久々のJICA案件でインドネシアへ

今日5月11日から6月8日まで、インドネシアに出張する。今年は、久々にインドネシア絡みのJICA案件に一コンサルタントとして関わることになった。

「インドネシア国官民連携型農業活性化支援情報収集・確認調査」という名前の案件。農業・畜産業分野で、日本の地方自治体とインドネシアの地方政府とを結びつけ、各々の官民連携を通じて新たな事業創出・展開ができるかどうか、試行してみるという内容である。

この関係で、4月は日本のいくつかの地方自治体をまわり、自治体側の現状と意向を調べてきた。今度は、インドネシア側のいくつかの地方政府をまわり、同様の調査を行う。

この案件の成否は、日本の地方自治体とインドネシアの地方政府の双方に精通し、マッチングの見極めをするだけの情報をきちんと持ちながら、各々のイニシアティブを尊重できることにかかってくると思われる。

自分にそのような能力があるかどうかはやってみないと判らない。しかし、今後、国境を超えたローカルとローカルの結びつきを促し、新たな価値を創造する動きが起こったらいいなあと思う自分にとっては、格好の機会であると考えた次第である。

今回はどんな出会いや気づきが得られるか、楽しみである。新しい未来をつくる一滴になればと思っている。

なぜか西葛西で米粉クッキング

4月9日(土)、知り合いのコンサルタントの方から「西葛西に来てくれ」と言われて出向いた。

西葛西、といえば、最近はインド人の方々がたくさん住んでいる地区として知られ、私の大好物のインド料理屋がたくさんあるところらしい。

西葛西でインド料理を存分に堪能したい。インド料理、インド料理が食べたい! 今回はそのチャンスがあるかも、と思って出かけたが、インド料理は関係なかった。がっくり。

西葛西の用事は、米粉だった。しかも、米粉クッキングだった。はー?と思いつつ、何の心の準備もできないまま、米粉クッキングの会場へ。

会場に入ると、連れて行ってくださったコンサルタントの方と主宰者の方以外は女性ばかり。いやー、まずったなと正直、思った。どうしてこんな展開になるのか。

しかも、作るのは、米粉のシュークリーム。どうなっているんだー、と叫びたい気持ちを抑えて、エプロンをつけ、講師の先生に教えてもらいながら、見よう見まねでついていくしかない。

通常のシュークリームをどう作るかが分からないので、先生から「小麦粉を使うよりも米粉のほうが簡単です!」と言われても、何も実感がわかない。

まず生地づくり。牛乳、グラニュー糖、塩、米油を混ぜて沸騰させ、火を止めて米粉を入れ、卵を5〜6回に分けて少しずつ混ぜ合わせる(固まってくると混ぜている手がけっこう疲れるものだ)。それを絞り袋に入れて、グニュグニュっと絞り、ツヤ出しの卵を塗ってオーブンで25分焼くと、こんな感じで生地ができ上がった。

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次に、生地の中に入れるクリームづくり。バニラビーンズを入れた牛乳を温め、グラニュー糖、米粉、卵黄を入れてよく混ぜる。卵黄を取り出すのが少々難しいのと、これも混ぜるのに根気がいる。

火をつけてとろみがついたら、リキュールを混ぜて冷やし、その後、それにホイップクリームを混ぜたものを絞り袋に入れ、2つに切った生地へ絞り出して、デコレーションして、完成!

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初めてのシュークリーム。しかも米粉。作ってしまった・・・。ちょっと生地が薄くできてしまって、格好が悪かったのだけれど・・・。

と言っても、材料の下準備、オーブンでの焼き加減のチェックやホイップクリームつくりなど、面倒な部分はぜーんぶ先生がやってくださったのだけどね。

参加者の一人は、ある日から突然小麦粉アレルギーになり、それ以来、ずっとお菓子が食べられなくなってしまったそうだ。食べられた頃の味を知っているだけに、今回は、「何年ぶりのシュークリームかしら」と言ってとても嬉しそうに米粉シュークリームを頬張っていらっしゃった。

皆さんが帰られた後、主宰者のH氏と連れて来てくださったコンサルタントの方と、米粉普及の今後についていろいろ話をした。米粉にもパンや麺に加工するのに適した品種があること、パスタのようにコシの強くない麺ならば押し出し式で米粉パスタが簡単に作れること、などなど、色んなことを話していただいた。

お話をうかがいながら、アジアの米粉文化のことを考えていた。ミャンマーに造詣の深いH氏も絶賛するモヒンガーをはじめ、ビーフン、クエティアウ、フォー、ソーウンなどの米粉でできた麺はもっと日本で普及したらいいなあと思った。また、南インドに行ったときに朝食でよく食べたドーサやイドゥーリも、体に優しい米粉食品ではないだろうか。

しかし、H氏によると、最近は、ビーフンなどにグルテンを加えることがよくあるそうである。そういえば、昔食べたものよりもツルツル感が少なくなったように思うのは、気のせいだろうか。

日本国内で米粉活用を促進する団体が、こうした講習会を通じて、米粉料理を広めようとしている。興味のある方は、以下のホームページをご参照されたい。

MPO法人国内産米粉促進ネットワーク

 

ローカルの味方になる

本日、原稿を1本仕上げて、メール添付で送付した。このところ、エッセイのような短いものを多く書いてきたが、原稿用紙換算で30枚ほどのちょっと長めの原稿だった。

これは、昨年半ばからご一緒させていただいているある研究会向けの原稿である。その研究会は、コミュニティビジネスを通じた日本のローカルと海外のローカルとの連携の可能性を考える、けっこう意欲的な研究会だった。「日本の一村一品運動とコミュニティビジネスの関係について話をしてほしい」と誘われ、議論が面白かったので、そのまま研究会に毎月顔を出し、その勢いで僭越にも原稿まで書いてしまった。

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日本のローカルが直面する問題と海外のローカルが直面する問題とは、基本は同じなのではないか。そんなことを10年以上前から感じ、それが正しいのではないかとますます思えるようになってきた。それをひとことで言えば、アイデンティティ危機と言えるかもしれない。地域が、ローカルが、それ自体の存在意義を感じられなくなり始めているのではないか。東京などの中心から見れば、それぞれの地域は地方とかローカルといった概念でほとんど同じに扱われる。

「地方創生」という言葉が大流行りで、それを念頭に置いたプロジェクトや大学の学部さえも出現している。地方創生を絶好のビジネス機会と考えるコンサルタントも少なくないことだろう。我々は、少し前に、「ふるさと創生」という言葉に振り回されたことを忘れてしまったのかもしれない。あの「ふるさと創生」と「地方創生」とは、いったい何が異なるというのだろうか。東京の官僚は、言葉遊びで相違を示そうとするだろう。しかし、ローカルから何か意味のある違いを表出できているだろうか。

国が「地方創生」などと言わずとも、地方は自らを創り続けてきた。その営みに対する国から地方への敬意がこの言葉のなかにあるのだろうか。

シャッターの降りた商店街。耕作放棄された田畑。子どもの声が聞こえなくなってしまった集落で、先祖代々、どのような暮らしの営みが続いてきたか。それを深く思ったうえで、コミュニティが最期を迎えることに敬意を表する。そんな接し方を私たちはしてきただろうか。

人間は誰もが、自分の生き方や生きざまを、何も知らないよそ者に否定されたくはない。自分の暮らし方を正しいか間違っているかなどで計ってもらいたくない。その人がそこでそのように暮らしたことには、それなりのしっかりした理由があり、誰もがそれを認めてほしいと思うはずである。

今の世の中で急速に失われたのは、そうした他者を認め尊敬する気持ちではないか。他者の暮らしの舞台である地方への敬いではないか。本当は複雑な世の中の現実のはずなのに、勝ち負け、白黒、正誤といった単純な二項対立で、それをインスタントに切り取ることで薄っぺらい(安っぽい)自己満足を得ているだけなのではないか。

2020年に東京オリンピックが開催される。でも、日本は東京からは変わらないだろう。いや、日本は、むしろローカルから変わるのではないか。そんな予感を持ち始めている。

進んだ都市が遅れた地方を助けるのではない。進んだ、遅れた、という価値観や概念自体が変わってくるのではないか。それぞれのローカルが各々の評価軸を持ち、他のローカルを真似して事足れりではない、いくつものローカルを自分で創り出す時代がくるのではないか、という予感である。それは、大都市とローカルを、ローカルとローカルを、国境をも超えて、風のように軽やかに行き来する人々によって創られる新しいダイナミックな空間になるだろう。

一人の人間の価値が一本の定規などで測れないように、それぞれのローカルを杓子定規に計ることの愚かさに、少しずつ皆が気づいている。他者と安易に比べず、自分が良いと思う個性を遠慮なく提示し、それを他者と認め合い、楽しみ合う世界。それは夢なのかもしれないが。

それでも、自分はローカルの味方として生きていきたい。日本でも。インドネシアでも。世界中のどこでも。そんなことを思いながら、いつの間にか1月が終わっていた。

 

ジャカルタのテロ事件をイスラムで語ってはならない

どうしても、これを言わなければならない。

1月14日に起こったジャカルタのテロ事件。実家のある福島と友人との面会がある郡山とをJR普通電車で移動する合間に、事件の速報をiPadで追いかけていた。

かつて私は、事件の起こったスターバックスの入るビル内のオフィスに通い、毎日のようにあの付近を徒歩で歩き回っていた。仕事の合間、知人との待ち合わせのため、あのスタバで何度時間を過ごしたことか。向かいのサリナは、地下のヘローで毎日の食料品を買ったり、フードコートで食事をしたり、お気に入りの南インド料理屋でドーサを食べたり、本当に馴染みの日常的な場所であった。あの界隈の色々な人々の顔が思い浮かんできた。

断片的な情報を速報的にまとめたものは、ツイッターとフェイスブックで発信した。犯人がBahrun Naimだとすると、思想・信条的なものもさることながら、かつて警察にひどい拷問を受け、その恨みを晴らすことが動機の一つとなっていることも考えられる。

2002年10月に起こったバリ島での爆弾テロ事件のときのことを思い出す。犯人がイスラム過激派であることが知られたとき、インドネシアのイスラム教徒の人々のショックは計り知れないものだった。まさか、自分の信じている宗教を信じている者がこんな卑劣な事件を起こすとは、と。ショックが大きすぎて、自分がイスラム教徒であることを深く内省する者も少なくなかった様子がうかがえた。

今にして思うと、当時のインドネシアのイスラム教徒にとっては、一種のアイデンティティ危機だったのかもしれない。しかし、自己との辛い対話を経て、インドネシアの人々はそれを乗り越えていった。

そのきっかけは、2004年から10年間政権を担当したユドヨノ大統領(当時)の毅然とした態度だったと思う。ユドヨノ大統領は、宗教と暴力事件とを明確に区別したのである。テロ事件は犯罪である。宗教とは関係がない。そう断言して、テロ犯を徹底的に摘発すると宣言した。そして、国家警察にテロ対策特別部隊をつくり、ときには人権抑圧の批判を受けながらも、執念深く、これでもかこれでもかと摘発を続けていった。

余談だが、かなり昔に、上記と同様の発言を聞いたことがある。1997年9月、当時私の住んでいた南スラウェシ州ウジュンパンダン(現在のマカッサル)で反華人暴動が起こった。経済的に裕福な華人に対して貧しいイスラム教徒が怒ったという説明が流れていたとき、軍のウィラブアナ師団のアグム・グムラール司令官(後に運輸大臣、政治国防調整大臣などを歴任)が「これは華人への反発などではない。ただの犯罪だ!」と強調した。ただ、今に至るまで、暴動の真相は公には明らかにされず、暴動を扇動した犯人も捕まっていない。

その後も、ジャカルタなど各地で、爆弾テロ事件が頻発した。インドネシアの人々はそれらの経験を踏まえながら、暴力テロと宗教を明確に分けて考えられるようになった。かつてのように、アイデンティティ危機に悩む人々はもはやいない。誰も、たとえテロ犯が「イスラムの名の下に」と言っても、テロ犯を支持する者はまずいない。インドネシアでテロ事件を起こしても、国民を分断させることはもはや難しい。この15年で、インドネシアはたしかに変わったのである。

テロ犯は標的を間違えている。イスラム教徒を味方に引き付けたいならば、インドネシアでテロ事件を起こしても効果はない。個人的なストレスや社会への恨みを晴らそうと暴力に走る者がいても、それは単なる腹いせ以上のものではない。政治家などがこうした者を政治的に利用することがない限り、彼らはただの犯罪者に留まる。

そんなことを思いながら、福島の実家でテレビ・ニュースを見ていた。イスラム人口が大半のインドネシアでなぜテロが起こるのか、的を得た説明はなかった。そして相変わらず、イスラムだからテロが起こる、インドネシアは危険だ、とイメージさせるような、ワンパターンの処理がなされていた。初めてジャカルタに来たばかりと思しき記者が、現場近くでおどおどしながら、東京のデスクの意向に合わせたかのような話をしていることに強烈な違和感を覚えた。

なぜイスラム人口が大半のインドネシアでなぜテロが起こるのか。理由は明確である。テロ犯にとってインドネシアは敵だからである。それは、テロ犯の宗教・信条的背景が何であれ、インドネシアがテロ犯を徹底的に摘発し、抹消しようとしているからである。それはイスラムだからでもなんでもない。人々が楽しく安らかに笑いながら過ごす生活をいきなり勝手に脅かす犯罪者を許さない、という人間として当たり前のことをインドネシアが行っているからである。

とくに日本のメディアにお願いしたい。ジャカルタのテロ事件をイスラムで語ってはならない。我々は、テロを憎むインドネシアの大多数の人々、世界中の大多数の人々と共にあることを示さなければならない。

 

立命館大学でのゲスト講義

1月6日、長年の友人である立命館大学のH教授の計らいで、彼の学部ゼミと院生ゼミでゲスト講義をする機会に恵まれた。学部ゼミは日本人学生の2・3年生、院生ゼミは5人のインドネシア人留学生と2人の日本人学生が対象で、前者は日本語で、後者はインドネシア語で講義した。

学部ゼミ生は、2015年12月にバリ島へゼミ旅行で行ったので、その時の感想を聞かせてもらいながら、いくつものインドネシアについてざっくばらんに話し合った。25年前の私のジャカルタでの留学生活の話が興味深かった様子だった。彼ら彼女らには、自分の見ているあるいは見えている世界が全体のほんの一部に過ぎないこと、物事を多角的に見れるようになること、自分と異なるモノやコトを善悪で判断せずに存在を認めること、そのための想像力を研ぎ澄ませること、などを伝えようと努めた。

院生ゼミでは、日本とインドネシアが本当の意味で対等のパートナーとなるために我々はどうすべきなのか、というテーマで議論した。日本人の中に暗黙にある上から目線を改めるためには、日本人とインドネシア人とが一緒に何かをしたり作ったりする機会をもっともっと増やしていくこと、国とか宗教とか人種とかで人を判断しないように努めること、双方が過度に甘え合う関係を普通の関係に変えていくこと、などを具体的な事例に即して、話し合った。

系統だった講義にならなかったし、敢えてそうしようとも思わなかった。講義する側が自分の世界を披露して押しつけるのではなく、一歩引いて、彼らの自発的な議論のできる環境を整えて、自分もその一参加者として、相手を打ち負かすためではなく、議論を深めるためのサポートを心がけることが大事に思えた。もともと、ディベートというのはどうしても好きになれないのだ。

最近読んだ若新雄純氏の「創造的脱力」という本の内容を思い出した。鯖江市にJK課を作った際に、いかに女子高校生が安心して何でも自由に話せる場を作るか、というのがすっと心に入った。そして、若い世代がそういう場を求めていることも実感できた。でも、きっと若い世代だけでなく、我々中高世代にも、いや、じっと中高世代にこそ、そんな場が必要なのかもしれない。

ゆるゆる脱力した、自分を隠さずに済む空間を広めていきたいと思った。大したことはできないが、そんな場をつくる、とちょっと力んでみた。

ジャカルタで福島の桃と梨に出会う

9月3日、福島の桃と梨のプロモーション・イベントがジャカルタであるというので、物見遊山的に行ってきた。前日、友人のフェイスブックに情報が載っていたので、「地元出身者としては、これは行かずにはいられない」と行ってきた次第である。

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知人の加藤ひろあきさんの手慣れたバイリンガルMCで、イベントはつつがなく進んでいく。プレゼンはちょっと専門的で細かったかなという印象だが、福島県庁やJA新福島の方々が、実際に持ってきた桃や梨を手に、一生懸命プロモーションしている姿が嬉しかった。口下手でお人よしの福島人は、何かを売り込むときの押しの強さが今ひとつ、なので。

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第2部に移ると、ジャカルタの日本料理店・鳳月の高井料理長が、巧みな語りを入れながら、福島の桃や梨を素材にした素敵なデザートを作っていく。そこには、素材への慈しみが感じられ、きっと、福島の桃も梨も、彼に慈しまれて幸せなのではないか、なんて思ってしまうのであった。

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いくつかのデザート、そして、何よりもはるばる福島からやってきた桃たちや梨たちに、ジャカルタで会えるなんて、本当にありがたく、幸せな気分だった。

このイベントには、インドネシアで最も有名な料理研究家であるウィリアム・ウォンソ氏も出席していたので、名刺交換をして、お知り合いになっていただいた。彼は、プレゼンのときから熱心に説明を聞き、実際に福島の桃と梨を食し、その美味しさに驚嘆していた。

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この桃と梨、ジャカルタの高級スーパーであるランチマーケットで9月半ばまで販売されるとのこと。桃や梨という、インドネシアではあまり馴染みのない果物がどのようにマーケットに受け入れられるのか。おそらく、生食のほか、洋菓子などの素材としても注目されるかもしれない。

豊かになってきたインドネシアでは、シェフやパティシエになりたい若者が増えてくると予想される。日本では考えもつかないような、斬新な発想で、福島の桃や梨を使った一品が現れると面白い。

福島人としては、桃や梨に日本の他の生産地との違いを明確に出す戦略が取れればと思うが、それをどのように進めていけばよいのか。桃太郎といえば岡山、のような何かが欲しい。うーん、それは、福島県庁の方やJA新福島の方といろいろ楽しく考えてみたい。

と言いつつ、9月8日に帰国して、今は日本。

 

Dari K カカオ農園ツアーに同行

8月22〜27日、京都のチョコレート会社であるDari K主催のカカオ農園ツアーに同行した。日本からの参加者は45名、2台のバスに分乗して、南スラウェシ州マカッサルを出発し、Dari Kの提携カカオ農家のある西スラウェシ州ポレワリ県へ向かった。

ポレワリ県では、カカオ農園を訪問して苗木を植樹したり、カカオの実を割って中の果肉を味わったり、カカオ農家から栽培の苦労談を聞いたりした。また、カカオの接ぎ木の仕方、カカオの発酵や天日干しの様子、集荷と分別の作業、農家と商人との取引状況なども観察した。

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カカオの実を取った残り滓(カカオポッド)を利用したバイオガス発生装置も見学し、今後はバイオガスから電気を作り、チョコレート製造機械やカカオ農家へ配電する計画がある。

ほかにも、カカオ農家のお宅で心づくしの食事を振る舞われ、郷土菓子作りの体験もあった。

島まで渡って海遊びもした。

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地元の郷土芸能「踊る馬」に参加者の女性6人が挑戦したり、伝統楽器の体験・演奏もあった。

ポレワリ県にとっては、外国人観光客が一度にこんなに大勢で来ることは滅多になく、県観光局を中心に県をあげての歓待となった。

ポレワリ県からマカッサルへ戻り、マカッサルの夕日を拝むことができた。

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通訳兼コーディネーター役を担った同行で、最後には声が枯れてしまったが、このツアーが今後一層中身の濃いものとなるための材料も色々と得ることができた。

日本のチョコレート愛好者たちが原材料のカカオを作る農家を訪ねる旅は、参加者にとってチョコレートやカカオをより深く知る機会となった一方、カカオ農家にとっても、日本からお客さんが来ることで、自分たちのカカオが美味しいチョコレートになることを改めて感じて、質の良いカカオ作りに意欲が湧く、という話があった。生産者と消費者の信頼関係は、国を超えてもしっかり作ることができる可能性を強く感じた。

45人の参加者の満足度が気になるところだが、彼らは自ら「ダリケーキラキラチョコ大使」を名乗り、ツアーの経験とDari Kの良さを発信する役目を果たすと勝手に動き始めた。

次回のツアーは、さらにパワーアップした内容で臨みたいと今からワクワクしている。興味のある方は、是非、次回のツアーへご参加を。

 

ありのままの普通が続くように

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スラバヤ市の東、パクウォン・シティに来ている。不動産グループのパクウォンが大規模開発した住宅+商業地域である。

ここのショッピングモールの裏には、広い野外フードコートがある。色とりどりのランタンの下で、たくさんの家族連れが楽しそうに食卓を囲んでいる。遊具では、子供たちが歓声をあげて楽しく遊んでいる。金持ち層だけでなく、以前よりもちょっと裕福になった家族が楽しく過ごしているような光景である。

その同じ時間に、東京の国会前では、若者たちを中心に数千人の人々が戦争法案反対を訴えていることを思った。昨日の自民党の勉強会での暴言の数々、釈明にもならないちぐはぐな言い訳、ひたすら責任逃れに走る首相。沖縄のことを、日本の将来のことを、真面目に真剣に考えているとは到底思えない、情けない、哀れで滑稽な人々の姿が思い浮かんだ。こんな人々に日本の将来の道を決められてたまるかという怒りが静かに湧いてきた。

そしてふと我にかえると、目の前には、野外フードコートで家族団欒を楽しむ人々がいた。ここにはあいにく、私の知り合いは見当たらなかった。それでも・・・。

ジャカルタでも、マカッサルでも、シンガポールでも、バンコクでも、マニラでも、コタキナバルでも、ハノイでも、北京でも、上海でも、台北でも、ソウルでも、デリーでも、チェンナイでも、コロンボでも、カラチでも、テヘランでも、ダルエスサラームでも、キガリでも、カンパラでも、ラゴスでも、ロンドンでも、パリでも、ニューヨークでも、サンパウロでも、都会でも、農村でも、漁村でも、世界中のどこでも、時間や場所や程度の差はあれど、人々が楽しくみんなで過ごす平和な時間がある。残念ながら、シリアやイラクなど一部では、そんな時間が不幸にも作れなくなってしまったところもあるのだが・・・。

自分は平和な時間をなくしたくないけれど、他人の平和な時間はどうでもいい、という他者への想像力の欠けた人々が戦争を起こすのだ。自国以外に知り合いがなく、興味もない人が他所を平気で罵るのだ。世界中どこでも、楽しく平和な時間を過ごせるという、全くもって当たり前のことを当たり前に認め合い、尊重し合うことで、戦争をしなければならない理由はフツーの人々から起こりはしないのだ。

戦争は常に、自分が特別だと思い込み、他の人々のごくごく当たり前の日常に思いを至らせることのできない人々が起こすのである。上から目線の差別意識を持った者が戦争を起こすのだ。

若者よ、大人よ、お年寄りよ、地球上の様々な場所に知り合いを増やしていこう。少なくとも、そこに、我々と同じように、毎日楽しく穏やかに平和に暮らしたいと思っているフツーの人々がいるという、全くもって当たり前のことを想像するのだ。簡単なことではないか。一体、誰に我々や彼らのそうした平和な暮らしを脅かす権利があるだろうか。

相手を知らないから、相手が怖いのだ。相手もフツーの人間だとわかれば、フツーの人間どうしのお付き合いをしていけばよい。もちろん、気に入る場合も気に入らない場合もあるだろう。少しでも、相手を知ろうとすること。そこから自分の世界が少しずつ広がり、当たり前になっていく。

日本が何かしようなんて思い上がらないほうがよい。そういう意味では、国会前に集まった若者たちも、「日本が」などと力まずに、世界中に「戦争のできない、しない日本」を愛する仲間をもっとたくさん作っていこうではないか。そして「戦争のできない、しない」仲間をどんどん増やしていこう。そう、憲法9条を堅持する日本は、もしかすると世界の最先端をいっているのかもしれないのだ。

軍需産業の方々には申し訳ないが、できるだけ早くそうした産業がいらない世の中を目指すべきではないか。戦争をすると損をする、誰も得をしない世の中を作っていくべきではないか。

そのためにも、ありのままの普通が続くように、世界中のどこでも、程度の差こそあれ、当たり前の幸せと平和が享受できるように、そしてそれをお互いに当たり前に嬉しく思えるように、もっともっと他者への楽しい想像力を培っていきたいと思うのである。

図書館舟、東インドネシア海域へ

今回の2015年マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF2015)では、図書館舟(Perahu Pustaka)を披露することも注目点の一つだった。図書館舟には約5000冊の本を積んで、マカッサル海峡をはじめとする東インドネシア海域の離島をまわる、という構想である。

この構想自体は、4月頃に、友人たちがツイッター上で話し合ううちに思いついて、あっという間に実行に移されたものである。その基には、東ジャワ州で馬に本を積んで山奥の村々をまわる活動や、タイで船に本を積んで離島をまわる活動があった。

図書館舟には、パッティンガロアン(Pattingalloang)号という名前が付けられた。パッティンガロアンとは、17世紀に活躍したゴア王国(ゴア・テッロ)の首相で、いくつもの外国語を解し、様々な学問と知識を広めた人物とされている。今回のMIWF2015のテーマ「知識と普遍」(Knowledge and Universe)は、あまり知られていないパッティンガロアンの再評価も意図していた。

MIWF2015が終了した翌日の6月7日、図書館舟の管理者である友人のイワン氏に誘われ、図書館舟に乗ってみた。舟はスラウェシ島南西部のマンダール地方の伝統舟で、けっこう小さい。

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10人も乗れば窮屈な感じがする。その船倉に本棚を作って本を並べ、子供たちが中で本が読めるスペースを作る予定である。

イワン氏はジャーナリストで、西スラウェシ州の地方新聞社に籍を置いているが、この図書館舟を管理するにあたって、何日も洋上で離島をめぐるため、兼任は難しいと判断し、地方新聞社を退職した。収入もないなか、しばらくは図書館舟の管理・運営に全力を尽くすという。

私たちの乗った図書館舟は、マカッサルのロッテルダム要塞前からソンバオプ要塞近くまで、約1時間半航海した。マカッサルの新興住宅地タンジュン・ブンガと対岸のバロンボン地区を結ぶバロンボン橋の手前まで来て、舟は止まった。ソンバオプ要塞近くへ行くには、この橋をくぐらなければならない。しかし、このままでは通行できない。マストが高く、橋にかかってしまうのだ。ではどうするか。

断念するのかなと思っていたら、船員がやおらマストを切り始めた。そして、とうとうマストを切ってしまった。
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マストを切った図書館舟は、無事に橋の下を通過し、ソンバオプ要塞近くへと向かった。

マンダール地方の伝統舟は、甲板に穴を開けてマストの棒を船倉まで落とすため、高さの調整ができない。このため、今回のような場合には、マストを切るしか方法がないのである。そして、新しく木材を調達し、再びマストを作るのである。実際には、今回の件に懲りて、図書館舟のマストは、高さの調整ができるように改修するとのことであった。

ともかく、図書館舟は、間もなく、離島を回り始める。しかし、まだまだ本の数が足りない。対象が離島の子供たちであることから、マンガや絵本が好まれるということである。

パッティンガロアンの精神を受け継いで知識に触れる機会を離島の子供たちに提供する、という高邁な理想とはちょっと離れるかもしれないが、本に触れる経験の乏しい離島の子供たちに何らかの刺激を与えることにはなるだろう。それに挑戦しようというイワン氏の覚悟は尊敬に値する。

図書館舟の航海の様子は、特設ウェブサイトでお知らせするということで、楽しみである。

 

2015年マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF2015)に出席して

6月3〜6日、マカッサルで開催されたマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)2015に出席した。MIWFは今回で5年目となり、マカッサルでの毎年6月の恒例行事となった。昨年に引き続き、今回も、MIWFの1セッションのスポンサーとなった。

筆者がスポンサーを務めたのは、「東インドネシアからの声」というセッション。東インドネシアの幾つかの州で注目される若手作家を招聘し、彼らがどんな活動をしているか、なぜ執筆活動を始めたのか、今後どのような活動をしていきたいか、などを語り合うセッションである。

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その若手作家の一人であるファイサル・オダン氏は、『コンパス』紙主催2014年短編小説コンクールで最優秀賞に輝いた。このセッションのコメンテーターは、「昨今、西インドネシアよりも東インドネシアでの若手作家の活動がずっと盛んで、注目すべき作品が続々現れている」と評した。

ファイサル氏は、2年前のこのセッションにも出席したが、当時は、まだ執筆活動を始めたばっかりで不安だったが、MIWFに出席したことで自信がつき、執筆活動を進めていく意欲が高まったという。あのとき、彼は、ほかの参加者仲間と一緒に、私がまだマカッサルに残していた借家に数日間泊まっていたことを思い出した。

ささやかではあるが、このようなセッションを通じて、東インドネシアの若手作家の執筆活動を間接的にでも応援できたのが個人的に嬉しい。

今年のMIWFはマカッサル市政府から後援が受けられず、カラ・グループやボソワ・グループのほか、国際交流基金や筆者を含む複数のスポンサーからの支援のみで実施された。それでも、オーストラリアや日本を含む外国からも作家たちが参集し、様々なワークショップや出版発表会などが繰り広げられた。

実行委員会を含め、200人以上のボランティアが一緒になってMIWFを運営し、4日間のイベントを無事に終了できたことは、このイベントが、金銭の話ではなく、マカッサルの精神と外の世界を手作り感覚で結びつけていく稀有なイベントとして定着しつつあることを示している。下の写真は、クロージング・セレモニーで壇上に上がった実行委員とボランティアたちである。

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ローカルとローカルと結ぶ。ローカルがグローバルになる。グローバルがローカルになる。筆者はMIWFをそんなイベントだと勝手に位置づけ、応援している。

きっと、来年もまた、6月にはマカッサルに来ることだろう。

 

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