あたりまえであることが奇跡。8年目。

毎年、3月11日がやってくる。そして、今年もこの日を迎えた。

人生が、あの日を機に、大きく変わった。そして、変わり続けている。

あたりまえのことが、一瞬にして消える、という経験。

大切なものは、いつ何時、消えてしまうかもしれないという気持ち。

明日はないかもしれない、と思いながら、

瞬間瞬間を、懸命に生きていこうと誓った

何も高望みはしない、ただただ、存在していてほしい。ほしかった。

そう願った。

でも、そんなことさえ、

日常が続くなかで、忘れてしまいそうな自分。

忘れてしまいそうな自分にさえも、気がつかない日々。

喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。

成功、失敗。歓喜、失意。

その日々のあたりまえのひとつひとつが、大切だと気づきなおせる日。

生きること、生きていることに謙虚になる日。

3月11日。

あたりまえであることが奇跡。

生きていることが奇跡。

あの日が最期となられた方々のことを思い、

もっともっと深く生きていく。
あたりまえを生きる。奇跡を生きる。
深く生きる。
ただ、それだけ。それが、重い。

2019.3.11 ジャカルタにて

2011年3月9日。インドネシア商工会議所の方々の日本での研修のまとめの議論を行っていた。

友人の1年近く前の死を今日初めて知った

インドネシア人の友人A氏がカナダの大学で博士号を取得しました。彼はとても嬉しくて、これまでお世話になった友人・知人・恩人にお礼のメッセージを送っていました。

彼とは2001年に初めて会いました。マカッサルで同世代の若者たちと一緒に、小さな図書館を作るなどの社会活動を行っていました。私ともかかわりの深い、後のマカッサルのイニンナワ・コミュニティにつながる、ささやかな活動をしていました。

そんな彼と彼の仲間たちと一緒に行動するきっかけは、2002~2003年に彼らと一緒に、南スラウェシ州の村で、日本の学生とインドネシアの学生とがともにフィールドワークを行うプログラムを実施したことでした。

このプログラムは、日イの学生が1週間程度村に入って、村の方々のお宅にホームステイしながら、村の方々と対話するなかでそこでの生活から様々なことを学びます。

当初、学生は「村の問題をどう解決するか」「村をどう発展させるか」を考えようとするのですが、現場での学びのなかから、村の方々が気づかないような村の生活の価値や良さを見い出します。そして、村での生活の最後に、彼らが学んだ事を村の方々に分かるような方法(寸劇など)で発表し、村での活動への協力に感謝を表します。

このプログラムを通じて、フィールドでの行動を共にした学生たちは真の友人となり、各方面で活躍する現在も、強いネットワークで結ばれています。

このプログラムの日本側オフィサーだったのがSさんで、今回、A氏は彼女にもお礼をしたくて、コンタクトをしようとしてきました。

ところが、連絡しても一向に反応がないというのです。Sさんのフェイスブックページは、昨年4月以降、更新されていないということでした。

A氏に頼まれ、関係者に訊ねていたところ、今朝になって、Sさんが昨年4月に、アフリカで亡くなられていたという情報を、プログラム参加者の一人だった友人から知らされました。その友人は、Sさんが亡くなる前日、夕食を共にしていたということでした。

Sさんは、上記のフィールドワーク・プログラムの仕事の後、長い闘病生活に入りました。同プログラムに関わった友人・知人たちは、Sさんに生きてほしい、生き延びてほしい、とずっと願い続けました。そして、幸運にも、Sさんは病に打ち勝ち、仕事に復帰しました。

復帰後は、英国の大学院で学んだ後、アフリカにわたり、国際協力活動により一層取り組んでいる様子でした。

1年近くもSさんが亡くなったことを知らずにいた自分を恥じました。

フィールドワーク・プログラムを一緒に手掛けた15年ほど前、インドネシアの村の現場で、これからの学生たち・若者たちが造っていく未来を共に語り合ったのを思い出します。そして、Sさんの存在がマカッサルの若者たちの活動を後押しし、イニンナワ・コミュニティに結実していくさまを、私はずっと見てきたのでした。

明日は何が起こるか分からない。だから今を懸命に生きるしかない。

Sさんと語り合った、目指すべき未来を、プログラムに関わった友人・知人とともに造り続けていくことを、改めて心に誓いました。

Sさん、もうずいぶんと時間が経ってしまいましたが、どうぞ安らかにお休みください。そして、ずっと見守っていてください。

福寿草がたくさん咲く季節になりました。

書くことで救われるのかもしれない

2月後半は、ちょっと悶々とした日々を送ってしまい、このブログもすらすらと書けない状況になってしまっていました。

いつも前向きにいきたいと思おうと振る舞っている自分と、その裏で色々ともがいている自分とがいて、表裏のスイッチとバランスが取れなくなりそう気分でした。

あまりにも嘘の多すぎる世の中に対する怒り。本心からかどうかは分からないが、権力や権威に服従しする人々。自分を守るためには、他人を攻撃することも嘘を作り出して広めることも厭わない、自分の地位や名誉や社会的評価を守ろうとしている人々の存在。

保身に走ったり、嘘をついたり、諦めたりすることが成熟する、大人になるということなのか。

それは、本気で人生を生きているということなのか。

青い、でしょうか。ならば、青い、でけっこう。

未熟、でしょうか。ならば、未熟、でけっこう。

世の中を変える、なんて大それたことは言いません。他人に同意や同調を求めたりもしません。

でも、成熟や保身や嘘に安住しない人々が、行動を起こすことで、自ずと、何かが変わっていく。

事実や真実さえも、

嘘で、嘘の連続で、

誰かのために、ではなく、

自分のために、変えてしまおうとする人々。

自分のために、嘘で世の中を変えようとする人々に、

自分は、青く、未熟なまま、

抵抗していきたい。

一人の独立した個人として。

このブログは、誰かたくさんの人々に読んでもらうために書くのではなく、自分のために書いていく、ということもしていきます。

自分のために書いたものは、あえて、フェイスブックやツイッターで拡散はしません。

書くことで救われるのかもしれない。

自分が本当の自分を持ち続けるために。

大学時代のサークルが100周年だった

大学時代に所属していたサークルが100周年を迎えていました。それに気づかせてくれたのがフェイスブックでした。

先週のとある日、大学時代のサークルの一つ上の先輩たちが久々に集まって温泉旅行に行った、という記事がフェイスブックに上がっていました。友達関係にある私の先輩が投稿したものでした。

写真が付いていて、懐かしい先輩方の顔があって、思わず、「いいね」を押してしまったら・・・。

写真に写っていた、懐かしいもう30年以上会っていない先輩からフェイスブックで「友達申請」が来て、承認して友達になったら、すぐにその先輩からメッセージが来ました。

そんなこんなしているうちに、大学時代の所属サークルである男声合唱団が2月3日に100周年記念演奏会を行なうことを知りました。

はい、実は、高校、大学と男声合唱をやっていました。トップテナーでした。

大学を卒業してからは、合唱など全くしていないのですが、一時期、ジャカルタで男声合唱を再開しようと思ったことがありました。でも、「月光とピエロ」の高音が出ず、断念しました。

ともかく、100周年記念演奏会へ行くことにしました。

行ってみたら、もう歴代の先輩方がたくさん来られていて、私の代など、まだまだ若手。OBの男声合唱団は団員の平均年齢が70歳代なのでした。

合唱を人生の友として長年歩んでこられた方々の熱さに、一時期は自分もそうだったのに、圧倒されました。

その熱さになぜかついていくことができず、そそくさと会場を後にしたのでした。

でも、また、時々、聴きに行くことと思います。

教えないコンサルティングを目指して

自分は一応、コンサルタントと名乗っています。敢えて、教えないコンサルティングを標榜していきたいと思っています。

以前、JICA専門家でインドネシア政府に対する地域開発政策アドバイザーを務めたとき、アドバイザーやコンサルタントがどのような仕事だと見なされているかを理解しました。

ひと言でいえば、解決策を示してくれる仕事。

こうすればこうなるから、私が言ったとおり、このようにしなさい。そのようにペーパーを書いて、助言する。問題を解決してくれるスーパーマン、と言っても間違いではないでしょうか。

コンサルタントはその解決策を示して、対価としての報酬を受け取りますが、それを実行するのはコンサルタントにお願いした側です。

実行すると、コンサルタントが作文したとおりにはなかなかうまくいかないし、さらなる助言を求めるとなると、コンサルタントにさらなる報酬を支払わなければならなくなります。

コンサルタントは、「それは実行する能力が不足しているからだ」と言って、能力向上のための新たな研修プログラムの導入を勧めます。

その研修プログラムを導入した側は頑張って、能力向上の印として終了証をもらいます。そして、再び、コンサルタントの解決策に取り組みますが・・・。

コンサルタントという語を援助供与国・機関と置き換えても同じでしょう。

インドネシアでも日本でもどこでも、今日もまた、これと同じような出来事が起こっているかもしれません。

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この場合、コンサルタントが示した解決策は、本当に正しかったのでしょうか。コンサルタントが解決策を導くプロセスに、相手側はどれだけ関与したのでしょうか。

まず、最初の問題設定が間違っていたとしたらどうでしょうか。そう、最初にボタンの掛け違いが起こっていたとしたら、です。

相手側からすれば、都会から来たコンサルタントがいう問題設定が、まさか間違っているとは思わないかもしれません。思っていたとしても、「頭がいい人が考えたんだからきっと何か真実があるのかもしれない」「コンサルタントは組織トップの知り合いだし、政治家からの紹介でもあるから、間違っているなんて言って怒らせたらあとでどうなることか」などと考え、口をつぐむかもしれません。

次に、コンサルタントの仕事に相手側はどれだけ関わってきたでしょうか。住民を集めた公聴会なども開かれるかもしれませんが、そこでの発言に何らかの忖度が全くないと言い切れるでしょうか。

問題解決へ向けて、本音が出ているでしょうか。

本音が出るためには、その場が何を話しても安心できる場でなければなりません。そういう場をコンサルタントは作れているでしょうか。

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自分は、相手に問題解決を教えに行くのではなく、相手から本当の問題は何かを教えてもらいに行くという立場を採ります。

ちょっと、危なっかしいでしょうか。大丈夫か、この人は、と相手から思われるかもしれません。

もちろん、相手とお会いするまでに、二次情報だけでも、入手可能な限りの情報は収集し、できる限りの相手や地域に関する情報は頭に入れておきます。その段階でできる、自分なりの仮説も立てておきます。

でも、それは、自分の中に閉まっておきます。まずは、相手から教えてもらいます。

相手から話をお聞きしながら、簡単な対話を始めます。相手が答えやすい対話を続く限りしていきます。そのプロセスのなかで、自分が頭に入れてきた情報の再整理を行い、仮説の修正を続けていきます。

相手に対して、最初に「問題は何ですか」とは絶対に訊きません。だって、問題が分かっていれば、解決策もおのずとわかるはずだからです。

対話を続けながら、最初に「問題」と思っていたものが本当にそうなのか、違う角度からみなければならないのではないか、実はもっと違うことが「問題」だったのだ、というような気づきが起こっていくこともよくあるものです。

対話のプロセスを通じて、相手が納得する「問題」にたどり着いたとき、相手はそれが自分自身とも関わりのある「問題」だと認識できるのではないでしょうか。

ここで初めて、「問題」に対して相手がオーナーシップを感じ始める。すると、その「問題」は、誰かよそ者に解決してもらうのではなく、自らもその解決へ向けて関わっていかなければならない。自分事として認識するようになります。

そうなれば、後は、コンサルタントが何を言おうとも、自分たちで捕まえた真の「問題」を解決しようと自分たちで動き始めるのではないでしょうか。そうなれば、コンサルタントの立場は助言を適宜与える程度の従となり、いずれは必要とされなくなる存在となります。

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私は、そのような、教えないコンサルティングを自分のモットーとしていきます。

地域をこれからどうしていったらいいか分からない、という漠然とした不安を持った方々とお会いし、対話を続けたいのです。そして、いつの間にか、コンサルタントが何かするのではなく、そこの方々が自分で何かしていくようにコンサルタントが適切に促す、という転換を起こしたいのです。そして、必要がなくなれば去る、という具合です。

インドネシアでも日本でも、様々な地方の実状を知りながら、そんな風に思っています。教えないコンサルティングは確実に求められている・・・、と。

そして、これは、日本全国の地方をめぐりながら、その土地土地の人々の話を丹念に聞き、適切な助言を行い、勇気づけ励ましてきた、尊敬する宮本常一氏の生き方に近づくことなのかもしれないと改めて思いました。

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でも、それはどうやってビジネスとなるのか。対価をどうもらうのか。

そこが当面の大きな課題です。家族をどうやって養っていくのか。自分たちがどうやって生活していくのか。

日々、できる限りの経費節約に努めつつも、現実の世界に目をつぶるわけにはいきません。自分なりの生活を成り立たせる経営モデルを造らなければなりません。

それでもなお、私は、教えないコンサルティングを目指していきます。

こうしたやり方に価値を見い出していただける方々と一緒に、まずは活動していきたいと思います。私と対話してみたいと思われる方は、いつでもご連絡ください。

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1月13~19日は、インドネシア・アチェへの出張へ行ってきます。羽田空港国際線ターミナルは、キラキラしていて、まぶしいぐらいでした。

5年単位で人生を振り返る~新年を迎えて

新しい年を迎えました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

昨年(2018年)も、色々なことがありました。楽しかったこと。嬉しかったこと。悲しかったこと。辛かったこと。様々な出会いととても悲しい別れがありました。そして、おめでとうと心からは言えない人々のことを思いました。

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これまでの人生を振り返ってみると、おおよそ、5年ぐらいの単位で区切りがあり、その次のステップへ繋がってきたような気がします。

大学を卒業した後、研究所に入所した後の5年間は、研究者の卵としての修業期間でした。毎日、インドネシア語の新聞・雑誌と格闘していました。

その次の5年間は、2年間のジャカルタ滞在を経て、社会からは一人前の研究者と見なされていく期間でした。インドネシア研究者として必要なインドネシア語と日本人とほとんど接触を持たない現地生活体験を積み、帰国後は日本の産業政策を学ぶ機会を得ました。

その次の5年間は、研究所を休職し、JICA専門家(地域開発政策アドバイザー)としてインドネシアのマカッサルへ。地方の現場を歩き回り、関係者と議論する日々でした。研究者としての自分と実務家としての自分とが両立し始めました。

その次の5年間は、日本の地域おこしや地域づくりについて学ぶ期間となりました。インドネシアの地域開発政策に関わったことで、日本の地域を知らなければならないと痛感したためです。地元学やファシリテーションともこの頃に出会えました。

その次の5年間は、再びマカッサルに滞在し、マカッサルの地元の若者たちに家を解放して彼らとともに皆で使える公共空間を造りました。この公共空間から前衛芸術、パフォーマンス・イベント、作家養成講座など様々な活動が生まれていきました。

その次の5年間は、研究所を退職してフリーになり、日本とインドネシアに複数拠点を置き、両者をつなげる活動を試み始めました。この間に東日本大震災が発生し、故郷である福島のことを思いつつ、何ができるかを試行錯誤しました。

その次の5年間は、いったん日本へ拠点を戻し、福島での活動を模索しながら、個人事業主だったのを一人会社として法人化し、福島に登記しました。東京の自宅、福島のオフィス、インドネシア各地を行き来しながら仕事するスタイルができ始めました。

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そんな歩みをしながら30年以上が経過しました。

振り返ってみて、こんな人生で本当によかったのだろうか、という思いがしばしば浮かびます。

自分の後ろ盾になってくれるようなしっかりした組織や大立者がいるわけではありません。自分の言動や行動は、すべて自分の責任で行わなければなりません。

でも、裏を返せば、自分がまだ自分でいられる、ということでもあります。何事も、自分の頭で考え、自分で責任をとっていかなければならない、自立していなければならない、ということでもあるわけです。

今さら言うほどでもない、あたりまえのことなのですが。

社会的名誉や地位や肩書とは縁遠い世界で、自分らしさではなく、自分をどうつくり続けていくか。頼れるものは、自分を信頼してくださる方々との関係以外ないのですから、一つ一つの関わりをできる限り丁寧に大事にしていくことが肝要なのだと実感しています。

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世界のどこかでそこの人々と一緒になって新しい何かを創りたい。

研究所に入所するときに抱いた、この漠然とした初心は、今も忘れることはありません。これまでの人生を振り返ると、それが可能な場所に自分がいる状況へ、少しずつ動いてきたようにも思えます。そのために必要な知識や経験を積む機会を得ながら。

でも、初心は少し変わったのかもしれません。

今は、私が何かを創るのではなく、そこの人々が自ら創ることを一緒になって促し、そこで新たな価値が生まれるプロセスに関わり、その価値がそこの人々によって大事にされ、高められるようになったら、私はそことの関わりを終えて、次の場へ移っていく。

化学反応における触媒。目指すものは、それです。

私は私。

これからも、自分の人生が終わるまで、5年ぐらいの区切りで、新たな展開が続くのでしょうか。ただのごく普通の人間ではありますが、人間として少しでも深化していければとは思っています。

「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」と言われて・・・

ひとりごとの雑文です。もしかしたら、どうでもいいことなのかもしれません。

ちょっと前に、ある日本人の方から「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」と、突き放すように言われました。振り返ってみると、それ以前にも、「あなたは日本の味方なのか、インドネシアの味方なのか」などと言われたことがありました。

日本とインドネシア。そのどちらかに身を置いていないといけないかのような・・・。

もちろん、自分は日本人の両親から生まれた生粋の日本人であり、日本国籍を持っています。それは、自分の意志で選んだものではなく、たまたまそうなったのです。

これまでには、日本国の税金を使わせていただいて、国際協力の仕事も行ってきました。日本国の税金を使う以上、日本のためになる成果を上げる必要があることは十分に自覚しています。

自分としては、それは、相手(私の場合は主にインドネシア)が日本の味方になってくれること、日本を深く信頼してくれること、いざとなったら、日本を助けてくれるような関係をつくること、だと思ってきました。相手のためになる仕事をすることが、日本のためにもなる、と信じて、自分なりに仕事をしてきました。

だから、日本だけが利益を得ればよい、あるいは、相手だけが利益を得ればよい、というふうには考えられませんでした。

これは、商売やビジネスでも同じことだと思うのです。相手をだましたり、出し抜いたりしてでも、自分だけが利益を得ればよいという考えでは、商売やビジネスは成り立たない。双方に信頼関係ができて、はじめてうまく行くものではないかと思います。

そう考えてきたので、「あなたは日本の味方なのか、インドネシアの味方なのか」とか、「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」というふうになぜ言われなければならないのか、よくわからないのです。

そういう人からすると、私の行動は、相手の利益しか考えていないように見えるのでしょうか。敵・味方みたいな話になってしまうのでしょうか。

いつの頃からか、私自身、日本とかインドネシアとか、国単位で物事を考えることが減っていきました。より生活空間に近い地域やコミュニティ、あるいは実際に接している個人や団体を個々にみるように変わっていきました。

日本にも様々な人がいるし、インドネシアにも様々な人がいます。いい人も悪い人も。誠実な人も不誠実な人も。○○国人はどうだ、と簡単に言えなくなっていきました。

同じように、○○教徒はこういう人間だ、とか、○○種族はどうだ、とかも簡単に言えなくなってきました。

世の中には、国や宗教や種族に応じて、勝手にイメージを作り上げ、レッテルを貼る人々がまだまだたくさんいるのでしょう。もしかしたら、それが多数派なのかもしれません。たとえば、実際、インドネシアにおける外国人イメージにも、辟易することがよくあります。

なんだか、最近は、二つのうちから一つを選ぶ、踏み絵のような話ばかりが横行して、第三の道やそれらとは次元の違う考え方がもわもわっと現れてくる余地を狭めているような気がします。

信頼関係をつくるのに必要なのは、ディベートではなく、対話です。ディベートと違って、対話に勝ち負けはありません。敵・味方を区別して、勝ち負けを競うような言論空間がずいぶん広がってしまったような気がします。そして、勝ち続けなければならない、というような脅迫観念が蔓延しているかのようです。

果たして、「日本かインドネシアかどっちなのだ?」と私に問う人は、相手と対話を行うつもりがあるのでしょうか。対話をして相手の言うことを聞いてしまったら、それは負けなのですか。

対話に勝ち負けはありません。対話は相手を変えるためだけを目的に行うのではなく、対話のプロセスを通じて、互いに「何を話しても大丈夫!」という安心感・信頼感を醸成しながら、相手も自分もともに変わるものです。

きっと、自分が変わることを恐れる自分がいるのです。自分は変わらず、相手だけを変えることが勝ちだと意識しているのかもしれません。

日本とかインドネシアとか、そういった国を自分が意識しなくなってきたことで、国家を背負って仕事をされている方々は、そんな私に負のレッテルを貼っているかもしれません。

インドネシアのために何かをすることが日本のためになる。私が国際協力の仕事を始めた頃はそういう空気がまだあった気がします。でも、今や、そう考えてはいけないのでしょうか。

誰が何と言おうとも、私は相手と対話を続けていきます。相手に負のレッテルも貼りません。信頼関係の醸成なくして、相手とのよい関係を築くことは不可能です。

日本かインドネシアか、と聞かれたら、やっぱり、両方、と答えるしかないです。

「君はインドネシア寄りすぎるんだよ」とか、「あなたは日本の味方なのか、インドネシアの味方なのか」とか言われても、もう気にしないことにします。その結果として、そういう人たちと仕事ができなくなっても、それはしかたないことです。

自分に賛同してくれる仲間を、地道に増やしていくことにします。そういうスタンスで、対話の力を信じ、レッテルを貼らず、自分なりに、信頼できるつながりの輪を広げていきたいと思います。

かなしさ、さびしさ、むなしさの2週間、求めていたのは「光」

今回は、ちょっと一息入れて、個人的なことを書いてみます。

このところ、本ブログでは、スラウェシ中部地震被災地支援への協力を呼び掛けていますが、これまでの2週間、実は、ずっと暗い気持ちのままでした。

先週初め、出張先のインドネシア・東ジャワ州バトゥで、空に浮かぶ中秋の名月の光があまりにもきれいで、だからこそ、悲しさの深みに嵌っていきました。
その日の朝、私の大学時代の恩師が亡くなったとの知らせが入ったのです。その恩師なくして、自分がアジアと関わる人生を送ることはなかったといっても過言でない、大きな存在でした。
その悲しみを抑えながら、出張を終えて28日朝に帰国し、一休みしようと思ったときに入ってきたのが、スラウェシ中部地震・津波の報道でした。
当初は、日本ではあまり報道されていませんでしたし、インドネシアでも津波警報がすぐに解除になったので大したことはない、嘘報道ではないか、という程度の扱いだったのです。
でも、これは大変な事態になる、という直感が私にはありました。パル湾は陸地へ深く入り込んでおり、湾の最も奥にあるパルは津波が来たら相当な被害が出ることが予想できたからです。
嘘かもしれないという津波の映像がSNSで流れ、その数時間後に、事実であることが判明し、BBCやNHKが盛んにその映像を流し始めました。
パルやドンガラは、私にとって大事な場所です。1996~2001年及び2008~2010年の在マカッサルJICA専門家(地域開発政策アドバイザー)時代、1~2ヵ月に1回はパルを訪問し、中スラウェシ州開発企画局(BAPPEDA)と定期会合を行い、地域開発政策について議論していました。国立タドゥラコ大学の先生方やパル・ドンガラのNGOにも知り合いが増えました。彼らの安否がすぐに心配になりました。
ドンガラ県のナビ・ビジャ県知事と一緒に村を訪問(2000年4月25日)
現在までも、まだまだ消息の分からない知り合いが大勢います。そして、ほかのスラウェシの私の友人たちが、パルやドンガラへ緊急支援に動き出しました。私がつなぐ形でパルやドンガラの友人・知人と知り合いになった者もいます。現段階でできる私たちの支援は、信頼できる彼らに託すことだけかもしれない。そんな気持ちで、募金を皆さんにお願いしているところです。

自分の出身地である福島も被った東日本大震災と、私にとってとても大事な「故郷」と言ってもいい場所であるスラウェシで起こった地震・津波がオーバーラップしてしまいます。そして、東日本大震災の前年に亡くなった父と恩師の姿とがオーバーラップしてしまいます。
よりによって、自分の人生の中でとても大事な場所のいずれにおいても、大災害が起こってしまうなんて・・・。そんな人生になるなんて・・・。
かなしさ、さびしさ、むなしさ。
もう、とっくの昔に、インドネシアやスラウェシを単なる研究対象としてみられなくなってしまった自分。固有名詞で呼べるたくさんの友人や知人が存在してしまうことになった場所。
東日本大震災のときと同じように、現場に駆け付けられない自分を責める自分。駆けつける時期ではないと自分を諭す自分。
そんな落ち着けない自分にとって、今、なにが必要なのか。
悶々とするなか、ふと、志村真介さんの写真展「感ずる光」のことを思い出し、会場の表参道ヒルズ・ギャラリー同潤会へ行ってみることにしました。
いったんは生死をさまよいながら、奇跡的に生還し、リハビリの日々を過ごしてきた志村真介さんの写真は、物体ではなく、そこの光を撮る作品でした。リハビリをしながら撮ったというその作品には、一瞬一瞬にみせる光、その光の温かさや柔らかさに加え、様々な生を感じさせる作品でした。志村真介さんにしか撮れない作品、だと思いました。
幸運にも、志村真介さんと志村季世恵さんに久々にお会いし、少しお話しすることもできました。なんだか、とてもホッとしました。
やはり、今の自分に必要だったのは、光なのでした。生の光、希望の光なのでした。それは、深い悲しみや寂しさやむなしさからこそ、生まれてくる深い光なのでしょうか。
日曜日の表参道は、たくさんの人でごった返していました。ふと見上げると、並木の上の青空から、今の自分には、やや強すぎる光が差し込んできました。でも、なんだか、そのやや強すぎる光に元気づけられたような気がしました。
その後、新宿で、ロンボク島から一時帰国中の岡本みどりさんのトークライブに顔を出しました。岡本さんには、私が月2回発行する情報マガジン「よりどりインドネシア」に毎月「ロンボクだより」を連載していただいています。
その岡本さんの話の芯は、ロンボクで起こった連続地震に対する地元の人々の強さと明るさでした。いやなことがあっても、落ち込むだけで終わることなく、人と人とのつながりを大事にして、少しずつ自分たちで解決していく能力のすごさ。前向きに明るく生きたほうがいい、という、いい意味での楽観主義が生きることに希望を作り出していく。
岡本さんの話も、今の私のとっての「光」になりました。
かなしさ、さびしさ、むなしさ。
でも、父や恩師、犠牲になった友人たちや知人たちは、自分たちのことを思ってくれるのはありがたいだろうけれども、ずっとそれに浸り続けてほしいとは、絶対に思わないだろう、ということにようやく気づけました。
東京の秋の空に輝く光を見上げながら、自分がやれること、やるべきことを自分なりにやるだけだ、と静かに思えました。

「さん」づけで呼び合った時代を懐かしむ

大学を卒業して就職したのは、政府系の研究機関でした。この職場で、筆者はインドネシア地域研究のいろはのいから手ほどきを受け、20年以上奉職しました。

この職場は、とても素晴らしい職場でした。何より、新人だった筆者を、20年選手、30年選手が「さん」づけで呼んでくださるのです。そして、新人の筆者にも、研究者として実績を積んだ著名な大ベテラン研究者を「さん」づけで呼ぶように促されたのでした。

また、そこでは、誰がどの大学の出身かは問われることはなく、学閥のようなものは見えませんでした。

さらに、男性でも女性でも、職場での役割の違いはほとんど見当たりませんでした。お茶くみなんて言うものは当然ないし、「男だから」「女だから」といったことを耳にすることはありませんでした。筆者自身も、仕事上の男女の違いを感じることはありませんでした。できる人はできる、という当たり前の感覚しかなかったのです。

年齢や性別の違いや出身大学などを意識することなく、誰もが「さん」づけで呼び合う職場でした。

「さん」づけで呼び合うということは、年齢や性別の違いを意識せず、互いを一人の人間として尊重し合うことの現れだと思います。若造だけど存在が認められている、という安心感がそこにはありました。

本当に、それだけで、素晴らしい職場だと思いました。

そして、2000年代に入って、職場の何かが大きく変わり始めました。

それは、人事評価・業績評価が導入されてからでした。上司と部下、という明示的な関係が職場に持ち込まれたのです。上司と部下なくして、人事評価・業績評価は成立しないのです。

人事評価・業績評価が導入されてから、誰もが「さん」づけで呼び合う、ということはなくなっていきました。「部長」「課長」「グループリーダー」といった役職名で呼ぶようになりました。皆が上と下を意識するようになりました。

筆者は、決して人事評価・業績評価を否定するわけではありません。何のために人事評価・業績評価を行うのかさえ忘れなければ、です。

筆者を「さん」づけで呼んでくださった数々の先輩方のことを一人一人思い出します。今でもお会いすると、同じように「さん」づけで呼んでくださいます。そのことを、とてもありがたいことだとつくづく思うのです。

今も、そしてこれからも、あの「さん」づけで呼び合ったかつての職場のことを懐かしみつつ、大切な人生の美しい思い出として大切にしていきます。

無駄の有駄

昨今の耳を疑うような「生産性」云々の話にうんざりしながら、中学校のときに大好きだった教頭先生が卒業文集に寄せてくれた言葉を思い出しています。

それは、無駄の有駄。

一見、無駄に見えることのなかに、意味がある。無駄であることに意味がある、ということを、教頭先生ははなむけの言葉にしてくださったのでした。

無駄をなくすことが生産性を高め、効率の良い社会を作る。それが世の中の進歩である。当時は、まだ高度経済成長の影が残り、世の中はどんどん進歩していける、と信じていたかもしれない70年代の後半でした。

ジャスト・イン・タイムが良しとされ、進歩の速さに乗り遅れた人々は「落ちこぼれ」とされ、その速さに乗っていくことがよい生活を実現させるために必要だ・・・。

日本社会が右肩上がりでなくなってからも、いやだからこそ、以前よりももっと無駄をなくして、効率を上げて、生産性を高めるために、一段とギアを高くしなければならない・・・。

そんな風に信じている人々が、実は少なくないのかもしれません。

無駄をなくすために取り入れられた様々な技術。パソコン然り、ケータイ然り、ジャスト・イン・タイム然り。それによって、仕事が効率化し、生活にゆとりが生まれ、人間らしい生活を送ることができる、って、技術が導入された最初の頃は信じていたように記憶しています。

でも、その結果は・・・

原稿を書いて締切日必着にするには、5日前には書き上げ、郵送しなければならないから、逆算すると、1ヵ月前ぐらいから取り組まなければならないかな、という時代がかつてありました。

今や、締切日の夕方までにメール添付で送ればいいからと、ギリギリまで粘れます。

そして、すぐにインターネットで処理できるからと、仕事の量はどんどん増えていくのでした。しかも、人事評価やら業績評価やら、書類の種類がどんどん増え、会議の回数がどんどん増え・・・。その一つ一つは、無駄をなくし、効率的に事務処理されたもの。

でも、それを鳥瞰的に見ると、無駄を省いた効率的な事務処理の全体量がものすごく増えたのではないでしょうか。なぜなら、人間を忙しさから解放するはずの技術がそれだけの量の事務処理を可能にしてしまったからです。

そういう方々が、ストレスからか、それだけの仕事をこなせない(とみなされた)人々を見下し、生産性が低いなどと思うのかもしれません。でも、そのこなしている仕事は、世の中のためだと誰にでも胸を張って言える仕事なのですか。

無駄とは、広い意味での遊びのことかもしれません。

伸びきったゴムは、いずれパチンと切れてしまいます。ゴムがゴムたり得るのは、遊びがあるから・・・。

人間は生産性や効率のみで評価されるものではないでしょう。無駄があるから、深さが出る。遊びがあるから、本気で集中できる。

無駄はたしかに有駄である、と感じます。ゆるい社会が(鋼の強さではなく柳の強さという意味で)強い社会である、と思います。

そういえば、うだうだするは有駄有駄する、という当て字がありましたね。これも、無駄の有駄のお仲間でしょうか。うだうだするのはとても好きです。

無駄の有駄を教えてくれた教頭先生の英語の授業、とても大好きでした。

7年目の3月11日、佐伯で寺井尚子コンサート

3月7~9日は、神戸の震災復興を支援してきたNPO法人の友人らとともに、福島から浪江、小高、相馬、山元、閖上、荒浜、仙台とまわりました。3月10日に福島でのシンポジウムに出席した後、11日は大分県佐伯市へ飛びました。

友人らとまわった話は、別途、このブログに書きたいと思います。

そう、今年の3月11日は、東北で過ごしませんでした。大分県佐伯市へ行った目的は、さいきミュージック・アートクラブが主催する「寺井尚子コンサート」に出席するためでした。

高速バスで佐伯に着いたのが午後2時。ホテルへチェックインし、午後2時46分、ホテルの部屋で黙とうしました。これまで毎年、インドネシアにいるときは時差を考慮しながら、この時間に必ず黙とうしてきました。

部屋で黙とうしようとすると、突然、サイレンが鳴り始め、それは1分間続きました。東北から遠く離れた佐伯市でも、サイレンが1分間の黙とうを市民へ促しているのでした。

街中を歩くと、地元の高校に掲げられた国旗は半旗でした。

東日本大震災を忘れまい、という気持ちは、まだそれなりに強くあるのかもしれない、と信じたくなりました。

寺井尚子コンサートですが、さいきミュージック・アートクラブが昨年、招聘を計画してから、このジャズ・バイオリニストの名前を知りました。そして、何曲か聴いて、はまってしまいました。

とくに、「トワイライト」というアルバムの1曲目の「ブエノスアイレスの冬」を聴いて衝撃を覚え、そのメロディーが頭の中から離れなくなってしまいました。

その後、しんしんと雪の降るとある日に、さいきミュージック・アートクラブの友人が薦める「カッチーニのアヴェ・マリア」を聴いて、鳥肌が立ってしまいました。

そんな寺井尚子を生で聴く機会なのでした。自分では、彼女の音楽のなかに、震災で亡くなられた方々への鎮魂や残された方々への励ましを勝手に感じていたのです。

実際のコンサートは、すごくパワフルなものでした。佐伯という地方都市だから手加減するということはなく、彼女の超絶技巧のバイオリンが、ピアノやベースやドラムと掛け合いながら、アドリブが際限なく続く、まさに真剣勝負のセッションでした。

録音された同じ曲でも、実際に生で聴くと、そのセッションの激しさがガンガンに響いてくるのでした。

後半になって、それまでのアップテンポな激しいセッションが続いた後、突然、静かに、そしてしんみりと、「カッチーニのアヴェ・マリア」が始まりました。

最初のバイオリンの入りの絶妙さ。単なる悲しさや寂しさや苦しさとは違う、いや、むしろそれらが複雑に被さり合い、混ざり合い、折り込み合っているような、何とも言葉に表せないような音色。

聴きながら、頬を涙が伝って落ちていきました。びっくりしました。初めての経験でした。

いろんなものやことを思い出していました。それは映像で観たものもあれば、かつて2012年に自分の目で見たもの、つい数日前に現場でお会いした方々と彼らが話してくれたお話、そして震災の前年に亡くなった父のことも。そしてそれらが混じっていきました。

コンサートでこんな気分になるなんて・・・。自分でも信じられない経験でした。

コンサートが終わった後、寺井尚子さんを囲んでの懇親会・ご苦労さん会が小さな洋食店でありました。ちょうど、今日11日が誕生日の出席者がいたのですが、寺井尚子さんはいきなりバイオリンを取り出し、ハッピーバースデーを弾き始め、弾きながら席の合間を歩き始めました。本人にとっては、超感激な誕生祝となりました。

私はどうしても寺井尚子さんに訊ねたいことがありました。3月11日に行うコンサートのどこかに、3・11への思いが込められていたのか、と。

幸運にも、彼女から直接答えがありました。3・11とあえて口には出さなかったけれども、震災の日だということに思いを込めて演奏していた、と。

彼女の音楽のなかに、震災で亡くなられた方々への鎮魂や残された方々への励ましを勝手に感じていた自分でしたが、それは寺井尚子さんに通じていたのでした。

魂を揺さぶる音楽。自分が最も大事にしている奥底に触れてくるのでした。それは、彼女の超絶技巧のバイオリンだからなのでしょうか。

生で聴いた彼女の「カッチーニのアヴェ・マリア」の衝撃を、当分、忘れることはないでしょう。5月の新アルバムのリリースが待ち遠しくなりました。

現場へ行ったから分かるとは限らないが、行かなかったらきっと分からないままのこと

先週、気仙沼と陸前高田へ行ってきました。前回行ったのが2012年8月だったので、5年ぶりでした。

陸前高田は、震災による津波で街が物理的に消えてしまった街です。5年前、ひたすら野原が広がるその土地に、壊れたままのいくつかの建物やかろうじて残る住居の区画跡を見ながら、そこで響いていたであろう人々の声やいたいけな子供の笑顔をずっと創造し続けていました。生の痕跡を、自分の体の周りのあちらこちらで感じながら、目をつぶってパッと目を開けたら、目の前に生の街が現れるような、そんな気持ちになりました。

5年経って再訪した陸前高田は、5メートル以上の盛り土がなされ、その上に新しい街を作り始めていました。バイパス沿いにあった花々の列も、壊れたままのスーパーも、亡き人を追悼する墓標も、見えなくなっていました。過去の陸前高田が新たな盛り土によって覆いかぶされ、見えなくなっていました。

それでも、新しくオープンした大型複合商業施設「アバッセたかた」は、きれいなお店が入り、賑わいを見せていました。素敵な市立図書館も併設されていました。

ランチを食べた陸前高田の蕎麦屋「やぶや」は、行列ができるほどの大人気でした。一番人気は、天ざる。しっかりいただきました。
明るく前を向いていこう、という気分は、かなり感じました。6年以上という時間が、ある意味、後ろを向いていても仕方がない、前を向いて明るくやろうや、という割り切りを陰に陽に促しているようにも感じました。
でも、そんなふうにスパっと割り切れるはずはない・・・。

気仙沼で友人と夕食をご一緒したとき、開口一番、彼が口にしたのは、「つらい」という話ばかりでした。彼の周りで、亡くなる人が絶えない。自ら命を絶ったのか、病気だったのか、色々な話があるようでした。

普通は、自分にとってつらい話をよそ者にしたりはしないものです。メディアに話が出ないからと言って、みんな前を向いて進んでいるわけではなく、心の中に言葉にできないようなつらい思いを抱えながら、それが何かの瞬間にあふれ出て、誰にも受け止めてもらえない孤独感。

現場へ行ったからこそ、知ることができた話なのでしょう。でも、現場へ行ったからと言って、分かったとは言えないかもしれません。でも、遠くにいたら、現場へ行かなかったら、きっと知らないまま、分からないままのことなのです。

楽しい再会、飲み会の前に、どうして彼はそんなつらい話をしてくれたのだろうか。いや、もしかしたらずっと閉まっておいた話が、たまたま私と会って、溢れてしまったのかもしれません。本当は、彼は、泣きたかったのかもしれません。

しばらくして、彼は、ちょっと無理やり笑いながら、気仙沼の景気が決して良くないことや、よそ者には知られたくない様々な街の問題を話してくれました。それから先は、気仙沼とインドネシアをさらにどうやってつないでいくか、という真面目な「前向きな」話へ展開していきました。

でも、今でもふと、津波で両親を亡くした子供が、クリスマスの夜に海へ入水してそのまま帰ってこなかった、という彼の話を思い出してしまうのです。いい悪いの話ではなく、その子を温かく見守ってあげられなかった大人の一人として。同じような地元の大人に刻まれた心の傷を、まるで自分の傷のように感じてしまうのです。

アバッセたかたを行きかう人々を眺めながら、その人々の一人一人が、言葉にならない辛さや傷を心の中にしまいながら生きているのだ、と想像してしまうのでした。

盛り土で見えなくなったとしても、よそ者には見えなくとも、震災の傷跡が癒えるものではないのです。それは、言葉に出せない、出すべきではない、感情なのです。

リボーンアート・フェスティバルを垣間見る

ずっと行きたくてなかなか行く機会がなかった、リボーンアート・フェスティバルにようやく行くことができました。

開催地は、宮城県石巻市と牡鹿半島で、「アート・音楽・食の総合祭」と自ら呼んでいます。特色としては、小林武史氏を中心とするAPバンクが資金提供し、行政が主導していないことです。それゆえ、アーティストが自由に様々な表現に挑戦することができる、ということのようです。

本当は一つ一つじっくりと作品を味わいたいところですが、そうも言っていられないので、今回は、手っ取り早く、1日ツアーに申し込みました。このツアー、東京から日帰りでくる人を想定し、11:20に開始、18:00に終了します。私も、朝、東京を出て、ツアーに参加しました。

なお、ツアー代は昼食込みで5000円、さらに2日間有効のフェスティバル・パスポートを購入する必要があります。

平日で、ネット上ではまだ定員に余裕があるようだったので、参加者は少ないかなと思っていたのですが、実際には、バスの座席全てが埋まる、25人の満員でした。

今日は天気にも恵まれましたが、8月中は雨や曇りの日が多く、ツアーガイドによれば、こんな天気の良い日は滅多になかったとのことでした。

そのせいか、予想以上の数のアートを効率的に見ることができました。

まず、リボーンアート・ハウス(関係者やスタッフの事務所兼宿泊所。旧病院)で小林武史×WOW×Daisy Balloonの”D-E-A-U”という不思議なアートをみました。

その後、牡鹿半島へ向かい、牡鹿ビレッジで、昼食をとりながら、フェスティバルのシンボルにもなっている白い鹿のオブジェを見学。なぜか、ドラゴン・アッシュのメンバーの一人が、トランペットの音色に合わせて、白い鹿の周りで踊る、というパフォーマンスもありました。

白い鹿の近くの洞窟には、牡蠣漁のブイを縄で結びつけ、その縄がはるか森まで結びつき、牡蠣の生育には森の健全な成長が不可欠であることを訴えるアートがありました。

白い鹿の後は、牡鹿半島の南端、ぐるっと海を一望できる御番所公園へ行き、草間彌生のオブジェを見ました。この場所でこれを見ると、なんとも言えない力強さを感じました。

草間彌生の後は、金華山を目の前にするホテルニューさかいへ行き、全身の穴から水を出し、その水がまた体内に戻ってくるという循環を示す緑の人間像を見ました。

さらに、ホテルニューさかいの屋上へ出る前に怪しげな看板が。

屋上では、金華山を見ながら、カラオケを楽しんでいました。これもアート!?

ホテルニューさかいの後は、のり浜という海岸へ行き、海岸に打ち上げられた倒木や石などを立てる、というアートを見ました。ツアー参加者もその行為に参加することで、「起きる」「起こす」という意味をそこに見出す、ということのようでした。

のり浜の後は、旧桃浦小学校跡にある幾つかの作品を見ました。40年前まで、この場所に小学校があり、子供がいたことを思い出させる「記憶のルーペ」と、りんごが先に付いたけん玉とのアート。

そして、ここに住みながら、自然との共生を肌で感じながら制作した、住居のアートもありました。

今回のツアーの特色は、広域に散らばったこれだけの作品を効率よく回れることのほか、かなり歩くツアーである、ということです。アート作品はそれが最も強調される場所に作られるため、バス道路から15分程度の山道を上り下りするような場所にあります。短時間で何度も結構な上り下りをすることになりました。

というわけで、予想よりもずっと充実感のあるツアーでした。ただ、一緒に参加した方々は、アート作品には興味があるものの、その作品を作品たらしめている石巻や牡鹿半島の風景や人々には、あまり関心がない様子でした。石巻や牡鹿半島の人々からすれば、どのような動機であれ、域外から人が来てくれるのはありがたいことでしょうが、もう少し、土着のものとの連結を考えた方が良いのではないか、と感じました。

私自身、このツアーでアート作品を見て回りながらも、今ここで生きる人々の関係者であの震災で犠牲になった方々が、今もこの空気の中に存在しているかのような気配を感じていました。その方々の気配こそが、リボーン(Reborn)の背景にあるものだと感じたのです。

そんなことを思いながら、フェスティバルの公式ガイドブックを購入して、パラパラめくっていたら、このフェスティバルに深く関わっている人類学者の中沢新一氏が、似たような感覚について指摘していて、ちょっと驚きました。

その中で、中沢氏は、東北でリボーンアート・フェスティバルを行う意味として次のように語っています。

元々東北は・・・亡くなった人や見えない物を日常に感じながら作られていく世界でした。そこでは四次元の世界が生きている。(中略)そういう場所にあの大震災が起こったものだから、ますます東北は、「東北らしさ」が強まったと感じています。(中略)グローバルな経済活動に巻き込まれていないということは、別の意味では経済的に貧しいということでしょうが、(中略)むしろ、貧しいことの中に価値を見出していくことが、東京オリンピックが終わる2020年以降、不況がやってくる状況の中で日本が全体で抱える課題になると思います。(中略)その時にこそ大切になるリボーンの原理を見ておこう、作っておこう、というのが「リボーンアート・フェスティバル」の目的です。

今までとは違う新たな価値観を「リボーン」の名の下に提示したい。日本のリボーンの出発点は東北ではないか。そんな問題提起がこのフェスティバルの根底にあるのでした。

その意味では、今、日本のあちこちで、「リボーン」の芽は現れ始めていると感じます。いや、世界のあちこちで、それが現れ始めているのではないか。そのあちこちこそが、中心都市ではなく、ローカルであり、地域コミュニティであり、それらが繋がっていくことで、今までとは違う「リボーン」を実現していけるのではないか。

これもまた、私たちが目指す方向性に勇気を与えてくれるようなアートフェスティバルだった、と改めて確認したのでした。

尊厳ということ

近年ずっと思っていることの一つが、尊厳ということです。

人間が生きていくうえで、自分の人生を振り返ったとき、「生きていてよかった」「生きてきてよかった」と思えるのは、自分の人生が自分にとっての意味を持ち、それを自分以外の他人や場合によっては世間が認め、尊重するからではないかと思います。
人生の最期を、モノとしてではなく、その人自身として終える。誰もがそのような尊厳を持った形で最期を迎えたいと思うものだと思います。
立派な人生って何だろうな、とも思います。誰が何をもって「立派だ」と評価するのか。なかには、他人や世間から「立派な人だ」と言われたいと思って生きる人もいることでしょう。でも、それは常に自分の人生の評価の尺度を他人に委ね続けるということでもあります。本当の自分とは違う自分を演じ続けなければならなくなります。
どんな人でも、自分が自分らしく生きた、そのそのものをそのまま尊重してもらいたい、という希望を持っているのではないか。他人の評判や世間体に合わせるのではなく、自分ではないような演技をすることなく、自分の存在そのものを一人の人間として尊重されたいのではないか。そんな気が自分でもします。
でも、それは、果たして人間のことだけなのでしょうか。
例えば、地域もまた然りではないでしょうか。外部の人間がその地域のことを勝手に「限界集落」と呼び、人口が減少してもうおしまいだ、と決めつけるかのような言論があります。たしかに、物理的に、人口減少を食い止めることはもう無理かもしれません。でも、現在に至るまで、その地域が存在してきたという歴史やそのために人々が様々な努力を重ね、生活を営み続けてきたという重みを無視することはできません。
外部者に、そうしたものに対する敬意や尊敬はどれほどあるでしょうか。少なくとも、地域の方々に敬意や尊敬を感じさせるような接し方を、果たして外部者はしているでしょうか。
企業も産業もまた然りではないでしょうか。どんな企業でも、未来永劫、成長し続けられるとは限りません。自分たちが長年にわたって開発し、工夫し、磨き上げてきた技術やノウハウがもはや今の場所では使われないものになってしまい、あるいは後継者に恵まれず、廃業せざるをえない状況も出てくることでしょう。そのとき、その企業がこれまでに培ってきた様々な成果や地域経済に対する貢献、地域の人々の生活を支えてきたという事実に対して、敬意や尊敬をもって我々は接しているでしょうか。
人は誰でも、自分という存在をありのままに認めて欲しい存在ではないでしょうか。自分のことを他人に正当化されたい存在ではないでしょうか。そして、認められている、敬われている、という気持ちが持てることによって、その人の人生にはちゃんと意味があったんだ、生きてきたということに意味があったんだ、と思えるのではないでしょうか。
余裕のない現代日本社会では、いつしか、長所よりも短所、優れている点よりも欠点を目を皿のようにして探して、自分のほうが相手よりも上だと思いたいという病が蔓延しているかのようです。なんでも競争に仕立て、勝ちか負けかを常に意識し、他者への敬意や尊敬をせず、むしろ相手を罵倒しないと自分が罵倒される(だから先んじて罵倒する)といった、恐怖心さえ持っているかのように見えます。
企業や産業における技術やノウハウについては、日本ではもはやニーズがなくなってしまっていたとしても、世界のどこかではまだまだ必要としているかもしれません。日本でこのままなくなってしまうかもしれない技術やノウハウを欲しいと言ってくれる場所があり、そこへ移転されるならば、これまで培ってきた技術やノウハウが世界のどこかで誰かのために生かされ、さらに改良されて次の世代へ伝えられていくかもしれません。
そのときに、そうした技術やノウハウを培ってきた日本の方々の存在や積み重ねられてきた経験に対して、新しくそれらを受け止めた人々が敬意や尊敬を示すような、そんな伝え方を考えたいのです。
地域についても、その地域が衰退する、消えてしまうという経験は、決して日本だけのことではありません。でも、その最期の迎え方が重要だと思うのです。後世にその地域が存在し、人々がそこで生活し、生業を営んできたという記憶・記録をどのように残していくか、そこに生きた人々に対する敬意と尊敬をどのように示すことができるのか。
そのときに、企業や産業のように、日本だけでなく、日本以外の海外の地域に対して経験やノウハウを伝え、その一部が世界のどこかで生きながらえていく、ということもありうるのではないか。そんなことを思います。これからの地域づくりにおいては、そうしたことも含めた実践を考えていかなければならないような気がするのです。
人間にとっても、企業にとっても、産業にとっても、地域にとっても、尊厳というものはとても重要なことではないか、生きていくための種火なのではないか、という気がします。そして、その種火を大事に大事にしていくような、コンサルティングやファシリテーションを丁寧に行なっていきたいと思っています。
こうした姿勢や接近法で、きちんと生計を立ててビジネスとしてやっていけるのかどうか、何を青臭いことを言っているんだ、という声もあるだろうと思います。他人から上から目線で馬鹿扱いされるかもしれません。でも、こうした今の世の中に必要なことを、カネのために犠牲にするほど、自分はまだ狂えていないという自覚があるうちに、やっていかなければと思うのです。
久々の独り言で、失礼いたしました。

25年ぶりにジャカルタの恩人の一人と再会

ジャカルタでの用務を終え、帰国便まで時間が取れたので、ジャカルタの恩人の一人のお宅を訪問し、25年ぶりに再会しました。

つい最近、日本の携帯のLINEにこの方からメッセージが入りました。ジャワ人によくある名前であり、何人か同じ名前の知り合いがいるので、それまでの一番最近連絡のあったバニュワンギ県会議員かと思って尋ねたら、恩人の方でした。

彼と出会ったのは、前の職場に入った年なので、1985年です。インドネシア中央統計局の最後は副長官を務めた方で、私がインドネシア研究に携わり始めた駆け出しの頃、ずいぶんと可愛がってもらいました。

日本にも何度か招聘し、地方視察へご一緒して、温泉に入ったり、いろんなエピソードがあります。職場の先輩のリクエストで、彼の奥様と温泉ホテルで「ブンガワン・ソロ」のデュエットをさせられたのも、今となっては懐かしい思い出です。

4年前に、心筋梗塞で倒れ、手足がうまく動かなくなってしまったと聞いていたので、お会いしてよいものか、ちょっと迷っていました。

お会いしてみると、とても元気そうで、昔と同じように、「お前は子供だったよな」「ずいぶん太ったじゃないか」「こどもはいるのか」などと、冗談を交えながら、とにかく大声でよくしゃべられました。

奥様によると、相変わらず、よくしゃべり、よく食べるそうで、お会いしてホッとしました。お子さんたちも皆独り立ちされ、孫にもたくさん恵まれ、幸せそうでした。

何年経っても、こうして相手にしてもらえるなんて、私もとても幸せな気分でした。

次回は、彼とコンビを組んでいたもう一人の恩人、元中央統計局の長官だった方とも一緒にお会いしたいと思いました。

ジャカルタの恩人は、数えたことはありませんが、けっこうたくさんいます。本当にたくさんの方にお世話になり、それが今の自分を支えているのだということを改めて感じました。

恩人であるTさんの思い出

梅雨とは思えないような九州地方の豪雨、まるで、インドネシアの雨季の雨のような、日本がどんどん熱帯の気配を漂わせるような、陽気のよくない日々が続いています。

今週は、悲しいお別れの知らせがいくつかあった週でした。色んなことを感じながら、お見送りをされた方々のことを思っていました。

その中の一人が、私の恩人の一人であるTさん(女性)とのお別れでした。91歳でした。Tさんは、インドネシア語とマカッサルとの二つの意味で、私の恩人でした。

それは私が最初の職場に入って3年目ぐらいの頃だったでしょうか。私は、Tさんと一緒に、毎週、インドネシア人のJさんにインドネシア語を教わっていました。その時、Tさんはすでに60歳を超えていましたが、とにかく元気な方でした。

当時は、毎週、インドネシア語の本や新聞記事を題材にして、日本語の訳をつける練習をしていたのですが、Tさんは毎回、分担部分をしっかりやってきていました。それは、Tさんが次のステップへ向かうための準備だったのでした。

元教師のTさんは、その後、1988年頃、日本語教師として、インドネシアのマカッサルへ渡り、現地の日本語学校で日本語を教え始めました。とある友好団体によるプログラムだったのですが、おそらく、マカッサルで日本語を教えた最初の日本人だったのではないかと思います。

Tさんは日本語学校のある同じ建物に住んでいましたが、プログラムの予算が限られていたため、本当に質素な生活をされていました。当時、頼れる在留邦人の知り合いもなく、毎日のように様々なトラブルに見舞われ、相当なストレスだったと想像します。

私がマカッサルでTさんとお会いすると、いつもそうしたトラブルの話を聞かされたものでした。車も持っておらず、当時はタクシーもなかったので、いつもペテペテ(乗合)や教え子のバイクの後ろに乗って、街中を移動していました。

Tさんのもとで、たくさんの生徒が日本語を勉強していましたが、途中で止めていく者も少なくありませんでした。でも、Tさんは本当に懸命に日本語を教えようと奮闘されていました。

Tさんの教え子の中には、その後、日本へ出稼ぎに出かけたものの、不法就労がバレて捕まり、インドネシアへ送り返された人がいますが、今、私はマカッサルで彼が運転する車をよく使っています。

Tさんとマカッサルで会ったのは、私が長期でマカッサルに滞在する前の話でした。ちょうど、ジャカルタに2年いた間に、マカッサルへは2回行き、その度にTさんに会っていました。Tさんに案内された宿舎でボヤ騒ぎが起きたことなど、今となっては、全てが懐かしい思い出です。

Tさんが教鞭をとった日本語学校はその後取り壊され、今は駐車場になっています。ちょうど、サヒッド・ホテル・マカッサルの向かいあたりにありました。ボヤ騒ぎのあった宿舎も、どこにあったか、記憶が定かではありません。

今まで色々な人に会いましたが、あんな小柄な体なのに、どうしてあんなパワフルに動けるのか、Tさんの元気さにはいつも圧倒されていました。

Tさんがいてくれたから、私はインドネシア語の勉強を続け、マカッサルについて色んなことを知ることができました。私を導いてくださった恩人の一人なのです。

とっても世話焼きで、自分のことよりも他人のことをいつも考え、何事にも全力でぶつかっていく方でした。

晩年はなかなかお会いする機会がなく、年賀状のやり取りも滞りがちでしたが、7月の梅雨の最中に、旅立たれていかれました。

おそらく、Tさんのことを知る日本人は少ないかもしれませんが、彼女もまた、紛れもなく、日本とインドネシアとの関係を深めるのに大きく貢献した方であったことは間違いありません。

私も、Tさんと出会うことができてよかったとつくづく思います。Tさんが願うような日本とインドネシアになったかどうかは分かりませんが、彼女の軌跡を振り返りながら、さらなる進化を促していきたいと思います。

どうか安らかにお休みください。ご冥福を心からお祈り申し上げます。

コンサルタントと名乗ることについて

自分がなりたいのは、ローカルの足元の生活から物事を発想し、ローカルが他のローカルとつながりながら、新しいモノやコトが創り出されるための黒子、です。

でも、法人クレジットカードの申込や銀行での法人口座開設で、それを職業や職種で一言で何というか、と問われると、どう言っていいのか分からなくなります。「その他」というのが該当するのでしょうが、それだとさらに具体的な説明を求められて、面倒になります。

それで、「コンサルタント」と名乗ることにしています。でも、世の中のいわゆる正統なコンサルタントとはちょっと違うような気がしています。

一般に、コンサルタントは、顧客(クライアント)からの相談を受けて、助言や解決策を教え、その対価をもらう仕事と考えられます。ですから、顧客の意向がどのような理不尽なものであっても、それに合わせる必要が出てきます。

これまでのいくつかの経験で、そのような振る舞いが必要な場面があるということを十分に学びました。契約書や仕様書に書かれていなくとも、顧客から指示されたことは、断ってはならないし、顧客の気分を害するような態度を決して示してはならない、ということを。なぜなら、そんなことをして顧客から仕事がもらえなくなったら大変だから。

それに見合う見返り収入が十分にあるのならば、それはそれと割り切って、ニコニコしながら、うまく対応するのも大人の対応なのだろうな、と思います。まだ、収入が不安定な時には、そうした収入がやはり必要だと実感します。

でも、できることならば、そのような仕事だけをする人生など送りたくありません。私がやりたいことは、教えないコンサルティング。顧客に教えるのではなく、顧客が自分で気づき、自分で問題を解決するために動く、そのように促すやり方です。

数日前の記事で、東京から東北へやってくるコンサルタントに関する記事が載っていました。曰く、復興や地方創生で困っている自治体などへ、そうしたコンサルタントが乗り込んでいって自分のアイディアを売り込む。東京から来たコンサルタントさんだからといって自治体側もなぜか期待して、多額の報酬を支払ってしまう。その実、後から振り返ると、何が自治体にとって役に立ったのか分からない、といった話でした。

コンサルタントと名乗ると、そんな輩と一緒にされてしまうのだろうか、なんて思ったりもします。ちょっとこわいです。

しかしこの構図、実はインドネシアでさんざん見てきた構図と全く同じなのです。そして、ある意味、自分もそうした外部専門家の立場にいたこともあるわけです。そんな立場の自分なのに、「よそ者に騙されるな(私もよそ者だけどね)」とインドネシアの村人たちに言い続けていた自分は、やっぱり他のコンサルタントさんから見ると、異様だったのだなと今にしてよくわかります。

インドネシアでは外国援助。日本では復興や地方創生という名の補助金。これらに頼った仕事しかしないコンサルタントならば、やはり顧客であるそれらの資金元の意向に沿わざるを得ないのは当然です。

でも、それらのコンサルタントの仕事をいちいち業績評価しているのかどうか。評価しているとしても、誰がどのように評価し、その結果を受入側へも含めて公開しているのかどうか。事業を作れば予算が増えるという仕事のしかたならば、自分の予算でやった仕事が無駄だった、国民の皆さんごめんなさい、とは言いにくいし、別の形でうまく言っているように見せるのだろうな、と思ってしまいます。

私が福島で起業した理由の一つは、東京のコンサルタントにならないためです。親切な地元の方々は、客人の意向にできるだけ合わせてくれます。客人が教えることにも分かったふりをしてくれます。でも、事業が終わると、客人が机上で描いたようには変わりません。事業を金づると思っている客人にとっては、次の事業が取れればいいのです。

そんなコンサルタントと一緒にされたくはありません。でも、収入を安定させるためには、お面を被って、外国援助や補助金の仕事もします。その仕事の過程で得るものはゼロではないし、次の自分オリジナルの仕事につながる部分もあるからです。

自分にしかできないコンサルティングがある、と確信しています。あえて教えないコンサルティング。学び合いを促して自分も学ぶコンサルティング。「後は自分でやれるからもういいよ」と顧客から言われることを常に覚悟しているコンサルティング。「何でもいいから何か仕事をください」と言いまくらないコンサルティング。

まずは、顧客とどこまで真の信頼関係を築けるか。一歩一歩、進んでいきたいと思います。

開発援助の経験から日本は何を学んだというのか

インドネシアで様々な開発援助の現場を見てきました。援助する側から見た現場だけでなく、援助される側がそれをどのように受けとめているかも見てきました。

日本からインドネシアへの援助だけでなく、インドネシアの中央政府から地方政府、地方政府から地域住民への補助金や援助プロジェクトも見てきました。私自身、JICA専門家のときには、中央政府側と地方政府側の両方の立場で用務を行ったので、その本音の部分も含めていろいろと観察することができました。

中央政府には表向き絶対に逆らわない地方政府。しかし、中央政府の役人達が帰ると、途端に地方政府の役人から批判や不満が噴出します。中央政府の役人を交えたセレモニーでの猫を被ったような従順さと、あまりに対照的で、思わず笑ってしまいそうになります。

村でも同様です。役人が来るので、村人には百姓仕事を脇に置いてもらい、とにかくまずは人を集めます。役人のお話を恭しく拝聴し、食事も供して、役人には気持ちよく過ごしてもらいます。そして、役人が帰った後は、村の現実から遊離した役人の話の内容を咀嚼できずに、困惑したりするのです。

よそ者が相手に対して何か働きかける際、何も反発がない場合には、相手が完全に同意しているのか、相手が適当によそ者に合わせてくれているのか、見極める必要があります。でも、成果を気にするよそ者は、それをもって、うまくいっている、自分のやり方に同意してくれている、と自分に都合の良い解釈をしがちです。

日本の開発援助は、受益者自身が自分たちで自分たちのために主体的に物事を進めるようにするために支援する、という建前をとってきました。たとえば、研修や教育訓練を施すにしても、それらを実施できるトレーナーの人材育成も合わせて行い、日本がいなくなっても、自分たちで人材育成ができるような仕組みを埋め込んでいく、というような援助を、少なくとも建前上は目指してきたと思います。

そのノウハウや実践例は数多くあり、蓄積され、対象となる人々の自立を助けることが日本の開発援助の特色として語られることも少なくありませんでした。

そんな素敵な海外での実践経験を培い、その援助手法を世界に誇ってきた日本ですが、東日本大震災の後に東北で行ってきた復興支援にそうした経験はどれほど生かされたのでしょうか。あるいは、日本国内では、対象となる人々の自立を助けることをする必要がない何らかの理由があるのでしょうか。

そんなことを自問する毎日を送っています。

日本だけが素晴らしい、なんて到底思えない現実と、これから格闘していくのだ、という覚悟が求められていると感じます。このことについては、これからもおいおい書いていきます。

英語とインドネシア語でも発信中

6月1日から、Glocal from Fukushima という題の個人ブログを書いています。使用言語は英語とインドネシア語で、1日ごとに2つの言葉で交互に書いています。

福島市に個人会社を設立した後、外国語での福島に関する発信がまだまだ少なく、もっと等身大の福島を外国の方々にも知ってもらいたいと強く感じました。そして、自分ができるのは、福島についての記事を英語とインドネシア語で発信することだと思い当たり、拙いながらも、始めてみたところです。

一つの記事を英語とインドネシア語で書いても良かったのですが、書いている私が新鮮な気持ちになりにくいので、あえて、違う話題を交互に書き連ねています。また、福島の何について書くか、ネタを探す契機にもなり、いい意味で福島のことをもっと知らなければ、という気持ちにもなります。

今はまだ、一般的な内容が多いのですが、今後は、自分が福島であった人々のことや、遭遇した事件や、いろいろなエピソードを織り交ぜていきます。

Glocal from Fukushimaも、この「ぐろーかる日記」と同様、目標は毎日更新です。こちらもまた、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

 Glocal from Fukushima

「食と農」の博物館を楽しんだ日曜日

今日は、姪の用事に付き合って、東京農業大学を訪問しました。ちょうど、芽吹祭という学園祭が行われていました。姪と別れてから、すぐ近くにある「食と農」の博物館を訪れました。

建物の周りでは、世田谷区の野菜直売イベントが行われており、朝採り野菜が人気を集めていました。

「食と農」の博物館では、大きな雄鶏の像に迎えられました。雄鶏の後ろには、キリンとゴリラが見えます。隈研吾氏の設計だそうです。

ちょうど今は、「微細藻類の輝かしき未来」という企画展が行われていました。イスラエルの死海で発見されたドナリエラ・バーダウィル、コッコミクサなど、門外漢の私には初めて聞く名前の微細藻類についての研究の現況がパネルで説明されていました。

βカロチンなど医薬品や機能性食品などに点火される微細藻類や、表土流失を抑える効果を持つ微細藻類、農業分野で肥料などに活用される微細藻類などが紹介されていました。
微細藻類の企画展の脇には、東京農業大学の設立者である榎本武揚や、初代学長で足尾鉱毒事件で(田中正造が関わる以前から)農民側に立って汚染状況を科学的に立証してきた横井時敬に関する説明展示がありました。
2階では、酒に関する展示があり、酒造りのほか、酒を嗜むための酒器、酒を楽しむ人々を描いた絵画、などがありました。他には、古くから使われてきた農具のほか、酉年にちなんでなのか、様々な鶏の剥製が展示されていました。

建物のすぐ外には、温室があり、熱帯の動植物がそこにおりました。

メガネザル
ゾウガメ
イグアナ
温室内の動植物は、よく世話をされていると見え、どれも元気にしていました。また、東京農業大学のキャンパス内の植物もよく手入れされている様子がうかがえました。
もしも、娘が小さい頃に、こんな博物館が近くにあったら、きっと毎週のように、メガネザルさんやカメさんに会いに通ってしまうことでしょう。
姪の用事に便乗して、楽しんでしまいました。
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