恩人であるTさんの思い出

梅雨とは思えないような九州地方の豪雨、まるで、インドネシアの雨季の雨のような、日本がどんどん熱帯の気配を漂わせるような、陽気のよくない日々が続いています。

今週は、悲しいお別れの知らせがいくつかあった週でした。色んなことを感じながら、お見送りをされた方々のことを思っていました。

その中の一人が、私の恩人の一人であるTさん(女性)とのお別れでした。91歳でした。Tさんは、インドネシア語とマカッサルとの二つの意味で、私の恩人でした。

それは私が最初の職場に入って3年目ぐらいの頃だったでしょうか。私は、Tさんと一緒に、毎週、インドネシア人のJさんにインドネシア語を教わっていました。その時、Tさんはすでに60歳を超えていましたが、とにかく元気な方でした。

当時は、毎週、インドネシア語の本や新聞記事を題材にして、日本語の訳をつける練習をしていたのですが、Tさんは毎回、分担部分をしっかりやってきていました。それは、Tさんが次のステップへ向かうための準備だったのでした。

元教師のTさんは、その後、1988年頃、日本語教師として、インドネシアのマカッサルへ渡り、現地の日本語学校で日本語を教え始めました。とある友好団体によるプログラムだったのですが、おそらく、マカッサルで日本語を教えた最初の日本人だったのではないかと思います。

Tさんは日本語学校のある同じ建物に住んでいましたが、プログラムの予算が限られていたため、本当に質素な生活をされていました。当時、頼れる在留邦人の知り合いもなく、毎日のように様々なトラブルに見舞われ、相当なストレスだったと想像します。

私がマカッサルでTさんとお会いすると、いつもそうしたトラブルの話を聞かされたものでした。車も持っておらず、当時はタクシーもなかったので、いつもペテペテ(乗合)や教え子のバイクの後ろに乗って、街中を移動していました。

Tさんのもとで、たくさんの生徒が日本語を勉強していましたが、途中で止めていく者も少なくありませんでした。でも、Tさんは本当に懸命に日本語を教えようと奮闘されていました。

Tさんの教え子の中には、その後、日本へ出稼ぎに出かけたものの、不法就労がバレて捕まり、インドネシアへ送り返された人がいますが、今、私はマカッサルで彼が運転する車をよく使っています。

Tさんとマカッサルで会ったのは、私が長期でマカッサルに滞在する前の話でした。ちょうど、ジャカルタに2年いた間に、マカッサルへは2回行き、その度にTさんに会っていました。Tさんに案内された宿舎でボヤ騒ぎが起きたことなど、今となっては、全てが懐かしい思い出です。

Tさんが教鞭をとった日本語学校はその後取り壊され、今は駐車場になっています。ちょうど、サヒッド・ホテル・マカッサルの向かいあたりにありました。ボヤ騒ぎのあった宿舎も、どこにあったか、記憶が定かではありません。

今まで色々な人に会いましたが、あんな小柄な体なのに、どうしてあんなパワフルに動けるのか、Tさんの元気さにはいつも圧倒されていました。

Tさんがいてくれたから、私はインドネシア語の勉強を続け、マカッサルについて色んなことを知ることができました。私を導いてくださった恩人の一人なのです。

とっても世話焼きで、自分のことよりも他人のことをいつも考え、何事にも全力でぶつかっていく方でした。

晩年はなかなかお会いする機会がなく、年賀状のやり取りも滞りがちでしたが、7月の梅雨の最中に、旅立たれていかれました。

おそらく、Tさんのことを知る日本人は少ないかもしれませんが、彼女もまた、紛れもなく、日本とインドネシアとの関係を深めるのに大きく貢献した方であったことは間違いありません。

私も、Tさんと出会うことができてよかったとつくづく思います。Tさんが願うような日本とインドネシアになったかどうかは分かりませんが、彼女の軌跡を振り返りながら、さらなる進化を促していきたいと思います。

どうか安らかにお休みください。ご冥福を心からお祈り申し上げます。

マカッサルをバイクタクシーで歩く

今回のマカッサル滞在中、愛用したのがバイクタクシーでした。バイクタクシーはインドネシア語でオジェック(Ojek)と呼ばれ、バイクの後ろにまたがって移動するものです。

ジャカルタなどと比べると、マカッサルはこれまでオジェックが相対的に少ない町でした。1980年代ぐらいまで交通手段はベチャ(輪タク)と乗合(ペテペテ)が主で、あとは白タクをチャーターするという形でした。マカッサルにメータータクシーが現れるのは1990年代初めで、その後、タクシー会社の数は2000年代に入って急速に増えました。

インドネシアでバイクタクシーを初めてスマホで呼べる仕組みを入れたのは、ゴージェック(Gojek)という会社で、ジャカルタで開始したのは2011年頃でした。スマホのアプリで行く先を定めてバイクタクシーを呼ぶと、読んだ場所の近くのバイクタクシーが示され、あと何分で呼び出し場所へ着くか、行く先までの料金がいくらかがスマホ上に示されます。

マカッサルでゴージェックがサービスを開始したのは、この1〜2年ぐらいのことです。今回も、まずはゴージェックをスマホで呼んでみました。しかし、リクエストを出してからバイクタクシーを見つけるまでの時間が長すぎて、5分経っても見つからないような状況が何度もありました。

そこで、試しにグラブ(Grab)を使ってみました。

グラブだと、リクエストしてすぐにバイクタクシーが見つかり、しかも料金が同じ行く先でもゴージェックよりやや安く出ます。こちらの方がゴージェックよりも新しくサービスを始めたので、あまり知られていないということもあるかもしれません。

グラブだと、どんなに低い料金でも、終了後、以下のような形で、メールで領収証が送られてきます。

この領収証には、利用した時刻、バイクタクシーの運転手名、出発地と終了地の住所、料金の内訳と総額が明記されています。

ちなみに、ゴージェックだと、アプリには記録が残りますが、領収証はメールで送られてきませんでした。

ただし、アプリで呼んだときのナンバープレートの番号と実際のバイクのそれとが違うケースが多々ありました。グラブに登録したときの番号と違うのは、新しいバイクに買い換えた、たまたまその日は友人のバイクを借りた、といった理由でした。バイクタクシーは運転手のスマホで登録されているようなので、違う運転手が来るということはありませんでした。

今回は、マカッサル国際作家フェスティバルの会場までホテルから行くのに大変重宝しました。昨今のマカッサル市内は、ジャカルタほどではないにせよ、交通渋滞がひどくなっていて、バイクでの移動のほうが早いケースもよくありそうでした。

バイクタクシーに乗っていたおかげで、腕がけっこう日に焼けるということはありましたが、快適に市内を移動することができました。

他に、車を借りるグラブ・カーも使いましたが、こちらも通常のメータータクシーよりも半分ぐらいの料金でした。ただし、いくつかの場所に寄って、立ち寄った場所でしばし待ってもらうような場合は、行先変更が柔軟にでき、待たせることのできるメータータクシーのほうが適しているでしょう。

5月20日と21日に使った、私がいつも使っているレンタカーの運転手は、ゴージェックやグラブのようなシェアライドの普及で、商売あがったりと不満顔でした。彼とも長い付き合いがあり、なんとも複雑な気持ちになりました。

インドネシアのローカルとしての拠点はやはりマカッサル

今、クアラルンプール国際空港でトランジット中です。これから、成田行きのマレーシア航空機で帰国します。

久々にマカッサルで長い時間を過ごし、久々にマカッサル国際作家フェスティバルにしっかりと参加しました。これまで、時間の都合がつかず、参加できなかったり、2日程度しかいられなかった年もありました。今年は、3つのパネルでパネリストになるなど、よりコミットしたという満足感があります。
来年のマカッサル国際作家フェスティバルに関しては、自分もセッションを2つぐらい持ってみたいと思い始めました。1つは、東日本大震災後の東北の文学及び地域文化に関するセッション、もうひとつは、マカッサルにおける華人文学者と若手作家との対話を実現するセッションです。
具体的な内容はまだこれから考えていきますが、何らかの形で、このフェスティバルを通じてマカッサルと東北をつなぎ、マカッサルのなかの非華人と華人とをつないでみたいと今の段階では思います。
会社として、このフェスティバルをビジネスとしては考えることは難しいです。しかし、インドネシアにおける自分のローカルの拠点がやはりマカッサルだと改めて確認できた以上、マカッサルで今起こっているポジティブな動きを少しでも支え、他のローカルとそれを繋いでいくことが、私の役目ではないかと強く感じた次第です。少なくとも、有望若手作家セッションへのスポンサー役を続けていきたいと考えています。
そんなことを、数日前、マカッサルの夕陽を見ながら、思いました。今年は、別の用務で、マカッサルにはまだ何度か来ることになりそうです。

友人が主宰する「緑の館」を訪問

今日は日中、友人のDarmawan Daeng Nessa氏が主宰する「緑の館」(Rumah Hijau Danessa)を訪問しました。

場所はゴワ県ボントノンポ郡にあり、タカラールへ向かう街道から西へちょっと入ったところです。2007年に大学教師を辞めて、父親を説得して土地を譲り受け、緑の館を建設し始めました。現在では、図書館、集会所などの建物に加えて、森や緑地などを整備しています。

特筆すべきは、この地域でなくなった、あるいはなくなりつつある植物の種苗を保存し、実際に植えていることです。さらには、敷地内にある植物の一つ一つの名前や学名はもちろんのこと、その植物を地元社会がどのように活用してきたかを物語として伝えている点です。

例えば、沸騰水にサッパンという木を入れて冷ました水(下の上写真)は、やや赤みがかっていますが、抗酸化作用があるため、飲料に適するだけでなく、昔から地元料理のチョトなどに使われていて、コレステロール分を抑える働きをするそうです。このため、サッパンの木(下の下写真)は切られ、今では手に入れにくくなっているといいます。

友人の話を聞いていると、地元の人々がいかに薬草や植物の活用に関する知識を持っていたかに驚かされ、それを現物とともに後世へ残していこうとする友人の姿に驚かされました。
緑の館は、環境学習施設であると同時に、ワークショップや行事を通じて、様々な人々が集い、コミュニケーションを高め、仲よくなっていく場でもあります。
例えば、いずれ同じ中学校へ進む、地元の4つの小学校の児童を集めてワークショップを行うと、中学校へ進む前に仲良しになって、中学校に入ってからの出身小学校別のグループ化を防ぐ効果があるということでした。
友人は、こうした活動を地道に行なっており、外国人を含む様々な訪問者が訪れ、様々な活動を展開しています。親からの土地を活用できるとはいえ、友人は、大変興味深い活動をしていることで、私も大いに刺激を受けました。

国際作家フェスティバルのフィナーレ

マカッサル国際作家フェスティバルは、5月20日が最終日。私自身のパネリストとしての役割を終えたので、フェスティバルとは関係のない友人と面会し、その友人の関係する用事に付き合った後、友人も連れて、フェスティバルのフィナーレに参加しました。

たくさんの若者たちが静かに、騒ぎも起こさずに、芝生に座って、フィナーレの演目を見聞している姿が印象的でした。もちろん、途中で飽きて、退席する者もいました。せも、大多数は最後まで残って、しかも一部は、終了後にごみ拾いをしていました。

一緒に行った友人は、「マカッサルでないみたいな光景だった」と言いました。たしかに、学生デモなどでマカッサルの若者は騒ぐ、という一般的なイメージとはほど遠い光景だったかもしれません。

フィナーレで、詩について繰り返し述べられた印象的な言葉がありました。詩が政治を変える力を持つ、ということです。宗教よりも先に詩があり、詩のメッセージは政治を超えて行く。人々が同じ詩を謳いながら、政治を動かし、変えて行く力を持つ、と。

紙がなければ葉っぱに詩を書く。葉っぱがなければ壁に詩を書く。詩を書くことを禁じられたら自分の血で詩を書く。

少し前のブログで紹介した、行方不明状態の活動家Widji Thukulの詩には、このような表現があるそうです。フィナーレでは、多数派の横暴と多様性の否定につながるような昨今の動きを、詩の力によって変えていける可能性を訴えていたように聞こえました。

日本でも詩の力を期待することは、可能なのでしょうか。やはり、今回の多様性をテーマとしたマカッサル国際作家フェスティバルは、どうしても日本へも向けなければならない重要な要素を含んでいたと感じざるを得ませんでした。

動く動く移動図書館ほか

マカッサル国際作家フェスティバル3日目。私は午前中の”Book and Activism: Indonesia’s Moving Library”と題するセッション、すなわち、インドネシアの移動図書館について討論するセッションに、3つ目のパネラーとして参加しました。

一緒にパネラーとなったのは、馬に本を積むなどして辺境地へ本を届ける活動をしているNirwan Ahmad Arsuka氏、主に西スラウェシ州などで船やトラックやベチャ(輪タク)に本を積んで離島や農村を回る活動を続けているRidwan Alimuddin氏、西パプア州で辺境地へ本を届ける活動をしているグループNoken PustakaのSafei氏で、なぜか私もパネリストになっていました。

併せて、夕方には、パネラーの一人であるRidwan氏による3隻目の図書館船が披露されました(下写真)。

パネリストたちは、自分たちの活動とそこで遭遇したエピソードについて語りました。

たとえば、当初、本を運び込もうとしたら刃物を持った村人に行く手を阻まれそうになったこと。本を運び込むと子どもたちが群がって本に夢中になり、大人の言うことを聞かなくなるので、大人たちからは来ないように言われたこと。村人が理解してくれた後は、本を持ってきたお礼だと言ってたくさんの芋やガソリン代のお金などをもらったこと。

彼らは、単に本を運び込んで、子どもたちの読書意欲を高めることはもちろん、それから派生して、何かものを書く方向へ向かわせることも意識していました。

Nirwan氏とRidwan氏は先週、ジョコウィ大統領と面会する機会があり、大統領から移動図書館の活動を高く評価され、毎月17日は、郵便局からNirwan氏やRidwan氏の移動図書館宛に送るものはもちろん、その他、一般から辺境地へ本を送る郵便料金を無料とすることを決定したそうです。

私は、日本の公共サービスとしての移動図書館と紙芝居の話をしました。本へのアクセスを国民の権利と考えて、日本では行政が移動図書館を運営しているが、インドネシアでは今回紹介するような民間ボランティアが動いている点が異なること、紙芝居のように、本の内容を簡潔にして絵本化するような動きが必要になってくるのではないか、というような話をしました。

移動図書館で扱う本の内容や種類も考えていく必要があります。現在は、古本や不要な本を送ってもらっていますが、もちろん、それで量的にも質的にも十分とは考えていないようです。と同時に、移動図書館のような体裁をとって、特定の教えや政府に敵対するような思想が広まることを懸念する向きもあることでしょう。

1970年代のインドネシアでは「新聞が村へ入る」(Koran Masuk Desa: KMD)という政府プログラムがあり、政府検閲を受けた新聞を村へ流通させ、それが唯一の読書媒体となった村レベルでの情報統制に大きな役割を果たしました。今は時代が違いますが、読書によって人々が批判的な思考を身につけることをまだ警戒する状況はあり得ます。

また、ユネスコによれば、「インドネシアでは1000人に1人しか本を読まない」と報告されています。しかし、Nirwan氏もRidwan氏も、村へ本を持ち込んだときの子どもたちの本へ群がってくる様子からして、ユネスコのデータは過ちではないか、という感触があるとのことです。おそらく、都市の子どもは、携帯ゲームなどの他の楽しみがあるため、本を読まないということを想像できますが・・・。

この移動図書館のセッションは、私が今回もスポンサーを務めた”Emerging Writers 2017: Discovering New Writing from East Indonesia”のセッションと重なってしまい、今回の「有望若手作家たち」の話を聞くことができませんでした(どうしてこういう日程調整をしたのか、とも思いますけど)。それでも、午後、有望若手作家たちから声がかかり、一緒に写真を撮ることができました。

こういうのは、本当に嬉しいです。松井グローカル合同会社名でのスポンサーとしての金額は大した額ではありませんが、これまでにこのセッションから巣立った若手作家たちは、今回のフェスティバルでも大活躍しており、この写真の彼らの今後の活躍ぶりが本当に楽しみです。

夜の部は、大して期待もしていなかったのですが、バンドンの新しい劇団POEMUSEの公演があり、これがなかなか良くてびっくりしました。

インドネシアの様々な有名詩人の詩を音楽(発声はオペラ風、ピアノはクラシック+現代音楽)に乗せ、さらに踊りを加えた幻想的な世界が広がりました。昨年立ち上げたばかりで、今回は2作目の公演ということですが、個々の演者の技術レベルはかなり高く、今後の活動を注目したいです。

国際作家フェスティバル、テーマは多様性

本日5月17日から、マカッサル国際作家フェスティバル2017が始まりました。20日まで開催されますが、私自身は、期間中、3つのセッションでパネラーを務めます。日本からの出席者は私ひとりとなりました。

今回の国際作家フェスティバルのテーマは「多様性」です。昨今のジャカルタ首都特別州知事選挙などを見てお分かりのとおり、インドネシアでも多数勢力が政治的な力を誇示する傾向が危惧されており、そうした状況を踏まえたテーマ設定となりました。

フェスティバル実行委員長である作家のリリ・ユリアンティは、開会イベントで、次のように演説しました。

政治的意思を持った同調圧力が強まっている。権力を狙う政治家がそれを主導している。このフェスティバルには、政府関係者は誰も招待していない。この種の会議では普通、政府高官の臨席を賜り、彼が来るまで開会できない。我々はそうではない。我々は普通の市民である。その市民が互いの違いを尊重し、敬意を示し、違うものの存在を認める。ここは批判的な意見を堂々と言える場である。ここに集まった皆さんにとって、このフェスティバルは自分の家のように感じてもらえるはずのもの。集まった誰もがこのフェスティバルを作って行くのだ。そのうごきはこれから10年も20年も30年も続いていくと信じたい。

力強い演説でした。同調圧力が強まるように見えるインドネシアで、市民がその多様性を身近なところでしなやかに守っていかなければならないことを、確信をもって訴えた演説でした。

そして、彼女の演説は、今の日本に対して、言っているかのように聞こえたのでした。同調圧力に屈するにはまだ早いのではないか。彼女が言うような当たり前の主張を、イデオロギーやレッテル張りを超えて、声をあげていかなければならないのではないか、と。

開会イベントに先立ち、このフェスティバルで発表された、東インドネシア出身の若手作家の作品をまとめた「東から」(Dari Timur)という本の出版記念セッションがありました。

彼らは、フェスティバルの中の「今後の有望作家たち」(Emerging Writers)というセッションで取り上げられた若手作家で、このセッションのスポンサーを、私は5年前から続けています。そのため、彼らの作品集が出版されたことを自分のことのように嬉しく思いました。

「東から」は第1巻と銘打たれており、今後も続けて出版されていくことが期待されます。まだしばらくは、スポンサーを続けていきたいと思いました。

マカッサルに着きました

5月16日の夕方4時半過ぎに、マカッサルに到着しました。やっぱり、マカッサルに来ると、気分が高揚していきます。

ホテルに荷物を置いて、我々の仲間が運営しているRuma’ta Art Spaceへ向かいました。

すでに紹介したかもしれませんが、このRuma’ta Art Spaceは、マカッサル出身の作家Lily Yulianti(福島の当社オフィスへの来客第1号)と同じくマカッサル出身でインドネシアを代表する映画監督のRiri Rezaが主宰し、地域の若手文化人・芸術家たちの活動空間となるような場を設け、その場を通じて新しい地域主体の文化創造活動を促す運動を行っています。

Ruma’ta Art Spaceに関しては、私も初期段階から少なからず関わっており、今も大事な仲間としての関係を続けています。

今回のマカッサル訪問は、このRuma’ta Art Spaceが主催するマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)に出席することが目的です。今年で7回目、政府から一切の補助金を受けず、独自に民間からのスポンサー収入で運営しています。

MIWFの話はこれからブログで紹介していくとして、マカッサルについて早々、インドネシアの詩人Supardi Djoko Damonoの若い頃に書いた自筆の詩の書簡が発見されたということで、彼の1958〜1968年の詩作を回顧する展覧会のオープニングセレモニーがRuma’ta Art Spaceで夕方開催されているというので、Ruma’ta Art Spaceへ向かったわけです。

会場にはSupardi氏ご自身も来られていました。彼が1958年から1968年へとどのように詩作が変わっていったのか、書簡にある詩と出版された詩とが違っているのはなぜか、などが興味深く説明されていました。

そして、夜は、場所をロッテルダム要塞公園へ移し、「映画のなかの詩」というテーマで、Yosep Angi Noen監督のIstirahatlah Kata-Kata(2016年作品)を夜空の下で鑑賞しました。この作品は、1998年7月以降(誘拐されたと見られています)、今も行方不明のままの活動家Widji Thukulのカリマンタンでの逃亡生活に焦点を当てた映画で、詩人でもあった彼の詩が映画の中で使われています。

反政府の先頭に立った激しい活動家という一般的なイメージとは別の、警察や軍に怯える、生身の人間としての彼が描かれていました。おそらく、激しい活動家であった彼の姿が焼き付いているからこそ、この映画で描かれた一人の人間としての彼の姿がずしりと迫り、今も行方不明の彼の生きざまが今を生きる我々に何かを訴えてくるのだと感じました。なぜ今、この映画なのか、という点がおそらく大事なのだと思いました。

展覧会と映画会の間にさっと夕飯を食べようと、昔から馴染みの店で福建風ミーゴレンを頼んだら、30分経っても出てこないという事態に呆れ、時間も迫っているのでキャンセルして映画会に行ったので、空腹でしかたなかった(昼食もスニッカーズをかじっただけだったので)、ということはありましたが、無事にマカッサル初日を終えました。

福島の当社への最初の来客はマカッサルの親友

松井グローカル合同会社を立ち上げて、福島のマイ・オフィスへの最初の訪問客が今日4月30日にありました。その客は、私のマカッサル時代からの親友であるリリ・ユリアンティ(Lily Yulianti)さんでした。

彼女は現在、オーストラリアのメルボルンに住んでいますが、もともとはインドネシアのマカッサルの出身で、新聞記者、NHKラジオジャパンのインドネシア語アナウンサーなどを経て、小説家、エッセイスト、ジャーナリストとして活躍しています。

彼女は、若い世代への質の高い執筆に関する指導も続けてきました。2011年からは、インドネシアの著名な映画監督であるリリ・レザ氏と一緒にマカッサルで立ち上げた「ルマタ文化スペース」を母体に、マカッサル国際作家フェスティバル(Makassar International Writers Festival: MIWF)を主宰してきています。

今年のMIWF2017は、マカッサルで5月17〜20日に開催されますが、私もフルで参加する予定です。「ルマタ文化スペース」の設立には私も協力し、MIWFでも5年前からささやかながら1セッションのスポンサーを務めています。

福島に着いて、すぐに詩人の和合亮一さんと面会しました。東日本大震災後の日本現代文学の動向に関心を寄せるリリ・ユリアンティさんが福島へ来ると聞いて、どうしても会って欲しかったのが和合さんでした。幸い、今回の面会は大変有意義なひとときとなり、今後の双方の活動にとっても多くの示唆を得ることができました。

和合さんとの面会の後、福島在住でインドネシア語の先生を務めるレニーさんと弟のチェジェさんと一緒に、昼食の後、私のオフィスと敷地内の古民家を見学してもらいました。ちょうど古民家のオーナーもいらっしゃったので、古民家の内部も丁寧にご案内いただきました。

リリ・ユリアンティさんが「どこかで桜を見たい」ということで、私のオフィスを見学した後、一路、米沢へ向かい、上杉神社で桜を眺めました。上杉神社の桜は、屋台の出ている表側はもうずいぶん散ってしまっていましたが、裏側へ行くと、まだけっこう残っていました。

リリ・ユリアンティさんらと一緒に、気持ちの良い風が桜の花を散らし、花吹雪となって舞い散るさまを、静かにゆっくりと眺めていました。

駆け足ではありましたが、震災後からずっと「福島へ行きたい」「東北へ行きたい」といっていたリリ・ユリアンティさんの夢は、叶うことができました。そして、これから新しい何かが始まる予感をたしかに感じるのでした。

マカッサルでの用務を終了

3月10日からのマカッサルでの用務を首尾よく終了しました。

物件探しでお世話になった方々にご挨拶をし、今後の活動に関する様々な助言をいただくことができました。

おそらく、今年から今までよりも頻繁にマカッサルへ、スラウェシへ、東インドネシアへ来ることになりそうな予感がします。こうありたい、という自分の希望する方向へ、状況が徐々に動いているのが嬉しいです。

これからジャカルタへ飛びます。2時間のフライトです。

明日、ジャカルタでいくつかの面会を終えた後、夜便で帰国します。

今日のブログはここまでで失礼します。

震災6年目をマカッサルで迎えた意味

東日本大震災から6年の今日を、インドネシア・マカッサルで迎えました。

日本時間の14時46分は中インドネシア時間の13時46分、マカッサルの大好きなシーフードレストランNelayanで昼食を摂っていました。

時間を気にしながら、Ikan Kudu-Kudu(ハコフグ)の白身の唐揚げをつまんだ手を拭きながら、静かに黙祷しました。「え、ごちそうさまなのー?」とびっくりした2人の友人も、すぐに気がつき、続きました。

6年前、東京で迎えた強烈な地震。そのすぐ後の原発事故の可能性を感じ、日本は終わる、この世が終わる、と本気で思ったあの日。今でこそ、その反応は過敏だったと言わざるを得ず、苦笑してしまうのですが、福島の実家の母や弟たちも含め、家族みんなを連れて、日本を脱出しなければ、と思ったものでした。

その脱出先として想定したのが、今滞在しているマカッサルです。ここにはたくさんの友人・知人がいる、我々家族のために長年働いてくれた家族同様の使用人がいる、住む場所も容易に確保できる。自分の故郷のような場所だから、いや故郷以上の場所だから、と思うからでした。

いざとなった時に、この地球上で自分を受け入れてくれる、自国以外の場所があるという幸運を確信していた自分がそこにいました。

結局、日本を脱出することはなかったのですが、震災6年目の今日、マカッサルとの結びつきを改めて強く感じる出来事がありました。

今回の用務の中で、物件探しがあったのですが、今日訪ねた物件のオーナーが、1996年に私がマカッサルでJICA専門家として業務を開始した際の最初のアシスタントMさんだったということが判明しました。紹介して案内してくれたのは彼女の姪だったのです。

姪は早速、叔母さんである私の元初代アシスタントへ電話をかけ、再会を祝しました。電話口の彼女の声が昔と全く変わっていなかったのにはびっくりしました。Mさんは、1年ちょっと勤めて、諸般の事情により退職してしまったのでした。それ以来、消息は不明で、今回、20年ぶりにコンタクトしたのでした。

また、別のオーナーは、よく存じている大学の先生の教え子でした。彼との共通の知り合いの名前もボンボン飛び出します。

何といったらいいのでしょうか。こんなことが起こってしまうマカッサルは、自分にとってよその町ではない、怖いくらいに自分にマカッサルが絡みついてくるかのようです。それは、生まれ故郷の福島市とはまた違った意味で、自分の人生にとって不可欠な場所なのだという感慨を強くしました。

今回一緒に動いた友人2人は、違う物件オーナーに会うたびに、また私のコネクション再確認が始まってしまうのではないか、時間がなくなる、と戦々恐々の様子で、申し訳ないことをしてしまいましたが、やめられないのです。

福島とマカッサル。東京とジャカルタ。自分にとっての福島=東京の関係とマカッサル=ジャカルタの関係との類似性を感じます。この関係性こそが、これからの自分のローカルとローカルとをつなぐ立ち位置の基本となる気がしています。

そう、日本では福島へ、インドネシアではマカッサルへ。自分の今後の活動の第1の拠り所としていきます。4月、福島市で始めます。

スラウェシの過去をもっと知るために

今日は、第2次世界大戦中、日本占領下のインドネシア・マカッサルの歴史や当時の日本人の足跡を調べている方々が定期的に集まる「スラウェシ研究会」に出席しました。

この研究会は、当時、民政府の官吏としてマカッサルにおられた方、スラウェシ島情報マガジンというサイトを運営されている方、日本政府関係者としてマカッサルに滞在された方、などが参加し、戦時中の在留邦人の活動や証言などを掘り起こしています。

この方々は、最高齢90歳の後期高齢者となられていますが、独立以前のスラウェシのことをできるだけ後世へ伝え残したいと思いながら、自分の趣味を兼ねて、情報収集に当たられています。

今年は、できれば、マカッサルで彼らの調査研究の成果をマカッサルの人々へ還元したいと考えています。実は、インドネシアの人々も、昔のマカッサルがどうだったかということを意外に知らないのだと言います。インドネシアの歴史を教わる際、始まりはインドネシアの独立であり、それ以前の細かな実態については、ほとんど知られていないようなのです。

参考になるサイトを以下に挙げておきます。

 スラウェシ島情報マガジン
  スラウェシ研究会のメンバーW氏の力作です。
  とくに戦前のセレベス、太平洋戦争の記録、軍政下のマカッサルは圧巻です。
  彼の調べた新事実も多数含まれており、頻繁に改訂を加えておられます。

 北スラウェシ日本人会ホームページ (会報タルシウス
  マナドを中心とした北スラウェシ州在住日本人会のホームページです。
  とくに、会報「タルシウス」は創刊号から最新号までpdfでダウンロード可能。
  貴重な論稿が多数含まれ、私も、創刊号、第2・6・8号に寄稿しました。

スラウェシと鰹節との関係、ベチャ(輪タク)はマカッサル発祥?、敗戦後の収容所での暮らしの様子、スラウェシと関わりのあった人物紹介、などなど、興味深い内容が溢れています。

ぜひ、これらのウェブサイトを訪れていただき、日本人がかつてどのようにスラウェシと関わってきたのかを少しでも知っていただければと思います。

そして、そうした先人たちの膨大な努力のうえに、我々は今、スラウェシやインドネシアと関わらせてもらっているのだということを忘れてはならないと思うのです。

マカッサルの夕陽の美しさは、あの頃も今も、
変わらないことだろう(2016年8月27日撮影)

今回マカッサルで食べたもの

今回のマカッサル滞在で食べたもの(の一部)は、以下のとおりです。今回は、うんちくなしです。

Coto NusantaraのCoto Makassar

Kios Muda MudiのEs Pisang Hijau

Toarco Toraja Cafeのリングシュークリーム

Kios Ratna JuwitaのGado-Gado

Roemah PojokのNasi Kuning Ambon

他にもいろいろ食べましたが、とりあえず、今回は以上のようなものをマカッサルで食べました。皆さんのお好きなものはありましたか。

友人の結婚式に出席

1月14日は、マカッサルで友人の結婚式に出席しました。

友人のお父様は地元国立大学医学部の重鎮教授で、広島大学に留学したこともあり、マカッサルの日本人社会とは深いお付き合いをしてきた方です。友人はその時、日本の小学校で学び、日本語を勉強し、今はマカッサルで日本語学校の校長をされています。

とてもきれいな流暢な日本語を話す友人は、これまでに何人もの生徒に教え、また、マカッサルで日本人にインドネシア語も教えてきました。

控えめで落ち着きがあり、裏表がなく、真面目でしっかり者の彼女はみんなに愛され、親しまれてきました。今日の結婚披露パーティーも、そんな彼女の姿が見られました。

私以外にも、日本から駆けつけた友人たちが数名いました。日本人、インドネシア人問わず、久々にお会いできた私の友人・知人がたくさんいました。温かい雰囲気のとても気持ちのよいパーティーでした。他人のために色々尽くしてきた彼女に、今度は彼女自身がもっと幸せになってほしい、と願わずにいられませんでした。

さて、先ほど、その日本人の友人たちから「これから飲みに行こう」という誘いが入りましたので、夜も更けてまいりましたが、これから出かけてきます。

インドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会

マラッカの興奮も冷めやらぬ中、1月13日昼前、無事、マカッサルに着きました。雨季のマカッサルということで、雨模様でした。

ホテルにチェックインして、まずは、もちろん、ワンタン麺を食べに行きました。マカッサルに着いたら真っ先に食べたくなるのが、これです。

そして、ホテルに戻ってから、インドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会しました。

インドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)という組織は、技能実習研修生として日本に滞在し、インドネシアへ戻った後、起業したり、企業で働いたりしている方々が立ち上げたOB会のような組織です。この組織の立ち上げは彼ら自身のイニシアティブによっており、日本政府からもインドネシア政府からも立ち上げに関する支援は受けませんでした。

現在は単なる親睦団体としてだけでなく、IKAPEKSI会員間のビジネスマッチングや情報交換、日本から帰国した技能実習研修生に対する教育訓練や事業相談、なども行っています。現在、インドネシア国内の各州に支部をつくり始めており、南スラウェシ州支部もその一つとして昨年立ち上がりました。

南スラウェシ州からの技能実習研修生は、日本滞在中に行方不明になるなど問題を起こしたため、しばらく同州からの派遣が見合わされてきました。それゆえ、メンバーの多くはだいぶ前に日本に滞在した古い人がほとんどで、若いメンバーがいないという特徴があります。彼らとしては、何としてでもそうした汚名を晴らし、再び南スラウェシ州から技能実習研修生を派遣できるようにしたい、という強い願いがありました。

縁あって、私はIKAPEKSIのアドバイザーを務めており、真面目に活動している彼らの良き相談役でありたいと願っています。そして、技能実習研修生に関するマイナスのイメージを払拭し、彼らのような活動がもっと認知されるように、微力ながら努めていきたいと思っています。

友人の結婚式に出るためマカッサルへ

今度の土曜日、1月14日の私の友人の結婚式に出るため、インドネシア・マカッサルへ行ってきます。今回は、仕事ではなくプライベートです。

彼女は、マカッサルで長年、日本語学校を運営し、たくさんの若者たちに日本語を教え、日本のことを伝え広めてきました。

彼女自身、日本の大学に留学中の父親に連れられて、日本で何年も過ごしました。日常会話の日本語はまったく淀みなく、インドネシア人と会話していることを忘れるほどです。

彼女の結婚式がメインではありますが、久々に、時間の許す限り、懐かしいマカッサルの友人たちとも再会する予定です。仕事で行くと、時間がなくてなかなか彼らに会えないので、今回のようなプライベートの旅の時間は貴重でもあります。

友人たちの中には、南スラウェシ州政府の国際交流局長や投資調整局長など、重要ポストに就いている者も少なくありません。20年以上前、JICA専門家(地域開発政策アドバイザー)としてマカッサルに滞在したとき、彼らはまだヒラで、毎日のように、オフィスで彼らと地域開発政策について、それこそ色々と議論したものでした。

彼らとの再会も楽しみです。

もちろん、マカッサルですっかり馴染んだ食べ物との再会も楽しみです。

マカッサルの夕陽(2016年8月27日)
今回は雨季なので、恐らく素敵な夕陽にはお目にかかれないでしょう。

今回は、マレーシアのクアラルンプール経由のエアアジアで、東京=マカッサルを往復します。11日夜に羽田を出て、12日はマレーシア、13〜16日がマカッサル、17日がマレーシアです。マレーシアでも、知人に紹介された新しい友人たちほかと会う予定です。

個人的には、今年ぐらいから、日本=インドネシアの二国間の往来から、マレーシアなどの他の国へのヨコ展開を進めていきたいと考えています。

とくに、いろんな国の地方で頑張っている人々の活動をもっと学んでいきたいと思っています。皆さんのご推奨の場所があれば、ぜひ、情報提供をお願いします。

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