【スラバヤの風-26】アイスクリームとブンクル公園

2014年5月11日朝、スラバヤ市内を行き交う人々は皆がみんな赤い服を着ている。シンボルカラーが赤の某政党のイベントか何かと思ったら、違った。赤い服を着て行くと無料でアイスがもらえるらしい。そんな噂を聞きつけた人々が、イベント会場となるブンクル公園を目指していた。スラバヤ市制721周年を記念して、ユニリバー社が自社アイスクリーム『ウォールズ』を無料配布するイベントが行われたのである。

しかし、予想以上に人が集まったため、主催者は赤い服でも『ウォールズ』のロゴを付けた者のみに配布すると急遽変更した。すると、アイスクリームをもらえない人々が怒り出した。彼らの怒りの矛先は、ブンクル公園やその周辺へ向けられ、あっという間に、大勢の人々によって花壇は荒らされ、草花は踏みつけられてしまった。

IMG_0951

ブンクル公園は、スラバヤ市が誇る名公園である。2013年12月、ブンクル公園は、福岡市に本拠のある国連ハビタットからアジア都市景観賞を受賞した。この賞はアジアの優れた建造物や街並みを表彰するもので、ブンクル公園は、草花のきれいな単なる公園にとどまらず、無線インターネット接続や免許証書き換え出張所など、複合的な機能を持つ公園として評価された。受賞は公園整備に費やした長年の努力の賜物であるが、それがわずか数時間のイベントで台無しになってしまったのである。

環境美化に取り組んできたスラバヤ市のリスマ市長は、メディアを前に、鬼のような形相で怒りを爆発させた。イベント終了後、すぐに主催者へ抗議し、裁判所を通じてユニリバー社へ損害賠償請求をすると息巻いた。そして、職員に予備の草花を至急用意させ、自ら率先して花壇の草花の植え替え作業に取り掛かった。ユニリバー社は正式に謝罪し、弁済費用を負担すると約束した。

このイベントは市長から正式許可を取っていなかったことが発覚し、主催者が主張する許可書の真偽が問われる事態となった。主催者は、州副知事が出席したことで、許可は問題ないと思い込んでいた様子である。

売春街ドリーの閉鎖や動物園管理などの問題を抱え、副市長を始めとする政治家や実業家からのリスマ市長への風当たりは益々強くなっている。彼らにとっては、リスマ市長の評判をどう落とすかが最大の関心事だろう。その意味で、今回のアイスクリーム騒動は、格好の契機となり得たかもしれないが、逆に、リスマ市長の不退転の姿勢がさらに強調される結果となった。

 

(2014年5月29日執筆)

 

【スラバヤの風-25】国内唯一のリンゴの運命は?

寒冷な地方で育つリンゴが熱帯のインドネシアでも栽培されているのをご存知だろうか。国内で唯一、リンゴ栽培の行われているのが東ジャワ州バトゥ市周辺である。

バトゥ市は面積202平方キロメートル、人口約20万人。標高2000メートル以上の山々の裾に位置する、平均海抜827メートルの高原都市である。市内には洞窟、温泉、プール、動物園、観光農園、遊園地などのほか、ホテルや別荘が多数あり、週末や祝休日には多くの観光客が訪れる。その数は年間約300万人、国内有数の観光都市でもある。

バトゥ市は2001年にマラン県から分立した。このため、バトゥで栽培されるリンゴは、今も「マラン・リンゴ」(Apel Malang)と呼ばれることが多い。

2014-05-09 12.37.34

バトゥでリンゴが栽培され始めたのは植民地時代の1930年代で、涼しい気候に目をつけたオランダ人が苗木を持ち込んだ。その後、リンゴ栽培は拡大し、リンゴを使ったドドール(日本の羊羹に似た菓子)、クリピック(スナックせんべい)、リンゴ酢などが作られ、リンゴを自分で摘める観光農園も広がった。

しかし、1980年代頃から、他の果物や高原野菜、花卉など、より儲かる産品への転換が急速に進んだ。たとえば、ブミアジ郡では、最盛期に約300ヘクタールあったリンゴの栽培面積が今では60〜70ヘクタールへ減少し、ミカンへ15〜20ヘクタール、サトウキビへ約20ヘクタールと転換し、10年前から宅地化も進行した。

バトゥで栽培される野菜には有機肥料を使うのが一般的で、リンゴもそうだった。しかし成果が上がらず、リンゴだけは再び化学肥料へ戻ってしまった。リンゴの木は剪定されずに空高く伸び、果実は直径約5〜6センチと小さい。価格はキロ当たり2500ルピア(約22円)程度と安く、甘みが少ないため、質でも量でも輸入リンゴに対抗できない。

リンゴはもうダメだ、と地元の人は言う。大量のリンゴ輸入のせいだとする声もある。しかし、厳しい言い方をすれば、これは、付加価値を上げる栽培・加工上の工夫を追求できなかった結果である。国内唯一のリンゴは、果たして復活できるのだろうか。

 

(2014年5月10日執筆)

 

 

【スラバヤの風-24】出稼ぎ送り出し県からの脱却

中ジャワ州南部のウォノギリ県は、水が乏しく農業にあまり適さない山間部にあり、ジャワ島有数の貧困県と見なされてきた。多くのウォノギリ出身者が、以前から建設労働者や家事労働者として、その後は工場労働者として、ジャカルタなどへ出稼ぎに出ていた。ウォノギリ県の人口は120万人、そのうちの少なくとも2割が出稼ぎ人口である。今でも、ジャカルタとウォノギリとの間にはたくさんの直行バスが運行している。

この貧しい出稼ぎ送り出し県を、今では、毎日のように投資家が訪れている。とくに、韓国系ビジネスマンが熱心に通い詰める。ジャカルタ周辺の賃金高騰の影響で、繊維や縫製などの企業が中ジャワ州南部で工場移転の可能性を探っている。近くのボヨラリ県には、韓国政府の資金で繊維・縫製向けの工業団地の建設が始まっている。ボヨラリ県の2014年最低賃金(月額)は111万6000ルピア、ウォノギリ県のそれはさらに低い95万4000ルピアであり、これが投資家を工場移転に誘う要因となっている。

ウォノギリ県では、今年7月までに合板工場と女性下着工場が操業を開始する。いずれもインドネシア地場企業で、両工場を合わせて4100人の雇用機会が生まれる。このうち、700人がジャカルタでの出稼ぎから戻って就職すると見られる。加えて、韓国系の繊維工場やカバン製造工場がウォノギリ県への立地へ向けた最終段階に入っている。

ウォノギリ県ではダナル・ラフマント県知事が先頭になって動く。前述の女性下着工場の用地買収では、36人の地権者を説得し、わずか2週間で用地買収を成功させた。また、県知事自ら村々をまわり、工場で働く女性労働者の募集さえも行なった。

南海岸に建設されるセメント工場と合わせた港湾整備、複数の工業団地建設計画。出稼ぎ送り出し県からの脱却を熱く語る県知事の姿は、まさに、1970年代の日本の高度成長期、企業誘致にかけた地方の熱気を思い出させる。最貧県のイメージを一新するような変化がウォノギリ県で起こり始めている。

 

(2014年4月25日執筆)

 

【スラバヤの風-23】ムルヨアグン村のゴミ処理場

今日もまた、マラン県ムルヨアグン村へ視察者が訪れる。国内ばかりではなく、日本をはじめとする外国からも来る。目的地は、村の中心部からやや離れた、ムルヨアグン統合ゴミ処理場である。この処理場は地元住民グループによって管理運営されている。

IMG_0432

ムルヨアグン村のゴミ処理場

地元住民グループは2010年に結成された。ムルヨアグン村にはブランタス川水系の河川が流れており、それまで20年以上にわたり、1日当たり30立方メートルのゴミが投棄されてきた。2008年、当時の村長が一念発起し、「河川へのゴミ投棄をさせない」と宣言、2009年に住民全員を集めて土地利用計画を話し合って説き伏せた。住民グループ結成後、村は2,000平方メートルの土地を用意し、2010年12月までに国家予算や州予算などを使って処理場を建設し、2011年2月から運用を開始した。今や、広さは8,676平方メートルに拡張されている。

現在、この処理場では、1日当たり64立方メートルのゴミを処理している。これはムルヨアグン村の5,656家屋、7,600世帯のゴミに相当する。ゴミの内訳は無機ゴミが45%、有機ゴミが39%で、前者は、食べかすなどがアヒルや豚の餌となり、その他は洗浄・加工して業者へ売る。分別は細かく、硬質プラスチックが61種類、オモチャが74種類、ガラスが13種類、アルミ缶が22種類、といった徹底ぶりである。

一方、後者は40日かけてコンポストにし、さらに55日かけて有機肥料にする。有機肥料を作る過程では、県畜産局から進呈されたヤギ11頭の糞も混ぜる。これらのゴミ処理で、ハエの発生率が95%減少したという。

住民からは1世帯・1ヵ月当たり5,000〜1万2,000ルピアのゴミ収集費を徴収するので、毎月3,500万ルピア程度の収集費収入がある。他方、従業員の給与や機器の維持管理などの運営コストが毎月8,000万ルピアかかるが、処理ゴミの業者への売却益を合わせると収支は黒字になる。ただし、用地拡張が難しいため、処理能力の拡大には限界があるとのことである。

住民は河川へのゴミ投棄を止め、ゴミ処理場で働くことによって雇用機会が生まれ、収入が上がり、生活が豊かになった。河川も以前よりきれいになった。ムルヨアグン村の挑戦は、インドネシア国内の様々な地方政府から注目を集めているが、政府に頼らず、地元住民グループによって自立したゴミ処理ビジネスを成立させたことが重要なのである。

 

(2014年4月11日執筆)

 

 

【スラバヤの風-22】マラン市のゴミ銀行

「ゴミで貯金しよう」「ゴミで日用必需品を買おう」「ゴミで電気代を払おう」。マラン市のゴミ銀行のオフィスを訪ねると、そんな標語があちこちに掲げられている。

マラン市のゴミ銀行は、ゴミ処理場への家庭ごみの削減を目的に、市政府が2011年10月に設立した。オフィスは市内の墓地管理事務所にあり、オランダ植民地時代には遺体安置所だった。ゴミ銀行とゴミ処理場を同一視した市民が猛反対したため、ゴミ銀行の立地場所を決められず、結局、墓地管理事務所にオフィスを置くことになったのである。

IMG_0444

マラン市の「ゴミ銀行」オフィス窓口

ゴミ銀行で扱う家庭ごみはプラスチック、紙類、金属、ガラス瓶など70種類に分類され、その各々に引取価格が設定されている。ゴミを持ち込んだ顧客は、現金または貯金の形で対価を得るが、貯金のほうが現金よりも高く対価が設定される。たとえば、カップ麺の空カップは現金だと300ルピアだが、貯金だと400ルピアになる。

ゴミ貯金には普通貯金、教育資金用貯金、レバラン用貯金のほか、現金ではなく現物で引き出す日用必需品貯金、奨学金やモスク建設補助のための社会義援貯金、リサイクル関連の設備購入のための環境貯金、健康保険料を支払うための健康保険貯金がある。

ゴミ銀行の顧客には、直接ゴミを持ち込む個人顧客と、ゴミ銀行が出向いてゴミを引き取るグループ顧客の2つがある。グループ顧客には町内会、学校、パサール(市場)などがあり、それぞれ最低でも住民20人、生徒40人、商人5人の会員で構成する。

グループ顧客は1〜2週間に1回、重量50キロ以上になるようにゴミを収集し、計量・分類する。そこへゴミ銀行の職員が出向いて再度計量・分類し、梱包した後、軽トラックでゴミ銀行へ運ぶ。収集したゴミの内訳・重量・預金額などはゴミ銀行で集計・記録し、グループ顧客の通帳にも口座情報として細かに記録される。現在までに個人顧客が約400人、グループ顧客が約320グループ、うち参加学校は175校である。

ゴミ銀行の収益は、収集したゴミを廃品回収業者へ売ることで得られる。現在、毎月2億ルピア程度の売り上げと2000万ルピア程度の収益がある。マラン市のゴミ銀行の1日当たりの収集量は約2.5トンで、市全体から見ればまだごくわずかであり、家庭ごみ処理に関する市民への啓蒙の役割を果たす段階といってよい。

しかし、ゴミをお金に変える試みは珍しく、マラン市のゴミ銀行の動きは全国の地方政府から注目を集めていくことだろう。

 

(2014年3月28日執筆)

 

 

【スラバヤの風-21】出稼ぎの民、マドゥラ人

マドゥラ島を出自とするマドゥラ人は、インドネシアではジャワ人、スンダ人、バタック人についで4番目に人口の多い種族集団である。2010年人口センサスによると、国内のマドゥラ人の人口は718万人で、そのうち東ジャワ州に居住する者が644万人である。マドゥラ島にある4県の人口が合計362万人で、そのすべてをマドゥラ人と仮定すれば、マドゥラ人の分布は、マドゥラ人の2人に1人はマドゥラ島外へ出ていることになる。

すなわち、マドゥラ人は出稼ぎの民といってよい。歴史的に見ると、マドゥラ人の出稼ぎのきっかけは17世紀にさかのぼる。当時、ジャワ島を支配するマタラム王国に対して、マドゥラ人の英雄トゥルノジョヨが反乱を起こしたが、オランダ東インド会社をバックにしたマタラム王国に敗北した。その際、トゥルノジョヨに従ったマドゥラ人多数が島から逃げ出し、生計を立てるため、逃亡先で様々な雑業に就いたとされる。もっとも、マドゥラ島自体が農業に不向きな、塩田に頼る貧しい土地だったことも要因として挙げられる。

彼らの就く雑業といえば、たとえば、ジャカルタなどの都市で見かけるサテ(串焼き)屋やソト(実だくさんスープ)屋、住宅地などを歩きまわる移動式屋台(カキリマ)や自転車にインスタント飲料とお湯を乗せた売り子などである。ほかには、マドゥラ人の理髪師のネットワークがあり、西ジャワ州のガルット出身者と並んで知られる。マッサージ業界でも、マドゥラ人のマッサージ師は一大勢力となっている。雑業以外にも、中央政界・財界で活躍するマドゥラ人は少なくない。

スラバヤには、人口の約4分の1に当たる80万人ものマドゥラ人が居住し、とくに市の北部に集中している。様々な雑業のなかでも、とくに目立つのがクズ鉄や古紙などの廃品回収やゴミ収集・分別に従事する者や、市場(パサール)や路上で商品売買をする商人などである。商人については、スラバヤだけでなく、マドゥラ人居住者の多い北東海岸部に加えて、マランなどの内陸部の市場に入ると、そこはマドゥラ語が支配的な世界である。

IMG_0718

スラバヤ市北部のくず鉄・廃品市場。ありとあらゆる廃品が売買されている。ここもマドゥラ人が牛耳っている。

このように、マドゥラ人は東ジャワ経済にとって不可欠な存在である。温厚で感情を露わにしないジャワ人とは対照的に、より敬虔なイスラム教徒であるマドゥラ人は、感情をストレートに表現することで知られる。出稼ぎの民・マドゥラ人は、そのバイタリティを発揮しながら、東ジャワやスラバヤ、インドネシアにおける経済の基底を支えている。

 

(2014年3月14日執筆)

 

 

【スラバヤの風-20】スラマドゥ大橋は悲願だったのか

スラバヤ市とその目と鼻の先にあるマドゥラ島とは、スラマドゥ大橋で結ばれている。建設したのはインドネシアの国営企業ワスキタ・カルヤと中国系2社(中路公司、中港公司)のコンソーシアムで、約6年かけて2009年6月に開通した。全長5438メートル、インドネシア最長の橋であり、総工費は4.5兆ルピア(約390億円)とされる。開通式でユドヨノ大統領は「50年前からの悲願が達成された」と述べた。

P1050464 SUB Suramadu

インドネシアでは、1960年代から島々を橋やトンネルで結ぶ構想があり、スハルト時代には、ハビビ科学技術国務大臣(当時)を中心に「トゥリ・ヌサ・ビマ・サクティ計画」という名で現実化が進められた。スラマドゥ大橋とその周辺の工業団地建設は、その一環として1990年に国家プロジェクトとなった。これに関するフィージビリティ調査や計画立案で日本が重要な役割を果たし、日本企業を含む形で建設に取り掛かる予定だった。しかし、通貨危機によって計画は延期され、地方分権化で権限を移譲された東ジャワ州政府が主導して新たなコンソーシアムを立ち上げ、建設が再開された。

識者たちは、スラマドゥ大橋の完成により、島外から投資が来ることで、後進地域のマドゥラ島でも開発が一気に進むことを期待した。スラバヤの対岸で橋のかかるバンカラン県では600ヘクタールの土地を用意し、工業団地と港湾開発を進める計画だった。

しかし、スラマドゥ大橋を渡ってすぐ先には、広大な荒地が広がる。値上がりを見越して法外な地価を要求する地権者からの土地収用が困難を極めているのだ。橋の完成前と比べて200倍に高騰した土地もある。そして、ここでも、政府の役人らが土地をめぐる投機的な動きに陰で関わっていると言われる。

それとは対照的に、スラマドゥ大橋から遠く離れたマドゥラ島東部のスムナップ県では、以前よりも商業活動が活発化し、ホテルの数が増え、空港整備も進むなど、経済的に好ましい変化が起きていると言われる。

実は、スラバヤ市とマドゥラ島を結ぶ連絡フェリーはまだ存続している。「スラマドゥ大橋の通行料が従来のフェリーに比べて高い」という声も聞く。そんな状況を見ると、スラマドゥ大橋は本当にマドゥラの人々の悲願だったのか、という疑問が湧いてくる。むしろ、ただでさえ出稼ぎの多いマドゥラの人々の島外への移動に、さらに拍車をかけただけだったのではないかとさえ思えてくる。

 

(2014年2月28日執筆)

 

 

【スラバヤの風-19】スラバヤ市長「辞任」騒動

2014年2月に入り、地元マスコミは、「スラバヤ市のリスマ市長が辞任を表明した」とのニュースを流した。清廉潔白で知られる彼女に汚職疑惑やスキャンダルが急に湧いたわけではない。これまで積み重なってきた議会や政党との対立がここに来て一気に噴出したのである。

リスマ市長が辞任をほのめかした理由の一つは、ウィシュヌ副市長の就任である。リスマは2010年、 副市長候補であるPDIPの重鎮バンバン前市長と組み、闘争民主党(PDIP)の単独推薦で当選した。このときのPDIPスラバヤ支部長がウィシュヌ現副市長である。

バンバン副市長は、2013年8月の東ジャワ州知事選挙に州知事候補として立候補するため、副市長を辞任した。これを受け、スラバヤ市議会で副市長候補の選任が行われ、PDIP会派のウィシュヌ代表が選ばれた。この選任プロセスをめぐっては書類偽造の疑いがあり、リスマ市長は結果を認めようとしなかったが、内務省や東ジャワ州知事からの指令で、ウィシュヌ氏は副市長に就任した。リスマ市長は病気を理由に副市長就任式を欠席した。

実は、リスマ市長にとってウィシュヌ氏は怨念の相手である。リスマ市長は、すでに工事が始まっていた市内高速道路建設を「庶民のためにならない」と強硬に反対したほか、路上の広告や立看板を規制するために広告税の引き上げを図ったが、市議会がこれらへ強く反対した。2010年の市長就任から半年も経たないうちに、市議会は、リスマ市長を市長の座から引きずり降ろそうと画策したが、その先頭に立っていたのが、与党のはずのPDIP会派のウィシュヌ代表であった。

その後、PDIP党中央の指示で解任騒動は収まったが、市議会のリスマ市長への不信は増幅し続けた。最近では、ドリーと呼ばれる東南アジア最大規模の売春街の閉鎖や、スラバヤ動物園の管理運営でも、リスマ市長への批判が出ている。市議会は、開発事業を進めたい建設業界などと一緒に、 2015年スラバヤ市長選挙での彼女の立候補・再選を防ぐため、必ずしも必要とはされない副市長選出を強行し、ウィシュヌ副市長を据えたのである。

リスマ市長はまだ辞任報道を否定も肯定もしていない。辞任反対デモも起こった。リスマ市長をめぐる動きは、同様に政治的な思惑と離れた新タイプの政治家で、大統領候補人気トップのジョコ・ウィドド(ジョコウィ)州知事の動きだけでなく、今後のインドネシア政治を展望するうえでも注目される。

 

(2014年2月16日執筆)

 

 

【スラバヤの風-18】スラバヤ動物園の悲劇

スラバヤ動物園で次々に動物が死んでいく、と話題になっている。2014年1月には、アフリカライオンが首を吊った不自然な形で死んでいるのが写真入りで報道された。「死の動物園」「世界最悪の動物園」と酷評されたスラバヤ動物園で、いったい何が起こっているのか。

Exif_JPEG_PICTURE

スラバヤ動物園の入口

スラバヤ動物園は、オランダ植民地時代の1916年に設立された国内最古の動物園であり、広さ15ヘクタールは東南アジア最大規模である。2014年1月末現在、197種、3459頭の動物が飼育されているが、84頭が病気や老齢で、うち44頭が危機的状態にある。

スラバヤ動物園で動物の死が問題視されたのは2010年頃からである。スマトラトラ、アフリカライオン、コモドオオトカゲ、バビルサなどが相次いで死んだが、飼育環境の悪化やエサの不足などの様々な問題は、現在まで、何ら解決には至っていない。

動物園を管轄する林業省の意向を受けて、スラバヤ動物園の管理運営はスラバヤ市政府へ移管されたため、批判の矛先はスラバヤ市のリスマ市長へも向けられている。しかし、市長は一切ひるまず、逆に、スラバヤ動物園の前経営者を汚職撲滅委員会へ告発するという行動に出た。地元の国立アイルランガ大学が監査を行った際、南京錠の付いた複数の金庫や現金入りの不審な袋が発見されたほか、スラバヤ動物園の動物を他の動物園と交換した際に、動物の代わりにバイクや自動車をもらっていたケースが発覚したのである。

スラバヤ動物園の管理運営をめぐっては、過去の歴代園長が率いる3グループの内部対立があり、ときには、特定グループの意向を受けた暴力団(隣のジョヨボヨ・バスターミナルを仕切る)が園内に入るケースさえあった。リスマ市長は、これら3グループを同じテーブルにつかせて、動物園の飼育環境や管理運営の改善に向けた話し合いを試みている。

スラバヤ市政府がスラバヤ動物園を管理運営することになったのは、実は動物園内部の問題だけではなかった。2011年頃、地元実業家が動物園を移転させ、元の敷地にホテルやレストランを建設する計画が浮上した際、それを断固認めさせたくないリスマ市長が、市政府による動物園の管理運営を強硬に主張したのである。 地元実業家は、動物園を移転させる口実として、動物の死が相次ぐ劣悪な飼育環境を利用したのかもしれない。2015年のスラバヤ市長選挙でリスマ市長の再選を阻むため、動物園事件絡みでの資金工作があるとの噂もある。スラバヤ動物園の悲劇には、どうしても人災の匂いが付きまとっている。

 

(2014年1月31日執筆)

 

 

【スラバヤの風-17】日本向け野菜生産の聖地となるか

熱帯に属するインドネシアは、日本など温帯産の農作物の栽培には適さないと考えられがちだが、それは一面的である。標高差を生かすと、温帯に近い高山気候のような環境で農作物の栽培が可能になる。しかも四季がないので、年間を通じて栽培できる。

ジャワ島の高原地帯の多くは火山灰地帯であり、肥沃な土壌を生かして高原野菜が栽培されている。キャベツ、白菜、ニンジン、トマトなどが畑でトラックに積まれ、夕方から夜明け前頃までに大都市へ毎日運ばれてくる。ジャカルタではクラマット・ジャティ市場、スラバヤではクプトゥラン市場がそうした野菜の一大集積地である。

東ジャワでは、国内市場向けだけでなく、輸出向けの野菜生産・冷凍も行われている。最も有名なのは、ジェンブル県を中心に生産される枝豆で、その8割以上が日本向けである。中心となる国営合弁企業では、年間約5500トンの枝豆を生産するほか、オクラ、ナス、サツマイモ、大根、インゲンなども日本向けに生産している。

いくつかの日本企業も、東ジャワの高原地帯で野菜の委託生産を試みている。昨年9月に訪問したマラン市の野菜加工工場では、長ネギ、マッシュルーム、サツマイモ、ニラ、大根などを扱い、契約栽培された野菜を水洗いした後、乾燥、冷凍、チルド、水煮などの状態にして、日本及びシンガポール向けに出荷する。野菜加工工場の指導員が栽培農家を回り、圃場で野菜作りや農薬の使用方法などを細かく指導している。

たとえば、日本企業のスペックに合わせてカットされた野菜は、大腸菌の発生を防ぐため殺菌液に浸けられた後、急速冷凍され、半製品として日本へ輸出される。日本市場に受け入れられるよう、日本で味付けをしたり衣をつけたりしたものが、おでんセットの大根や、駅の立ち喰い蕎麦屋のイモ天となって市場に出る。インドネシアからの輸入量はまだわずかだが、すでにインドネシア産野菜が日本食材の一部となっているのである。

しかし、すべての日本向け野菜生産が成功している訳ではない。低コストを狙って委託生産を試みたある日本企業は、昨年初めに東ジャワから撤退した。品質管理や圃場管理の難しさに加え、5年契約で借地代の一括払を要求するといった、農民レベルでの拝金主義の横行も近年目立つという。そして、日本市場が要求する安全・安心への保証をどう確立するかが極めて重要な課題となるだろう。果たして、東ジャワは日本向け野菜生産の聖地となるのだろうか。

 

(2014年1月17日執筆)

 

 

1 2 3 4 5