ジャカルタの恩人Sさんの死
昨日は、ちょっと落ち込んだ一日だった。私がインドネシアと深く関わるきっかけを作ってくださった恩人Sさんが亡くなったという知らせを聞いたからだ。
1980年代末、私は日本でインドネシア人留学生からインドネシア語を学んでいた。当時の職場から2年間、インドネシアに滞在し、インドネシア語を学びながら現地経験を積むとともに、インドネシア社会についての理解を深め、インドネシア地域研究者としての基礎を築く機会が与えられた。
当時はまだ20代。普通の駐在員のような大きな一軒家に住んで、運転手付き自家用車を使う生活ではなく、20代でしかできない滞在をしようと思った。日本人や外国人がほとんど住んでいないところに住み、インドネシア人のフツーのお宅に下宿し、交通手段は公共交通機関のみ、体全体で自分なりに「インドネシア」を身につけようと思った。
たまたま、インドネシア語の先生である留学生のE君は、外国人がほとんど居ない東ジャカルタに住んでいたので、彼の家に下宿させてもらえないかどうか、尋ねた。
E君は父親を早くに亡くし、母親のもとで育てられてきた。E君は母親であるSさんに相談したが、小さい家だったので、下宿を受け入れることは難しかった。そこで、ジャワ人の敬虔なカトリック教徒であるSさんは、地区のカトリック教徒のリーダーであるBS氏に相談した。そしてBS氏の家に下宿させてもらえることになった。余談だが、後で聞くと、BS氏の奥さんは昔、戦時中に家族が日本軍からひどい目に会ったのを覚えており、日本人と聞いてどんな「鬼」が来るのかととても怖がっていたという。
BS氏の家に下宿させていただいた2年間は、今から振り返れば、私のインドネシアに対する見方を養ううえでとても重要な2年間だった。毎日がインドネシア語オンリーの生活であり、衣・食・住すべてにおいて下宿先の家族とともに過ごした。スハルト政権の絶頂期であったが、エリートやメディアから伝えられるインドネシアとは異なるインドネシアを様々な観点から学び、いつの間にか、外国人でありながら、そこの人々と同じように政府や警察を恐れるような感覚さえ身についてしまうほどだった。
そう、E君の母親であるSさんがいなければ、私のインドネシア現地経験は深まらなかった。Sさんには折に触れてお世話になった。いつも笑っていて、冗談ばかり言う、しかしどこか奥ゆかしさを持ったすてきな方だった。
それから何年かして、Sさんは日本の大学院で学ぶE君を訪ねて、日本を訪れた。ちょうど、結婚して間もないE君のところにできた孫の顔を見に来たのであった。日本を楽しまれるSさんの笑顔が思い出される。
インドネシアと付き合いが始まってはや30年になる。この間、数えきれないインドネシアの方々が自分の恩人となった。Sさんはその初期の頃の研究者やエリート以外の恩人の一人である。そのSさんが亡くなったという知らせを聞いて、深い悲しみとともに、感謝の気持ちでいっぱいである。
そして、これまでの自分のインドネシアとの付き合い方を振り返りながら、これからのインドネシアと自分との関係を考えている。Sさんを含むインドネシアの恩人たちに対して、自分はどこまで恩を返してきたのか、と。
結果的に、インドネシアが単なる研究対象で済まなくなった背景には、Sさんを始めとする恩人たちの存在があった。これまでも、そしてこれからも。Sさんのご冥福をお祈り申し上げたい。心からの感謝をお伝えしたい。