【インドネシア政経ウォッチ】第43回 学生の石油燃料値上げ反対デモ(2013年 6月 20日)

補助金対象石油燃料の値上げを控え、全国各地で学生らによる反対デモが頻発している。とくに激しいのが南スラウェシ州の州都マカッサルで、州知事庁舎へ強引に突入しようとした学生らと警官隊が衝突したほか、連日、古タイヤを路上で燃やしたり、タンクローリーを襲ったりして、幹線道路を封鎖し、大渋滞を引き起こしている。

かつてマカッサルに長く住んだ筆者の記憶では、激しい学生デモがマカッサルで起こり始めたのは1996年頃である。発端は乗合バスの料金値上げ反対デモだったが、学生らが警察を挑発、それに乗った警察が発砲して学生が死亡、地元紙の1面にその遺体の写真が掲載された。これをきっかけに拡大したデモは軍や警察に対する反抗デモへと転化し、スハルト強権体制への批判につながっていった。振り返れば、あれがその後の体制転換への導火線だったとも思える。

その後も、事あるごとに学生デモが頻発し、マカッサルは「デモの町」というイメージが固定した。だが、学生に聞くと、理論武装のための学習会を行った形跡はない。何が目的か分からない者も多数いた。カネをもらったと白状する者さえいた。こうして、学生デモは一種の「伝統」となり、先輩らのそれを超えること自体が目的となる。渋滞を引き起こす自分らのパワーに酔っているのかもしれないが、住民には本当にいい迷惑である。

実際、デモで目立つ学生活動家は政治の世界へ入っていく。学生デモは政治家へのステップなのである。今回、全国各地でデモを主宰するのは、イスラム学生連合(HMI)やインドネシア・ムスリム学生行動連盟(KAMMI)など全国組織のイスラム系学生団体であり、多くの政治家の出身母体でもある。

マカッサルなど、デモの起こっている地方都市はまさに地方首長選挙の最中であり、学生の先輩である政治家がこの機会を利用する。同様に、石油燃料値上げ反対を標榜した福祉正義党(PKS)など政党の動きとも連動していることはまず間違いない。

 

http://news.nna.jp/cgi-bin/asia/asia_kijidsp.cgi?id=20130620idr020A

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東ジャワ州の日本語人材を活用せよ

先ごろ、日本の大学へのインドネシア人留学生を選抜する文部科学省の国費留学生試験が実施され、1次・2次の合格者が決まったようである。

複数の人から聞いたところによると、インドネシア国内で合格者が最も多かったのは、東ジャワ州マラン市にある国立ブラウィジャヤ大学で、8人が合格したという。この8人という数字、1校あたりの合格者としてはかなりの合格率ではないだろうか。もしかすると、世界的に見ても、最も多い合格者だったかもしれない。

そのほか、東ジャワ州スラバヤ市にある国立アイルランガ大学から3人、日本語教師養成コースを持つスラバヤ国立大学からも2人が合格、そのほか同じスラバヤ市内の私立ストモ博士大学からも合格者が出た可能性がある。

一方、西ジャワ州デポック市にある国立インドネシア大学からの合格者は1人、ジョグジャカルタ特別州の国立ガジャマダ大学からは合格者がいなかった様子である。

すなわち、今回の国費留学生試験の合格者の大半は東ジャワ州から出た、ということになりそうである。

国立ブラウィジャヤ大学の日本語科では、大学学部卒業までに日本語能力試験のN2に合格することを目標に、日本人のI先生を筆頭に、N1を持つインドネシア人の先生たちが懸命に日本語を教えている。

昨年5月、筆者は、国立ブラウィジャヤ大学で「インドネシアの日系企業と日本の企業文化」と題して特別講義をしたことがあったが、約200人以上の学生が集まり、質疑応答に1時間以上を費やすほど、学生たちは熱心だったのが印象に残っている(下写真)。そのときに、「N2をとれれば日系企業に就職できるだろう」という話をした際に、がぜん盛り上がったのを覚えている。

私の知り合いの方は、国立ブラウィジャヤ大学の日本語科の優秀な学生たちを活用し、スカイプを使ったインドネシア語学習プログラムを試みている。興味のある方は、以下のサイトにアクセスして詳細を見て欲しい。

日本インドネシア語学院

国立アイルランガ大学は、日本研究科であって必ずしも日本語科ではないが、学生たちが熱心で、すでにN2を取ってしまった者もいるため、先生たちの目が覚めた。毎週、時間を決めて、先生方が自主的に日本語能力を高めるための勉強会を行い、N1合格を目指すということである。

これまで、日本語人材といえば、日本研究センターを持つ国立インドネシア大学や国立ガジャマダ大学などの出身者に定評があるとされてきた。しかし、国費留学生試験の結果だけから見れば、ジャカルタ周辺ではまだあまり知られていない、東ジャワ州の大学が従来の有名大学を凌駕し始めている。

もちろん、東ジャワ州における日本語学習者の裾野も着実に広がっているし、自分の日本語能力を高めるために、日本人の方と接する機会を持ちたいと思っている学習者は相当な数で存在する。

今年は、スラバヤ市でも、ジャカルタ・ジャパン祭りのような、ジャパン祭りをやってみようではないかという意見が出ている。当地の日本語学習者を巻き込んで、むしろ、インドネシア側の意向を取り込んでいきながら、面白いイベントが出来ないものかと思っている。機会があれば、私なりの色々なアイディアを出してみたいし、各大学の関係者と話し合ってみたい。

ジャカルタ周辺で日本語人材の確保に努めていらっしゃる方は、この機会に、東ジャワ州の国立ブラウィジャヤ大学や国立アイルランガ大学などの関係者に、どんな様子なのか、聞いてみてはいかがだろうか。東ジャワ州には、意外に優秀な人材が留まっているかもしれない。そして、チャンスが有れば、彼らはジャカルタ周辺で働くことも厭わないことだろう。

いや、いっそのこと、投資環境が悪化してしまったジャカルタから、東ジャワへの企業移転またはビジネス機会の拡大を図ってみてはどうだろうか。ジャカルタ周辺と比べてもそこそこのレベルの日本語人材を活用することができるはずである。

信用し、信用される関係

今日12月6日は、2014年大統領選挙の展望について、ジャカルタで講演した。久々に全力投球で講演したので、さすがに疲れた。果たして、講演の中身は、参加された人々にどのように伝わったのか。ちょっとストレートに自分の見解を出し過ぎた感もある。

そんな講演の前に、とてもうれしいことがあった。私が資金を貸していた相手が5年かかってその資金を返済し終えたということ、である。

2008年、マカッサルで仲間の地元出版社「イニンナワ・プレス」は資金難に陥っていた。イニンナワ・プレスは、南スラウェシに関する外国語出版物のインドネシア語翻訳出版を行う小さな出版社。当時、大手書店のグラメディアなどへの負債がたまり、資金不足で事業が回らない状況になっていた。出版予定の材料を5点抱えながら、翻訳出版を断念することを真剣に考えていた。

イニンナワ・プレスのJ代表が、藁にもすがる思いで私に資金援助を求めてきた。必要額は4000万ルピアとのこと。その資金があれば、負債を何とか返済でき、出版を続けることができる、と切々と訴えられた。

私は、南スラウェシの人々が自分たちの足元を批判的に知るための材料として、南スラウェシに関する外国語出版物のインドネシア語翻訳出版を行うイニンナワ・プレスの活動を高く評価し、共鳴していた。4000万ルピアという額はけっこうな額だったが、思い切って貸すことに決めた。しかも利子をつけずに。彼らに出版を続けてほしいという気持ちが先だった。

あれから5年。イニンナワ・プレスは、何とか出版を続けることができ、しかもその出版活動は高い評価を受けることになった。けっして大規模な商業出版ではないが、ちょっとした本屋へ行けば、彼らの翻訳した書物を手にすることができる。何よりも、南スラウェシの人々がインドネシア語で南スラウェシについて書かれた外国語出版物を読み、それを批判的に検討することができるようになった。経営的にも、イニンナワ・プレスは軌道に乗ることができた。

イニンナワ・プレスからは、毎月、あるいは2ヵ月ほど間が空いたりしながら、1回当り100万ルピアずつ返済が続いた。ときには数ヵ月、返済のないこともあった。もう返済はないかと思いつつ、私はじっと待ち続けた。そして先月、私が貸した4000万ルピアを彼らはとうとう完済した。

そして今日、イニンナワ・プレスから感謝の気持ちのこもったメールが届いた。本当に困っていたあのときに、助けてもらった恩は決して忘れない。信用し、信用される関係がずっと続いたことに感謝している。これからもずっと良い関係を続けていきたい。彼らのメールを読みながら、自分の中に込み上げてくるものがあった。

南スラウェシに関する外国人を含む研究者は、現地で資料を探す際に、必ずイニンナワ・プレスを訪ねるという。州立図書館や国立ハサヌディン大学図書館よりも、イニンナワ・プレスの図書館に様々な南スラウェシに関する書籍や資料があるからである。

今年3月、私がマカッサルで借りていた家を閉める際、過去15年以上にわたって収集してきたスラウェシやインドネシアに関するインドネシア語書籍の処分に困ったとき、彼らの図書館に寄贈することにした。彼らは軽トラックを借りてやってきて、全部持って行ってくれた。それらの書籍は、今も彼らの図書館で、いつでも私に返せるような形で、大切に保管されているという。

私は、亡き父から「貸した金は返ってくると期待するな」と教えられた。彼らに貸した4000万ルピアも、戻ってこないかもしれないと思っていた。でも、彼らは律儀に、5年かけて完済してくれた。彼らとの信用し、信用される関係がとてもとてもうれしく、彼らが一層いとおしく感じた。

彼らと一生付き合っていく。大切なマカッサルの友の活動をずっとずっと応援していくことを改めて決意した。

学生と「ハウルの動く城」を観る

6月15日、スラバヤ市内の私立ドクトル・ストモ大学で、日本語科の学生さんと一緒に日本映画を観ながら語り合う会、に行ってきた。

今回、彼らが観たいといってきたのは、宮崎駿監督の「ハウルの動く城」。おっと、これは日本人監督の作った日本映画ではあるが、ストーリーには日本が何も出てこないではないか。この映画を観て日本を語ろうとしているなら、ちょっと認識不足ではないか、などと思いながらも、とにかく出かけてみた。

真面目な日本語科の学生さんなのだ。映画を観る前に、映画の中に出てくる日本語の台詞から単語を抜き出し、その意味を確認している。でも、あまりにも機械的な訳なので、黙ってみていられなくなり、大げさなジェスチャーを交えて、意味を説明してみた。すると、「初めて知りました」という反応で学生の目が輝きだした。あー、彼らは生きた日本語に触れていないのだな、と思った。

いよいよ映画上映。「ハウルの動く城」は前にも何度か観ているが、やはりいいものはいい、という感じがする。ソフィーの声を吹き替え分ける倍賞千恵子はさすがだなと感心しながら観ていたら・・・。

隣のモスクからアザーンが。学生は何の躊躇もなく、キリのいい場面かどうかも何も考えず、映画を途中で止めた。アザーンが終わると、何事もなかったかのように、再び映画を再生した。

映画を観終わった後、学生たちと感想を述べ合った。やはり思った通り、学生たちは表面的なあらすじを追うのに精一杯で、表現の裏にある作者の意図などまでは思いが至らない様子だった。それでも鋭い質問があった。「なぜ、最後は、戦争を終わらせようというハッピーエンドになるのですか」という質問である。たしかに、そこがこの映画のちょっと?マークの部分ではある。

学生たちと一緒に考えてみようということにして、意見を出してもらった。「サリマンの敵国の王子が案山子にされていた魔法が解けてしまったから」とか「対立するどちら側にも立たなかったハウルが生き残ったから」とか、いろんな意見が出た。この点については、私も確たる答えを持っていなかったので、その辺で話を終わらせた。

しばらく映画の議論をインドネシア語で続けた後、学生たちから「日本語で話をしたい」というリクエストがあったので、日本語に切り換えて話を進めようとした。日本語を勉強するインドネシア人の学生からは、もっと日本語で日本人と会話する機会を増やしたい、という希望があったので、これはいい機会だと思った。

しかし、学生たちから日本語での話しかけが出てこないのである。だって、彼らが日本語を話す機会を欲しているんでしょ、と心の中で思いながら。どうやら、ほかの友達の前で、自分が間違った日本語を話しているのを見られたくない、恥ずかしい、という気持ちがある様子である。この辺り、英語で悪戦苦闘している日本の学生にも共通するかも、と思うような態度であった。

我々日本人ネイティブからすると、インドネシア人にとって日本語は外国語なんだから間違って当たり前、恥ずかしく思えるほど日本語はまだできないだろうから、どんどん話してみたらいいのに、と思ってしまう。せっかく、日本人ネイティブと接触できる時間なのに。私としてはちょっと残念だったが、ヒトのことはいえないと思った。

なぜなら、日本人が英語やインドネシア語を学ぶときの態度にも、彼らと同じような部分があるのではないかと思ったからだ。大してできもしないのに、あるいはだからこそ、よそ様にその様子を見せるのがはばかれる、という態度である。日本人の場合には、英語と比べてインドネシア語を下に見たり、あるいはインドネシア(人)を見下しするような態度だと、なおさら、インドネシア語を学ぶという話にはなりにくくなってしまうかもしれない。

それにしても、こんな形の映画鑑賞会で、彼らには何か役に立ったのだろうか。その点については、私はあまり自信がない。でも、時々、こんな会があって、日本語を勉強したいという学生に何かやる気を感じさせるきっかけ作りになるのなら、そのお手伝いは是非したいと思うのである。