「Dari Kと行くカカオ農園ツアー2015」のお知らせ

いつもお世話になっております。松井グローカル代表の松井和久です。

今回は、私がアドバイザーを務めるダリケー株式会社が企画・実施する「Dari Kと行くカカオ農園ツアー2015」(8月22〜28日)へのお誘いです。

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このツアーは、Dari Kが提供するチョコレート・カカオ加工製品の原料である西スラウェシ州・ポレワリ県のカカオの生産現場を単に訪れるだけではありません。

カカオ生産農家やカカオ商人の方々と直に話し合ったり、カカオの苗木を植えたり、発酵カカオを使って実際にチョコレートを作ってみたり、カカオの滓を使ったバイオガス生成の様子をみたり、盛りだくさんの内容です。

カカオのことを学ぶ以外にも、農村を歩いて色々なことを発見したり、沖合の島でくつろいだり、地元の方々の作る心づくしの食事を堪能したり、と、普通のツアーでは体験できない面白さを感じてもらえるはずです。

是非、皆さんにもご参加いただき、カカオとスラウェシの魅力を存分に味わっていただきたいと思います。私も、このツアーにフルで同行いたします。

ツアーへのお申し込みは、以下のサイトからお願いいたします。
http://www.jeps.co.jp/tours/indonesia/darik_cacao.html

なお、参加者多数の場合には、8月15〜21日にも実施する可能性があります。こちらの日程のほうが都合が良いという方も、ご連絡いただければと思います。また、「全日程ではなく3〜4日ぐらいなら参加してみたい」という方も、私までご相談ください。

8月、スラウェシでお会いしましょう!

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はじまりの美術館を訪問

5月9日、福島県猪苗代町にある「はじまりの美術館」を訪問した。前々から興味のあった場所で、今回はたまたま10日に郡山で用事があり、その前にふらっと訪れた次第である。

猪苗代駅からひたすら北へ真っ直ぐ真っ直ぐ30分ほど歩いていく。猪苗代の中心街は、駅から北へ少し離れたところにあり、かつては賑わいをみせていたものの、今はひとかげもまばらである。

小雨が降る肌寒い天気の中、歩いて行った。はじまりの美術館の手前にある籐工芸と手打ちそばの店「しおやぐら」に立ち寄って昼食。山菜天ぷらと皿そばを食べた。付け合せは卵・トロロか辛味大根だったので、辛味大根をお願いした。

素朴な美味しいそばだった。盛りが四分の一の小皿そばなら何杯でも食べられそうな気がする。店内には、著名人や小皿そばをたくさん食べた方々の色紙が飾ってある。

そばをササッと食べて、はじまりの美術館へ向かう予定だった。ところが、お話をしているうちに、店を手伝っているご夫妻の娘さんが地元で活動をされていることを知り、ついつい話が弾んでしまった。彼女の活動の一つは、いなかふぇ(猪苗代サイエンスカフェ)で、5月17日にこのしおやぐらで、福島スィーツ会なる催しを企画している。


猪苗代に昔、中の沢まで鉄道が通っていた頃の話や、猪苗代にしかないものってなんだろう、などと尽きぬ話をしていたら、あっという間に1時間 半が経ってしまっていた。メインの目的は、はじまりの美術館だったのに。

そしてようやく、はじまりの美術館に入った。この美術館をつくるにあたって、地元の方々と一緒に作り上げる働きかけをしたのが、3月末にインドネシアで一緒に仕事をしたstudio-Lの山崎亮氏と西上ありさ氏で、二人からも訪問を勧められていた。

開催中の展示は、「陸から海へ:ひとがはじめからもっている力」で、日比野克彦氏ら多数のアーティストが、それそれの思う自らの大事な力の源を表現しようとしているように見えた。作品はなかなかユニークで、見ていて飽きなかった。


はじまりの美術館がその地域の人々に開かれた場となる必要性は、美術館の館長やスタッフには十二分に理解されているようだったが、地元のおじいさんやおばあさんが気軽に立ち寄って、お茶でもゆったりとすすれるような場としても活用される方向性を考えてもいいような気がした。

それにしても、とても居心地の良い空間だった。こんな場所が日本中あるいは世界中のあちこちにできてくると楽しいなと思った。いろんな意味で、筆者が構想する場づくりの参考になる場所であった。

京都、福井、富山(その2)

5月1日は、どこに行こうか迷ったが、チューリップまつりで賑わう砺波や、雪の大谷が見頃の立山黒部アルペンルートを避け、南砺市城端へ行った。何があるのかよく分からないが、行ったらきっと何かありそうという予感があり、果たしてそのとおりだった。

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まず、城端駅前の観光協会でレンタルサイクルを借りる。半日500円。

町の西側の田園風景を眺める。雪を頂いた山々をバックに、農地が悠々と広がっている。水田らしきところには麦が植えられていた。

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城端は河岸段丘の上にできた坂の多い町。街並みを美化したらしく、建物の高さが制限され、色合いも統一されていた。街路には湧水装置の穴が設置されていた。

2015-05-01 12.36.192015-05-01 13.37.01-1城端でのランチは、南幸という鰻屋さんで「なんなんまぶまぶ」という地元の料理を食べた。これは、豚肉にうなぎ蒲焼のタレを使って、ひつまぶし風に仕上げた料理で、南砺B級グルメコンテストで第1位になったそうだ。でも、これはB級というには相当手が込んでいて、豚肉や酢漬けミョウガの細切りがご飯のなかに入れ込んであるなど、小技が光る。

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一杯目は普通にそのまま食べ、二杯目はネギとワサビの薬味を添えて食べ、三杯目は土瓶に入ったダシをかけて食べる。まさにひつまぶしの味わいである。

善徳寺はちょうど改修中で、中を見ることができなかった。善徳寺は、城端の町の中心をなす寺で、ここから町内の各地へ道が出ている。

2015-05-01 12.29.08自転車で城端の町中を歩いていても、人に会うことがなかった。人の気配が全くしない。これは、日本の多くの地方では共通する現象だろう。しかし、昼過ぎになると、チャリンチャリンという音が聞こえてくる。学校から下校する子どもたちのランドセルに付けられた鈴の音だ。

2015-05-01 13.57.41城端滞在の最後、デザートを食べに訪れたのがナヤカフェ。農家の納屋を改造したカフェで、この経営者は、「薪の音」という名前のフレンチレストラン兼ホテルを近くで運営している。オススメは、干し柿のラム酒漬けアイスクリーム。今まで食べたことのない、甘さ控えめの大人の味のアイスクリームで、細かくされた干し柿が口のなかでアクセントになる。一緒に頼んだ小松菜のスムージーも、その滑らかさが秀逸だった。

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やはり、何もないところなんてない。城端は見るところがいろいろある町だった。

しかし、きれいな街並みを見ながらも、住民がそれをどのように感じているのか。果たして、住民が自ら楽しめるような町になってきているのだろうか。これは何も城端に限ったことではないが、そんなことを感じてしまった。

 

京都、福井、富山(その1)

ゴールデンウィーク前半(4月28日〜5月2日)、京都、福井、富山をまわって、最後に高崎の親戚の家を訪ねて、東京へ戻った。

今回の旅では、東京都区内→東京都区内という乗車券を使った。東京から新幹線、湖西線、北陸本線、北陸新幹線で東京へ戻る、という形(ただし、山科=京都間の往復380円を支払う必要あり)。

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この乗車券を買うときに知ったのだが、金沢と富山の間はJR在来線がなくなって第三セクター鉄道となったので、「金沢から北陸新幹線」にしないと今回のようなグルッと切符は買えなくなっていた。

ちなみに、この運賃は14,200円(13,820円+山科=京都往復380円)だが、東京=山科=京都=山科=(湖西線)=金沢で9,610円、金沢=富山間の第三セクター鉄道が1,220円、富山=東京が6,480円で合計17,690円となる。

京都では、ダリケー株式会社を訪問し、8月に予定しているインドネシア・スラウェシへのツアーの打ち合わせを行った。

京都では、ダリケー株式会社の方々と懇談し、今年8月に予定しているスラウェシへのスタディツアーの打ち合わせを行った。昨年8月、すでにダリケーのスタディツアーに同行させていただき、カカオ農園見学・苗木植え、カカオ農家での発酵プロセス見学、カカオ農家のある農村見て歩き、カカオをめぐる農家や村の人々との討論・意見交換など盛りだくさんの内容だった。

今年はさらに内容をパワーアップさせたツアーを行う予定である。もちろん、私も、通訳兼アドバイザーとして同行する予定である。日程は8月後半という以外は未定だが、すでに希望者が20人程度照会中とのことで、興味のある方は、ダリケーの足立(あだち)こころさん(kokoro.adachi@dari-k.com)までメールで連絡してほしい。

京都からはJR湖西線経由の特急サンダーバードで福井へ。インドネシア・マカッサル滞在時から20年の付き合いになる友人夫婦の家を訪問した。彼らのホームページ(http://www.nouentaya.com/)を是非ともご覧になってもらいたい。

九頭竜川近くの彼らの畑を見せてもらったほか、農村の抱える様々な現実的な問題とそれに地元の人間としてどう関わっていけるのかについて、深い話を聞かせてもらった。合わせて、彼らが毎年受け入れているインドネシアからの農業研修生から「研修終了後、インドネシアでどんな農業をやりたいのか」というプレゼンテーションを聞き、意見交換を行う機会もあった。

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福井からは北陸本線で金沢へ。乗車した特急しらさぎの自由席はほとんど乗客がいなかった。金沢駅を降りたら、たくさんの人が行き交っていて少々驚いた。レンタルサイクルに乗っているのはほとんどが外国の方だった。北陸新幹線効果は相当なものだ。

でも、アマノジャクな自分は、今回、金沢観光はしなかった。駅前の安ホテルに1泊し、前日に夕食に招いてくれた友人(彼ともインドネシア・マカッサルで知り合った)と一緒に、4月30日は富山県中新川郡立山町を訪問した。彼はかつて立山町で地域おこし協力隊員を務めていたことがある。

到着してすぐ、彼が滞在した新瀬戸地区の地域おこしグループの話し合いをいきなり聴講することになった。最初は空家対策がメインだったが、徐々にIターンをどう受け入れて定住させるかという話になった。図々しくも、途中から私も議論の輪の中に入れてもらい、新瀬戸地区の魅力を外から来た方々と一緒にどう発見するかなどの話を楽しくさせてもらった。あー、図々しい。

地域おこし協力隊員の方が立山Craft(http://tateyamacraft.wix.com/tateyamacraft)という素敵なイベントを計画されていることを知った。地元でクラフト活動に関わる有名・無名のアーティストたちが集まり、立山町の魅力を発信する試み。残念なながら筆者は所用で行けないのだけれども、ご興味のある方は是非行ってみてほしい。

実は、立山町新瀬戸は越中瀬戸焼の発祥地である。といっても、筆者自身、ここに来るまで、恥ずかしながら越中瀬戸焼の存在を知らなかった。新瀬戸には町営の陶農館という施設があり、越中瀬戸焼の作品が展示されているほか、陶芸教室も開かれている。

友人に連れられて、越中瀬戸焼の窯元を2つ訪問した。窯元に属する職人は5人おり、「越中瀬戸焼かなくれ会」というグループで制作活動を行っている。越中瀬戸焼は尾張瀬戸から職人が移り住んだことに由来し、元々は磁器を生産していたが、今は陶器である。2つの窯元とも、ギャラリーがとても素敵で、そこに、飽きのこないシンプルな形状の作品が並べられ、満ち足りた空間を演出している。前述の立山Craftには、これら窯元の作品も展示即売されるそうである。

筆者は立山町の農家から毎月お米を送っていただいているが、今回はその農家も訪問できた。近所の兼業農家から次々に水田耕作を請け負って欲しいと言ってきて、それを請け負っているうちに、約20町歩の水田耕作を行うことになり、その面積はまだ増えそうだという。

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有機栽培にこだわったコメ作りをされているが、地元では少数派だと繰り返しおっしゃっていたのは、ちょっと意外だった。たしかに、コシヒカリのような高い米を売るならば、あえて有機にしなくともそれなりの販路が確保でき、面倒くさくない。この農家の方はそうしたやり方で日本の農業が本当に生き残っていけるのかと問うていた。

金沢から付き合ってくれた友人と富山でわかれ、4月30日の夜は、富山出身でシンガポールを拠点にアジアを股に掛けて活動中の友人と夕食。5月1日には、富山出身の大学時代の友人と夕食。二人から別銘柄の鱒の寿司をいただき、十二分に堪能した。

(その2に続く)

 

 

帰国、5月末まで日本

4月7日に帰国して10日が過ぎた。慌ただしかった3月のインドネシアでの日々とは打って変わって、東京の家族とともに、ゆったりした時間を過ごしている。じと~っとした熱帯の湿気に慣れた肌は、さわやかな春の東京でやや乾燥肌になっている。

帰国した4月7日は真冬日だった。「冬」が再来する前に、ソメイヨシノは終わってしまっていたが、新宿御苑や小石川植物園でヤエザクラを見ながら、今年の花見を楽しんだ。

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今回は、5月末まで日本の予定である。自分なりに活動の区切りをつけるべく、頭を冷やそうと思っている。次のステップへ向けての準備期間でもある。

今後の活動の主拠点は、日本に置く。東京か福島か、どちらをそのメインとするかを思案中であるが、その両方を日本での活動拠点とすることは決めている。

東京の自宅はあまりにも居心地がよく、家族と和んでいると、ついついだら~っとしてしまいがちなので、自宅の近くのレンタルオフィスに仕事場を作ることにした。自宅から徒歩10分、24時間いつでも利用可能。本棚などを入れて、自宅に溜まった本の一部を移動させる。

インドネシアは、今後の活動の副拠点とする。帰国前に、スラバヤとジャカルタに居場所を確保し、引っ越しや家具等の調達も終わらせてきた。インドネシアでの活動拠点は、今のところ、スラバヤとジャカルタだが、マカッサルを追加することも検討している。

5月までに自分の個人会社を設立する予定だが、まだいくつか検討事項があり、ややゆっくりと進めている。すでに単発の仕事の話はいくつか来ているが、昨年度までのジェトロのような長期の契約の仕事はまだない。

今のところ、1年の半分を日本、半分をインドネシアで活動する計画であるが、さらにそれ以外の国での活動も加えたいと思っている。

ローカルとローカル、ローカルとグローバルを結んで、新しい何かが起きていくためのプロフェッショナルな触媒となる。

日本とインドネシアの計4つの拠点を行き来しながら、自分にしかできないような仕事をしていきたいと思っている。

 

コミュニティ・デザインと私

なんという運のめぐり合わせだろう。国際交流基金の仕事で、以前から気になっていて、一度会いたいと思っていたコミュニティ・デザイナーの山崎亮さんと約一週間、一緒に仕事する機会に恵まれた。

スラバヤでのワークショップにて。参加者のGatot Subroto氏撮影の写真を拝借した。

スラバヤでのワークショップにて。参加者のGatot Subroto氏撮影の写真を拝借した。

彼の日本での活躍ぶりは重々承知していたので、日本で会うのは難しそうだと半ば諦めていたのだが、まさかインドネシアで、しかもずっと一緒に仕事ができたのはとてもラッキーな出来事だった。

今回の私の仕事は、山崎さんと彼の補佐役で来訪された、同じstudio-Lに所属する西上ありささんの通訳兼コーディネーターである。いつもならば、自分でセミナーやワークショップを進めるのだが、ここはじっと役割をわきまえて、彼らの活動が最大限に発揮できるように努めた。

メダンでのワークショップ風景

メダンでのワークショップ風景

山崎さんは、コミュニティ・デザインに関連して行なった事例を100以上、いつでも発表できる状態にしており、今回のジャカルタ、メダン、スラバヤでの建築学科の学生らを対象としたセミナーとワークショップでも、それぞれ違う事例をふんだんに使いながら進めた。どの事例もなかなか面白く、通訳をしながら私自身も興味をそそられた。

彼らといろいろ話をするなかで、彼らが目指す未来と私がこうありたいと考える未来とがかなりオーバーラップすることが明確になってきた。すなわち、少子高齢化や成熟社会に向かう日本が、かつてのような重厚長大や成長を目指すことは無理だと気づき、エコで足るを知り、コンパクトな社会を目指す方向へ舵を切ったとするならば、インドネシアは日本のような回り道をせず、今からハードとソフトを兼ね備えた形で直接、エコでコンパクトな社会を目指すほうがよいのではないか、という考えである。

山崎さんは、そのソフト面で、建物を建てることを目指さないコミュニティ・デザインの役割が発揮されると語った。建築(アーキテクト)とは、様々な技術を一つにまとめあげていくことだとするならば、様々な人々や考えをつないで問題解決の動きへまとめ上げるコミュニティ・デザインも立派なアーキテクトである、とも述べた。

コミュニティ・デザインのもう一つの肝は、コミュニティの課題に様々な人々が関心を持ち続け、主体的に関わろうとするためには、美しさ、カッコよさ、美味しさ、といった感受性に訴える部分をデザインという形で取り入れることが重要だ、ということである。そう、楽しいから、面白いから、人々はそれを自分でやりたいと思うのである。建築家やデザイナーが地域づくりに関わる意味はそこにもある。

とにかく、山崎さんや西上さんとの今回の仕事は、個人的にとても面白かったし、今後の自分の活動を考えるうえで、様々なヒントを得ることができた。それはたくさんの事例であり、ワークショップのアイスブレイクの手法であり、ワークショップの進め方であり、ダイアグラムを重視した見える化の手法であり、また「よそ者」としてのメリットと限界を熟知した上でのコミュニティとの関わり方であった。

これから福島で、日本の地域で、インドネシアの地域で、私も様々な活動を行っていきたいと考えている。そんななかで、また山崎さんや西上さんとの接点が生まれ、場合によっては再び一緒に仕事をする機会などができれば、とても嬉しいことである。お二人にははた迷惑かもしれないが、久々に同志と思える方々と出会えた気がする。

このような素晴らしい機会を提供してくれた国際交流基金に改めて感謝したいと思う(油井さん、本当にありがとう!!)。そして、さらに、今回のコミュニティ・デザインに関するセミナーとワークショップをきっかけとして、日本とインドネシアとをつなぐ形で次の展開が開けていけるように、自分も努めていきたいと思う。

スラバヤ再発見の活動を続ける若者グループAyorekを訪問

スラバヤ再発見の活動を続ける若者グループAyorekを訪問

1泊2日でKL

3月14〜15日は、気分転換のため、マレーシアのクアラルンプールへ行き、友人と食べ歩きをした。

14日は、KLセントラルから近いバンサールを歩いた。お目当てのニョニャ料理カフェでラクサを食べたあと、ぶらぶら歩いたが、なかなか気持ちのいいところだった。

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バンサール・ショッピングセンターにある一風堂バー。博多ラーメンで名高い一風堂がラーメン店の隣に日本酒などを楽しめるバーを設けた。そこで、ワサビを使ったカクテルを味わってみようということだったが、結局、私はキュウリのモヒートを飲んだ。

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バンサール・ショッピングセンターまではちょっと距離があり、しかも坂なので、タクシーを拾おうと思ったのだが、「距離が近すぎる」ということで軒並み乗車拒否にあう。でもどうも、近くのバンサール・ビレッジとバンサール・ショッピングセンターを混同していた様子。結局、約30分かけて、徒歩で坂を登って、バンサール・ショッピングセンターにたどり着いた。ふーっ。

でも、歩いて、多少道に迷ったおかげで、バンサール・ビレッジ周辺がなかなか住むにはいいところだということが分かった。気持ちのいいカフェの一つで一休みしたが、でかいボリュームのブルーベリーチーズケーキが意外に美味しかった。

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一風堂バーで、友人となかなか気持ちのよいお酒を飲み、楽しく語り合った。

15日は、別の、昔の職場の友人と一緒に、セントラル・マーケットでニョニャ料理のランチ。ココナッツライスとおかずがベストマッチング。美味しくランチをとりながら、昔の職場の話や東南アジア研究のあり方なども含めて、話がはずんだ。

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外に出たらけっこう暑い。たまらなく、KLセントラルへ戻って、元首相のDr. Mが経営しているというカフェで、マイナス60度に凍らせたコーヒーに熱いミルクを注いで溶かして飲む、という飲み物とあんこの入ったクリームパンを食べた。おいしい!

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KLセントラルで友人とわかれ、空港へ鉄道で移動。

空港で、思い切ってiPad Mini 2を買ってしまった。32GBでRM1,569。4月から消費税6%が課せられるとのこと。インドネシアで購入するよりはずいぶん安く買うことができた。

インドネシアの税関申告書に「250ドル以上の購入品を申告せよ」とあったので、スラバヤに着いて真面目に申告したら、「真面目に申告してくれてありがとう」と暇そうな係員に言われた。

15日夜にスラバヤへ戻ったら、この土日のスラバヤは大雨だったとのこと。

16日は午前中に原稿を書き、夜10時過ぎにマカッサルに到着。日本からのお客さんと打ち合わせを午前1時までやり、その後、2時間ほど連載原稿を書いてから寝た。

今回のマカッサルはわずか2日間、しかもお客さんのお供なので、知人・友人ともあまり会えないのが残念。次回のマカッサルは、6月初めを予定しており、このときにじっくりと再会する予定。

 

寄り添うということ

寄り添うということを改めて考えている。

相手が求めているかどうかも分からずに寄り添う、ということは普通はない。

相手が一緒にいてくれると嬉しいと思える関係ができてはじめて、寄り添うということが可能になる。

そして、寄り添うというのは一過性のものではない。

相手が「もういい」と言うまで、ずっと長い時間、求められる分を寄り添うことになる。

寄り添うというためには、常に、物理的に相手のそばにいなければならないのだろうか。

一度会ったきりで、その後なかなか会うことがなくとも、相手が「寄り添ってくれていてありがたい」と思ってくれるような関係づくりは、非現実的なのだろうか。

相手のことを想う。自分のことを想ってくれていると感じる。それは、寄り添っているということと同じなのか違うのか。

相手のそばに居ても、その相手が「自分のことを想ってくれている」と感じなければ、寄り添っていることにはならないのではないか。

物理的にたとえ離れていても、寄り添ってくれていると相手が想ってくれる関係はつくれるのか。

人々、庶民、市民、といった言葉ではなく、個人個人の固有名詞でのお付き合い。

固有名詞の個人個人を通じたそこの人々やコミュニティとのお付き合い。

ビジネスライクではなく、本当に相手の未来や幸せを真剣に考えられる自分かどうか。

常に相手の立場に立って、相手から「もういい」と言われるまで、一生ずっとお付き合いするつもりで関わっている自分かどうか。

相手に寄り添っている、と思うことが単なる自己満足なのではないかと自問できる自分かどうか。

ふと思う。

そこには、国境はない。国籍の違いもない。

自分がモバイルに動いていても、相手のことを想う、自分のことを想ってくれている、という関係を作ることはできる。それは、相手に寄り添うことと同じなのか違うのか。

でも、相手のことを想う、自分のことを想ってくれている、という関係から、本物の活動はすべて始まるのではないか。

日本中をくまなく歩いた宮本常一氏がどのようにたくさんの日本の地域と関わったのか。

必ずしも数が多くなるかどうかは分からないが、日本を超えた形で、宮本常一氏のように、世界中の地域と関わることができるのではないか。

それぞれの地域と、一生ずっと深くお付き合いする覚悟を自分のなかで確認しなければならない。

3月、アイムジャパン研修生OBが作ったインドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)から強い要請があり、アドバイザーを引き受けることにした。インドネシア側からお願いされたことを自分としては光栄に感じている。彼らとは一生ずっとお付き合いする気持ちになり始めている。

かわいそうだから寄り添うのではない。相手との信頼関係を築き、相手の同意のうえで、一緒に新しい何かをしてみたい。そう思っているだけである。

そんなふうに思いながら、ジャカルタ、スラバヤ、マカッサル、東京、福島、その他の地域のことが頭のなかでぐるぐる回り始めている。

 

ブカシで技能実習生OBとの面会

2月13日、ジャカルタで用事を1件済ませた後、スディルマン通りからクバヨランバルを抜けて、テンデアン通りを通って、高速道路に乗るまで1時間半、それから1時間かけて、予定より1時間遅れの夜8時にブカシ着。待ち受けていた技能実習生OBと面会した。

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彼らは、アイムジャパンの技能実習生派遣事業で日本に行った経験を持つ方々で、インドネシア研修生事業家協会(Ikatan Pengusaha Kenshusei Indonesia: IKAPEKSI)の幹部たちだった。IKAPEKSIは、アイムジャパン事業で日本へ行き、帰国した後に、事業を行っている元研修生の集まりで、全元研修生4万5,000人のうち、約6,000人がIKAPEKSIの会員、ということであった。

この組織は、彼らが自発的に作ったもので、日本側からの関与はない、とのことである。

彼らは、今後、日系企業とどのような関係を持っていけるか模索している様子。まずは、IKAPEKSIの存在を日本側へアピールすることが必要だろう。とにかく日本が好きなんだ、と、こちらが恥ずかしくなるぐらい、強くアピールされた。

インドネシアと日本との関係をより深く確実なものにしていくためには、毎年毎年ほぼ自動的に増え続ける日本への研修生とどのように付き合っていくか、帰国後の彼らを日本側がどうサポートしていくかが重要になるだろう。元研修生は、ジャカルタ周辺だけでなく、インドネシアの地方のほぼ全てに存在しており、日本人が地方へ旅をしたり、あるいは日本語パートナーズが地方の高校で活動する際には力強いサポーターになってくれるものと思う。

もちろん、元研修生にも色々な人がいるだろう。真面目に事業を行っている人もいれば、日本へ行ったのはカネだけが目的だった人とか、日本人をカモにしよう、日本人にタカろうと思っている人さえ、いるかもしれない。だから、元研修生といっても、必ずしもいい人とは限らないので、それをどのようにコントロールするかも課題ではないか、とIKAPEKSIの方々にはひとこと釘を刺した。

彼らは3月7日、ブカシで全国大会を開催するそうで、さっそく、そこで講演するよう頼まれただけでなく、アドバイザーになって欲しいとも頼まれた。彼らの存在を活かしていくことが、今後のインドネシアと日本との関係を広く深くするためにも重要だと考え、引き受けることにした。

彼らと一緒に、これから何を起こしていけるのだろうか。彼らには、日本の地方都市で過ごした経験を持つ者が少なくない。また、帰国後、インドネシアの地方で活動しているものも少なくない。日本の地方とインドネシアの地方を結びつけたい自分としては、何か面白いことができる要素があるような気がする。ちょっと楽しみではある。

 

誰が得をしているのか

一連のいわゆる「イスラム国」をめぐる動きをずっと眺めていた。日本人人質やヨルダン人人質を殺害したとされるビデオが流れ、政府発表やメディアを通じて殺害されたと報じられている。

その一方で、これまでの何年もの間に、イラクで、シリアで、その他の中東の場所で、無数の人々が誰が得をしているのか様々な形で殺害されてきたことを思った。

亡くなった方々すべてに哀悼の意を表したい。

報復が報復を呼ぶ。平和だった暮らしを奪い、近しい者たちを無残な姿に変えさせた敵に対する復讐に燃える人々。それが生きる意味となってしまった人々。日々の平穏な暮らしに浸っている我々が「平和が第一」と言っても、聞く耳を持つ余裕などないだろう。

「有志連合」という名前がいつから使われたのか。誰が言い始めたのか。日本はそれに入っているのかいないのか。入っているとすればいつからなのか。入ったことを国民に伝えたのか。単なる勉強不足なのかもしれないが、筆者自身は明確に覚えていない。

一連の動きを見ながら、疑問に思ったことがいろいろある。

第1に、今の動きは、少し前までの「欧米対イスラム」という単純構造で動いていないことである。イスラム世界のなかで互いに戦い合っている。大きく捉えるならば、おそらく、アメリカ、ロシアなどによる国際社会全体のパワーゲームも絡んだ、イスラムのスンニ派とシーア派との戦いに近似する。すなわち、この戦いが続く限り、スンニ派とシーア派をまとめた「イスラム」として、欧米に対抗するという構図は立てにくい。イスラムは、「欧米憎し」で一つにまとまれない。

第2に、いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の影響が中東地域に広がる脅威がいわれているにもかかわらず、なぜイスラエルが具体的な行動に出ないのか。かつて、フランスの援助でイラクに原発が建設される際に、イスラエルは国境を超えてそれを破壊したではないか。イスラエルは「有志連合」に加わっていない。いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織に対しては、一体と言われることも多いアメリカとは別行動を採っている。

第3に、日本の安倍首相はなぜイスラエルを訪問した際に、ネタニヤフ首相と並んで「テロとの戦い」を宣言したのか。通常考えれば、イスラエルはイスラムの敵とみなされる。イスラム教徒の多いアラブ諸国との関係も良好な日本にとって、決して「テロとの戦い」を宣言するのにプラスの場ではない。しかも、日本の「テロとの戦い」がいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織を念頭に置いていたことは明らかだとしても、果たしてイスラエルもそうだったのか。

素朴なシロウトの疑問で、専門家の方々からは全く相手にもされない戯言に過ぎないと思う。そこで、見方を変える。今回のいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の蛮行によって、いったい誰が得しているのだろうか。

第1に、戦争が続くことで儲かる武器商人や軍需産業である。安倍首相のイスラエル訪問に同行した26社の多くが、直接・間接にこの分野に関わっている可能性がある。彼らはイスラエル側とのビジネス面での協力関係を探っている。だから、安倍首相は日本・イスラエル両国の国旗を前に声明を出さなければならなかったのだろう。幸か不幸か、イスラエルはいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織との戦いには大っぴらに加わっていない。パレスチナ問題とは別次元とみなされているなかで、声明を出しても大した影響はないと判断されたのかもしれない。

第2に、イスラムが一つにまとまって文明の衝突が起こるのではないかと恐れている欧米(日本も?)とイスラエルである。いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の蛮行も加わって、スンニ派とシーア派との激しい対立はエンドレスになりつつある。中東地域が激しい戦闘に明け暮れ、共通の敵だったはずのイスラエルに対して圧力を掛けることができない状態となれば、それとは一見関係のないイスラエルが自国の安全保障を確保し、中東地域で影響力を維持できる。

とはいえ、欧米や日本では、普通のイスラムもいわゆる「イスラム国」も同じものと見てしまう単細胞な人々が多く、かつ、日常生活の中での彼らの存在がとくに(失業が深刻化する)EUでは社会問題を引き起こしかねない状態であるため、イスラム教徒に対する冷たい視線が変わるのは難しい。イスラム教徒の人々も、そこから逃れてイスラムとして一つになり、欧米に対抗することは難しく、それが本当にイスラムかどうかは疑わしくとも、いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織に惹かれてしまうという状態が出る。

いったい誰が得をしているのか、ということで思い出すのが、2002年に起きたバリ島爆弾事件である。ジュマア・イスラミヤに関係するイスラム過激派の青年たちが実行し、死刑となったが、彼らにとって、ジハードという一種の自己満足以外に何が得になったのだろうか。洗脳された人間はそうなるのだといわれても、その疑問が今も解けない。

あのときのインドネシア政治を振り返ると、2004年に予定される初めての大統領直接選挙を前にして、世俗的・民族主義的な政治勢力とイスラム主義・イスラム国家建設を待望する政治勢力がしのぎを削っていた。当時、民主化を進めるインドネシアで、イスラム主義の政治家が大統領となることを危険視する見方が欧米や日本に見られた。

あの事件が起こって、イスラム政党がイスラムの色合いを弱め、世俗的・民族主義的な色をむしろ打ち出していった。2004年に初めての直接選挙で選ばれたユドヨノ大統領は、アメリカで軍事教育を受けた経験があり、「アメリカは自分の第二の故郷」というほどの親米だった。インドネシアがイスラム国家となる可能性は遠のいた。

素朴なシロウトの疑問で、専門家の方々からは全く相手にもされない戯言に過ぎないと思う。でも、人質の殺害、報復・復讐といった、ミクロの感傷的な部分がクローズアップされる今だからこそ、大局的な流れのなかで、何が起こっているのか、それが起こっていることの意味は何か、ということを自分なりに見よう・考えようとすることが大事ではないかと思う。

誰が敵で誰が味方か、白黒つけることへ殊更にエネルギーを費やすことは有益だろうか。特定個人に対する中傷や誹謗ではなく、建設的な意見や批判をなぜ自粛すべきなのか。

我々は忘れてはならない。求めるべきは平和である。戦火で明日生きられるかどうかもわからない人々を含めた、みんなの平和である。

だから、蛮行を繰り返すいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織も、戦争が起こり続けて欲しいと願う勢力も、みんなの平和を願わないどんな勢力をも批判しなければならない。

もちろん、日本がそんな戦争に加わろうとするならば、それに対しても、である。じゃあどうすればいいのか、対案はないのか、という批判もあるだろう。対案などすぐには出ない。嫌なものは嫌だ。そう言うことの何が間違っているのだろうか。

戦争をしても誰も得をしない世の中を作れないものだろうか、と夢想してはいけないのか。「あれはしかたがなかったんだ」としたり顔で子どもや孫に言って済ませることだけはしたくない。

 

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