醜い顔
数日前、鏡で自分の顔を見て驚いた。そこには、醜い顔の自分がいた。
小説を書いているのではない。自分の顔を本当に醜く感じた。何という顔。
いろんなことがあって、いろんなことを考えていて、気分が高ぶれなかった。笑う気にもなれなかった。子連れの通りすがりの人が、私の顔を見て「あの人に怒られないようにね」という声が耳に入ったりもした。無表情で、ムスッとして、微笑のできない自分がいた。
ものすごいストレスがあるわけでもない。難しい問題を自分が抱えている訳でもない。自分でもなぜそうなのか分からない。でも、何かに対して怒っている。その何かがはっきりしない。
そしてふと鏡で自分の顔を見た。醜い顔があった。
形だけでも変えよう、と思って、昨日、ジャカルタでの用事が済んだ後、散髪した。さっぱりした。
散髪した後、なじみの麺屋で麺を食べ、その後、ジェラードを食べた。少し気分がすっきりした気がした。
ジャカルタの宿舎へ戻って、鏡をみた。いつもの自分の顔に戻っていたような気がする。すてきな顔と自分では言えないが、醜い顔はそこになかった。よかった。
そして、いつの間にか眠ってしまった。気がつくと午前3時半。7時間ぐらい寝ていたことになる。久々によく寝た。こんなに寝たのは本当に久しぶりな感じがした。そのあと、3時間ぐらいうたた寝した。幸い、今週は、本当に久々に原稿の締切がないのだ。
原稿を書かねば、といつも睡眠時間を気にしていた。2時間仮眠して原稿、と思っていたのに、寝過ごしたので、午前4時に起きて原稿・・・、といった日々。生活は不規則になった。
これが醜い顔の大きな原因だったような気もする。
でも、それだけではない、もやもやした気分がある。
自分が今何に情熱を持っているのか。それがちょっと怪しくなっているからかもしれない。他人に対して自分の発している情熱のサインが、本当の自分の心の中の正直な情熱のサインではないのではないか、と。その二つは決して相容れないものではなく、むしろ、相乗効果をもたらすと信じてきたのだが、このところ、ちょっとパラレルになっているような気がするのだ。
どうしてこうなったのか。自分でもよくわからない。いろんなことを考えてしまう。インドネシアのこと、日本のこと、家族のこと、次の世代のこと、福島のこと、生きていくということ・・・。
でも、醜い顔はもうごめんだ。毎日、鏡の前でピースサインをしてみることにしよう。
知らない間に、難しい顔、怖そうな顔をしているときが、僕にもあります。画面で見たり、人に言われたりして、気が付きますね。たしかに。