【インドネシア政経ウォッチ】第149回 テロ対策の光と陰(2016年3月25日)

1月14日に首都ジャカルタの中心部でテロ事件が起こってから、2カ月余りが過ぎた。社会は平穏を取り戻したかに見えるが、その裏で、テロ対策警察特殊部隊(Densus 88)がテロリスト掃討作戦を強化している。

その標的の一つは、サントソ・グループである。サントソは、国内で唯一、過激派組織「イスラム国」(IS)に忠誠を誓う「東インドネシア・ムジャヒディン」という名の組織を率い、2012 年12 月から中スラウェシ州ポソ県の山岳地帯グヌン・ビルでゲリラ活動を行っている。

今年3月、警察は軍と合同で2,200人を投入し、サントソの逮捕を目的とした「ティノンバラ作戦」を実行した。この作戦で爆弾などの証拠品を押収したほか、中国籍のウィグル族の男性2名が射殺された。彼らは15年に合流したとみられ、ISへの共鳴の広範な国際化を示唆する。

世界で最大のイスラム人口を抱えるインドネシアはISを敵視し、テロリスト・ネットワーク細胞の摘発などの成果を上げてきた。Densus 88 の貢献度は極めて高い。しかし、その一方で、Densus 88 のテロ対策が行き過ぎであるとの批判も根強い。

3月8日、中ジャワ州クラトン県で、モスクで夕方 の礼拝をしていたシヨノ氏がDensus 88 に拘束された。 彼はテロ組織ジュマア・イスラミア(JI)のメンバ ーで、火器製造の役目を果たしたとの容疑だった。当初は従順だったが、その後、急に反抗したため、3月 11 日、Densus 88 のメンバーが正当防衛として彼を殺 害した。

シヨノ氏の容疑は検証されず、誤認だった可能性が あるとして、中ジャワ州の学生らが抗議行動を起こした。国家人権委員会や国会もシヨノ氏殺害事件に注目 し、Densus 88 による行き過ぎを非難するとともに、人権侵害の可能性を危惧する声明を発した。警察は、シヨノ氏の扱いに不備があった可能性を示唆しつつも、テロ容疑者に対する処置で人権侵害ではないとの立場 を示している。

Densus 88 を軸とするテロ対策は不可欠だが、一歩間違うと、それが逆にISへの共感を強めてしまう可能性もあることに留意する必要がある。

 

(2016年3月25日執筆)

 

【インドネシア政経ウォッチ】第145回 ジャカルタ・テロ事件の黒幕は誰か(2016年1月28日)

2016 年1月14日の白昼に首都ジャカルタの中心部、サリナデパートやスカイラインビル周辺で起きた爆弾テロ事件は、市民に大きな衝撃を与えた。

警察は当初、シリア在住で過激派組織「イスラム国」(IS)に合流したとされるバフルン・ナイム氏を首謀者と断定し、シリアからテロ資金が送金されていたとも発表した。東南アジアでは「ハティバ・ヌサンタラ」というISの下部組織が活動を始めており、ナイム氏はそのトップの座をフィリピン・グループと競っているという話だった。

ところが、その後の捜査で、ヌサカンバンガン刑務所に収監されているアマン・アブドゥルラフマン服役囚が事件の黒幕として浮上してきた。今回の実行犯の4人が昨年12 月にヌサカンバンガン刑務所でアマン服役囚と面会し、テロを実行すべき時期などに関して指示を仰いだというのである。

アマン服役囚は、2004 年にデポック市の自宅で爆弾事件を起こした後、10 年にアチェでの軍事訓練に関与した疑いで禁固9年の刑を受けた。彼自身が実際にテロを実行したことはないが、彼の教えを受けた信奉者が細胞ネットワークを作ってきた可能性がある。各地での自爆テロ事件では、実行犯の指導者として彼の名前が頻繁に上がった。

警察によると、アマン服役囚は14 年4月にオンラインでIS指導者へ忠誠を誓った。中東では、ISはアルカイーダ系のヌスラ戦線と対立するが、インドネシアでは必ずしも両者は峻別されない。これまでジュマア・イスラミヤなど国内イスラム過激派の支柱とされてきたアブバカル・バワシル師もIS支持を明言している。ただし、アマン服役囚とバワシル師は面識がないようである。

もしそうならば、今回のテロ事件は、国内のISシンパが独自に引き起こし、それをISが後追いで称賛したものかもしれない。今後、国内のISシンパとシリアへ渡ったインドネシア人ISメンバーとの接点がどのような形で現れてくるのか。警察は、シリアからの帰国者への監視強化と国内の細胞ネットワーク摘発に全力を尽くすことになる。

 

(2016年1月28日執筆)

 

ジャカルタのテロ事件をイスラムで語ってはならない

どうしても、これを言わなければならない。

1月14日に起こったジャカルタのテロ事件。実家のある福島と友人との面会がある郡山とをJR普通電車で移動する合間に、事件の速報をiPadで追いかけていた。

かつて私は、事件の起こったスターバックスの入るビル内のオフィスに通い、毎日のようにあの付近を徒歩で歩き回っていた。仕事の合間、知人との待ち合わせのため、あのスタバで何度時間を過ごしたことか。向かいのサリナは、地下のヘローで毎日の食料品を買ったり、フードコートで食事をしたり、お気に入りの南インド料理屋でドーサを食べたり、本当に馴染みの日常的な場所であった。あの界隈の色々な人々の顔が思い浮かんできた。

断片的な情報を速報的にまとめたものは、ツイッターとフェイスブックで発信した。犯人がBahrun Naimだとすると、思想・信条的なものもさることながら、かつて警察にひどい拷問を受け、その恨みを晴らすことが動機の一つとなっていることも考えられる。

2002年10月に起こったバリ島での爆弾テロ事件のときのことを思い出す。犯人がイスラム過激派であることが知られたとき、インドネシアのイスラム教徒の人々のショックは計り知れないものだった。まさか、自分の信じている宗教を信じている者がこんな卑劣な事件を起こすとは、と。ショックが大きすぎて、自分がイスラム教徒であることを深く内省する者も少なくなかった様子がうかがえた。

今にして思うと、当時のインドネシアのイスラム教徒にとっては、一種のアイデンティティ危機だったのかもしれない。しかし、自己との辛い対話を経て、インドネシアの人々はそれを乗り越えていった。

そのきっかけは、2004年から10年間政権を担当したユドヨノ大統領(当時)の毅然とした態度だったと思う。ユドヨノ大統領は、宗教と暴力事件とを明確に区別したのである。テロ事件は犯罪である。宗教とは関係がない。そう断言して、テロ犯を徹底的に摘発すると宣言した。そして、国家警察にテロ対策特別部隊をつくり、ときには人権抑圧の批判を受けながらも、執念深く、これでもかこれでもかと摘発を続けていった。

余談だが、かなり昔に、上記と同様の発言を聞いたことがある。1997年9月、当時私の住んでいた南スラウェシ州ウジュンパンダン(現在のマカッサル)で反華人暴動が起こった。経済的に裕福な華人に対して貧しいイスラム教徒が怒ったという説明が流れていたとき、軍のウィラブアナ師団のアグム・グムラール司令官(後に運輸大臣、政治国防調整大臣などを歴任)が「これは華人への反発などではない。ただの犯罪だ!」と強調した。ただ、今に至るまで、暴動の真相は公には明らかにされず、暴動を扇動した犯人も捕まっていない。

その後も、ジャカルタなど各地で、爆弾テロ事件が頻発した。インドネシアの人々はそれらの経験を踏まえながら、暴力テロと宗教を明確に分けて考えられるようになった。かつてのように、アイデンティティ危機に悩む人々はもはやいない。誰も、たとえテロ犯が「イスラムの名の下に」と言っても、テロ犯を支持する者はまずいない。インドネシアでテロ事件を起こしても、国民を分断させることはもはや難しい。この15年で、インドネシアはたしかに変わったのである。

テロ犯は標的を間違えている。イスラム教徒を味方に引き付けたいならば、インドネシアでテロ事件を起こしても効果はない。個人的なストレスや社会への恨みを晴らそうと暴力に走る者がいても、それは単なる腹いせ以上のものではない。政治家などがこうした者を政治的に利用することがない限り、彼らはただの犯罪者に留まる。

そんなことを思いながら、福島の実家でテレビ・ニュースを見ていた。イスラム人口が大半のインドネシアでなぜテロが起こるのか、的を得た説明はなかった。そして相変わらず、イスラムだからテロが起こる、インドネシアは危険だ、とイメージさせるような、ワンパターンの処理がなされていた。初めてジャカルタに来たばかりと思しき記者が、現場近くでおどおどしながら、東京のデスクの意向に合わせたかのような話をしていることに強烈な違和感を覚えた。

なぜイスラム人口が大半のインドネシアでなぜテロが起こるのか。理由は明確である。テロ犯にとってインドネシアは敵だからである。それは、テロ犯の宗教・信条的背景が何であれ、インドネシアがテロ犯を徹底的に摘発し、抹消しようとしているからである。それはイスラムだからでもなんでもない。人々が楽しく安らかに笑いながら過ごす生活をいきなり勝手に脅かす犯罪者を許さない、という人間として当たり前のことをインドネシアが行っているからである。

とくに日本のメディアにお願いしたい。ジャカルタのテロ事件をイスラムで語ってはならない。我々は、テロを憎むインドネシアの大多数の人々、世界中の大多数の人々と共にあることを示さなければならない。

 

【スラバヤの風-29】大統領選挙とNU内部の分裂

東ジャワ州は、西ジャワ州に次ぐ全国第2位の3066万4958人の有権者を抱える大票田である。今回の大統領選挙では、これら2州の結果が勝敗を決するとも言われる。

東ジャワ州は、初代大統領スカルノの出生地ブリタールを含むことから、スカルノの娘メガワティが党首を務める闘争民主党(PDIP)の牙城である。他方、インドネシアで最大のイスラム社会団体ナフダトゥール・ウラマ(NU)の本拠地であり、キアイと呼ばれる高僧を通じて農村に至る津々浦々へ影響力を誇る。大統領候補にとっては、NUの支持をどれだけ取れるかが勝敗の分かれ目となるが、そのNUが今回は事実上分裂した。

その要因は、NU関係者を主体とした民族覚醒党(PKB)の政治的駆け引きである。当初、PKBは元憲法裁判所長官のマフド、国民的人気ダンドゥット歌手のロマ・イラマ、元副大統領でNU重鎮のユスフ・カラを独自に大統領候補としていたが、PDIPと連立してジャカルタ首都特別州知事のジョコ・ウィドド(ジョコウィ)を大統領候補とし、先の3名をジョコウィと組む副大統領候補とした。

ところが、最終段階でPKBのムハイミン党首が副大統領候補に名乗りを上げたことから、NU関係者の一部がムハイミンと彼の率いるPKBに反旗を翻した。結局、ジョコウィはユスフ・カラを副大統領候補としたが、副大統領候補になれなかったマフドとロマ・イラマは、傷心のなか、プラボウォ=ハッタ陣営へ寝返り、同選対の中心人物となった。

こうした経緯から、大統領候補支持に関するNU内部は分裂した。NUは組織として特定大統領候補を支持しないと言明したが、ムハイミンPKB党首のやり方に否定的なサイドNU議長はプラボウォ=ハッタ組への支持を表明し、各地のキアイへ影響を与えた。

実際、プラボウォ=ハッタ、ジョコウィ=カラの両陣営の草刈場となったのは、NU地盤のマドゥラ島や東ジャワ州北海岸部であり、ここで両陣営とも「キアイの支持を取り付けた」との報道合戦を繰り広げた。しかし、マドゥラ島パムカサン県出身のマフドの影響力は予想以上に大きかった。ジョコウィを誹謗・中傷するタブロイド紙『オボール・ラクヤット』、SMS、モスクでの説教などを通じて、地元出身の実力者マフドが選対を務めるプラボウォ=ハッタ組への支持が広まった。

スラバヤなどの都市部ではジョコウィ=カラ組が圧勝だが、NU地盤のマドゥラ島や東ジャワ州北海岸部ではむしろプラボウォ=ハッタ組が勝ちそうである。だが、そこでは騒乱の起こる可能性が高いとして、治安当局は厳戒態勢を敷いている。

 

(2014年7月12日執筆)

 

 

【インドネシア政経ウォッチ】第125回 IS共感者の伸長を警戒(2015年3月26日)

3月初め、インドネシアからトルコへのツアー客のうち16人が行方不明となり、その後、シリア国境で彼らがトルコ警察に拘束されるという事件が起こった。16人はトルコからシリアへ入国し、過激派組織「イスラム国(IS)」に合流する計画だった疑いが強いと報じられた。

国家テロ対策庁によると、ISへ合流したインドネシア人はすでに514名を数え、うち7人は死亡、十数人はインドネシアへすでに帰国している。国家警察テロ対策特殊部隊は、先週までに、ISへの渡航をほう助した疑いでジャカルタ、南タンゲラン、ボゴール、ブカシで5人を逮捕したほか、国内の19団体をIS支持団体とみなしている。警察によると、彼らは中スラウェシ州ポソ県を訓練場所とし、2月23日にデポックのショッピングセンターで起きた爆発事件などテロ行為を引き起こし始めた。

ISへ合流する者のなかには、過去にインドネシアでのイスラム国家樹立を目指した反政府主義者の子孫が含まれる。彼らは、2000年代前半にジュマー・イスラミヤ(JI)などの名称で呼ばれたイスラム過激派グループにも関わったが、テロ対策の強化で活動が下火となった後、その代替としてISへの共感を高めた。JIの指導者とされるアブ・バカル・バシル受刑者やポソを拠点とするサントソ・グループなどもIS支持を表明した。

金融取引分析報告センター(PPATK)によると、15年2月時点で、IS関連資金とみられる数十万米ドルの海外資金が中東やオーストラリアから流入したと見られるほか、国内でも、IS支持者のビジネスにより約70億ルピア(約6,500万円)が流れているとみられる。フェイスブックなどのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を活用した巧みな勧誘も盛んである。

政府は、IS共感者が急速に増える傾向があるとして、警察による取り締まりを強化するとともに、IS合流者の旅券取り消しを含むテロ対策法の代用執行政令を準備中である。経済の低迷、所得格差の拡大、揺さぶられるジョコ・ウィドド(ジョコウィ)政権という状況下で、IS共感者の伸長を注意深く見ていく必要がある。

【インドネシア政経ウォッチ】第103回 宗教をめぐる新たな動き(2014年10月9日)

ジョコウィ次期大統領がジャカルタ特別州知事を辞任し、規定に従って同州のアホック副州知事が州知事に昇格する。しかし、イスラム擁護戦線(FPI)などイスラム強硬派の一部が、アホックの昇格に反対するデモを繰り返している。彼のこれまでの言動が過激で思慮を欠くということのほか、華人でキリスト教徒ということを反対の理由としている。

先のジャカルタ特別州知事選の際にも、FPIなどはジョコウィと組んだアホックに対して同様の批判を行ったが、選挙結果を左右することはなかった。アホック自身、かつて9割以上の住民がイスラム教徒であるバンカブリトゥン州東ブリトゥン県知事を務め、在任中に多数のモスクを建設したことで大きな支持を得ていた。

しかし、FPIなどの行動には一貫性がない。FPIはアホックを批判する一方で、新たに選出されたゴルカル党のスティヤ・ノバント国会議長(キリスト教徒)はむしろ歓迎している。イスラム教を建前にしているが、ただ単に「アホックが嫌いだ」という感情的な理由で動いていることの証左である。FPIなどがアホックを批判するのは、彼が地方首長選挙法に反対して、所属していたグリンドラ党を離党したことも関係があるはずである。

アホックは「身分証明証の宗教欄をなくすべき」とも主張し、それを支持する知識人らも現れた。ジョコウィ新政権構想でも、一時、宗教省を廃止する案が有力視されたが、時期尚早として見送られた。宗教欄や宗教省の廃止論の背景には、宗教の政治利用だけでなく、アフマディヤなどイスラム教少数派への多数派からの迫害を防ぐ意味がある。

他方、政府内には、宗教の定義自体を緩めようという見直し論も出ている。宗教省は、規定の6宗教以外の地方宗教についても、信仰ではなく宗教として認める可能性を探るため、実態調査を開始する。「唯一神信仰」という建国五原則(パンチャシラ)の第一原則との食い違いの問題はあり得るが、注目すべき動きである。

【インドネシア政経ウォッチ】第62回 暴力的社会団体の復権(2013年11月7日)

暴力的社会団体を政府・軍高官が擁護する発言が相次いでいる。たとえば、10月24日、ガマワン内務大臣が「イスラム擁護戦線(FPI)は国家の財産である」と発言して政府との協力関係を促して以降、FPIの活動が活発化している。それまで、暴力的社会団体は社会悪として取り締まる方向だったのが、急反転した印象である。

10月27日は、インドネシア独立の源泉である「青年の誓い」が発せられた記念日である。この日、陸軍戦略予備軍(コストラッド)のガトット司令官は、パンチャシラ青年組織(プムダ・パンチャシラ=PP)に対してパンチャシラ(建国5原則)擁護の前線に立つよう求めた。同時に「多数意見が常に正しいとは限らない」として現行の民主主義への疑義を示し、「軍は政治に口を出さず」という原則を破ったとして物議を醸している。

PPは1981年にスハルト大統領(当時)と国軍の後押しで設立された自警武闘集団である。愛国党という自前の政党を持つ一方で、組織の上層部はゴルカル党幹部でもある。

PPは早速、事件を起こした。「青年の誓い」の日の数日後、EJIP工業団地で最低賃金引上げを求める金属労連のデモ隊と衝突し、8人が負傷、バイク18台が破壊される事態となった。工業団地では、エスカレートする労働組合デモに対抗する自警団を企業側が組織しており、そこへPPが入ってきた。廃棄物処理業者の多くはPPに属しており、デモによる工場の操業停止は彼らにとって死活問題となるのである。

組合側は経営者側がPPを用心棒にしたと批判するが、そう言われても仕方がない。実際、労働組合連合体のひとつ、全インドネシア労働組合(SPSI)は分裂し、その一方のトップをPPのヨリス議長が務める。ヨリスは「SPSIはインドネシア経営者協会(Apindo)と協調し、過激な労働組合デモに対抗する」と2012年11月に宣言している。

ゴルカル党はPPを通じてSPSIの動員力を手に入れた。来年の総選挙・大統領選挙を前に、暴力的社会団体の利用価値が再認識されている。

【インドネシア政経ウォッチ】第48回 FPIと住民の衝突事件(2013年 7月 25日)

イスラム教の聖なる断食月を迎えて、巷では飲酒やカラオケなどを控えるムードが広がっている。毎年のように、白装束の集団が、断食月を尊重しないと見なすナイトクラブやバーなどを襲撃する事件が起こるが、その先頭に立つのがイスラム防衛戦線(FPI)である。この集団の暴力性は以前から問題視されており、先般成立した社会団体法も、こうした団体を法的に規制することを目的のひとつとしている。

そして今年も、断食月にFPIによる暴力事件が起こった。7月17日、中ジャワ州クンダル県スコレジョへFPIが現れ、トゲル(Togel)と呼ばれる賭け事を行っている現場や、陰で女性を斡旋するワルン(warung remang-remang)の摘発を行なおうとしたが、地元住民側が立ちはだかった。そこで翌18日、FPIは、より大勢の人員を動員し、再度現場へ向かったところ、あらかじめ警備していた住民と衝突した。衝突のさなかに、FPI側の運転する車にはねられて住民1人が死亡したことで、住民の怒りが爆発し、逆にFPIを襲い、住民をはねた車を焼打ちにした。結局、地元警察によってFPIは現場から引き離された。

この事件で注目すべき点がある。第1に、FPIは軍や警察と関係を持ち、左翼思想など治安上問題視される勢力へ圧力をかける役目を果たしてきた。また、イスラム教を政治的に使いたい政治家もFPIを擁護してきた。第2に、断食月にもかかわらず、トゲルや女性斡旋を自粛させるべき立場の警察がそれらを見逃していた。実は、トゲルや女性斡旋を仕切る地元のならず者集団と警察とが裏でつながっており、結果的に警察はそれらを擁護する立場にいるからである。すなわち、今回の事件は、警察と関係する異なるグループ同士の争いという側面がある。

民主化したインドネシアでは、結局、襲撃を繰り返すFPIが常に批判される。しかし、トゲルや女性斡旋の広がりもまた、地元のならず者集団を拡張することにつながる。暴力が社会に広まる傾向は、それを擁護する警察や政治家の存在と無関係ではない。

 

http://news.nna.jp/cgi-bin/asia/asia_kijidsp.cgi?id=20130725idr021A

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【インドネシア政経ウォッチ】第45回 新社会団体法が成立(2013年 7月 4日)

インドネシアにある全社会団体を規定する社会団体法が、7月2日に成立した。国家による監視強化を懸念するナフダトゥール・ウラマ、ムハマディヤといった有力イスラム団体による反対を押し切った形だ。

実は、この社会団体法は、スハルト絶頂期の1985年に成立した社会団体法の新版である。1985年法は、国内のすべての組織の存立唯一原則にパンチャシラ(建国5原則)を置くことを定めた。イスラム教を存立原則とするイスラム団体は、パンチャシラの下にイスラム教が置かれるこの法律の成立に猛反対した。成立前後には銀行爆破事件やボロブドゥール爆破事件など暴力的行為さえも頻発し、スハルトによってイスラム過激派が一掃される契機ともなった。

スハルト退陣後、民主化が進むなかでも、社会団体を規定する1985年法はそのまま温存されてきた。しかし、民主化のなかで、パンチャシラを存立唯一原則としない多数の社会団体が生まれ、1985年法は有名無実化した。相当に遅ればせながら、インドネシアも民主化時代の新しい社会団体法の成立へと動いている訳である。今回も、パンチャシラを組織の存立唯一原則とするかどうかが激しく議論されたが、結局、原則化は見送られた。

新社会団体法の目的のひとつは、アナーキーな活動を行う社会団体への監視である。たとえば、バーなどへの襲撃事件を起こすイスラム擁護戦線(FPI)といった団体をどう規制するかが課題になる。言論・表現の自由との兼ね合いも問題となり、日本でのヘイトスピーチをめぐる動きを彷彿とさせる。

また、外国人・団体が単独またはインドネシア人・団体と一緒に設立する社会団体についても監視の対象となる。政府に批判的な社会団体には、外国資金が入っているとの疑いがかけられるのがこれまでの常だった。

新社会団体法に対する反対運動はしばらくくすぶりそうだ。新法が新たな社会団体監視のための道具とならないことを祈るばかりである。

 

http://news.nna.jp/cgi-bin/asia/asia_kijidsp.cgi?id=20130704idr023A

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【インドネシア政経ウォッチ】第25回 「純潔」を守れなかったイスラム政党(2013年 2月 7日)

1月31日、福祉正義党(PKS)のルトゥフィ・ハサン・イサック党首が汚職撲滅委員会(KPK)に逮捕された。牛肉輸入枠の設定に関連して、国会議員である同党首が便宜を図り、特定業者が有利になるよう具申した見返りに金銭を受け取ろうとした収賄の疑いである。KPKは、輸入業者のインドグナ・ウタマ社の重役2名が同党首に近いアフマド・ファタナ氏に現金10億ルピア(約950万円)を手渡したことを突き止め、これがルトゥフィ党首へわたると見て収賄罪を適用したのである。

福祉正義党といえば、政党カラーは白で、汚職に対して最も厳しい「純潔」の政党として勢力を伸ばしてきた経緯がある。「イスラムの教えを正しく教え広める役割を担う政党」を標榜し、学生や若者を中心に支持層を広げてきた。汚職まみれの既存政治とは一線を画す「希望の星」として、国の将来を担う彼らの期待を集めてきたのである。

イスラムには、汚職の対極にある「清潔」のイメージがある。2000年代前半、「汚職をなくすには、イスラム法に基づく国家を目指すしかない」という気運が高まり、イスラム法適用運動が脚光を浴びた。地方レベルでイスラム法に基づく地方政令が連発され、イスラム政党は支持を伸ばした。その一躍を担っていたのが福祉正義党(あるいはその前身の正義党)であった。同時に、それは「インドネシアがイスラム国家になるのではないか」と欧米諸国が危惧(きぐ)した時期でもあった。04年のバリ島爆弾テロ事件はその最中に起こり、治安当局は、テロ対策の名の下に、イスラム強硬グループの摘発に躍起となった。

あれから約10年、イスラム法適用運動は下火となり、イスラム強硬グループは力を失い、イスラム政党は国民の支持を減らした。イスラム政党の国会議員も汚職に関与し、今や最後の砦(とりで)と見られた福祉正義党の党首が汚職で逮捕された。イスラムの「純潔」イメージはすでに政治の世界で守れず、イスラム政党がインドネシアで政治的に力を持つ可能性はなくなった。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第14回 HasmiとHASMI(2012年 11月 1日)

国家警察テロ対策部隊(Densus 88)は10月26日から27日にかけて、ジャカルタ、西ジャワ州ボゴール、東ジャワ州マディウン、中ジャワ州ソロの4都市でテロ容疑者11人を逮捕した。米国大使館、オーストラリア大使館前のプラザ89ビル、中ジャワ州スマランの警察機動隊本部前、東ジャワ州スラバヤの米国総領事館などを標的としたテロを計画していたとの容疑からだ。同時に、爆弾製造の材料や爆発物なども押収した。

警察によると、彼らはハスミ(Hasmi)と呼ばれる新たなテロリスト・グループのメンバーで、中スラウェシ州ポソでの警察官殺害や爆弾事件にもかかわっている。逮捕されたアブ・ハニファ(26歳)はリーダーで、ポソでテロリスト訓練を受けたといわれている。ポソからソロへ戻った後、近隣住民に弓矢や剣のほか、火器の使い方も教えていた。中ジャワやジョクジャカルタ特別州の急進イスラーム組織ラスカル・ヒスバとの強い関係を指摘する評論家もいる。

ところが、すぐに同名の組織がテロリストとの関係を否定し、警察に抗議する声明が出された。この声明を出したハスミ(HASMI)は、Harakah Suniyyah untuk Masyarakat Islamiという組織で前述のHasmiとは別組織。「逮捕された11人は会員ではない」「暴力を否定する」と訴えた。HASMIは、初期イスラーム(サラフ)への回帰を掲げるサラフィー主義の団体で、2004年に社会団体として政府に正式登録されている。厳格なイスラームを希求するが、政治には消極的・保守的とみられている。

警察は結局、HASMIがHasmiと別組織であることを認めるとともに、Hasmiのような新グループが容易に形成される可能性にも言及した。アブ・ハニファはジュマア・イスラミアの信奉者とされるが、Hasmiのメンバーとポソ・グループとは直接の関係はないという見方もある。彼らのネットワークのより詳細な解明が待たれる。

一方で暴力を否定するといっても、HASMIは急進イスラーム組織と思想的に共通する部分があるため、警察が大きな関心を持っていることは想像に難くない。

 

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【インドネシア政経ウォッチ】第3回 イスラム化現象を気にする必要はない(2012年 8月 16日)

世界最大のイスラム教徒人口を抱えるインドネシア。以前よりもジルバブ(スカーフ)を着用する女性や1日5回、しっかりと祈る割合が増えているほか、コーランの勉強会が盛んになるなどイスラム化が進んでいる印象を受けるかもしれない。しかし、それらはインドネシアのイスラムがより原理主義的になっている現れでもないようだ。

政治勢力としてのイスラム政党は、ますます国民の支持を失ってきている。契機は2002年、04年に起きたバリ島での爆弾テロ事件にあったと考えられる。当時のインドネシアでは、民族主義とイスラム主義が拮抗(きっこう)しており、イスラム国家になるのではないかという懸念があった。実際にイスラム法の適用運動が盛んになり、複数の地方政府は関連する条例を成立させた。だが、今ではイスラム法を適用する運動は影を潜め、反汚職の清新なイメージで過去の選挙で躍進した福祉正義党(PKS)をはじめ、イスラム政党は軒並み支持率を下げた。

04年から2期続くユドヨノ政権は、イスラム政党を追い込まず、与党政権の内部に取り込んで実質的に無力化させた。かつてスハルト政権がパンチャシラ(建国五原則)を1985年に法制化して組織存立原則とし、それを拒むイスラム勢力を敵視したのとは対照的なやり方である。

イスラム政党が影を潜めた今、イスラム擁護戦線(FPI)のような組織が示威行動をとるようになった。一方で、彼らの暴力行為を支持する国民は少数派にとどまる。FPIらの行動は、イスラム勢力の拡大を目指すというよりも、政治家が利用できる一種の暴力装置として力を誇示することに重きが置かれている。

ジルバブを着用する女性も、敬虔(けいけん)なイスラム教徒としての部分のほかに、そう見せることで異性の好奇の目を避ける、単にファッションとして好むといった面もある。インドネシアは、イスラム教が多様性を尊重する宗教であることを強調する穏健な考え方が主流である。われわれ外部のものが、見た目のイスラム化現象を過度に警戒する必要はないと考える。

 

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誰が得をしているのか

一連のいわゆる「イスラム国」をめぐる動きをずっと眺めていた。日本人人質やヨルダン人人質を殺害したとされるビデオが流れ、政府発表やメディアを通じて殺害されたと報じられている。

その一方で、これまでの何年もの間に、イラクで、シリアで、その他の中東の場所で、無数の人々が誰が得をしているのか様々な形で殺害されてきたことを思った。

亡くなった方々すべてに哀悼の意を表したい。

報復が報復を呼ぶ。平和だった暮らしを奪い、近しい者たちを無残な姿に変えさせた敵に対する復讐に燃える人々。それが生きる意味となってしまった人々。日々の平穏な暮らしに浸っている我々が「平和が第一」と言っても、聞く耳を持つ余裕などないだろう。

「有志連合」という名前がいつから使われたのか。誰が言い始めたのか。日本はそれに入っているのかいないのか。入っているとすればいつからなのか。入ったことを国民に伝えたのか。単なる勉強不足なのかもしれないが、筆者自身は明確に覚えていない。

一連の動きを見ながら、疑問に思ったことがいろいろある。

第1に、今の動きは、少し前までの「欧米対イスラム」という単純構造で動いていないことである。イスラム世界のなかで互いに戦い合っている。大きく捉えるならば、おそらく、アメリカ、ロシアなどによる国際社会全体のパワーゲームも絡んだ、イスラムのスンニ派とシーア派との戦いに近似する。すなわち、この戦いが続く限り、スンニ派とシーア派をまとめた「イスラム」として、欧米に対抗するという構図は立てにくい。イスラムは、「欧米憎し」で一つにまとまれない。

第2に、いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の影響が中東地域に広がる脅威がいわれているにもかかわらず、なぜイスラエルが具体的な行動に出ないのか。かつて、フランスの援助でイラクに原発が建設される際に、イスラエルは国境を超えてそれを破壊したではないか。イスラエルは「有志連合」に加わっていない。いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織に対しては、一体と言われることも多いアメリカとは別行動を採っている。

第3に、日本の安倍首相はなぜイスラエルを訪問した際に、ネタニヤフ首相と並んで「テロとの戦い」を宣言したのか。通常考えれば、イスラエルはイスラムの敵とみなされる。イスラム教徒の多いアラブ諸国との関係も良好な日本にとって、決して「テロとの戦い」を宣言するのにプラスの場ではない。しかも、日本の「テロとの戦い」がいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織を念頭に置いていたことは明らかだとしても、果たしてイスラエルもそうだったのか。

素朴なシロウトの疑問で、専門家の方々からは全く相手にもされない戯言に過ぎないと思う。そこで、見方を変える。今回のいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の蛮行によって、いったい誰が得しているのだろうか。

第1に、戦争が続くことで儲かる武器商人や軍需産業である。安倍首相のイスラエル訪問に同行した26社の多くが、直接・間接にこの分野に関わっている可能性がある。彼らはイスラエル側とのビジネス面での協力関係を探っている。だから、安倍首相は日本・イスラエル両国の国旗を前に声明を出さなければならなかったのだろう。幸か不幸か、イスラエルはいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織との戦いには大っぴらに加わっていない。パレスチナ問題とは別次元とみなされているなかで、声明を出しても大した影響はないと判断されたのかもしれない。

第2に、イスラムが一つにまとまって文明の衝突が起こるのではないかと恐れている欧米(日本も?)とイスラエルである。いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の蛮行も加わって、スンニ派とシーア派との激しい対立はエンドレスになりつつある。中東地域が激しい戦闘に明け暮れ、共通の敵だったはずのイスラエルに対して圧力を掛けることができない状態となれば、それとは一見関係のないイスラエルが自国の安全保障を確保し、中東地域で影響力を維持できる。

とはいえ、欧米や日本では、普通のイスラムもいわゆる「イスラム国」も同じものと見てしまう単細胞な人々が多く、かつ、日常生活の中での彼らの存在がとくに(失業が深刻化する)EUでは社会問題を引き起こしかねない状態であるため、イスラム教徒に対する冷たい視線が変わるのは難しい。イスラム教徒の人々も、そこから逃れてイスラムとして一つになり、欧米に対抗することは難しく、それが本当にイスラムかどうかは疑わしくとも、いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織に惹かれてしまうという状態が出る。

いったい誰が得をしているのか、ということで思い出すのが、2002年に起きたバリ島爆弾事件である。ジュマア・イスラミヤに関係するイスラム過激派の青年たちが実行し、死刑となったが、彼らにとって、ジハードという一種の自己満足以外に何が得になったのだろうか。洗脳された人間はそうなるのだといわれても、その疑問が今も解けない。

あのときのインドネシア政治を振り返ると、2004年に予定される初めての大統領直接選挙を前にして、世俗的・民族主義的な政治勢力とイスラム主義・イスラム国家建設を待望する政治勢力がしのぎを削っていた。当時、民主化を進めるインドネシアで、イスラム主義の政治家が大統領となることを危険視する見方が欧米や日本に見られた。

あの事件が起こって、イスラム政党がイスラムの色合いを弱め、世俗的・民族主義的な色をむしろ打ち出していった。2004年に初めての直接選挙で選ばれたユドヨノ大統領は、アメリカで軍事教育を受けた経験があり、「アメリカは自分の第二の故郷」というほどの親米だった。インドネシアがイスラム国家となる可能性は遠のいた。

素朴なシロウトの疑問で、専門家の方々からは全く相手にもされない戯言に過ぎないと思う。でも、人質の殺害、報復・復讐といった、ミクロの感傷的な部分がクローズアップされる今だからこそ、大局的な流れのなかで、何が起こっているのか、それが起こっていることの意味は何か、ということを自分なりに見よう・考えようとすることが大事ではないかと思う。

誰が敵で誰が味方か、白黒つけることへ殊更にエネルギーを費やすことは有益だろうか。特定個人に対する中傷や誹謗ではなく、建設的な意見や批判をなぜ自粛すべきなのか。

我々は忘れてはならない。求めるべきは平和である。戦火で明日生きられるかどうかもわからない人々を含めた、みんなの平和である。

だから、蛮行を繰り返すいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織も、戦争が起こり続けて欲しいと願う勢力も、みんなの平和を願わないどんな勢力をも批判しなければならない。

もちろん、日本がそんな戦争に加わろうとするならば、それに対しても、である。じゃあどうすればいいのか、対案はないのか、という批判もあるだろう。対案などすぐには出ない。嫌なものは嫌だ。そう言うことの何が間違っているのだろうか。

戦争をしても誰も得をしない世の中を作れないものだろうか、と夢想してはいけないのか。「あれはしかたがなかったんだ」としたり顔で子どもや孫に言って済ませることだけはしたくない。

 

マドゥラ(1):橋をわたると別世界

5月29〜31日は、マドゥラ島へ行ってきた。マドゥラ島はスラバヤの目と鼻の先にある、東西に長く横たわる島である。

2009年、スラバヤとマドゥラ島の間に橋「スラマドゥ」(スラバヤの「スラ」とマドゥラの「マドゥ」の合成語)がかかり、スラバヤから車で容易に行けるようになった。逆に言えば、マドゥラ島から人々が容易にスラバヤへ来れるようになったことも意味する。

今回は、社会起業家である友人のトゥリ・ムンプニさんからの勧めで、彼女が目をかけている若者たちの一人がマドゥラ島で地域おこしのような活動を始めたので是非見に行ってほしい、と言われたのがきっかけである。

トゥリ・ムンプニさんは、山間部などの僻地に住民参加型でミニ水力発電をつくり、そこで起こした余剰電力を国営電力会社(PLN)へ売電するというビジネス・モデルをインドネシア全土へ広げる活動を進めている。インドネシアだけでなく、世界的にも注目される社会起業家なのだが、会えばフツーの素朴な女性、しかし世の中の不正や政治の腐敗に対しては常に厳しい見解をいつも投げてくる。本当に、議論していて色々なヒントを得ることができる得難い友人である。

5月29日の夕方、スラバヤ東部のギャラクシーモールで待ち合わせて、彼女の「教え子」のリオ君とその友人たちと一緒にマドゥラ島へ渡った。目指すのは、トゥリ・ムンプニさんの別の「教え子」であるファウジル君の実家。ファウジル君とは、以前、東ジャワ州主催のセミナーで講演した際に、出席者の一人だった彼と知り合い、そのときに、トゥリ・ムンプニさんから彼が私に会うように言われていたことを知った。リオ君もファウジル君もスラバヤの国立大学生である。

ファウジル君の実家は、海に面したサンパン県スレセ郡ラブハン村にあった。彼の父親は地元で尊敬を集めるキアイ(イスラム教の指導者)の一人で、ファウジル君はその跡取り息子として村人から一目置かれていた。セミナーであったときには、ちょっと軽い普通の若者にしか見えなかったのだが、田舎に帰ると、かなりの存在感を示していた。すれ違う人が皆、ファウジル君にうやうやしく挨拶するのである。

てっきり、ちょっと彼の実家に寄ってからサンパンの町へ行って泊まるのかと思ったら、今晩は彼の家に泊まるのだという。そして、ちょうど、ムハマッド昇天祭(イスロー)で村人のほぼ全員がモスクに集まるイベントが夜あるので、それに出ることになった。

まずは、ファウジル君の実家で鶏肉のサテ(Sate Ayam)の簡単な夕食。

その後、イスローの会場となるモスクへ向かった。そこでまた食事。床に座って食べていると、次から次へと、白装束をまとったキアイたちがやってくる。そして、「インドネシア語は話せるのか?」「どこに住んでいるんだ?」「家族は一緒なのか?」などなど、初めて訪問した場所での毎度おなじみの質問が続く。

ひとしきり食事と話をした後、いよいよモスクへ。ファウジル君の父親(キアイ)はこのモスクを運営する幹部の一人なのだが、彼の先導で進む。モスクの中へ入る前に靴を脱ぎ、そのまま、モスクの一番奥の幹部席まで連れて行かれた。そして、異教徒なのにいいのか、と聞くと、「いいんだ、いいんだ」と、幹部席に座っていることを求められた。これは客として最高の待遇のようだ。

しばらくして、外は、雷と風を伴った豪雨となった。モスクの周りに集まった村人ら約3000人の一部がモスクの中へ移ってきた。モスクの外で説教していたキアイも中へ移り、マイクの調子をチェックした後、再び説教を始めた。

1時間ぐらい説教が続いた後、今度は、別のキアイが説教を始めた。最初のキアイよりは説教が下手だったが、彼もまた、1時間以上、ときには歌も交えながら、延々と説教を続けた。

イスローの集会が行われたモスク
(翌日の5月30日朝に撮影)

このキアイ、モスクに入る前に、一緒に食事をしていたのだが、そのとき、ふと見ると、彼は白装束をたくし上げ、サロン(腰布)を直していたのだが、まるでボクシングのチャンピオンベルトと見紛うような大きなベルトでサロンを止めているのをたまたま見てしまった。サロンはクルクルっと腰の位置で巻くものだと思っていたが、ベルトで止めるというのもありなのだと思った。その写真を撮らなかったことをちょっと後悔している。

彼らキアイの説教は、時々インドネシア語も交じるが、もちろん、ほとんどはマドゥラ語である。筆者はマドゥラ語が全くわからない。しかし、キアイたちと一緒に幹部席に座らされているため、スマホや携帯などをいじることなく、一生懸命に説教を聞いている態度を見せるのが礼儀だと思い、そう努めたが、さすがに限界だった。説教が早く終わることを願っていた。

イスローのイベントはようやく午後11時過ぎに終わった。雨も止んでいたが、人々が去った後には、大量のゴミが残されていた。自分の靴を探した。私以外は皆、サンダルなので、見つけるのは容易だった。が、靴は残飯を含むゴミまみれになって、打ち捨てられたようになっていた。もちろん、雨でビショビショ。ゴミをはらい、中に水の溜まった靴を履いて、ファウジル君の実家へ戻った。

それにしても、モスクのなかで白装束の集団と数時間一緒に過ごすという経験は、なかなか得がたいものだった。キアイは、予想以上に、地元の人々から尊敬を集め、キアイの息子であるファウジル君への人々の振る舞いも、普通の人へのそれよりも敬意を持った接し方だった。

ファウジル君の父親はキアイだが、1970年代から1999年までずっと開発統一党(PPP)の県支部長を務めていた元政治家でもあった。村人たちを動員して、サンパン県で焼き討ちをするなど騒乱を起こしたこともあるという。筆者自身はちょっと怖くなり、先般のサンパン県でのシーア派住民への迫害に加担したのかどうか、聞くことができなかった。

「キアイになるためにはどうしたらいいのか。何か資格認定のようなものがあるのか」と彼に尋ねると、「そんなものはない。皆がキアイ、キアイ、と言っているとキアイになるんだ」という答えだった。そんなものなんだろう。でも、長年にわたって村で信望を集め、その存在自体がキアイとして崇められるレベルと自然に認知されるのだろう。

もちろん、キアイの指示通りに、村人は動くのだ。だから、選挙では皆、キアイを自陣営支持のためにどうおさえるかが重要になる。今回の大統領選挙では、プラボウォ=ハッタ組とジョコウィ=カラ組のどちらを支持するか、キアイどうしでまだ決めていないが、いずれ決めることになるだろう、ということであった。

このラブハン村は、スラバヤからわずか1時間半だが、キアイたちが支配し、それに村人たちが従う、スラバヤとは別世界を形成していた。これもまた、インドネシアなのである。

してみると、スラバヤで大学へ通うファウジル君は、この大きく異なる二つの世界を行き来しながら生きている、ということになる。なんとなく、素朴に不思議な感じがした。