普通の人ジョコウィは只者ではない

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選挙戦の時の闘争民主党のジョコウィを使ったポスター。闘争民主党のお陰でジョコウィが当選したのではなく、ジョコウィのお陰で闘争民主党は票を集められた、という面が強い気がする。

10月20日、ジョコ・ウィドド(ジョコウィ)新大統領とユスフ・カラ新副大統領が就任した。

就任式でのジョコウィの簡潔な就任演説、就任祝賀パレードで埋め尽くされた人々から次々と揉みくちゃにされている笑顔のジョコウィ、カラ。

警備という言葉がどこか飛んでしまいそうな、権力者と庶民の近さである。

大統領はもはや雲の上の人ではない、自分たちと同じ人間だという感覚。大統領になるなんて思いもしなかったジョコウィには、自分も沿道の人々と同じだという思いがある。

大統領は仕事。大統領は成り行きでなってしまったもの。自分は自分。

多くの政治家が権力者になりたがるのとは対照的な、覚めた自分を持っているジョコウィ。今日のそんな笑顔のジョコウィには、自分を選んでくれた国民に対する感謝の気持ちがあふれているように見えた。

これまでのインドネシアの支配体制では、権力者が王様のように振る舞いがちであった。地方首長選挙の弊害の一つは、当選した地方首長が家族を重用し、王国を作ってしまう傾向にあった。

 

ユドヨノ前大統領は、10年間でそれを露骨にできる立場にあったにもかかわらず、自ら率先して王国を作るところまでは行かなかった。ユドヨノもまた、権力欲をむき出しにするタイプではなかった。

その意味で、ユドヨノはジョコウィに近い。ユドヨノも、自分が普通の人間であることを自覚していたように思える。アニ夫人のインスティグラムの写真はとても微笑ましいものだ。

そう、10年前、ユドヨノがインドネシアで初めての公選大統領に就任するときも、決して偉そうに振る舞ってはいなかった。自分も普通の国民の一人という感覚を持ち合わせていたと思う。あのときも、人々は自分たちの目線で物事を捉えられる指導者を求めていたのだった。

しかし、政治家の多くは、まだまだ自分を特別視していた。選民意識が強かった。特権を持った自分たちがなんでも決められると錯覚した。政党は政治家個々人の思惑を実現する装置にとどまり、成熟するには至らなかった。ユドヨノはこれら幼稚な政党を、赤子をあやすように相手にしなければならなかった。

10年が過ぎ、国民は今も自分たちの目線で物事を捉えられる指導者を求めている。政治家は今も選民意識が強く、一般国民との距離は開いたままである。彼らは「国民の代表」という顔をしながら自分の利益の実現を欲している。

政治エリートが自らを変えていけるか。これがインドネシア政治の最大の課題である。

その意味でも、ジョコウィ=カラの祝賀パレードが映像として全国へ流れたインパクトは無視できない。なにせ、インドネシアでこんなことをした指導者は初めてであるし、世界的に見ても、警備上の問題などで、まずあり得ない出来事だったからである。

映像に映し出されたのは、「みんなのジョコウィ」だった。特定の政治勢力の専有物ではない、インドネシアのみんなのための大統領だった。

大統領就任を前に、ジョコウィは、大統領選挙で敗北し、リベンジに燃えていたはずのプラボウォの家へ誕生日のお祝いのために駆けつけ、双方が敬意を表した。大統領就任式のときには外国へ出かけている予定だったプラボウォは、急遽帰国し、就任式に出席。ジョコウィの就任演説でも再度プラボウォに敬意が表され、なかなか敗北を認められず、落とし所を探りあぐねていたプラボウォの矛を自ずと収めさせることができた。プラボウォは自分のプライドを傷つけられずに収められた。

このような、敵を自分の側へ取り込めるジョコウィの能力は、今後の政局運営との関係で、見過ごすことができない重要な能力である。プラボウォは、もうリベンジに精を尽くす必要はなくなった。

そしてジョコウィは、政党色のないプロフェッショナルな内閣を作ることを約束している。

反ジョコウィでリベンジに燃えているとされた議会での「紅白連合」は、ジョコウィが政党に縛られている限りにおいて、その存在意義がある。ジョコウィ政権が政党色を出さなければ、紅白連合は攻めるのが難しく、自ずとその意味を失っていくだろう。

実際、プラボウォに密着していたゴルカル党のアブリザル・バクリ党首は、ジョコウィの就任演説後、ゴルカル党がジョコウィ政権を支持する意向を示した。プラボウォが党首を務めるグリンドラ党でさえ、ジョコウィ支持を言い出すかもしれない。それは、ジョコウィが特定政党の意向に沿った政権を作らない考えだからである。

これまでのプロセスを見ると、ジョコウィは実に巧みに自分が動きやすい環境を作ってきている。議会の話が中心の間は、様子をうかがいながら、自分の所属する闘争民主党など、選挙戦のときの与党側を立てていた。しかし、闘争民主党が圧勝しなかったからこそ、ジョコウィが政党の縛りから外れる状況が現れた。

おそらく最初から、ジョコウィは内心、それを表には決して出さなかったが、与党だけで政権運営をするつもりなどなかった。政党を超越したプロフェッショナルによる政権運営を考えていた。それを出せるタイミングを上手く見計らいながら、大統領就任にこぎつけた。

さあ、いよいよ、ジョコウィが真骨頂を発揮できるときが来た。まずは、どんな布陣で内閣を組織するかが見ものである。新閣僚は、たとえ政党幹部であっても、幹部職からの離脱が条件である。もちろん、ジョコウィ自身も、闘争民主党の一般党員ではあるが、党のために動くという姿は見せないはずである。大統領となった今、もはやメガワティ党首の下僕とはならない。

普通の人であるジョコウィ新大統領。実は、なかなかの巧者である。決して侮れない。只者ではない。ユドヨノのときとは違って、政党は彼に相当振り回されるだろう。そして、鍛えられるであろう。そう望みたいところである。

 

福島、山形、仙台、新宿

10月4〜14日の予定で日本に一時帰国している。

さっそく、10月6〜7日に福島、7〜8日に山形、8日に仙台に寄ってから東京、という日程をこなしてきた。

福島では実家に帰るとともに、前から会いたかった方々3名にお会いした。震災後、たくさんやってきていた外部者による支援、潮が引くように減っている状況がうかがえた。今後の活動は、おそらく外部者による支援という形ではなく、様々な人々による共創になっていくのではないか。そんな思いを強くした。

山形では、山形ビエンナーレを駆け足で見学した。見学できたものはわずかだったが、東北、山、門といったものが「ひらく」ということを象徴するように思えた。表現の一つ一つに、粗削りではあるが、ふつふつとほとばしる力を感じた。

山形ビエンナーレを見学しながら、東日本大震災のとき、真っ先に支援物資供給などで動いたのが山形だったことを思い出していた。青森、岩手、宮城、福島は交通が遮断されて孤島になっていたとき、物資輸送の後方支援基地として山形が果たした役割を忘れることはできない。

東北芸術工科大学。以前、筆者はこの大学の『東北学』のシリーズを購読し、友の会の会員だったが、その頃から一度来てみたかったキャンパスだった。ほんのわずかの滞在だったが、キャンパスから見た夕日は、建物の前にある池にも映えて、とても美しかった。

この大学に着いたとき、バス停の前は学生たちの長蛇の列だった。時刻表を見ると、山形駅行きに加えて、何と仙台行きのバスもある。仙台からだと、きっと1時間ぐらいで着くのだろう。

東北芸術工科大学内で「東北画は可能か?」という展示を見た後、山形駅行きのバスの時間を気にしながらバス停に来ると、バスは停まっているが、学生の長蛇の列は消えていた。あの学生たちは皆、仙台行のバスに乗ったのだった。

山形駅行きのバスの乗客は、私を含めてわずか2名だった。

後で聞いたら、山形の大学で学ぶ仙台出身の大学生は、ほとんどが仙台から大学へ通っているとのことである。たしかに、繁忙時の山形=仙台間の高速バスは5分おきに運行されている。片道930円、通学定期券ならもっと安いだろう。

他方、福島出身の学生は、山形に下宿する傾向が強い。福島から通学できる交通手段が鉄道ならば山形新幹線しかなく、費用もかかる。福島=山形の高速バスは、夜行以外はない。事実、福島から山形へ車で行く場合は、仙台経由の高速道路で行くのが普通なのである。

山形の夜は、ジャカルタでお世話になって以来、約15年ぶりに知人との再会を楽しんだ。3種類の日本酒冷酒の飲み比べをしたが、十四代の吟醸酒というのがとても美味しかった。後で聞いたら、なかなか手に入れられない高価な日本酒なのだとか。日本酒に詳しくない自分が飲んでしまって、飲んべえの皆様にちょっと申し訳なかった。

最後の締めの肉そばが格別に美味しかった。

8日は、山形駅前から高速バスで仙台へ出た。1時間。快適なバス移動だった。JICA東北で1時間ほど打ち合わせ。東北ともじっくり関わっていく予感が沸いた。

駅前の利久西口本店で牛たん定食を堪能した後、初めて乗る「はやぶさ」で東京へ戻った。仙台=大宮がわずか1時間、早さを本当に実感した。

8日の夜は、友人の原康子さんが出した『南国港町おばちゃん信金:「支援」って何?”おまけ組”共生コミュニティの創り方』という本の出版記念トークイベント(紀伊国屋書店新宿南口店)を覗いた。

コミュニティ開発などの開発援助の現場では、よそ者がそこの人々の自立をどのように促すかがもっとも重要である。そのための「支援しない」技術を体得した原さんの面白トーク炸裂だった。「支援しない」技術が求められるのは、開発援助の現場だけではない。日本でも、職場でも、家族でも、どこでも。もちろん、東北でも。

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地方首長選挙法成立は明らかに民主化の後退

インドネシアの地方分権化・地方自治を、その芽生えから現在に至るまで、15年以上見続けてきた者として、やはり書かなければなるまい。

9月26日(金)未明、5日後に過去5年間の任期を終える国会は、地方首長選挙を「国民による直接選挙」から「議会による間接選挙」へ変えることを骨子とした地方首長選挙法を可決した。間接選挙への変更に賛成した議員が226名、直接選挙を堅持すべきと反対した議員が135名だった。

賛成議員の党会派は先の大統領選挙で敗北したプラボウォ=ハッタ陣営に属し、反対議員のそれは当選したジョコウィ=カラ陣営に属する。すなわち、地方首長選挙法をめぐる激しい議論は、結局は、大統領選挙の両陣営の戦いであり、プラボウォ=ハッタ陣営がある意味リベンジを果たした格好となった。

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プラボウォ=ハッタ陣営が地方首長選挙を間接選挙へ変えることに執心したのは、同陣営が大統領選挙後もジョコウィ=カラ陣営に対して負けた恨みを晴らすという一点で結集した「紅白同盟」(Koalisi Merah Putih: KMP)を、今後も維持し続けるためである。

彼らは国の重要政策について決して同じ考えを持っているわけではない。それをつなぎとめるには、カネやポストで釣るだけではなく、単純な主張が必要となる。今回、彼らの地方首長選挙法をめぐる議論でも、「インドネシアの民主化を西洋的なやり方から取り戻すため」「西洋民主主義ではなくパンチャシラ民主主義に戻すため」「直接選挙の結果、国富が外国勢に牛耳られる要素が高まった」といった、外国を敵視する主張が、何の論理的な脈絡もなく、繰り返された。

これは、とても危険な徴候である。「紅白同盟」の仮想敵は外国勢であり、外資とみて間違いではない。大統領選挙の候補者討論会で、プラボウォは国富の漏れが外国へ流れているのを止めて、それを開発へ活用すると述べていたが、その活用先として彼が真っ先に挙げたのは、高級官僚や政治家の待遇改善であったのを皆さんは覚えているだろうか。まず彼らの待遇が改善されないと汚職はなくならない、と彼は主張したのである。

国富の漏れを止めた後、それを誰にどのように配分するかは、大統領に選ばれた自分が適切に行う、と言わんばかりのプラボウォの演説であった。民主主義では、その配分が適切に行われるかどうかをきちんと第三者がチェックする仕組みが必要になる。でもおそらく、それは西洋的な民主主義の仕組みで、インドネシアにはそぐわない、と片付けることだろう。翻って言えば、自分たちの権益を守り、反対者の口を封じるために、外国(西洋)が仮想敵として活用されるのである。

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今回の最後の国会での議論を見ていても、中身の議論はほとんどなかった。

賛成派を勢いづかせたのは、民主党会派の退場であった。ユドヨノ大統領が党首を務める民主党は、当初は間接選挙に賛成していたが、先週、ユドヨノ党首が直接選挙の堅持を支持する方向性を示したことを受けて、条件付きで直接選挙の堅持という立場を採るに至った。民主党が提示した10項目の改善条件は、ジョコウィ=カラ陣営に属した政党会派も合意し、それら会派は民主党も間接選挙への変更に反対するものと思い込んでいた。

ところが、直接選挙か間接選挙かを投票を決める段になって、「州知事は間接、県知事・市長は直接というオプションが認められなかった」という理由で民主党会派が議場から退出した。これで、投票の結果は決まった。

多くの人々は、ユドヨノ党首が二枚舌を使ったと見なした。ユドヨノは最後の最後で自分が作り上げてきた民主的なシステムを自分で壊したという批判が出されたりもした。

しかし、国連総会に出席中のユドヨノは、民主党党首として「直接選挙を堅持」という自分の出した方針を貫徹せず、退場した民主党会派を厳しく批判し、犯人探しを始めた。留守を守るシャリフ・ハッサン党首代行は「民主党会派が勝手にとった行動だ」とユドヨノに同調した。

結局、民主党会派のヌルハヤティ代表が「退場」という決定を下したことが明らかになった。彼女はこれまで、頻繁に「紅白同盟」幹部とコンタクトしており、10月から発足する新国会での副議長ポストを「紅白同盟」から約束されていたという話が流れている。

それでも、ユドヨノの優柔不断さや二枚舌を念頭に、結局はユドヨノが自分を守るために嘘を言っているという声も強い。それほど、ユドヨノはもはや信頼を得られていないのである。

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それにしても、地方首長が議会で選ばれるというのは、2004年以前、スハルト時代の仕組みに戻るということを意味する。地方首長直接選挙は、言ってみれば、インドネシアの制度的民主化の一つの到達点だった。34州、550以上の県・市のトップが住民の一票で選ばれる。選挙自体で死者が多数出たりすることはない。

もちろん、不特定多数の有権者を念頭にカネを配り、かなり末端に至るまで候補者とその支持者どうしの対立が深まり、相当に根深い感情的なしこりをあちこちに作ってしまったことは確かである。当選した地方首長は地方ボス化し、選挙で使った資金回収のために、裏金作りなどの汚職に励むことが大きな問題となっていた。候補者どうしの対立が激しくなると、そこの地域社会が分断されることも多々あった。こうした状況を改善するために、以前のような議会で地方首長を選ぶ形に戻せば、住民どうしが対立することもなく、選挙資金も少なく済ませることができ、官僚も本来の業務に専念できる、という声も決して少なくはなかった。

しかし、それでも、住民が自らの手で地方首長を選ぶ経験を日常化したことの意味がある。普段の選挙では投票率が低いかもしれないが、いざ何かあれば、自分が投票できる、という機会をキープしていること自体に意味があるのである。住民は議会の議員も比例代表制による政党経由で選んでいるが、その議会をコントロールする役目を託して地方首長を選んでいる面がある。とりわけ、議員たちが汚職に走る現状を憂い、地方首長への期待が高まることもある。

地方首長が議会によって選ばれるとなると、改革派の地方首長はもはや現れないだろう。住民よりも先に、議員たちの機嫌を取らなければならないからである。車やら、家やら、ノートパソコンやら、様々なものを議員に提供し、業者がバックに付く議員に配慮してインフラ案件などをさばくことになる。しかも、うまくさばかないと、次の選挙では支持しない、といった脅しも地方首長は受けることになる。かつて、多くの地方首長が議員たちの懐柔に頭を悩ませ、住民のことなど考えていられない状況になった。住民のために動き、議員たちへの配慮の乏しい地方首長は、間違いなく次の選挙では立候補できなくなっていた。

現在のインドネシアには、議会との対決も辞さず、改革を進めていこうとする地方首長の人気が高まっている。だからこそ、ジョコウィのように、地方首長で実績を上げた人材が大統領にまで上り詰められる時代になったのである。もしも、地方首長が議会によって選ばれ続けていくならば、ジョコウィらはインドネシアの民主化の徒花として終わる運命となるかもしれない。地方首長選挙の次は、大統領を国会が選ぶ仕組みへ変えようという動きが出てくることが予想される。

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しかし、スハルト時代と違うのは、そうなってはならないと思う人々の数が圧倒的に増えたことである。

彼らはまず、憲法裁判所へ地方首長選挙法の違憲審査を求めるだろう。「間接選挙は民主化の後退」と明言したユドヨノ大統領は、自分の任期が終わる10月20日までに同法には署名しないものとみられる。ただし、法律の施行には大統領の署名が必要だが、署名なしでも、法律は可決から30日目で自動的に施行される。

30日目といえば10月25日、すでに10月20日にジョコウィが大統領に就任している。違憲審査請求が10月初めまでになされれば、それから結果が出る1ヵ月は法律は動かない。もちろん、ジョコウィ新大統領が法律の施行に反対を表明することだろう。制度的に地方首長選挙法への異議申立が進められるだろう。

一方、プラボウォ側は、国民の代表たる国会が成立させた法律の施行を迫るべく、様々な形で力を見せつける示威行動を行うかもしれない。地方首長選挙法の成立は、いまだジョコウィへのリベンジに燃えるプラボウォやその周辺にとっての第一幕にすぎない。第二幕は大統領選挙の間接選挙化であり、それを成立させる前であっても、ジョコウィを任期途中で引きずり下ろす戦略を考えるだろう。そのときに、外国敵視の話が使われることを危惧する。

たとえ間接選挙になっても、議員の態度や質に変化が起こり、有権者の代表としての意識が行動に現れれば、それなりによい地方首長を選出できるだろうが、そうなると期待している人々はほとんど居ないと思われる。

地方首長選挙法成立は明らかに民主化の後退である。それは、政党という今だに中央集権的な組織が、地方分権化の申し子とも言える改革派地方首長出現の可能性を摘んでしまうものである。

悲観的な論調の多いインドネシアのメディアだが、「地方首長選挙法は国民の権利を剥奪するという面で違憲である」といった判断が憲法裁判所から出され、法律が撤回される、ということもまだ起こりそうな気がしている。楽観も持ち合わせつつ、事態を注視していきたい。

地方首長選挙法案の議論に寄せて

「もしも住民が直接県知事を選べるならば、私は絶対に当選するはずなのに」。

この言葉は、2001年に南スラウェシ州の某県知事から出た言葉である。当時、県知事は県議会が選ぶ仕組みだった。

この県知事は、今でいうところの改革派の県知事だった。南スラウェシ州で下から2番目に貧しい県でありながら、県予算の3割を使って、インターネットを駆使した許認可手続のワンストップ・サービスを全国に先駆けて導入した。これにより、住民登録や事業登録などの手続期間が大幅に短縮し(たとえば住民登録は書類が整っていれば窓口で15分)、しかも費用も少額(たとえば住民登録はわずか5000ルピア)となった。今、話題となっている住民サービス改善をすでに15年近く前に実現していたのである。また、「健康野菜」の名前で有機肥料を使った野菜作りも始めた。

反面、この改革によって、許認可手続の仲介を行なっていた業者は仕事を失い、県の役人はそれら業者からリベートをもらうこともできなくなった。今までと違うことを始めると、従来のやり方で恩恵を受けてきた人々が必ず反発するものである。

県知事に対して最も不満に思っていたのは、実は県議会議員たちであった。自分たちが選んでやったにもかかわらず、県知事は彼らに公用車や公営居住宅の便宜を図らなかっただけでなく、公開入札を進めたため、彼らの親族らの経営する土建屋などへ事業が下りなくなった。当然、県議会議員は県知事の再任に反対し、彼らのボスとも言える県議会議長を公認の県知事に選んだ。

当時、他の県でも、住民のために汗水流した県知事が県議会で再任されないという事態が続出した。当時、JICA専門家だった筆者は、そうした優秀な県知事の名前を売って、新しい地方分権化時代の旗手になってもらおうと奔走したが、足元の議会がそれを許さない結果となってしまった。

今、国会では、地方首長直接選挙をやめ、議会が選ぶ形へ変える、いや戻す、地方首長選挙法案が議論されており、6会派がそれに賛成、3会派が直接選挙の堅持を求めている。議会が選ぶ形へ戻す理由は、直接選挙はコストが掛かり過ぎるというものだが、昨今では「リベラルな制度にし過ぎた」という理由も出されている。賛成の6会派はいずれも先の大統領選挙でプラボウォ=ハッタ組を支持した政党からなり、地方政治からジョコウィ=カラ次期政権を追い込もうとしている、と言われている。

純粋な議論ならば歓迎だが、政治的・感情的なリベンジのために制度が強引に変えられることはナンセンスである。議会が地方首長を選ぶ形へ戻ることは、もちろん、これまで築いてきた民主化の後退であり、いずれは大統領も議会が選ぶ形へ変えられてしまうのではないかという懸念さえ出ている。

地方首長直接選挙があったからこそ、ジョコウィは大統領になれたといっても過言ではない。インドネシアにはもっと多くの改革派の地方首長が必要である。過去の失敗を繰り返すことのないよう、そして民主主義の後退とならないよう、地方首長選挙法案の議論を早急に進めることなく、じっくりと議論していってほしいと個人的に思う。

日本企業のインドネシア進出について

30年近くインドネシアを見てきて、不思議なことがある。それは、日本におけるインドネシアへのイメージの急速な変化である。

2000年代半ば、日本では「インドネシアは危険な国」というイメージがとても強かった。1998年前後の通貨危機、反華人暴動の連鎖とそれに伴う政治社会危機、スハルト退陣などに続いて、アチェ紛争、イスラム強硬派とされる人々によるテロや爆弾事件などが続いたためであろう。

講演などで、私がいくら「それらの影響は全国に及ばない」「多くの人々は通常通り暮らしている」と言っても、「怖い」「危ない」と思い込んだ人々には信じてもらえなかった。いつになったら、インドネシアのネガティブ・イメージが改善するのか、と途方に暮れた覚えがある。

それが今、一転して、多くの人々がインドネシアを礼賛している。それまで海外事業をしたことがなかった事業者までもが、あたかもバスに乗り遅れまいとするかのように、インドネシアへ、インドネシアへとやってくる。

わずか数年の間に、こんなにもインドネシアへのイメージがひっくり返るものなのか。

私はほんとうに驚いている。

そして思う。多くの方々は、きっと過去のインドネシアのことをよく知ることなく、インドネシアへの期待を勝手に高めてしまったのではないか、と。

30年近く連続してインドネシアを見ているが、急に良くなったという印象はない。ある意味では、「怖い」と言われた時代と変わらない面も残っている。今起こっている「変化」は、これまで少しずつインドネシアの人々が変えてきたもの、努めてきたものの結果にすぎない。

たしかに、インドネシアでは、インターネットなどを通じて日本への関心や理解が高まってきていることは疑いない。とくに、アニメやコスプレなどのポップカルチャーが牽引役となって、日本への親近感を高めていることは確かである。帰国研修生の役割などもあるだろう。

しかし、日本はすべて素晴らしい、というイメージでインドネシアの人々が捉えているのは、昔から全く変わっていない。日本人のインドネシア・イメージは急転したが、インドネシア人の日本イメージ・礼賛は過去30年以上、変わらず続いている。

日本人はラッキーなのである。日本人なら恥ずかしくなるほどの、インドネシア人による日本礼賛のイメージの上に胡座をかけるからである。

しかし、その日本礼賛イメージが崩れたらどうなるのか。日本の現実は彼らが想像するものよりもずっと厳しいし、社会問題も深刻化している。その現実に目をつぶったまま、日本礼賛イメージを保持できるかどうか。

日本とインドネシアが真の友人になるためには、ネガティブな現実を含めて、双方がもっともっと相手をまるごと理解する必要があるだろう。人が誰かを愛するとは、プラスもマイナスも合わせて、相手を受け入れることだろう。

日本もインドネシアも自らを卑下する必要はない。しかし、双方の持つマイナス面に目をつぶり続けてはならないと思う。

いったい、インドネシアに進出する日本企業は、どこまでインドネシアのことを分かろうとしてやってきているのだろうか。いや、分かる必要などない、事業がちゃんとできればどこでもいいのだ、という反論も聞こえてきそうである。日本企業の進出支援は、日本企業さえよければそれでいいのだ、という考え方もあることだろう。

そういった考え方があるとすれば、それをインドネシア側はどう見るのだろうか。

想像力を働かせてほしい。日本に外国企業が進出してきた場合、日本人はそれをどのように見るだろうか。外国企業でなくともよい。米軍基地の存在とそこで起こる様々な事件を我々はどう見るだろうか。

インドネシアの日本企業は、インドネシア人から見られているのである。

多くのインドネシア人が、日本は好きだが日本企業には就職したくない、といっている現実がある。トップに就けない、給与や手当が低い、といった理由に加えて、自分たちの持っていた日本イメージと日本企業の現実とのギャップが彼らにそう思わせている面はないだろうか。

インドネシアへ進出してくる(きた)日本企業(とくに中小企業)の地元は、その企業の海外進出でどのような影響が出ているのか。地元経済はどうなっていくのか。このことにも、筆者は大きな関心をもつ。

その企業は本当にインドネシアへ進出しなければならなかったのか。海外へ行かずに地元に踏み留まって何らかの展開を開くことは難しかったのか。このことにも、筆者は大きな関心をもつ。

インドネシアで進出企業支援をするのなら、そんなことはどうでもいいことなのだろう。進出したいという企業のお世話をして、それごとにコンサルタント料をいただくのが仕事、と割りきってやればよいだけだろう。でも、筆者は、その企業の地元のことが気になってしまう。

むしろ、日本で、インドネシアへ進出したいと思っている企業とじっくりと話し合い、海外進出自体の是非や地元経済への影響(経済的影響だけでなく地域を形成する企業価値としての文化的影響も)を含めて、真剣に考えるところから、コンサルティングを始めたいのである。

そして、やはり本当にインドネシアへ進出しなければならないとなったら、全力で支援する。その企業だけでなく、進出先のインドネシアの地域にとってもプラスとなる形を作り出すために、全力で支援する。

その際に、その日本企業がインドネシアで生きていくことをどこまで深く考えているか、考えようとしているかをしっかりと見極めたい。

日本企業の日本の地元も、進出先のインドネシアの地域も、企業進出によってプラスの価値を共に生み出せるように、全力で支援する。

そんなコンサルティングをしたい。

もちろん、将来は、インドネシア企業の日本進出、といった事態も現実化してくるだろう。そこでも、日本企業に対してと同様の形で、コンサルティングをしたい。

インドネシアに進出した日本企業がインドネシアとともに生きていく。日本に進出したインドネシア企業が日本とともに生きていく。

それをひとつひとつ積み重ねていくことで、単なるイメージを超えた、日本とインドネシアとの間の本当の理解と相愛が深まっていくことだろう。

そのためには、まだまだ数量が少ない。交流人口が少なくとも現在の10倍以上に高まるよう、私なりのお手伝いをしていきたい。

9月12日スラバヤで講演

下記のとおり、スラバヤでのジェトロ中小企業セミナー(無料)において、ジェトロ中小企業海外展開現地支援プラットフォーム・コーディネーターとして、「ジョコウィ時代の到来と地方経済・投資環境の行方」と題する講演を行います。よろしければ、是非ご参集ください。

とき:2014年9月12日(金)14:30〜17:30
ところ:JWマリオット・スラバヤ
定員:40名

新メールアドレスのお知らせ

9月3日にジャカルタから出国し、タイガーエアウェイズ+スクートという、シンガポール経由のLCC乗り継ぎで4日昼に帰国した。スクートは、さすがSQのLCC、という感じだった。

今回のLCC乗り継ぎはなかなか良かった。コストパフォーマンスで考えたら、エアアジアの乗り継ぎのオルターナティブとして十分に使える。

そして、インドネシアでお世話になったスポンサーとの契約が終了し、9月4日からフリーとなった。当面、個人事業主としての屋号「松井グローカル」という名前で活動を行なっていく。

たまたま最近、私のメールアドレスからスパムメールが送られるということがあった。もしも、matsui01@gmail.comを発信元とする怪しげなメールがあれば、すぐに削除していただきたい。この場を借りて、ご迷惑をお掛けしたことを深くお詫び申し上げます。

こうしたこともあり、メールアドレスを以下へ変えることにしたので、変更していただければ幸いです。

matsui@matsui-glocal.com

独自ドメインを取り、「松井グローカル」の名前で、近いうちに個人コンサルタント会社として法人化することを検討している。

東京の自宅には今回、わずか5日間の滞在。でも、パフェも、ウナギも、日本そばも、冷やし中華も、刺し身も、秋刀魚の塩焼きもしっかり食べた。ぎゅっと凝縮したためか、ちょっと過剰摂取の気配はあるが・・・。

明日(9月8日)深夜のエアアジアで羽田からジャカルタへ発ち、10日夜にジャカルタからスラバヤへ戻る。

次回の日本への帰国は10月3日の予定で、10〜14日程度の滞在を考えている。

旅をするということ

今、母校の大学生によるスタディツアーのお供をしている。ジャカルタ、スラバヤ、マカッサル、西スラウェシ州ポレワリ、と移動する、学生にとってはけっこうハードかつ長期のツアーになった。

同行しながら、彼らがどんどん変わっていく姿を見るのが嬉しい。最初は日本から持ってきた常識や固定概念でインドネシアを見ていたのが、数日もすると、現場の視座を意識するようになってくる。現場を歩きながら、自分たちの持っていた先入観やイメージがことごとく覆っていく。その驚きを彼らの生の声で聞きながら、旅は続く。

感受性の強い彼らだからこそ、良いもの・悪いもの、好きなもの・嫌いなもの、様々なものを吸収していく。

私の役割は、彼らがただ単にそれを吸収するのではなく、現場から発信される様々な情報を、自分の頭で一生懸命に考え、それをつなげて自分なりの新たな考えを作る作業に適切なヒントや気づきを彼らへ促すことである。そう、静かに、ファシリテーションをしているのである。

私自身も、こうしたツアーに同行することで、新たなヒントや気づきを得ている。常に新しい刺激を求め、思考回路をリフレッシュさせながら、物事を批判的かつ建設的に見ていこうとすることで、自分が生きていることを実感するのである。

旅とはまた、学びである。自分の常識や思考を研ぎ澄ませるためには、新たなものを吸収し、学びを続けていく。自分にとって、それはいつどこでも行なっていきたいものなのだが、旅はまさにその刺激を得られる最たるものである。そして、それは自分だけのものではなく、旅で出会う様々な人々との交わりの中で、当人たちが意識するとしないとを問わず、新しい学びをあちこちに引き起こしているような気がする。

旅は出会いを引き起こす。旅は自分が動いていることでもある。動いていると、それに触発されて別の何かが絡まりながら新たに動き出す。そして、新しいつながりが生まれ、新しい何かが生まれてくる、と期待できる。

これでいいのだ。もう全部分かった。偉い人の言うとおりにすればよい。旅は、そんな言葉を打ち消す。変わらなければならないのは他人ではなく、自分なのだということを自覚できる。

自分たちの大事な世界を守るためには、「高い塀」や「ガードマン」に囲まれたその世界に閉じこもっているだけでは十分ではない。新しい世界を知り、そこと知り合うことで、自分たちを受け入れてくれる世界を広げていく。それが本当に広がって定着したときに、「高い塀」や「ガードマン」は何の意味も持たなくなる。

旅ができることに感謝し、自分の知らない世界を知り、新しい自分を作り続けるために、今日も旅を続けていく。

皆様へのご報告

インドネシアでのスポンサーであるJACビジネスセンターとの契約が9月3日で終了することになりました。これに伴い、「JACシニアアソシエイト」としての活動は9月3日までとなります。

皆様にはこれまで大変お世話になり、誠にありがとうございました。

なお、9月3日にいったんインドネシアを離れますが、9月9日に戻ってくる予定です。今後も、基本的に、スラバヤを中心としたインドネシアでの活動を当面、継続したいと思っています。

とくに、「在スラバヤJETRO中小企業海外展開現地支援プラットフォーム・コーディネーター」として、インドネシアでビジネスを行う日本の中小企業のサポート活動を来年3月まで努めます。

また、独立コンサルタント・ファシリテーター・カタリストとして、インドネシアおよび日本などでの講演、研修講師、コンサルティングなどの活動も、引き続き行なっていく予定です。ご希望の方は、直接、私宛にメール等でご連絡いただければ幸いです。

今回のJACビジネスセンターとの契約終了に伴い、「JACビジネスセンターのインドネシア情報ニュースレター」(無料版・有料版)の配信も本日号で終了とさせていただきました。長らくのご愛読をありがとうございました。

なお、ニュースレターの代わりに、インドネシアの最新情報と私のエッセイを中身とする有料メルマガの創刊を検討中です。詳細は別途、ブログ、フェイスブック、ツイッター、メール等でお知らせする予定ですので、もうしばらくお待ちいただければ幸いです。また、ご希望の方は個別にメール等でお知らせください。

以上、ご報告でした。

アフリカ雑感

今回、タンザニア、ルワンダ、ウガンダを旅してきて思ったのは、まるでインドネシアの15〜20年前のような感じ、ということだった。

どの国も長期政権で、反政府勢力を力で押さえ込んでいる。その合い間に、経済を発展させ、国民を豊かにさせる。国民が成熟するのにつれ、近い将来に、大統領を公正な民主的な選挙で選ぶことをすでに想定しているようだった。

すでに、民主的な大統領選挙を3回実施したインドネシアは、そんな彼らよりもずいぶん先を歩いているようにも見えるが、今でも、ジャカルタの憲法裁判所前の騒ぎのように、嘘や陰謀で情報を操作し、力づくで民主的な結果を変えてしまおうという勢力がまだ存在する。

自分たちの主張が聞き届けられないとなると、直接の利害関係にない外国や特定の種族を敵視して、論点をずらしてまで自分たちの存在を多々鼓舞するような、非生産的なことを今だにやっている人々がいる。万が一、こうした勢力が権力を手にするようなことがあれば、インドネシアは一気に20年前へ戻っていってしまうだろう。民主化とは、普段の努力によって維持されるものであり、いったん間違えると、簡単に逆戻りしてしまう繊細なものでもある。

それは、種族の違いを無理やり強調し、自分たちを守るために相手を攻撃し、簡単に民主化への芽を摘み取ってきたこれら東アフリカ3国を見ているとよく分かる。その意味で、インドネシアは今のゴタゴタにきっちりケリをつけ、アフリカの国々に民主主義の定着を身をもって教えられる立場を確立しなければならない。

それはそうと、アフリカの旅でもう一つ印象的だったのは、アフリカの人々は意外にきちんとしている、ということだった。真面目といってもよい。ホテルの設備などで、基本的なアメニティや設備がしっかりしている。給仕の振る舞いもそつがなく、無駄にブラブラしているようなところがない。インドネシアでは、目に見えないからといって手を抜くことが頻繁にあるが、そういう素振りをあまり見かけなかった。

インドネシアからアフリカへ出かけて、そろそろ日本=インドネシア、日本=アフリカという形ではなく、インドネシア=アフリカという関係を促していける時代が来ているのではないかという予感がした。それは、ともすると日本に見られがちな上から目線ではなく、インドネシアとアフリカとが対等な立場で新しい何かを作り始めていく、という関係を構築できるのではないかと感じた。

実際、東アフリカ経済におけるインド系、パキスタン系、アラブ系商人の活躍は目を見張った。ルワンダのキガリで見た「エキスポ」には、パキスタン・コーナーやエジプト・コーナーが広く取ってあり、盛んに商売をしていた。中古車輸入・販売を手がけているのは、多くがパキスタン系で、おそらく彼らが日本からの中古車輸出をも手がけているのだろう。我々の知らないところで、彼らはすでに東アフリカ経済にとって不可欠な存在となっている。

第1回アジア・アフリカ会議は1955年、インドネシアのバンドンで開かれた。しかしそれ以降、インドネシアはアフリカからずっと遠い存在になってしまったような気がする。

インドネシアでアフリカの話になれば、ナイジェリア人が麻薬や覚醒剤を持ち込むといった話になるし、タクシーの運転手は、体臭がきついといってアフリカ人の乗客を毛嫌いする。あまりいいイメージで語られることはない。しかし、実際にインドネシアの人々がアフリカに行って人々と交われば、こうしたイメージは変わってくるだろう。

相手を知るということから相互理解と尊敬が生まれる。そして自分自身を深く知ることも重要である。忙しい、時間がないと言いながら、物事をインスタントに考えてしまう、知識が単なるレッテル貼りになってしまう、空気が支配しているとうそぶく世の中を、もう一度当たり前の普通の世の中へ戻していきたい。

あなたが私のことを知り、
あなたが本当にあなた自身のことを知っていたならば、
あなたは私を殺すことなどなかったはずなのに。
If you knew me
and you really knew yourself,
you would not have killed me.

キガリのジェノサイド記念館の壁に貼られたこの言葉を見ながら、人が人をもっとよりよく知り合える機会づくりをしたい、人と人をもっとつなげる人になりたい、そのために、自分自身を常に開いていきたい。そう、真に思った。

ウガンダでの1週間(3)サファリとナイル

ウガンダではしっかり観光もした。北部のグルからカンパラへ戻る前に、途中のマーチソン滝国立公園でボート・サファリとゲーム・ドライブをした。

サファリには「人間は野生動物よりも上だ」という臭いがして、偏見というかあまりいい印象を持っていなかったのだが、実際に行ってみると、これがなかなかの面白さだった。

宿泊した「ブアナ・テンボ・ロッジ」は国立公園の外だが、ここまで野生のゾウがやってくることがあるのだという。部屋には「ゾウがやってくることがありますが、そのときには部屋にこもって静かに彼らが居なくなるのを待ちましょう」という注意書きが置かれていた。ちなみにテンボとはスワヒリ語でゾウのことらしい。

ロッジは丘の上にあり、ナイル川を見下ろす眺望が美しい。

実際、ロッジから国立公園の入口へ向かう間に、いきなりゾウに出くわした。

8月5日は、船に乗ってナイル川をマーチソン滝まで上るボート・サファリに参加した。川岸に集まるバッファローなどの動物や水中にいるカバなどの動物、ホワイト・イーグルを始めとする様々な鳥を見ることができた。

一番奥のマーチソン滝の近くまで来て、折り返すコースである。

8月6日は、朝6時にロッジを出発して、ゲーム・ドライブ。陸上でのサファリである。まずは、サバンナに昇り始めた朝日を拝む。

ゾウの集団が木をなぎ倒したため、道が通れなくなっていた。やむをえず、草原の中を迂回する。

ウガンダの国獣であるウガンダ・コープという鹿の仲間やジャクソンなどが草原に無数にいる。

とても運よく、ライオンにも出会えた。すれ違うサファリの車が皆、「ライオンがどこにいたか」と私の運転手に尋ねてくる。雌ライオンは至近距離で見えたが、雄ライオンは離れた茂みのなかでじっとしていた。

キリンにも遭遇。

でも、圧巻は、前日に船で近くまで行ったマーチソン滝だった。6日は滝の上から見たのだが、その水量の迫力には度肝を抜かれた。

そして翌7日には、ジンジャへ行き、ビクトリア湖とナイル川源流の境目に立ってきた。

ナイル川源流には標識が立っているが、そこへ行くには、お土産物屋さんに寄らなければならないのだった。

ナイル川源流へボートで向かう際、30分で100米ドルとふっかけられた。ナイル川源流は目と鼻の先。1時間で15万シリング(約60米ドル)ぐらいが相場と聞いていたので、30分で10万シリング(約40米ドル)と値切った結果、30分11万シリングで行ってくれた。

しかし、船頭がとてもサービス熱心な人で、船の上で「あと4万シリング出してくれたら、養魚場などを2時間でまわってあげる」と言われたが、丁重に断り、結局、1時間半乗って、当初の11万シリング及び船頭へのチップとして2万シリングを払って終わらせた。

あとで聞いたら、10人ぐらいの団体でいくと、一人1万シリングぐらいで1時間なのだそうだ。

古い建物の残るジンジャの街も堪能できた。

ウガンダでの1週間(2)シアーナッツ・オイル

8月4日、KNさんが活動する北部のグルから車で約1時間半の村へ行き、シアーナッツ・オイルを作る農家Bさん宅を訪問した。

これがシアーナッツとそれが実る木である。

シアーナッツ・オイルづくりは、手間隙かかる作業である。まず、シアーナッツを集めて火にかけ、灰をかけて熱した後、それを土の上に落として冷ます。

冷ましたシアーナッツを網に入れ、篩(ふるい)のようにして灰や砂などを取り除く。

これらの作業のほとんどは、Bさんの奥さんが執り行う。Bさんは、ソルガムの「ビール」を飲みながらその様子を見守る。私も午前中からそれに付き合わされて飲んだ。

ようやくBさんの出番。シアーナッツを臼に入れ、棒で上下に叩きながら潰す。

潰してドロドロになったシアーナッツを容器に移し、それを石の上に出して殻などを丁寧に濾す。

濾したドロドロのシアーナッツ液を鍋に入れ、再び火にかける。そして、煮詰まって、油になってくる。

最後に、これを濾して、ペットボトルに詰めて完成である。

Bさん宅では、豪勢な昼食も振る舞われた。ご飯とスパゲッティ(ここではマカロニと呼んでいた)と一緒に食べる。そして、これらの料理に、シアーナッツ・オイルがたっぷりとかけられた。こってり感を満喫する。

昼食の後、シアーナッツ・オイルを1瓶5,000シリング(約200円)で買った。それをインドネシアまで持って帰ってきたが、何にどう使えばよいのか。誰か使用法をご存知の方がいれば、教えてほしい。

最後に、Bさんの家とその周辺を写真に撮ってくれと言われた。ルワンダでもそうだったが、1軒の家の中がいくつもの部屋に分かれているのではなく、夫婦の家、子供の家、などと小さな円形の家の形で分かれていた。周辺には、キャッサバ、バナナなどが植えられていた。

土の上には、小さなソーラーパネルが置かれていた。電気のないこの村で、携帯電話の充電に使っているのだった。

Bさんは、医師も看護師もいないこの村に病院を作りたいと話してくれた。「土地はいっぱいある。日本から誰か来て病院を作ってくれないか」という。

病院はないけれど、こんな小さな村にも酒の飲めるバーがある。酒を飲まない人が多数のインドネシアの村の風景からすると、ちょっと違和感があった。

ウガンダでの1週間(1)

ウガンダには8月2〜9日の8日間滞在した。今回は、ウガンダ在住の友人KNさんとそのご家族に何から何までお世話になった。

まず、入国の際に、50米ドルを支払って到着時査証をとる。このときに、係官から「どうしてケニア、ウガンダ、ルワンダ3ヵ国共通ビザを取らなかったんだ?普通はそれを取ってくるもんだ」というので、「ケニアに寄らないし・・・」とか色々説明していたら、「ちょっと訊いてくる!」といって退席し、5分後にOKといって到着時査証をパスポートに貼り付けてくれた。

KNさんの運転手がエンテベ空港に迎えに来てくれ、カンパラのホテルまで送ってくれた。エンテベからカンパラまでは一本道で、ときには渋滞で2〜3時間もかかると聞いていたが、途中で渋滞したものの、運良く1時間ちょっとでホテルに到着した。

カンパラの宿はシャングリラ・ホテル。旧名は上海ホテルという。レセプションは階段を上がった外にある机一つ。「クレジットカードの読み取り機がちゃんと動くかなあ?」などという状態で、絶対に「なんちゃってシャングリラ」と信じていた。実は、本当にシャングリラ系列だと別の知人に教えてもらった。

このホテル、見た目以上に基本がしっかりできていて、シャワーの温度調節に難があるほかは、インターネット接続をはじめ、部屋の設備やアメニティにも手抜きがなく、ランドリーはタダという、なかなか居心地の良いホテルだった。

かつての職場の先輩アフリカ研究者の定宿だったそうであり、日本人客の利用も多いようで、たくさんの日本語の書籍が置いてあった。

朝食はお庭で。小さい傾斜のある庭だが、これがなかなか素敵な空間である。

ウガンダに来て感じたのは、人々の表情が豊かで、融通がきくゆるさだった。タンザニアやルワンダよりもずっと英語が通じるせいか、ホテルの従業員に冗談を言ったり微笑んだりすると、ちゃんと反応してくれる。ちょっと、インドネシアに似た感じだった。

融通がきくといえば、カンパラから車で4時間のグルという都市へ行ったときのこと。その日は8月3日(日)で、夕方6時頃、無線Wifiルーター用のSIMを探していた。ようやく見つけた店には鍵がかかっており、閉店の様子。でも、まだ中に職員がいる。

ダメもとでノックすると、何と職員がやってきて鍵を外し、「中に入れ」という。こうして、めでたくSIMをゲットできた。ある人は「きっとその日の唯一の売り上げだったかもよ」と言っていた。

ウガンダでは、幹線道路のいくつかのポイントに交通警察が張っていて、車を止めてはチェックする。とくに、シートベルト着用は厳しく見られる。筆者はそれに気づかず、シートベルトをしないで後部座席に座っていたのだが、交通警察が鬼の子を取ったようにニコニコしながら「はい、罰金でーす」と近寄ってきた。

「ウガンダに昨日来たばかりなんですー」と言い訳しても、「イイですかあ?この表にシートベルト未着用は2万シリング(約800円)と書いてありますねえ。払ってくださいねえ」と言い寄る。払ってあげたら、とても嬉しそうだった。ウガンダは汚職がひどいらしく、なかでも警察はその筆頭。インドネシアもそうだったなと思いだした。

タンザニアやルワンダと同様、ウガンダで道路を走る車はほぼ9割以上が日本車、しかも中古車である。トヨタが圧倒的に多い。ルワンダは左ハンドルだが、それでも日本車が多かった。日本を始めとして、世界中から日本車の中古車がここに集まってくる。10年程度のものは、ここでは新車扱いなのだという。

それらの中古車には、かつて使われていた会社や組織の名前がついたまま走っているものが少なくない。加えて、いったん消したものの、新たに怪しげな漢字を施した中古車もみかける。何と書いてあるのか、解読不能だが、おそらく、漢字らしきものがあると、高く売れるのかもしれない。

中古車がほぼすべてのこの国では、おそらく今後、自動車を作るということは起こらないだろう。これらの国が中古車を輸入してくれるから、日本などでは安心して車の買い替えが行えるのだと思った。そして今後は、タイやインドネシアなどからの中古車輸入へシフトしていくのではないか。

これらの国で日本からの中古車が使われた後、どうなるのかというと、ボディは鉄板として使われ、その他部品は売買される。ここが中古車の最終目的地のようである。

ジェノサイド記念館を訪問

ルワンダへ来た主目的は、福島から移住した叔母に再会することだったが、それにも負けるとも劣らぬ目的は、ジェノサイド記念館を訪問することだった。

今年は、100万人近くが犠牲となったルワンダ虐殺から20年目である。7月31日、キガリのジェノサイド記念館を訪問した。

ジェノサイド記念館は、キガリ市の南部の丘の上にある。1階の展示場では、独立前のルワンダ社会の様子から説き起こし、植民地時代とキリスト教への改宗、独立前後の混乱、独立後、ジェノサイド、ジェノサイド後のルワンダ、といったクロノロジカルな展示のほか、犠牲者の写真が何枚も吊り下げられた部屋、遺品の部屋、白骨の部屋がある。

2階の展示場には、世界各地で起こったジェノサイドが取り上げられている。トルコでのアルメニア人虐殺、アンゴラでのヘレロス族虐殺、ドイツでのホロコースト、カンボジアでのポルポトによる虐殺、バルカン半島でのボスニア人・コソボ人の虐殺である。その隣には、ルワンダ虐殺で殺された子供たちの写真と夢などの書かれた掲示が続く。

展示によると、ルワンダはもともとイキニャルワンダという一つの言語をもった集団だった。インドネシアの経験でもそうだが、言語は統一国家を形成する要となるものである。多言語が普通のアフリカにあって、ルワンダは国家形成において稀有なプラス条件を持っていたと言えるかもしれない。

ドイツの後に支配したベルギーは1932年、住民登録証にフトゥ(Hutu)、トゥツィ(Tutsi)、トゥワ(Twa)の3つの種族別の記載を開始した。住民を分断し、同一言語で統一国家建設へ向かわせないための人為的な分別だったかもしれない。なぜなら、牛の保有頭数が10頭以上ならばトゥツィ、10頭以下ならばフトゥと見なしたというからである。

少数の富者(トゥツィ)が多数の貧者(フトゥ)を支配するという単純な構図。貧富格差に種族を絡め、種族間の対立を煽るというやり方である。同じ言語を使う者たちが無理矢理に引き裂かれ、対立し、殺し合うという状況を生み出してしまった。

独立前後で、多数のフトゥが少数のトゥツィを虐殺し「民族浄化」を実行してしまった。1959〜1973年に殺されたトゥツィの数は約70万人に上るとされる。そこから国外へ逃れたトゥツィは、後にルワンダ英雄戦線(RPF)を結成し、1990年10月にルワンダ領内へ侵攻した。

ルワンダ国内では、民族融和を掲げたクーデターが起こるが、そこでできた政権もまた、フトゥ青年防衛隊を組織し、それを利用して独裁政治を進めるが、青年防衛隊はフトゥ至上主義を掲げて暴走を始める。RPFのルワンダ侵攻もその傾向に輪をかけた。1990年12月には、「フトゥが守るべき10箇条」が公布され、トゥツィとの間でビジネス・友人・親族関係を持つ者は裏切り者とされた。

1994年3月のジェノサイド前に引き起こされたトゥツィ虐殺事件は、1990年10月、1991年1月、1991年2月、1992年3月、1992年8月、1993年1月、1993年3月、1994年2月にあった。

ジェノサイド記念館での説明は、基本的に、現政権を支配するトゥツィの立場から描かれたもので、フトゥを擁護する記述は見当たらない。おそらく、フトゥ側からは、全く異なる説明がなされるのだろう。実際、ルワンダ国外へ逃れたフトゥには、いまだに綿々と反トゥツィの意識が引き継がれ、事あれば反撃したいと思っている者も少なくないと聞く。今のルワンダのカガメ政権が強権的といわれる所以である。

ともかく、たとえトゥツィの側に立った説明であったとしても、ジェノサイド記念館の展示は見ておくべきものであろう。互いに殺戮し合ったということもさることながら、生き延びた人々の苦悩、とくに、加害者による暴力によって女性(50万人以上がレイプ被害、HIV/AIDSに侵され亡くなった人も数多い)や子どもの受けた精神的・肉体的な傷の影響は、20年で癒せるものではない。そして、ジェノサイド記念館の最後には、それを乗り越えていこうとする人々の姿が展示されていた。

ジェノサイド記念館の内部は撮影禁止なので、写真はない。

ジェノサイド記念館の外には、集団墓地があり、花が手向けられていた。

その先には、野外ホールが建設中だった。このジェノサイド記念館をアフリカから平和を発信するセンターとして拡張する計画があるようだ。

翌8月1日、キガリから車で4時間、ムランビというところにあるジェノサイド記念館を訪問した。丘の上の旧中学校の建物がその場所だった。

館内の展示物はキガリのジェノサイド記念館とほぼ同じだが、ここはまさに虐殺の場所そのものだった。

20年前、丘の上に建設中の中学校なら安全だと思って多数の人がここへ逃げてきた。しかし、行き当たりのこの場所は逆に最も危険な場所だった。虐殺者たちは人々を追いかけ、建物に辿り着く前に殺されたり、レイプされたりする者が多数だったという。

そして、この場所のもう一つの特徴は、この場所にいたフランス軍の存在である。虐殺が行われている間、フランス軍はその状態をただ黙視した、止めなかったというのである。

虐殺者たちは生き残った婦女子を国際機関事務所へ連行し、「誰も殺されていない」と証言させたという。そして、4ヵ所ある遺体の集団埋葬場所をブルドーザーで埋め、証拠隠滅を図った。フランス軍の兵士たちは、その上でバレーボールに興じていたとさえ言われている。

下の写真は、ブルドーザーで埋められた集団埋葬場所を掘り返したものである。

キガリのジェノサイド記念館の展示によると、ジェノサイドが起こる前、1993年8月の和平協定に反発したルワンダ政府が、フランスとの間で1200万ドルの軍需取引契約を締結した、という。現在のルワンダがなぜフランスに対して厳しい姿勢を示しているのかが理解できた。

ムランビのジェノサイド記念館の裏に並ぶ建物(下写真)には、集団埋葬場所から掘り出された多数の白骨遺体が展示されている。子どもを抱いた母親の遺体、乳幼児の遺体もある。これでもかこれでもかというほどの数である。ここがジェノサイドの現場そのものだったという現実が自分に突き刺さってくる。

案内役の青年によると、フランスからも観光客が来るというが、彼らに話をしてもなかなか信じてもらえないそうだ。彼らは、フランス軍が人命救助に奔走したはずと信じているからだ。

正直いって真相は分からない。歴史とは、常に勝者の歴史だからだ。もし今、ルアンダがフトゥ中心の政権だったら、全く異なる歴史が語られ、トゥツィ排斥の正当性が強調されていたことだろう。

2つのジェノサイド記念館を訪問した後、バスに乗ったり、町中を歩いたりしながら、ぞっとした。バスの隣の席の人が、あるいは町ですれ違った人が、ジェノサイドの加害者であったり被害者であったりするのか、と思ったからである。

ルワンダにはもう種族を区別する項目がIDカードから消えたという。新しいルワンダを創ろうという方向性を示すものであろう。

しかし、都市部を一歩離れれば、20年前に誰がどんなことをしたのかを皆がはっきりと覚えている。トラウマと憎しみの感情は簡単に消えることはない。昨日まで信頼していた親族や隣人が突然殺人者へ変貌した事実を決して忘れることはできないはずだ。

そんな、薄い薄い皮に覆われたルワンダ社会の危うさを感じないわけにはいかない。これを克服する方法はただ一つ、経済活動やビジネスなどによって人々を前へ向かせ、ルワンダ社会にかかる皮を着実に厚くしていくことしかない。

そしてまた、このジェノサイドがルワンダに特殊のものではない、状況によっては、インドネシアでも日本でも起こりうる可能性があることを強く感じた。もちろん、そうならないための努力を日頃からしていかなければならないことは、言うまでもない。

ルワンダの首都キガリに到着

7月29日夜、ダルエスサラーム発のルアンダ航空直行便で、ルワンダの首都キガリに到着した。

キガリの空港は改修中だが、持参のiPhoneが4G-LTEの無線LANインターネットをいきなりつかんだ。タンザニアでは考えられなかったぐらい速い。インターネット環境はタンザニアより上か、と思ったが、ゲストハウスの無線LANは相当に遅かった。

今回のルワンダ訪問、いや、東アフリカ3ヵ国訪問のメインの目的は、ルワンダへ移住した叔母に再会することだった。叔母は今、キガリのウムチョムウィーザ学園という名の学校で子どもたちに音楽を教えている。この学校は、日本からの支援で建てられた私立の幼稚園・小学校で、福島市に本部のあるルワンダの教育を考える会が日本側の窓口となっている。

30日、さっそく叔母の働くウムチョムウィーザ学園を訪問した。学校の建物には、青年海外協力隊の方々が子どもたちと一緒に描いた、思わず楽しくなるような壁画が描かれていた。ルワンダの学校でこんな壁画のある学校はほかにないそうだ。

先生方は本当に子ども好きの様子で、いい方々だった。子どもが本来もっている創造性や自主性を育もうという姿勢がうかがえ、学力向上より前にまず人間性を重視していた。

ところで、いくつもの丘の上に作られたキガリの町には、平坦な場所がない。尾根道を幹線道路が環状に走り、人々の生活空間はその環状線から下へ降りていったところに広がっている。環状線はきちんと舗装された片側2車線の道路で、そこから降りていく道には石畳の道があり、さらに行くと、舗装されていない、乾季には土埃が舞うであろうデコボコ道がけっこうな急勾配で続く。

今回宿泊しているゲストハウスは、叔母の家の近くなのだが、環状線から石畳の道を降り、さらに未舗装のデコボコ道の果てにある。環状線からは約1.7キロの道のりで、ゲストハウスから環状線まで歩いて坂を登っていくのはけっこうしんどい。

先に述べたウムチョムウィーザ学園もまた、環状線から続く幹線道路から約1キロほど下ったところにある。

公共交通機関の乗合バスは、環状線およびそれに続く幹線道路を通るので、バスを下車した後、ゲストハウスやウムチョムウィーザ学園へ行くには、徒歩またはバイクタクシーを利用することになる。

叔母は毎日、自宅から環状線まで歩き、バスに乗って、下車した後、徒歩でウムチョムウィーザ学園へ通勤している。往復で毎日5キロ以上歩く計算になる。毎朝ストレッチしているというが、76歳という年齢でそれを悠々とこなしているのには恐れ入る。インドネシア人的な感覚からすると、都市でそれだけ歩くというのは普通はないだろう(交通機関のないインドネシアの田舎の人々は実はけっこう歩いているのだが)。

叔母と一緒に乗合バスにも乗った。車掌に行先を告げても、適当な返事をされることもあるので、何度も聞いてしまう。バスは日本のマイクロバスで、補助席も使うので通路はなく、着席式である。停留所のみで乗り降りする。料金は200フラン(約14円)、定員を満たすと発車する。

キガリの中心街であるムムジでバスを降り、道路を渡ろうとしたとき、たとえ横断歩道でないところを渡っても、ほとんどの車が停まってくれるのにはびっくりした。自動車の台数がまだ少ないというのも理由としてはあるだろうが、ジャカルタやスラバヤでは、車が停まることはまずない。運転も穏やかで、交通マナーはキガリのほうが良さそうに見える。

一般に、ルワンダの人々は生真面目できちんとしている、出しゃばらない、おとなしい、という評判である。タンザニアに滞在した際にも、「ルワンダ人はタンザニア人とはずいぶん違うよ」という話を聞いていた。その一方で、他に同調する傾向が強く、指示待ち的な人が多いとも聞いた。

愛すべき真面目なルワンダの人々。叔母はそんな彼らが大好きな様子である。しかし、そんな人々が、いやそんな人々だからこそなのか、ジェノサイドという、残虐な忌まわしい過去を作り出してしまったルワンダの人々の心の中を、どうしても思わずにはいられないのである。

ラマダン最終日のザンジバル(3)

ザンジバルの世界遺産であるストーン・タウンの街歩きの後は、車で30分ほどの距離にある観光スパイス農園へ行った。

ザンジバルに富を築かせたのは、奴隷貿易、象牙取引と並んでスパイス貿易であった。なかでも、丁字は、もともとオランダ領東インド(現在のインドネシア)から移植され、世界有数の品質の丁字を産するに至った。実際、インドネシアは、ザンジバルから丁字タバコ(クレテック)用の丁字を輸入していた(今も輸入しているかもしれないが)。

観光スパイス農園につくと、若い兄ちゃんが農園の中を案内してくれる。農園自体は観光用に様々な香辛料の木を植えているのみで、商業用としては大したことはない。案内役の彼は農園とは何の関係もなく、観光客を案内するために農園を使わせてもらう観光ガイドである。

農園内を歩きながら、香辛料の木の実を詰んで、匂いをかがせたり、かじらせたりする。予想通り、彼が案内する香辛料はすべてインドネシアではおなじみのものばかり。いつもと勝手が違って、驚いたり感心したりしない客だったせいか、案内役の兄ちゃんはちょっとがっかりしている様子だった。

まだ若い実の丁字をかじってみた。これはただの印象だが、インドネシアのものよりも味が濃いような気がした。ほかにも、シナモン、ショウガ、レモングラスなどをかじったが、いずれも、ザンジバルのほうが味が濃いと思った。これは土壌の違いによるものなのか。
スパイスとは関係のない話だが、付いて来たもう一人の若者が椰子の木に登り始めた。見ると、両足を縄で縛っている。これでスルスルと椰子の木に登り、小ぶりのヤシの実をひとつ取って降りてきて、割って飲ませてくれた。これも味が濃かった。

椰子ジュースを飲んでいる間に、葉っぱで帽子とネクタイを作ってくれた。最後に、スパイス販売コーナーに連れて行かれて、スパイス農園ツアーは終了である。

日頃、本物の香辛料の木を見る機会のない人々にとっては、興味深いツアーになるかもしれないが、今回は私のような客に当ってしまい、彼らにはちょっとかわいそうだった。

ザンジバルからダルエスサラームへの戻りは、セスナ機の最終便。

乗客が多く、増便が出たが、なぜか増便のほうが早く飛んでいってしまい、元々の便を予約していた私を含む乗客はしばらく取り残された。

結局、1時間近く遅れてダルエスサラームに到着。我々が先に飛べたら、セスナ機から夕日が楽しめたのに、とちょっと残念なザンジバル日帰りツアーの締めくくりだった。

ラマダン最終日のザンジバル(2)

ザンジバルといえば、ストーン・タウンの街歩きである。ここの建物は石灰岩やサンゴ石を使い、セメントやコンクリートを一切使っていない。ストーン・タウンの由来である。

細い小路がくねくねと曲がり、ガイドのムゼーさんがいなかったら本当に迷ってしまうことだったろう。その細い小路にバルコニーがせり出していたり、店のしゃれた看板が目立ちすぎずに掲げられていたり、何とも言えない興味深い空間を作り出している。

世界遺産に指定され、町並み保存活動も活発に行われている様子だが、近年、古い家を売って、それを改修してホテルやレストランにするケースが多くなったそうである。たしかに、古い町並みにマッチしたいわゆるブティック・ホテルが迷路のあちこちに建っている。オシャレな小ホテルがいろいろあって楽しい。

海沿いのテンボ・ホテルへ行った。テンボとは象の意味。ザンジバルには象はいないが、かつて象牙取引の一大拠点だった。このホテルは昔、象牙取引会社で、下の写真の向かって左側がその建物である。その後、右側を増築して、ホテルとして生まれ変わった。

テンボ・ホテルの天井には、白壁にマングローブが渡されている。

建物以外に目立つのは、装飾を施された家の玄関ドアである。かなり古いものも改修してまだ使われている。先の尖った突起がたくさん付けられているのも特徴である。

「マーキュリーの家」というのもあった。何かの商館かと思って行ってみると、有名なロックグループ「クイーン」のリードボーカルであるフレディ・マーキュリーの生家だった。彼はザンジバルの出身なのだ。

ストーン・タウンのなかには、日本ゆかりの場所もある。いわゆる「からゆきさん」はザンジバルまで来ていたが、彼女らが居たバーとされる建物が残っている。今は、いくつかの普通の商店が営まれている。

ストーン・タウンのなかでも、市場に近いところでは、レバラン前の最後の買い物をする人々がたくさん集まっていた。

布地を売っている商人がいた。ザンジバルにはキコイという地場のシンプルな布があるが、ここでのオリジナルは白地に線の入ったものだという。

ここで、ザンジバルのバティックを見つけた。デザインは単純で素朴であり、デザイン自体に深い意味はないそうだが、色合いがインドネシアのものとは異なっていて興味深い。

ストーン・タウンの街歩きの最後は、海岸沿いの建物へ。楽しみにしていた旧アラブ要塞(Old Arab Fort)と驚嘆の家(House of Wonder)は改修工事中で、中へ入ることができなかった。

これら二つの建物と海との間には、きれいに整備されたフォロダニ公園がある。

スルタン・ハウスは、スルタンの個人的なコレクションを集めたミニ博物館になっているが、ここの2階から海を眺めていると、風が心地よく、時間が経つのを忘れてしまいそうになる。

ラマダン最終日のザンジバル(1)

7月27日午後、タンザニアのダルエスサラームに無事到着。翌28日は、朝7時に港から高速船に乗って、ザンジバルへ向かった。日帰りツアーである。

インドネシアは7月28日に断食明け大祭を祝ったが、タンザニアは予定よりも1日遅れの7月29日となった。断食明けのザンジバルからインドネシアのムスリムの友人たちに「おめでとう」のメッセージを送ろうと思っていたのだが、ちょっと残念。

行きの高速艇は、エージェントの配慮でVIP席となったが、中はインド系の若者たちの団体でほぼ「占拠」されていた。若干の波はあったが、大揺れすることもなく、1時間半ほどでザンジバル港に到着した。

到着すると「入境審査」がある。ザンジバルはかつて、タンザニアと統合するまで、わずかな期間だが独立国だった。タンザニアと統合後も、連邦制のなかで独自性を貫き、入境審査を継続しており、しっかり入境スタンプをパスポートに押された。たしか、マレーシアもサバやサラワクへ行くときにも、入境審査があったが、旧イギリス植民地で連邦制の国はみんなそうなのだろうか。

入境審査口では、中国人と思われる3人が順番を無視して窓口に詰め寄り、中国語でギャアギャアまくしたてている。入境係員は英語で説明するのだが、彼らは全然意味がわからない様子で、相変わらずまくしたてている。それを尻目に、別の係員にパスポートと入境申請書を提出。「仕事で来たんじゃないだろうな?」と何回かしつこく尋ねられた後、無事に入境。運転手兼任ガイドのムゼーさんと合流。

ムゼーさんの案内で、まずは市場から。風格のある建物の中の市場は、魚の競り市場があり、その向こう側に魚の小売の市場があり、と分かれていた。その後は、野菜・果物の市場。インドネシアでもお馴染みのものが多いが、いくつか見かけないものもあった。

市場をひと通り見た後は、奴隷市場跡とそこに建てられた聖堂を見に行く。ザンジバルはかつて、奴隷貿易で栄えたところでもある。アフリカ大陸から奴隷商人の手によって奴隷たちがザンジバルに集められ、収監されたのが奴隷市場である。地下の狭い空間に何十人もの奴隷たちが男部屋、女子供部屋に分けられて収監され、数日間拘置された後、生き残った者がオマーンなどのアラブ商人のもとへ売られていく。

こうした奴隷たちを解放したのがイギリスから来た宣教師で、彼は、奴隷市場の跡地に聖堂を建てた。奴隷たちは皆、自分たちを助けてくれたキリスト教の洗礼を受けた。

奴隷の子孫だと名乗るガイドがついて来てそんなふうに説明してくれる。まあ、実際はおそらくそんな単純なものではないにせよ、こんなけっこう扇動的な説明をしてしまうのだなと思った。

同時に、ムスリム人口9割のザンジバルでは、たとえ憂さ晴らしのような小競り合いはあったとしても、宗教を理由とした暴動や騒動は現実には起こりにくいのではないかと思った。しかし、それは、奴隷たちの子孫による憎しみが消えることを必ずしも意味しないだろう。

迷路のようなストーンタウンの街歩きはとても面白かった。インターネット接続の状況がよくないので、今回はここまでとし、後は次回へ。

赤い◯◯と緑の☓☓をお供に旅に出る

つい数日前まで、この国は大統領選挙の開票結果発表でけっこうな騒ぎだったはずだが、なにか遠い昔の話のような気がしてくる。

7月25日、金曜日はまだ平日なのに、周囲はすでにお休みモード。来週のレバランを前に、故郷へ帰省する人々で道路は大渋滞、鉄道は大混雑、という報道が続く。

スラバヤはやはり地方都市なのだろう。帰省といっても、スラバヤの周辺に住んでいる人が多く、ジャカルタのように遠くから働きに来ている人々は意外に少ない様子だ。スラバヤへ帰ってくる人のほうがスラバヤから帰る人よりも多いのではないかと思える。

そんなこんなだが、筆者もようやく仕事気分を抜けだして、7月26日〜8月10日の約2週間、旅に出ることにした。

いつもならば日本へ帰るのだが、7月5〜19日に帰国したばかりだし、9月3日に就労ビザが切れるので、8月後半はインドネシアに居なければならないし、出かけるなら今このレバランの時しかない、と決意して、だいぶ前から準備してきた。

旅先は、東アフリカ。タンザニア、ルワンダ、ウガンダの3ヵ国を旅行する。すべて初めての国。アジア、インドネシアにどっぷり浸かった自分を、もう一度、リフレッシュするための旅でもある。

お供に連れて行くのは、2つの携帯端末。赤いガラケーと緑のアイフォンである。

赤いガラケーはノキア208。3.5GのGSM/WCDMA仕様で、日本を含む世界中で使えるデュアルSIM携帯。あえてガラケーにしたのは、通話専用で使うためだ。電池の持ちもずっとよい。

ノキア208にインドネシアで使っている携帯SIMを入れて、通話とSMSのみに使う。いずれ、日本の携帯もSIMを外して、ノキア208へ入れて使う予定。1台でインドネシアと日本のSIMを使う。デュアルSIMは3Gと2Gの組み合わせだが、通話とSMSならとくに問題はないはずである。

ノキア208のSIMはマイクロSIM、日本語は使えないので、SMSはアルファベットのみ。でも、日本語でSMSを多用する人は多くないだろう。

緑のアイフォンは、SIMフリーの5S(ゴールド)に緑色のLIFEPROOFを着せたもの。防水・防塵用のカバーである。インターネット接続、SMS以外のメッセージ(Whatsup、LINE、BBMなど)はこちらで対応する。日本語でのメッセージのやり取りはこれを使う。

緑のアイフォンはデータ専用で、行った先でSIMを入れ替えて使用する。インドネシアではXLを使っているが、通話用ではないので、電話番号は非公表。それでも時々怪しい電話がかかってくるので、それはすべて着信拒否にしている。日本ではNTTコムの格安SIMを入れて使用、7月に帰国した際は、LTEも拾ってくれてとても快適だった。

この結果、長年の友だったブラックベリーとはお別れした。BBMは緑のアイフォンで対応するし、通話用の携帯をデュアルSIMにして1台にするほうを選択した。

というわけで、連載締切原稿もお休みにさせていただいて、久々に全く仕事を持たずに旅に出る(仕事のメールは追いかけてくるのだろうけれど)。

東アフリカのインターネット事情はよくわからないが、来週のイドゥル・フィトゥリには、向こうからインドネシアなどのムスリムの友人たちに「おめでとう」を言えることを願っている。もちろん、ブログ、フェイスブック、ツイッターの更新も。

東アフリカを旅するにあたってのアドバイス、耳寄り情報など、いろいろ教えてほしい。

では、行ってきま〜す!

大統領選挙の真の勝者はKawal Pemilu

今回の大統領選挙の勝者はジョコウィ=カラ組だが、真の勝者は、Kawal Pemilu(総選挙を守る、の意)という民間組織に集ったボランティアたちだったと思う。

今回の開票プロセスは、公開性が徹底された。なんと投票所レベルでの開票集計結果表がすべて総選挙委員会のウェブサイトに掲載されたのである。

集計結果表は、投票所レベル(C1)、郡レベル(DA1)、県・市レベル(DB1)、州レベル(DC1)とあり、すべてその結果を見ることができる。とくに、投票所レベル(C1)については、集計結果表がスキャンされて画像データで掲載されている。

投票所レベル(C1)
郡レベル(DA1)
県・市レベル(DB1)
州レベル(DC1)

そして、インドネシア全国あるいは世界中の名も無きボランティアたち約700人が、投票所レベル(C1)のデータをスキャン画像から読み取り、手分けしてそれを入力し、投票所レベルから村レベル、郡レベル、県・市レベル、州レベル、全国レベルに至るまで、ひと目で開票結果が整合的になっているかどうか分かるようにした。

これは総選挙委員会の公式開票プロセスではないが、万が一、公式開票プロセスのなかでデータの捏造が行われたとしても、それがすぐに分かってしまう状態になったのである。

日本では、各投票所のデータがウェブで検討するなどということは行われない。なぜなら、開票プロセスでデータの捏造が行われない信頼が確立しているからである。

しかし、インドネシアでは、その信頼が確立されていないだけでなく、今回のような、ブラックキャンペーンやネガティブキャンペーンを通じたなりふり構わぬ汚い選挙で僅差の場合、公式開票プロセスのなかでデータの捏造が行われ、捏造データが公式データとなってしまう可能性が極めて高かった。今から振り返っても、その危険を感じてぞっとする。

実際、ボランティアたちのKawal Pemiluのサーバーはハッカーたちの激しいサイバー攻撃にさらされた。その攻撃に伴うデータ改ざんの可能性をはねのけて、何とかゴールまで辿り着いたというわけである。

Kawal Pemiluの集計結果はウェブ上に掲載されているので、それと総選挙委員会の公式集計結果とを比べてみてほしい。どちらも投票所レベルのデータから始まっているので当然といえば当然なのだが、数字はほとんど同じといってよい。

Kawal Pemiluの集計結果
総選挙委員会の公式集計結果

プラボウォ=ハッタ組は、これらのデータが総選挙委員会による組織的な捏造だと批判している。しかし、こんな公開性の高い開票プロセスを採っている国は、インドネシア以外に世界中でどれほどあるだろうか。

結果的に、総選挙委員会の活動は公開性のある正当性のあるものである、と見なされた形になる。しかし、Kawal Pemiluのボランティアたちの作業があったからこそ、データのすり替えや捏造を防げたのではないだろうか。

誹謗・中傷の渦巻く汚い選挙運動が行われた今回、総選挙委員会とKawal Pemiluの仕事は賞賛に値する。加えて、選挙の準備段階から投票、投票箱の搬送に至るまで、公正な選挙を行うためという一心で一生懸命に活動した全国津々浦々の無数の人々の存在を忘れてはならない。

これら、懸命に民主主義を守ろうとする人々の活動があり、それを受け入れ認める土壌が培われたインドネシアを、我々はもっと信じてもいいのではないかと思っている。

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