福島帰省2日目

福島帰省2日目。午前中に弟の車で福島の街中をドライブしたが、ビックリしたことが2点あった。第1に、旧市街に空き地が一段と増え、駐車場がさらに増えたこと。第2に、郊外は住宅建設ラッシュとなっていることだった。

福島市の人口は依然として減少傾向にあり、旧市街の虫食い現象はそれを象徴するが、その一方で、相当数の住宅が新たに建設されている。親と同居していた子供がそのまま親の家に住みたくない傾向が強いことと、原発事故の影響で避難を余儀なくされて仮設住宅に入っていた人々が住宅を購入するという傾向が強まっていることが背景にあるようだ。

午後は、既存メディアがなかなか伝えない話を独自メディアで発信する独立ジャーナリストの方にお会いして、色々とお話をうかがった。組織にとらわれない自由な立場から見た福島の現状について、様々な角度から話をうかがうことができ、大変有意義だった。

復興に伴う外部者による新たな搾取的状況の発生、官によるNPO活動への不信と官主導の事業実施へのこだわり、大学と住民との距離、などの話題が出た。その方の話からは、福島にどっぷり浸かることによる閉塞感のようなものがあるように感じたが、それは福島の現状に起因するある意味の複雑さから来るものかもしれない。

全国全ての都道府県に散らばった福島出身者の新しい地元に福島を自然に埋め込んでいく動きをつなげて、福島出身者による新たな一種のディアスポラ的ネットワークが今後の日本にとって新たな何かを作り出していくのではないか、といった希望も語り合えた。

福島にどのように取っかかりを作ることができるのか。まだ確証はないが、新しい地元を念頭に置いた複層的な地元学の展開可能性を考えることができるのではないか、という気がした。

2014年カタリスト宣言

2014年になりました。明けましておめでとうございます。

本年が皆様にとって素晴らしい年となりますように。
世界中の人々が昨年よりも幸せを感じられますように。

そのために、自分自身が、小さなことから具体的に行動すること。

1日最低1つ、誰かのために何かよいことを行なうこと。
誰かに助けてもらったら、2倍返し以上でその人またはほかの誰かを助けること。
1日最低1回、誰かに微笑をかけること。

ふるさと福島の人々や福島のこと、東北の人々や東北のことを忘れないこと。
日本をはじめ世界中の地元に生きる人々のことを深く思い続け、希望を追求すること。
地域と地域、人と人、モノとコト、世代と世代、喜びと喜び、幸せと幸せをつなぐ人になること。

プロフェッショナルな触媒、カタリストになること。

 

【プルバリンガ】 Soto Campur @ Warung Makan Soto Bu Hj Misdar

11月28日、出張先の中ジャワ州プルバリンガにて、午後3時過ぎに遅めの昼食をとった場所である。地元ではけっこう有名な店らしい。

ソトというのは、ジャワの実だくさんスープのこと。鶏肉を使ったソト・アヤム、牛肉を使ったソト・サピなどいろいろある。地域や店によって味も様々だ。今回は、プルバリンガのソト・チャンプル(この店では基本は牛肉)である。

ソトを食べる前に、まずは机上の揚げ物たちをつまむ。これがまたおいしいのだ。

さて、ここのソト・チャンプルは、牛肉や野菜がたくさん入った豪華版。スラバヤやジョグジャで食べるソトよりも盛りが多く、1杯食べただけでお腹がふくれる。中ジャワ以東では、ソトの中にご飯を入れて食べるのが一般的で、今回もナシ・ソトと呼ばれるご飯入りソトを食べた。

スープ自体はあっさり味。肉や野菜がこれでもかと迫ってくる、ちょっと豪快な感じのソトである。好みに応じて、サンバル(チリソース)を入れる。

この店のもう一つの名物は、ドリアンアイス(Es Durian)。ソトでお腹はふくれたが、食との出会いは一期一会、やはり食べずにはいられない。

ドリアンの固まりがゴロゴロっと入っていて、なかなかのお味だった。さすが、名物だけのことはある。

ご夫妻で切り盛りしている「町の食堂」という雰囲気。「美味しかったよ」と言ったら、二人ともとても嬉しそうな笑顔を見せてくれた。

プルバリンガのお隣のプルウォクルトは、実はソト・アヤムで有名なところ。あいにく、今回はその醍醐味を味わう機会がないままだった。次回は必ず、プルウォクルトのソト・アヤムの名店を3店ほどハシゴしたい。

9年前、スマトラ沖大震災

9年前の2004年12月26日、スマトラ島北部、アチェ沖を震源とする大地震が起こり、大津波などで20万人近くの方々が犠牲となった。まだ覚えているだろうか。

当時、日本のメディアにはインドネシアの情報はほとんど伝わっておらず、タイやスリランカでの被害の様子が報じられていた。インドネシアのとくにアチェの被災状況が報じられたのは、ほとんど年が明けてからだったように思う。

アチェの現地から送られてきた写真をみた。津波がバンダアチェの町を襲う写真、助けを求める人々の写真、そして道路沿いのおびただしい数の遺体の写真、その遺体を埋葬している写真・・・。直視することができない、しかし直視しなければならない。嘔吐感すら感じながら、必死でその画像を記憶に留めようと必死だった。

自分が長く関わってきたインドネシアの悲劇に、一体何ができるのだろうか。悩みに悩んで、信頼できる知人らとともに、アチェの新聞社と一緒に、子供たちが未来へ向けて進み出せるためのささやかな支援を行った。それで十分だったとは決して思えず、その後もずっと気にし続けていた。実際には体験していないのに、時折、あの遺体の画像が夢の中に出てきたり、突然、頭の中に浮かんできたりした。

震災当時のアチェは、インドネシア国軍とアチェ独立派との戦いが続いていた。しかし、その震災で、インドネシア政府は全世界から支援金・物資を受け入れ、それを現場へ投下することでアチェの人々の人心をつかんでいった。ジャワ島などからもたくさんのボランティアがアチェへ入り、救援・復興作業が進められていった。

他方、この点で、アチェ独立派は非力だった。結果的に、震災は、アチェ独立派を弱体化させ、インドネシア政府が支援・復興をリードしながら、アチェ紛争の解決を有利に運び始めた。そして、インドネシア政府とアチェ独立派はヘルシンキで和平協定を締結し、アチェに平和が訪れることとなった。結果的に、大震災による膨大な数の方々の犠牲の上に、アチェは平和を取り戻すことになったとも言える。

2010年10月、遅きに失した感はあったが、震災後としては初めて、アチェを訪問した。津波にも耐えたモクマオウの木は立派なままだった。打ち上げられた大型船や家の屋根の上に乗り上げた船、残された建物に残された生存を示す言葉、それらが震災遺構として残されていた。観光地になっていた。会う方々は皆、笑顔で接してくれた。 そして、彼らのほとんどが身内に犠牲者を抱えていた。これからのアチェをこうしていきたい、という強い思いが伝わってくる出会いだった。

その2年半後に、「アチェで起きたこと」が日本で起こるとは・・・。災害対策が世界で最も進んでいるといわれ、アチェをはじめとするインドネシアに多大な支援を行った日本で、よもやアチェと同じ事が起こるとは・・・。

大船渡や気仙沼の町を津波が襲う映像は、まさに、バンダアチェの町を津波が襲った映像と酷似していた。東日本大震災で亡くなった方は約2万人、たとえスマトラ沖大震災の10分の1だとしても、その悲劇の程度が緩和されるわけではない。

アチェの被災者に対しては、1995年1月に大地震に見舞われた神戸の人々が様々な支援を行っていた。そして今度は、東日本大震災に見舞われた東北地方に対して、神戸の方々だけでなく、アチェの方々も支援の手を差しのべた。災害は、その被災地同士を「同志」としてつなげたのである。東北からの人々も今、アチェの地を訪れており、アチェの人々の9年前に寄り添おうとしている。

同じ被災国として、インドネシアと日本はともに世界へ向けて発信しなければならない何かを共有している。そして、世界の災害対策をともにリードしていくべき役割を担っていると考える。 それは単なる科学的な災害対策に留まらず、人々の経験や思いを共有し、未来を担う次の世代へ、そしてさらに次の世代へ、語り継ぎ、受け継いでいくことだと思う。

9年前、アチェをはじめとするスマトラ沖大震災のことを忘れてはならない。8年前の神戸、2年9ヵ月前の東日本大震災のことを忘れてはならない。これからの我々が、そして次の世代・世代が築いていく未来のために。

マカッサル食べ歩きの記録(12/20-12/22)

12月20〜22日、インドネシアへインターンで来ている日本人大学生2名を引き連れて、マカッサルで食べ歩きツアーを行なった。以下は、この3日間で何を食べたかの記録である。

<12月20日(金)>

1.Kios Lompobattangにて、肉まん(大)(Bakpao Besar)と豆乳(Air Tahu)

2.Kios Donaldにて、肉団子各種入りスープ(Baso Campur)とアイスティー

3.Mie Titiにて、揚げ焼きそば(小)(Mie Titi Kecil)

<12月21日(土)>

4.ホテルの朝食で、ナシゴレン(Nasi Goreng)

5.Coto Nusantaraにて、地元特製の臓物入り牛肉スープのチョト・マカッサル(Coto Makassar Campur)

6.タカラール県ガレソン地区での友人の結婚披露宴で昼食

7.Kios Bravoにて、マカッサル風サモサ(Jalan Kote)、春巻(Lumpia)、緑バナナかき氷(Es Pisang Hijau)

8.Restaurant Surya Super Crabにて、スーパーキング・マングローブ蟹(Kepiting Bakau Super King / Saus Padang & Lada Hitam)、ナマコの炒め物(Cah Haison dan Sayur)、ブロッコリーとマテ貝の炒め物(Cah Blokkori & Sea Cucumber)、ハタの蒸し魚(Ikan Sunu Tim)、イカ唐揚げ(Cumi-cumi Goreng Tepung)、笹かまぼこ(Otak-Otak)など

<12月22日(日)>

9.ホテルの朝食で、鶏お粥(Bubur Ayam)

10.Jl. Lombokの麺屋にて、ワンタン麺(小)(Mie Pangsit Kecil)

11.Jl. LombokのKios Irianにて、肉団子各種入りスープ(Nyuknyang Campur)

12.Restaurant Nelayanにて、焼き魚2種(辛いソース・甘いソース)(Ikan Bakar Rica-Rica & Saus Palape)、マカッサル名物黄色い辛酸味魚スープ(Palmara Bandeng)、塩魚ともやしの炒め物(Cah Toge dan Ikan Asin)、オランダ茄子ジュース(Jus Terong Belanda)など

13.Cafe Mamaにて、ココビーン・アイス+アイスクリーム乗せ(Coco Bean Ice + Icecream)

14.出発便が2時間以上遅れたので配られたまずい弁当

わずかの滞在だったため、Sop Saudara、Sop Konro、Nasi Goreng Merahなどの重要なマカッサル名物を今回食べるには至らなかった。

今回も改めて感じたが、マカッサルの食べ物には勢いがある。「食べくれ!」と食べ物の側から強く訴えられているような印象を持つほどの勢いである。その勢いのおかげで、自分も元気になっていくような気がする。実際、以前、マカッサルにいたとき、食べ物の持つ勢いに何度も助けられた。荒っぽさというよりは勢い、である。

美味しいものを存分に食べて元気になる。そんな場所がマカッサルだと確信している。マカッサルの勢いのある食べ物で、みんなに元気になって欲しい。

マカッサル食べ歩きツアー、参加希望者はいつでもお気軽にご連絡を。次回はいつになるかな? (マナド食べ歩きツアーも可、です)

中ジャワ州山間部にてウナギ蒲焼を食す(一部修正)

すでに以前のブログ「インドネシア・中ジャワ州南西部の投資環境(報告)」に掲載したPDFファイルの報告書でも書いたのだが、11月27日、中ジャワ州のバンジャルヌガラ県でウナギ蒲焼を食べてきた。それも、生きたウナギを目の前でさばき、開いて串に刺し、オーブンでじっくり焼いて、濃厚なタレをつけていただく、というなかなか贅沢なひとときだった。

このウナギ、南海岸に面したチラチャップ付近で漁民が獲った稚魚(シラス)をいったん海水の池に集め、そこから淡水の池に移して徐々に淡水に慣らしながら大きくしていく。種類はジャポニカ種ではなくビコール種、日本の蒲焼用のウナギは体長20〜25センチ程度だが、今回いただいたのはそれよりも若干長い30〜40センチのものだった。

この企業は兄弟・親戚の3人で動かしている小さな企業である。以前、日本で開催されたFOODEX JAPANへ蒲焼を出展したが、「泥臭い」と言われて散々だった。日本滞在中に、彼らは浜松のウナギ養殖業者を訪問し、いろいろ学んだ。「泥臭い」原因 は、海水で大きくしたウナギを使ったからで、地下水などの淡水を使うと臭みが抜けることに気づき、FOODEXの半年後、淡水で育てたウナギの蒲焼で再チャレンジした。評判はよく、日本のウナギ蒲焼と遜色ないと評された。

3人のうちの一人は、スラバヤの料理学校を出た後、ジャカルタのリッツカールトンで修行した男で、彼が浜松で蒲焼の作り方、タレの作り方を学び、短期間でそれを習得した。浜松の巨匠は1分間に40匹のウナギをさばくそうで、技の習得に長い期間が必要とのことだが、この彼は、わずか1年間学んだだけで、1分間で25匹をさばくという。その技も見せてもらった。(このくだりは、この企業の人の話だが、よくよく考えてみれば、非現実的な数字のように思える。1時間当たりの数字なのかもしれない。要するに、このインドネシア人の彼が短時間で技術を身につけたということを強調したい表現と受け取ってもらえれば幸いである)。

このウナギ蒲焼、日本で食べる一般的なものよりも肉厚でふっくらしている。今回は関西風に蒸さずに直接焼いてもらったが、全体に脂っこくなく、適度な脂が乗っている。ビコール種は皮が堅いとよく言われるが、ちょっとカリッとしてはいるものの、食べられないほど堅くない。日本で学んできたタレはそのまま注ぎ足しながら味をキープしてきたもので、浜松の巨匠も太鼓判を押したというのがうなずけるよくできたタレだった。

ウナギ蒲焼を口に運ぶ。ふわっと口の中に広がるウナギの柔らかな肉と脂の絶妙なハーモニー。こんなおいしいウナギを食べたのは本当に久しぶりだった。

しかも、私のためにわざわざ作ってくれた蒲焼。山椒がなかったのが本当に残念だった。

まだまだ手作りという感じの彼ら。今は月に100キロ程度、 某日本食レストランからの注文を受けて生産し、真空パックにして送っている。将来的には、月に5トン程度の蒲焼をつくりたいという計画を持ち、養殖場と蒲焼工場の敷地として24,000m2の土地を確保したという。彼らと一緒にウナギ養殖と蒲焼工場に興味を持つ投資家はいないだろうか。

このウナギ、一食の価値がある。もし、食べてみたい方がいれば、ご連絡いただきたい。彼らのウナギを食べるツアーなど企画してみたい、などと思う今日この頃である。

【バンジャルヌガラ】 Nasi Gudeg @ Warung Bu Sugeng

11月27日、中ジャワ州バンジャルヌガラ県を訪問した際に昼食で食べたナシ・グデッ(Nasi Gudeg)。

グデッというのは、ジャックフルーツの実をココナッツミルクで柔らかく甘辛く煮込んだものをベースに、煮玉子や鶏肉のオポール(ココナッツミルク煮)や牛皮を柔らかくしたもの(Krecek Sapi)を加えた、ジョグジャカルタや中ジャワの郷土料理。ご飯と一緒にいただく。

Krecek Sapiのクチャクチャとした感触がアクセントになる。こちらの人はよく、ご飯にクルプック(せんべい)を併せて食べるが、このようなアクセントのある食感が不可欠のようである。

ジョグジャで食べるグデッよりも甘さは控えめ。この店は、バンジャルヌガラではよく知られた店のようだ。

休暇一時帰国予定

年末年始は日本へ休暇一時帰国を予定している。12月25日にスラバヤを発ち、クアラルンプール経由のAir Asiaで夜11時に羽田着。戻りは、1月13日夜に羽田を発ち、クアラルンプール経由で1月14日昼前にスラバヤ到着である。

最近、冬に日本へ帰ると、皮膚が乾燥してカサカサになったり、寒さに耐えられなくなったりして、南国仕様の体になってしまったことをつくづく感じてしまう。今年もまた寒い冬とのことで、少々心配ではある。

しかし、今回は長めの休暇を取って、じっくりとこれからのことを日本で考えてみたいと思っている。少しずつ、少しずつ、自分がこうありたいと思う方向へと向かってきてはいるが、まだ、道筋がしっかりできたという状態には至っていない。自分がこうありたいと思う方向と、生計を立てていくということがまだきっちりとクロスしていないのである。

そしてまた、自分たちで選択したとはいえ、一つの家族が日本とインドネシアで長い間離れて暮らしていることが日常となった今、それを生かしながらも、もっと柔軟な形で、家族と一緒にいる時間をもう少し増やせるような活動のしかたを考えてもいいような気がしてきている。

今回の休暇一時帰国で何らかのヒントが得られれば、2014年以降、またもっと面白い活動ができるのではないかと勝手に期待している。

もちろん、故郷・福島にも帰省する。久しぶりに、日本でまた友人・知人たちと会えることを楽しみにしている。

インドネシア・中ジャワ州南西部の投資環境(報告)

11月26〜29日に実施した中ジャワ州バンジャルヌガラ県・プルバリンガ県への出張の報告書が、ジェトロのホームページに掲載された。以下のサイトからPDFでダウンロード可能である。

インドネシア・中ジャワ州南西部の投資環境(報告)

これは、今年7月に拝命した、中小企業海外展開現地支援プラットフォームコーディネーター(インドネシア)としての仕事の一部である。

なお、今後も、日本ではまだあまり知られていないインドネシアの地方の投資環境について、このブログも活用する形で、発信していく予定である。

今も、上記の仕事の一環として、ジョグジャカルタに進出されている某日系企業のお手伝いをさせていただいている。

ジャカルタ周辺ではなく、東ジャワ、中ジャワ、インドネシア東部地域など、地方でのビジネス展開を検討されている方は、遠慮なく、matsui01@gmail.com までご連絡いただきたい。

日本と、インドネシアと、世界の、地方・ローカルの味方でありたい。そう願っている。

素敵なジョグジャで疲労困憊

先週、12月3~7日のジャカルタに引き続いて、12月8日からジョグジャカルタに来ている。

今回もジョグジャカルタの国立ガジャマダ大学社会政治学部での用事である。今日(12/10)の午前中、「震災後の日本社会」という題でインドネシア語の公開授業をした。参加者はわずか8人と少なかったが、学生たちはとても熱心に聴いてくれ、質問もたくさん出た。

公開授業の最初に、震災後の日本について知っているイメージを語ってもらった。ほとんどの学生が「日本は震災から見事に立ち直った」と認識していた。彼らの日本に対する願望や確信がそう思わせている面があるが、私が公開授業を進めるうちに、どんどん真剣な表情へ変わっていったのが印象的だった。事実は様々な側面から見る必要があり、単純化できるものではない。震災後の日本社会が抱える様々な構造的問題について、少しでも知ってもらいたいと思った。その思いが通じたかどうかは、今一つよくわからなかったのだが。

今回は、ガジャマダ大学内の教員宿舎がいっぱいだったので、知人に勧められたムストコウェニ・ヘリテージホテル(The Mustokoweni Heritage Hotel)に宿泊している。ジョグジャカルタの著名な文化人の方の大きな古い家を改修してホテルとして使っているが、なかなか居心地がよい。

朝食は最初の日がナシ・クニン、翌日がナシ・グデック(ジャックフルーツを濃く煮込んだジョグジャカルタの地元料理。下写真)だった。明日はナシ・ゴレンと予想している。

部屋は天井が高く、広い。余計なものはないが、冷蔵庫や金庫が備えられている。シャワーはお湯がよく出るが、今一つ使い勝手はよくない。

受付に頼むとタクシーを呼んでくれるが、それ以外のサービスはとくにない。今朝はタクシーを頼んだが、結局来なかったので、ベチャでガジャマダ大学へ向かった。

こんな素敵なジョグジャカルタに泊まっているのだが、実は疲労困憊なのである。

先週、6日に全力で講演した後、7日は昼から知人とManufacturing Indonesiaをジャカルタ見本市会場へ見に行き、帰りにシャトルバス、乗合(Mikrolet)、オジェック(バイクタクシー)、トランスジャカルタと乗り換えて、フラフラの状態で、夜はラグラグ会のパーティーで司会をした。

8日はジャカルタからジョグジャカルタへ飛び、毎週のことだが月曜未明まで週刊インドネシア情報ニュースレターを執筆し、9日は朝早くからジョグジャカルタでの進出手続を進める日系企業に同行、午後は知人と会って、夜はガジャマダ大学の学生と夕食、ホテルに戻って火曜昼締切の連載原稿執筆、10日はガジャマダ大学で公開授業、という感じで、とにかく30分でも1時間でも横になる、という毎日。

今晩、日系企業の方と夕食の後、スーパーへ行ってアンタギン(Antagin)を買って飲んだ。風邪、吐き気、疲労感、頭痛などに効くと書かれている。普段は、この手のものをほとんど飲まないのだが、騙されたと思って飲んでみた。

ハーブの味がして、ちょっと苦め。でも、ハチミツやロイヤルゼリーが入っているらしく、甘さもある。一気にガーッと飲んだ。ええっ、ちゃんと効くかも。

こうして、私はこのブログを書くことができた。

明日は昼間にガジャマダ大学の学生と討論会をした後、夜中発の特急「ビマ」でスラバヤへ戻る。

信用し、信用される関係

今日12月6日は、2014年大統領選挙の展望について、ジャカルタで講演した。久々に全力投球で講演したので、さすがに疲れた。果たして、講演の中身は、参加された人々にどのように伝わったのか。ちょっとストレートに自分の見解を出し過ぎた感もある。

そんな講演の前に、とてもうれしいことがあった。私が資金を貸していた相手が5年かかってその資金を返済し終えたということ、である。

2008年、マカッサルで仲間の地元出版社「イニンナワ・プレス」は資金難に陥っていた。イニンナワ・プレスは、南スラウェシに関する外国語出版物のインドネシア語翻訳出版を行う小さな出版社。当時、大手書店のグラメディアなどへの負債がたまり、資金不足で事業が回らない状況になっていた。出版予定の材料を5点抱えながら、翻訳出版を断念することを真剣に考えていた。

イニンナワ・プレスのJ代表が、藁にもすがる思いで私に資金援助を求めてきた。必要額は4000万ルピアとのこと。その資金があれば、負債を何とか返済でき、出版を続けることができる、と切々と訴えられた。

私は、南スラウェシの人々が自分たちの足元を批判的に知るための材料として、南スラウェシに関する外国語出版物のインドネシア語翻訳出版を行うイニンナワ・プレスの活動を高く評価し、共鳴していた。4000万ルピアという額はけっこうな額だったが、思い切って貸すことに決めた。しかも利子をつけずに。彼らに出版を続けてほしいという気持ちが先だった。

あれから5年。イニンナワ・プレスは、何とか出版を続けることができ、しかもその出版活動は高い評価を受けることになった。けっして大規模な商業出版ではないが、ちょっとした本屋へ行けば、彼らの翻訳した書物を手にすることができる。何よりも、南スラウェシの人々がインドネシア語で南スラウェシについて書かれた外国語出版物を読み、それを批判的に検討することができるようになった。経営的にも、イニンナワ・プレスは軌道に乗ることができた。

イニンナワ・プレスからは、毎月、あるいは2ヵ月ほど間が空いたりしながら、1回当り100万ルピアずつ返済が続いた。ときには数ヵ月、返済のないこともあった。もう返済はないかと思いつつ、私はじっと待ち続けた。そして先月、私が貸した4000万ルピアを彼らはとうとう完済した。

そして今日、イニンナワ・プレスから感謝の気持ちのこもったメールが届いた。本当に困っていたあのときに、助けてもらった恩は決して忘れない。信用し、信用される関係がずっと続いたことに感謝している。これからもずっと良い関係を続けていきたい。彼らのメールを読みながら、自分の中に込み上げてくるものがあった。

南スラウェシに関する外国人を含む研究者は、現地で資料を探す際に、必ずイニンナワ・プレスを訪ねるという。州立図書館や国立ハサヌディン大学図書館よりも、イニンナワ・プレスの図書館に様々な南スラウェシに関する書籍や資料があるからである。

今年3月、私がマカッサルで借りていた家を閉める際、過去15年以上にわたって収集してきたスラウェシやインドネシアに関するインドネシア語書籍の処分に困ったとき、彼らの図書館に寄贈することにした。彼らは軽トラックを借りてやってきて、全部持って行ってくれた。それらの書籍は、今も彼らの図書館で、いつでも私に返せるような形で、大切に保管されているという。

私は、亡き父から「貸した金は返ってくると期待するな」と教えられた。彼らに貸した4000万ルピアも、戻ってこないかもしれないと思っていた。でも、彼らは律儀に、5年かけて完済してくれた。彼らとの信用し、信用される関係がとてもとてもうれしく、彼らが一層いとおしく感じた。

彼らと一生付き合っていく。大切なマカッサルの友の活動をずっとずっと応援していくことを改めて決意した。

ブルーバードの新サービス

昨日から7日まで、ジャカルタ出張である。昨日のフェイスブックで、友人が「スカルノハッタ空港でブルーバードの新サービスを使った」という記事があったので、ブルーバードタクシーの係員のところで待っていた。

そのサービスというのは、ブルーバードタクシーに乗りたい客を無料シャトルバスに乗せ、空港の外のタクシー・プールまで連れて行き、そこからブルーバードタクシーに乗ってもらう、というサービスである。

空港で客を拾えるのは空港ステッカーの貼られたタクシーのみで、台数は限られている。ジャカルタ市内から客を空港まで乗せてきたノー・ステッカーのタクシーは、空のまま戻らなければならない。そこで、ノー・ステッカーのタクシーを空港の外に待機させ、空港でブルーバードタクシーを待っている客をそこへ連れて行き、ノー・ステッカーのブルーバードタクシーに乗せるのである。

こうして、市内への戻りでも、客を乗せていくことができる。タクシーの運転手もうれしいし、客もまたうれしい。ほんと、ブルーバードは賢い。

空港からステッカー付きのブルーバードタクシーに乗ると、空港チャージを行先までの距離に応じて9,000ルピア以上払わなければいけないが、無料シャトルでノー・ステッカーのブルーバードタクシーならば、それはノーチャージ、しかも市内までの距離が若干短くなるので、タクシー料金自体も空港から乗るより少しは安くなる。

早速、昨日、それを利用する機会に恵まれた。無料バスに乗ると、係員が「どこまで行くのか」聞いてくる。しばらくしてタクシープールに着くと、何台ものノー・ステッカーのブルーバードタクシーが待機していた。

無料バスの降り口にタクシーの運転手が並び、順番に客をあてがわれていく。運転手たちはみんな笑顔だ。すすんで荷物を持ってくれる。そして、自分のタクシーのところまで連れて行き、客を乗せて颯爽と走り出す。

タクシーの運転手にいろいろ聞いた。彼によると、このサービスは2ヵ月前ぐらいに始まった。タクシープールのあるインドマレには、駐車料金を支払う。けっこう高いらしい。待機するノー・ステッカーのブルーバードタクシーは、順番が付けられ、その順番順に客を得る仕組みになっている。

思い出せば、1985年にスカルノハッタ国際空港(第1ターミナル)が完成したときは、空港タクシーのすべてがブルーバードで、安心して空港から乗れた。それが1987年頃、規制緩和で、ブルーバードの独占はけしからんとなり、各社が乗り入れられるようになった。すると、悪徳タクシーが増え、逆にブルーバードは撤退し、やや高級なシルバーバードのみに特化した。

タクシー待ちの客は順番に来るタクシーに乗らなければならないので、タクシーを選ぶことが長い間できなかった。だから、多くの客は高くてもシルバーバードに乗っていた。

ユドヨノ政権になって、客がタクシーを選ぶ仕組みに変わった。すなわち、タクシー会社ごとにスタンドができた。しかし結局、再参入したブルーバードに客は集中した。

ところが、空港で客を拾えるタクシーの台数は決められており、常にブルーバードタクシーは客の長い列があった。今回の無料シャトルバス+ノー・ステッカーは、こうした問題を解決するためのものだ。その結果、ブルーバードのタクシー待ち客用に設置されていた椅子は撤去されていた。

このサービス、空港内のシャトルバスを営業できるブルーバードならではのサービスといえる。しかし、おそらく、シャトルバスを営業できない他のタクシー会社からは不満が出ることだろう。空港当局も禁止措置を命ずるかもしれない。

でもしばらくは、このサービス、歓迎したいところである。

ニューヨーク、シンガポール、メッカ

11月26〜29日、中ジャワ州のバンジャルヌガラ県とプルバリンガ県を訪問した。今回の出張の様子は、別途、このブログでお知らせする予定だが、今回は、バンジャルヌガラで出会ったニューヨークとシンガポールとメッカについてお知らせしたい。

バンジャルヌガラもプルバリンガも、中ジャワ州南西部の中心プルウォクルトからスマランへ抜ける街道沿いにある。プルウォクルトからプルバリンガまでは車で約30分、バンジャルヌガラまでは約1時間半であり、プルウォクルトから毎日通ってくる人も少なくない。

このため、バンジャルヌガラもプルバリンガも、泊まれるホテルが少ない。今回レンタルした車の運転手も、プルウォクルトまで戻って泊まることをしきりに勧めた。でも、ちょっと街の様子も見てみたいから、といって、バンジャルヌガラの3つ星ホテルに泊まることにした。

このホテルは、スルヤ・ユダ・パークの一角にあるスルヤ・ユダ・ホテルで、パーク内にウォーターボム・パーク、各種スポーツ施設、フィットネス、カラオケまで備えた一大エンターテイメント施設であった。

ホテル自体は、田舎のフツーのホテルだった。カラオケがうるさいといやなので、離れたスタンダードの部屋に泊まった。部屋は清潔だが、トイレは久々の便座にしゃがむ方式だった。インターネットはつながるという話だったが、実際にはつながらなかった。まあ、こんなものだろうと思う。ここまで来て、原稿書きをする人もいないだろう。

このなかに、ニューヨークとシンガポールとメッカがあった。

この3つが隣接しているとは、なんと便利なことだろう。言ってみれば、この3つ、自由の女神、マーライオン、カーバ神殿は、人々のあこがれの場所なのだろう。日本人がかつて、ハワイやグアムにあこがれたように。

話によると、土日や祝日は常に満室で、たくさんの来訪客で賑わうそうである。

スルヤ・ユダ・パークは、インドネシアの庶民がどのような娯楽エンターテイメント施設を望んでいるか、を体現した施設だといえる。それは、自分の個人的な趣味とはだいぶ違うが、何となく、日本の1970年代に各地に建設された、宿泊・食事・温泉・レジャーを含む観光施設と共通する何かがあるように感じる。

ジョグジャカルタ特別州の2014年各県・市の最低賃金

ジョグジャカルタ特別州の2014年各県・市の最低賃金は以下の通りである。

州名 県・市名 Provinsi Kab/Kota 2014UMK 2013UMK %
最低賃金 最低賃金 増加率
ジョグジャ ジョグジャカルタ市 Yogyakarta Kota Yogyakarta 1,173,300 1,065,247 10.14
ジョグジャ スレマン県 Yogyakarta Kab Sleman 1,127,000 1,026,181 9.82
ジョグジャ バントゥル県 Yogyakarta Kab Bantul 1,125,500 993,484 13.29
ジョグジャ クロンプロゴ県 Yogyakarta Kab Kulonprogo 1,069,000 954,339 12.01
ジョグジャ グヌンキドゥル県 Yogyakarta Kab Gunungkidul 988,500 947,114 4.37

ジョグジャカルタ特別州には現在、工業団地は存在しないが、スレマン県やバントゥル県の「工業地域」に指定された場所に、手袋や縫製品などの労働集約産業が立地している(以前のブログ「バントゥル県の水田に突如現れた工場」を参照)。

同州では、クロンプロゴ県にジョグジャカルタ新国際空港の建設を予定しており、その近くに工業団地も整備していく計画がある。ただし、空港建設に関しては土地収用をめぐって住民から反対の声が上がっている。

以前、ジョグジャカルタ特別州投資局でのヒアリングでは、大規模な製造業ではなく、同州の文化的イメージに適した、いわゆる創造産業(ソフトウェア、メディア、アニメなど)の立地を促したいという意向が示されていた。

西ジャワ州2014年各県・市の最低賃金

少し遅くなってしまったが、西ジャワ州の各県・市の2014年最低賃金が先週、以下のように決定した。

県・市名 Kab/Kota 2014UMK 2013UMK %
最低賃金 最低賃金 増加率
バンドン市 Kota Bandung 2,000,000 1,538,703 29.98
チマヒ市 Kota Cimahi 1,735,473 1,388,333 25.00
バンドン県 Kab Bandung 1,735,473 1,388,333 25.00
西バンドン県 Kab Bandung Barat 1,738,476 1,396,399 24.50
スメダン県 Kab Sumedang 1,735,473 1,381,700 25.60
スバン県 Kab Subang 1,577,956 1,220,000 29.34
プルワカルタ県 Kab Purwakarta 2,100,000 1,693,167 24.03
カラワン県(基本) Kab Karawang 2,447,450 2,000,000 22.37
カラワン県(繊維・皮革) Kab Karawang 2,484,162 2,030,000 22.37
カラワン県(第1グループ) Kab Karawang (Kelompok 1) 2,496,375 2,100,000 18.88
カラワン県(第2グループ) Kab Karawang (Kelompok 2) 2,624,000 2,200,000 19.27
カラワン県(第3グループ) Kab Karawang (Kelompok 3) 2,814,590 2,422,000 16.21
ブカシ県(基本) Kab Bekasi 2,447,445 2,002,000 22.25
ブカシ県(第1グループ) Kab Bekasi (Kelompok 1) 2,814,562 2,402,400 17.16
ブカシ県(第2グループ) Kab Bekasi (Kelompok 2) 2,692,190 2,302,300 16.93
ブカシ県(第3グループ) Kab Bekasi (Kelompok 3) 2,496,394 2,042,040 22.25
ブカシ市(基本) Kota Bekasi 2,441,954 2,100,000 16.28
ブカシ市(第1グループ) Kota Bekasi (Kelompok 1) 2,814,108 2,420,000 16.29
ブカシ市(第2グループ) Kota Bekasi (Kelompok 2) 2,686,149 2,305,000 16.54
デポック市 Kota Depok 2,397,000 2,042,000 17.38
ボゴール県 Kab Bogor 2,242,240 2,002,000 12.00
ボゴール市 Kota Bogor 2,352,350 2,002,000 17.50
スカブミ県 Kab Sukabumi 1,565,922 1,201,020 30.38
スカブミ市 Kota Sukabumi 1,350,000 1,050,000 28.57
チアンジュール県 Kab Cianjur 1,500,000 970,000 54.64
ガルット県 Kab Garut 1,085,000 965,000 12.44
タシクマラヤ県 Kab Tasikmalaya 1,279,329 1,035,000 23.61
タシクマラヤ市 Kota Tasikmalaya 1,237,000 1,045,000 18.37
チアミス県 Kab Ciamis 1,040,928 854,075 21.88
バンジャール市 Kota Banjar 1,025,000 950,000 7.89
マジャレンカ県 Kab Majalengka 1,000,000 850,000 17.65
チレボン県 Kab Cirebon 1,212,750 1,081,300 12.16
チレボン市 Kota Cirebon 1,226,500 1,082,500 13.30
クニンガン県 Kab Kuningan 1,002,000 857,000 16.92
インドラマユ県 Kab Indramayu 1,276,320 1,125,000 13.45

全般的にみると、工業団地が集中するブカシ県やカラワン県は額としては大きく上がったものの、上昇率は比較的低めに抑えられている。

東ジャワ州と同様に、州内の賃金格差が拡大している様子もうかがえる。すなわち、西ジャワ州の工業団地が集中する北部海岸沿いは高く、とくに中ジャワに近い南東部、州都バンドンよりも東側の賃金はまだかなり低い。

「鉛筆が病気を持ってくる」

友人であるリリ・レザ監督とミラ・レスマナ・プロデューサーの最新作『ソコラ・リンバ』をスラバヤの某映画館で観てきた。

金曜日の夜だからなのか、あるいは金曜日の夜なのにといったほうがいいのか、観客はごく少数だった。リリの前作『アタンブア摂氏39度』も、観客動員数が少なく、すぐに映画館上映が打ち切りとなったのを思い出す。インドネシアの人々の映画に求めるものは、娯楽性に集中しているのかもしれない。

さて、『ソコラ・リンバ』である。リンバとは、スマトラ島ジャンビ州の山間部に住む地元民で、外界との接触を避け、昔からの慣習法を尊重し、森林を生かした生活を営んできた。男性はふんどしのような腰布のみの服装である。ほとんどが読み書きできず、ジャンビの下界の住民からは未開人の扱いを受けている。

そこへ、ブテットという名の一人の若い女性が乗り込んで、彼らに「読み・書き・そろばん」を教え始める。しかし、彼女の行為は、彼女の所属するプロジェクトの責任者からも、また、リンバの大人たちからも、否定的な扱いを受けることになる。

そんなシーンのなかで登場したのが、「鉛筆が病気を持ってくる」という言葉だった。ブテットの下で学ぶことの面白さに目覚めてしまった息子を怒る母親の言葉である。

昔観た、パプアの地元民とジャカルタから来た青年との交流を描いた映画でも、パプアの子供たちに読み書きを教えるシーンがあった。その映画では、パプアの子供たちがジャカルタの青年たちのように、教育を受けて、自分たちのように文明化して欲しい、というメッセージが込められているのを感じた。

今回の『ソコラ・リンバ』は、そんな、ある意味、お目出度い、単純な話ではない。パプアの話とは全く異なるメッセージが込められている。どのように単純でないのか。是非、この映画を観て、皆さん自身でそれを受けとめて欲しい。

「鉛筆が病気を持ってくる」という言葉には、教育が慣習法社会への尊敬を失わさせ、教育を受けた者を余所へ連れて行ってしまい、戻ってこなくさせる、という意味も込められている。我々は、教育を授ける側の目で、「良いことをしてあげている」「自分たちのように良い生活を送って欲しい」「貧しさから逃れて豊かな暮らしを」というようなことを相手に対して無意識に思っている。しかし、相手が教育をどのように捉えているかについては、想像力が欠けている。というか、教育の使命に燃えている人ほど、相手の捉え方を想像すること自体に、思いを至らせないのである。

リンバの人々が暮らす森にも、オイル・パーム農園の開拓のための森林伐採が迫り、彼らは自分たちの居住地を追われて、次から次へと居住先を移らざるを得ない。リンバの人々は森が消えていく恐怖を日々感じながら生きているのだが、開発業者の用意した同意書に、訳も分からず血判を押してしまう。

その同意書が読めれば、森を守れるはず。そう思ったリンバの青年がブテットの元に通って読み書きを学び、母親から「鉛筆が病気を持ってくる」と叱責されるのである。

地元の人々が自分たちの生活を守り、彼らなりの主体性をもって生活を向上させていくためには、余所者にだまされない力をつけなければなるまい。「それが読み書きである」とブテットは信じている。

そして、すでに読み書きのレベルを超え、文明に触れ、新しい生活様式になり、豊かになりたい、そのためにはカネの世界だ、という衝動を抑えられなくなった我々が、余所者にだまされない力の源は、もはや忘れてしまいつつある、自分たちの足元をしっかりと知り、理解することであろう。

我々の身の回りの様々な「開発」、生活を豊かにしてくれる、魔法のようなその言葉に、我々は頻繁にだまされてきた。そして、今もだまされ続けている。だまされないためには、我々も余所者を知らなければならない。学ばなければならない。

しかし、その学ぶ過程で、我々自身が「余所者」へ変わっていってしまう可能性が少なくない。『ソコラ・リンバ』ではそこまでは描かれていないが、そんなことも思った。

「鉛筆が病気を持ってくる」という言葉を、自分自身を見失わないための戒めの言葉としても、受け止めたいと思う。

インドネシアで一番特殊な場所

自分のインドネシア観は、もしかしたら異常なのかもしれない。

最初は首都ジャカルタの、日本人はおろか外国人がほとんど住んでいない東ジャカルタのジャワ人の家に下宿して、インドネシア語漬けの毎日を過ごした。

2回目のインドネシア滞在は、首都ジャカルタのコスで5ヵ月過ごした後、南スラウェシ州の州都マカッサル(当時の名称はウジュンパンダン)に4年7ヵ月住んだ。このときは、家族3人と一軒家に住み、4人の使用人を使って生活した。

次は、再びマカッサルに単身で2人の使用人を使って、3年7ヵ月住んだ。大きな2階建ての家を借り、自分は1階の後ろ半分に住み、残りは、図書館、アートスペース、ワークショップ会場など、地元の若者たちや彼らのNGOの活動スペースにしてもらった。

その次は、ジャカルタで単身コス暮らしを3年して、スラバヤへ移った。

つまり、首都ジャカルタにいた時間よりも、地方都市にいた時間のほうが多かった。

そして、地方から首都ジャカルタを眺める時間が多かった。それは、まだ幼い頃、生まれ故郷の福島から東京を見ている感覚を思い出させた。

テレビ・ドラマに移るジャカルタの風景を、地方の人々は別世界ととらえ、かつあこがれの対象としていた。「自分たちとは違う世界だ」という気持ちと「いつか行ってみたい」という気持ちとが混ざっているようだった。

自分が福島にいたときもそうだった。東京の人たちはみんな頭が良くて、ファッションに気を使い、洗練されている。自分のような田舎者が生きていける世界ではない。でも、ちょっと覗いてみたい。

そんな気持ちだった自分が、決して頭がよいわけでもなく、ファッションセンスがいいわけでもなく、洗練されてもいないのに、東京で家庭を持って暮らせたのは幸運だったのかもしれない。

首都ジャカルタは、多くのインドネシアの人々にとっての、そんな場所だと悟った。すなわち、首都ジャカルタはインドネシアであるが、インドネシアを代表する場所ではなく、ある意味、インドネシアで一番特殊な場所だということを悟った。

現在、インドネシアに関する情報発信の多くは、首都ジャカルタと観光地バリ島に集中している。インドネシアで一番特殊な場所からインドネシア情報を発信する。タムリン通りとスディルマン通りとカサブランカ通りの周辺をめぐって、インドネシアはどんどん発展している、という情報が日本へ伝わる。もちろん、それ自体は間違っていない。でも、それは、ほかの大半のインドネシアを決して代表してはいない。

反対に、インドネシアにおける日本イメージは、東京や大阪の情報に基づく部分がかなり多い。近代的、都会的、交通機関が整っている。インドネシアの若者と話していて、日本の東京・大阪以外の様々な地方や農村のイメージをほとんど持っていないことに気づかされる。

日本の地方からインドネシアへの経済・投資ミッションが頻繁に訪れるが、その大半は、ジャカルタ周辺のみである。自分たちと同じ立ち位置にある、インドネシアの地方への想像力がそこには欠けている。

インドネシアの地方都市のなかには、日本の地方都市と姉妹関係を結びたいというところが少なからずある。しかし、その背景には、あたかも東京のようなイメージでの日本の地方都市への期待が隠れている。

日本の地方とインドネシアの地方とをもっと結びつけることによって、日本とインドネシアのイメージをより豊かにし、等身大でつきあえる関係を作っていく段階に入っているのではないかと感じている。

ジャカルタはインドネシアではなくなろうとしている。そんな言葉も、マカッサルでは聞いた。東京が日本を代表している、といえば、多くの日本人が「日本は東京だけじゃない」と思うことだろう。

自分はこれまで、ジャカルタとは違うインドネシアを日本へ向けて発信し、東京とは違う日本をインドネシアに向けて伝えてきたつもりだが、まだまだ力が足りない。自戒しながら、このブログをそうした媒体として使いたいと思ってきた。

もっと多く人たちが、様々なインドネシアを発信し、逆に様々な日本を発信していくことを願っている。

東ジャワ州の各県・市の2014年最低賃金

11月20日付東ジャワ州知事令2013年第78号により、2014年1月1日から施行される各県・市の最低賃金が以下のように決定された。

(県・市名) (Kab/Kota) (2014年) (2013年) (%)
スラバヤ市 Kota Surabaya 2,200,000 1,740,000 26.44
グレシック県 Kab. Gresik 2,195,000 1,740,000 26.15
シドアルジョ県 Kab. Sidoarjo 2,190,000 1,720,000 27.33
パスルアン県 Kab. Pasuruan 2,190,000 1,720,000 27.33
モジョクルト県 Kab. Mojokerto 2,050,000 1,700,000 20.59
マラン県 Kab. Malang 1,635,000 1,343,700 21.68
マラン市 Kota Malang 1,587,000 1,340,300 18.41
バトゥ市 Kota Batu 1,580,037 1,268,000 24.61
ジョンバン県 Kab. Jombang 1,500,000 1,200,000 25.00
トゥバン県 Kab. Tubang 1,370,000 1,144,400 19.71
パスルアン市 Kota Pasuruan 1,360,000 1,195,800 13.73
プロボリンゴ県 Kab. Probolinggo 1,353,750 1,198,600 12.94
ジェンブル県 Kab. Jember 1,270,000 1,091,950 16.31
モジョクルト市 Kota Mojokerto 1,250,000 1,040,000 20.19
プロボリンゴ市 Kota Probolinggo 1,250,000 1,103,200 13.31
バニュワンギ県 Kab. Banyuwangi 1,240,000 1,086,400 14.14
ラモンガン県 Kab. Lamongan 1,220,000 1,075,700 13.41
クディリ市 Kota Kediri 1,165,000 1,089,950 6.89
ボジョヌゴロ県 Kab. Bojonegoro 1,140,000 1,029,500 10.73
クディリ県 Kab. Kediri 1,135,000 1,089,950 4.13
ンガンジュク県 Kab. Nganjuk 1,131,000 960,750 17.72
ルマジャン県 Kab. Lumajang 1,120,000 1,011,950 10.68
サンパン県 Kab. Sampang 1,120,000 1,104,600 1.39
トゥルンガグン県 Kab. Tulungagung 1,107,000 1,007,900 9.83
ボンドウォソ県 Kab. Bondowoso 1,105,000 946,000 16.81
バンカラン県 Kab. Bangkalan 1,102,000 983,800 12.01
パムカサン県 Kab. Pamekasan 1,090,000 1,059,600 2.87
スムナップ県 Kab. Sumenep 1,090,000 965,000 12.95
シトゥボンド県 Kab. Situbondo 1,071,000 1,048,000 2.19
マディウン市 Kota Madiun 1,066,000 953,000 11.86
マディウン県 Kab. Madiun 1,045,000 960,750 8.77
ンガウィ県 Kab. Ngawi 1,040,000 900,000 15.56
ブリタール県 Kab. Blitar 1,000,000 946,850 5.61
ブリタール市 Kota Blitar 1,000,000 924,800 8.13
ポノロゴ県 Kab. Ponorogo 1,000,000 924,000 8.23
トゥレンガレック県 Kab. Trenggalek 1,000,000 903,900 10.63
パチタン県 Kab. Pacitan 1,000,000 887,250 12.71
マゲタン県 Kab. Magetan 1,000,000 866,250 15.44

上の表から分かるように、スラバヤ市とその周辺の最低賃金はジャカルタ周辺とほとんど変わらないレベルに近づいている。前回ほどではないとはいえ、スラバヤ周辺の2014年最低賃金の上昇率は20%を超えた。

もっとも、当初、県レベルで決定された最低賃金額を、州レベルで若干下げさせた州知事の指導力が評価される。たとえば、パスルアン県は2014年最低賃金額をRp. 2,300,000と設定していたが、Rp. 2,190,000へ引き下げさせた。同様にシドアルジョ県もRp. 2,348,000だったのを、パスルアン県と同額のRp. 2,190,000へ引き下げさせた。

筆者は、州知事レベルでも引き下げは難しいとみていたが、2期目に入ったばかりのスカルウォ州知事は、人気取りをする必要がないためか、県提案額を引き下げるという、企業側から見れば「英断」を下した。最も生活必需費用のかかるスラバヤ市よりも高い額は不適当、という判断も働いた可能性がある。

当然のことながら、県レベルで決定された最低賃金額でも低いと訴えていた労働組合側は、州知事がそれを下回る額を決定したことで、態度をより硬化させることだろう。昨日に引き続いて今日も、州知事庁舎前などで労働組合連合会のデモが行われるので、スラバヤ市内の交通には十分な注意が必要である。

付け足しになるが、筆者の印象では、州内の最低賃金レベルの格差が昨年よりもかなり開いたと感じる。すなわち、スラバヤ周辺は工業団地建設や新規投資が来て、就業機会も増え、賃金も上昇気味であるのに対して、州西部・南部・東部など、スラバヤから離れた地域の最低賃金上昇率は相対的に低く、投資分布に大きな隔たりがあるものと見られる。州としては、今後、地域間の発展格差の問題がクローズアップされる可能性がある。

別ないい方をすれば、低賃金労働を求める労働集約型投資にとって、東ジャワにはまだまだ立地検討可能な地域がある、ということでもある。そうした地方の情報も、これから発進していきたいと考えている。

鉄道切符の払い戻しに1ヵ月

先日、ジョグジャカルタへ鉄道で行く予定だったのが、都合により取り止めとなったため、スラバヤ・グベン駅に切符の払い戻しに出かけた。払った額は13万ルピア、すぐに払い戻しがなされると確信していたが・・・。

窓口で払い戻しをお願いすると、「払い戻し申請書に記入してください」といわれた。周りには申請書がないので、「申請書をください」というと、「カスタマーサービスへ行って申請書を書き込んでください」というので、カスタマーサービスへ。

エアコンの効いたカスタマーサービスで、係員に切符の払い戻しをお願いすると、払い戻し申請書の用紙が渡されたので、それに記入する。

記入を終えて、申請書を係員に渡す、さあ、払い戻し、と思っていると、「払戻手数料として25%引きます」といわれ、そんなにキャンセル料が高いのか、とびっくりしていると・・・。

「払い戻しは現金にしますか、銀行振込にしますか」と聞かれるのだ。今すぐ欲しいので「現金」と答えると、次に、予想外の返事が来た。

「それでは、1ヵ月後にもう一度、駅へ出向いて、現金を受け取ってください」

えーっ、今、払い戻してくれないのか。どうして、1ヵ月も待たなければならないのか。おかしいと思って食い下がるが、答えは一つ。「規則でそうなっていますから」。

もう少し食い下がると「オンラインなので」という答え。オンラインだったらすぐできるのではないか。でも、職員はオンラインなので手続がいる、の一点張りだった。よく分からない理由だ。

鉄道の切符は、今はインターネットでオンライン予約して、アルファマートなどで買えるようになった。でも、払い戻しは簡単にできない。現金をその場で扱うと、職員が横領したり紛失したりするというのが、払い戻しに1ヵ月もかかる理由なのかもしれない。

もし、私が1週間程度で帰国する旅行者だったら、切符の払い戻しは受けられないことになる。きっと、手続が面倒で時間がかかるので、けっこう多くの人が途中で、払い戻しをあきらめているのではないかと想像する。1ヵ月もかかるのは実はそれが目的だったりして、とも思ってしまう。

ともかく、インドネシアで鉄道を利用するときには、日程を慎重に決めて、キャンセルしないことが肝心かもしれない。

中ジャワ州2014年各県・市の最低賃金

中ジャワ州各県・市の2014年最低賃金が、以下の表の通り、確定した。

県・市名 Kab/Kota 2014UMK 2013UMK %
最低賃金 最低賃金 増加率
都市 スマラン市 Kota Semarang 1,423,500 1,209,100 17.73
スラカルタ市(ソロ市) Kota Surakarta 1,145,000 915,900 25.01
サラティガ市 Kota Salatiga 1,170,000 974,000 20.12
マゲラン市 Kota Magelang 1,037,000 901,500 15.03
プカロンガン市 Kota Pekalongan 1,165,000 980,000 18.88
テガル市 Kota Tegal 1,044,000 860,000 21.40
北側東部 ブローラ県 Kab. Blora 1,009,000 932,000 8.26
レンバン県 Kab. Rembang 985,000 896,000 9.93
パティ県 Kab. Pati 1,013,027 927,600 9.21
グロボガン県 Kab. Grobogan 935,000 842,000 11.05
クドゥス県 Kab. Kudus 1,150,000 990,000 16.16
ジェパラ県 Kab. Jepara 1,000,000 875,000 14.29
デマック県 Kab. Demak 1,280,000 995,000 28.64
北側西部 スマラン県 Kab. Semarang 1,208,200 1,051,000 14.96
クンダル県 Kab. Kendal 1,206,000 953,100 26.53
バタン県 Kab. Batang 1,146,000 970,000 18.14
プカロンガン県 Kab. Pekalongan 1,145,000 962,000 19.02
プマラン県 Kab. Pemalang 1,066,000 908,000 17.40
テガル県 Kab. Tegal 1,000,000 850,000 17.65
ブレベス県 Kab. Brebes 1,000,000 859,000 16.41
南側西部 チラチャップ県(市内) Kab. Cilacap (Kota) 1,125,000 986,000 14.10
チラチャップ県(東) Kab. Cilacap (Timur) 975,000 861,000 13.24
チラチャップ県(西) Kab. Cilacap (Barat) 950,000 816,000 16.42
バニュマス県 Kab. Banyumas 1,000,000 877,500 13.96
クブメン県 Kab. Kebumen 975,000 835,000 16.77
プルバリンガ県 Kab. Purbalingga 1,023,000 896,500 14.11
バンジャルヌガラ県 Kab. Banjarnegara 920,000 835,000 10.18
南側中部 ウォノソボ県 Kab. Wonosobo 990,000 880,000 12.50
トゥマングン県 Kab. Temanggung 1,050,000 940,000 11.70
マゲラン県 Kab. Magelang 1,152,000 942,000 22.29
プルウォレジョ県 Kab. Purworejo 910,000 849,000 7.18
南側東部 クラテン県 Kab. Klaten 1,026,600 871,500 17.80
スコハルジョ県 Kab. Sukoharjo 1,150,000 902,000 27.49
ウォノギリ県 Kab. Wonogiri 954,000 830,000 14.94
カランアニャール県 Kab. Karanganyar 1,060,000 896,500 18.24
ボヨラリ県 Kab. Boyolali 1,116,000 895,000 24.69
スラゲン県 Kab. Sragen 960,000 864,000 11.11

上の表を見ると、上昇率は比較的低めであるが、20%を超えているデマック県とクンダル県では、現在、大きな工業団地の造成が計画されている。

最低賃金は上昇したが、ジャカルタ周辺に比べれば、まだかなり低いレベルにあるといえよう。南側西部のプルバリンガ県やバンジャルヌガラ県、南側東部のボヨラリ県などには、韓国系などのかつら・つけまつげ、繊維などの企業が投資を行ってきている。

納期の要求がそれほど厳しくなく、手先の器用さなどを求める労働集約型産業にとっては、中ジャワ州はまだ十分に魅力的であろう。

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