週末にインド映画・パキスタン映画

この週末は、妻と一緒に、土曜日にインド映画の「バーフバリ:伝説誕生」、日曜日にパキスタン映画の「娘よ」を観ました。

インド映画「バーフバリ:伝説誕生」は、先週、新宿ピカデリーで上映されていたのですが、1週間しか上映せず、15日からは、MOVIX昭島で1週間、レイトショーで上映されています。そこでやむなく、4月15日の20時半からのレイトショーで観るべく、都心から昭島まで出かけました。23時に上映終了後、急いで電車で帰りましたが、幸運なことに、終電まで遅くはなりませんでした。

映画自体は、(ちょっと稚拙ではありますが)VFXやCGを駆使して、スケールの大きさを表現しようとした、大型娯楽映画でした。あらすじも掴みやすく、勧善懲悪をきちんと描いていて、分かりやすかったです。ネタバレになるので内容は省略しますが、インド映画に必須の踊りや歌の要素はかなり少なかったです。R15+指定となっていますが、その数少ないお色気シーンよりも、戦闘の残虐なシーンがその理由となっているように感じました。

映画の最後で、続編があることが仄めかされ、エンドロールの途中でしばらく音楽がなくなって無音状態隣、このまま終わるのかと思ったら、いきなり、続編「バーフバリ:完結」の日本語字幕付き予告編が上映される、というおまけ付きでした。この続編は、2017年4月28日からインドで公開されるそうで、日本でも公開されることを期待します。

インド映画といっても、「バーフバリ:伝説誕生」はテルグ語の映画でした。テルグ語は、インドのアーンドラ・プラデーシュ州やテランガーナ州の公用語であり、約8000万人が話す言葉です。テルグ語で造られた映画は言語別インド映画の中で最多らしく、娯楽性の強いものが多いようです。

その意味で、今回の「バーフバリ:伝説誕生」は、ラージクマール・ヒラニ監督の「きっとうまくいく」「PK」の社会風刺や、サタジッド・レイ監督の深い洞察などとは全く違う、純粋に娯楽映画として楽しめるものでした。

次に、今日4月16日、岩波ホールでパキスタン映画「娘よ」を観ました。部族間対立を収めるために部族長と婚姻させられそうになる10歳の少女を、その母親が連れ出し、命がけで逃げに逃げる、というシンプルな内容です。複雑な伏線などもなく、これもわかりやすい映画でした。

母親と娘が逃げていく中で色々なことが起こるのですが、その間に様々な人が殺されたり亡くなったり、結局、結婚が破談となって部族間対立は収まるどころかもっと激しくなり、といった絶望を感じさせる面もあります。娘のあどけなさと無垢さが、彼女が大人になる頃の未来への希望を示しているように感じました。

この映画を通じて、アフィア・ナサニエル監督が女性として訴えたかったことがひしひしと感じられました。この話は実話が元になっているとのことですが、映画の中でも、女性の解放といった話が実際には相当な壁に直面せざるをえない現実をまざまざと見せつけていました。

福島市で申請した法人登記手続が4月20日に終わると、福島市での活動拠点づくりなど、予定が色々と入ってくるので、映画にせよ何にせよ、先延ばしせず、時間のあるときに済ませておく、という態度で過ごすことが肝心と思っています。

心にもっと余白が必要なのだ

今日の朝日新聞の朝刊に載っていた「折々のことば」にハッとしました。

 僕たちが他者とつながり、世界への問いを共有するためには、僕たちの心にもっと
 余白が必要なのだ。 (小野正嗣)

同じ空間のなかに存在していながら、お互いにその存在を知ることもなく、だから気にとめることもない2つの集団。イタリアの島にたどり着いた難民とその島に元々住んでいる島民とが接することがない、のです。

鷲田清一氏は、小野氏のことばについて、「一つの大きな傘の下に集うのではなく糊代(のりしろ)で横に繋(つな)がることの意味を思う」と記しています。

これを読んで、昨日のブログで書いた、グローカルについての私なりの解釈に通ずるところがある、とピーンときたのでした。私のグローカルとは、まさに、糊代で横につなげようとすることだからです。

インターネットで容易に世界の様々な事柄を頭で知ったような気になっていても、人間の眼で見ている実際の視野は、逆に狭くなってきているのかもしれません。

一般的な人間社会の幸福と個人や家族や親しい友人の幸福とが一致できないような気分が支配的なのでしょうか。将来への不安が一般的な人間社会の今後への不安となり、他の人がどうなろうとも、せめて自分の身の回りの幸福だけでも確保したい、という気分が強まっているような気がします。

心の余白が少なくなっているのです。それは、他者への想像力が衰えていること、と言い換えることができるかもしれません。

自分が他者の存在を認め、自分も相手からすると他者なのだと認識することは、当たり前のことです。世の中には様々な人がいる、のも当たり前のことです。でも、インターネットを通じて、そうした「他者」と出会って理解したような錯覚を起こしてはいないか、と思います。

自分が世の中で認められたい、という気持ちが、他者との競争をことさらに意識し、自分を認めてくれない他者や世の中に対して反感を抱く、そんな気持ちに由来する暴力や暴言や過激な行動が現れてきます。

心の余白がなくなる代償として得たものは一体何だったのでしょうか。地位、名声、あるいはカネなのでしょうか。

忙しく働いて頑張っていると「えらいね」と言われて嬉しい、といったことがまだあるのでしょうか。「えらい」と言ってもらいたいから頑張って忙しく振舞っているということはないでしょうか。そうしたことにエネルギーを費やすのがなぜか美徳とされる一方で、他者を想像する心の余白は無くなってしまうのではないでしょうか。

ちょっと頭がくらくらっとしてきました。この辺で今日は筆を止めます。

グローカルとは何か:私なりの解釈

昨日は、福島市で法人登記申請をした後、実家で少し休み、登記が完了する4月20日までは何も手続を進められないので、とりあえず、東京の自宅へ戻ることにしました。

ふと思って、久々に、福島から東京まで東北本線の普通電車を乗り継いで行くことにしました。福島から黒磯、黒磯から宇都宮、宇都宮から赤羽、赤羽から自宅の最寄り駅まで、5時間かかりました。昔ならば6〜7時間かかったので、ずいぶん短縮されました。

たいして疲れを感じることはなかったのですが、池袋の法明寺で桜を眺め、帰宅すると、かなりの疲労感を感じてしまい、少し睡眠をとりました。年齢のせいとは思いたくないのですが、福島と東京との間の移動については、時と場合による良い方法を追求していきたいと思います。

法明寺の桜

ところで、松井グローカルという名前に使う「グローカル」という言葉について、世間で言われているのとは、ちょっと異なる解釈かもしれませんが、私なりの解釈があります。それについて、今回は少し述べてみたいと思います。

インターネット上でグローカルという用語は、たとえば、「グローバル(Global:地球規模の、世界規模の)とローカル(Local:地方の、地域的な)を掛け合わせた造語で、「地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方」というのがあります。

日本語ウィキペディアでは、さらに以下の3つのような意味合いで使われる用語、とされています。

1)地球規模/多地域での展開を目指しながらも、地域の法律や文化に応じる形で提供される製品やサービス。
2)インターネットなどの電子コミュニケーション技術を活用し、地球規模/多地域の基準の下で提供される地域限定のサービス。
3)地域の文化や需要に応じるために、世界的な企業が設立する現地法人、など。

上記の一般的なグローカルの意味を見て感じることは、「まずはグローバルがあり、それをローカルへ展開する」「グローバルを目指しつつもまずはローカルから始める」という方向性です。日本語ウィキペディアには、「「グローカリゼーション」という言葉は、1980年代の日本企業が営業戦略として使用し始めた」ともあります。

日本で「グローカル」という名前を用いた企業や法人はいくつかありますが、その多くは、日本での事業を世界へ広げる、あるいは世界的視野で行う、というニュアンスがうかがえます。
私の考える「グローカル」はこれらとは異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルから始まります。地域、地域の人々や暮らしから始まります。
地域を大事にするという意味では、地域主義や、グローバリゼーションの反対語としてのローカリゼーションとも共通するところがありますが、それらとも異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルとローカルがつながることから始まります。そのつながりが、蜘蛛の巣状のインターネット網のように、無秩序にどんどんつながっていくような、ローカル間のネットワークが国境を越えて作られ、結果的に、ローカル間のネットワークがグローバル化する、というイメージです。
なぜ、ローカルとローカルとをつなげるのでしょうか。
日本やインドネシアやアジア各国やアフリカなど、様々な場所の地域を訪ねて感じたことがあります。それは、世界中のローカルが根底で同じ問題に直面している、ということです。
インドネシアでは、グロバリゼーションは、西洋化や欧米化の文脈で捉えられてしまうことが少なくありません。しかし、EUやアメリカの農民たちもグローバリゼーションを嫌っていることを話すと、「信じられない」という顔をします。他方、彼らは、ファーストフードの流行や携帯電話を手放せないことなどは、誰かよそ者に強制されて強いられているわけではなく、自分から好きでそうしている、ということは、自分もまた、グローバリゼーションをつくる一員になっている、ということに気づきます。
私たちは、そうした意味で、グローバリゼーションから逃れることはできなくなっています。グローバリゼーションに反対して自らを閉じてしまうのではなくて、グローバリゼーションによって、自分自身の育った地域が伝えてきた様々な教えや自分のくらしを自分たちが否定したり、忘れたりしそうになっている、ということに目を向ける必要があると思うのです。
15年ほど前に地元学に出会って学んだことは、果たして自分は自分の暮らしやその暮らしを成り立たせる地域について、どれだけ知っているのだろうか、ということでした。まずは、自分の足元を実は意外に知らない、ということに気づくことの大切さでした。
多くの地域では、自分たちの足元にあるものよりも外から来るもののほうが優れている、と思いがちです。日本もまた、欧米化することがより良くなることだと、もしかしたら今もずっと信じ続けているかもしれません。
そして、祖先から伝えられてきた、自然とうまく共生し、自然を上手に活用する様々な知恵を忘れていきました。自然から天候を読むのではなく、スマホの天気予報のほうを信じるようになりました。
私は、そうした変化を拒んだり、否定するものではありません。しかし、自分自身やその暮らしの元になっている地域を否定したり、忘れたりしてはならないのだと思います。
記憶に残すということは、過去を懐かしむためではありません。それが何十年も、何百年も、もしかすると何千年も伝えられているとするならば、そこに何かの意味があるはずです。その意味を現代の地域の文脈で学び直すことが、地域をもう一度見直すことにつながるはずだと思うのです。
そうしたもののなかから、その地域はいかなる地域であるか、という地域のアイデンティティが醸し出されてくるのです。しかし、そのアイデンティティがどこにあるかを感じられなくなっている、というのが、全世界のローカルが直面している根底問題ではないか、と思うに至りました。
まずは、自分たちだけではなく、世界中のローカルがアイデンティティ危機に直面していることに各々のローカルが気づき、自らが何であるのかを知りたいと思って行動を始め、それで改めてつかんだ何かをアイデンティティに加えていく、それを行っているローカルどうしがそれぞれのアイデンティティを認め、尊敬し合い、場合によっては、一緒に何か新しい価値を生み出していこうと動き始める。それに地域おこし、地域づくり、地域振興、地域復興などの名前を付けたければ付ければよいのではないか。
私がローカルのために何かを創るのではありません。そこの方々が自ら主体的に何かを創るお手伝いをする。私は、そんなプロフェッショナルな触媒を目指したいのです。
松井グローカルの活動対象は、全世界のローカルです。まずは、法人登記した生まれ故郷の福島市から始めます。
日本全国どこでも、世界中どこでも、必要とされるローカルで、そのローカルが自ら主体的に自らを知り、活動を自ら始め、必要に応じて他のローカルとつなぎながら、新しいモノやコトを創り始める、そのプロセスに触媒として関わっていきたいと思います。
ローカルの力を信じ、自分たちの暮らしを見つめながら、新しい価値を自ら創り出すお手伝いをする、そんな仲間が日本中に世界中に増えてくれば、国家単位で物事を見てきた風景とは違う、新しい風景が生まれてくるのではないか、おそらく地域づくりというものの中身が変わってくるのではないか、という気がしています。
私が「松井グローカル」という名前を使うのは、こうした世界が生まれ、支配者のいない、ローカル間のネットワークがグローバル化していくことを夢見ているためなのです。

違う言葉で、インターローカル、インターローカリゼーション、という言葉もあり、これも私が目指すことを表しているかもしれません。

妄想に取り付かれたような文章を長々と書いてしまいました。皆さんからの忌憚のないご意見やご批判をいただければ幸いです。

ジャパン・レール・パスを買えなかった友人

今日は、1月にマレーシアのマラッカでお世話になったマレーシア人の友人S氏と東京で再会しました。S氏は、日本各地にいる友人を訪ねるため、1カ月の予定で日本に滞在しています。

S氏、S氏を私にご紹介頂いたY氏、S氏の部下、の4人で、桜を眺めながら南池袋公園のカフェで歓談しました。やや風は強いものの、温かかったので、「外で」と勧めたら、「肌寒い」といわれ、屋内で過ごしました。

しばらくして、S氏が「ジャパン・レール・パスを日本で買えるらしいから、買いに行きたい」と言うので、その場所のある新宿駅へ一緒に行ってみることにしました。

しかし、彼は結局、ジャパン・レール・パスを買うことができませんでした。

ジャパン・レール・パスは、外国からの旅行者が日本を旅行する際にJR線を一定期間乗り降りできるパスです。7日間の普通車用で33,000円、のぞみなどを除く低速新幹線を含む鉄道に乗ることができます。

通常は、外国で事前に引換証を買い求め、来日した際にJRの窓口でジャパン・レール・パスと引き換えることになっていますが、東京オリンピックを3年後に控え、外国人旅行客の増加を見込んで、JRグループは、2017年3月8日から2018年3月31日まで、ジャパン・レール・パスを試験的に日本国内でも販売することにしました。

詳細は、以下のサイト(PDF)をご覧ください。

「ジャパン・レール・パス」の日本国内での試験販売及びご利用資格の一部変更について

このサイトにも説明がありますが、2017年4月1日以降、ジャパン・レール・パスは海外在住の日本人向けの引換証販売を終了しました。これに対する批判が、ネット上に多数見られます。

さて、マレーシア人の友人S氏らと新宿駅のびゅうプラザに出向き、ジャパン・レール・パスを買おうとしたのですが・・・。係員に断られました。

ジャパン・レール・パスは、海外から「短期滞在」(3カ月)の入国資格により日本を訪れる、日本国以外の旅券のみを持つ外国人旅行者に対して販売されるものでした。

S氏は、5年毎更新の日本の永住権を持っているのでした。彼は30年近くにわたって、日本の複数の大学でマレーシア語やマレーシア文化を教えてきた人で、その間に取得したものでした。数年前に、マレーシアへ帰国し、現在は、日本に居住しておらず、マレーシアで活動を行っています。

日本に住む権利を持っていても、実際には住んでおらず、久々に日本に来て、昔からお世話になった方々を訪問しようと思っていた矢先に、ジャパン・レール・パスが買えないということを知って、ちょっとびっくりした様子でした。

それでも、「マレーシアで引換証を買ってこなくてよかった。マレーシアでは資格などよくわからずに引換証を売られたことだろう。日本に着いてから引換証が無効と言われるよりよかった」と、自分を慰めるようにつぶやいていました。

彼のような、日本と深く関わり、日本を愛し、マレーシアと日本との関係深化に多大な貢献をしてきた方でも、たとえ実際に日本に住んでいなくとも、永住権があるという理由で、久々の日本旅行でジャパン・レール・パスを使うことはできないのでした。

極言すれば、ジャパン・レール・パスという特権を使ってもらいたい、日本へ来て欲しい旅行者とは、滞在期間3カ月以内の外国人旅行者なのですね。1年ぐらいかけてじっくり日本を旅してまわりたいとか、日本と深く交わってしまって日本を第二の祖国のように思い永住権を得てしまったような人は、たとえ日本に居住していないとしても、ジャパン・レール・パスを使って欲しい、好ましい外国人旅行者とは見なされない、ということなのかもしれません。

これもまた、外国人にたくさん来て欲しい、と言っている日本の観光関連の一コマです。

日本と長く付き合ってきた彼には、決して好ましいこととは思いませんが、そうした事情を理解してもらうことはできました。こんなことで、日本が嫌いになるようなS氏ではないと思いますが、もし読者の皆さんが彼の立場だったら、どう思うか、ちょっと思いをいたしてみてください。

彼には、広島や福岡の知り合いを訪問するために、成田発の格安航空会社のチケットを購入することを勧めました。

日本にとって必要なことは、外国人観光客の数を増やすことだけでなく、日本を深く理解し、日本との間の架け橋になるような方々をもっと大事にすることだと思います。

彼らのおかげで、どんなに日本のイメージが好意的に伝えられているか、日本に対する理解がどれほど深くなっているか、想像すればわかるはずです。市民レベルでも、世界中に日本の味方を増やしていくことが日本の安全保障にもつながると思うのです。

その意味で、決まりとはいえ、S氏がジャパン・レール・パスを買えなかったことは、残念なことでした。

タニンバル絣を使ったファッションショー

今日は、在日インドネシア大使館で開催されたファッションショーに行ってきました。

今回のファッションは、インドネシア・マルク州西東南マルク県にあるタニンバル島のイカット(絣)を使い、服飾デザイナーのウィグニョ・ラハディ氏が制作した作品が紹介されました。

ウィグニョ氏は、日本の伝統的な着物に着想を得て、それをタニンバル絣と組み合わせた「メタモルホスイースト」(Metamorphoseast)というテーマで作品を制作。たしかに、着物や帯、袴といったものをイメージさせる作品が出されました。

昨日の会議で一緒だった西東南マルク県高官を含むマルク州訪問団の方々と再会しましたが、自分たちの伝統的な布がこのような形で日本で紹介されることを、とても喜んでいました。

最近の絣は、原料の木綿の糸が細いものを使い、薄い生地にして着やすくしてきているのだとか。あのゴワゴワの絣も味わい深いものがありますが、ファッションとして着こなすならば、薄い生地もありなのだろうなと思いました。

インドネシア大使館も、1階のロビーをこんな風に使って、こんな素敵な企画を催すなんて、いつの間にか随分とセンスがよくなっているなあと感心しました。

このファッションショーには、マルク州代表団からもらった招待状で出席しました。マルク州代表団から「どうしても出席して欲しい。招待状を出させるから」と言われていたものです。本当にありがたいご招待でした。

今回の絣の生産地であるタニンバル島へ日本から行くには、ジャカルタないしバリからマルク州の州都アンボンへ飛び、アンボンからタニンバル島のサウムラキへ飛びます。アンボンからサウムラキまでの飛行所要時間は1時間半、ウィングエアが1日1〜2便飛ばしています。

タニンバル島のある西東南マルク県は、日本企業も開発に関係するガス田・マセラ鉱区の近くで、今後のガス田開発の展開を踏まえても、なかなかセンシティブな場所でもあります。しかし、今回の訪問団からは、日本への親近感と期待が強く表明されていました。

今回の出会いを機に、単にガス田開発があるからという理由だけではなく、彼らとの関係を深め、西東南マルク県とも丁寧にしっかりとお付き合いしていきたいと改めて思いました。

帰国、花見に間に合い、夜は用事

ジャカルタからタイガーエア+スクートというLCC乗り継ぎ、しかもシンガポール、台北経由の成田着で帰国しました。

当初、シンガポール=成田間で座席指定したのに、なぜかシンガポール=台北間と台北=成田間の座席が異なるというので、おかしいと主張したら、改めて通しのシンガポール=成田間で席を用意してくれたのですが、その席が優先降機となる前方座席だったので、今回のスクートはなかなかラッキーでした。

初めて日本に来た外国人観光客の鉄道乗り換えの手伝いなどをして、帰宅したのは午後1時過ぎ。その後、自宅でしばし、庭の桜で花見をしました。花は8分咲き程度でしょうか。4月2日に「東京の桜は満開」との報道があり、今年は東京で花見は無理かなと思ったのですが、間に合いました。

しばし、庭に机と椅子を出し、桜を愛でながら、お茶の時間を過ごせました。

桜以外の庭の花々も、咲き始めて、まさに春が来た!という感じでした。

そして、午後5時からは、都内某所で用事があるため、出かけました。インドネシア・マルク州の訪日団の一員である州政府職員の友人から「ぜひ来てほしい」と言われたためです。でも、行ってみたら、知らない日本人のビジネスマンばかりで、場違いな雰囲気でした。

会場に現れたマルク州訪日団を見てびっくり。同州政府職員の友人から紹介された訪日団の団長は、昨年2月、20年近くぶりに再会した私の友人でした。今回は、マルク州官房経済開発投資部長としての来訪でした。

会議では、ただ出席するだけと思っていたのに、ひょんなことからインドネシア語の通訳をする羽目になり、結局、最後まで通訳のお手伝いをしてしまいました。でも、その結果、当初は全く面識のなかった日本人のビジネスマンたちともお知り合いになることができました。

それはともかく、さすがに、帰宅途中の電車の中では久々に相当の疲労感を感じてしまいました。

「牯嶺街少年殺人事件」を観てきた

今日、家族3人で、エドワード・ヤン監督の台湾映画「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」を観てきました。

今回のは、マーティン・スコセッシが設立したフィルム・ファウンデーションとアメリカのクライテリオン社による4Kレストア・デジタルリマスター版での上映でした。そういえば、2月に、やはり家族3人で観たキンフー監督の「侠女」「龍門客桟」という2つの台湾映画も、4Kデジタル修復版でした。
ずーっと昔、妻と一緒に「牯嶺街少年殺人事件」を観て以来、いったい何年ぶりになるのでしょうか。ストーリーも人物もすっかり忘れてしまっていたのですが、今日、改めて観ながら、その断面・断面が少しずつ思い出されていました。
今回のは236分版、約4時間の休憩なしでした。おそらく、前回観たのは188分版だったのではないかと思います。もっと主人公に焦点が当てられ、主人公を取り巻く少年グループ間の複雑な関係は、今回のほどは細かく描かれていなかったような印象があります。
最初のほうは、顔が似ている人がいるなどして、登場人物の関係がなかなか分かりにくかったのですが、事件が起こって話が大きく展開し始めてくる頃には、だいぶはっきりしてきました。そして、改めて、前半で何気なく撮られたかのように見えたショットがふと思い起こされてきて、もう一度しっかり観ておきたかったという衝動が現れてくるのでした。

大陸から台湾へ渡ってきた外省人と彼らを迎えた土着の本省人、第二次大戦終了以降も残る日本の影、貧富格差、共産主義分子摘発キャンペーンと思しき弾圧の匂いなどが少年少女の日常にも影を落とし、描き出される社会の息苦しくもけだるく、夢やあこがれに邁進しようにもできない、突き抜けない、救いようのない鬱屈した雰囲気が全編に満ちていました。

民主化の成熟を様々な場面で見ることが多くなった今の台湾を意識すると、台湾の人々は、この映画を改めてどのような気持ちで観るのでしょうか。

でも、少年少女の淡い恋愛のなかで表現された言葉のなかに、私たちや社会の遠くない未来を暗示させるような、絶望と運命の入り混じった、救いようのないやり切れなさや鬱屈した雰囲気を感じてなりませんでした。

ネタバレになるので、詳しいストーリーは省きますが、4時間という時間を費やす価値のある映画だとは言えます。

この映画を観たのが「ラ・ラ・ランド」を観たすぐ後だったこともあり、二つの映画の描く世界の雰囲気が実に対照的であったことを改めて感じています。それは、現代を生きる私たちの社会において、明るい希望と真っ暗な絶望が併存しているということを、改めて明確に認識させてくれたような気がしています。

神楽坂でのホッと一息スポット

東京都内の散歩コースで好きな場所の一つが神楽坂です。

一歩中へ入ると、いくつかのクネクネした小道に、雰囲気の良い粋なお店がいい感じで存在していて、なんとも風情があります。そういえば、移転前の元職場に近かった四谷荒木町界隈も同じような風情があり、大好きな場所でした。

神楽坂でホッと一息つく私(と妻)のお気に入りのスポットの一つは、ル・ブルターニュ神楽坂店です。とくに、そば粉のガレットが大のお気に入りです。

いつ行っても、たくさんの人が並んで待っているような店なのですが、今日は珍しく、夕方、私たちが入ったときには誰も客がいませんでした。しかし、しばらくすると、次々にお客さんが入ってきて、わずか15分ぐらいの間に満席となっていました。

店員の対応はキビキビしていて親しみやすく、フランス語が飛び交う店内は、なかなか居心地が良いです。メイン通りからちょっと入ったところにあって静かな空間です。

次に今回訪れたのは、紀の善です。あんみつで有名な店ですが、お目当ては、抹茶ババロアです。クリームとつぶあんが付いていて、これらの味のバランスが絶妙なのです。

ほかにも、親子丼やうどんすきでの鳥茶屋、押し寿司の大〆、肉まんで有名な五十番、そして、コタツのある饅頭カフェのムギマル2など、神楽坂には興味深い店がいろいろあります。次回は、どこへ行きましょうか。

ガルーダマイルからスカイマイルへ

飛行機に乗るときに重宝するマイレージカードですが、私はこれまで、JALカードでワン・ワールド、ANAマイレージカードでスター・アライアンス、そしてガルーダマイルでスカイチーム、を代表させてきました。

ガルーダ・インドネシアが発行するマイレージカードは、かつてGFF(ガルーダ・フリークエント・フライヤー)と呼ばれた時代から愛用し、今は、ガルーダマイルのシルバーです。

でも、いろいろ考えて、スカイチームのマイレージカードをガルーダマイルからデルタ航空のスカイマイルへ変えることにし、今日、スカイマイルJCBテイクオフカードが届きました。変えることにした理由は、次のようなものです。

第1に、ガルーダマイルが貯めにくくなったことです。スカイチームに加盟したのと同時に、GFFがガルーダマイルへ変わり、マイルの取得条件が厳しくなりました。ディスカウント・チケットではマイルがほとんどつかなくなっただけではありません。

かつて、GFFには、ECプラス・ゴールドというステータスがあり、長い間、愛用していました。これは、お金を払って、ラウンジ利用、優先チェックイン・搭乗、預け荷物上限増量などのゴールドのステータスを買うものです。

GFFの時は年間150万ルピア(前年に一定回以上利用した場合の継続は50万ルピアのみ)払えばECプラス・ゴールドに慣れたのですが、ガルーダマイルになってからはそれが600万ルピアへ引き上げられ、しかもサービス内容は同じ、と改悪されたので、すぐに解約しました。

第2に、ガルーダマイルは期限があり、マイル利用座席数が少なく、すぐに埋まってしまうことです。ウェブ上でマイル利用の航空便の予約ができず、必ずガルーダのオフィスへ出向いて予約しなければならないので、日本を拠点としている現在では、マイル利用で座席をとるのが事実上難しいためです。

第3に、インドネシア国内で飛行機を使う場合でも、シティリンクやスリウィジャヤ航空などの格安便に乗ることが多くなったので、自腹でガルーダに乗ることが本当に少なくなったためです。やむをえず乗るとしても、大抵は割引運賃で乗るので、マイルはつかないことが多いのです。

マイルがつきにくく、マイル利用座席数が少なく、マイルに期限がある、という状況では、ガルーダマイルで貯めても、ほとんど意味がないと感じました。

インドネシアへ渡航する際、その時期に応じて格安の便で行くことにしていますが、中華航空や大韓航空など、スカイチームの航空会社を使うこともあるので、スカイチームのマイレージカードを持っていたいとは思いますが、ガルーダマイルで貯めるメリットを感じられなくなりました。

そこで、色々探した末、デルタ航空のスカイマイルJCBテイクオフカードを入手することとしました。

このカードの特徴は年会費が1500円(初年度無料)と安く、マイルの期限がないことです。もちろん、最上位のアメックス・ゴールドにすれば、スカイマイルの「ゴールド・メダリオン」というステータスを自動的に手に入れられるというのは魅力的なのですが、26,000円という年会費の高さとそれに見合うだけの利用頻度はないと考えると、スカイマイルJCBテイクオフカードで十分、という判断になりました。

今回、申し込んでからカードが手元に来るまで約10日間でした。

ガルーダマイルにはまだマイルが多少残っていますが、今後、スカイチームの航空会社便を利用する際には、スカイマイルで少しずつ貯めていきたいと思います。

六本木で見つけた一味違う散歩道

今日は午後、六本木の某所で民間企業の方と面会した後、夜の飲み会まで時間があったので、赤坂アークヒルズ付近から国立新美術館まで歩いてみました。

渋谷へ向かう大通りである六本木通りをあえて通らず、一本、中へ入った細い道を歩いていきました。首都高が通って日陰の多い六本木通りとは違って、この細い一本道には日が当たり、しかも車が通らない、歩きやすい道でした。

永昌寺の前を過ぎて妙像寺の角を右へ曲がり、少し坂を上り、突き当たりを左へ曲がって、高級マンションを見ながらすぐに右へ曲がると、檜町公園に出ます。檜町公園では、親子連れが楽しそうに過ごしていました。

檜町公園には「富士山」もありました。

檜町公園からそれとつながったミッドタウンガーデンの前を通り、ふと振り返ると、つぼみが膨らみ始めた桜の木の向こうに、東京タワーが見えました。

ミッドタウンの西側へ出て、右へ曲がってしばらく外苑東通りを歩き、乃木坂郵便局の次の角を斜めに左へ入ります。この通りは高級マンションが多く、私道なので、車輌の通行は制限されているのですが、歩くのにはちょうどいい感じの気持ちのよい道です。

でも、前を見ると行き止まり。その行き止まりの先に、歩行者と自転車のみが通れる通路があり、その脇に丸い筒状・チューブ状の道路のようなものが。

そのまま進んでいくと、眼下に大通りが見え、階段を下りていくとすぐに乃木坂駅。

さらに100メートルほど進んで、国立新美術館に着きました。ここまでで、赤坂アークヒルズ付近から20分ほどでした。
入口から入ると、木々に赤い水玉模様の布が巻かれていました。すでに、草間彌生展の世界が始まっていました。

国立新美術館の斬新な建物。私も含めて、写真を撮る人がたくさんいました。

当日入場券を求めようとする人々がずらっと並んでいて(真ん中の木の後ろが入場券売場)、ちょっと萎えましたが、並んだら意外に早く入場券を買えました。

今回観たのは、草間彌生展ではなくミュシャ展のほうです。けっこうな数の人がいましたが、「スラブ叙事詩」は大作で絵が大きいので、じっくり見ることができました。ミュシャの奥深さを感じることができる展覧会でした。

会場を歩き回ってちょっとくたびれ、急激に空腹感を覚えたので、夜に宴会があるにもかかわらず、夕方に、有楽町の慶楽で牡蠣油牛肉炒麺を食べてしまいました(吉行淳之介の定番だったとか)。ここの炒麺はいつ食べても美味いです。

お腹もちょうど良くなり、夜の宴会に出席しましたが、午後の六本木の一味違う散歩道の面白さに比べれば、刺激は少なく感じられてしまいました。幹事さん、ごめんなさい。

聞き書き甲子園イベントでの出会い

昨日と今日は、東京大学弥生講堂で開催された「聞き書き甲子園15周年記念イベント」に出席しました。聞き書き甲子園については、以下のページをご参照ください。

 聞き書き甲子園

聞き書き甲子園を簡単に説明すると、聞き書きという手法を学んだ高校生が毎年100名、夏休みに森や川や海の名人に会いに行き、名人から聞き書きをし、それをテープ起こしして文章化し、名人の一人称の文章にまとめて作品に仕上げる、という事業です。

毎年3月に、名人を招いて、その作品の発表会を行うのですが、今年は15周年ということもあり、これまでの15年の軌跡を振り返り、新たな聞き書きの可能性を展望するための記念イベントが2日間行われました。

私はかなり初期の頃からこの聞き書き甲子園に興味を持ち、事業を運営するNPO法人共存の森ネットワークの会員にもなっています。また、インドネシアでの高校生を対象とする聞き書き甲子園インドネシア版の準備段階で間接的に少しお手伝いもしました。

聞き書きの効能については、また別途、論じてみたいと思いますが、森や川や海の名人の代々受け継いできた技や心を敬い、それを次世代へ受け継ぐ関係性を改めて認識する契機となるものだと思います。ただし、聞き書きが地域おこしの特効薬になるかというと、そうではなく、地域おこしを促していくもっと底流にある何かを掘り起こす役割を果たすような気がします。

今日も、幾つかの出会いがありました。このイベントで、前々からお会いしたいと願ってきたK先生とようやくお会いできました。大学ゼミの大先輩であり、敬愛する宮本常一氏に直接師事されたK先生との出会いは個人的にとても嬉しく、至福以外の何物でもありませんでした。立ち話で色々とお話することができ、話をすればするほど、もっとゆっくりお話をうかがいたくなりました。

K先生のほか、K氏との出会いも嬉しいものでした。聞き書きやNPO活動に関する共通の友人の名前が何人か挙がり、よそ者が地域づくりに関わる際の弊害などについて話が盛り上がりました。K氏からも色々と学びたいと思いました。

昨日も今日も暖かく穏やかな1日だったので、東京大学弥生講堂まで自転車で往復しました。イベントも終わって、主催者のNPO法人共存の森ネットワークの皆さんにお礼の挨拶をして、自転車に乗って、東大前の横断歩道を自転車で渡ったとき・・・。

その横断歩道に立っていたマスクをかけた女性を目が合いました。ええ〜っ!

15年前、東京外大の非常勤で「インドネシア経済論」を教えたときの教え子でした。彼女もびっくりしていました。早速、近くの喫茶店で小一時間、色々な話をしました。フェイスブックではつながっていましたが、どうしているかなあと思っていた教え子だったので、とても懐かしく、とても嬉しいひと時を過ごせました。

今日も、素晴らしい出会いに感謝。

春の訪れをいつの日か分かち合いたい

春を感じさせる穏やかな一日でした。午後のイベントへ出掛ける前に、自宅の庭で春を見つけました。

福寿草やモクレンが咲いていました。

温かな日差しに照らされながら、花が可憐に咲いていました。

こうして、平和に春の訪れを感じることができる日常の何気ない幸せを、今日は改めて感じなければならないことになりました。

午後9時から放映されたNHKスペシャル「シリア 絶望の空の下で 閉ざされた街 最後の病院」。反アサド勢力の最後の砦とされたアレッポ東部に最後まで残った人々と、死傷者を受け入れなければならない、最後まで残った病院・クドゥス病院の、凄まじい状況を市民のカメラ映像で追った、見るのが辛くなる番組でした。

一言で言うならば、地獄。目の前で次々と人々が亡くなっていく。医師や看護士の能力を超える数の人々が運び込まれ、生存可能性の高い人々を優先せざるを得ない、助けようにも助けられない、そんな現実が次々に映し出されていきます。

アレッポを制圧するアサド政権からは反政府のレッテルを貼られた人々。でも、もはやアサド打倒のために最後まで戦うような状況にはなく、かといって、投降しても命の保証があるとは思えないほどの不信感のなか、次の瞬間での死を意識しながら生きる人々の姿には、今の瞬間瞬間を生きるしかない、究極の状況が映し出されていました。

絶望しかない世界。でも、絶望に打ちひしがれている暇すらないのでした。そして、医師や大人たちがわずかな希望を託せるのは子供たちしかなく、それが子供たちを助けようとする尋常ではないエネルギーになっているかのようでした。

何が何でも生き延びるためには、どんな酷い権力者であっても、従順で馬鹿なふりをして権力者へ尻尾を振らなければならないと思って、さっさと降伏し、投降するしかない、そういう選択をしてしまうだろうし、その選択を後世で「仕方なかった」と納得しながら生きていくしかない、という面はあるかもしれません。

安全で安心して暮らせる状態にある後世の人々が、そうした行為を批判し、愚弄したとしても、そうして自分を偽ってでも生き延びた人々は、それを甘んじて受けざるをえないでしょう。きっと、日本もまた、そうして生きてきた人々が少なくなかったはずです。

アレッポのクドゥス病院の人々は、たとえ反アサドの活動家でなかったとしても、様々な理由で、そこから脱出できなかった人々も少なくなかったかもしれません。そういう人も含めて、アサド政権から反政府のレッテルを貼られたのでしょう。

テロリストのように、他人の生きる権利を一方的に踏みにじる人でなければ、その人の生きる権利は何としてでも尊重されなければならないはずです。クドゥス病院の人々は、少なくとも人間の命をできる限り救おうと懸命だったのに、彼らを「反政府=テロリスト」と一方的に決めつけて爆撃するのは、主義主張やイデオロギーを超えて、犯罪以外の何物でもない、ということは明確にしておかなければならないでしょう。

そのような状況を、国際社会は見て見ぬ振りをしてきたことを、彼らは糾弾しています。私もその国際社会の一部であり、個人として深く反省しなければなりません。しかしながら、国際社会がその現実を見たとして、祈る以外に、何が一体できたのか、という気持ちもあります。それでも、それを見てしまった者は、少なくともその情報を広めるなど、何かをしなければならなかったのでしょう。

このNHKスペシャルを観た後では、庭の福寿草やモクレンに春の訪れを感じていた自分の呑気さをちょっと後ろめたく感じてしまいます。

でも、そう感じられる自分の今の瞬間瞬間に感謝しつつ、不躾かもしれませんが、アレッポの人々と春の訪れをいつの日か分かち合いたい、という気持ちが不意に湧き上がってきました。きっと、それがあって始めて、自分が何かをしていけるのではないかと感じます。実際に何ができるのかはまだわからないのですが・・・。

帰国した夜の素敵な出会い

帰国した3月14日の夜、友人の紹介でとても素敵なご夫妻と新宿でお会いし、4人で美味しいタイ料理を食べました。

このご夫妻は建築家で、友人は、このご夫妻が中心になって催している街歩きの会で親しくなったということです。建築家の目から見ると、東京の街がどのように見えるのか、個人的にはとても興味があるので、そのうち、私も会に参加していたいと思います。
このご夫妻と色々な話をしました。私は、彼らが家を建てる技巧的な面を強調する、家を建てるまでが仕事と割り切るタイプの建築家かもしれないと警戒していました。依頼主の希望にそうというそぶりを見せつつも、結局は自分の好きなように建て、かなりの報酬を要求するタイプではないか、と勝手に妄想していました。
実際、ハウスメーカーが家を建てるのと、建築家が建てるのとの差がどこにあるのか、本当の部分はよく分かっていないのです。でも、このご夫妻とお話ししているうちに、なんとなくわかってきたような気がしました。
話をしているうちに、ご夫妻も私をかなり警戒されていたことに気づきました。最近の客は、コストの話ばかりで、できるだけ安くアパートを建てて、どれだけ効率的に儲けられるか、そんなことばかりを気にするタイプが多いからだそうです。
依頼主と建築家が同じ方向を向いていれば、互いに信頼することができ、利益や儲けの話を超えた部分で共感しあえる、そんな風に思いました。
私が口にした「街並が崩れていく」という言葉にお二人は強く反応し、私はお二人が言った「そこに住まう人の生活やこれまでの営みを大切にするため、依頼主の内面に深く入っていかなければならない」という言葉にうなづきました。
全く違う分野どうしなので、こんな機会でもなければ、おそらく互いに会うこともないでしょう。でも、友人のおかげで、本当に素敵な出会いの夜となりました。私自身も、そんなつなぎ役をもっともっと果たしていきたいと思いました。

震災6年目をマカッサルで迎えた意味

東日本大震災から6年の今日を、インドネシア・マカッサルで迎えました。

日本時間の14時46分は中インドネシア時間の13時46分、マカッサルの大好きなシーフードレストランNelayanで昼食を摂っていました。

時間を気にしながら、Ikan Kudu-Kudu(ハコフグ)の白身の唐揚げをつまんだ手を拭きながら、静かに黙祷しました。「え、ごちそうさまなのー?」とびっくりした2人の友人も、すぐに気がつき、続きました。

6年前、東京で迎えた強烈な地震。そのすぐ後の原発事故の可能性を感じ、日本は終わる、この世が終わる、と本気で思ったあの日。今でこそ、その反応は過敏だったと言わざるを得ず、苦笑してしまうのですが、福島の実家の母や弟たちも含め、家族みんなを連れて、日本を脱出しなければ、と思ったものでした。

その脱出先として想定したのが、今滞在しているマカッサルです。ここにはたくさんの友人・知人がいる、我々家族のために長年働いてくれた家族同様の使用人がいる、住む場所も容易に確保できる。自分の故郷のような場所だから、いや故郷以上の場所だから、と思うからでした。

いざとなった時に、この地球上で自分を受け入れてくれる、自国以外の場所があるという幸運を確信していた自分がそこにいました。

結局、日本を脱出することはなかったのですが、震災6年目の今日、マカッサルとの結びつきを改めて強く感じる出来事がありました。

今回の用務の中で、物件探しがあったのですが、今日訪ねた物件のオーナーが、1996年に私がマカッサルでJICA専門家として業務を開始した際の最初のアシスタントMさんだったということが判明しました。紹介して案内してくれたのは彼女の姪だったのです。

姪は早速、叔母さんである私の元初代アシスタントへ電話をかけ、再会を祝しました。電話口の彼女の声が昔と全く変わっていなかったのにはびっくりしました。Mさんは、1年ちょっと勤めて、諸般の事情により退職してしまったのでした。それ以来、消息は不明で、今回、20年ぶりにコンタクトしたのでした。

また、別のオーナーは、よく存じている大学の先生の教え子でした。彼との共通の知り合いの名前もボンボン飛び出します。

何といったらいいのでしょうか。こんなことが起こってしまうマカッサルは、自分にとってよその町ではない、怖いくらいに自分にマカッサルが絡みついてくるかのようです。それは、生まれ故郷の福島市とはまた違った意味で、自分の人生にとって不可欠な場所なのだという感慨を強くしました。

今回一緒に動いた友人2人は、違う物件オーナーに会うたびに、また私のコネクション再確認が始まってしまうのではないか、時間がなくなる、と戦々恐々の様子で、申し訳ないことをしてしまいましたが、やめられないのです。

福島とマカッサル。東京とジャカルタ。自分にとっての福島=東京の関係とマカッサル=ジャカルタの関係との類似性を感じます。この関係性こそが、これからの自分のローカルとローカルとをつなぐ立ち位置の基本となる気がしています。

そう、日本では福島へ、インドネシアではマカッサルへ。自分の今後の活動の第1の拠り所としていきます。4月、福島市で始めます。

「結詞」が急に頭の中に浮かんで

なぜか、急に頭の中に、井上陽水の「結詞」という曲が浮かんできて、リフレインしています。

アルバム「招待状のないショー」の最後の曲ですが、このアルバムには、同じ歌詞の「枕詞」という曲も収録されています。でも、頭の中で鳴っているメロディーは、「結詞」のほうです。

たしか、この曲を聴いてジーンときたのは中学時代だったような気がします。

すると、続いて、吉田拓郎やかぐや姫やユーミンの曲が次々に頭の中に現れて、一気に、福島市で過ごした中学時代、高校時代のことを思い出し始めてしまいました。
高校時代、友人と一緒に、福島駅から電車に乗って、郡山市の開成山公園へ行き、かぐや姫の再結成コンサートを見に行きました。ライブの臨場感に圧倒されたものの、その後、ライブに行くことはなかったです。あのとき、一緒に行った友人は、今では、福島県庁の管理職職員として活躍しています。
大学に入ってからは、いわゆる当時ニューミュージックと言われた、フォークをほとんど聴かなくなったのですが、なぜか最近、時々、無性に聴きたくなり、聴くと、その曲とともに福島市で暮らしていた二十歳前の自分のことを思い出すのです。
これって、もう、年寄りになってしまったということなのでしょうか。
そういえば、インドネシアのポピュラーソング歌手では、もう25年以上もRuth SahanayaやKLa Projectを聴いているのですが、その曲の一つ一つが当時のインドネシアでの生活の一コマと結びついて、ジーンと思い出されてきます。

通貨危機の頃のKLa Projectの曲は、今にして思えばびっくりするほど暗くシニカルで、当時の社会の絶望感をにじませていたのだなと思います。しかし、その後の彼らの曲が次第に明るさを取り戻していくなかに、インドネシア社会の空気が反映されているように感じていました。

かつて子ども時代を過ごした福島の家は、今ではもう跡形もなく残っていません。でも、井上陽水を聴いていた頃の自分とは、たとえば「結詞」とともに、自分の中で会えているような気がします。

あれから自分の何が変わらず、何が変わったのか。変わってはならないものは変わらずにあるか。変わらなければならなかったのに変われなかったものは何か。

福島と向き合うときに、それは「結詞」を聴いていた頃の福島で暮らした自分とも向き合うことでもあるのだ、ということを改めて思っています。

確定申告とバッテリー交換

今日は午前中、税務署へ出向いて、確定申告を済ませてきました。

昨日のうちに書類を用意し、証票や領収証などを貼付し、必要書類を揃えて、確定申告会場へ。

最終日の15日までまだ日があるためでしょうか、20人ぐらいしか並んでおらず、10分も待たずに、係官のブースへ行けました。係官は書類を確かめると、控え書類に判を押して、あっけないぐらいすぐに提出は終了しました。

他の係官のブースを見ると、身分証明書の提示を求められていたり、マイナンバーの説明を受けていたり、なかなか一発で済む感じの人はいないようでした。でも、係員の対応はとても丁寧で、年配の方にも優しい声で根気よく説明していました。

今回の確定申告での還付金は、来月ぐらいに指定銀行口座へ振り込まれるようです。

研究所に勤めていた頃は、ピンとこなかった確定申告ですが、今は、パソコンソフトを使って、経費になりそうなものは全て打ち込み、収支を把握するのが普通になりました。まだまだシロウトですが、パソコンソフトのおかげで、青色申告で申告しています。

確定申告があっという間に済んだので、3年以上使っているiPhone 5sのバッテリー交換も済ませました。

かなり前からバッテリーの持ちが悪くなっていたのですが、今回調べてもらうと、やはり消耗していました。バッテリーの寿命は一般に2年だそうです。こちらも30分もかからずに、すぐに交換してもらえました。

愛機iPhone 5sの復活はやはり嬉しいものです。この愛機には、インドネシアのTelkomselのSIMが入っています。この携帯番号もすでに10年以上使っていて、LINEやWhatsAppにはこのインドネシアの番号を使っています。

確定申告にせよ、バッテリー交換にせよ、今日はやろうと思ったことが予想以上にスムーズに済んだ1日でした。

「福島は大丈夫」「福島は危ない」の福島とはどこか

あの日から間もなく6年。福島という地名は、原発事故で思いもかけず世界中に知られるようになりました。そして今でも、「福島は大丈夫」「福島は危ない」という、両論が飽きもせずに言論界を賑わせています。

学生時代に地理学を少しかじった自分から見ると、「福島は大丈夫だ」の福島、「福島は危ない」の福島、それがどこかという話があやふやなまま話がふわふわと宙に浮いているような気がして、白か黒かの議論を相手にする気が失せてしまいます。

そこで述べられている福島とは、福島県のことでしょうか。福島市のことでしょうか。福島第一原発のことでしょうか。

広島や長崎がカタカナで表記されるように、福島もカタカナで表記されるのですが、広島や長崎が点であるのに対し、福島は点ではなく面である、という違いが明確にあります。福島は広がりを持った空間なのです。

もし、広島や長崎のように福島を点として捉えるならば、それは福島市のことを指すはずです。たしかに、原発事故の直後、南東から風に乗った放射性物質が福島市のある福島盆地にも流れてきて、その濃度が一時尋常ではない値にまで上昇しました。その後、時間が経つにつれて、放射性物質濃度は下がり、今、市民は普通の生活を営んでいます。

福島県は、日本の都道府県で北海道、岩手県に次いで3番目に面積の広い県です。よく知られるように、海岸沿いの浜通り、中央部の中通り、山沿いの会津地方の3つに大きく分かれます。そして、その3者の間の有機的なつながりは薄く、互いに別世界と認識していました。

中央部を走る奥羽山脈に遮られたためか、会津地方は放射性物質の影響を大きく受けませんでした。それでも、「福島」ということで、風評被害に苦しみ、観光客も大きく減少しました。

放射性物質という広がりを持ったものが流れた影響で、空間としての「福島」が汚染されたかのような印象ができてしまったのでしょう。しかし、その空間には「福島」と隣接するその他の場所を物理的に区別するものはありません。

福島という地名が様々に使われるようになった根本は、福島第一原発という命名にあったのかもしれません。なぜかここだけは、大熊原発とか双葉原発とか、原発の名前にその立地場所の地名を使わず、面を示す「福島」という名前を冠したのでした。

たしかに、原発の立地する双方地区は福島県の一部ではありますが、福島市とは60キロ以上離れており、福島市民が特別な感情を持つ場所ではありません。福島第一原発という命名が、福島という地名が様々に解釈される根本原因であるようにも思えます。

震災と原発事故が契機となって、今まで他人行儀だった浜通り、中通り、会津地方の間につながりが生まれてきた気配もあります。同じ福島県民としての意識が以前よりも強まったのだとすれば、それは、外部者によって「福島」の名の下にひとくくりにされ、風評被害や誹謗中傷さえ受けたという共通体験に基づくものなのかもしれません。

福島が大丈夫だという人は、浜通りや相双地方のミクロな地域の話を福島県全体の話で希釈して、大丈夫だと言っているのかもしれません。また、福島は危ないという人も、同じように、浜通りや相双地方のミクロな地域の話を福島県全体の話へ演繹して、福島県全体が危ないかのように煽っているのかもしれません。

外部者が自分の議論に都合のいいように、「福島」という地名が使われているのではないでしょうか。そこには、福島県内の様々な現場のミクロな地域の存在が無視されて、あたかも福島という共通空間があるかのように取り扱われている、という気がします。

福島が大丈夫か危ないか、といったあやふやでふわふわした話に、何か重要な意味があるのでしょうか。そのどちらかを議論することで、現場のミクロな地域で何がプラスになるのでしょうか。

そんな言葉遊びに付き合う必要はありません。それより大事なことは、大丈夫か危ないかを知りたければ、福島県のミクロな地域で、放射性物質がその地域のどこでどれだけの濃度があり、それが人間が生活していくうえで危険なのかどうか、といったことを具体的に知ることです。

人がそこに住み続けるかどうか、避難するかどうかは、それぞれの人々がそれぞれの判断と責任で決断していることであり、外部者がとやかく言うことではない。個人ではどう思ったとしても、そこの地元の個人が判断し決定したことを尊重するしかない、と思うのです。

それは、原発事故による避難がなくても、過疎に悩む村の人々が村の長い歴史に幕を閉じる決断をする、というような場面でも同じだと思います。

福島県を見ながらも、安易に「福島」という言葉を使わない。福島県の様々なミクロな地域の営みを、人々の活動を、しっかりと受け止め、そこにある人々の言葉をして語らしめる。すると、「福島」が何かとてつもなく特別で大変なものではない、普通の当たり前のローカルな場所であることに改めて気づくのではないでしょうか。

福島県、福島市という地名は使います。しかし、「福島は●●だ」という議論を目の前にしたとき、その福島とはどこのことなのか、を明確にするよう求めたいと思います。議論を進めたいのならば、それが相馬市のことなら相馬市に、相馬市小高のことなら小高に地名を変えて、具体的に話を進めたいものです。

明治神宮の芝生とポニー公園

午後、用事があって、妻と一緒に代々木の某所を訪れた後、久々に、北参道から明治神宮の広い芝生へ行ってみました。

それほど寒くない陽気の中、数は少ないものの、人々が思い思いに芝生でくつろいでいました。

スタスタと早歩きでやってきたジャージ姿の男性は、芝生に寝転んだかと思うと、いきなり足を曲げたり伸ばしたり、ストレッチを始め、終わるとまた、何事もなかったかのようにスタスタと去って行きました。

まだ枯れたままの芝生の白とも黄ともいえぬ淡い色合いと、薄いグレーの広い空を眺めながら、少しずつ冬が終わり始めている気配を感じました。

神宮本社にお参りせずに、そのまま参宮橋のほうへ抜けると、明治神宮の敷地を出たところに、代々木ポニー公園という場所がありました。小柄な馬と子供たちが触れ合える公園に、一緒に散歩していた一名が引き寄せられて行きました。

なぜか、カラスへの注意を喚起する張り紙も(下写真では左側)。

この代々木ポニー公園は、東京乗馬倶楽部に隣接した渋谷区の施設でした。小学生までの子どもが馬と楽しく過ごせる場所です。

東京での日常の何気ない散歩の一コマでした。

スラバヤ出張を終えて帰国へ

2月26日に始まった今回のスラバヤ出張ですが、あっという間に終わりを迎えました。

日本ではきっとひな祭りの今日、午前中、インドネシア全国食品飲料事業者連合(GAPMI)のアディ・ルクマン議長がワークショップ会場を訪問し、今回使った食品加工機械を見て回りました。

やはり、彼も油を使わないせんべい菓子の製造に興味がある様子で、とても興味深そうに見ていました。

あっという間に終わった感のある今回の出張でしたが、食品加工機械に命をかけている中小企業経営者の生きざまと熱意に改めて心を打たれました。85歳を超える彼が、機械の間を立ち回りながら、スタッフに指示を出し、機械を操作し、説明をする、そのバイタリティーをただただ感嘆しながら眺めていました。

そして、彼が最大限に私にも気を遣ってくださるのでした。本当に、こちらが恥ずかしく思うほど、気を遣ってくださるのです。そして、それに十分に応えられていないのではないかという気がずっとしていました。

この食品加工機械に対する東ジャワ州の関係者の関心は高く、たしかに、日本側とインドネシア側に両者のニーズにマッチした案件なのだと改めておもいました。

これから、スラバヤから飛行機に乗り、ジャカルタで乗り継いで、明日の朝、東京へ戻ります。その後、3月9〜14日にまたインドネシアです。こんどは、マカッサルです。

ワークショップで嬉しかったこと

今回の食品加工機械に関するワークショップ、昨日から2日間、別の参加者によるワークショップが行われました。

ワークショップで取り上げるのは、せんべい焼き機とエクストゥルーダーです。せんべい焼き機は、上板と下板の二つの分厚い鉄板で型を押し、熱を加えてせんべいにする機械です。

一方、エクストゥルーダーは、2本のスクリューを組み合わせながら徐々に外へ物体を押し出す装置で、水と熱の力でフワッとした物体ができ、それを外へ押し出します。押し出された物体を切り、味をつけ、さらに乾燥機で熱風乾燥すると、油を使わずに、揚げせんべいのような、パリッ、サクッとした食感の「せんべい」を作ることができます。

昨日は、主に、せんべい機の使い方を学び、今日はエクストゥルーダーについて学ぶという内容でした。でも今日、開始時間の午前9時に会場へ入ると、参加者が皆、機械の周りに見当たりません。まだ来てないのかな、インドネシアではよくあることだし、と思っていたら、それは間違っていました。彼らはどこにいたのでしょうか。

彼らは全員、準備室に入っていました。

準備室は、実際にワークショップの機械で使う原材料を用意する場所で、昨日は、せんべいの素になるタネのレシピを丁寧に教え、そのタネを使ってせんべい機でせんべいを作ってみたのでした。

でも、彼らは昨日の復習をしていたのではありませんでした。昨日学んだことをもとに、自分たちでレシピを考案していたのでした。チョコレートを使ってみたい、ココナッツミルクを入れたい、レモン汁を加えてみたい、と、自らも菓子を製造販売している彼らは、幾つかの独自のレシピを作り、それをせんべい機で試そうとしていました。

教えられたことはその通りする、しかし自分たちで新しいものを創る能力は乏しい。これは、インドネシア人の特質として、日系企業などでよく言われていることです。しかし、彼らは、どうしても自分たちのレシピを試したいのでした。

我々のチームリーダーは、「こんなに積極的に自分たちで何かやりたいと言ってやってしまうワークショップ参加者は初めてだ」と目を丸くしながら、とても嬉しそうでした。

実際、彼らのレシピで作ったせんべいは、より香ばしく、レモンの微妙な酸っぱさが隠し味になっていて、とても美味しいものでした。自分たちのレシピを試し、我々のチームリーダーからその成果に二重丸をもらった彼らは、本当に嬉しそうでした。

ワークショップが終わって、反省会の中で、参加者のリーダー格の女性が質問しました。せんべい1枚の重量からすると、せんべい機で1日に何キログラムのせんべいを作れるか、エクストゥルーダーを使った場合と彼らの手作業とを比較した際の生産性がどれぐらい異なるか、等など、細かい技術的な質問をいろいろしました。

チームはその一つ一つに丁寧に答えていました。すると、一連の質疑応答の後、質問した参加者が謝り始めました。こんなに細かいことをいろいろ聞いて失礼ではなかったか、と。我々からは、そんなことは全く失礼ではなく、逆に、意味のない美辞麗句をもらうよりもずっと嬉しいし、とても良かったと答えました。

私は、相手が誰であろうと、聞きたいと思ったことは同じように聞いてほしい、と付け加えました。そんな質問を正々堂々とする参加者がいたことが、私もとても嬉しかったからです。

ワークショップの開会式で、参加者の自己紹介と自分の製品の説明をし合う、ということも、会場の飲食品・包装センターが取り入れていきました。

また、エクトゥルーダーのような価格の高い機械を中小企業がどうやって使えるようにするか、という議論も行われました。価格が高いけれど使ってみたい、なぜなら生産性が大幅に向上するからだ、原材料がたくさんあるのでもっと生産量を増やしたい、ではどうしたら、エクストゥルーダーをみんなで使えるか。

そんな議論をワークショップの最後のほうでしていると、「皆んなで協同組合を作ろう」「協同組合の組合員で資金を出し合い、銀行からの融資を受けたらエクストゥルーダーを買えるのではないか」「みんなが平等に機械を使えるように順番をはっきりさせる」、などなどの意見や考えが表明され、いつの間にか、参加者全員が等しくエクストゥルーダーを使ってみたいという雰囲気になっていきました。

もしかすると、高価な機械をいくつかの中小企業がシェアしながら活用する、というモデルは、彼らインドネシア人の中から現れてくるかもしれない、と思いました。もしそんなモデルがこの東ジャワから生まれたら、もちろん世界へ貢献することになり、シェアリング・エコノミーの新しい一つの形態となるかもしれない。そんなことまで、考えてしまうような、参加者の熱気に煽られていました。

そんな風に思われる、今回の機械たちとそれを製造した大阪の中小企業は、きっと幸せ者なのだと思いました。

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