会津坂下の奇祭・大俵引きを見に行く

1月14日は、会津坂下町へ坂下初市と大俵引きを見にいきました。

会津坂下では、年の初めの4の付く日が初めて市の立つ日ということで、毎年、1月14日に「初市」が開催されます。この初市と合わせて行われるのが、大俵引きです。

会津坂下町が自ら「奇祭」と名付ける大俵引きですが、重さ5トンの大俵を真ん中に置き、東方と西方に分かれて、綱引きのように大俵を引き合うものです。

まずは、前座として、子どもが参加する俵引きが行われます。俵の大きさは1トン、男の子は上半身裸です。

子供の部が終わると、いよいよ大人の部です。

まず、5トンの大俵のお祓いをします。

続いて、東方(赤)と西方(白)のふんどしを絞めた裸の引き手計147人が登場、引き手もお祓いを受けます。引き手は地元の人だけでなく、全国、そして外国から参加した人もいました(例年、11月頃にネット上で一般参加者の登録ができるそうです)。
でも、小雪が舞い散る氷点下のなか、多くの引き手はすでにアルコールを飲んで体を温めてきている様子で、なかにはもう、顔が真っ赤で、目が血走り、ベロンベロンに酔っぱらっている者も。
大俵を動かして、道の真ん中に据えます。大俵の上には、東方に町長が、西方に商工会長が乗り、その間に軍配を持った行司が立ちます。
いよいよ、「引き方、始め~!」の声で、大俵引きが始まります。そして、「引き方、止め~!」で終了です。

1回目は東方の勝ち。2回目は西方の勝ち。そして、3回目に移る前に、参加した引き手の名前をズラズラと一人ずつ読み上げます。
そして、3回目。1分以上もかかる熱戦の末、西方の勝ち。これで、2勝1敗の西方が今年の大俵引きの勝者となりました。
この大俵引きでは、東方が勝つと米の値段が上がり、西方が勝つと米が豊作になる、といわれるため、今年は米が豊作となるという予想になりました。
この後、見物人を含めた誰でも参加できる大俵引きがありました。この大俵を引くということは、福や幸運を引き寄せることになる、ということで、大勢の人々が参加しました。
毎年、この坂下の大俵引きは、新年の恒例行事として、福島県内のテレビや新聞で必ず報道されます。
寒いなか、裸にふんどし一丁で参加した引き手たちは、厳寒のなか、写真撮影などしばらく現場に残された後、町内の温泉施設へ移動して体を温め、夜は盛大な懇親会で再びアルコールに浸る、ということです。
今回は、この奇祭を見に来たわけですが、それに合わせて、雪の会津坂下の街中を少し歩いてみました。わずかの時間でしたが、なかなか堪能できました。素敵なところでした。その内容はまた、明日以降のブログでお伝えすることにします。

佐伯のお昼はゴマだしうどんで完璧

佐伯で忘れてはいけない名物と言えば、それはゴマだしうどんです。11月13日、佐伯を離れる前に、市内で最も有名なゴマだしうどんの店である「味愉嬉」で味わいました。

通常のゴマだしうどんは、ゴマだしをうどんにたっぷり入れて食べる、というシンプルなもの。でも今回、マスターから提案されたのは、ちょっと変わった食べ方でした。

まず、お猪口のなかにゴマだしを入れ、それにうどんの汁を少し加えて溶かし、それにうどんをつけてまず食べる。うどんを食べたら、お猪口にカボスを搾り、ちょっとかき混ぜてから、うどんを入れて食べる。次には、それに柚子胡椒を加えて、うどんを入れて食べる。最後に、お猪口に豆乳を加えて、それにうどんを入れて食べる。という感じで、1回1回の味わいがどんどん変わる楽しみ、というものを味わいました。

ところで、ゴマだしというのは、見た目からは想像できないぐらい、相当に手間ひまをかけて作ったものでした。

ゴマだしの作り方は、味愉嬉のホームページに詳しく紹介されていますが、以下にその一部をコピペしておきます。えそというのは、砂地に生息する白身魚です。

  1. えその下処理をする(うろこ取り→頭・内臓取り→二枚におろす)
  2. えそを焼く
  3. 胡麻を炒る
  4. 胡麻を擂る
  5. 焼けたえその皮・骨を取る(骨は醤油と一緒に合わせる)
  6. 醤油を火にかけて沸騰したら冷ます
  7. 擂った胡麻とえそを合わせる
  8. 7に少しずつ醤油を加える
  9. 8を鍋に移し火を通し冷ます

マスターによれば、ゴマだしの良しあしは、えその下処理を終えるときにどれだけ水分を落とせるかにかかっている、ということです。水分が残ると、どうしてもゴマだしに生臭さが残ってしまうからだそうです。

うどんを美味しくいただいたあとは、おにぎりを頼み、それにゴマだしをたっぷり載せていただきます。

うーん、完璧なお昼になりました。

佐伯のお昼と言えば、もちろん寿司が有名ですが、このゴマだしうどんもさすがの味です。そして、実はほかにも、とても美味しいユニークなカレー屋さんがあるのです。

佐伯探訪はまだまだ続きそうです。

音楽で街を魅力的に!音泉街を目指す佐伯の試みは始まったばかり

おんせん県とも自称する大分県は、超有名な別府や湯布院(由布院+湯平)をはじめ、数々の名湯を抱えており、日本国内有数の温泉の数と量を誇ります。

しかし、県内のすべての市町村に温泉があるわけではありません。今回訪問した県南端の佐伯市には温泉がありません。その佐伯が今、もう一つの「おんせん」を掘り当てたようです。

温泉がないけん、音泉を目指す! 佐伯は、音楽で街を魅力的にしようと、市民有志が活発に動き始めています。その原動力となっているのが、佐伯ミュージック・アート・クラブという、結成後わずか半年にも満たない団体です。

この団体の催し物に参加した時の記事を、以前、このブログにも書きました。参考までにリンクを貼っておきます。

 音楽を愛する人々に満たされた佐伯での夜

11月11日は、佐伯ミュージック・アート・クラブの今年の活動のメイン・イベントとも言える、サックス奏者マルタのコンサートが佐伯市民会館で開催されました。

マルタ・コンサートにて(吉良けんこう氏撮影)

マルタ氏にとってはもちろん始めての街です。しかも、コンサートの冒頭で「街中に誰も人影がなく、静かな街だなあという印象でした」という語りがありました。きっと、このような田舎町で、果たしていいコンサートができるのだろうか、という不安もあったかもしれません。

実際、少なからぬ観客は、「マルタって誰や?」「ジャズというものを聴いたことない」「孫と一緒に来てみた」という方々のようで、マルタ氏が不安に思ったとしても不思議ではなかったのです。

実は、私も初めてマルタのコンサートに来たのでした。

マルタ・コンサートにて(吉良けんこう氏撮影)

午後6時に開演。そして午後8時半に終演するまで、休憩は一切なし。70歳になろうというマルタの驚異的な体力と演奏力に、ただただ圧倒されました。

さらに、一緒にセッションを組んだトランペット、ドラム、ベース、アコースティックギター、ピアノ、トロンボーンの演者たちの質の高さ。

最初はちょっと探りを入れる感じだった演奏でしたが、中盤の「チュニジアの夜」あたりから演奏にノリが加速度的につき始め、最後は、演者全員がノリにノッた演奏を見せてくれました。

終演してもなかなか鳴り止まない拍手。アンコールの異様な盛り上がり。少なからぬ観客が今日初めてマルタを知ったいうことを考えただけでも、このレベルのコンサートを佐伯で聴いているということの意味の大きさを感じずにいられませんでした。

コンサート終了後、マルタのCDを買った観客にその場でサインするというサービスもあり、長蛇の列ができました。CDも予想以上に売れたようで、マルタ氏は観客との写真撮影にも気軽に応じていました。

佐伯ミュージック・アート・クラブの関係者の話では、マルタ氏はかなり満足したらしく、「生きていたら来年も来ようかな」と言ってくれたそうです。マルタ氏にとっても、佐伯でのコンサートの記憶が心のどこかに残ってくれるといいなと思いました。

今回のコンサートでは、佐伯ミュージック・アート・クラブのメンバーが、朝から晩までボランティアで懸命に運営していました。何せ初めてのことで、戸惑うことも多く、学園祭のような雰囲気でもあったのですが、無事に終わることができて何より、本当にご苦労さまでした。

そして、メンバーだけでは足りず、他の人にも手伝ってもらったのでした。例えば、開場前に一番に並んでいた延岡から来た見ず知らずの男の子に、受付でのCD売りの手伝いをしてもらい、彼は夜の片付けの最後まで残っていました。中学生たちにもCD売りの呼びこ役をしてもらっていました。そんなことが嫌味なくできる雰囲気というのも、悪くないなあと思いました。

佐伯ミュージック・アート・クラブの活動が始まってから、佐伯市内在住者や出身者で音楽に関わっている人々が次々に発掘されていきました。意外に多くの人が音楽に関わっていることが明らかになり、ジャンルもジャズ、クラシック、その他へと広がりを見せています。

音楽のいいところは、言葉はいらず、とにかくみんなが無条件に楽しくなれること、思惑や企みとは対極にあること、ではないでしょうか。そして、音楽は人を集めます。集まった人が、たとえ知らない同士でも、繋がってしまう。あの、開場一番乗りの初めて会った男の子がボランティアになってしまうように。

そんな力を感じました。

楽しくなければ、音楽ではない。楽しくなければ、まちづくりではない。

次のビッグ・イベントは、2018年3月11日、ジャズ・バイオリニストである寺井尚子のコンサートです。

音泉街を目指す佐伯の挑戦はまだ始まったばかりですが、これからも注目です。応援していきます。

十条でバクテとポテヒ

11月4日は、友人と一緒に、東京の十条で、バクテとポテヒを堪能しました。

まず、バクテ。肉骨茶と書いたほうがいいのでしょうが、マレーシアやシンガポールでおなじみの、あの骨つき豚肉(スペアリブ)を様々な漢方原材料の入ったあつあつのスープで食べる定番料理。これを食べさせる店が十条にあるので、行ってみたのです。

味はオリジナルと濃厚の2種類。濃厚味はニンニクが効いていて、オリジナルのほうがマレーシアのものに近い感じがしました。

次の写真は、濃厚に豚足などを入れたバクテ。日本では、スペアリブより豚足のほうが入手しやすいからなのでしょうが、バクテといえば、やはりスペアリブですよねえ。

この店は、マレーシアのエーワン(A1)というバクテの素を売るメーカーと提携している様子です。エーワンのバクテの素は、我が家ではおなじみのもので、その意味で、今回のバクテは、とくに際立って美味しいという感じのするものではなく、フツーに美味しかったです。

さて、バクテを食べた後は、ポテヒです。ポテヒというのは、指人形劇のことで、東南アジアの各地で見られます。今回のポテヒは、マレーシア・ペナンの若者グループであるオンバック・オンバック・アートスタジオによるものでした。

演目は、おなじみの西遊記から「観音、紅孩児を弟子とする」と題した伝統作品と、創作作品の「ペナン島の物語」の2本。いずれも、30分程度のわかりやすい演目でした。

下部に翻訳や映像が映し出され、観客の後ろでは、パーカッションや管弦楽器による音楽が奏でられます。

下の写真は、伝統作品のもの。

「ペナン島の物語」は、ペナン島の多民族文化・社会の多様性と融合を、いくつかの場面を組み合わせながら示したものです。

マレーシアの地元の若者にとって、ポテヒは古臭く、人気のないもののようです。それでも、今回の公演はなかなか楽しめるものでした。

何よりも、ペナンの若者たちが、多民族文化・社会が共存するペナンのアイデンティティを大事にし、それを先の世代から受け継いで発展させていくという行為を、このポテヒを通じて示していたことが印象的でした。

こうしたものに対して、日本をはじめとする外国からの関心が高まることが、ポテヒを演じる若者たちを支えていくことになるのかもしれません。

11月5・6日は、池袋の東京芸術劇場「アトリエ・イースト」で公演とトークが行われます。5日は15:30から、6日は19:00からです。無料ですが、公演賛助金(投げ銭制)とのことです。よろしければ、ぜひ、見に行かれてみてください。

マンダール地方の踊る馬

インドネシア・西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県には、音楽に合わせて勝手に踊り出す馬がいます。

現地のマンダール語ではサヤン・パトゥドゥ(Sayyang Patuddu)と呼ばれるこの踊る馬(kuda menari)はきれいに着飾られ、それにまたがるのは、やはりきれいに着飾った女の子です。

マンダール地方では、彼女を踊る馬に乗せ、コーランの勉強を終えたお祝いをするという伝統行事が行われてきました。
コーランの勉強を終えた女の子は、その日の夜、先生にお礼の品を贈ります。翌日、まだコーランの勉強を終わっていない女の子と一緒に踊る馬に乗るのです。二人とも、村の子です。
でも、踊る馬に乗る前に、二人はマンダール語の詩を聞きます。そして、踊る馬に乗るのですが、すぐには座らず、何も持たずに馬の上にまたがって立ち、準備ができたことを示します。準備、そう、踊る馬にまたがる準備です。
二人は馬にまたがって、村を練り歩きます。楽隊が太鼓の音を鳴らし始めると、馬が首を上下に降り、脚を上げ下げし、踊り始めます。この踊る馬に大きく揺られながら、馬上の二人が村の中を回っていきます。

この二人が村の中を踊る馬に乗って練り歩くということは、村の中にまだきれいな未婚の女の子がいることを知らせる意味もあります。村の男の子たちが彼女らを眺めて挨拶をします。

Dari Kのカカオツアーでは、毎回、違う村で、女性の参加者を募って、この踊る馬に乗る体験をしてもらっています。今回も、2頭の踊る馬に4人の参加者が挑戦しました。

このカカオツアーの踊る馬ですが、実は毎年、地元で楽しみにしている方々が大勢いるのです。数年前には、踊る馬に乗る参加者の写真がポレワリ・マンダール県の観光案内に一役買ったのでした。

佐伯の宝、カフェ・ド・ランブル

7月23日、24日の2日間、大分県佐伯市へ行っていましたが、その2日とも、知人に連れられてお邪魔したのが、カフェ・ド・ランブルという古い珈琲店でした。

市内のやや大きめの通りから狭い路地に入り、ちょっと行った先にある蔵造りの建物、気がつかなければ通り過ぎてしまう場所にその店はありました。

ガラガラっと木戸を開けて入ると、そこは、むっとして暑い外とは全く違う、薄暗いけれども何となく温かい空間が広がっていました。

もう40年も佐伯の地元の人々に愛されてきたコーヒーの名店でした。マスターが黙々とコーヒー豆を選り分け、グラインドしたコーヒー豆をネルドリップで丁寧に一杯一杯淹れてくれます。

少しでも悪い豆があればそれを除きます。淹れたコーヒーは必ず一口味見をし、もしも味が正しくなければ、それを捨てて、もう一度最初から作り直す、という徹底ぶりです。

圧巻は、アイスコーヒー。やはりネルドリップで丁寧に淹れたコーヒーを金属容器に入れ、それを氷の上に置いて、容器をぐるぐる回します。マスター曰く、これが一番早く冷えるのだとか。このアイスコーヒーの、例えようのない美味しさといったら・・・。

実は、この店のマスターは、東京・銀座八丁目にあるカフェ・ド・ランブルで学んだ方でした。東京での修行を終わる際、店の名前を使う許可を得て、故郷の佐伯へ戻って店を開いたのだそうです。

マスターによれば、珈琲店の系列には、例えば、カフェ・バッハで修行したバッハ系とここのようなランブル系、といったものがあるそうですが、時間と労力を惜しまないランブル系は、珈琲店ビジネスとしては利益重視にできない、ということです。

佐伯という場所であることから、価格も高く設定せず、常連さんを中心に、適度な人数の来客を相手に、細く長くやってきた、ということでした。

それにしても、本当に居心地の良い空間です。そして、丁寧に淹れられた極上のコーヒー。この店の存在を知っただけでも、佐伯に来た甲斐があった、といって過言ではありません。佐伯に来たばかりなのに、宝のような大事な場所を得たような気分になりました。

佐伯に来たら、またうかがいます。宝のような大事な場所。

日本のローカルのあちこちに、こんな場所を持てたら嬉しいなあ。

そうそう、佐伯での仕事の話も、もちろん有益に進みました。また何度も、佐伯へ足を運ぶことになりそうです。

イスラム教徒にとっての喜びの日

今日6月25日は、言うまでもなく6月最後の日曜日ですが、全世界のイスラム教徒にとっては、1か月間の断食月を終えた喜びの日、イード(Eid)です。インドネシア語では、イドゥル・フィトゥリ(Idul Fitri)と呼ばれます。

世界中のモスクでは、夜明け過ぎから、ムスリムの方々がたくさん集まり、断食月を終えた自分をたたえ、アッラーへ感謝の祈りを捧げたことでしょう。日本でも、そんな光景を見ることができた場所もあったことと思います。

イードを迎えるにあたっては、新しい服などの物を揃えます。また、過去1年間におかした過ちへの赦しを求めます。こうして、新しい真っさらな人間となって、再び次の断食月までを過ごしていく、という日が今回は今日だったわけです。

何となく似ていませんか。私たちの新年に。新年を迎えるにあたって、除夜の鐘を聴きながら1年間に溜まった108の煩悩を振り払い、また新しい服に着替え、初詣に行って新しい年への願いをかける、清らかな自分になるのが、一般的な私たちの新年の迎え方です。

断食明けを祝い、インドネシアの各地ではたくさんの花火が打ち上げられました。最近では、新年の年明けの時にも、花火が打ち上げられます。しかし、スハルト時代の終わり頃の1990年代末までは、花火が打ち上げられることもなく、静かな断食明けのイードでした。新年もそうです。花火だらけになったのはごく最近のことなのです。

その意味では、かつてのインドネシアのイードは、日本の正月を思い出させるような雰囲気がありました。

今から26年前、ジャカルタに2年間滞在していた際、本場の断食明けを見たいと思い、西スマトラ州パダンで、知り合いの大学の先生の家族訪問(日本のお年始のようなものでしょうか)に付いて行ったことがあります。

敬虔なムスリムである先生はまず、自分の家の近くのモスクで、説教をし、近所の方々と一緒に礼拝を行いました。先生の家でお食事をいただいた後、車で出発、パダンパンジャンにある家族の家に立ち寄りました。そこでも「食べろ、食べろ」の接待を受け、さらに車で、ブキティンギのご家族の家へ行きました。もちろん、そこでも「食べろ、食べろ」の接待を受けました。

最初、さすがに本場のパダン料理なので、とても美味しくたくさんいただいていたのですが、段々にお腹がいっぱいになって、食べられなくなりました。正確に言うと、お腹がいっぱいになったという以上の理由がありました。

それは、一族を訪問して回るので、出てくる食事の味付けが全て同じだった、ということです。よく考えれば、当たり前のことなのですが、当時の私には、3軒目で初めて体でわかったことなのでした。

話は変わりますが、ジャカルタでは、カトリック大聖堂と大モスクが道路を挟んで隣にそびえ立っています。日曜日といえば、キリスト教の礼拝・ミサが行われる日でもあります。

イードの朝の祈りと教会の朝の礼拝が時間的にぶつかります。そこで、教会側は、今日の朝の礼拝の時間を30分遅らせて、イードの祈りの時間とバッティングしないように配慮したということです。ムスリムの方々からは、こうした教会側の配慮に対する感謝の言葉がSNS上に溢れていました。
ジャカルタだけでなく、マランなどの地方都市でも、従来からそのように配慮してきた、ということです。州知事選挙などを通じて、宗教的寛容への懸念が出ていると多くの人々が感じているからこそ、そんな教会の配慮を素晴らしいと思ったのかもしれません。
でも、これまで当たり前だったことを素晴らしく感じる、という世の中の空気の変化をどうしても感じざるをえないとも思いました。もう一度、昔のような「当たり前」という感覚へ戻っていって欲しいと思いました。

改修前のアチェ州バンダアチェ市のバイトゥラフマン大モスク(2010年10月)。
個人的には、インドネシアで一番美しいモスクだと思います。
スマトラ沖大地震の際、人々の心の拠り所となった重要なモスクでもあります。

N. S. ハルシャ展を観れてよかった

今日は、昼と夜にミーティングの予定が入っていたので、その合間を利用して、森美術館で開催されている「N. S. ハルシャ展:チャーミングな旅」を観に行きました。

N. S. ハルシャは、インド南部カルナータカ州のマイスールに生まれ、今もこの地方の古都を拠点に活動するアーチストで、伝統文化や自然環境を踏まえつつ、開発に伴う農民の苦悩などに象徴される不条理、イメージの繰り返し、など独特の世界を表現していました。

有名人を含む2000人の人物が一面に描かれた「ここに演説をしに来て」と題された大作。今回の展覧会の目玉作品ですが、「ウォーリーを探せ」的にいろんなユニークなキャラクターを探す面白さに加えて、全体が醸し出すなんとも言えぬ雰囲気に飲まれていきます。

鏡張りの部屋には、床一面にハルシャの描いた人々の姿があり、そこへ寝転がって、天井を見ると、天井の鏡を通して、ハルシャの描いた人々と自分が一体になる、という不思議な空間がありました。スマホを掲げる私が写っています。

さらに行くと、そこには193台の足踏みミシン。これらのミシンの下には世界各国の国旗が置かれ、ミシンの間が糸で結ばれています。グローバリゼーションを表現したものですが、ミシンの下に敷かれた国旗の存在の薄さが印象的です。

「ふたたび生まれ、ふたたび死ぬ」と題された大作。勢いのある太い線の中には、宇宙を構成する星々が描かれ、観る者へ向けて、なんとも言えぬ光を放ってきます。

最後に掲示されていたのは、「道を示してくれる人たちはいた、いまもいる、この先もいるだろう」という作品。様々な所作の猿たちがすべて、上を指差しています。猿たちは、神の化身であるハヌマンなのでしょうか。

土曜日の午後だったせいか、森美術館の入口は大変な人出で、長い行列ができていました。前売券を買ったものの、窓口で入場券に引き換える必要があり、相当な混雑が予想されました。観るのをやめて引き返そうかとも思いました。

でも、11日までしかやっていないので、頑張って観ることにしました。そして、その決定で本当によかったと思います。ハルシャ展自体は、さほど混んではいませんでした。

ハルシャの作品のスケール感、そして、地方の生活に軸足を置き、地に足のついた社会に対する痛烈な批判と世界への警鐘。地域の子供たちなどとのワークショップを頻繁に行っている姿勢にも感銘しました。

森美術館は近年、アジアの埋もれたアーチストの発掘・紹介に力を入れているとは聞いていましたが、今回のハルシャ展は十分に満足いく内容でした。彼の活動拠点であるマイスールをいつか訪れ、彼自身といろんなことを話し合ってみたくなりました。

インドネシアのローカルとしての拠点はやはりマカッサル

今、クアラルンプール国際空港でトランジット中です。これから、成田行きのマレーシア航空機で帰国します。

久々にマカッサルで長い時間を過ごし、久々にマカッサル国際作家フェスティバルにしっかりと参加しました。これまで、時間の都合がつかず、参加できなかったり、2日程度しかいられなかった年もありました。今年は、3つのパネルでパネリストになるなど、よりコミットしたという満足感があります。
来年のマカッサル国際作家フェスティバルに関しては、自分もセッションを2つぐらい持ってみたいと思い始めました。1つは、東日本大震災後の東北の文学及び地域文化に関するセッション、もうひとつは、マカッサルにおける華人文学者と若手作家との対話を実現するセッションです。
具体的な内容はまだこれから考えていきますが、何らかの形で、このフェスティバルを通じてマカッサルと東北をつなぎ、マカッサルのなかの非華人と華人とをつないでみたいと今の段階では思います。
会社として、このフェスティバルをビジネスとしては考えることは難しいです。しかし、インドネシアにおける自分のローカルの拠点がやはりマカッサルだと改めて確認できた以上、マカッサルで今起こっているポジティブな動きを少しでも支え、他のローカルとそれを繋いでいくことが、私の役目ではないかと強く感じた次第です。少なくとも、有望若手作家セッションへのスポンサー役を続けていきたいと考えています。
そんなことを、数日前、マカッサルの夕陽を見ながら、思いました。今年は、別の用務で、マカッサルにはまだ何度か来ることになりそうです。

友人が主宰する「緑の館」を訪問

今日は日中、友人のDarmawan Daeng Nessa氏が主宰する「緑の館」(Rumah Hijau Danessa)を訪問しました。

場所はゴワ県ボントノンポ郡にあり、タカラールへ向かう街道から西へちょっと入ったところです。2007年に大学教師を辞めて、父親を説得して土地を譲り受け、緑の館を建設し始めました。現在では、図書館、集会所などの建物に加えて、森や緑地などを整備しています。

特筆すべきは、この地域でなくなった、あるいはなくなりつつある植物の種苗を保存し、実際に植えていることです。さらには、敷地内にある植物の一つ一つの名前や学名はもちろんのこと、その植物を地元社会がどのように活用してきたかを物語として伝えている点です。

例えば、沸騰水にサッパンという木を入れて冷ました水(下の上写真)は、やや赤みがかっていますが、抗酸化作用があるため、飲料に適するだけでなく、昔から地元料理のチョトなどに使われていて、コレステロール分を抑える働きをするそうです。このため、サッパンの木(下の下写真)は切られ、今では手に入れにくくなっているといいます。

友人の話を聞いていると、地元の人々がいかに薬草や植物の活用に関する知識を持っていたかに驚かされ、それを現物とともに後世へ残していこうとする友人の姿に驚かされました。
緑の館は、環境学習施設であると同時に、ワークショップや行事を通じて、様々な人々が集い、コミュニケーションを高め、仲よくなっていく場でもあります。
例えば、いずれ同じ中学校へ進む、地元の4つの小学校の児童を集めてワークショップを行うと、中学校へ進む前に仲良しになって、中学校に入ってからの出身小学校別のグループ化を防ぐ効果があるということでした。
友人は、こうした活動を地道に行なっており、外国人を含む様々な訪問者が訪れ、様々な活動を展開しています。親からの土地を活用できるとはいえ、友人は、大変興味深い活動をしていることで、私も大いに刺激を受けました。

国際作家フェスティバルのフィナーレ

マカッサル国際作家フェスティバルは、5月20日が最終日。私自身のパネリストとしての役割を終えたので、フェスティバルとは関係のない友人と面会し、その友人の関係する用事に付き合った後、友人も連れて、フェスティバルのフィナーレに参加しました。

たくさんの若者たちが静かに、騒ぎも起こさずに、芝生に座って、フィナーレの演目を見聞している姿が印象的でした。もちろん、途中で飽きて、退席する者もいました。せも、大多数は最後まで残って、しかも一部は、終了後にごみ拾いをしていました。

一緒に行った友人は、「マカッサルでないみたいな光景だった」と言いました。たしかに、学生デモなどでマカッサルの若者は騒ぐ、という一般的なイメージとはほど遠い光景だったかもしれません。

フィナーレで、詩について繰り返し述べられた印象的な言葉がありました。詩が政治を変える力を持つ、ということです。宗教よりも先に詩があり、詩のメッセージは政治を超えて行く。人々が同じ詩を謳いながら、政治を動かし、変えて行く力を持つ、と。

紙がなければ葉っぱに詩を書く。葉っぱがなければ壁に詩を書く。詩を書くことを禁じられたら自分の血で詩を書く。

少し前のブログで紹介した、行方不明状態の活動家Widji Thukulの詩には、このような表現があるそうです。フィナーレでは、多数派の横暴と多様性の否定につながるような昨今の動きを、詩の力によって変えていける可能性を訴えていたように聞こえました。

日本でも詩の力を期待することは、可能なのでしょうか。やはり、今回の多様性をテーマとしたマカッサル国際作家フェスティバルは、どうしても日本へも向けなければならない重要な要素を含んでいたと感じざるを得ませんでした。

動く動く移動図書館ほか

マカッサル国際作家フェスティバル3日目。私は午前中の”Book and Activism: Indonesia’s Moving Library”と題するセッション、すなわち、インドネシアの移動図書館について討論するセッションに、3つ目のパネラーとして参加しました。

一緒にパネラーとなったのは、馬に本を積むなどして辺境地へ本を届ける活動をしているNirwan Ahmad Arsuka氏、主に西スラウェシ州などで船やトラックやベチャ(輪タク)に本を積んで離島や農村を回る活動を続けているRidwan Alimuddin氏、西パプア州で辺境地へ本を届ける活動をしているグループNoken PustakaのSafei氏で、なぜか私もパネリストになっていました。

併せて、夕方には、パネラーの一人であるRidwan氏による3隻目の図書館船が披露されました(下写真)。

パネリストたちは、自分たちの活動とそこで遭遇したエピソードについて語りました。

たとえば、当初、本を運び込もうとしたら刃物を持った村人に行く手を阻まれそうになったこと。本を運び込むと子どもたちが群がって本に夢中になり、大人の言うことを聞かなくなるので、大人たちからは来ないように言われたこと。村人が理解してくれた後は、本を持ってきたお礼だと言ってたくさんの芋やガソリン代のお金などをもらったこと。

彼らは、単に本を運び込んで、子どもたちの読書意欲を高めることはもちろん、それから派生して、何かものを書く方向へ向かわせることも意識していました。

Nirwan氏とRidwan氏は先週、ジョコウィ大統領と面会する機会があり、大統領から移動図書館の活動を高く評価され、毎月17日は、郵便局からNirwan氏やRidwan氏の移動図書館宛に送るものはもちろん、その他、一般から辺境地へ本を送る郵便料金を無料とすることを決定したそうです。

私は、日本の公共サービスとしての移動図書館と紙芝居の話をしました。本へのアクセスを国民の権利と考えて、日本では行政が移動図書館を運営しているが、インドネシアでは今回紹介するような民間ボランティアが動いている点が異なること、紙芝居のように、本の内容を簡潔にして絵本化するような動きが必要になってくるのではないか、というような話をしました。

移動図書館で扱う本の内容や種類も考えていく必要があります。現在は、古本や不要な本を送ってもらっていますが、もちろん、それで量的にも質的にも十分とは考えていないようです。と同時に、移動図書館のような体裁をとって、特定の教えや政府に敵対するような思想が広まることを懸念する向きもあることでしょう。

1970年代のインドネシアでは「新聞が村へ入る」(Koran Masuk Desa: KMD)という政府プログラムがあり、政府検閲を受けた新聞を村へ流通させ、それが唯一の読書媒体となった村レベルでの情報統制に大きな役割を果たしました。今は時代が違いますが、読書によって人々が批判的な思考を身につけることをまだ警戒する状況はあり得ます。

また、ユネスコによれば、「インドネシアでは1000人に1人しか本を読まない」と報告されています。しかし、Nirwan氏もRidwan氏も、村へ本を持ち込んだときの子どもたちの本へ群がってくる様子からして、ユネスコのデータは過ちではないか、という感触があるとのことです。おそらく、都市の子どもは、携帯ゲームなどの他の楽しみがあるため、本を読まないということを想像できますが・・・。

この移動図書館のセッションは、私が今回もスポンサーを務めた”Emerging Writers 2017: Discovering New Writing from East Indonesia”のセッションと重なってしまい、今回の「有望若手作家たち」の話を聞くことができませんでした(どうしてこういう日程調整をしたのか、とも思いますけど)。それでも、午後、有望若手作家たちから声がかかり、一緒に写真を撮ることができました。

こういうのは、本当に嬉しいです。松井グローカル合同会社名でのスポンサーとしての金額は大した額ではありませんが、これまでにこのセッションから巣立った若手作家たちは、今回のフェスティバルでも大活躍しており、この写真の彼らの今後の活躍ぶりが本当に楽しみです。

夜の部は、大して期待もしていなかったのですが、バンドンの新しい劇団POEMUSEの公演があり、これがなかなか良くてびっくりしました。

インドネシアの様々な有名詩人の詩を音楽(発声はオペラ風、ピアノはクラシック+現代音楽)に乗せ、さらに踊りを加えた幻想的な世界が広がりました。昨年立ち上げたばかりで、今回は2作目の公演ということですが、個々の演者の技術レベルはかなり高く、今後の活動を注目したいです。

2つのセッションでパネリスト

マカッサル国際作家フェスティバルの2日目、私は2つのセッションでパネリストを務めました。

一つ目は、”Asia in our Hands: Japan, Malaysia & Philippines”というセッションで、マレーシアとフィリピンから招待された若手作家に、今回、人形劇のワークショップを主宰したジョグジャカルタの女性アーティストを加えたセッションでした。

このセッションでは、実行委員長のリリ・ユリアンティからリクエストがあったため、福島の話をしました。様々な風評が世界中に流布しているが、帰還困難区域は福島県の一部であり、大半の地域では日常生活が営まれていること、除染や産品検査が行われて監視し続けていることなどを紹介したうえで、和合亮一氏の「詩の礫」の初期の作品で英訳されている「悲しみ」という詩の一節を、試みに日本語と英語で朗読しました。参加者はしっかりと聞いてくれました。

他のパネリストからは、どのように他国の文学への関心を引き起こすか、そのためのネットワークをどう作っていくか、といった話が展開しました。インドネシアの参加者はマレーシアやフィリピンの文学作品についてほとんど知らず、また、マレーシアでもフィリピンの文学作品はほとんど知られていない。その一方で、韓国ドラマはけっこう皆知っている、という状況であることを確認しながら、文学者どうしがこうしたフェスティバルのような場を通じて、もっとコミュニケーションを取り合うことが必要だという話になりました。

私からは、文学者どうしのコミュニケーションも必要だが、キュレーター間の交流をもっと進めていくことも合わせて重要ではないかという意見を述べました。

2つ目は、”How to Rise Readers in Your Family”というセッション、すなわち、本好きの子どもを育てるにはどうしたら良いのか、というテーマでのパネルディスカッションでした。

一緒にパネルをした方は、日本に長く滞在経験があり、自作の本を3冊書かれた方で、自身の無学で文字を書けなかった母親がどうやって自分に教育の機会を与え、博士を取るまでに育てたのか、という話をしてくれました。

私は主に、親による子どもへの読み聞かせの話をしました。声色を変えた読み聞かせを少し演じて見せて、読み聞かせが親子のコミュニケーションを深め、安心感を作り、子どもの想像力や好奇心を掻き立て、本に対するバリヤーを低くする効果がある、といった話をしました。

インドネシアでは、読書は知識を得るため、賢くなるために読むという傾向が今も強く、親が声色を変えて子どもへ読み聞かせをするというのは一般的ではない様子でした。親から本を与えられて、読むことを強制された経験を語る参加者もいました(でもその参加者は本好きになったそうです)。

質疑応答で、山奥の辺境地の学校で小さな図書館を作ったものの、子どもたちが本に見向きもしない、文字を読めないので本を読めない子どもが多い、本が紛失するとまずいから図書館に鍵がかけられてしまった、私はどうしたらいいのだろう、という質問がありました。

私は、知識や学びは必ずしも本だけから得られるものではない、先祖から伝えられてきた知識や学びが生活の中で生かされているはず、子どもがそこで生きる力はそうした知識や学びから生まれる(町の子どもにはないものである)、そうした知識や学びに対して外部から来た先生がどの程度これまで関心を持ち尊敬を示してきたのか、本はいずれ必要になれば読むようになるけれど読まないからといって落胆する必要はないのではないか、というような話をしました。

でも、今日出席したセッションの中で、一番引っかかったのは、午前中に一般参加者として出席した、”Narrations about Conflict and Resolution”というセッションでした。

このセッションでは、アンボンの宗教間抗争、マカッサルの反華人暴動、バンガイ群島の村落間抗争の経験談が語られました。しかし、それは、それらが起こった当時、まだ小学生ぐらいだった作家たちによる経験談で、本当は何が起こっていたのかを実感できているわけではなく、後追いで取材して映画や小説を作り上げようとしているのでした。

それ自体はある意味やむをえないことなのですが、私が頭を抱えたのは、彼らよりも上の世代のある参加者が発した問いかけでした。すなわち、「どうしてそれらの抗争や暴動は1990年代後半、スハルト政権崩壊前後に起こったのか、よくわからない」という質問でした。

スハルト時代を知らない世代がどんどん増えているだけではなく、あの時代を生きてきた世代でさえも、歴史上の出来事とその流れを捉えられなくなろうとしている、本当は何が起こったかを記憶できず、後追いで作られる「事実」に置き換えられてしまう可能性が高い、と思ったのです。

実際、1997年9月に起こったマカッサルの反華人暴動を題材とした映画を作って、華人と非華人との関係を考えたいという、華人の血の流れる若手映画監督は、当時のことを華人の方々が全く話してくれないことを嘆いていました。それを聞いて、私は「ある意味、当然だよな」と思いました。歴史とは、こうやって埃に埋もれていき、その時々の為政者にとって都合のいいように書き換えられていく、そのプロセスが綿々と続いていくのだな、と思いました。

私も、仕事柄、1990年代の抗争や暴動を、新聞記事などで丹念に追っていました。マカッサルの反華人暴動の時には、実際、マカッサルでそれを経験しました。何が起こったのかも私なりに記録に残さなければと書いてきました。それらを総合して、私なりの当時の歴史の流れと抗争や暴動との関係に関する大まかな仮説も持っています。

でも、それを精緻に再構成して、論文にして、あるいは本にして、英語版など作って、インドネシアの人々を含めた一般へ公開発表することがよいことなのか、ずっとずっと悩んできました。現段階では、発表しても誰も幸せにならないのではないか、と思い、「発表すべきかも」という思いを断ち切るために、自分をビジネス志向や会社設立の方向へ向けさせた面もあった、と気づきました。

今日のセッションの話を聞きながら、そして昨今のインドネシアの状況を考えながら、我々もインドネシアの方々も、1990年代の歴史の流れをもう一度学び直す必要性が出てきているのを痛感しつつも、自分は「もうそれはやらない」と断ち切ったはずではないか、と悶々としてしまうのでした。

1990年代の抗争や暴動の背景となる政治史の検証をやはり行うべきなのか、あるいは、外国人である自分がそこへ手を突っ込む必要はないのではないか、と、まだしばらく悶々としていかざるを得ないような気がしています。

国際作家フェスティバル、テーマは多様性

本日5月17日から、マカッサル国際作家フェスティバル2017が始まりました。20日まで開催されますが、私自身は、期間中、3つのセッションでパネラーを務めます。日本からの出席者は私ひとりとなりました。

今回の国際作家フェスティバルのテーマは「多様性」です。昨今のジャカルタ首都特別州知事選挙などを見てお分かりのとおり、インドネシアでも多数勢力が政治的な力を誇示する傾向が危惧されており、そうした状況を踏まえたテーマ設定となりました。

フェスティバル実行委員長である作家のリリ・ユリアンティは、開会イベントで、次のように演説しました。

政治的意思を持った同調圧力が強まっている。権力を狙う政治家がそれを主導している。このフェスティバルには、政府関係者は誰も招待していない。この種の会議では普通、政府高官の臨席を賜り、彼が来るまで開会できない。我々はそうではない。我々は普通の市民である。その市民が互いの違いを尊重し、敬意を示し、違うものの存在を認める。ここは批判的な意見を堂々と言える場である。ここに集まった皆さんにとって、このフェスティバルは自分の家のように感じてもらえるはずのもの。集まった誰もがこのフェスティバルを作って行くのだ。そのうごきはこれから10年も20年も30年も続いていくと信じたい。

力強い演説でした。同調圧力が強まるように見えるインドネシアで、市民がその多様性を身近なところでしなやかに守っていかなければならないことを、確信をもって訴えた演説でした。

そして、彼女の演説は、今の日本に対して、言っているかのように聞こえたのでした。同調圧力に屈するにはまだ早いのではないか。彼女が言うような当たり前の主張を、イデオロギーやレッテル張りを超えて、声をあげていかなければならないのではないか、と。

開会イベントに先立ち、このフェスティバルで発表された、東インドネシア出身の若手作家の作品をまとめた「東から」(Dari Timur)という本の出版記念セッションがありました。

彼らは、フェスティバルの中の「今後の有望作家たち」(Emerging Writers)というセッションで取り上げられた若手作家で、このセッションのスポンサーを、私は5年前から続けています。そのため、彼らの作品集が出版されたことを自分のことのように嬉しく思いました。

「東から」は第1巻と銘打たれており、今後も続けて出版されていくことが期待されます。まだしばらくは、スポンサーを続けていきたいと思いました。

マカッサルに着きました

5月16日の夕方4時半過ぎに、マカッサルに到着しました。やっぱり、マカッサルに来ると、気分が高揚していきます。

ホテルに荷物を置いて、我々の仲間が運営しているRuma’ta Art Spaceへ向かいました。

すでに紹介したかもしれませんが、このRuma’ta Art Spaceは、マカッサル出身の作家Lily Yulianti(福島の当社オフィスへの来客第1号)と同じくマカッサル出身でインドネシアを代表する映画監督のRiri Rezaが主宰し、地域の若手文化人・芸術家たちの活動空間となるような場を設け、その場を通じて新しい地域主体の文化創造活動を促す運動を行っています。

Ruma’ta Art Spaceに関しては、私も初期段階から少なからず関わっており、今も大事な仲間としての関係を続けています。

今回のマカッサル訪問は、このRuma’ta Art Spaceが主催するマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)に出席することが目的です。今年で7回目、政府から一切の補助金を受けず、独自に民間からのスポンサー収入で運営しています。

MIWFの話はこれからブログで紹介していくとして、マカッサルについて早々、インドネシアの詩人Supardi Djoko Damonoの若い頃に書いた自筆の詩の書簡が発見されたということで、彼の1958〜1968年の詩作を回顧する展覧会のオープニングセレモニーがRuma’ta Art Spaceで夕方開催されているというので、Ruma’ta Art Spaceへ向かったわけです。

会場にはSupardi氏ご自身も来られていました。彼が1958年から1968年へとどのように詩作が変わっていったのか、書簡にある詩と出版された詩とが違っているのはなぜか、などが興味深く説明されていました。

そして、夜は、場所をロッテルダム要塞公園へ移し、「映画のなかの詩」というテーマで、Yosep Angi Noen監督のIstirahatlah Kata-Kata(2016年作品)を夜空の下で鑑賞しました。この作品は、1998年7月以降(誘拐されたと見られています)、今も行方不明のままの活動家Widji Thukulのカリマンタンでの逃亡生活に焦点を当てた映画で、詩人でもあった彼の詩が映画の中で使われています。

反政府の先頭に立った激しい活動家という一般的なイメージとは別の、警察や軍に怯える、生身の人間としての彼が描かれていました。おそらく、激しい活動家であった彼の姿が焼き付いているからこそ、この映画で描かれた一人の人間としての彼の姿がずしりと迫り、今も行方不明の彼の生きざまが今を生きる我々に何かを訴えてくるのだと感じました。なぜ今、この映画なのか、という点がおそらく大事なのだと思いました。

展覧会と映画会の間にさっと夕飯を食べようと、昔から馴染みの店で福建風ミーゴレンを頼んだら、30分経っても出てこないという事態に呆れ、時間も迫っているのでキャンセルして映画会に行ったので、空腹でしかたなかった(昼食もスニッカーズをかじっただけだったので)、ということはありましたが、無事にマカッサル初日を終えました。

草間彌生展へようやく行けました

今日は、午前中にアポイントメントが1本あった後、夕方から、妻と一緒に、国立新美術館で草間彌生展を観てきました。

明日からインドネシアで、帰国したときにはもう終わってしまっているので、どうしても今日を外したら観に行けないという状況でした。でも、年齢のせいか、昨日の福島日帰りの後遺症なのか、今日は疲れからか、ちょっと体がきつく感じたので、草間彌生展へ出掛ける前に、駅で栄養ドリンクを1本飲みました。

それが聞いたかどうかはわかりませんが、草間彌生展を観ている間、なぜか軽い興奮状態になり、眠気も吹き飛び、しっかり観ることができました。彼女自身の声が入っている音声解説は、彼女の詩の朗読や歌も入っており、一聴の価値があります。

金曜の夜ということでしたが、混雑ぶりは予想の範囲内。それでも、夜遅くなるにつれて、人の数がむしろ増えたように感じました。

色使いや抽象的な形象から、可愛らしさや明るさを感じる人もいるかと思いますが、音声ガイドでの草間彌生自身の話では、そんなものは一切なく、彼女の頭の中に浮かんだイメージや湧いてきたものを一心不乱に制作するという、むしろ彼女自身の様々な苦しみの成果であるということがとても印象に残りました。

そして、彼女が今に至るまでに辿った様々な経験、精神的な葛藤、生と死を見る真剣な眼差しなどが背景となり、彼女の中の思いが唸りを上げながらカンバスに描かれていく、2〜3時間で一つの作品を描いていく、その集中力と瞬間技のような表現の凄みが作品から迫ってくるのでした。

おそらく、掲げられているタイトルは後付けのものでしょう。2011年を境に、作品の描き方が大きく変わった印象を受けました。戦争や平和、心の奥底からの悲しみが表出しているような作品が多くなり、同時に、閉塞感を感じさせる現代のなかで、若者たちへの期待とともに、制作活動を通じて、草間彌生が闘い続けることを高らかに宣言しているかのように感じました。

真剣に生きるとはどういうことなのか。本当に闘うとはいかにして言えるのだろうか。私自身の人生への本気度や闘争心をもう一度思い起こさせる、真剣な時間を過ごすことができて、大変満足しました。

明日5月13日から23日朝帰国まで、インドネシアへ行ってきます。17〜20日は、私の大事な仲間が大きく育んできたイベント、マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)に参加してきます。

「バレンタインデーを祝わないように」との通達

明日2月14日はバレンタインデー。日本で最もチョコレートの売れる時期でもありますが、インドネシアも、今ではバレンタイデーが有名になりました。

そして、毎年のように、「バレンタインデーを祝わないように」という呼びかけが出されます。

たとえば、首都ジャカルタの南隣にあるデポック市は、優秀で想像力に富み、宗教的で競争力のある人材を作り、将来に活躍する最良の世代を準備するため、2017年2月8日付市教育局回状を通じて、次のことを求めました(元のDetikの記事はこちら)。

1.生徒に対しては、学校内外でバレンタインデーを祝わずに、インドネシアの東洋的な文化価値に沿ったポジティブな活動に勤しむことを期待する。
2.生徒の親に対しては、子供たちを誘って家の中あるいは外で、家族の調和やつながりを高めるレクリエーションなどで一緒に過ごすことを望む。
3.すべての学校関係者は、学校内におけるインドネシア民族の代々伝えられてきた文化価値を踏まえた性格や態度を根付かせることを願う。

この通達の文面を見る限り、デポック市は、イスラム的価値にふさわしくないからバレンタインデーを祝ってはならない、と言っている訳ではないことがわかります。

この通達は、バレンタインデーそのものを批判している訳ではありません。そうではなく、最近の若者たちのバレンタインデーの過ごし方が尋常ではなくなっていることへの懸念が強く表れています。

以前聞いた話では、バレンタインデーに異性と食事やデートするだけならともかく、未成年どうしで外泊したり、バイクで走り回ったり、アルコールを飲んで騒いだり、とにかく風紀がものすごく乱れているということでした。どうやら、若者たちが自分たちの行動を自制できない事態が多々起こっているようなのです。

話は変わりますが、インドネシアのコンビニでビールが売られなくなり、在留邦人や日本人出張者の間でずいぶん話題になったのを覚えている方も多いと思います。

それを「イスラム教の影響が強くなっているから」と解釈する向きもありましたが、必ずしもそうではありません。

実は、コンビニが未成年者へアルコール類を売ってしまい、それを飲んだ若者が騒ぎを起こすという事件が相次ぎ、なかには、メチルアルコールにまで手を出して飲んで死んでしまう事件が起こるに至り、アルコール類の販売禁止策が出されるに至った、という経緯があります。

コンビニでのアルコール販売禁止も、今回のバレンタインデーを祝わないようにという通達も、自制できない若者たちを鑑み、彼らが欧米の真似をしてそれにうつつを抜かしている状況を懸念した、風紀の乱れ対策と見るのが適当かと思います。

しかし、この風紀の乱れに歯止めがかけられないと、イスラム法で治める以外に手段はない、という声が出てきてしまいます。すなわち、頼れる規範がイスラムしかないと考える向きが強まるのです。本当に風紀の乱れ対策をいろいろ考えてやったかどうかは分かりませんが、イスラムを出すほうが手っ取り早い、と考える人々も多いと思われます。

かつて、汚職撲滅が進まないのは世俗法で処しているからであって、イスラム法の世界になれば汚職は摘発できる、と汚職構造の抜本的改革にはイスラム主義で処するしかないという考えが現われたことがありました。インドネシアで10数年前、イスラム国家か世俗国家という議論が現れた背景には、こうした汚職対策への無力感がありました。

そして、イスラムの名を使いながら、そのような状況を利用しようとする政治勢力も現れてきます。

うがった見方をすれば、バレンタインデー反対に象徴されるのは、己を忘れ、欧米から入ってきた風習を無批判に無節操に受け入れ、それを自分でコントロールできないように見える若者たちを、東洋的とか土着文化とかいう曖昧な概念を用いて、インドネシアという国家に引き止める方策にも見えます。

本当に重要なのは、自制できる若者をどのように作っていくか、ということでしょう。それは、自分で分別をわきまえ、節度ある行動のできる若者になっていくことであり、それは今の教育のあり方と深く関わってくると思われます。

でも、どうしてこんな風になってしまったのか、とても不思議な気がします。

というのは、私がジャカルタに住んでいた1990年頃は、キリスト教徒以外は、誰もバレンタインデーなど祝っていなかったからです。それも、好きな相手に花束を贈る(多くの場合は男性から女性へ)のが一般的で、「日本では女性が男性にチョコレートを贈るのが流行っているんだ」というと、皆んなから「変なの!」と言われたものでした。

今では、インドネシアでも、バレンタインデーに女性が男性にチョコレートを贈るのは普通のこととなりました。これは日本の真似なのでしょうか。

東京・銀座のリンツカフェの
チョコレートアイス&クレープ

ふくしま「ふるさと写真の日」展オープニング

2月6日の夜、都内で開かれた、ふくしま「ふるさと写真の日」展オープニングパーティーに参加してきました。

私の懇意にしている福島市のコーヒー店・椏久里のマスターがこのイベントの実行委員となっていて、お会いしたいと思ったのが直接の理由です。

東日本大震災後6年が経過しようとしている中、長い避難生活によって祖父母世代、親世代、子孫世代で大きく認識が変わりつつある「ふるさと」。そうした「ふるさと」という記憶の深い場所での大切なものたちとのつながりを「写真」を通して掘り起こし、その思いを根付かせ、育み、伝えていくプロジェクトの一環として、ふくしま「ふるさと写真の日」展が開催された、ということです。

このプロジェクトは、「親子の日」を提唱して親子の写真を34年間撮り続けてきた写真家のブルース・オズボーン氏に依頼し、相馬市、南相馬市、飯舘村、葛尾村、川内村において写真を撮影してもらい、その作品をそれぞれの人々の物語とともに展示しています。

このイベントは、東京(2/6〜2/12、Glocal Cafeにて)、郡山(2/14〜2/19、福島コトひらくにて)、福島(2/21〜2/26、コラッセふくしまにて)で順次開催されます。詳細は以下のサイトをご覧ください。

 ふくしま「ふるさと写真の日」展

実は、行ってみたら、椏久里のマスター以外に知っている方が一人もいない会でした。知り合いがいないので、マスターにくっついて、後ろの方でおとなしくしていましたが、だんだんに声を掛け合い始めると、高校の後輩や小学校の後輩などが次々に現れ、不思議な縁を感じました。

実は、今日、このイベントへ行ったのにはもう一つの目的がありました。会場の名前がGlocal Cafeという名前だったからです。どんなところだろう、という好奇心でした。Glocal Cafeのサイトは以下のとおりです。

 Glocal Cafe

なかなか素敵な空間でした。単なるカフェではなく、いわば公民館的な役割を果たせることを目的としていて、今回のようなイベントはまさにその目的に合致している、ということでした。

このGlocal Cafeを運営している会社の方々とも名刺交換をしましたが、私が「松井グローカル」の名前で活動していることを知ると、興味津々の様子。グローカルの定義は全く同じではありませんでしたが、目指している方向は同じでした。

語学書籍を出版している三修社も運営に関わっているとのことで、インドネシアやアジアのことにも精通している様子でした。同じグローカルを目指す者どうし、いろいろと協力してやっていけたらいいですね、という話になりました。

時々は、このGlocal Cafeに顔を出そうかと思いますし、ここで勉強会のようなイベントの開催も考えてみたいと思います。

影絵芝居への批判をめぐって

ジャカルタで今日、ホットな話題となっているのが、ワヤン・クリッ(影絵芝居)批判です。

ワヤン・クリッというのは、ジャワの伝統的な影絵芝居で、水牛の革や角で作られた人形(下写真はその一つ)に灯りを当て、ガムラン演奏をバックに、ダランと呼ばれる演者が一人で人形の操演と語りを行うものです。

この影絵芝居を批判する垂れ幕がジャカルタ中心部で現れたことが、ツイッターなどの写真で見つかり、話題となっています。

その写真の一つは、例えば、以下にあるようなものです。

 VIVAニュースサイト

そこに書かれているのは、直訳すると「影絵芝居を演じるのはイスラム法(シャリア)ではない」、すなわち、影絵芝居はイスラムにそぐわない、という意味に取れます。ほかにも、「影絵芝居はイスラム教徒の文化でも教えでもない」「影絵芝居の上演を固く禁止する」といった垂れ幕も現れました。

インドネシアのワヤン・クリッ(影絵芝居)は、むしろイスラム教を広める媒体として使われたという歴史があり、こうした垂れ幕に対して、疑問を呈する声が起こっています。

最近は、映像や写真を加工して虚偽の情報を流すことが横行しているため、この写真も加工したものでイスラム教徒同士の分断を狙った陰謀ではないか、といった説まで出ていました。

インドネシアのイスラムは、とうとう自分たちの土着文化までをも目の敵にし始めたのでしょうか。それほどに、単純に急進化しているのでしょうか。

今回の事件は、そのように単純に受け止められるものではありません。

実は、ちょうど、ジャカルタ首都特別州知事選挙に立候補しているアホック州知事候補と組んでいる州副知事候補のジャロット氏が、アホック=ジャロットの名前を前面に出さずに、影絵芝居のイベントを開いていたのです。ジャロット氏は影絵芝居の愛好家として知られています。

影絵芝居を批判する垂れ幕は、その影絵芝居イベントへ行かないように促すことを目的として、対立候補ペアの支持者たちが作ったものと察します。

しかし、その文面だけから見ると、あたかも、インドネシアのイスラムが代表的な自国文化に対する寛容さえも失っているかのように捉えられてしまいます。

今回は、そうではないと確信しますが、過去の歴史を見ると、そういってただ笑って過ごせばいいものでもないことに留意する必要があります。

かつて、南スラウェシ州では、伝統的な民族舞踊にイスラムの要素を入れるべきだとして、政府が介入して、踊り手の衣装などに改変が施されました。バリ舞踊でも、ムスリムの踊り手が踊る場合に、肌を出す女性の衣装にクレームがつくという事態が起こっているようです。

それ以前にも、偶像崇拝的な農耕儀礼や先祖伝来の民話なども、イスラムの教えに合わないという理由で禁じられ、迫害されるような事態がありました。

国民の多数派であるイスラムこそ、他者や少数派への配慮や寛容が必要であることは、多くの国民に共有されているのですが、一部の勢力が政治的理由からイスラムを利用する可能性は依然として高いと言わざるをえません。それら勢力による政治利用の自己制御が効かなくなったとき、寛容できる余裕を失い、社会は分裂へ向かう可能性が高くなるのではないかと思われます。

アメリカに対しても日本に対しても、この影絵芝居批判騒動と同じような雰囲気を感じてしまうのは、私だけでしょうか。

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