「牯嶺街少年殺人事件」を観てきた

今日、家族3人で、エドワード・ヤン監督の台湾映画「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」を観てきました。

今回のは、マーティン・スコセッシが設立したフィルム・ファウンデーションとアメリカのクライテリオン社による4Kレストア・デジタルリマスター版での上映でした。そういえば、2月に、やはり家族3人で観たキンフー監督の「侠女」「龍門客桟」という2つの台湾映画も、4Kデジタル修復版でした。
ずーっと昔、妻と一緒に「牯嶺街少年殺人事件」を観て以来、いったい何年ぶりになるのでしょうか。ストーリーも人物もすっかり忘れてしまっていたのですが、今日、改めて観ながら、その断面・断面が少しずつ思い出されていました。
今回のは236分版、約4時間の休憩なしでした。おそらく、前回観たのは188分版だったのではないかと思います。もっと主人公に焦点が当てられ、主人公を取り巻く少年グループ間の複雑な関係は、今回のほどは細かく描かれていなかったような印象があります。
最初のほうは、顔が似ている人がいるなどして、登場人物の関係がなかなか分かりにくかったのですが、事件が起こって話が大きく展開し始めてくる頃には、だいぶはっきりしてきました。そして、改めて、前半で何気なく撮られたかのように見えたショットがふと思い起こされてきて、もう一度しっかり観ておきたかったという衝動が現れてくるのでした。

大陸から台湾へ渡ってきた外省人と彼らを迎えた土着の本省人、第二次大戦終了以降も残る日本の影、貧富格差、共産主義分子摘発キャンペーンと思しき弾圧の匂いなどが少年少女の日常にも影を落とし、描き出される社会の息苦しくもけだるく、夢やあこがれに邁進しようにもできない、突き抜けない、救いようのない鬱屈した雰囲気が全編に満ちていました。

民主化の成熟を様々な場面で見ることが多くなった今の台湾を意識すると、台湾の人々は、この映画を改めてどのような気持ちで観るのでしょうか。

でも、少年少女の淡い恋愛のなかで表現された言葉のなかに、私たちや社会の遠くない未来を暗示させるような、絶望と運命の入り混じった、救いようのないやり切れなさや鬱屈した雰囲気を感じてなりませんでした。

ネタバレになるので、詳しいストーリーは省きますが、4時間という時間を費やす価値のある映画だとは言えます。

この映画を観たのが「ラ・ラ・ランド」を観たすぐ後だったこともあり、二つの映画の描く世界の雰囲気が実に対照的であったことを改めて感じています。それは、現代を生きる私たちの社会において、明るい希望と真っ暗な絶望が併存しているということを、改めて明確に認識させてくれたような気がしています。

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