【ぐろーかる日記】恋しいが嬉しいに変わっていく、FACEBOOKのおかげ [2020/12/16]

今日(12/16)の朝、自分のFACEBOOKページに、以前、インドネシアに住んでいたときの場所の名前と「恋しい」という言葉をずらずらとインドネシア語で書いて投稿した。

こんなふうに・・・。

Rindu Rawamangun. Rindu Jalan Lombok. Rindu Daeng Tompo. Rindu Perintis Kemerdekaan. Rindu Gunung Batu Putih. Rindu Duku Kupang Barat. Rindu semua.

Apple Musicが勝手に集めてくれる「オール・タイム・インドネシアン・ヒッツ」というのをエンドレスで聴いていた。知らない曲もある。昔、よく聴いた曲もある。聴いているうちに、無性に、昔住んでいたインドネシアの場所が恋しくて恋しくてしかたなくなった。

それをFACEBOOKに投稿したら、思いもかけず、たくさんのインドネシア人の友人がコメントを寄せてくれた。そのコメントの一つ一つが、嬉しかった。愛おしかった。コメントを寄せてくれた友人との個々の思い出がよみがえってきた。

2007年10月3日、マカッサルの我が家前に仲間が建てた東屋にて。
この日は中スラウェシ州ドンガラ県在住の環境活動家ヘダール氏(故人)を招いての
意見交換会だった。ヘダール氏からは、焼畑と山の人々の暮らしについて多くのことを学んだ。

FACEBOOKを始めたのは、マカッサルに住んでいた2007年頃だったと思う。マカッサルの友人・知人・仲間たちとやり取りするために始めた。その頃、日本ではまだFACEBOOKはあまり流行っていなくて、ほとんどすべての投稿はインドネシア語だった。

10年も20年も音信のなかったインドネシア人の友人たちとつながることができ、今でも彼らと好きなときにやり取りできている。また、講演会やイベントで顔を合わせただけの大学生たちもたくさん友達申請してきて、私が彼らのことを覚えていなくても、彼らは私のことを覚えていてくれた。

インドネシアには何度か長期滞在した。30年前、研究所の海外派遣員だったときは、2年の任期が終わったら帰るので、お世話になった東ジャカルタ・ラワマングンの下宿を除いて、インドネシアは調査研究の単なる対象という認識だった。帰国した後は、ほとんどのインドネシア人の知り合いとの関係は切れた。インドネシア滞在中の今からすれば恥ずかしい行為も、誰にも知られないから、記憶から消し去ることができた。

それが変わったのは、25年前に家族3人でマカッサルに住んでからだ。JICA専門家のときだった。付き合いがずっと濃密になった。毎日毎日、たくさんの方々と議論・情報交換した。マカッサルでの反華人暴動のときも、通貨危機でモノが市中になくなったときも、たくさんの方々に助けてもらい、私たちもできる限り、お世話になっているお手伝いや運転手や様々な人を必死で助けた。

JICA専門家の任期が終わるとき、知り合った方々と一生付き合っていく、と決心した。それをスラウェシと一生付き合っていく、という言葉で表現した。

帰国後も、インターネットの電子メールでやり取りできた。でも、送ってもなかなか返信が来なかった。また、離れていってしまうのか、と思った。

2006年にふたたびマカッサルに単身赴任。縁あって、友人の一族の本家である2階建ての大きな家をまるごと借りた。はてどうしようか、と思ったときに、ひらめいた。マカッサルの地元の若者たちの活動スペースとして提供しよう、と。私は1階の後ろ半分に住み、残りは彼らに使ってもらう。

そうして、彼らのNGOのオフィス、自分たちで運営する図書館、映画上映などのイベントやセミナーを行うスペース、そしてカフェのある東屋までできた。マカッサルでは有名なパブリックスペースになった。

そのときなのだ、FACEBOOKを彼らと始めたのは・・・。

今はもう、そのスペースはマカッサルにはない。彼らが自分でもう少し小さいスペースを作って、それぞれに活動している。そして、それに加えて、インドネシアの有名な映画監督であるリリ・レザやメルボルン在住の小説家のリリ・ユリアンティと知り合い、リリ・レザの実家をリノベして、ルマタ(Ruma’ta、「あなたの家」という意味)というパブリックスペースができた。私もささやかながら協力した。

あのときから始めたFACEBOOK、今も時空を超えて、インドネシアで知り合った大切な友人たちとつながっている。住所や電話番号を探す必要はない。常にやり取りする必要もない。好きなときに「元気~?」と声をかければ、「元気だよ~」と返ってくる。

そんな束縛もストレスもない、ただつながっているという関係がFACEBOOKで作られた。そして今も、「恋しい」という私の発信に対して、返信してくれる友人たちがメッセージを送ってきてくれている。

そう、インドネシアはもう、自分とは不可分。でも、彼らの恩にまだ何も返していないに等しい。誠意をもって一つ一つ丁寧に対応していければなあ、と思う。

恋しい、が、嬉しい、に変わっていく。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください