断食明け大祭を賑やかに祝えなかったムスリムの人々を想う

本ブログは5月1日以降、毎日更新していたのですが、昨日、諸般の事情で頓挫してしまいました。残念ですが、また今日(5/24)から、毎日更新を試みます。

本日5月24日は、ムスリムにとって喜びあふれる日である断食明け大祭の日。日本のお正月のように、大勢で一緒に礼拝をし、家族や親族が集い、喜びの濃厚接触が続く日です。そして、だからこそ、今年は、それらを行えない断食明け大祭となりました。
ロックダウンで、家族と離れ離れだったり、実家に戻れなかったりして、一人でこの日を迎えた人のことを想います。
年に1回、故郷へ戻ってくる子どもたちと会うのが最大の楽しみだったのに、今年は会えないという悲しみや寂しさを懸命にこらえている人々のことを想います。
断食月に施しをもらえた弱い立場の人々が、今回は皆、自分のことで精いっぱいで、施しをもらえず、厳しい状況となっていることを想います。
もしも自分が、新型コロナウィルスの影響で、お盆にも正月にも、実家の親や親族と会えないことを想像することで、今の、断食明け大祭で苦しい状況にあるムスリムの人々のことを想うことができます。
今、誰もが厳しい状態であり、他者のことを想ったり、支援したりする余裕は乏しいのが現状だと思います。誰もが助けてほしい状態、なのだと思います。
そんななかでも、たとえ自分の状況が厳しくとも、自分たちの食料の一部を他者のために提供する人々の姿が、インドネシアの新聞に報道されました。金持ちの施しではなく、貧しき者どうしのささやかな助け合い。
人間は一人では生きられない。誰も取り残さない、なんて上から目線ではなく、日頃から世話になっている隣人同士、自分がこの場所で生きながらえていくために助けるのが当りまえのような感覚なのでしょう。
イスラムの喜捨ということを、もう一度、本質的に考える機会になっているのかもしれません。他者のことを想ったり、支援したりすることを損得でしか考えられない社会こそが、きっと貧しい社会なのです。ついつい、インドネシアと日本を比較してしまいます。
賑やかに祝えなかった断食明け大祭ですが、フェイスブックなどのSNSでの挨拶のやりとりは、例年通り、全く変わりません。むしろ、例年よりも、家で静かに祝っているであろう友人たちのことを想いながら、自ずと心がよりこもったものになっているような気さえします。
面会など物理的なコンタクトが難しい今、それはむしろ、近年、社会的に劣化しているように見える、他者への想像力を錬成するよい機会なのかもしれません。それがコロナ後のより心地よい社会をつくっていく端緒になることを願いたいです。
東京の自宅近くの駅前のバラが満開だった

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