普通の人ジョコウィは只者ではない

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選挙戦の時の闘争民主党のジョコウィを使ったポスター。闘争民主党のお陰でジョコウィが当選したのではなく、ジョコウィのお陰で闘争民主党は票を集められた、という面が強い気がする。

10月20日、ジョコ・ウィドド(ジョコウィ)新大統領とユスフ・カラ新副大統領が就任した。

就任式でのジョコウィの簡潔な就任演説、就任祝賀パレードで埋め尽くされた人々から次々と揉みくちゃにされている笑顔のジョコウィ、カラ。

警備という言葉がどこか飛んでしまいそうな、権力者と庶民の近さである。

大統領はもはや雲の上の人ではない、自分たちと同じ人間だという感覚。大統領になるなんて思いもしなかったジョコウィには、自分も沿道の人々と同じだという思いがある。

大統領は仕事。大統領は成り行きでなってしまったもの。自分は自分。

多くの政治家が権力者になりたがるのとは対照的な、覚めた自分を持っているジョコウィ。今日のそんな笑顔のジョコウィには、自分を選んでくれた国民に対する感謝の気持ちがあふれているように見えた。

これまでのインドネシアの支配体制では、権力者が王様のように振る舞いがちであった。地方首長選挙の弊害の一つは、当選した地方首長が家族を重用し、王国を作ってしまう傾向にあった。

 

ユドヨノ前大統領は、10年間でそれを露骨にできる立場にあったにもかかわらず、自ら率先して王国を作るところまでは行かなかった。ユドヨノもまた、権力欲をむき出しにするタイプではなかった。

その意味で、ユドヨノはジョコウィに近い。ユドヨノも、自分が普通の人間であることを自覚していたように思える。アニ夫人のインスティグラムの写真はとても微笑ましいものだ。

そう、10年前、ユドヨノがインドネシアで初めての公選大統領に就任するときも、決して偉そうに振る舞ってはいなかった。自分も普通の国民の一人という感覚を持ち合わせていたと思う。あのときも、人々は自分たちの目線で物事を捉えられる指導者を求めていたのだった。

しかし、政治家の多くは、まだまだ自分を特別視していた。選民意識が強かった。特権を持った自分たちがなんでも決められると錯覚した。政党は政治家個々人の思惑を実現する装置にとどまり、成熟するには至らなかった。ユドヨノはこれら幼稚な政党を、赤子をあやすように相手にしなければならなかった。

10年が過ぎ、国民は今も自分たちの目線で物事を捉えられる指導者を求めている。政治家は今も選民意識が強く、一般国民との距離は開いたままである。彼らは「国民の代表」という顔をしながら自分の利益の実現を欲している。

政治エリートが自らを変えていけるか。これがインドネシア政治の最大の課題である。

その意味でも、ジョコウィ=カラの祝賀パレードが映像として全国へ流れたインパクトは無視できない。なにせ、インドネシアでこんなことをした指導者は初めてであるし、世界的に見ても、警備上の問題などで、まずあり得ない出来事だったからである。

映像に映し出されたのは、「みんなのジョコウィ」だった。特定の政治勢力の専有物ではない、インドネシアのみんなのための大統領だった。

大統領就任を前に、ジョコウィは、大統領選挙で敗北し、リベンジに燃えていたはずのプラボウォの家へ誕生日のお祝いのために駆けつけ、双方が敬意を表した。大統領就任式のときには外国へ出かけている予定だったプラボウォは、急遽帰国し、就任式に出席。ジョコウィの就任演説でも再度プラボウォに敬意が表され、なかなか敗北を認められず、落とし所を探りあぐねていたプラボウォの矛を自ずと収めさせることができた。プラボウォは自分のプライドを傷つけられずに収められた。

このような、敵を自分の側へ取り込めるジョコウィの能力は、今後の政局運営との関係で、見過ごすことができない重要な能力である。プラボウォは、もうリベンジに精を尽くす必要はなくなった。

そしてジョコウィは、政党色のないプロフェッショナルな内閣を作ることを約束している。

反ジョコウィでリベンジに燃えているとされた議会での「紅白連合」は、ジョコウィが政党に縛られている限りにおいて、その存在意義がある。ジョコウィ政権が政党色を出さなければ、紅白連合は攻めるのが難しく、自ずとその意味を失っていくだろう。

実際、プラボウォに密着していたゴルカル党のアブリザル・バクリ党首は、ジョコウィの就任演説後、ゴルカル党がジョコウィ政権を支持する意向を示した。プラボウォが党首を務めるグリンドラ党でさえ、ジョコウィ支持を言い出すかもしれない。それは、ジョコウィが特定政党の意向に沿った政権を作らない考えだからである。

これまでのプロセスを見ると、ジョコウィは実に巧みに自分が動きやすい環境を作ってきている。議会の話が中心の間は、様子をうかがいながら、自分の所属する闘争民主党など、選挙戦のときの与党側を立てていた。しかし、闘争民主党が圧勝しなかったからこそ、ジョコウィが政党の縛りから外れる状況が現れた。

おそらく最初から、ジョコウィは内心、それを表には決して出さなかったが、与党だけで政権運営をするつもりなどなかった。政党を超越したプロフェッショナルによる政権運営を考えていた。それを出せるタイミングを上手く見計らいながら、大統領就任にこぎつけた。

さあ、いよいよ、ジョコウィが真骨頂を発揮できるときが来た。まずは、どんな布陣で内閣を組織するかが見ものである。新閣僚は、たとえ政党幹部であっても、幹部職からの離脱が条件である。もちろん、ジョコウィ自身も、闘争民主党の一般党員ではあるが、党のために動くという姿は見せないはずである。大統領となった今、もはやメガワティ党首の下僕とはならない。

普通の人であるジョコウィ新大統領。実は、なかなかの巧者である。決して侮れない。只者ではない。ユドヨノのときとは違って、政党は彼に相当振り回されるだろう。そして、鍛えられるであろう。そう望みたいところである。

 

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