「この世界の片隅に」を観て

JICA案件の報告書原稿も終わり、2週間前から何度も点滴を打ってきたヘルペスの治療も終わり、ようやくほっと一息、秋の深まりを家族と感じられる日々となりました。

気持ちは若いつもりでも、体は嘘をつきません。自分に合った仕事のペースを確立し、過労にならないように、過ごしていきたいと思います。
ところで、今週、「この世界の片隅に」という映画を観てきました。戦時期の広島や呉を舞台にした内容でしたが、話の細部に至るまで、取材して実際に聞いた話である様子がうかがえました。この映画の後ろには、たくさんの人々の人生の数ページが反映されてできたものなのでしょう。
また、戦闘機による爆撃シーンをはじめとして、描写もかなりマニアックなほどのディテールにこだわって、実際の様子を再現しようとしていました。
映画自体のストーリー展開はわりと平板ではありますが、かなり長い時間を普通の人々の生活描写に当てていたからこそ、映画の後半の意味は深く迫ってくるのだと感じました。
戦時期ということで、暗い内容ではあるのですが、日常の生活の中での楽しみや笑いも出てくる場面も多々あり、とくに主人公の人間としてのフツーさが愛おしく感じられるほどでした。そして、だからこそ、主人公の周りの日常が壊れていく様子やそれに対する人々の戸惑いや表に出せない怒りがぐっさりと迫ってくるように思えました。
映画を観ながら、これは、広島や呉についての映画ではないと感じました。それは、私たちの想像力に対する挑発だったのかもしれません。ごく普通の日常の生活が、自分たちの意識しないうちに奪われ、それに翻弄されながらも生き抜かなければならない、そうしたことへの想像力を高めることが必要なのだ、というメッセージにも聞こえました。
シリアやイラクをはじめとする世界中の内戦とそれが生み出すおびただしい数の難民のことも、麻薬や薬物に溺れてしまうアメリカの労働者のことも、原発事故である日突然故郷から遠く離れなければならなくなった福島県相双地区などの人々のことも。本当は本来の日常生活があったのに、それを奪われてしまった人々が懸命に生き抜こうとしている、この世界の片隅にある光景なのだ、ということを思い出させてくれるのです。
世の中の空気に巻かれてしまっていても、それにはなかなか気づかないし、気づいたとしても、それをどうにもすることができない、ということがあります。そのとき、人々にとっては自分たちの日常生活をどう守っていくかが最重要課題であり、生き抜くためには何でもしなければならなくなるでしょう。
もう一つ、この映画は、どんなに日常生活が脅かされ奪われようと、自分を見失わない、自分が自分であり続けること、というメッセージもあったように思います。自分を見失わない、その基本は、日々の日常をきちんとしっかりと抑えていくという当たり前のことを当たり前にしていくことなのだと思いました。
左とか右とか、ハトとかタカとか、そういったレッテル貼りは、日常生活を離れた空中戦。地に足をつけた日常をいかに大事に丁寧に生きていくか。世界中の何十億もの「この世界の片隅に」生きる人々の生活に思いを馳せながら、自分の足元をきちんと見て生きていきたい、と改めて思いました。
「この世界の片隅に」は、勧善懲悪でも速いテンポでもない、エンターテーメントでもない映画です。まだの方は、素の自分のままで、鑑賞していただければと思います。

上野公園・国立博物館前の色づき始めた木々
(本文の内容とは関係ありません)

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