旅をするということ
今、母校の大学生によるスタディツアーのお供をしている。ジャカルタ、スラバヤ、マカッサル、西スラウェシ州ポレワリ、と移動する、学生にとってはけっこうハードかつ長期のツアーになった。
同行しながら、彼らがどんどん変わっていく姿を見るのが嬉しい。最初は日本から持ってきた常識や固定概念でインドネシアを見ていたのが、数日もすると、現場の視座を意識するようになってくる。現場を歩きながら、自分たちの持っていた先入観やイメージがことごとく覆っていく。その驚きを彼らの生の声で聞きながら、旅は続く。
感受性の強い彼らだからこそ、良いもの・悪いもの、好きなもの・嫌いなもの、様々なものを吸収していく。
私の役割は、彼らがただ単にそれを吸収するのではなく、現場から発信される様々な情報を、自分の頭で一生懸命に考え、それをつなげて自分なりの新たな考えを作る作業に適切なヒントや気づきを彼らへ促すことである。そう、静かに、ファシリテーションをしているのである。
私自身も、こうしたツアーに同行することで、新たなヒントや気づきを得ている。常に新しい刺激を求め、思考回路をリフレッシュさせながら、物事を批判的かつ建設的に見ていこうとすることで、自分が生きていることを実感するのである。
旅とはまた、学びである。自分の常識や思考を研ぎ澄ませるためには、新たなものを吸収し、学びを続けていく。自分にとって、それはいつどこでも行なっていきたいものなのだが、旅はまさにその刺激を得られる最たるものである。そして、それは自分だけのものではなく、旅で出会う様々な人々との交わりの中で、当人たちが意識するとしないとを問わず、新しい学びをあちこちに引き起こしているような気がする。
旅は出会いを引き起こす。旅は自分が動いていることでもある。動いていると、それに触発されて別の何かが絡まりながら新たに動き出す。そして、新しいつながりが生まれ、新しい何かが生まれてくる、と期待できる。
これでいいのだ。もう全部分かった。偉い人の言うとおりにすればよい。旅は、そんな言葉を打ち消す。変わらなければならないのは他人ではなく、自分なのだということを自覚できる。
自分たちの大事な世界を守るためには、「高い塀」や「ガードマン」に囲まれたその世界に閉じこもっているだけでは十分ではない。新しい世界を知り、そこと知り合うことで、自分たちを受け入れてくれる世界を広げていく。それが本当に広がって定着したときに、「高い塀」や「ガードマン」は何の意味も持たなくなる。
旅ができることに感謝し、自分の知らない世界を知り、新しい自分を作り続けるために、今日も旅を続けていく。