アチェへの出張(2019.1.13-1.19)

2019年1月13〜19日、JICA草の根事業「越知町の知見を活かした中アチェ県の柑橘資源6次産業化プロジェクト」のキックオフ・ミーティングのため、メダン、タケゴン、バンダアチェを訪問しました。

キックオフ・ミーティングは1月16日にタケゴンで開催され、中アチェ県知事自身が議長役を務めました。また、越知町での3年間の研修プログラムに参加する3人の研修員候補者にも面会しました。

研修を通じて、彼らが柑橘資源を活用するビジネス指導者になり、アチェの柑橘農家の能力向上に寄与することを願っています。

【インドネシア政経ウォッチ】第33回 アチェの州旗・州章問題(2013年 4月 4日)

アチェ州は3月25日、カヌン(州令)2013年第3号により、州旗と州章を1976~2005年までかつての反政府組織・独立アチェ運動(GAM)が使ってきた旗と記章にすることを正式に定め、すべての行政機関で即時使用を義務づけた。GAMの旗と記章は、いわば、インドネシアと闘ってきたシンボルでもある。州政府は、アチェ行政に関する法律2006年第11号で「国旗以外に、アチェ州は独自の州旗を定めることができる」と規定されている点を挙げ、問題ないと認識している。

アチェは、政府側とGAM側が2005年にヘルシンキ和平協定を締結して戦争状態が終結し、アチェ特別自治の下、地方政党の結成など他州にはない独自策が認められた。その後の総選挙や州知事選挙では、GAM直系のアチェ党が勝利した。現在の正副州知事はいずれも元GAM高官・司令官であり、アチェ州政府は「元GAMの政府」といってよい。

2005年のヘルシンキ和平をめぐっては、インドネシア政府はGAMの壊滅が困難と認識し、GAMを体制内に取り込んで弱体化させることを目指した。他方、GAMはインドネシア政府に属しながらも、州政府を支配することで、実質的にGAMによる政府を実現させた。今回の州旗と州章の制定はその集大成の意味を持つ。

ただし、インドネシア政府のGAMへのアレルギー意識はまだ残っているようだ。内務省は、アチェの州旗と州章を定めたカヌンが上位法に照らして適正かどうか審査すると表明した。これを受けて、アチェ州政府は州旗と州章の即時使用を延期した。

しかし、実はアチェ内部で州旗と州章への反対運動がある。たとえば、コーヒーで有名な山岳部ガヨ族の代表は、GAMはアチェの一部種族しか代表していないと批判する。これが昔からのアチェ海岸部と山岳部の対立意識の反映なのか、あるいは政治的な動きなのか、注目される。

 

http://news.nna.jp/cgi-bin/asia/asia_kijidsp.cgi?id=20130404idr023A

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9年前、スマトラ沖大震災

9年前の2004年12月26日、スマトラ島北部、アチェ沖を震源とする大地震が起こり、大津波などで20万人近くの方々が犠牲となった。まだ覚えているだろうか。

当時、日本のメディアにはインドネシアの情報はほとんど伝わっておらず、タイやスリランカでの被害の様子が報じられていた。インドネシアのとくにアチェの被災状況が報じられたのは、ほとんど年が明けてからだったように思う。

アチェの現地から送られてきた写真をみた。津波がバンダアチェの町を襲う写真、助けを求める人々の写真、そして道路沿いのおびただしい数の遺体の写真、その遺体を埋葬している写真・・・。直視することができない、しかし直視しなければならない。嘔吐感すら感じながら、必死でその画像を記憶に留めようと必死だった。

自分が長く関わってきたインドネシアの悲劇に、一体何ができるのだろうか。悩みに悩んで、信頼できる知人らとともに、アチェの新聞社と一緒に、子供たちが未来へ向けて進み出せるためのささやかな支援を行った。それで十分だったとは決して思えず、その後もずっと気にし続けていた。実際には体験していないのに、時折、あの遺体の画像が夢の中に出てきたり、突然、頭の中に浮かんできたりした。

震災当時のアチェは、インドネシア国軍とアチェ独立派との戦いが続いていた。しかし、その震災で、インドネシア政府は全世界から支援金・物資を受け入れ、それを現場へ投下することでアチェの人々の人心をつかんでいった。ジャワ島などからもたくさんのボランティアがアチェへ入り、救援・復興作業が進められていった。

他方、この点で、アチェ独立派は非力だった。結果的に、震災は、アチェ独立派を弱体化させ、インドネシア政府が支援・復興をリードしながら、アチェ紛争の解決を有利に運び始めた。そして、インドネシア政府とアチェ独立派はヘルシンキで和平協定を締結し、アチェに平和が訪れることとなった。結果的に、大震災による膨大な数の方々の犠牲の上に、アチェは平和を取り戻すことになったとも言える。

2010年10月、遅きに失した感はあったが、震災後としては初めて、アチェを訪問した。津波にも耐えたモクマオウの木は立派なままだった。打ち上げられた大型船や家の屋根の上に乗り上げた船、残された建物に残された生存を示す言葉、それらが震災遺構として残されていた。観光地になっていた。会う方々は皆、笑顔で接してくれた。 そして、彼らのほとんどが身内に犠牲者を抱えていた。これからのアチェをこうしていきたい、という強い思いが伝わってくる出会いだった。

その2年半後に、「アチェで起きたこと」が日本で起こるとは・・・。災害対策が世界で最も進んでいるといわれ、アチェをはじめとするインドネシアに多大な支援を行った日本で、よもやアチェと同じ事が起こるとは・・・。

大船渡や気仙沼の町を津波が襲う映像は、まさに、バンダアチェの町を津波が襲った映像と酷似していた。東日本大震災で亡くなった方は約2万人、たとえスマトラ沖大震災の10分の1だとしても、その悲劇の程度が緩和されるわけではない。

アチェの被災者に対しては、1995年1月に大地震に見舞われた神戸の人々が様々な支援を行っていた。そして今度は、東日本大震災に見舞われた東北地方に対して、神戸の方々だけでなく、アチェの方々も支援の手を差しのべた。災害は、その被災地同士を「同志」としてつなげたのである。東北からの人々も今、アチェの地を訪れており、アチェの人々の9年前に寄り添おうとしている。

同じ被災国として、インドネシアと日本はともに世界へ向けて発信しなければならない何かを共有している。そして、世界の災害対策をともにリードしていくべき役割を担っていると考える。 それは単なる科学的な災害対策に留まらず、人々の経験や思いを共有し、未来を担う次の世代へ、そしてさらに次の世代へ、語り継ぎ、受け継いでいくことだと思う。

9年前、アチェをはじめとするスマトラ沖大震災のことを忘れてはならない。8年前の神戸、2年9ヵ月前の東日本大震災のことを忘れてはならない。これからの我々が、そして次の世代・世代が築いていく未来のために。