水俣・・・祈り

3月16〜17日、水俣へ行ってきた。地元学を主宰する吉本哲郎氏にお会いし、自分なりに地元学を再学習する旅であった。地元学は深く新しく進化していた。

珠玉の言葉がたくさんあった。久々に目からうろこ状態になった。それらは、まだ自分のなかで十分に咀嚼しきれていない。自分のなかでまだなじんでいない。吉本さんの言葉を自分のものにするためには、まだ熟考と時間が必要な気がする。それらをブログに書いてしまうと、薄っぺらいものになってしまいそうな気がする。

人に何かを伝えるためには、言葉をもっと大切にすること。哲学や美学が必要であること。原理主義を排し、現実から出発すること。

水俣は、複合的な差別の渦巻く場所だった。そして今もそれを拭えていない。

水俣病患者への想像を絶する差別の嵐のなかで、なぜ、水俣病を患った故杉本栄子さんが「チッソを赦す」境地へ至ったのか。「人様が変わらないなら自分が変わるしかない」と思うに至ったのは、チッソが正しかったと認めたわけでは断じてないのだが。

果たしてチッソはそれを深い意味で受け止めているのか。自分に都合の良い薄っぺらい解釈で「ラッキー」と思っているにすぎないのではないか。

他方、福島第1原発事故で苦難を余儀なくされている方々は、この杉本さんの気持ちを深く理解できるだろうか。でも、政府や東電も、もしそうした赦しがあれば、自分たちに都合よく、薄っぺらく「ラッキー」と思うだけではないだろうか。

敵を赦す境地に至るとは、どれだけ壮絶なものか、理解できるだろうか。そして、それがなければ、水俣は前に進めなかったことを。それなしには、杉本さんが生きていけなかったことを。

祈りが大事だ、と吉本さんは言った。

水俣湾に面した記念公園に患者さんが置いた、点在する石像の写真を見直しながら、その意味を反芻している。

祈り。哲学。美学。そして覚悟。本物を創る意思。

東日本大震災から3年

先週から母校の先生方をインドネシア大学とガジャマダ大学へお連れし、アポのアレンジのほかに、ボロブドゥールへの案内などをこなした後、3月11日昼12時過ぎに、鉄道でスラバヤへ戻った。

静かな場所で一人、黙祷したかった。そこで、普段なら誰も客のいない、あるカフェで昼食をとる前に、黙祷したかった。

あいにく、普段とは違い、その場所には大勢の客が来ていた。彼らのざわめきから少し離れた席に着席し、その時を待つ。

頼んでいたアイスティーが運ばれてきたその後、西インドネシア時間午後12時46分、静かに手を合わせた。亡くなられた方々のご冥福と、生かされている私たちがこれから創っていく未来を、祈った。

この3年間、自分はどれだけ真剣に生きてきただろうか。どれだけ、新しい未来を創るために動いてきただろうか。そして、またあのいつもの問いが頭をよぎる。自分はインドネシアにいて本当によいのだろうか、と。

復興、再生、いや新生なのか。コミュニティという言葉の持つ心地よさと危うさ。生きていくための理想と妥協。賛成か反対かしか聞こえてこない意見の二者択一化。自分で考える力の衰退。

希望なんて、簡単に生まれるものではないことぐらい分かっている。それでも、誰かが希望のタネを様々な形で撒き続けなけれなばらない。

3年前、私たちが諦めなければならなかったものは何だったのか。私たちがしなければならなかった覚悟とは何だったのか。

諦めなければならなかったのは、たとえば、亡くなった家族や友人、失われた家や町や故郷。しなければならなかった覚悟は、たとえば、亡くなった方々に恥じない人生を歩んでいくこと、もっと素晴らしい家や町や故郷を作り直していくこと、原発に依存しない未来を作っていくこと。

だとするならば、これからの人生は本気の本物の人生を歩んでいかなければならない。本物の家や町や故郷を作り直していかなければならない。

諦めろ。覚悟しろ。本物をつくれ。

私が地元学を学んだ水俣の吉本哲郎氏が福島へ送ったメッセージである。

私たちは本物をつくってきたのだろうか。作ろうとしてきたのだろうか。本物はそこにいる者の中からしか生まれない。よそ者が何かをつくっても、そこにいる者の魂が込められなければ、本物にはならない。

今でも、復興や再生や新生へ向けての様々な活動が取り組まれている。大事なことは、それが本物であること。もし、そうでなければ、それを本物にしていくことである。

このことを、改めて、肝に銘じている。

とねりこ made in Fukushima

先週、福島へ行っているときに、すてきな雑誌と出会った。のはら舎という、福島の小さな地元出版社が発刊した『とねりこ』という雑誌である。リンクページをご覧いただき、是非、皆さんにも購読していただきたい。

とねりこ

「ちいさくても思いたかく」という副題がついている。そこに、この雑誌を出版した側の思いが深く込められている。

とねりこのページには、創刊にあたって次のようなメッセージが書かれている。

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 東日本大震災と原発事故から、間もなく丸3年を迎えようとしています。現在、メディアで取り上げられる関連ニュースはめっきり減り、時間とともに風化していくことが危惧されます。そうしたなか、いまの福島の人々の姿や声を伝える使命を持って、「とねりこ」を創刊します。今後10年、20年と続くであろう原発震災との闘いを前に、いま起きている出来事を、いまの時代を生きる私たちが、歴史の証人として記録することが大切だと考えました。

 とねりこは「いのちの木」と言われ、野球のバットの材料になるほど強く、しなやかな木です。激変する環境のなかで、多くの人々の声を聞き、伝えることで、1本の木が林になり、やがていのちの循環を支える森になるよう、スタッフ一同願っています。

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福島から発信し続けることの重要性を体現した雑誌である。そして、それをがんばりすぎず、しなやかに継続していこうという意思が見える。福島に住む地元の人間が、自ら主体的に、しかし息長く発信を続けていくこと、そしてそれを、福島の外にいる人々が息長くキャッチし続け、見守りながら、他の方々へ発信していくこと、大したことではないかもしれないが、重要なことだと思う。

創刊号のなかに、東北学を提唱してきた福島県立博物館長の赤坂憲雄氏の言葉がある。少々長いが、自分の備忘のためにも、以下に引用させていただく。

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震災のあとに学んだこと

赤坂憲雄


震災のあと、なんだか、とても多くのことを学んできた気がする。

一生分の涙はとっくに使い果たしたはずだった。でも、この間は久しぶりに、夜更け、ひとしきり声を殺し、泣いた。その前の日の午後、なにひとつ残っていない駅舎の跡に立って、ひとりの少女が語ってくれた家族の物語を思い出していたのだった。

諦めたときに、すべてが終わることも知った。それでも、ほんのまれに、落ち込むときがある。顔には出せない。そんなとき、かたわらに元気な仲間がいてくれると、助かる。どん底をやり過ごし、また、少しだけ前を向いて、歩を進めることができる。思えば、そんな仲間のほとんどは、震災のあとに出会った人たちばかりだ。

世界はすっかり変わってしまった。でも、後ろ向きになったら負ける。意地でも前を向いてみせるしかない。そして、今度はこちらが世界を変えてやるぞ、と心に決める。世界はどうやら、待っていても変わらないようだ。ならば、こちらが変わるしかない、世界が変わるために働くしかない、と思う。

それでは、なにをなすべきなのか。たとえば、弱き人々を基準として社会をデザインし直すこと。あえて経済効率に抗い、隙間や無駄をあちこちに作ること。やわらかく壊れる方法を学ぶこと。眼の前に横たわる境界の自明性を疑うこと。縮小と撤退のシナリオを、あくまで前向きに受け入れること。三十年後への想像力を鍛えながら、いま・ここに生きて在ること。そんなことを、ひとつでもふたつでも、ささやかに実践に移してみる。そこから、何かが始まるはずだ。

勝てずとも、負けない戦いを。それぞれの場所から、きちんと引き受けていきたいと思う。

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赤坂氏の著作はいろいろと読んできたが、上記はとても分かりやすい言葉で書かれている。しかも、福島の教訓から忘れてはならない姿勢を思い起こさせてくれる。

あのとき、何かが終わり、何かが変わる予感がした。政府に頼るのではなく、自分たちで生き抜いていかなければならないと心底思った。自分の子供の世代、孫の世代、その先の世代に対する想像力を求められた。

そして、あれから3年、自分たちは自ら変わろうとして動いてきたのだろうか。

福島からの発信を受けとめ、それを再発信していくということは、あのときの自分や子孫のことを思い起こし、自分から変わり、生き抜いて、少しでもましな未来を子孫へつないでいくために働き続けることを、深く自覚し、実際に行動に移していくことにほかならない。

勝てずとも、負けない戦いを引き受けていく。その覚悟を持って、動いていく。

福島でルワンダ

福島でルワンダに出会った。

震災前から福島で活動しているカンベンガ・マリールイズさんと知り合いになった。彼女は、福島に「NPO法人ルワンダの教育を考える会」を設立し、福島や日本とルワンダをつなぐ活動を通じて、ルワンダでの子供への教育機会の拡大を実践する活動を続けている。
うちの家族では、3年前に亡くなった父が留学生だったマリールイズさんをお世話していたほか、弟が国際交流の会を通じて彼女と懇意にしていた。それに加えて、叔父夫妻が今も活動のお手伝いをしているだけでなく、すでに70歳を超えた叔母が彼女のNPO法人の理事になり、1年半前にルワンダへ移住していった。
福島へ帰省中、ちょうど彼女らによるルワンダ写真展があり、のぞいてきた。そして、幸運にも、マリールイズさんご本人と会うことができた。面会をとても喜んだ彼女は、さっそく、ルワンダの私の叔母へ電話したそうだ。私もすぐに、叔母へメールを送ったところ、すぐに返信が来た。とても嬉しそうだった。
写真展では、ルワンダで子供に音楽を教える叔母の元気そうな写真が何枚も展示してあった。写真の中の叔母はとても生き生きとしていて、ルワンダの人々にいろいろとよくしてもらっている様子がうかがえた。叔母もこれまでに様々な経験を経てきているが、「もう日本へは帰らない」と言い切って1人で渡航し、ルワンダに残りの人生を捧げる覚悟なのだった。ルワンダでは、日本大使館やJICAの方々にいろいろとお世話になっている様子もうかがえた。叔母に代わって感謝の意を表する次第である。
そんなルワンダの叔母に「会いに行きたい」とメールで書いたら、「来なさい」と命令されてしまった。ルワンダは、内戦や紛争、虐殺といった過酷な経験を必死で乗り越えようと努め、その悪夢を引きずりながらも、懸命に新しい国づくりへ向かっている、アフリカでは近年最も注目される国の一つ。ルワンダほどではないのかもしれないが、かつて、インドネシアのアンボンやポソでイスラム教徒とキリスト教徒が憎しみ合い、殺し合いをした過去が重なって見える。
マリールイズさんは、東日本大震災の後も、ずっと福島に留まり、福島に寄り添いながらルワンダとつなぐ活動を続けてきた。そんなマリールイズさんと一緒になった叔母は、自分の残りの人生をルワンダの子供たちの未来づくりのお手伝いに捧げている。
そんな彼女らを見ていると、私がもやもやと頭の中で思っている活動もありだし、どんな活動でもありのような気がしてくる。大事なことは、何のために活動するか、ということなのだ。
余談だが、折しも、新年早々、NHKで故やなせたかし氏についての追悼ドキュメンタリーをみた。アンパンマンの主題歌の一節「何のために生まれて何をして生きるのか」「行け、皆の夢守るため」がなぜかじーんときた。
福島でルワンダ。世界は遠くにあるのではない。マリールイズさんと関わった人々は、ルワンダが自分の心の中に入ってくる。反対に、マリールイズさんの心の中には福島が入っている。そして、双方が双方を思い合い、対等な立場の仲間として、その輪を広げていく。フツーの人々どうしをつなげていくそんな関係が縦横無尽に広がっていけばと思う。
今年、本当にルワンダへ行って、叔母に会ってこようかな?

福島帰省2日目

福島帰省2日目。午前中に弟の車で福島の街中をドライブしたが、ビックリしたことが2点あった。第1に、旧市街に空き地が一段と増え、駐車場がさらに増えたこと。第2に、郊外は住宅建設ラッシュとなっていることだった。

福島市の人口は依然として減少傾向にあり、旧市街の虫食い現象はそれを象徴するが、その一方で、相当数の住宅が新たに建設されている。親と同居していた子供がそのまま親の家に住みたくない傾向が強いことと、原発事故の影響で避難を余儀なくされて仮設住宅に入っていた人々が住宅を購入するという傾向が強まっていることが背景にあるようだ。

午後は、既存メディアがなかなか伝えない話を独自メディアで発信する独立ジャーナリストの方にお会いして、色々とお話をうかがった。組織にとらわれない自由な立場から見た福島の現状について、様々な角度から話をうかがうことができ、大変有意義だった。

復興に伴う外部者による新たな搾取的状況の発生、官によるNPO活動への不信と官主導の事業実施へのこだわり、大学と住民との距離、などの話題が出た。その方の話からは、福島にどっぷり浸かることによる閉塞感のようなものがあるように感じたが、それは福島の現状に起因するある意味の複雑さから来るものかもしれない。

全国全ての都道府県に散らばった福島出身者の新しい地元に福島を自然に埋め込んでいく動きをつなげて、福島出身者による新たな一種のディアスポラ的ネットワークが今後の日本にとって新たな何かを作り出していくのではないか、といった希望も語り合えた。

福島にどのように取っかかりを作ることができるのか。まだ確証はないが、新しい地元を念頭に置いた複層的な地元学の展開可能性を考えることができるのではないか、という気がした。

9年前、スマトラ沖大震災

9年前の2004年12月26日、スマトラ島北部、アチェ沖を震源とする大地震が起こり、大津波などで20万人近くの方々が犠牲となった。まだ覚えているだろうか。

当時、日本のメディアにはインドネシアの情報はほとんど伝わっておらず、タイやスリランカでの被害の様子が報じられていた。インドネシアのとくにアチェの被災状況が報じられたのは、ほとんど年が明けてからだったように思う。

アチェの現地から送られてきた写真をみた。津波がバンダアチェの町を襲う写真、助けを求める人々の写真、そして道路沿いのおびただしい数の遺体の写真、その遺体を埋葬している写真・・・。直視することができない、しかし直視しなければならない。嘔吐感すら感じながら、必死でその画像を記憶に留めようと必死だった。

自分が長く関わってきたインドネシアの悲劇に、一体何ができるのだろうか。悩みに悩んで、信頼できる知人らとともに、アチェの新聞社と一緒に、子供たちが未来へ向けて進み出せるためのささやかな支援を行った。それで十分だったとは決して思えず、その後もずっと気にし続けていた。実際には体験していないのに、時折、あの遺体の画像が夢の中に出てきたり、突然、頭の中に浮かんできたりした。

震災当時のアチェは、インドネシア国軍とアチェ独立派との戦いが続いていた。しかし、その震災で、インドネシア政府は全世界から支援金・物資を受け入れ、それを現場へ投下することでアチェの人々の人心をつかんでいった。ジャワ島などからもたくさんのボランティアがアチェへ入り、救援・復興作業が進められていった。

他方、この点で、アチェ独立派は非力だった。結果的に、震災は、アチェ独立派を弱体化させ、インドネシア政府が支援・復興をリードしながら、アチェ紛争の解決を有利に運び始めた。そして、インドネシア政府とアチェ独立派はヘルシンキで和平協定を締結し、アチェに平和が訪れることとなった。結果的に、大震災による膨大な数の方々の犠牲の上に、アチェは平和を取り戻すことになったとも言える。

2010年10月、遅きに失した感はあったが、震災後としては初めて、アチェを訪問した。津波にも耐えたモクマオウの木は立派なままだった。打ち上げられた大型船や家の屋根の上に乗り上げた船、残された建物に残された生存を示す言葉、それらが震災遺構として残されていた。観光地になっていた。会う方々は皆、笑顔で接してくれた。 そして、彼らのほとんどが身内に犠牲者を抱えていた。これからのアチェをこうしていきたい、という強い思いが伝わってくる出会いだった。

その2年半後に、「アチェで起きたこと」が日本で起こるとは・・・。災害対策が世界で最も進んでいるといわれ、アチェをはじめとするインドネシアに多大な支援を行った日本で、よもやアチェと同じ事が起こるとは・・・。

大船渡や気仙沼の町を津波が襲う映像は、まさに、バンダアチェの町を津波が襲った映像と酷似していた。東日本大震災で亡くなった方は約2万人、たとえスマトラ沖大震災の10分の1だとしても、その悲劇の程度が緩和されるわけではない。

アチェの被災者に対しては、1995年1月に大地震に見舞われた神戸の人々が様々な支援を行っていた。そして今度は、東日本大震災に見舞われた東北地方に対して、神戸の方々だけでなく、アチェの方々も支援の手を差しのべた。災害は、その被災地同士を「同志」としてつなげたのである。東北からの人々も今、アチェの地を訪れており、アチェの人々の9年前に寄り添おうとしている。

同じ被災国として、インドネシアと日本はともに世界へ向けて発信しなければならない何かを共有している。そして、世界の災害対策をともにリードしていくべき役割を担っていると考える。 それは単なる科学的な災害対策に留まらず、人々の経験や思いを共有し、未来を担う次の世代へ、そしてさらに次の世代へ、語り継ぎ、受け継いでいくことだと思う。

9年前、アチェをはじめとするスマトラ沖大震災のことを忘れてはならない。8年前の神戸、2年9ヵ月前の東日本大震災のことを忘れてはならない。これからの我々が、そして次の世代・世代が築いていく未来のために。

フィリピン中部台風被災地緊急支援について

フィリピン中部台風(台風30号)の被害は、現場の様子が伝えられるにつれて、さらにひどい惨状が現れ始めている。次のサイトには、生々しい状況が映し出されている。

Typhoon Hayan in Pictures

すでに、国際社会は救援活動へ動き始めている。以下のサイト(英文)では、救援活動を行っている国際機関・団体へのコンタクトができるようになっている。

How to Help Typhoon Haiyan Survivors

日本の救援団体やNGO/NPOも救援活動を開始しているが、初動にはかなりの資金を必要とするため、募金を募っている。これまでに、私がFACEBOOKでシェアしたのは、以下の団体である。

認定NPO法人アジア日本相互交流センター(アイキャン)

公益社団法人シビックフォース

認定NPO法人ジャパン・プラットフォーム

アチェ大津波のとき。東日本大震災のとき。世界中が「何かしなければ」「助けなければ」「力にならなければ」と思ったと思う。「助けてくれた。今度は自分が」「助けてあげようと思った。でも実は自分のほうが助けられたような気がする」。そんな関係が生まれ、互いに学び、そして、いろんな新しい動きが起こったと思う。

アチェ大津波のとき、東日本大震災のとき、フィリピンの人たちがどんなに思ってくれていたことか。その思いを返し、返される関係を作っていけるのではないか。そんなことを思いながら、自分にできる範囲で、フィリピンの人々のことを思っていきたい。

アチェの人も、東北や福島の人も、フィリピンの人々のことを思える関係でありたい。

でも、自分の周りのインドネシアの人々は、とくにフィリピンの台風被害について、興味や関心を示していないように見える。それが普通、といってしまえばそれまでなのかもしれないが。

あまり報道はされていないが、ソマリア北東部のプントランドでも、サイクロンで相当な被害が出ている様子だ。

Another Tropical Cyclone Develops

Somalis ‘killed in Puntland’ during Tropical Cyclone

「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」発言

インドネシアと直接関係ない話で申し訳ない。

2020年の五輪開催都市に立候補している東京。東京電力福島第一原発からの高濃度汚染水の漏洩・海洋排水の問題が世界的に注目されるなかで、当選へ向けてなりふりかまわぬ姿勢を見せた。

東京が安全であることをアピールするため、「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」とプレゼンしたと報じられている。筆者は、科学的な安全性について、客観的にみて、本当に東京が安全なのかを判断する確かな知識を持ち合わせているわけではないので、安全かどうかを問題にすることはしない。

しかし、この発言は、「福島は安全でない」と言ったに等しい。どうしても何かこの種のことを言いたいならば、「(問題となっている)東京電力福島第一原発は東京から250キロ離れており」と言うべきであった。「福島」は福島県全体なのか、他都市よりもまだ相対的に線量の高い福島市なのか。東京並みかそれ以下の線量の会津地方やいわき市周辺も含むのか。この発言からすると、「福島は安全ではない」と受けとめられることになる。

これこそが、いわゆる風評というものではないか。発言者の繊細さに欠ける用語使いで、どんなに印象が変わるか。

この発言を聞いてすぐに思い出したのは、東京の発展を電力で支えてきた福島の歴史だった。奥会津・只見川の電源開発で、巨大水力発電所が建設され、その後、浜通りの相双地区に何基もの原子力発電所が「福島」という名前の下に建設された。それを担ったのは東京電力であり、それらの場所で作られた電気はすべて東京首都圏へ送電された。福島県内の電力は、東北電力による発電所から送電されたのである。

そもそも論として、なぜ東京への電力を福島県に作ったのか。只見川電源開発は、そこに豊富な水資源があったから、という理由で容易に納得できる。

他方、浜通りの 原子力発電所は、そこにウランがあったからではなかった。東京にもっと近いところに作ればいいものを、わざわざ送電コストをかけて流す選択をした。そして、2011年3月に事故が起こって、東京から離れたところに建設した理由が眼前に現れてしまった。やっぱり、実は、最初から「危ない」と分かっていたのである。

「危ない」と言っていたのではどこにも建設できないから、過疎で出稼ぎに頼る貧しかった相双地区が注目され、人口の多い東京首都圏で何か起こるのに比べれば、影響は少ないと勝手に判断され、多額の資金供与を見返りとして、原発が建設されたのである。もしかしたらそこの人々は「騙されている」と分かっていたのかもしれない。でも、生きていかなければならなかった。東京の人たちのような豊かな生活をおくる権利もあるはず。彼らを「金の亡者」と一律に非難するのは難しい。

そして事故が起き、改めて「騙された」ことに気がついたが、それと引き替えに手に入れた自分たちのより良い生活を否定することはできない。けれども、あえて「騙される」ことを選択したことで、間接的にではあっても、事故に荷担してしまった罪悪感が人々の心の一番の奥底でうごめいていることは想像に難くない。単純に「原発反対」などと声を上げられない複雑な気持ち、しかしそれはなかなか理解してはもらえないだろう。

東京オリンピックは、そんな人々を励まし、勇気づけ、復興へ向けて前向きの気持ちにさせる機会になる、と信じて旗を振る人々がいる。たとえ、打ち上げ花火のようなはかないものだとしても、何もないよりは、一時的に気分を高揚できる機会になるかもしれない。何かそれが決定的に復興を継続的に進めていくエネルギーになるとは思えないけれども。線量を気にし、食の安全にピリピリした、日々の生活で精一杯の福島の人々にとって、東京オリンピックとはその程度の位置づけでしかない。

でも、「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」という発言がすべてを台無しにした。東京オリンピックが福島の復興のためなんて、嘘だということが明らかになってしまった。東京は福島とは違う世界にあり、東京でオリンピックをやっても、福島の影響は何もない、ということだ。それをいうなら、東京よりも遠い、福岡や鹿児島でやったほうがいいではないか。東京だけでオリンピックをやれればよいのか。

東京首都圏の発展を支えた電力の源の多くが福島県からだったという事実、その見返りは刹那的なカネでしかなかったのか。東京は福島を見ていない。同情はしているかもしれないが、ともに歩んでいこうという姿勢はない。むしろ、東京オリンピックの実現には迷惑な存在と思っているかもしれない。

もっとも、東京オリンピック云々の話題が出たからこそ、世界中のメディアが注目するなかで、東京電力福島第一原発で今本当は何が起こっているかを、東電が騙し続けられない状況が生まれたという面もある。東京オリンピックが実現することで、東京電力福島第一原発の廃炉処理が本当に実質的に進むのならば、それはありがたいことではあるが、そのような説明は政府からも東京都からも東電からも聞こえてこない。

だまされ続けるのか、あきらめるのか

参議院議員選挙が予想通りの結果となり、安倍政権は信任され、衆議院と参議院の「ねじれ」が解消された。これにより、景気回復へ一層の弾みがつくという好意的な見方と、憲法が改正されて戦争への道を進むのではないかと心配する見方とが表れている。これについては、今後の展開を注意深くみていくしかない。

それよりも、私が問題にしたいのは、「我々はだまされ続けるのか、あるいはもうあきらめるのか」ということである。選挙が終わって、東電は福島第1原発から汚染水が海洋へ流出していたことを初めて認めた。以前からその疑いが指摘されていたが、これまで東電はそれを否定してきた。

海流出、東電が認める 第1原発の汚染水(福島民友)

もう2年前のことは忘れたのか。東日本大震災が起こってすぐ、ネット上では福島第1原発でメルトダウンが起こり始めた可能性が指摘されていた。日本では経験したことのない大惨事が起こる、と。

このとき、政府は「メルトダウンはない」と言い切り、ネット上の情報はデマと決めつけ、国家予算を使った監視の対象となった。そして、ネット上での予想通り、爆発が起こり、後の検証で、ネット上で指摘されていたのとほぼ同様の経過でメルトダウンが起こっていたことが明らかにされた。

政府は正しい情報を流さなかった。もし「知らなかった」というなら、政府は存在の意味をなさない。知っていたとしても、政府は嘘をつき続けた。パニックを起こさせないために、という理由で。このとき、政府は決して我々を守ってくれない、と悟った。

そして、今も嘘をつき続けている。汚染水が地下水に入り込み、その一部が海洋へ流出する可能性は相当に前から指摘されていた。でも、東電はそれを認めなかった。今回もまた、予測不可能だったのだろうか。知らなかったのだろうか。知らなかったとすれば、それはそれで大問題ではないか。

この問題に関するメディアの扱いは大きくない。多くの人々の反応が「ああ、そうか」で終わってしまうのか。

安倍政権は、原発再稼働を公約としている。福島県向けだけは「県内原発はすべて廃炉」と公約しているようだが、それを全国向けには明示していない。しかし、東電は、福島第2原発の再稼働の可能性を否定していない。「全国向けに再稼働を公約としている」という理由で、福島第2原発を再稼働させようとするのではないか、との危惧を持っている。

我々は、このままずっと、だまされ続けるのか。先のブログでも書いたが、「人の言うことをきく」ことを長所とする人間が増えた社会は、こうした公式発表を鵜呑みにし、だまされ続けることを自ら積極的に選択する社会になるのではないか。そして、「おかしい」と異議を唱える人間をあたかも異常であるかのように扱う社会になるのではないか。

一番大事なのは生活、だからお上に逆らわないほうがいい。それは一理ある。戦争遂行中の日本も、スハルト政権下のインドネシアも、多かれ少なかれ、そのような態度にならざるを得なかった。

しかし、民主化後のインドネシアでは、自分の意見を自由に述べる状況が普通になり、昨日の在ジャカルタ日本大使館前での発電所反対デモのような光景は当たり前になった。

翻って日本は、自ら積極的に、お上に対して従順な人間になろうとする傾向が強まっているような気がする。民主主義国家ニッポンで、それを「お上に強制されたから」というはずがない。参議院議員選挙を通じて、原発再稼働と憲法改正を公約とする政権を強く支持したのである。あとはそれに従え、である。民主主義のなかで、人々が自らそれを選択したのである。

そして、我々はだまされ続けるのか。いや、もうあきらめるのか。

だまされ続けるわけにはいかない。あきらめるわけにはいかない。

戦わなければならないのだ。覚悟を決めて。

2年前のあの日、2011年3月11日

2年前のあの日、私は珍しく東京の自宅にいた。

前々日の3月9日までの10日間、インドネシアからの研修のコースリーダーを務めていた。研修場所が横浜で、しかも中部地方へ数日間出張だったため、自宅にはほとんどいなかった。3月10日は、人と会う約束が3件あり、夜も渋谷で知人と夕食をとり、夜遅く自宅に帰った。

3月11日。午前中に、JETROで私の帰国報告会があった。2月末まで務めたJETRO専門家(インドネシア商工会議所アドバイザー)の活動報告で、これを終えてようやくJETRO専門家としての任務が完了した。報告会終了後、アジ研時代の先輩の佐藤百合さんと昼食を共にした。

この日は夜、目黒で人と会う予定があった。しかし、所得税の確定申告書類の作成をまだ行なっていなかったことに気づき、とりあえず、自宅に戻って夕方まで作業することにした。

平日の昼間の自宅で、妻と一緒にいるなんて、今にしてみても、本当に珍しい時間だった。領収証を仕分けしながら、帳簿を付け直していた。まだやや寒くはあったが、春の気配を感じる素敵な午後のひとときを妻と一緒にいられる幸せを感じていた。

そのとき・・・

急に強烈な横揺れが襲ってきた。1分経っても終わらない。2分過ぎ、ちょっと収まりかけたかなと思った瞬間、再び大きな横揺れがやってきた。なかなか収まらない。このままでは、下手すると築40年の我が家が潰れるかもしれないと思い、妻は玄関から、私は縁側から庭へ出た。なぜか、二人とも別の方向から外へ出た。大地が揺れている。本当に揺れている。

5分以上経って、揺れはようやく収まった。そしてその後、数分おきに余震が襲ってきた。つけっ放しのテレビからは緊急地震速報が次から次へと流れ、そのたびに強い余震が何度も続いた。ずっとその状態が続いていた。

別の方向から外へ出た妻とまた一緒に部屋に戻った。上の棚からモノがザザーッと落ちていた。幸い、その程度で済んでいた。そして、築40年の家が幸運にも潰れなかったこと、自分たちが生きていることを確認した。

余震が続き、緊急地震警報が鳴り続くなか、中学校の卒業行事でディズニーシーへ行った娘の安否が気になった。学校の方針で携帯電話は持っていないし、先生とも連絡はつかない。何としてでも娘を迎えに行かなくてはならない。どうやってディズニーシーの近くまでたどり着けるか。でもこの頃、すでに東京の交通機関は麻痺し、膨大な数の帰宅難民が発生していた。やむを得ない、娘の無事を祈るしかない。

テレビでは、津波が仙台平野を飲み込んでいく映像が流れていた。福島市の実家とは何度電話しても連絡がとれない。福島は相当に揺れたはずだ。そうだ、福島・浜通りの原発は大丈夫なのだろうか。急に気になってきた。テレビでは異常なしと言っているのだが。

余震が続き、緊急地震警報が鳴り続くなか、夜遅く、娘の学校から「帰宅できないので全員で浦安体育館に宿泊する」との連絡があった。どうやら娘も子どもたちも皆無事だったようだ。

もしまた昼間のような大地震が来たらもうおしまいだ、と怯えるように眠れない夜を過ごした。

3月12日、翌朝、疲れきった姿の娘が帰宅した。液状化現象で地面が割れて水が吹き出すなかを浦安体育館に避難し、皆で励まし合いながら夜を過ごしたとのこと。娘は、自宅を見てものすごくホッとしたようだ。彼女は、築40年の家は間違いなく潰れていると確信していたし、父母も生きているかどうかわからない、と思っていたからだった。

午後、福島の弟からようやく電話連絡があり、母を含む我が家族はみな無事であることが確認できた。ただ、弟の家の塀が崩れた。それでも私たちは幸運だった。

地震と津波でたくさんの尊い命が一瞬のうちに亡くなった。誰かを助けようと津波の方向へ向かっていって、犠牲になった方々もたくさんいた。そうした方々に助けられたお年寄りが「私が死ぬべきだったのに。助けてなんかくれなくてよかったのに。私なんかにかまわず逃げて欲しかったのに」と号泣している姿が目に焼き付いて今も離れない。彼らが今もそんな思いを抱きながら日々を暮らしていると想像するだけで、何とも言えない辛い気持ちになってしまう。

3月12日午後3時36分、福島第1原発1号機で水素爆発。3月14日午前、福島第1原発3号機で水素爆発。「直ちに影響はない」が繰り返されていた。