パレンバン訪問(その1)
インドネシア34州のうち、まだ行ったことのない州が5つある。そのうちの一つ、南スマトラ州パレンバンへ思い切って行ってきた。実質わずか1日という短い滞在だったので、いろいろ見えていないところもあるが、とりあえず、書き留めておきたい。
なお、パレンバンの食べ物編は、追って、食べ物ブログ「食との出会いは一期一会」に書きたいと思う。
パレンバンに着いたのは1月24日夜。片側三車線の広い道路を走る車はまばらだ。道路を渡るには、何が何でも歩道橋を渡るしかない。ここの歩道には、何も置かれていない。何も置かれていない本当の歩道。歩道の下は暗渠排水路となっている様子。
しっかりと整備された道路と夜の人通りの少なさから受ける印象は、「パレンバンは真面目な町」というものだった。夜中に小腹がすいても、食べに行くところがない。
夜のパレンバンに、大モスクとその前にある噴水が光っていた。この噴水は、パレンバンで東南アジア・スポーツ大会(SEA Game)が開催されてからは、SEA Game噴水と呼ばれているそうである。
一夜明けて、街には喧騒があふれていた。道路を通る車の台数は多く、裏道はあちこちで渋滞している。通りには店が立ち並び、市場は人の波で活況を呈していた。
さっそく、前の晩に見た大モスクへ行ってみた。このモスクは、表側が近代的な建物になっているが、裏側は古い建物が残されている。その古い建物の形がユニークなのだ。鐘楼のような高い建物が一番古く、隣の建物の屋根には黄色のヒレのようなものが付けられている。これは龍をかたどったものなのだろうか。
大モスク(Mesdjid Agung)は1748年、パレンバンのスルタンであるマフムッド・バダルッディン1世によって建てられた。建立に当たっては、地元華人たちの支援が大きかったのかもしれない。それが何となく中国風の屋根の形に反映されているように見えるのである。
大モスクから歩いてすぐのところには、スルタン・マフムッド・バダルッディン2世博物館がある。どんな博物館なのか、中に入ってみた。
パレンバン周辺は、4~14世紀頃に栄えたスリウィジャヤ仏教王国の中心であるが、それに関する記述や展示は極めて少ない。スルタンの博物館ということで少ないのはやむを得ないのかもしれないが、石器時代の次にそれと同等の小さな扱いだったのがちょっとびっくりした。
展示物の中に「古い書き物」というものがあり、どれぐらい古いかと思ってみてみると、1800年代のカガナ文字による書き物であった。1800年代の書き物が「古い書き物」なのだ・・・。あたかも、パレンバンの歴史は、スルタンの時代から始まったかのような展示物であった。スルタンの時代以前は先史時代であり、スリウィジャヤ仏教王国の存在には触れるものの、基本的にパレンバンの歴史は実質上スルタンの時代から始まったかのような印象を受ける展示だった。
博物館から少し川岸へ歩いたところで、船を雇い、ムシ川に浮かぶクモロ島という島へ行ってみた。この島には九重塔があり、土日はたくさんの市民がやって来る観光地である。
島に着いて、中国(風)寺院があった。赤や黄色で塗られ、そこに描かれる絵は伝統を感じさせるものではなく、ささっと書いたような稚拙な絵だった。寺院自体は1960年に建立され、2010年にこのケバケバしい色で改築された。
九重塔はその先にあった。2006年に建てられたものだが、建物自体は、まるで巨大な張りぼてのような建物だった。もちろん、そこに描かれている絵は稚拙そのもので、何ら、寺院らしき厳かな雰囲気を感じない。
そう、このクモロ島の寺院も九重塔も、一言で言って、安っぽいのである。文化のかけらも感じることができない。
こんな場所でも観光地となり、休みの日には大勢の市民が訪れ、それを目当てにしたヤシジュース屋が何軒も店を出すのだ。
雨がぱらつくなか、クモロ島を後にして、博物館近くの船着き場へ戻る。船着き場とクモロ島の間には、インドネシア国内最大の国営尿素肥料工場があり、船上でもアンモニアの匂いが相当にきつかった。
船着き場からベチャに乗って、ンペンペを食べて、ぐるっと街歩きをした後、ムシ川にかかるアンペラ橋を渡って、対岸へ行ってみることにした。橋を渡る乗合をさがして、乗り込んで「さあ出発」と思ったとき、乗合の前座席のおじさんが「あんたのカバンからさっき何か盗まれたよ」というので、「えっ?」と思ってカバンを探ると、ポケットに入れておいたお古のデジカメが消えていた。おじさん曰く、犯人は3人組の若者だったようだ。
ガクッと気落ちしたまま、乗合で橋を渡り始めた。
(その2に続く)