原瀬、45年ぶりの再会(写真追加)
8月11日、小学校時代の3年間を過ごした二本松へ行ってきた。たまたま、インドネシアでお世話になった友人がJICA二本松に勤務しており、彼に車を出してもらって、いろいろ回ることとした。
岳温泉のレストラン「空の庭」でランチをした後、岳温泉と奥岳温泉の間にあるJICA二本松の施設を見学。青年海外協力隊の派遣前訓練の場所だが、任国へ派遣される隊員が訓練に集中できるために必要な設備が整っていて、快適に暮らせる工夫がみられた。
その後、岳温泉の鏡が池を散策してから、途中の毘沙門堂で右折し、原瀬川沿いを原瀬へ向かった。原瀬では小学校1~2年の2年間を過ごした。亡き父が最初に校長として赴任したのがここの原瀬小学校で、我々は学校敷地内の校長住宅に住んでいた。
父は毎日のように校長住宅へ父兄の方々を招き、酒を勧めて宴会をしていた。父はお酒がさほど飲めなかったのに、ずいぶんと無理をしていたのかもしれない。宴会のたびに、私と幼い弟2人は子供部屋へ追い立てられたものだ。毎週、月曜日の朝、「食べてけろ」といって、校長住宅へ卵を届けてくれたおじさんがいた。雪の積もった日、家族みんなで庭にカマクラを作った。
校長住宅はとっくに取り壊され、跡形も残っていない。住宅があったと思しき所にマンホールのふたがあった。
枝振りはだいぶ変わったが、旧校門の脇の松の木だけは健在だった。いつも、この松に登って遊んだものだった。
旧原瀬小学校の隣のお店の前を通った。かつて、校長住宅に住んでいるころ、お菓子やアイスをよく買いに行った店。果たして、前のまま、おじさんやおばさんは健在なのだろうか。自分のことを覚えていないと言われたらどうしよう。不安でドキドキして、入ろうか入るまいか、しばらく店の前で迷っていた。
小学校2年が終わるときに原瀬を離れて以来、お会いすることはなかった。前回原瀬に来たときは、彼らに会うことがなぜか怖くて、素通りした。今回だって、やはり怖い。
車を用意してくれた友人が「せっかくだから入ったらどうですか。私も会ってみたいし」とせかす。でもやはり怖い。もう45年も前の話なのだ。
よし、と覚悟して、店の戸をあけ、「ごめんください」と声をかけた。店の中に入ったら、そこは45年前と同じだった。私がアイスを買いに来た頃の雰囲気と同じだった。
奥から白髪頭のおじさんが出てきた。突然の訪問を詫びながら、話をすると、おじさんはすぐ思い出してくれた。父は40代初めの若さで原瀬小学校の校長に赴任していたことをよく覚えていた。
おじさんが呼ぶと、おばさんが奥から出てきた。「松井です」と挨拶すると、「和久君かえ」とすぐにおばさんが答えた。自分では意識していないのだが、どこかに45年という時間を超越させるような人の面影というものがあるのだ。
おじさん・おばさんと、昔、原瀬にいた時の思い出話から、原瀬を去った後の人生について、いろいろな話をした。
ほどなく、店の長男が帰ってきた。私の1つ上、よく遊んでもらった兄貴分だった。照れ屋の性分は全く変わっていなかった。話はさらに弾んだ。昔、父がお世話になった父兄の方々の多くが亡くなられたり、体を壊して病院にいたり、されていた。
ふと上を見ると、農作業の鎌をイメージした原瀬小学校の校章が掲げられていた。旧校舎を取り壊す際に、お願いしてもらってきたそうだ。
残念ながら、皆さん、写真は苦手ということで、記念写真を撮らせてもらえなかった。長男の名刺だけをいただいて、店を後にした。
長い人生の中で、わずか2年間しかいなかった二本松市原瀬。1学年1クラス、全校児童わずか160人の小さな農村の小学校とそこでの生活が私の原点の一つになっている。
雑木林が緑に燃えて
小鳥が窓でさえずるころは
みんなの胸に湧いてくる
希望、希望、希望と夢が
ああ、岳山(だけやま)の雲を呼ぶ
行こう 元気に 学びの道を
光あふれる 原瀬小 原瀬小
光るさざなみ 原瀬の川よ
吹雪の朝も がんばる道よ
みんなの胸に燃え上がる
息が 力が 働く汗が
ああ、新しい 夢を呼ぶ
行こう なかよく 学びの道を
風もさざやく 原瀬小 原瀬小
うろ覚えだが、原瀬小学校の校歌。45年経っても、まだ覚えているのが我ながら不思議だ。
昨日の、45年経っても、まだ覚えてくれている原瀬の方々との出会い、とても大切で温かい気持ちになった。覚えていてくださって、本当にありがとう。
世界中、どこにいても、原瀬のことを忘れはしない。福島のことを忘れはしない。