indonesia. Lewat pengembangan industri tersebut, Jepang secara langsung atau tidak langsung membutuhkan berkontribusi untuk industrialisasi Indonesia yang mantap dan kuat.

Ada yang ingin berkontribusi untuk Indonesia tanpa mengambil kesempatan kerja dan tanpa mencari uang. namun, mereka tidak boleh memberi bimbingan teknis kepada tenaga kerja Indonesia karena bukan diatas S-1. Jika ini benar, apakah ini keputusan terbaik untuk pengembangan SDM teknisi industri di Indonesia?

Pemerintahan Jokowi memiliki pemikiran praktis, saya percaya. Semoga pemerintah Indonesia berpikir secara praktis dan bersedia memanfaatkan teknisi-teknisi orang Jepang sebagai pembimbing untuk mencetak SDM yang andal di bidang perindustrian.

Saya mengharapkan tanggapan dan opini pembaca. Terima kasih.

 

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