ジェノサイド記念館を訪問

ルワンダへ来た主目的は、福島から移住した叔母に再会することだったが、それにも負けるとも劣らぬ目的は、ジェノサイド記念館を訪問することだった。

今年は、100万人近くが犠牲となったルワンダ虐殺から20年目である。7月31日、キガリのジェノサイド記念館を訪問した。

ジェノサイド記念館は、キガリ市の南部の丘の上にある。1階の展示場では、独立前のルワンダ社会の様子から説き起こし、植民地時代とキリスト教への改宗、独立前後の混乱、独立後、ジェノサイド、ジェノサイド後のルワンダ、といったクロノロジカルな展示のほか、犠牲者の写真が何枚も吊り下げられた部屋、遺品の部屋、白骨の部屋がある。

2階の展示場には、世界各地で起こったジェノサイドが取り上げられている。トルコでのアルメニア人虐殺、アンゴラでのヘレロス族虐殺、ドイツでのホロコースト、カンボジアでのポルポトによる虐殺、バルカン半島でのボスニア人・コソボ人の虐殺である。その隣には、ルワンダ虐殺で殺された子供たちの写真と夢などの書かれた掲示が続く。

展示によると、ルワンダはもともとイキニャルワンダという一つの言語をもった集団だった。インドネシアの経験でもそうだが、言語は統一国家を形成する要となるものである。多言語が普通のアフリカにあって、ルワンダは国家形成において稀有なプラス条件を持っていたと言えるかもしれない。

ドイツの後に支配したベルギーは1932年、住民登録証にフトゥ(Hutu)、トゥツィ(Tutsi)、トゥワ(Twa)の3つの種族別の記載を開始した。住民を分断し、同一言語で統一国家建設へ向かわせないための人為的な分別だったかもしれない。なぜなら、牛の保有頭数が10頭以上ならばトゥツィ、10頭以下ならばフトゥと見なしたというからである。

少数の富者(トゥツィ)が多数の貧者(フトゥ)を支配するという単純な構図。貧富格差に種族を絡め、種族間の対立を煽るというやり方である。同じ言語を使う者たちが無理矢理に引き裂かれ、対立し、殺し合うという状況を生み出してしまった。

独立前後で、多数のフトゥが少数のトゥツィを虐殺し「民族浄化」を実行してしまった。1959〜1973年に殺されたトゥツィの数は約70万人に上るとされる。そこから国外へ逃れたトゥツィは、後にルワンダ英雄戦線(RPF)を結成し、1990年10月にルワンダ領内へ侵攻した。

ルワンダ国内では、民族融和を掲げたクーデターが起こるが、そこでできた政権もまた、フトゥ青年防衛隊を組織し、それを利用して独裁政治を進めるが、青年防衛隊はフトゥ至上主義を掲げて暴走を始める。RPFのルワンダ侵攻もその傾向に輪をかけた。1990年12月には、「フトゥが守るべき10箇条」が公布され、トゥツィとの間でビジネス・友人・親族関係を持つ者は裏切り者とされた。

1994年3月のジェノサイド前に引き起こされたトゥツィ虐殺事件は、1990年10月、1991年1月、1991年2月、1992年3月、1992年8月、1993年1月、1993年3月、1994年2月にあった。

ジェノサイド記念館での説明は、基本的に、現政権を支配するトゥツィの立場から描かれたもので、フトゥを擁護する記述は見当たらない。おそらく、フトゥ側からは、全く異なる説明がなされるのだろう。実際、ルワンダ国外へ逃れたフトゥには、いまだに綿々と反トゥツィの意識が引き継がれ、事あれば反撃したいと思っている者も少なくないと聞く。今のルワンダのカガメ政権が強権的といわれる所以である。

ともかく、たとえトゥツィの側に立った説明であったとしても、ジェノサイド記念館の展示は見ておくべきものであろう。互いに殺戮し合ったということもさることながら、生き延びた人々の苦悩、とくに、加害者による暴力によって女性(50万人以上がレイプ被害、HIV/AIDSに侵され亡くなった人も数多い)や子どもの受けた精神的・肉体的な傷の影響は、20年で癒せるものではない。そして、ジェノサイド記念館の最後には、それを乗り越えていこうとする人々の姿が展示されていた。

ジェノサイド記念館の内部は撮影禁止なので、写真はない。

ジェノサイド記念館の外には、集団墓地があり、花が手向けられていた。

その先には、野外ホールが建設中だった。このジェノサイド記念館をアフリカから平和を発信するセンターとして拡張する計画があるようだ。

翌8月1日、キガリから車で4時間、ムランビというところにあるジェノサイド記念館を訪問した。丘の上の旧中学校の建物がその場所だった。

館内の展示物はキガリのジェノサイド記念館とほぼ同じだが、ここはまさに虐殺の場所そのものだった。

20年前、丘の上に建設中の中学校なら安全だと思って多数の人がここへ逃げてきた。しかし、行き当たりのこの場所は逆に最も危険な場所だった。虐殺者たちは人々を追いかけ、建物に辿り着く前に殺されたり、レイプされたりする者が多数だったという。

そして、この場所のもう一つの特徴は、この場所にいたフランス軍の存在である。虐殺が行われている間、フランス軍はその状態をただ黙視した、止めなかったというのである。

虐殺者たちは生き残った婦女子を国際機関事務所へ連行し、「誰も殺されていない」と証言させたという。そして、4ヵ所ある遺体の集団埋葬場所をブルドーザーで埋め、証拠隠滅を図った。フランス軍の兵士たちは、その上でバレーボールに興じていたとさえ言われている。

下の写真は、ブルドーザーで埋められた集団埋葬場所を掘り返したものである。

キガリのジェノサイド記念館の展示によると、ジェノサイドが起こる前、1993年8月の和平協定に反発したルワンダ政府が、フランスとの間で1200万ドルの軍需取引契約を締結した、という。現在のルワンダがなぜフランスに対して厳しい姿勢を示しているのかが理解できた。

ムランビのジェノサイド記念館の裏に並ぶ建物(下写真)には、集団埋葬場所から掘り出された多数の白骨遺体が展示されている。子どもを抱いた母親の遺体、乳幼児の遺体もある。これでもかこれでもかというほどの数である。ここがジェノサイドの現場そのものだったという現実が自分に突き刺さってくる。

案内役の青年によると、フランスからも観光客が来るというが、彼らに話をしてもなかなか信じてもらえないそうだ。彼らは、フランス軍が人命救助に奔走したはずと信じているからだ。

正直いって真相は分からない。歴史とは、常に勝者の歴史だからだ。もし今、ルアンダがフトゥ中心の政権だったら、全く異なる歴史が語られ、トゥツィ排斥の正当性が強調されていたことだろう。

2つのジェノサイド記念館を訪問した後、バスに乗ったり、町中を歩いたりしながら、ぞっとした。バスの隣の席の人が、あるいは町ですれ違った人が、ジェノサイドの加害者であったり被害者であったりするのか、と思ったからである。

ルワンダにはもう種族を区別する項目がIDカードから消えたという。新しいルワンダを創ろうという方向性を示すものであろう。

しかし、都市部を一歩離れれば、20年前に誰がどんなことをしたのかを皆がはっきりと覚えている。トラウマと憎しみの感情は簡単に消えることはない。昨日まで信頼していた親族や隣人が突然殺人者へ変貌した事実を決して忘れることはできないはずだ。

そんな、薄い薄い皮に覆われたルワンダ社会の危うさを感じないわけにはいかない。これを克服する方法はただ一つ、経済活動やビジネスなどによって人々を前へ向かせ、ルワンダ社会にかかる皮を着実に厚くしていくことしかない。

そしてまた、このジェノサイドがルワンダに特殊のものではない、状況によっては、インドネシアでも日本でも起こりうる可能性があることを強く感じた。もちろん、そうならないための努力を日頃からしていかなければならないことは、言うまでもない。

ルワンダの首都キガリに到着

7月29日夜、ダルエスサラーム発のルアンダ航空直行便で、ルワンダの首都キガリに到着した。

キガリの空港は改修中だが、持参のiPhoneが4G-LTEの無線LANインターネットをいきなりつかんだ。タンザニアでは考えられなかったぐらい速い。インターネット環境はタンザニアより上か、と思ったが、ゲストハウスの無線LANは相当に遅かった。

今回のルワンダ訪問、いや、東アフリカ3ヵ国訪問のメインの目的は、ルワンダへ移住した叔母に再会することだった。叔母は今、キガリのウムチョムウィーザ学園という名の学校で子どもたちに音楽を教えている。この学校は、日本からの支援で建てられた私立の幼稚園・小学校で、福島市に本部のあるルワンダの教育を考える会が日本側の窓口となっている。

30日、さっそく叔母の働くウムチョムウィーザ学園を訪問した。学校の建物には、青年海外協力隊の方々が子どもたちと一緒に描いた、思わず楽しくなるような壁画が描かれていた。ルワンダの学校でこんな壁画のある学校はほかにないそうだ。

先生方は本当に子ども好きの様子で、いい方々だった。子どもが本来もっている創造性や自主性を育もうという姿勢がうかがえ、学力向上より前にまず人間性を重視していた。

ところで、いくつもの丘の上に作られたキガリの町には、平坦な場所がない。尾根道を幹線道路が環状に走り、人々の生活空間はその環状線から下へ降りていったところに広がっている。環状線はきちんと舗装された片側2車線の道路で、そこから降りていく道には石畳の道があり、さらに行くと、舗装されていない、乾季には土埃が舞うであろうデコボコ道がけっこうな急勾配で続く。

今回宿泊しているゲストハウスは、叔母の家の近くなのだが、環状線から石畳の道を降り、さらに未舗装のデコボコ道の果てにある。環状線からは約1.7キロの道のりで、ゲストハウスから環状線まで歩いて坂を登っていくのはけっこうしんどい。

先に述べたウムチョムウィーザ学園もまた、環状線から続く幹線道路から約1キロほど下ったところにある。

公共交通機関の乗合バスは、環状線およびそれに続く幹線道路を通るので、バスを下車した後、ゲストハウスやウムチョムウィーザ学園へ行くには、徒歩またはバイクタクシーを利用することになる。

叔母は毎日、自宅から環状線まで歩き、バスに乗って、下車した後、徒歩でウムチョムウィーザ学園へ通勤している。往復で毎日5キロ以上歩く計算になる。毎朝ストレッチしているというが、76歳という年齢でそれを悠々とこなしているのには恐れ入る。インドネシア人的な感覚からすると、都市でそれだけ歩くというのは普通はないだろう(交通機関のないインドネシアの田舎の人々は実はけっこう歩いているのだが)。

叔母と一緒に乗合バスにも乗った。車掌に行先を告げても、適当な返事をされることもあるので、何度も聞いてしまう。バスは日本のマイクロバスで、補助席も使うので通路はなく、着席式である。停留所のみで乗り降りする。料金は200フラン(約14円)、定員を満たすと発車する。

キガリの中心街であるムムジでバスを降り、道路を渡ろうとしたとき、たとえ横断歩道でないところを渡っても、ほとんどの車が停まってくれるのにはびっくりした。自動車の台数がまだ少ないというのも理由としてはあるだろうが、ジャカルタやスラバヤでは、車が停まることはまずない。運転も穏やかで、交通マナーはキガリのほうが良さそうに見える。

一般に、ルワンダの人々は生真面目できちんとしている、出しゃばらない、おとなしい、という評判である。タンザニアに滞在した際にも、「ルワンダ人はタンザニア人とはずいぶん違うよ」という話を聞いていた。その一方で、他に同調する傾向が強く、指示待ち的な人が多いとも聞いた。

愛すべき真面目なルワンダの人々。叔母はそんな彼らが大好きな様子である。しかし、そんな人々が、いやそんな人々だからこそなのか、ジェノサイドという、残虐な忌まわしい過去を作り出してしまったルワンダの人々の心の中を、どうしても思わずにはいられないのである。

福島でルワンダ

福島でルワンダに出会った。

震災前から福島で活動しているカンベンガ・マリールイズさんと知り合いになった。彼女は、福島に「NPO法人ルワンダの教育を考える会」を設立し、福島や日本とルワンダをつなぐ活動を通じて、ルワンダでの子供への教育機会の拡大を実践する活動を続けている。
うちの家族では、3年前に亡くなった父が留学生だったマリールイズさんをお世話していたほか、弟が国際交流の会を通じて彼女と懇意にしていた。それに加えて、叔父夫妻が今も活動のお手伝いをしているだけでなく、すでに70歳を超えた叔母が彼女のNPO法人の理事になり、1年半前にルワンダへ移住していった。
福島へ帰省中、ちょうど彼女らによるルワンダ写真展があり、のぞいてきた。そして、幸運にも、マリールイズさんご本人と会うことができた。面会をとても喜んだ彼女は、さっそく、ルワンダの私の叔母へ電話したそうだ。私もすぐに、叔母へメールを送ったところ、すぐに返信が来た。とても嬉しそうだった。
写真展では、ルワンダで子供に音楽を教える叔母の元気そうな写真が何枚も展示してあった。写真の中の叔母はとても生き生きとしていて、ルワンダの人々にいろいろとよくしてもらっている様子がうかがえた。叔母もこれまでに様々な経験を経てきているが、「もう日本へは帰らない」と言い切って1人で渡航し、ルワンダに残りの人生を捧げる覚悟なのだった。ルワンダでは、日本大使館やJICAの方々にいろいろとお世話になっている様子もうかがえた。叔母に代わって感謝の意を表する次第である。
そんなルワンダの叔母に「会いに行きたい」とメールで書いたら、「来なさい」と命令されてしまった。ルワンダは、内戦や紛争、虐殺といった過酷な経験を必死で乗り越えようと努め、その悪夢を引きずりながらも、懸命に新しい国づくりへ向かっている、アフリカでは近年最も注目される国の一つ。ルワンダほどではないのかもしれないが、かつて、インドネシアのアンボンやポソでイスラム教徒とキリスト教徒が憎しみ合い、殺し合いをした過去が重なって見える。
マリールイズさんは、東日本大震災の後も、ずっと福島に留まり、福島に寄り添いながらルワンダとつなぐ活動を続けてきた。そんなマリールイズさんと一緒になった叔母は、自分の残りの人生をルワンダの子供たちの未来づくりのお手伝いに捧げている。
そんな彼女らを見ていると、私がもやもやと頭の中で思っている活動もありだし、どんな活動でもありのような気がしてくる。大事なことは、何のために活動するか、ということなのだ。
余談だが、折しも、新年早々、NHKで故やなせたかし氏についての追悼ドキュメンタリーをみた。アンパンマンの主題歌の一節「何のために生まれて何をして生きるのか」「行け、皆の夢守るため」がなぜかじーんときた。
福島でルワンダ。世界は遠くにあるのではない。マリールイズさんと関わった人々は、ルワンダが自分の心の中に入ってくる。反対に、マリールイズさんの心の中には福島が入っている。そして、双方が双方を思い合い、対等な立場の仲間として、その輪を広げていく。フツーの人々どうしをつなげていくそんな関係が縦横無尽に広がっていけばと思う。
今年、本当にルワンダへ行って、叔母に会ってこようかな?