寄り添うということ
寄り添うということを改めて考えている。
相手が求めているかどうかも分からずに寄り添う、ということは普通はない。
相手が一緒にいてくれると嬉しいと思える関係ができてはじめて、寄り添うということが可能になる。
そして、寄り添うというのは一過性のものではない。
相手が「もういい」と言うまで、ずっと長い時間、求められる分を寄り添うことになる。
寄り添うというためには、常に、物理的に相手のそばにいなければならないのだろうか。
一度会ったきりで、その後なかなか会うことがなくとも、相手が「寄り添ってくれていてありがたい」と思ってくれるような関係づくりは、非現実的なのだろうか。
相手のことを想う。自分のことを想ってくれていると感じる。それは、寄り添っているということと同じなのか違うのか。
相手のそばに居ても、その相手が「自分のことを想ってくれている」と感じなければ、寄り添っていることにはならないのではないか。
物理的にたとえ離れていても、寄り添ってくれていると相手が想ってくれる関係はつくれるのか。
人々、庶民、市民、といった言葉ではなく、個人個人の固有名詞でのお付き合い。
固有名詞の個人個人を通じたそこの人々やコミュニティとのお付き合い。
ビジネスライクではなく、本当に相手の未来や幸せを真剣に考えられる自分かどうか。
常に相手の立場に立って、相手から「もういい」と言われるまで、一生ずっとお付き合いするつもりで関わっている自分かどうか。
相手に寄り添っている、と思うことが単なる自己満足なのではないかと自問できる自分かどうか。
ふと思う。
そこには、国境はない。国籍の違いもない。
自分がモバイルに動いていても、相手のことを想う、自分のことを想ってくれている、という関係を作ることはできる。それは、相手に寄り添うことと同じなのか違うのか。
でも、相手のことを想う、自分のことを想ってくれている、という関係から、本物の活動はすべて始まるのではないか。
日本中をくまなく歩いた宮本常一氏がどのようにたくさんの日本の地域と関わったのか。
必ずしも数が多くなるかどうかは分からないが、日本を超えた形で、宮本常一氏のように、世界中の地域と関わることができるのではないか。
それぞれの地域と、一生ずっと深くお付き合いする覚悟を自分のなかで確認しなければならない。
3月、アイムジャパン研修生OBが作ったインドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)から強い要請があり、アドバイザーを引き受けることにした。インドネシア側からお願いされたことを自分としては光栄に感じている。彼らとは一生ずっとお付き合いする気持ちになり始めている。
かわいそうだから寄り添うのではない。相手との信頼関係を築き、相手の同意のうえで、一緒に新しい何かをしてみたい。そう思っているだけである。
そんなふうに思いながら、ジャカルタ、スラバヤ、マカッサル、東京、福島、その他の地域のことが頭のなかでぐるぐる回り始めている。