アートへのアクセスを民主化させたい(追記あり)
昨日(5/3)、いつものように夜、NHKのEテレの「日曜美術館」を観ていた。
番組で取り上げられていたのは、オラファー・エリアソン氏の「ときに川は橋となる」という名の展覧会。東京都現代美術館で開催されているはずだった。
展覧会の詳細はこちらから → https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/olafur-eliasson/
オラファー氏のアートは、どれも魅力的であるとともに、いずれにも、なぜこのようなアート表現をするのか、という彼の思想や哲学が明確に存在する。
そして、ディーテールまで計算して創りあげるというよりも、むしろ、自然の光や風が、二度と再現できないような、その瞬間瞬間の偶然の美しさが自ずと現れてくる。湧き上がってくる、といったほうがいいかもしれない。
その彼が番組の中で語っていた言葉に惹かれて、書き取っていた。
アートへのアクセスを民主化させたい
アートはプラットフォームのような場所である
社会的につながれるアートという場所で何ができるかを考えたい
アート作品を誰がどのように感じようと、それは自由であり、観ている人たちも、実はその瞬間瞬間にアート作品の一部と化している、ということか。
様々な見方や、様々な感覚や、様々な解釈がそこで出会い、そしてそれぞれがそのまま混ざり合う。そのなかの何物も否定されない。誰がどう観ても否定されない。そういった様々なものがそのまま存在する。
場としてのアート、ということか。今、様々な場をつくるということがよく言われるが、アートもまたそんな場所を作れるのだ。
アートのアクセスを民主化させたい、ということは、まだ民主化されていないということなのか。もしかすると、民主化させていないのは、アートを何か特別なものと意識している私たちなのかもしれない。そんなことに気づいた。