【スラバヤの風-21】出稼ぎの民、マドゥラ人

マドゥラ島を出自とするマドゥラ人は、インドネシアではジャワ人、スンダ人、バタック人についで4番目に人口の多い種族集団である。2010年人口センサスによると、国内のマドゥラ人の人口は718万人で、そのうち東ジャワ州に居住する者が644万人である。マドゥラ島にある4県の人口が合計362万人で、そのすべてをマドゥラ人と仮定すれば、マドゥラ人の分布は、マドゥラ人の2人に1人はマドゥラ島外へ出ていることになる。

すなわち、マドゥラ人は出稼ぎの民といってよい。歴史的に見ると、マドゥラ人の出稼ぎのきっかけは17世紀にさかのぼる。当時、ジャワ島を支配するマタラム王国に対して、マドゥラ人の英雄トゥルノジョヨが反乱を起こしたが、オランダ東インド会社をバックにしたマタラム王国に敗北した。その際、トゥルノジョヨに従ったマドゥラ人多数が島から逃げ出し、生計を立てるため、逃亡先で様々な雑業に就いたとされる。もっとも、マドゥラ島自体が農業に不向きな、塩田に頼る貧しい土地だったことも要因として挙げられる。

彼らの就く雑業といえば、たとえば、ジャカルタなどの都市で見かけるサテ(串焼き)屋やソト(実だくさんスープ)屋、住宅地などを歩きまわる移動式屋台(カキリマ)や自転車にインスタント飲料とお湯を乗せた売り子などである。ほかには、マドゥラ人の理髪師のネットワークがあり、西ジャワ州のガルット出身者と並んで知られる。マッサージ業界でも、マドゥラ人のマッサージ師は一大勢力となっている。雑業以外にも、中央政界・財界で活躍するマドゥラ人は少なくない。

スラバヤには、人口の約4分の1に当たる80万人ものマドゥラ人が居住し、とくに市の北部に集中している。様々な雑業のなかでも、とくに目立つのがクズ鉄や古紙などの廃品回収やゴミ収集・分別に従事する者や、市場(パサール)や路上で商品売買をする商人などである。商人については、スラバヤだけでなく、マドゥラ人居住者の多い北東海岸部に加えて、マランなどの内陸部の市場に入ると、そこはマドゥラ語が支配的な世界である。

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スラバヤ市北部のくず鉄・廃品市場。ありとあらゆる廃品が売買されている。ここもマドゥラ人が牛耳っている。

このように、マドゥラ人は東ジャワ経済にとって不可欠な存在である。温厚で感情を露わにしないジャワ人とは対照的に、より敬虔なイスラム教徒であるマドゥラ人は、感情をストレートに表現することで知られる。出稼ぎの民・マドゥラ人は、そのバイタリティを発揮しながら、東ジャワやスラバヤ、インドネシアにおける経済の基底を支えている。

 

(2014年3月14日執筆)

 

 

【スラバヤの風-20】スラマドゥ大橋は悲願だったのか

スラバヤ市とその目と鼻の先にあるマドゥラ島とは、スラマドゥ大橋で結ばれている。建設したのはインドネシアの国営企業ワスキタ・カルヤと中国系2社(中路公司、中港公司)のコンソーシアムで、約6年かけて2009年6月に開通した。全長5438メートル、インドネシア最長の橋であり、総工費は4.5兆ルピア(約390億円)とされる。開通式でユドヨノ大統領は「50年前からの悲願が達成された」と述べた。

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インドネシアでは、1960年代から島々を橋やトンネルで結ぶ構想があり、スハルト時代には、ハビビ科学技術国務大臣(当時)を中心に「トゥリ・ヌサ・ビマ・サクティ計画」という名で現実化が進められた。スラマドゥ大橋とその周辺の工業団地建設は、その一環として1990年に国家プロジェクトとなった。これに関するフィージビリティ調査や計画立案で日本が重要な役割を果たし、日本企業を含む形で建設に取り掛かる予定だった。しかし、通貨危機によって計画は延期され、地方分権化で権限を移譲された東ジャワ州政府が主導して新たなコンソーシアムを立ち上げ、建設が再開された。

識者たちは、スラマドゥ大橋の完成により、島外から投資が来ることで、後進地域のマドゥラ島でも開発が一気に進むことを期待した。スラバヤの対岸で橋のかかるバンカラン県では600ヘクタールの土地を用意し、工業団地と港湾開発を進める計画だった。

しかし、スラマドゥ大橋を渡ってすぐ先には、広大な荒地が広がる。値上がりを見越して法外な地価を要求する地権者からの土地収用が困難を極めているのだ。橋の完成前と比べて200倍に高騰した土地もある。そして、ここでも、政府の役人らが土地をめぐる投機的な動きに陰で関わっていると言われる。

それとは対照的に、スラマドゥ大橋から遠く離れたマドゥラ島東部のスムナップ県では、以前よりも商業活動が活発化し、ホテルの数が増え、空港整備も進むなど、経済的に好ましい変化が起きていると言われる。

実は、スラバヤ市とマドゥラ島を結ぶ連絡フェリーはまだ存続している。「スラマドゥ大橋の通行料が従来のフェリーに比べて高い」という声も聞く。そんな状況を見ると、スラマドゥ大橋は本当にマドゥラの人々の悲願だったのか、という疑問が湧いてくる。むしろ、ただでさえ出稼ぎの多いマドゥラの人々の島外への移動に、さらに拍車をかけただけだったのではないかとさえ思えてくる。

 

(2014年2月28日執筆)

 

 

マドゥラ(4):サンパンのバティック

サンパンの街なかで1泊した後、スメネップへ向かう前に、バティックの工房を訪問した。サンパン県観光局長の奥さんの工房で、ファウジル君が日頃からお世話になっている方である。

マドゥラのバティックには、バンカラン、サンパン、パムカサン、スメネップの4県ごとに異なる特徴のバティックがある。一般的に有名なのはバンカランのバティックで、これには細かい線が入る。ジャカルタなどでバティック・マドゥラとして売られているのは、多くがバンカランのバティックだそうである。

奥さんの説明によると、上の写真は、サンパンのバティックである。ここのバティックはほとんどが手書き、または手書き+ハンコ(インドネシア語で「チャップ」と呼ぶ)であり、プリント・バティックは扱っていない。

バティック・サンパンの新しいデザイン。花をあしらっている。

これは、パムカサンのバティック。なかなか斬新な色使いとデザインである。

最後に見せてくれたのは、昔のバティックで仕立てた服である。これは奥さんが自分で着るもので、大事にしているそうである。

ジャカルタなどの普通の店では、手描きのいいバティックを手に入れるのが難しくなっている。人件費の高騰で、完成まで2〜3ヵ月を要する手描きバティックの値段は以前に比べるとかなり高くなった。おそらく、根気よく手描きをする職人も年々少なくなっているのだろう。

バティックがユネスコ文化遺産に指定されて、国内では各地でバティック・ブームが起こったが、マーケットが求める安いプリント・バティックが幅を利かせるようになったのは皮肉である。ちなみに、インドネシア政府はロウケツ染めではないプリント・バティックをバティックとは認知していない。

この工房で、30年前ぐらいに作られた手描きバティックに出会い、素敵だったので購入してしまった。その値段が他のバティックとほとんど変わらないのが不思議だった。安く買えてしまったのである。インドネシアの古いバティックを求めて歩きまわる業者もいる。古くて価値のあるものは、それなりの価格をつけて売るほうがよいのではないか、と、安く買ってしまった後で、奥さんに話した。ちょっと罪悪感。

マドゥラ(3):サンパンの英雄王様カフェ

5月30日夕方、ファウジル君の自宅を出て、サンパンの町へ。町中で車を降り、坂道を登っていくと、Gua Lebarと呼ばれる、洞窟のある窪地をぐるりと囲む場所へ出た。ここからサンパンの町が一望できる。

Gua Lebarに着いて間もなく、夕暮れとなった。赤く染まってゆく西の空を眺めていると、夕暮時の礼拝を呼びかけるモスクのアザーンが聞こえてくる。いくつかのモスクを背景にしたサンパンの町のシルエットが美しく映えている。

一緒に来たファウジル君もリオ君も、サンパン出身でありながら、ここで夕暮れを見るのは初めてだという。それはそうだ。彼らはいつも、その頃にモスクで夕暮れの礼拝に務めているのだから。

Gua Lebarからちょっと歩くと、木造の小屋が見えてきた。そこにカフェを建設中であった。場所としてはなかなかいい場所だ。カフェを運営するグループの代表であるマフルス氏と出会えたのも、今回のマドゥラでの収穫の一つだった。

英雄王様カフェ(Kafe Raja Pahlawan)。日本語にするとちょっと陳腐な名前のカフェだが、周りに様々な果物の木を植えて、自然と調和したナチュラルなカフェを目指すという。

「売りは何か」と聞くと、「ココナッツジュースにしたい。Gua Lebarを訪れる人々が常に求めているから」という答え。でもココナッツは、遠く離れたスメネップから運んでくるという。まあ、それでもいいのだが、「周りに植えた木になる果物を活かすのもいいのではないか」と提案したら、考えてみるそうである。

マフルス氏の生い立ちが興味深い。彼は小学校を卒業していない。両親が離婚し、自分自身も荒れるなかで、イスラム寄宿学校へ入れられた。そこでは相当のワルだったようだが、何とか卒業し、大工仕事などを見よう見まねで覚えて、身につけてきた。ヒトに指図されるのが嫌いな性格だと言っていた。

話を聞きながら、ファウジル君やリオ君は、自分の師匠であり、インドネシア全国の村々でミニ水力発電を普及させる活動をしているトゥリ・ムンプニさんの素晴らしさや彼女から色々学ぶことを一生懸命勧めた。

すると、マフルス氏は突然、「実はここの仲間にも話していなかったことなのだが・・・」と言って、かつて、マドゥラ島のある電気のない村で、住民と一緒になってミニ水力発電を作ったことがあると話し始めた。

ファウジル君とリオ君に私は言った。トゥリ・ムンプニさんの活動は素晴らしい。しかし、インドネシアには、彼女以外にも、各地で名も知れず地道に住民のために何かをしている人々、何人もの「トゥリ・ムンプニ」さんがいるはずだ。マフルス氏もそんな一人。そうした人々を探し出し、彼や彼女の活動を尊び、同じような活動を行っている人どうしを横へつなげて、活動を広めていくことが大切ではないか、と。

彼の生き方そのものが、同じように学校教育のレールから外れてしまったり、報われない境遇のなかで育った若者たちに、彼らの人生への何らかのヒントを与えてくれるのではないか。このカフェをそんな若者たちのための場として活用することも考えたらいいのではないか。そんなこともマフルス氏に話してみた。

また必ず、このカフェを訪れることをマフルス氏に約束した。

【マドゥラ】蒸しダックとソト・ババット

5月29〜31日にマドゥラ島へ行った際、食べたもので印象に残ったものをいくつか挙げる。マドゥラの料理は、全般にやや甘めだが、味が整っている。

まずは、ラブハン村の家庭(連れて行ってくれたファウジル君の実家)で出された料理。

揚げ魚に焼き魚、エビのカレー風煮付け、空芯菜の炒めもの、と豪華だった。この空芯菜の炒めものの味付けがやや甘みがあってとても美味しかった。サンバルも辛いだけでなく、甘みがそこはかとあり、ご飯との相性がよく、気に入った。

次は、サンパンの町中で「これはかならず食べる!」と言われて連れて行ってもらったのが、ダックを食べさせる店「ベベッ・ソンカム」(Bebek Songkam)。

ここのダックは、蒸しダックである。それに香辛料が丁寧に付けられている。肉はとても柔らかい。香辛料が効いて、口のなかで徐々に辛味が増し、ご飯が進んでしまう。この店は有名店らしく、スラバヤにもCITOと空港に支店がある。

最後は、スメネップで食べた臓物スープ、ソト・ババット(Soto Babat)。

ここのソト・ババットは、ご飯ではなく、米をバナナの葉で包んで蒸したロントンとキャッサバで食べる。おそらく、マドゥラ島東部のこの辺りでは、これまで米はあまり穫れなかったのだろう。味は濃厚だが、飽きることはない。

マドゥラ(2):ラブハン村の朝

5月30日は、まず朝起きて、ラブハン村の朝市を覗きに行った。朝市と言っても、村の海岸沿いの道路沿いに商人たちが店を広げている、という至ってシンプルなものである。

全長わずか200メートル程度。有力キアイの息子であるファウジル君は、子供の頃から商人たちみんなが知っている。歩いているとあちこちから彼に声がかかる。

柿が売られていた。食べてみると甘い。でも、甘柿ではない様子。実のまわりが白いのが気になる。

料理の素がこんな形で売られている。街なかのスーパーで売られているものの中身だけ、簡易パッケージで売っているような感じだ。

この材料にヤシ砂糖を入れて混ぜると下のようになる。それぞれの素材の食感が異なって、なかなか美味しい。お菓子の名前を聞くのを忘れたが、マドゥラでは昔から普通に食べられているお菓子ということだった。

このお菓子を売っていたおばさん。

次は、この村で30年以上クルプック(魚せんべい)を売っているおじさん。クルプックは、スラバヤの南のシドアルジョから仕入れている。「日本語でなんというのか?」と聞かれたので教えたら、「センベーイ、センベーイ」と言って売り歩き始めた。

朝市を見て回った後、今度は、マドゥラサに呼ばれた。マドゥラサは、イスラム教をメインとする宗教学校で、小学校相当から高校相当まであり、インドネシアでは、教育文化省ではなく、宗教省が管轄する。マドゥラサでは、中学校相当の生徒を相手に、日本の話をしてくれと頼まれた。

生徒たちにまず、「マドゥラの誇るものはなにか」と尋ねた。きれいな海岸、スラマドゥ橋、美味しい料理、闘牛(カラパン・サピ)などが出てきた。でも、男子生徒は「経験を積むため」マドゥラの外へ出稼ぎに行きたいと言い、女子生徒は「卒業したら結婚して家庭に入る」というのが大半だった。

先生方とも記念写真。

イスラム教に基づいた宗教学校ではあるが、生徒たちはごく普通の子どもたちだった。このマドゥラサは、ファウジル君の叔父さんが校長を務め、ファウジル君の父親らキアイたちが所有・運営している。

見た目はのどかなラブハン村だが、開発の波が押し寄せてくる気配がある。この村を含む広範な場所に、コンテナ港や大規模な工業団地を作るという話が出ており、すでに、多くのキアイたちが用地提供になびいている。ファウジル君の父親曰く、外部からNGOと称するマフィアどもがやってきて、開発に反対する運動を始めているということである。キアイたちには、真に村人のことを思って開発反対を唱えているというよりも、用地価格のつり上げを狙った動きと捉えられているようだった。

キアイたちがまだしっかりと「統治」しているラブハン村。これからどう変わっていくのだろうか。ここではまだ、開発は「外からやってくるもの」と捉えられている。

マドゥラ(1):橋をわたると別世界

5月29〜31日は、マドゥラ島へ行ってきた。マドゥラ島はスラバヤの目と鼻の先にある、東西に長く横たわる島である。

2009年、スラバヤとマドゥラ島の間に橋「スラマドゥ」(スラバヤの「スラ」とマドゥラの「マドゥ」の合成語)がかかり、スラバヤから車で容易に行けるようになった。逆に言えば、マドゥラ島から人々が容易にスラバヤへ来れるようになったことも意味する。

今回は、社会起業家である友人のトゥリ・ムンプニさんからの勧めで、彼女が目をかけている若者たちの一人がマドゥラ島で地域おこしのような活動を始めたので是非見に行ってほしい、と言われたのがきっかけである。

トゥリ・ムンプニさんは、山間部などの僻地に住民参加型でミニ水力発電をつくり、そこで起こした余剰電力を国営電力会社(PLN)へ売電するというビジネス・モデルをインドネシア全土へ広げる活動を進めている。インドネシアだけでなく、世界的にも注目される社会起業家なのだが、会えばフツーの素朴な女性、しかし世の中の不正や政治の腐敗に対しては常に厳しい見解をいつも投げてくる。本当に、議論していて色々なヒントを得ることができる得難い友人である。

5月29日の夕方、スラバヤ東部のギャラクシーモールで待ち合わせて、彼女の「教え子」のリオ君とその友人たちと一緒にマドゥラ島へ渡った。目指すのは、トゥリ・ムンプニさんの別の「教え子」であるファウジル君の実家。ファウジル君とは、以前、東ジャワ州主催のセミナーで講演した際に、出席者の一人だった彼と知り合い、そのときに、トゥリ・ムンプニさんから彼が私に会うように言われていたことを知った。リオ君もファウジル君もスラバヤの国立大学生である。

ファウジル君の実家は、海に面したサンパン県スレセ郡ラブハン村にあった。彼の父親は地元で尊敬を集めるキアイ(イスラム教の指導者)の一人で、ファウジル君はその跡取り息子として村人から一目置かれていた。セミナーであったときには、ちょっと軽い普通の若者にしか見えなかったのだが、田舎に帰ると、かなりの存在感を示していた。すれ違う人が皆、ファウジル君にうやうやしく挨拶するのである。

てっきり、ちょっと彼の実家に寄ってからサンパンの町へ行って泊まるのかと思ったら、今晩は彼の家に泊まるのだという。そして、ちょうど、ムハマッド昇天祭(イスロー)で村人のほぼ全員がモスクに集まるイベントが夜あるので、それに出ることになった。

まずは、ファウジル君の実家で鶏肉のサテ(Sate Ayam)の簡単な夕食。

その後、イスローの会場となるモスクへ向かった。そこでまた食事。床に座って食べていると、次から次へと、白装束をまとったキアイたちがやってくる。そして、「インドネシア語は話せるのか?」「どこに住んでいるんだ?」「家族は一緒なのか?」などなど、初めて訪問した場所での毎度おなじみの質問が続く。

ひとしきり食事と話をした後、いよいよモスクへ。ファウジル君の父親(キアイ)はこのモスクを運営する幹部の一人なのだが、彼の先導で進む。モスクの中へ入る前に靴を脱ぎ、そのまま、モスクの一番奥の幹部席まで連れて行かれた。そして、異教徒なのにいいのか、と聞くと、「いいんだ、いいんだ」と、幹部席に座っていることを求められた。これは客として最高の待遇のようだ。

しばらくして、外は、雷と風を伴った豪雨となった。モスクの周りに集まった村人ら約3000人の一部がモスクの中へ移ってきた。モスクの外で説教していたキアイも中へ移り、マイクの調子をチェックした後、再び説教を始めた。

1時間ぐらい説教が続いた後、今度は、別のキアイが説教を始めた。最初のキアイよりは説教が下手だったが、彼もまた、1時間以上、ときには歌も交えながら、延々と説教を続けた。

イスローの集会が行われたモスク
(翌日の5月30日朝に撮影)

このキアイ、モスクに入る前に、一緒に食事をしていたのだが、そのとき、ふと見ると、彼は白装束をたくし上げ、サロン(腰布)を直していたのだが、まるでボクシングのチャンピオンベルトと見紛うような大きなベルトでサロンを止めているのをたまたま見てしまった。サロンはクルクルっと腰の位置で巻くものだと思っていたが、ベルトで止めるというのもありなのだと思った。その写真を撮らなかったことをちょっと後悔している。

彼らキアイの説教は、時々インドネシア語も交じるが、もちろん、ほとんどはマドゥラ語である。筆者はマドゥラ語が全くわからない。しかし、キアイたちと一緒に幹部席に座らされているため、スマホや携帯などをいじることなく、一生懸命に説教を聞いている態度を見せるのが礼儀だと思い、そう努めたが、さすがに限界だった。説教が早く終わることを願っていた。

イスローのイベントはようやく午後11時過ぎに終わった。雨も止んでいたが、人々が去った後には、大量のゴミが残されていた。自分の靴を探した。私以外は皆、サンダルなので、見つけるのは容易だった。が、靴は残飯を含むゴミまみれになって、打ち捨てられたようになっていた。もちろん、雨でビショビショ。ゴミをはらい、中に水の溜まった靴を履いて、ファウジル君の実家へ戻った。

それにしても、モスクのなかで白装束の集団と数時間一緒に過ごすという経験は、なかなか得がたいものだった。キアイは、予想以上に、地元の人々から尊敬を集め、キアイの息子であるファウジル君への人々の振る舞いも、普通の人へのそれよりも敬意を持った接し方だった。

ファウジル君の父親はキアイだが、1970年代から1999年までずっと開発統一党(PPP)の県支部長を務めていた元政治家でもあった。村人たちを動員して、サンパン県で焼き討ちをするなど騒乱を起こしたこともあるという。筆者自身はちょっと怖くなり、先般のサンパン県でのシーア派住民への迫害に加担したのかどうか、聞くことができなかった。

「キアイになるためにはどうしたらいいのか。何か資格認定のようなものがあるのか」と彼に尋ねると、「そんなものはない。皆がキアイ、キアイ、と言っているとキアイになるんだ」という答えだった。そんなものなんだろう。でも、長年にわたって村で信望を集め、その存在自体がキアイとして崇められるレベルと自然に認知されるのだろう。

もちろん、キアイの指示通りに、村人は動くのだ。だから、選挙では皆、キアイを自陣営支持のためにどうおさえるかが重要になる。今回の大統領選挙では、プラボウォ=ハッタ組とジョコウィ=カラ組のどちらを支持するか、キアイどうしでまだ決めていないが、いずれ決めることになるだろう、ということであった。

このラブハン村は、スラバヤからわずか1時間半だが、キアイたちが支配し、それに村人たちが従う、スラバヤとは別世界を形成していた。これもまた、インドネシアなのである。

してみると、スラバヤで大学へ通うファウジル君は、この大きく異なる二つの世界を行き来しながら生きている、ということになる。なんとなく、素朴に不思議な感じがした。