村を育てる学力、村を捨てる学力

ツイッターを眺めていたら、地域づくり関係で私が注目している方の紹介している言葉に目が止まった。そこでは、小学校の先生が黒板に書いた板書の写真が掲載されていた。
その言葉は、以下のようなものだった。

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 村を育てる学力

 

 私は、子どもたちを、全部村にひきとめておくべきだなどと考えているのではない。

 ただ私は、何とかして、学習の基盤に、この国土や社会に対する「愛」をこそ据えつけておきたいと思うのだ。みじめな村をさえも見捨てず、愛し、育て得るような、主体性をもった学力、それは「村を育てる学力」だ。そんな学力なら、進学や就職だって乗り越えられるだろうし、たとえ失敗したところで、一生をだいなしにするような生き方はしないだろうし、村におれば村で、町におれば町で、その生まれがいを発揮してくれるにちがいない、と思う。

 「村を捨てる学力」ではなく「村を育てる学力」を育てたい。

 「村を育てる学力」は、何よりも、まずその底に、このような「愛」の支えを持っていなければならない。それは、町を育て、国を育てる学力にもなっていくはずだ。
 村を育て、町を育て、国を育てる学力は、愛と創造の学力である。それは、村に残る子どもにとっても、町で働く子どもにとっても、しあわせを築く力となり、子どもたちの、この世に生まれてきた生まれがいを発揮してくれる力になっていくのだと、私は信じている。

「東井義雄 一日一言 いのちの言葉」より
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教育というものは、近代化の手段だった。教育を受けて得られる学力は、自分を古く遅れた世界から解放し、新しい進んだ世界へ導くものだった。だから、教育は子どもたちを伝統的で閉鎖的な世界から近代的で開放的な世界へ、すなわち子どもたちを村から町へ引き剥がしていくものだった。
多くの場合、それが進歩だと見なされた。東井氏の言葉で言えば、教育が授けたものは「村を捨てる学力」だった。
彼の人生を少し調べてみた。戦前は皇国教育を徹底した教育者だったが、戦争を経て、そこでの深い懺悔と反省のもとに、戦後は綴り方教育を通じて、主体性を持った子どもの教育を兵庫県の村で行い続けた。
彼の言葉には珠玉の響きがある。彼のたくさんの言葉に勇気づけられ、励まされた人々は、教育者をはじめとして、数多いことだろう。
なかでも、上に挙げた「村を育てる学力」で私が最も心を打たれた言葉は、「生まれがい」という言葉だ。
それぞれの子どもの「生まれがい」をとことん尊重する。そこに国土や社会に対する「愛」を育ませることで、主体的に自分の依って立つ「村」を大切に思う気持ちを促す。その子が村に残ろうが町へ出ていこうが、大事なのはその子たちの「生まれがい」が尊重されることなのだ。
村を育てる学力は、必ずしも村に残って頑張るための学力ではない。世界中どこにいても、村のことを思い続けて行動できるための学力である。その場所が、たとえ村でなくとも。
昨今の地域づくりの現場では、人口減少という深刻な状況に直面して、UターンでもIターンでもなんでもいいからとにかく人口を増やすにはどうするか、ということに関心が集中しすぎているきらいがある。そして、村の子どもたちにできるだけ村に居続けてもらうために、大人たちが子どもたちに対して、村の将来への過度な期待を半ば強制している様子もうかがえる。とくに、震災後、その傾向が強まった印象がある。
次の世代への期待は当然ある。でも、それが強すぎれば、そして表面的には子どもたちが健気にその期待に応えようとしているならばなおさら、どこかで無理が生じて破綻するのではないかと危惧する。なぜなら、そこには、大人の思惑はあっても、村に対する「愛」が大人にも子どもにも欠けているからだ。
村を育てる、という言葉は今や死語なのだろうか。市町村合併と高齢化が進み、村を育てるどころか、村を維持できるのかが切実な問題となってしまっているからだ。
そして、とくに行政上の効率の観点から、村を町へ糾合するような政策の流れも加速化している。村を育てる学力が必要な局面は、もうとうに過ぎてしまったということなのか。
東井氏の地元である兵庫県豊岡市では、兵庫県立の国際観光芸術専門職大学(仮称)の設立準備が進んでいる。国公立初、演劇を本格的に学べる兵庫県立の専門職大学で、兵庫県但馬地域を拠点に観光・芸術文化分野で事業創造できるスペシャリストを育成する、という目標を掲げ、学長に平田オリザ氏を招聘する計画のようだ。
平田氏は、東井氏の「村を育てる学力・村を捨てる学力」を意識しつつ、グローバル化に直面する今の教育が「国を捨てる教育」になるのではないか、との危惧を示している。この新大学をそれに対する新しい地域発の価値創造の場としたいのだろう。
それも良いのかもしれない。でも、今必要なのは、やはり、広い意味での「村を育てる学力」なのではないだろうか。村ではなく、広くコミュニティや地域社会や集団をも包含する「ムラ」と捉えたほうが良い。「ムラを育てる学力」を養うのは、学校だけでなく、コミュニティや地域社会や集団、もしかすると家族もなのではないか。
学力は授けられるものではなく、主体的に自分たちで学び取っていく力である。今必要なのは、自分から自分の依って立つ足元を学ぶこと。それは必ずしも、自分がそこに居続けなければならないということではないはずだ。たとえムラから離れていても、ムラのことを思い、それを踏まえて行動する。そして、そのムラは国境を越え、あるいは、世界中に複数のムラを抱いて生きる人々もいることだろう。
東井氏の「村を育てる学力」を「ムラを育てる学力」と言い換えて現代の文脈で考えたとき、その根本にあるのは、ローカルを基盤としつつもローカルに必ずしも留まらない、ローカルに「愛」を持った人々が様々なムラで活動する、そのための学力、ローカルへの「愛」に根ざした自分の頭で考える力、と言いかえることはできないだろうか。
「ムラを育てる学力」を育てたい、と改めて思った。
私が小学1・2年生の時に過ごした二本松市立原瀬小学校の旧校舎。当時、父はこの学校の校長で、2年間、この敷地内にあった校長住宅で過ごした。この松の木には数え切れないほど登って遊んだ。2012年3月9日撮影。東日本大震災で建物が危険な状態になり、旧小学校の建物は取り壊された。

新自宅へ移るのはのんびりと

今住んでいる家の隣に、新しい家が建ちました。私たちの新自宅です。
庭から見ると、こんな風に見えます。向かって左側が、今、住んでいる自宅です。

2階+ロフトというつくりで、屋根には太陽光パネルと太陽熱ヒーターが載っています。
太陽光パネルで発電し、売電はせず、蓄電池に貯めて使います。冷蔵庫用などに電力会社からの電力も使いますので、完全なオフグリッドではありませんが、セミ・オフグリッド、という感じです。
すでに、3月半ばに鍵は引き渡され、内装は終わっており、後は引っ越すばかりなのですが・・・。

新自宅につけるスロープや家の周りのタタキ、門を含む外構がまだでき上がっておらず、まだ工事中です。
今日は、アマゾンに頼んだ宅配の荷物が「住所不明」ということで届かず、再配達される、という事態がありました。通りに面しているのですが、工事中で、どうもよく分からないまま、当方へ連絡することもなく、荷物を持ち帰ったようです。
万事がのんびりペースで進めているので、外構も終わっていないし、新自宅への引っ越しも当初の予定よりずっと遅れそうです。急がなければいけないわけでもないので、ゆっくり引越しするつもりです。
新自宅へ引っ越した後、今の家は、借家かシェアハウスにして、どなたかにお貸ししたいなあと思っています。また、敷地内にもう一軒ある、通りに面した建物は、シェアハウス(またはオフィス?)+私の仕事スペースにする予定です。いずれも、私たちののんびりペースで進めているので、いつ完成するか、まだ分からない状況です。
のんびりペースにお付き合いできる方に借りていただければ、お互いに居心地がいいのではないか、と勝手に思っています。
ご希望の方はいらっしゃいますか? いらっしゃったら、別途、個別にご連絡ください。庭には、花見のできる桜の木や柿の木などもありますよ。
新自宅の様子は、今後もおいおい、お知らせしていきます。

柿の花を見たことがありますか

東京の我が家の庭には、柿の木が3本あります。1本が甘柿、1本が渋柿、1本はよく分かりません。

3月後半の桜の花が終わって、我が家の庭は今、ツツジの花が盛りを終え始めました。

新緑、といってよい若々しい緑がどんどんしげり、うっそうとし始めた柿の木。すると、妻から「ちょっと来て!」という声。

妻が指差す方向を、目を凝らしながらみると・・・

柿の葉の間に、いくつもの四角い花を見つけました。柿の花です。

これは甘柿の木。1年おきに豊作と不作を繰り返します。

今年は、もちろん豊作に違いありません。

関西に行くと、いつも楽しみにしているのが柿の葉寿司。ということで、柿の葉はおなじみでしたが、柿の花は今回初めて見ました。

皆さんは、柿の花を見たことがありますか。

マスクが大量に売られているのだが・・・

先ほど、ようやく『よりどりインドネシア』第69号を発行

日本で、世界で、マスクが入手できない、という声がずっと続いているのに・・・。

なぜか、東京の自宅の周辺では、数週間前から、マスクが大量に売られている。自宅から通りに出て、すぐの3店で、売り切れることもなく、マスクが売られ続けている。
そして、自宅から駅までの間で、マスクを売っているところが、さらに2~3ヵ所ある。

でも、それはドラッグストアや薬局ではない。ドラッグストアや薬局では、依然として入荷していない。

自宅の近くでは、上の写真にある健康食品を売っている店、雑貨店、そしてそれらと通りの反対側にある小さなスーパーで、マスクが売られている。
駅までの間では、なぜか、飲食店でマスクが売られている。
そして、売り切れることなく、ずっと売られている。群がってマスクを買っている人を見ることもない。
価格は、50枚1袋で3,000円程度。
日本語表示はされているが、製造元や品質に関する情報が不明確なのである。
日本の有名メーカーの製品なら、たちどころに売り切れるだろうが・・・。
アベノマスクの話や、シャープなどが製造するという段階になって、どこかでだぶついていたマスクが一斉に姿を現したのだろうか。
SNSでは、出元不明のマスクが大量に売られていて、しかも値崩れを起こし、毎日、売価がどんどん下がっている、という話もある。
マスクは、感染防止という性能が決定的に重要なので、その性能が明確でないマスクはいくらあっても売れないし、ドラッグストアや薬局でも売らないという判断なのだろう。
マスクを売っている自宅近くの店では、今日から、ハンドサニタイザーも売り始めた。でも、やはり出元不明である。

貧困の津波

アートへのアクセスを民主化させたい

新型コロナウィルス感染拡大は、私たちに様々な困難を強いている。自分も含め、多くの人々が日々の生き残り策に集中し、自分以外の人々になかなか関心を向けられない状況になっているのかもしれない。

そんななかで、今日、自分に突きつけられた言葉。
それは・・・「貧困の津波」
2020年5月3日付『朝日新聞』の国際面のその言葉があった。

新型コロナウイルスの大流行により、世界中で4億人以上が貧困状態に陥り、貧困問題は10年前に逆戻りする恐れがある――。国連大学の研究所が先月、そんな予測を出した。報告書を書いた研究者は事態の深刻さを「まるで貧困の津波だ」と語った。

インドで起こった突然のロックダウンで、解雇などで失職し、交通機関も途絶えるなか、故郷へ、何十キロも、何日も、昼の炎天下、食べ物もお金も尽きても、無言のまま歩き続ける人々。
故郷の村まであと150キロのところで息絶えた12歳の少女は、そんな数百万人の人々の一人だった。
彼女の12年の人生を思う。インドは豊かになったのではなかったのか。

法外な料金を払い、荷台にぎゅうぎゅう詰めのまま、運よくトラックに乗れても、故郷へ向かう途中で警官の検問に出くわし、首都デリーへ強制的に戻らされる。避難所に収容されればラッキーなのだが、故郷へは戻れぬまま。ロックダウンのなかでどうやって生きていくのか。

人口14億人のインドを「貧困の津波」が襲う。
南アフリカでも、ケニアでも。インドネシアでも。そして日本でも。
自分ではもうどうにもならない、でも誰も助けてくれない、世界も国も金持ちも。
貧困の津波は、寄せては返し、寄せては返しを繰り返し、起こり続けていく。そして、寄せては返すたびに、貧困は深まり、そして広がる。
成長重視から分配重視へ生き方を変えよう、などと言える余裕はもうない。
感染で亡くなる。そして、感染しなくとも、貧困で亡くなってしまう。
富める先進国も、自国のことで手一杯で、「貧困の津波」が世界中で起こっていくことに頭が回らない。自分たちの生活が第一であることは当然である。でも、同時に、世界中に「貧困の津波」が押し寄せていることにも心を留めておきたい。
この種の「津波」の予知が難しいのなら、せめて、金銭的な施しや人道支援はもちろんだが、それだけでなく、「津波」の力をどう緩められるか、どう乗り越えていけるか、世界中で皆が知恵を出し合い、行動していかなければならないだろう。
自分がもしも彼らだったら・・・・。「かわいそうなひとたち」で片付けている間は、人々が思い合う新しい世界は造れない。どうすればいいのか、簡単に答えは出ないが、しっかりと心に留めておきたい。

アートへのアクセスを民主化させたい

ダリケーのペイフォワード、さらにその先へ

貧困の津波

京都のチョコレート製造販売会社、ダリケー。インドネシア・スラウェシ島産のカカオを使ったチョコレートや、非食品を含む様々なカカオ製品を製造・販売しています。

おそらく、インドネシア産のカカオを使ったチョコレートを日本で製造販売しているのは、ダリケーともう1社ぐらいでしょうか。

スラウェシということで、私も、ダリケーのアドバイザーとして、お手伝いをしてきています。毎年恒例の、スラウェシのカカオ農家を訪問するツアーの引率をずっと務めています。

ダリケーについての詳しい話は、同社のホームページ(https://www.dari-k.com/)をご覧ください。

そのダリケーが今、ペイフォワードという取り組みを始めています。

新型コロナウィルスの影響で、他者と同様、ダリケーも多くの在庫を抱えることになりました。そのままでは、スラウェシのカカオ農家からの買付を続けられなくなってしまうかもしれません。でも、そもそもダリケーは、国際価格に翻弄されるカカオ農家に寄り添うことを目的に事業を始めた経緯があります。

新型コロナウィルスに翻弄される今、ダリケーは社会に対して何をなすべきなのか。ダリケーも含めて、関わる人々がウィン=ウィンを共有できるような仕組みとは何か。

考えに考えた末に、出した結論が、今回のペイフォワードです。

すなわち、新型コロナウィルス対策の最前線で懸命に対応している医療従事者への感謝の気持ちを自社のチョコレートで示す。そこで、趣旨に賛同していただいた方にチョコレートを購入してもらい、その販売量に合わせて、医療従事者にチョコレートを届ける。

ダリケーの在庫を減らすことができ、カカオ農家からの買付も継続できます。

医療従事者の方々にとって、チョコレートは決して必需品ではないかもしれません。でも、たとえほんの束の間でも、ホッとするひと時を味わえる。そのチョコレートの裏に、たくさんの方々が応援している気持ちが伝わります。

チョコレートには、そんな誰かが誰かのことを思う、思い合う、そんな気持ちと気持ちを通わせる力があるはずです。

名も知れぬ誰かが医療従事者である誰かのことを思ってくれている。その実感。

ペイフォワードで購入したチョコレートを味わう購買者も、今頃、自分の知り合いでも何でもない医療従事者である誰かを思う。

そして、そんな思い合い(思い愛?)の根本は、スラウェシのカカオ農家が作ってくれたカカオにある。そんなカカオ農家のことを思う。カカオ農家は、自分たちのカカオを使った製品が日本の医療従事者の力になっていることを思う。

そんな思い合いが繰り返され、広がっていったら、そのような世界は幸せな世界になるのではないでしょうか。

コロナ後に私たちが目指す未来の一端は、もう始まっているのかもしれません。

そして、そして、ペイフォワードでダリケーのチョコレートを購入した方々は、医療従事者やカカオ農家やダリケーのことだけでなく、ほかの方々への感謝の気持ちも現れるかもしれません。それは、たとえば、ダリケーのチョコレートを配送してくださった宅配業者とか・・・。

誰かを思い、誰かから思われる。それが連鎖となって、次から次へとつながっていく。自分は一人ではないと、みんなが思える世界。新型コロナが強いる、物理的に遮断される社会は、だからこそ生まれる思い合いの連鎖が、あたかも想像の共同体のようになり、つながっていく、他者を信じられる世界へつながっていくのかもしれません。

未来を悲観したり、諦めたりしたくはありません。ダリケーのペイフォワードのさらにその先に、新型コロナ後の新しい世界が少し見え始めたような気がしています。

貧困の津波

ステイホーム、だからこそつながる

ダリケーのペイフォワード、さらにその先へ

ステイホーム。不要不急の外出を控える。行動自粛。友人や知人とも会わない。皆さんと同じように、私もそんな毎日を送っています。

動いてつなげるのが私の仕事のスタイル。でも、インドネシアへも福島へも行けず、東京の自宅で家族と過ごしています。

幸い、自宅の庭では、今、ツツジなどの花が咲いていて、なごみます。

そんななか、いつもお世話になっている「鳴子の米プロジェクト」から、追加でのお米の注文依頼が来ました。

同プロジェクトは、農家と消費者を直接結んで、消費者が農家を支えるCSA(Community Supported Agriculture)の実践で、「ゆきむすび」というお米を生産・販売しています。

「ゆきむすび」は在来の耐冷品種を復活させたものです。消費者へ直販することで、生産者が年々広がる遊休地・耕作放棄地でその在来品種を栽培し、消費者とともに地域の農業を守り、地域活性化を進める取り組みを続けています。
 鳴子の米プロジェクトのサイトはこちらから → http://www.komepro.org/
同プロジェクトは東京都内で、アンテナショップを兼ねた「むすびや」というおむすび屋さんを運営しているのですが、新型コロナの影響で閉店、そのために用意していた「ゆきむすび」が余ってしまいました。その余剰米を買ってほしいという注文依頼でした。
ちょうど、我が家でもお米を追加注文しようかと思っていたタイミングだったので、すぐに注文しました。来るのが楽しみです。
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続いて、福井県で農業を営む友人から連絡がありました。彼の農園からは、高級レストランなどのプロ用にベビーリーフを出荷してきましたが、新型コロナの影響でレストランが閉店し、行き場を失ってしまいました。
この行き場を失ったベビーリーフを、希望者向けに販売し始めました。1組(100g x 5袋)は通常価格1,890円(税込)ですが、それを972円(税込)の特別割引価格で提供します。
 ベビーリーフの詳しい情報はこちらから → https://nouen-taya.raku-uru.jp/item-detail/344199
彼のところのベビーリーフは、プロ用ということもあり、一般に売られているものとは明らかにモノが違います。こんなお買い得なベビーリーフはまずないです。
当面、200組を用意とのこと。注文はお早めに。
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物理的に友人や知人には会えないけれど、つながることは決して難しくはありません。きっと、個々人レベルでは、こんなささやかな思い合いが今、起こっていることでしょう。
何かあったときの思い合い。ステイホームがそれを妨げることはありません。
ステイホーム、だからこそつながるのかもしれません。そんな心の通う思い合いから、新型コロナ後に私たちが創りたい、新しい社会が垣間見えるのではないでしょうか。

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法人化4年目、少しずつ前へ

個人事業主から法人化して4年目に入りました。

いやな仕事は受けない、やりたい仕事だけをやる、でもやらなければならない仕事はたとえ無報酬でもやる、という方針で、わがままに活動してきました。間違いなく、経営者としてはまずいのでしょう。

当初、思っていたほどには順調ではなく、何とかやりくりしてサバイバルしている、という感じです。

今のような、物理的に何も動けない状態になって、お給料を毎月いただいていた頃をついつい思い出してしまう自分を、ちょっと情けないと思ったりもします。でも、それと引き換えに、組織に忖度する必要のない、すべて自分の頭で考えて動いていけると感じられるのはありがたいことでもあります。

前職を辞めるときに思ったのは、自分は何のために生きているのか、そのためにどんな人生を歩んできたのか・歩んでいくのか、という問いでした。

そもそも、何のために前の職場に入ったのか。23年間勤めても、その原点を忘れることができなかった、のでした。大人になれなかった、と人は言うのかもしれません。

誰かが敷いてくれたレールや皆と同じ道をたどることが、「自分は何のために生きているのか」という問いに沿ったものなのか。もし誰も前例をつくっていないような生き方をしなければならないなら、自分でつくるしかないのではないか。

そして、前職を退いてから13年以上経った今も、その自分への問いと厳しい現実との間で、相変わらずさまよい続けている、というのが現状かもしれません。

いつ自分の人生が終わってしまうかはわかりません。足元の日々の当たり前を大切に思いながら、少しずつ、一歩一歩、自分なりの速度で進んでいく、何の変哲もないふつうの人生を歩んでいく。そう生きていくのだと思います。

様々な方々から様々な教えを受け、自分なりに思考し、様々な方々と学び合っていきたいです。自分の大事な人的ネットワークを広げ、深めながら。

続けざまの無くしもの

3月1~11日のジャカルタ・スラバヤ出張は、今になってみると、ギリギリのタイミングで実行できたのだなあと、つくづく思う。それについては、また別に書くとして。

今回は、無くしものの話。それも、続けざまの無くしものの話。

今回のインドネシア出張中に、出張や移動の際の必需品ともいえるものを無くしてしまった。それは、BOSEノイズキャンセリングイヤホンだ。

もうかれこれ5年ぐらい愛用していた。

ノイズキャンセリングの良さと音の良さ。購入したときはBOSEなのでちょっと高価だなと思ったが、実際に使ってみると、その性能の良さに大満足だった。

飛行機に乗る際には手放せなかった。備え付けのヘッドフォンはもう使えなかった。まだ有線なので、座席前のUSBポートにコードを差し込み、充電しながら使用できた。東京=ジャカルタ便7時間でも電池切れなし。

音楽を聴き終わって、BOSEを付けたまま寝込んでしまうと、雑音が入らず、気持ちよく睡眠できた。

飛行機の中で寝るときの三種の神器は、アイマスク、口マスク、そしてノイズキャンセリングイヤホン。これで飛行機の中でじっくり休める。

その大事なノイズキャンセリングイヤホンを紛失してしまったのだ。

ジャカルタで代替品を買おうと思ったが、同じBOSEのが500万ルピア以上、日本で買うよりも遥かに値段が高い。店で「今や有線なんてないよー」ともいわれた。

とりあえず、ノイズキャンセリング機能のない、普通のSONYのイヤホンを30万ルピアで購入した。このイヤホン、カナル式で音も良く、思ったよりいい買い物だった。

しばらく使っていたが、これもどこかで無くしてしまった。おそらく、帰りのジャカルタ=東京の飛行機のシートポケットに入れたまま置いてきてしまったような気がする。

そして、つい最近、東北新幹線で東京から福島へ移動した際、充電コードとUSB2口アダプターを車内に忘れたまま、福島で降りてしまった。

続けざまに、ものを無くして、ショックだった。自分の注意力がこうも散漫になるものなのか。これまでも、無くしものはあったが、こんなに続けざまというのは、まずなかった。これも歳をとったということなのか。

ノイズキャンセリング・イヤホンは必需品なので、結局,以下のソニー製の新しいものを購入した。本命のAirPodは入荷見込がつかなかった。

 SONY WF-1000XM3

今度は無線。完全ワイヤレス。充電の心配はあるが、線がないとこんなにも自由なのか、と思った。

ノイズキャンセリング機能も十分。使用者の行動を察知して、自動で外の音をどれぐらい取り入れるか、ノイズキャンセリングの程度を調整する機能はなかなか便利。

必ずケースにしまうので、無くす心配もないように思える。でも気をつけよう。

101年の歴史に幕

3月14日、妻と一緒に、東京都心の小さなメガネ屋さんを訪れた。妻の頼んでいたメガネを取りに行くためだった。この日に必ず行かなければならなかったのだ。

この日が、メガネ屋さんの最後の日だった。

1920年にメガネ卸商として開業し、今年で101年目。店主のおじさんは2代目。80歳代後半となり、病気もあり、体力的に店を続けるのが難しくなったとのこと。

妻の亡き父親が、かつて知人から腕のいいメガネ屋さんとして紹介され、それ以降、妻の家族がずっとお世話になってきた店で、店主のおじさんは、妻のまだ幼い頃からずっと知り合いだった。

私も30年前、一度、ここでメガネを作ったことがある。ずっとよかった視力が落ちて、運転免許証の更新ができるかどうか不安になり、年のためにつくってもらったのだ。

その後、ジャカルタに2年間滞在している間に、あまり仕事をしなかったせいか、視力が回復し、メガネを日常的にかけることはなくなった。

そのまま今に至るが、今は、細かい数字や地図を見るときなどに、このメガネをわずかの時間だけかけることがある。

店主のおじさんのメガネのプロとして歩んだ人生と、彼を支え続けてきた温厚なおばさんの人生を思い、心から「ごくろうさま」の言葉をお二人にかけた。

都心の名もなき小さなメガネ屋が一つ、101年の歴史を閉じた。

店の外の気温は2度。水気を多く含んだ春の雪が降り続いていた。

庭の桜に一輪の桜花

1ヵ月ぶりのブログ更新、となりました。

記録的な株価暴落を記録したこの日。

我が家の庭の古い桜の木に一輪の花が咲きました。

戦後、妻方の一家が東京に住み始めたときに植えられた木で、もう70年以上経っています。毎年毎年、そろそろ枯れるかと思いつつ、どうやら今年も咲いてくれるようです。

全体でどのぐらい咲くのだろうか。

今年も我が家の庭で、ささやかなお花見ができるといいな。

固有名詞でつながる世界をつくるための対話

数日前、個人ツイッター(@daengkm)に次のようなつぶやきを書いた。

日本以外にいる、個人名でお付き合いしている友人・知人は何人いますか。自分は、ずいぶん前に、人数をもう数えられないので、数えるのをやめてしまった。

いつの頃からだろうか、友人をどの国の人か、人種は何か、宗教は何か、というような面から見ることができなくなった。インドネシア人だとか、イスラム教徒だとか、ブギス族だとか、そういううふうに見ることができなくなった。

もちろん、彼らとやり取りする言葉は違う。彼らがインドネシア語でメッセージをくれればインドネシア語で返し、英語でやりとりすることもあるし、日本語のときもある。

日本人だからより近い友人だとか、インドネシア人だけど近い友人だとか、そういうふうに思えなくなった。いるのは、ただ単に、信頼できる友人、話していて楽しい友人、意見は異なってもその違いを尊重してくれる友人、それだけである。

私たちは、この世に生を受けた場所がたまたまそこだった、親がたまたま国籍や種族がそうだった、ということで、何らかの属性をもって生まれてくる。国家が私たちを生まれさせたのではない。生まれたときの属性のなかに、偶然、たまたま、国家というものがそこにあったに過ぎない。

もちろん、たとえ国家がなかったとしても、人間は生まれるのだ。そして、国家のために生まれたのではない。自分が一人の人間として生きるために生まれたのだ。

ただ、人間として生きていくために、他者と自分を区別するために、名前がつけられる。生きていくためのコミュニティに身を置く。そこで暮らす。そこで個人を識別するものは、名前という固有名詞であって、国籍や種族ではない。

〇〇国人は△△だ、□□族は??だ、といったたぐいの話を一般にきく。でも、その特性を証明するデータや論文は存在しない。人間は一人ひとり異なる。善人も悪人もいる。感情的な人も冷静な人もいる。どんな国でも、どんな種族でも、一般化の根拠になっているのは外部者(ときには内部者も?)の勝手な印象にすぎない。

外国人という方々と接するときに、そうした、ただの印象論に基づくバイアスが無意識にかかってはいないだろうか。

初めて会うときはやむを得ないかもしれない。この人はいい人なのか、信用できるのか、こちらを騙そうとしていないか、なにか思惑があるのではないか。色々と詮索してしまうのは当然である。

では、何をきっかけとして、どの当たりから、相手を信用できると思えるようになるのだろうか。

見た目だけでそれがわかるのは超能力者だけだろう。普通人には、対話のプロセスが必要になる。対話が成り立ち、お互いに自分をさらけ出せるレベルまで対話が進んで、初めて相手を信用できるのではないかと思えるようになる。

もっとも、それが常に正しいとは限らない。間違っていて、あとで後悔するような事態にならないとも限らない。それでも、相手を知るためには、対話するしかないのではないか。

対話のしかたというのもあるだろう。相手として安心できる対話とはどのような対話だろうか。こちらがずっと警戒し続ければ、相手もずっと警戒する。相手の疑念が溶け、安心できるような対話術。それは、こちらから相手を信用しようという態度からしか生まれないのではないだろうか。

そうした対話を通じて、〇〇国人とか□□族とかではない、お互いの名前という固有名詞でつながる関係を作ることができる。あるいは、そこまで行かなくとも、対話を通じて、自分と通じ合えるであろう人間がこの世の中に存在することを確認することができる。

さらに、そうした方々が暮らす地域もまた、固有名詞の地域として存在する。国家の一部ではあるが、国家がどうなろうとも、人々の暮らしの舞台である地域は固有名詞の地域として存在し続ける。

対話を通じて人と人が安心でき、信用し合える、固有名詞でつながる関係をつくるのと同じように、地域もまた、固有名詞の地域として他の地域とつながり合える。官僚的手続は国家を経由することを求める場合もありうるが、国家を経由しなければつながれないわけではない。地域と地域との間も、そこに関わる人々どうしの対話を通じて、安心でき、信用し合える関係を作っていけるはずである。

人間どうしが属性や肩書などと関係なく、対話を通じて互いに尊敬し合い、信用し合える関係をつくるときには、どちらが上か下かという話は起こり得ない。同じように、地域と地域が関係をつくっていく際にも、どちらの地域が上か下かという話にはならない。

その人間を育んできた自然や社会や文化や歴史が違うのと同様に、地域を成り立たせる自然や社会や文化や歴史が異なるのだから、どちらが上か下かを比べることはできないはずなのである。

他方、国家は、経済規模や戦争などを通じて、いつの間にか、上下関係が常態化してしまった。様々な比べる指標があるからである。

そうなのだ。固有名詞でつながる世界は、上下関係、主従関係から解き放たれた世界、互いの違いを尊重し合える世界なのかもしれない。そのために必要なのは、対話、そしてそれを続けるためのいくばくかの忍耐と寛容なのではないか。

地方に自らの足元を学ぶ場を広げる

大学入試の季節になってきた。大学の数や種類は、圧倒的に東京などの大都市に多い。このため、たくさんの若者が大学受験のために大都市へやってくる。

学びの機会は大学に限らないが、それでも、学びの機会の数は圧倒的に東京などの大都市のほうが多い。就業機会が大都市に多いことは明らかだが、就業に続く学びの機会が大都市に多いことが就業機会の大都市集中の理由でもあり、結果でもあるように思える。

彼らは何を学びに大都市へ向かうのだろうか。それは、普遍的な学問、すなわち、日本中、いや、世界中どこでも通用するユニバーサルな学問を学びに来るのだろう。学問の真理とは、理論や論理の普遍性にあるからである。

地方にも大学はあるが、そこで若者が学ぶものは、大都市で学ぶものと基本的に同じである。すなわち、世界中どこでも通用するユニバーサルな学問である。大都市へ行かずとも、地方の大学でそれを学べるはずである。しかし、若者は大都市へ向かい、地方の大学で学べるのと同じ学問を学ぶ。でも、それは本当だろうか。

地方の大学のプロの研究者ならば、より学問的にレベルの高い場所へ移って、自分の学問に磨きをかけたいと願う。その結果、地方の大学から大都市の大学へ移る。地方の無名大学から大都市の有名大学へ移り、研究者としての他者からの評価を上げていくことになる。

こうした大学を例にした状況をみれば、学ぶということがユニバーサルな学問だけである限りにおいて、学ぶ機会は大都市へ集中し、そこでの様々な相互作用によって、ユニバーサルな学問が進化していく、ということになる。

このことを否定することはできない。新しい理論や学説は、様々な研究者どうしの関わりのなかから生まれ、真理の追求が進められるからである。

では、地方には、学ぶ機会がないのだろうか。地方における知とは、おそらく、世界中のどこでも通用するものではないかもしれないが、その地方では必ずや通用する、というようなものである。たとえば、農耕儀礼などは、その地方の気候や風土と密接に結びついており、違う地方や大都市には当てはまらないものであろう。

そのような、ユニバーサルでない知は、学ぶ価値のないものなのだろうか。

私は、インドネシアという、日本とは大きく異なり、一国のなかに様々な多様性を持つ空間を対象とした、地域研究に携わってきた。ところ変われば品変わる。地域研究は「理論がない」という批判を常に受けてきているが、それは、気候や風土や様々な異なる背景と密接に結びついた地域をユニバーサルな学問として取り扱えないことによるものであった。

どんなところにも、そこに固有な独自のものがある。それは、先祖代々、その地方の暮らしの継続のなかで守られ、ときには時代に応じて変化し、現代まで続いてきているものである。その継続してきたという事実のなかに、その地方をその地方たらしめている深い意味が存在し、それがその地方の固有性や独自性を形作っている。

新しく外からやってきたユニバーサルな学問に晒されたとき、そうしたその地方の固有性や独自性は、ともすると、遅れた、恥ずかしい、前近代的なものとして虐げられ、捨象されてしまったりする。その地方の暮らしを成り立たせてきたものがなくなる。アイデンティティが消えていくのである。

そうした地方の固有性や独自性のなかには、電気もガスもなかった時代に、その地方の人々はどのようにして暮らしていたのか、どのような保存食を食べていたのか、それを作るための技術や技能はどう継承されてきたのか、といった、長年にわたって積み上げられてきた、その地方に生きる人々の暮らしの知恵が詰まっている。

災害や天災に直面したとき、電気もガスも来ない状態に陥ったとき、私たちは自分の暮らしをどのように維持していくのか。前近代的なものとして捨象された固有性や独自性のなかに、有用なヒントが詰められてはいないだろうか。

ユニバーサルな学問は、必ずしも、様々な自然環境の異なる地方の暮らしを支えてはくれない。そこに生きる人びとの長い歴史の営みから得られた知恵や教えこそが、自分たちの暮らしを支えてくれるのである。

そして、そうした様々な地方の固有性や独自性に基づく知恵や教えを学ぶことで、様々な地方の根底に流れる共通する何かが浮かび上がってきたときには、それがユニバーサルな学問として立ち上がるかもしれない。

現代は、外来のユニバーサルな学問やグローバリゼーションという名の世界的潮流の浸透によって、地方が長年にわたって培ってきた様々な知恵や教えが消滅していく時代である。その地方の住む人々が、ときには率先して、それらの消滅に加担し、スマホでなんでも分かると錯覚するような状況をもたらしてはいないだろうか。

我々もまた、グローバリゼーションの推進役になっているのである。

そんな時代に、地方に暮らす人々が、その地方で先人たちの長年にわたって培ってきた様々な知恵や教えから、もう一度、暮らしというものを学び直すことが必要なのではないだろうか。自分たちの足元を学ぶことが必要なのではないだろうか。

そんな、自分たちの足元を学ぶ場が、全世界の至るところに生まれ、その多種多様な知恵や教えを面白がりつつ、それらのなかから普遍性を紡ぎ出せるならば、それこそが人類が生きていくうえでのユニバーサルな知恵や教えとなっていくのかもしれない。

歳を一つ重ね、父の早期退職の歳を思い出す

1月26日、歳を一つ重ねた。亡き父が定年2年前に早期退職したときの歳と同じ歳になった。

あのとき、父はなぜ早期退職を決意したか。それは私が大学を卒業し、就職するからだった。区切りが一つ付いた、と言った。

定年まで辞めなければ、県内のある組織の会長になっていたことだろう。でも、父は、そうした会長という職務に名誉や価値を感じていなかった。面倒くさい、と言った。

第二の人生を送りたい、とも言っていた。その頃の父は、中国やタイからの留学生の世話をし始めていた。退職後は、そうしたささやかな国際交流をしたいと願っていた。

その時から亡くなるまで、約25年間、留学生などと触れ合い、元気だった頃は、年に1回程度、友人たちと海外へ旅行に出かけていた。とても楽しそうだった。

そんな父が、人生における一つの区切りをつけた歳に、私も届いた。

退職という意味では、父の歳よりずっと前、今から12年前に私は自分で早期退職した。そこで自分なりの区切りをつけた。

自分のやりたいことの、第二のステップへ向かうために。

でも、この12年は、決して順風満帆ではなかった。ときには、自分なりの区切りをつけたことを後悔もした。生き方が下手だと自分を責めさえした。

父が早期退職した歳と同じ歳になった自分は、今でも現在進行形のままだ。自分の判断や生き方が正しいのか、適切なのかも確証を持てないまま、もがき続けながら、前へ進もうとする毎日を送っている。

他人とは比べない。もう比べられない。自分の道を歩むしかない。

父よ、私はまだ終わらない。前へ進む。やるべきことはまだまだたくさんある。まだまだ心細いかもしれない私だが、どうか、ほほえみながら見守っていて欲しい。

市原湖畔美術館のイベント「宮本常一から学ぶこと」

2020年1月11日、市原湖畔美術館で開催されたトークイベント「いま、宮本常一から学ぶこと~つくり手たちの視点から~」に出席した。合わせて、開催中の企画展「サイトスペシフィック・アート~民俗学者・宮本常一に学ぶ~」も見てきた。

市原湖側から見た市原湖畔美術館

このイベントの知らせを知ったのが2019年12月下旬で、その情報を見てすぐに申し込んだ。その後、市原湖畔美術館の場所を探して、小湊鐵道に乗らないと行けないと知り、それなら、ますます行かなければならないと思った。

私自身は、これまでに、地域研究者(フィールドワーカー)とファシリテーターの両方を併せ持つ存在としての宮本常一から学ぶことが多く、インドネシアや日本の地域を歩きながら、彼の実践にほんの僅かでも近づきたい(でも、できていない)と思いながら過ごしてきた。

今回のイベントは、映像や写真を含めたアートの観点に立って、宮本常一から何を学ぶのか、というテーマだった。近年、地域づくりにおけるアートの役割を意識するようになったこともあり、個人的にとても興味のあるテーマとなった。

しかも、イベントのスピーカーとして、数々の芸術祭を創り上げてきた北川フラム氏(会場の市原湖畔美術館の館長だと初めて知った)、宮本常一の足跡を丹念に追い続けてきた歴史民俗学者の木村哲也氏、戦中までの宮本常一を題材とする戯曲「地を渡る舟」を上演したてがみ座主宰の長田育恵氏、そして、開催中の企画展を監修した多摩美術大学の中村寛氏が出席したことも魅力的だった。

北川フラム氏については彼の著作を何冊か読み、そのなかから宮本常一との関連性を意識していたこともあり、一度お会いしたいと願っていた。また、木村哲也氏は、2006年3月に周防大島の宮本常一記念館を訪問した際にお会いして、色々な示唆を受けた方だった。長田育恵氏の「地を渡る舟」は、実際に東京芸術劇場で観ていて、ご本人に是非お会いしたいと思っていた。

その意味では、宮本常一つながりでの私のややミーハーな希望は、今回のイベントに参加することで満たされたことになる。

トークイベントは、北川フラム氏の挨拶から始まった。越後妻有での「大地の芸術祭」を始めたいきさつ、現代の宮本常一としてのヤドカリのような活動の村上慧氏の紹介、アートを箱物のホワイト・キューブから解き放つ必要性、そのための自然文明と人間との関係が重要であり、その先駆を宮本常一に見出していること、などが語られた。

そして、時代はアートが地方(田舎)との結びつきへ向かっていること、世銀UNESCOが国家から(競争力と持続性を兼ね備えた)創造都市の形成へ関心が移ってきていることを指摘し、アーティストが地方へ入り地方に希望を見出しているとし、地方、農業、非先進国の3つが重要なキーワードになる、と締められた。

地方、農業、非先進国。それらは、まさに、私が何年も前から意識して活動してきたテーマ。私はこの北川フラム氏の挨拶に大いに勇気づけられた。

続いて、中村寛氏の司会で、長田育恵氏と木村哲也氏のトークが行われた。長田育恵氏が「地を渡る舟」を書いた背景の説明があり、もともとサンカをテーマにした作品を書く予定だったのが、そのために読んだ宮本常一の『山に生きる人びと』から影響を受け、三田にあったアチックミュージアムに通いつつ、民俗学の視点から戦争を見るために、戦時中までの宮本常一をテーマとする作品を書くに至った、ということだった。

木村哲也氏は、高校生のとき、岩波文庫60周年を記念した『図書』で司馬遼太郎が「私の3冊」の一つに宮本常一『忘れられた日本人』が挙げられていたのに興味を持ち、大学入学前の春、故郷の宿毛へ帰省する前に、『土佐源氏』の舞台となった梼原に立ち寄るなどした。大学入学後、宮本常一全集を全部熟読し、宮本常一が出会った人々あるいはその子孫に会いに行った。当時はまだ宮本常一に関する評伝がなかったので、自分で彼の足跡を確かめたいと考えたということである。その成果が『「忘れられた日本人」の舞台を旅する—-宮本常一の軌跡』や『宮本常一を旅する』に結実した。

二人とも、宮本常一の持っていた原風景は周防大島の白木山からみた、本州、四国、九州がすべて島として見え、それらを海が道として結んでいる風景だった、と語っていた。それは実際にお二人とも白木山に登って確認したということである。宮本常一の視線は、移動する個人への視線であり、それが故に、比較の眼を持っていたと評していた。

話題は、宮本常一の写真の撮り方(芸術性を捨象して目の前にあるものを好奇心に基づいて撮る、しかし連続して撮った何枚もの写真からあたかも絵巻物のようにその土地の様々な個々の具体的な情報が全体として読み取れるように写真を撮っている手法)、誰も真似できそうでできない宮本常一の平易で対象への優しい眼差しを感じられる文体、抽象化も一般化もしない態度(学問的でないとの批判を受けつつも)、そして宮本常一が文学者やアーティストなど民俗学以外へ及ぼした影響(谷川雁、荒木経惟、石牟礼道子、安丸良夫、本多勝一、鶴見俊輔、網野善彦、宮崎駿、草野マサムネなど)についても話が進んだ。

それらのなかで、やはり心にじ~んと来たのは、木村哲也氏が引用した、司馬遼太郎の宮本常一を評した際の次の言葉だ。

人の世には、まず住民がいた。…国家はあとからきた。忍び足で、あるいは軍鼓とともにやってきた。国家には興亡があったが、住民の暮らしのしんは変わらなかった。…そのレベルの「日本」だけが、世界中にどの一角にいるひとびととも、じかに心を結びうるものであった。

あれだけの大量の記録を残した宮本常一だが、長田育恵氏によれば、彼は「国のために」とは一切書かなかった。宮本常一が見ていたのは人間だった。長田育恵氏の言葉を借りると、「人間は会って数秒でこの人が信頼できるかどうか決めてしまう」「宮本常一はこの出会いの一発勝負に勝つ突破力を持っていた」と宮本常一の微笑みの秘密を読み解いた。

なぜ宮本常一は市中の人々から、行政や公式発表に現れない、あれだけの情報を読み取れたのか。パネリストはその不思議について語ったが、この分野こそが、私の学んできたファシリテーションの技法が有効で、少しでもそれに近づけることを目指すべきではないかと思った。

木村哲也氏は、晩年の宮本常一について、故郷の周防大島へ戻って私塾を起こし、既存の枠にとらわれない、自分たちで企画する新たな知を生み出すことを目指していた、と指摘された。宮本常一の姿勢で最も学ぶべきことは、人々を信じ、人々の主体性を何よりも重視したことだった。

私は今、地域の人々が主体的に自分たちの地域について学び、足元から新たな知を自ら生み出せるような働きかけをしていきたいと考えていた。その意味でも、移動に移動を重ねてきた末の、晩年の宮本常一の私塾への思いからも、大いなる勇気を与えられた気がしている。

ローカルとローカルが繋がって、そのなかから新しい価値を生み出す。移動する良質のよそ者が他のローカルの事例を伝えて比較の眼を与え、その地の人々に主体的な知の創造を自ずと促していく。抽象化や一般化ではなく、そこにある事実をしっかりと記録し、記憶し、その事実からすべてが始まる。

偉大なる人物としての宮本常一を崇拝することを、本人は絶対に望んでいないと思う。そうではなく、地域に生きる本人が意識するとしないとに関わらず、宮本常一が願った主体的な地域づくりをたくさんの無名の「宮本常一」が担っていくことなのではないかと思う。

自分の役割は、自分がローカルとローカルをつなげるだけではなく、そうした仲間を増やし、無名の「宮本常一」をしっかりと地域に根づかせていくことなのではないか。

学び、ということを意識した自分にとって、その方向性が決して誤ったものではない、宮本常一が願った未来へ向けて動くために自分が担う次のステップなのだ、ということを、今回のトークイベントを通じて改めて理解した。

併せて、その文脈で、アートや写真の役割についても、これまで以上に、十分な注意と理解を進められるように、少しでも努めていきたいと思った。

わずか1時間半のトークイベントだったが、出席して本当に良かった。

自宅の地鎮祭を行いました

私的な話で恐縮ですが、東京の自宅を新築することになり、本日(7/5)、地鎮祭を執り行いました。

これまで約2年をかけて、建築事務所とゼロから中身をじっくり話し合ってきて、先月、ようやく旧宅を解体し、地鎮祭にこぎつけた次第です。

我が家が氏子となっている天祖神社の神主さんの指導に従い、施工者の建設会社さんを中心に場所が設営され、スルメの結び方なども教授されました。

神さまをお呼びし、建設の進捗と家の安全を祈り、妻と私の施主2名で鍬入れを行いました。神さまにお帰りいただいた後、建設区域の四隅に、米と塩をまき、区域に沿って酒を注ぎました。

これまで、新築へこぎつけるまでには、様々なハードルがありましたが、これで建設へ向けての一つの区切りを終えることができました。

私たちの家族の色々な思いが詰まった新しい自宅、どんな家になるのでしょうか。順調に行けば、来年初めに完成の予定です。楽しみに見守っていきます。

平凡さの偉大さ ― まさかあの人がそれを語るとは

久々の投稿です。

あたりまえの日常や普通であることのすごさ。これは、私自身がこれまでの人生のなかで、痛感してきたことです。

暮らしの中で、毎日あたりまえに行なっている炊事、洗濯、作業・・・。それらが毎日毎日積み重なり、その人の人生を、その人のいる地域の日常を作っていきます。
自分も含めて、あたりまえで普通の人々は、何かあった場合を除けば、氏名のような固有名詞で歴史に残ることはまずありません。名もなき人々、ときには庶民という言葉でくくられ、歴史のなかに埋没していくものです。
歴史に残る人物は、国を治めたり、世界的な偉業を成し遂げたり、世界記録や日本記録を残したりするような、えらい人、すごい人であり、そうしたえらい人やすごい人が歴史を作ってきたと思いがちなものです。
子どもの頃、偉人伝を読んで、こんな立派な人になりたい、と思った経験が多くの人にあることでしょう。でも、大半の人は、そんなえらい人間にはなれなかった、と思っているはずです。
たしかに、日本の学校で学ぶ歴史には、そうした普通の人々の歴史がほとんど出てきません。それは、為政者や偉人などのように、普通の人々に関する記録があまり残っていないためなのかもしれません。また、歴史を書き残してきたのは常に勝者であり、敗者の歴史が語られてくることはなかったとも言えます。

もっとも、歴史学の世界では、網野善彦氏をはじめとして、数少ない資料から、当時の庶民の生活史を掘り起こす作業が進められ、徐々に注目を集めるようになってきました。
私の敬愛する民俗学者の宮本常一氏の代表的な著作に「忘れられた日本人」という本があります。
宮本氏は、高度経済成長へ向かう戦後の日本の各地を歩き、前へ前へと向かう高揚する世界とは無縁の、あるいはそうしたものから取り残された、名もなき人々のや彼らの生きる地域を思い、何とかしてその人々が尊厳をもって生きる手立てはないものかと、その場その場で人々と一緒に悩み、考え、いくつもの提案を残していきました。
私たちのあたりまえの普通の日々の生活や日常の積み重ねが歴史を作っていく。そんな真っ当すぎることを、日々感じることはほとんどないのかもしれません。そして、私たちを治める為政者がそうしたことに言及などするはずがないのです。
歴史は常に、為政者にとって都合の良い歴史でなければならないからです。都合が悪ければ、為政者は歴史さえも自分に都合の良いように変えてしまうのです。もちろん、「事実とは何か」という問題はさておき、為政者に都合の良い歴史を「事実」として国民に強制すればよいのです。
選ばれし者のみが歴史を占有し、権力を行使して、残りの者をその歴史に従わせることが、国を治めることであり、選ばれし者の地位や名誉を守ることになるのでしょうから。
そんなことを思う毎日が続いていたのですが、次の記事が目に留まり、ハッとしました。
私が以前から感じ、自分の行動の指針としている言葉でした。そして、それを語っていたのは、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領だったことに驚いてしまいました。
全文を読んでいただきたいのですが、そのなかの最後の部分を以下に掲示します。

 平凡な人々が自分の人生を開いていけること、日常の中で希望を持ち続けられること、ここに新たな世界秩序があります。歴史書に全く出てこない人々、名前ではなく労働者、木こり、商人、学生といった一般名詞で登場する人々、こうした平凡な人々が一人一人、自分の名前で呼ばれなければなりません。世界も、国家も、「私」という1人で始まります。働いて夢を見る、日常を維持していく平凡さが世界を構成しているということを、私たちは認識する必要があります。
 そのためには、1人の人生が尊重されねばなりません。1人の人生の価値がどれだけ重要なのか自分でも理解する必要がありますが、歴史的に、文化的に再評価されるべきだと思います。自身の行動が周囲に影響を与えられるということ、またどんな行動が周囲に広がり、最終的にどんな結果をもたらし得るのかについて語り、記録に残さねばなりません。
 平凡さが偉大であるためには、自由と平等に劣らず正義と公正が保証されるべきです。人類の全ての話は「善事を勧め、悪事を懲らしめる」という平凡な真理を反すうします。東洋では「勧善懲悪」という四字熟語で表現します。この簡明な真実が正義と公正の始まりです。無限競争の時代が続いていますが、正義と公正がより普遍化した秩序となるべきです。
 正義と公正の中でのみ、平凡な人々が世界市民に成長できます。今はまだ何もかもが進んでいる最中のようですが、人類が歩んできた道に新たな世界秩序に対する解決策があります。東洋には「人は倉に穀物がいっぱい詰まっていれば礼節を知り、衣服や食物が満ち足りてこそ栄誉と恥辱を知る(倉廩実而知礼節、衣食足而知栄辱)」という古言があります。正義と公正によって世界は成長の果実を等しく分かち合えるようになり、これを通じて皆に権限が与えられ、義務が芽生え、責任が生じるでしょう。
 今、世界が危機だと捉えていることは平凡な人々が解決していくべきことです。これは一国では解決できない問題であり、1人の偉大な政治家の慧眼では成し遂げられないことです。苦しんでいる隣人を助け、ごみを減らし、自然を大切にする行動が積み重なっていくべきです。こうした行動を取る人が1人しかいなければ「何を変えられるだろう?」と懐疑的になるかもしれませんが、この小さな行動が積み重なれば流れが大きく変わります。

為政者で権力者である、一国の大統領の言葉です。

人気取りを意識した偽善だ、きれいごとだ、そんなことを本心から思っているはずがない、と批判することは容易いでしょう。韓国の大統領がそんなことを言うはずがない、と頭から信じない人もいるかもしれません。

文大統領は、自身にも大きな影響を与えた光州事件が韓国社会や民主化にもたらした意義をとても重視していて、それをもとに、普通の人々の力が積み重なって世界を変えていくことができる、と訴えています。

そこにはよりよい未来へ向けての希望や、人々に対する信頼が見えます。隣国の大統領が発したこうした言葉を、私たちはどう受け止めるのでしょうか。

実は、私たちに対しても向けられた言葉なのかもしれない、私はそう受け止めたのです。

為政者によって事実が嘘とされ、嘘を事実とさせられる事態が何度も繰り返され、それをあたりまえのことと感じたり、しかたがないとあきらめてはいないか。飼いならされているのではないか。自分が声を上げても誰も賛同してくれないと思っているのではないか。

平凡さの偉大さは、日本でも同じはずだと思うからです。

マイノリティになる経験をすることが大事

日本の昨今のヘイトスピーチの横行や、インドネシアでの多数派イスラムの名の下での強制、といった現象を見ていると、それを行なっている人間が常にマジョリティのなかにいる、という当たり前の事実がある。

しかし、それを行っている人間は、マジョリティのなかでのごく一部の人間に過ぎない。マジョリティのなかのごく一部の人間が、結果的にマジョリティの枠に守られながら、ヘイトスピーチを行っている。

マジョリティのなかの多数派は、マジョリティの同じアイデンティティを持つがゆえに、その方法に賛意は示さずとも、ヘイトスピーチを行う人間をマジョリティのなかから追放することができない。

結局は、マジョリティという繭に守られているから、ヘイトスピーチが可能になるのである。殺人やテロなどのように一線を超えない限り、マジョリティのなかから彼らは排除されない。

だから、彼らは、マジョリティのなかで本当は賛同者が少ないマイノリティだけれども、マジョリティのような顔をしてヘイトスピーチを行える。

たとえ、ヘイトスピーチが深い洞察に基づいたものではなく、もしかすると単なるうっぷん晴らしやストレス解消のネタに過ぎないとしても、それをやれると思っている。

では、彼らがひとりぼっちになったら、ヘイトスピーチをするだろうか。韓国や中国で、彼らはヘイトスピーチをするだろうか。

そんな人をまだみたことはない。

海を隔てた外国から見れば、日本国内でのヘイトスピーチは、犬の遠吠えにすぎない。ただのうっぷん晴らしにしかみえない。しかし、それがマジョリティを動かしてマスで動き始めたとき、外国の反応は急転する。

マジョリティのなかでしか生きてこなかった人たちよ、一人になってごらん。一人になって、誰も知り合いのいない、全く知らない土地へ行ってごらん。

こわい?不安?

自分がマイノリティになって、初めて分かることがたくさんある。騙される。いじめられる。言葉が通じない。ときには、「ここは俺の国だ。日本へ帰れ」と言われるかもしれない。

この日本で、そう言われている外国から来ている人々に思いを馳せられるだろうか。

他者への想像力を高めよ。そのためには、自分がマイノリティになる経験をすることが大事なのだ。

そこで初めて、もし、誰かが自分に憎しみの言葉をぶつけてきたら、自分はどんな気持ちになるのか、が理解できるはずだ。

きっと、そんな目に遭ったら、その人はその国や場所を嫌いになってしまうだろう。二度と来るものか、と思うだろう。

そう、そうなのだよ。

自分がされて嫌なことを相手にすることはどうして正しいのか。相手よりも強ければ、頭が良ければ、それを正当化できるというのだろうか。

それは、ただの傲慢。でも、現実の世界ではよく見られることだ。

一度、マイノリティになってみよ。一人だけになってみよ。マイノリティになる経験をした人間が多くなれば、他者への想像力がもう少し高まったマジョリティの社会をつくることができるはずだ、と思う。

桜の背景にはやはり青空が似合う。

目の中を飛ぶ黒い点とぼわーっと白い世界

先月、インドネシアへ行った頃から、左目の中で虫のような黒い点が飛ぶようになりました。飛蚊症というものらしいです。

歳を取ってくると、そういった現象が起こるものだということですが、場合によっては網膜剥離の可能性もありうるということです。
まあ、大したことはないだろうと思ったのですが、念のため、眼科に行って診てもらいました。
私にとって、病院の中で、一番嫌いなのが眼科。
まだ子供の頃、目をいろいろいじられて、とても嫌な気分になったのが、今もトラウマになっています。
でも、何十年ぶりかで眼科へ行ったら、様子が随分変わっていました。機器が見違えるほど良くなり、目を見開いているだけで、医師が様々に診察してくれます。
まず、眼孔を開くために、ある薬を点眼されました。それを点眼すると、目の前がぼわーっと白っぽくなる状態が5〜6時間残る、ということでした。
点眼の後、待合室で20分ほど待った後、再び診察。眼孔が開いた状態になったらしく、いろいろと診ていただいた結果、とくに問題はない、という答えでした。
今後も、黒い点は現れるだろうし、増えるかもしれないし、消えてしまうかもしれない、それを自分でコントロールすることはできない、ということでした。
薬も処方されない診察のみで、眼科を後にし、外へ出たら・・・。
世界がぼわーっと白くなっています。
明るいところでは、そのぼわーっとした状態が強まり、モノをはっきり見ることができません。モノを見るのがつらく感じました。
日陰や屋内などやや暗いところに入れば、通常よりも劣りますが、日なたよりはモノを見るのがつらくはなくなりました。でも、日なたに出ると、目の前が、まるで白いモヤに覆われているかのように、ぼわーっとよく見えなくなるのでした。
きっと、こんなふうに、ぼわーっとモヤのように景色が見えている人もいるに違いない。そんなことに初めて気づきました。

明日は、日なたを歩いても、ぼわーっと白く、モノを見るのがつらくないといいのですが。

目の中を飛ぶ黒い点は、あれ、なくなったかもしれない、という感じになりました。

でも、夜になると、また現れてきました。

目の中を飛ぶ黒い点とは、まあ、仲良く付き合っていくことにします。

眼科に行く前に見た朝の自宅の桜。眼科から帰って後は、
目の前がぼわーっとして、見るのがつらくなりました。

新年度開始、新元号発表、ふつうの日

4月1日になりました。

弊社・松井グローカル合同会社も今日から新しい2019年度が始まりました。企業や学校など、今日から新しい年度が始まった方々も多いことと思います。

そして、政府が5月1日からの新元号を発表しました。今日のメディアはその話題で持ちきりですが、日常生活のなかで、ほとんど意味を持たない元号に大騒ぎしているのを、少し不思議な気分で眺めています。

私自身は、先週までの活動の疲労が少し出て、今日はあまり体調の良くない1日でした。所用で税務署へ出向き、説明を受けて、また一つ勉強になりました。

その後、ちょっと足を伸ばして、法明寺の桜を見に行きました。

桜の季節、ここには、桜を遮るほど露店がたくさん出るので、いつも盛りを過ぎてから、花吹雪の頃に行くのですが、今日は、平日のせいか、露店の数は少なく、ゆっくり桜を楽しめました。

今日もふつうの日でした。そして明日からも毎日、ふつうの日を積み重ねていきます。その1日1日を大切に過ごしていきたい、というあたりまえのことを思いました。

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