【ぐろーかる日記】香港が香港であり続けることを信じる
ここ数日、香港のことをずっと考えていた。香港がどうなってしまうのか、答えのない問いについて考えていた。頭が痛くなった。
初めて香港へ行ったのは、大学を卒業して数年後だった。大学時代の恩師やゼミの仲間たちと一緒に、油麻池のYMCAに泊まり、地下鉄に乗りまくって、九龍地区も香港島も、あちこち歩き回った。よく歩き、よく食べた。
近代的なネイザンロードを一歩入った女人街の賑わい。その雑踏の中で、ミカン箱に座って、釣り下がった蛇の皮を主人が手際よく裂いてパッパッと鍋に入れた蛇肉のスープ、体の芯から温まった。女人街からさらに裏の路地へ入ると、夜の灯りが小さくなり、薄暗いなかで歌を歌う人や大道芸人が、誰もいないなかで芸を披露していた。
銅鑼湾から湾仔へ向かう大通りから山側に一つ入ると、そこは生活の匂いのする空間。高齢の方々しか見えない飲茶屋でとびきり美味しい点心を味わい、立ち並ぶ店という店に吸い寄せられそうになった。ヴィクトリアピークから見た香港の夜景、わずか数分の特別な風情を味わったスターフェリー。日曜日の中環(セントラル)の公園で出会ったたくさんのフィリピンからの出稼ぎ労働者。船で渡った長州島は、きっと昔の香港はこんな港町だったと想像できるような別空間だった。
これらは、今から35年前の私の記憶の香港のイメージである。その後も、数回、香港を訪れたが、やはり飲茶を味わい、エッグタルトを探し、時間さえあれば食べ歩き。書店へ行くのも楽しみだった。
近代的で整然とした街並みの一方で、ごちゃごちゃした雑踏や生活臭ぷんぷんの人間むき出しの空間もある、そんな香港が大好きになった。生きることを楽しんでいる人々がいる一方で、生きるために必死な人々もたくさんいて、ぬるくてほんわかした日本の自分の周辺からすると、生きるのが厳しい・きつい感じもしたものだった。自由ではあるが、何かというとカネがモノを言い、心とか情けとかでうやむやに済ませない感じがしたのである。
ここで生きていくのは大変だけど、旅で行くのは何度でも行きたい。自分にとっての香港は、そんな印象の場所だった。
1997年7月1日、香港が中国へ返還され、50年間の一国二制度の実験が始まってから昨日で23年。香港は大きな節目を迎えた。
普通に考えれば、50年間、一国二制度を維持して、50年を終えていきなり翌日から一国一制度にガラッと変わるということは想像できない。中国からすれば、少しずつ、段階を経て、一国二制度を終わらせ、中国の他地域と同じ状態に持っていこうとするだろう。近年の度重なる騒動とその過激化を理由として、中国は一気に一国二制度を終わらせる方向へ舵を切ったものとみえる。
他方、中国化の傾向の強まりを感じた香港の民主化運動家らは、一国二制度の堅持を旗印にしつつも、あわよくば、一国二制度を撤回させて、民主的な香港を永遠に維持させていけるのではないかと思っていたのではないか。中国の今の体制がこれから27年後まで維持されるとは限らない。民主的な香港がそのまま維持される可能性をみたのかもしれない。
しかし、中国の現指導部は、一国二制度を27年後まで待つという選択はできなかった。民主化というか香港化が今後、中国の他地域へ波及する恐れを感じていたのではないか。国家体制の掌握力に絶対的な自信があれば、もっと別の柔軟な方法で懐柔できたのではないか、と思ってしまう。
香港警察があんなに残虐な行為をするとは思わなかった。香港映画に出てくる警察のイメージが強かったせいもあるだろう。かなり前から、彼らは本当に香港警察なのだろうかという疑念があった。狭い香港で、身内や知り合いに警察官のいる家族はすぐに分かるはずだと思うからである。自分の身内や知り合いがいるかもしれないデモ隊に、あのような残虐な行為ができるだろうか。あるいは、それほど、警察官は身分的・階層的に他の市民とは別の世界にいるのだろうか。
もちろん、あきらかに、デモ隊側も警察を挑発していた面はある。事態がエスカレートするにつれて、高尚な目的から離れて、仲間がひどい目に遭った両者が憎しみをぶつけ合っていた面も強かったと感じる。
同時に、おそらく、こうした事態にならなければ知り合いになることもなかったであろう、匿名の市民どうしが連係し、互いに助け合う光景は、共通の敵が明確だったという理由はあるにせよ、個人主義者ばかりと思っていた香港の人々の内面に何らかの重要な変化を引き起こしたようにも思う。
これまでデモ隊に対して冷めた目で見ていた人々は、このような状態になることを警戒して恐れていたのかもしれない。彼らは、民主的な香港を守るという意識は同じでも、中国側の挑発に乗って反発し、最後には、絶望のうえに香港独立まで主張せざるを得なくなる、といった事態は慎重に避けたかったのではないか。表向きは中国に従順にふるまいつつも、魂までは売り渡さない、時間を稼いでうまくしのいで、若者たちの命や生活を脅かさせないように何とかうまくやっていく、と思っていた人々もきっと少なくなかったと思う。
そんな人々のなかにも、中国指導部に対してそのような慎重な態度ではもう駄目だ、という絶望感が強まり、行くところまで行ってしまった結果でもあるのだろう。
香港問題を内政とする中国は、国家安全法の成立・施行をいつでもできた。もっと早く、あるいは27年後にすることもできた。1997年7月以降、香港は中国領なのだから。イギリスやアメリカが、一国二制度50年間維持に違反した、と非難しても、内政干渉の一点張りで否定してしまえるのは、最初から明らかだった。
香港はこれでもう駄目になってしまうのか。1997年7月に中国へ返還されたときにも、香港はもう駄目になるという見方が強かったと思う。その後の23年で、たしかに香港への中国の影は強まったが、香港は香港であり続けた。もちろん、これほど激しいデモや警察の暴力がひどい状況になるとは予想できなかったかもしれない。しかし、香港は、随一ではなくなったかもしれないが、依然としてアジアの金融センターの一角を占め続けた。その位置づけを中国が簡単に放棄するとは思えない。
香港は、したたかに香港であり続けるだろうし、そうであることを信じている。国家安全法は、たとえ中国の現指導部体制に変化があっても、中国という国家が存在する限り、香港を縛り続ける。香港が中国の一部であり続けることは、一国二制度の約束でも明らかである。
香港がどうなるか、ということは、中国がどうなるか、そして台湾はどうなるのか、ということとパラレルに見ていかなければならない。中国の現指導部体制とその統治手法が永遠に続くとは思えない。中国は、表向き、一国二制度を否定も破棄もしていない。中国の態度が軟化する可能性もあるし、逆に硬化する可能性もある。一国二制度の建前を維持するために、中国がどのような統治を行っていくか、注目してみていくしかないが、中国に追随するか、香港は独立するか、といった二律背反ではない、より現実的でしたたかな解決策を香港は目指していくのではないか、と期待したい。
世界は、香港で何が起こったかを見続けてきた。香港の若者たちや一般市民がどんな気持ちで立ち上がったのか、警察にどのような暴力を受けたのか、をしっかり記憶に焼き付けた。自分たちの生活が国家によって脅かされるという絶望を垣間見せた。悲しいことだが、多くの人々が、身の安全と安らかな生活を求めて、香港を離れることになるだろう。
国家安全法は、香港を訪れた旅行者でも、中国の体制に対して批判的な言動をとったと見なされれば、処罰の対象にするといわれる。香港以外、たとえば日本においても、治外法権で中国が直接処罰することができないにしても、同様の扱いと見なされるようである。この点については、各国が自国民の言論の自由を守る対応をきちんと行わなければならない。
これにより、香港の問題は、もはや香港人だけの問題ではなく、中国に関して意見を述べる世界中のすべての人々にとっての問題ともなった。悲しいことだ。
香港の専門家ではない自分は、お粗末な感想しか語れない。ただ、香港が今後どのようになっていくかを、中国がどのようになっていくか、台湾はどうなるのか、と合わせて、見続けていきたいと思う。そしてまた、体制がどうなろうとも、おそらく変わることのない、飲茶の点心やエッグタルトを求めて、何度も香港を訪れる日が来ることを願っている。香港が香港であり続けることを信じている。