マカッサル、わが「故郷」

この週末は、南スラウェシ州の州都マカッサルへ来ている。人口約120万人、インドネシア東部地域への玄関口でもあるこの町は、私にとって、インドネシアにおける「故郷」といってもよい。比べられるとするならば、自宅のある東京や生まれ故郷の福島と同じか、それ以上の意味を持つ町である。

私が初めてこの町に来たのは1987年、トラジャの日系コーヒー農園を訪問するときであった。海沿いのホテルのコテージタイプの部屋から観た夕陽の美しさに感激したのが最初である。その後、1990〜1992年のジャカルタ滞在中に、妻と一緒に何度か旅行に来て、二人ですっかりマカッサル(当時はウジュンパンダンという名前だった)に魅せられてしまった。

「この町に住みたい。でもきっとそんなの夢物語だよねえ」と妻と二人で思っていた。 当時勤めていた研究所の現地研究者ネットワークのなかに、この町に住む研究者の名前は一人しかなかったからである。もちろん、研究所の先輩方でこの町に馴染みのある方はまだいらっしゃらなかった。

そんななか、奇跡が起こった。1994年頃、研究所の先輩から「JICA専門家として、ウジュンパンダンに赴任しないか」という打診が来たのである。我が耳を疑った。こんなことって、あるのだろうか。半ば興奮状態のまま、「絶対に行きたいです」と答えてしまった。その後で、何の仕事で行くのかを聞き忘れていたことを思い出した。

仕事は「インドネシア東部地域開発政策支援」だった。ウジュンパンダンだけでなく、カリマンタン、スラウェシ、マルク、ヌサトゥンガラ、パプアを含む東部地域13州(当時は東ティモールも含まれていた)全体をカバーする内容で、JICA専門家チーム3人のうち、東部地域の現場に居住する1人として活動する、というものであった。

JICA専門家として、1996年4月〜1998年10月、1999年3月〜2001年3月は、ウジュンパンダンで妻子と一緒に一軒家で暮らした。娘は1歳半から5歳までここで過ごした。インドネシア自体は通貨危機の影響でこの20年のなかで最も厳しい時期だったが、私たち家族にとっては何物にも代え難い美しい日々を過ごすことができた。

その後も頻繁にマカッサルを訪れ、2006年9月〜2008年2月は国立ハサヌディン大学の客員研究員として、研究所を辞職した後の2008年4月〜2010年4月は再びJICA専門家としてマカッサルに滞在した。数えてみると、合計で約8年半、マカッサルに滞在したことになる。

マカッサルを「故郷」と感じる要因の一つは、1996年4月に住み始めたときから今まで、ずっとお世話になっているお手伝いティニさんの存在がある。乳幼児だった娘を我が子のように可愛がってくれる一方、料理の腕は素晴らしい。私の後任もお手伝いとして引きとってくれたが、そのときに、庭師で雇っていたシャムスル君と結婚した。今では息子のワフユ君も小学5年生になった。

実は、私は今もマカッサルに1軒の家を借りており、ティニさん一家に住み込みで家の管理をしてもらっている。この家の借家契約が今月末(2013年3月末)で切れる。実は、今回のマカッサル訪問は、この契約が切れた後どうするか、の方向性を決めるための訪問であった。

2 comments

  • こんにちわ。
    タウフィクといいます。インドネシアのマカッサルから来ました。現在日本に住んでいます。日本で家族がいて、子供は二人です。
    これからもよろしくお願いします

  • こんにちは。
    この度、諸事情によりマカッサルに住むことになりました。
    ジャカルタと違って、マカッサルでは日本人の求人は少ないように思うのですが、
    特に手に職のない日本人で英語、インドネシア語ができれば何か職を見つけることは可能でしょうか?

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