【活動報告】アジアNGOリーダー塾で講義(2015年10月11日)

ずいぶんと長い間、ブログの更新を怠っておりました。もちろん、生きております。この間にも、ボチボチとですが、活動しておりました。

最近は、インドネシアに関する活動もさることながら、日本やアジアの地域づくりに関わる活動も増やしています。

9月からは、発展途上国のコミュニティ・ビジネスに関する研究会にもお邪魔するようになり、早速、9月14日に「一村一品運動の展開とコミュニティ・ビジネス」という題で発表させていただきました。発表では、「コミュニティ」と「ビジネス」、「ものづくり」と「地域づくり」という観点から、日本やインドネシアでの事例や私自身の経験を交えて、お話をしました。ご興味のある方は、その時に提出したA4で1枚のレジュメをご参照ください(リンクはこちらから)。

この研究会の縁で、アジア・コミュニティ・センター21(ACC21)からお話があり、10月11日、アジアNGOリーダー塾で「途上国の地域づくりとコミュニティ・ビジネス~国際協力NGOの関わり方~」と題して、ちょっとした講義をさせていただきました。塾生の皆さんは意欲的な方ばかりで、ミャンマーからSkypeで参加していただいた方もおりました。

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このときの様子がウェブ上で公開されています。以下のリンクをご参照ください。

開催報告

報告の中でも触れられていますが、日本でもインドネシアでも、おそらくその他世界中でも、コミュニティや地域の抱える根本問題は同じであろうという確信を持っています。それは、「我々は一体何者であるか。我々のいる場所はどのような意味を持つ場所なのか」というアイデンティティの危機ではないかと思うのです。

言い換えると、自分の居場所の問題。自分の居場所、安心できる場所、自分であることを確認できる場所がなくなるということではないか、と。その場所にずっと刻まれてきた自然と人間の営み、それによって育まれてきた様々な慣習や広い意味での文化、それらを含む関係性の総体としての人々の暮らし。

それが色々な意味で壊れていくのではないか、という危機感が、ところ変われば品変わり、程度の差こそあれ、世界中で起こっているのではないか。いや、それは歴史の中でずっと起こってきたことかもしれないが、その危機感がますます強くなっていく世の中なのではないか、と。

そんな中で、もう一度、自分の足元を見つめなおし、外にないものをねだるのではなく、自分にあるもの、自分にしかないものを見つけ出そうとする。そのうえで色々な環境や人々との交わりの中で、新たな何かを作り出していく。そんな自分事として動くプロセスが増えていくことで、世の中が徐々に少しずつ変化していくのではないか。そんなことを思うのです。

ちょっと話はずれるかもしれませんが、パリでのテロ事件を見ながら、アイデンティティ危機の深化を感じるとともに、自分と同じ仲間を増やすのではなく、自分と違うことを互いに認めたうえでそれを尊重しあえる仲間、を増やしていくことが求められていると感じました。そのためには、そうした人々やコミュニティをつなげていく役割が実はとても重要なのだということに改めて気づいたのです。

 

【スラバヤの風-03】村へ戻る運動(GKD)

東ジャワ州政府は、1990年代に大分県の一村一品運動を取り入れようとしていた。インドネシアで初めてそれに注目したのは西スマトラ州で、1993年に大分県を訪問し、導入を試みていた。東ジャワ州は1996年11月、大分県の平松守彦県知事(当時)をスラバヤへ招いて一村一品運動の紹介セミナーを開催した。それをきっかけとして、当時のバソフィ・スディルマン州知事が『村へ戻る運動』(Gerakan Kembali ke Desa: GKD)を提唱したのである。

GKDは、都市に比べて発展の遅れた農村を開発政策の重点とし、開発に必要な技術、人材、資金を農漁村の外から注入して開発のスピードを加速化させようとした。その際に、単に農業生産を上げるだけでなく、加工して付加価値をつける方向性が強調され、そこに、「グローバルに考えローカルに行動」「自立・創造性」「人材育成」という一村一品運動のエッセンスを入れようとした。

当時はまだスハルト政権下で、政府主導の開発政策が主流だった。バソフィ州知事が軍人出身だからかもしれないが、GKDは、1970年代に全国で実施された『軍人が村へ』(ABRI Masuk Desa: AMD)、『新聞が村へ』(Koran Masuk Desa: KMD)という軍の社会政治機能に基づく政策と発想が基本的に同じだった。

すなわち、「外部から何かを入れて遅れた農村を開発する」という発想であり、そこには、一村一品運動の最も重要な根幹である「農村の自立」という姿勢は希薄だった。外部から入れた技術・人材・資金は外部の論理で動き、農村は外部者がやりやすいように協力してあげるという形になる。こうした話は東ジャワ州に特有なのではなく、程度の差こそあれ、全国どこでも起こっていた。

結局、バソフィ州知事の退任とともにGKDは廃れ、州政府が一村一品運動を東ジャワ州に定着させることは叶わなかった。1998年にスハルト政権が崩壊して地方分権化の時代になると、GKDは旧来型の開発政策として厳しい批判を受けた。しかし、今に至ってもまだ、州政府からは、GKDに代わる有効な開発政策が提示されていない。

だが、GKDは「種まき」の役割を果たしていた。GKDをきっかけに農漁村が自らの足元を見つめ直し、もっと儲かる事業を志向し始めたのである。それが農水産物加工だった。人口が多く、他人や近隣農漁村の動きを気にしやすい東ジャワ州では、誰かが成功するとそれを真似する人々が続出し、必ず他とは違うモノを作る人が出てくる。GKDが失敗したからこそ、人々は政府に頼らず、儲かる食品加工ビジネスを自ら求めていったのである。

【スラバヤの風-02】食品加工業の一大中心地

東ジャワ州政府が経済開発で最も重視する産業は、食品産業である。東ジャワ州ではもともと、シドアルジョ周辺のエビ養殖・エビせんべい(クルプック・ウダン)製造をはじめ、様々な農水産加工品が製造されてきており、インドネシアでも有数の食品産業の中心地となっている。昨今では、南東のジェンブル付近を中心とした日本向け枝豆の生産や、マラン周辺での乳牛飼育・牛乳生産など、食品産業のラインナップがより多彩になってきた。

東ジャワ州が食品産業の中心地となっているのは、早くからサトウキビ栽培・製糖、エビ養殖・加工といった食品加工業の歴史を持っているためである。ただし、多くの場合、これら食品加工に携わる企業は中小企業であるため、ジャカルタから見るとあまり目立たない。私自身も、東ジャワ州に来て、加工食品の種類の多さを改めて感じるほどである。

以前、南スラウェシ州マカッサルを拠点に活動していたとき、インドネシア東部のスーパーや商店に並んでいる加工食品の製造元をよく見て回った。ジャカルタ周辺の大企業製の食品に混じって、スラバヤやマランなど東ジャワ州製の食品が意外に多く流通していることが分かった。とりわけ、ピーナッツ、せんべい、クッキーなどの地場製のスナック菓子では、マランの企業製のものが目立った。サンバルなどの調味料でも、スラバヤ製の製品が店頭に並んでいた。

加えて、同じ製品でも味のバラエティがどんどん増えている。大豆発酵食品のテンペを油で揚げたテンペせんべいには、チーズ味、エビ味、甘辛味などのほか、ピザ味、海藻味、スパゲッティ味などというものまである。あいにく、すべての味を試してはいないのだが、やはりスパゲッティ味には興味がある。東ジャワ州では、こうした新しいものへのチャレンジ精神をよく見かける。

以前から、有名な日本の食品会社がエビフライなどの冷凍食品を委託加工させていたのも東ジャワである。その経験が生かされて、シーフードを原材料とした冷凍食品を製造するインドネシア企業もある。

東ジャワ州は、3,000万人以上の人口を養うための農水産品生産を基盤とし、そのうえに食品加工業が存在する。各県・各企業間に競争意識が強く、新製品開発への意欲もそれなりに高い。こうした食品加工への意識を高めるきっかけとなったのが、実は、20年以上前に東ジャワ州政府が試みた日本・大分県の一村一品運動の導入だったのである。