マカッサルでさっそく活動
11月20日、マランからスラバヤ経由で昼過ぎにマカッサルに到着しました。
まずは、一年以上の音沙汰のなかった、昔マカッサルに住んでいたときのお手伝いさん夫婦にいきなり会いに行きました。彼らの携帯番号がたくさん記憶されていて、どの番号なのか分からなかったからです。携帯の支払いが途切れると、自動的に、番号が使えなくなるため、放置しておくと、そうなってしまうのです。
元気そうでよかったです。このお手伝いさん、料理名人で、彼女の料理に何度助けられたことか、数え切れません。
インドネシア料理はもとより、中華料理、西洋料理、そして日本料理と何でもござれ。そばつゆは醤油とみりんでしっかり作るし、おせち料理も作ってしまいます。アメリカ風の豆のスープも絶品です。
彼女を使ってみたい方がいれば、是非、ご紹介します!!
続いて、インドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)南スラウェシ支部の皆さんと懇談しました。彼らは、日本への技能実習生OBで、今、KENJI日本語学校というものをつくり、日本語を勉強する場をつくっています。そこのカフェで色々と話をしました。
彼らの日本語はまだまだですが、もっともっと日本の皆さんとコミュニケーションをとっていきたいそうです。そして将来、日本への技能実習制度を通じて、南スラウェシにとって有用な人材育成に貢献したいという夢も持っています。
夜8時からは、カンポン・ブクという、友人のジンペ・ラフマン氏夫妻が運営する図書館で、今回、スラウェシ中部地震被災地支援で募金を送付したインドネシア海洋学士会(ISKINDO)のカマルディン氏、INSISTネットワークの実働部隊だったイニンナワ・コミュニティのアスフリヤント氏とイサック氏と会い、11時過ぎまで懇談しました。
彼らから主な活動状況を報告してもらい、現地での様々な裏話を聞くことができました。とくに、データをきちっととって支援を行うことの必要性とともに、データをとることの困難性(液状化で移動させられた住居とそこの元々の所有者との関係はどうなるのか、など)も指摘されました。
また、災害が起こったのは神の怒りだというような非科学的な言説の流布や、現パル市長の追い落としを企てる者たちによる政府批判、カイリ語の様々な地名の本当の歴史的な意味のほか、自社・自団体の宣伝のための援助物資供与競争、といった側面も指摘されました。
こうした懇談の中から現れてきた重要な言葉が「生きる力」(daya hidup)でした。メディアはどうしても災害のマイナス部分を伝えたがるが、本当に、そこでのプラス部分をもっと伝えることで、被災者の「生きる力」を助けることになるのではないか、と。
たとえば、パルなどからマムジュやピンランを通ってマカッサルへ避難する人々に対して、その街道沿いの多くの家がオープンハウスをしていたことは、ほとんど報じられていません。すなわち、多くの家が、避難者に対して気軽に立ち寄ってもらえる用意をしていたのです。食事の用意はもちろん、休息をとったり、沐浴をしたり、それを無償で提供していたのでした。
また、南スラウェシ州からはたくさんの米が被災地へ送られました。その影響で、パプアや北マルクでは米の流通量が減り、米の価格が急騰したそうです。
「生きる力」という言葉を聞いて、日本での震災後の孤独死や社会の分断のことを思いました。INSISTネットワークの仲間たちは、単に被災者を支援していただけでなく、彼らの「生きる力」をどうやって育んでいくかも意識していたのだと改めて思いました。
そしてこの「生きる力」は、震災が起こっても起こらなくても、インドネシアだけでなく、日本でも本当に必要とされていることなのだ、果たして日本はそれを応援する社会になっているのだろうか、などとつくづく考えてしまいました。
11月21日は、今から3時間後の午前4時45分に起きて、5時45分発の便で、いよいよパルへ飛びます。しばしの就寝です。