福島の古民家から何かを始める

福島の実家に帰省中の1月4日、友人の紹介で1軒の古民家を訪問した。実家から車で10分、明治6年に建てられた大きな家である。

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囲炉裏を囲みながら、この家の所有者であるご夫妻から色々なお話をうかがった。江戸時代以来のこの辺りの村の歴史から始まり、この家に対する思い、どのように家が使われてきたか、これからどんな風に家を守っていきたいか、といった話をじっくりとうかがうことができた。

今回の訪問は、観光気分で観に行ったわけではない。

この福島の古民家から何かを始めようと思っている。

 

「つなぐ・まなぶ・うごく」を開始

明けましておめでとうございます。

2015年が始まりました。新年直前にスマトラ沖地震から10年、スラバヤ発のエアアジア機事故、今年になって間もなく阪神淡路大震災から20年と、生きていること、家族と一緒に東京の自宅で新年を迎えられたことを大変ありがたく、また幸運なことと、しみじみと感じながら新年を迎えました。

今年は、本当の意味で、独立コンサルタント・ファシリテーター・カタリストとして、本物の仕事を創り、実行していく、その初めの年にしたいと思います。

時期は未定ですが、今年前半に個人会社を設立し、活動を本格化させたいです。人、地域、資源、技術、社会などを、ときには国境を超えて、ゆるやかに結び、それらの結びつきのなかに、一方向ではなく、かつ深い学びを促し、その学びや、それから派生したさらなる学びを通じて、新しい価値を創り出すための行動を促していく。そのためのプロフェッショナルな触媒(カタリスト)として活動するための会社、です。

このため、今年から、必ずしもインドネシアのみにこだわらない活動をしていきたいと考えています。おそらく、1年間の活動が日本(福島、東京、その他の地方など)、インドネシア、その他の3つに分かれ、その間を行ったり来たり、モバイルで動きまわることになると思います。

なぜ、私は動きまわるのか。それは、風の人になるためです。一方向ではない、双方向または多方向の風として動き、私が何かを教えるのではなく、それぞれの場所の土(地元)の人が気づき、自らなにか新しい価値を生み出していく、そのプロセスへのお手伝いをするためです。風となって、ある場所での新しい価値を生み出す活動を他の場所へ伝えていく、という役目も果たしたい。だから、モバイルで動き回ることに意味があると考えるのです。

そして、風としての自分は決して主役にならない。その場所の人が自ずと主役になる。そんなカタリストになりたいと考えています。

そんなことを思いながら、通常の活動報告とは別に、本ホームページ内で、日頃ふと思うこと、考えることを徒然につづるためのブログ「つなぐ・まなぶ・うごく」を本日から始めることとしました。独立したプロフェッショナルとして、組織や団体にとらわれず、自分なりの意見や見解を述べていきたいと考えています。

他の書き込みと同様、引き続きご笑覧いただければ幸甚です。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

バニュワンギは可能性いっぱいの県

東ジャワ州東部のバニュワンギ県は、ジャワ島の最東部、バリ島に面した県です。なぜかスラバヤでは、「バニュワンギ県にはぜひ行きなさい」と様々な人から勧められていたので、何があるのか、一度行ってみたいとずっと思っていました。

12月18〜19日、そのバニュワンギ県へ行ってみました。18日、まずは、バニュワンギ県知事のアズワル・アナス氏と面会。まだ40歳の若いこの県知事は、様々な斬新で革新的な行政運営で、東ジャワ州内、いや全国的にも注目されている県知事です。

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県知事との面会は1時間弱でしたが、やる気満々の様子。1年間ほぼ途切れなく続くイベントを活用しながら、バニュワンギ県を対外的にアピールし、アグロ関連への投資を積極的に誘致しようとしています。許認可はもちろんワンストップサービス、許認可手続にかかる時間は全国でも有数の速さを自認しています。

県知事と面会した後、県許認可サービス局で細かな投資環境についての話を聞き、詳細な情報を得ることができました。この県許認可サービス局には相談室が設けられ、入口には、バニュワンギ県の年間イベントカレンダーに関する垂れ幕が掲げられていました。

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今回の出張でお世話になっているインドネシア銀行ジュンブル支店は、バニュワンギ県で有機農業の支援も行っている。インドネシア銀行はインドネシアの中銀ですが、もともとはオランダ植民地時代のジャワ銀行を起源としており、CSRの一環として、地方支店は地元の中小企業や地域産業の振興に貢献することが求められています。今回は、彼らとともに、有機農業で赤米や黒米を生産している農民グループを訪ねました。

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19日は、バニュワンギ県許認可サービス局の職員の案内で、まず、漁港とそのすぐ側にあるロングビーチを訪問しました。バリ島を前に見る素敵なビーチでした。

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バニュワンギの北方向の海岸はなかなかきれいですが、ここはけっこう深い海のようで、新しい港の建設計画がいくつかあるとのことでした。

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この海岸から遠くないところに、工業団地をいくつか建設する計画があり、そこにはすでに、インドネシアの大手食品工場や製粉工場のほか、中国の製鉄会社が進出を計画しているということでした。ここでのポイントの一つは、水深18メートルの港湾建設計画でした。

それら工業団地の一つを建設予定の民間企業ウォンソレジョ社で話を聞きました。すでに、政治家ルートで、日系企業からも問い合わせが来ているとのことでした。

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バニュワンギ県は、実はコーヒーの産地でもあります。標高の低いところでとれるロブスタ種ですが、バニュワンギ県内でのローカルブランドをいくつか立ち上げ、地場コーヒーの振興を試みていました。味もなかなかで、ロブスタ種でも美味しいものは美味しい、と感じました。

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端的に言えば、バニュワンギはいろいろな意味で可能性がいっぱいの県だと思いました。スラバヤよりもバリのほうが近い、という地理的条件も、このバニュワンギをユニークなものとしているように思われます。

バニュワンギ県の投資環境調査結果については、別途、ジェトロを通じて報告を行う予定です。

ニュースレター発行終了に関して

2012年9月から開始し、JACニュースレターとして2014年9月まで継続、JAC退職後も購読期間の残った方へ送り続けてきた、私のインドネシア政治経済に関する週刊ニュースレターの発行を本日付で終了。これまで全2615本の記事を送りました。

来年以降の活動の方向性を踏まえ、今後どうするか現在検討中です。

インドネシア政治経済に関する有料メルマガを新たに発刊するか。その場合、購読してくださる方はどれぐらいいるのか。他方、私家版として自分の作業用メモに留めるほうがよいのか。

ご意見・ご提案等あれば、よろしくお願いいたします。

枝豆のジュンブル県を訪問

12月17〜19日の予定で、東ジャワ州ジュンブル県とバニュワンギ県を訪問し、投資環境情報を収集中です。この2県は、スラバヤにてよく話題にのぼり、なぜそんなに注目されているのか、一度行ってみて中身を確かめたいと思っていました。

この2県には、スラバヤから直行便が飛んでいます。一つの州のなかだけで直行便が複数ルート飛ぶというのは、広大なパプア州などを除いてとても珍しいことです。

ジュンブル県へは、1日1便、ガルーダ・インドネシア航空がプロペラ機を飛ばしています。時間節約のため、今回はこれでスラバヤからジュンブルへ飛びました。

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ジュンブル空港にて

ジュンブル県は、もともと高級葉タバコの産地。国内のタバコ工場へ出荷するだけでなく、葉巻などの原材料としてヨーロッパへ輸出されています。葉タバコ栽培やタバコ工場が大きな雇用機会となっていますが、近年、合理化のためタバコ工場が相次いで閉鎖されたことが大きな話題となっています。

今回は、中銀であるインドネシア銀行ジュンブル支店のお世話になっています。インドネシア銀行はもともとオランダ植民地時代のジャワ銀行を前身としており、単なる金融管理だけでなく、CSRとして地場の事業者育成や地域振興に対しても取り組んでいます。ジュンブル支店は今回訪問したジュンブル県、バニュワンギ県のほか、ルマジャン県、ボンドウォソ県、シトゥボンド県の計5県を管轄しています。

インドネシア銀行ジュンブル支店のアレンジで、ジュンブルにあるインドネシア国内最大の枝豆工場へも訪問しました。

ジュンブル県の枝豆工場にて。

ジュンブル県の枝豆工場にて。

日本へは冷凍して枝豆を輸出していますが、かつて枝豆生産がここで始まった陰に、日本のジェトロ(日本貿易振興機構)の貢献が大きかったことを遅ればせながら知ることができました。

これからどのように生産規模を大きくしていくか、原材料供給増のためにどのように農家レベルでの枝豆生産を増加させていくかが課題となっています。枝豆自体は、インドネシアでは、通常の大豆よりもかなり価格が高く、消費者から見ればまだ高級品ですが、健康食品としての認知度が高まっており、Edamameという日本語が定着しつつあります。

今回は時間の関係で訪問できませんでしたが、ジュンブルには農業省管轄のコーヒー・カカオ研究所があります。次回、訪問する機会があれば、この研究所にも行ってみたいと思います。

また、ジュンブルは、ジュンブル・ファッション・カーニバル(JFC)というイベントでも有名で、毎年、違ったテーマを決めて、様々に工夫をこらしたコスチュームをまとった人々が街中を練り歩きます。この時期には、約10万人の観光客が訪れ、ジュンブルのホテルだけでは訪問者を収容できず、近隣のボンドウォソやルマジャンのホテルにまで人があふれるそうです。現在、ジョコウィ大統領が市長を務めていた時のソロをはじめ、インドネシアでは約20の地方自治体でカーニバルを行なっていますが、それを最初に始めたのがこのジュンブルだったとのことです。

なお、今回の訪問中に、地元のメディアからインタビューを受け、KISS FMというラジオ局の記事になりました。参考までにリンクを貼ります。私が話したニュアンスとはちょっと違うのですが、まあ、しかたないでしょう。

Investor Jepang Tertarik Berinvestasi di Jember Dan Banyuwangi

今回のジュンブル県、バニュワンギ県での投資環境調査の詳細については、別途、ジェトロへの報告書として公表する予定です。

JETROジャカルタで講演(2014.12.15)

2014年12月15日、JETROジャカルタ主催の「AECセミナー」にて、講演を行いました。

最初は、JETROバンコク事務所の伊藤博敏氏が「ASEAN経済共同体(AEC)の進捗と課題」と題して講演し、2015年に開始されるAECの進捗状況、各国の対応、何が今後の課題となるのか、について詳細な説明を行いました。

続いて、松井が「新生インドネシアのAECへの期待と不安」と題して講演し、中長期的な発展可能性と短期的な経済停滞のなかで、AEC開始によるインドネシア側の不安とそれに対するジョコウィ新政権の対応の方向性、とくに「国際海洋軸」構想についてやや詳しく論じました。

本セミナーについては、じゃかるた新聞に掲載されましたので、参考までにリンクをお知らせいたします。

AEC設立に課題山積 伊藤研究員と松井氏解説 ジェトロ講演会 (2014年12月16日)

当日は、体調が悪く、プレゼンテーション自体に精彩を欠いた部分もあったと反省しておりますが、それでも、最後までお聴きいただいた出席者の皆様に深く感謝申し上げます。

Mie Gondangdiaが焼失

12月9日、ジャカルタ出張中に、Mie Gondangdiaの前を通ったら、店がなかった。黄色い線が張られていた。焼けた跡だった。

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この店にはものすごく愛着がある。今から29年前の1985年8月、研究所に就職して休暇をとり、初めてインドネシアへ旅行に来ていた。バンドンやジョグジャカルタを長距離バスでまわって、ジャカルタにたどり着き、ジャカルタに滞在していた研究所の先輩研究者Mさんの家に2日間居候させてもらった。そのとき、Mさんが連れて行ってくれたのが最初のMie Gondangdiaとの出会いだった。

Mさんがこの店を勧めてくれたのは、麺のスープに化学調味料の味がしない、ということだった。なるほど、チキンベースのあっさりしたスープは、舌に味がいつまでも残らない。麺はやや縮れた細麺で、スープにうまく絡み合う。ゆで加減が絶妙で、シコシコした麺の味わいが何とも言えなかった。

その後、ジャカルタに来るたびに、この店へ通うようになった。定番はワンタンとバッソ(牛肉団子)の入ったMie Ayamで、濃い目に味付けしたマッシュルームと青菜が麺の上にのる。麺を食べる前に、机の上にあるオタオタ(細い笹かまぼこのような練り物を焼いたもの)をピーナッツベースの甘辛ダレにつけて食べながら麺を待つ。

デザートも充実していて、よく食べたのは、仙草ゼリー入りのシロップや、缶詰の果物やタペ(キャッサバを発酵させたもの)の入ったかき氷(エス・シャンハイ)。とくに、エス・シャンハイの満足度はとても高かった。

そして今に至るまで、この店とともに私はインドネシアと関わってきたといっても過言ではない。日本から来たインドネシア研究者の友人・知人たち、インドネシア人の友人たち、そして我が家族と、何度この店で麺を食べ、冷たいデザートを楽しんで、幸せな気分になったことか。

1968年に創業したこの店は、今年で46年目だった。新聞報道によると、焼失したのは12月4日で、プロパンガスの爆発によるものだったようである。私が見たわずか5日前の出来事だったのだ。いつも番台にいた華人系の店のご主人は、ご存命なのだろうか。

2年前、ジャカルタで私の最も好きなエス・チャンプルを出していた店が閉店した。少しずつ、確実に、私を育んでくれたインドネシアの古くからの食べ物屋が消えていく。「懐かしいインドネシア」がまた一つなくなってしまった。

【ジャカルタ】サリナの地下の「筑後うどん」

12月9〜10日はジャカルタへ。実は、福岡県アジア・ビジネスセンターという機関のアドバイザーを務めているのだが、そのセンターの担当者Nさんがジャカルタへお見えになるということで、一日、ジャカルタの街中をお付き合いした次第である。

やはり、福岡からの進出企業を訪問されたいということで、当然、ラーメン店にもお邪魔したのだが、彼女のお目当ては、実は「筑後うどん」であった。

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筑後うどんは、約1ヵ月前に、ジャカルタのサリナ・デパートの地下フードコートにオープンしたうどん屋である。福岡がうどん発祥の地だということを、今回の筑後うどんを訪問して初めて知った。

さっそく、丸天うどんをいただく。西日本のうどんなので、さっぱりとした、しかしダシがきっちり利いているとても美味しい汁である。うどんはコシの強さを強調することもない代わりに、ヤワヤワでもない、丸天と食べるにはちょうどよい固さである。

Nさんから分けてもらったゴボウ天も入れて、うどんを楽しんだ。

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おいしい。ジャカルタやスラバヤで展開中の丸亀製麺とはまた違った美味しさがある。

でも、濃い味の好きなインドネシアの人たちには、まだ物足りないのではないかと思う。どんなソースや調味料を付け加えると、インドネシアの人たち好みの味になるのか、楽しく研究してみる余地がありそうな気がする。

この「筑後うどん」、スラバヤにも出店してほしいと思った。毎日通っても飽きない味。皆さんに超オススメしたい。

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筑後うどんの関係者の皆さんと一緒に

IEUというよく知らない大学で講義

12月8日の夜は、スラバヤにあるIEUという大学で「日本人ビジネスマンとのコミュニケーション」という題で講義をしました。わずか5日前に頼まれ、聞いたこともない大学だったので、少々不安を感じながら、行ってきました。

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IEUというのは、Indonesia Europa Universityの略らしく、元々は、ヨーロッパの企業がなかなかいい人材を見つけられないので、企業にとってふさわしい人材を育てるために設立されたらしいです。今も、ベルギーに本校があり、ジャカルタにも校舎があるそうです。

学生は15人、時間は3時間、と聞いていたのですが、教室に入ると出席者はわずか4人。しかも、誰もノートなど筆記用具を机の上に置いていないのです。なぜ?と聞くと、「スマホにメモるから」との答え。講義を始めて15分ぐらいすると、さらに4人の学生が入ってきました。そして、インドネシア語で講義をしていたら「英語で講義してくれ」と言われ、途中で英語にスイッチ。彼らもまた、机の上には何も置いていませんでした。

パワポをきちんと準備して講義したのですが、どうやら、講義というよりも、講師と学生が経験を述べ合う形式のシェアリング(要するにおしゃべり)だそうで、「今日の講義はシリアスだった」との声も聞こえました。

ともかく、講義は何とか終了。日本の大学でもそうなのでしょうが、インドネシアでも、ジョグジャカルタの国立ガジャマダ大学や国立インドネシア大学で講義するときとは、ずいぶん学生の質が違うものだということを学びました。

今回の学生は、親が皆商売をしていて、それを継げばいい環境の子たちばかりでした。講義の最初に日本についてのプラスとマイナスの印象を聞いたところ、プラスは勤勉、時間厳守などいつもの答えだったのですが、マイナスは、フリーセックスの国、ポルノ産業が発達した国、といった答えでちょっとびっくりしました。日本のほうが文化が自由で、インドネシアは堅苦しいのだそうです。たしかに、インドネシアでは、私も名前を知らない日本のポルノ女優がけっこう有名らしく、そうした面からも日本のイメージが形成されているのだと改めて思いました。

あの小高区の菓子店が再開!

福島の地方紙「福島民報」のニュースで、南相馬市小高区の菓子店「菓詩工房わたなべ」が移転して再オープンしたという記事を見つけた。

休業の菓子店、5日再開 南相馬・原町の「菓詩工房わたなべ」

筆者はこの店のお菓子を食べたこともないし、何か特別の関係があるわけでもない。

しかし、2012年8月、誰もいない無人の小高区を訪れ、たまたまこの店の前を通ったとき、万感の気持ちを込めて、1枚の写真を撮った。

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小高区で復活はならなかったけれども、この店はしっかりと復活した。そして、復活の日、それを待ちわびる人々がたくさん訪れたという。

人間もそうだが、商売でもまた、地域の人々に愛されることで、その価値を発揮することができるのである。他から愛される、他から「存在していて欲しい」と願われる存在となること、それを創ることが価値を生み出す・創り出すことになるのだ、という極めて当たり前のことを思った。

「菓詩工房わたなべ」からすれば、自分は何の関係もない見知らぬ人間だが、勝手にその再開を心から祝福したいと思う。そしていつかお店へお邪魔し、お菓子をいただき、その地元の人の愛が詰まった味を堪能してみたい。

ジャカルタで日本企業向け講義など

12月は毎週、ジャカルタ出張が入っています。第1弾は、12月2〜4日。先ほど、スラバヤへ戻りました。

メインの仕事は、12月3日の午前中、JACインドネシア様からの依頼で、ジャカルタに来訪した日本企業、株式会社ベンチャーアソシエイツの皆さんへ、インドネシア経済に関する講義を行いました。若い社員の方々が多く、初めてのインドネシアに興味津々の様子が印象的でした。講義の後は、ランチにご招待いただき、インドネシアの様々な事柄について、じっくりと質疑応答をすることができました。

JACインドネシアでの講義を終えて、株式会社ベンチャーアソシエイツの皆さんと記念撮影。

JACインドネシアでの講義を終えて、株式会社ベンチャーアソシエイツの皆さんと記念撮影。

その他に、3日の夕方には、昨年お会いした、エネルギー関係のベンチャーの方と再び意見交換をしました。その後、その方とご一緒に、国家科学院(LIPI)のバンバン副長官と夕食を交えていろんな話をすることができました。話のなかで肝要だったのは、日本とインドネシアが一緒になってどのようなイノベーションをこれから世界へ向けて創っていけるか、ということでした。そしてそれは、日本からインドネシアへ技術を移転するだけでなく、インドネシア発の技術が日本へ向かうリバース・イノベーション、さらにそれが日本からインドネシアへ、といった双方向のイノベーションの連鎖をどうやって起こしていけるか、ということでもあります。

そして、夕食の後、愛知県立大学の小座野先生と一緒に、先週、ジョグジャカルタで相手をしたガジャマダ大学の学生で、日系企業へのインターンのためにジャカルタに出てきている学生たちに会いに行きました。まだインターンが始まったばかりということもあり、みんな元気で、積極的にいろいろ吸収しようとしている姿がとても新鮮に見えました。

愛知県立大学のJapan on Track (JoT) 2014に参加し、日系企業へのインターンを開始した学生たちと小座野先生とともに。

愛知県立大学のJapan on Track (JoT) 2014に参加し、日系企業へのインターンを開始した学生たちと小座野先生とともに。

 

ガジャマダ大学での討論ワークショップなど(11月27日)

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出席者と一緒にセルフィー写真を撮影

11月27日は、10月に引き続いて、ジョグジャカルタの国立ガジャマダ大学を訪問し、大学生を相手に討論ワークショップを行いました。これは、愛知県立大学が主催する日本語再学習プログラム「ジャパン・オン・トラック」(Japan on Track [JoT])の一環として実施されたものです。参加者の一部には、日本企業でのインターンの機会が与えられます。

今回の出席者は7名と少なかったのですが、「何のためにガジャマダ大学に入ったのか」という問いから始めた討論ワークショップは、出席者の真剣な議論でそれなりの盛り上がりを見せました。大学で学ぶことと高校卒業後に働くことの違い、経験を積むということの意味、大卒でもワーカーとなることが見られる時代の対応策、ジョブホッピングをどう考えるか、といった質問を投げかけ、議論してもらいました。時間の制約から、あらかじめ用意しておいた「何のために働くのか」「何のために生きるのか」という質問から始まる討論は、割愛せざるを得ませんでした。

午後は、ジャカルタから専門家を招き、日本企業におけるビジネスマナーの基礎を、実習を交えながら学びました。和気あいあいとした雰囲気で楽しく学んだ後、振り返りのセッションで、実は、他人に不快感を与えない、清潔感を大事にする、相手によってお辞儀のしかたを変える、といったことは、インドネシアのとくにジャワ人の世界では同じように認識されているマナーであり、日本との違いよりもむしろ共通性を認識して身につけることがより効果的ではないかという気づきがありました。

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お辞儀の実習中

28日は、愛知県立大学の小座野先生も交えて、大学近くの日本料理レストラン「ひかり」にて、プログラムの終了とインターン生の走行会を兼ねたお別れ昼食会があり、私も出席しました。もちろん、最後にはみんなで記念撮影をしました。

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昼食会の後、全員で記念写真

チプトラ大学でのセミナーで講演

11月22日(土)は、スラバヤ市の西にあるチプトラ大学で開催されたセミナーで講演しました。スラバヤ市内の様々な大学の大学生約150人が出席していました。

このセミナーは、大学生を含む若い起業家(の卵)へ、お金がなくても起業できる知恵を授けることが目的のようでした。主催者のBizCommから私への要望は、日本の若い起業家が資金なしでもどんなアイディアで起業しているのか、どんな資金提供者がいるのか、紹介して欲しい、というものでした。

ちょっと困りました。今の日本が、若い起業家がどんどん育っている、輩出しているような環境とは思えなかったからです。むしろ逆に、インドネシアのほうが、そういった起業家精神に富んだ若者たちがどんどん出てきている印象を持っていました(実際、チプトラ大学は、不動産王のチプトラ氏が起業家養成のために設立した大学で、在学中に起業することが義務付けられています)。

そこでやむをえず、日本とインドネシアの今の時代背景を比較し、かつての日本の高度経済成長時を彷彿とさせるような今のインドネシアのほうが、起業を促す要素が今の日本よりは大きいこと、それでも日本の場合にはエンジェル投資やクラウド・ファンディングのような仕組み自体は存在してそれなりに活用されていること、などを話すことにしました。

今回のセミナーにこんな内容で本当に良かったのかどうか、確信は持てませんが、ともかく、30分の講演をインドネシア語で行いました。結局、内容はさておき、インドネシア語で講演したということが何だか好意的に受け止められたような感じで終わりました。

合わせて、起業家に対するモティベイターやコンサルタントの方々と新たに知り合うことができて、有意義な半日間でした。

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同じ講演者のポール氏により撮影され、フェイスブック上で公開された写真を借用しました

 

九州・アジア経営塾の研修ツアー受け入れ(11月19〜20日)

141119-KAIL Dinner Party

九州・アジア経営塾の橋田塾長(九電工)及びインドネシア銀行スラバヤ支店のジュナント副支店長と19日の夕食会にて。ジュナント氏のフェイスブックページから借用。

11月19〜20日の2日間、スラバヤを訪問した九州アジア経済塾の研修ツアーを受け入れました。

九州・アジア経営塾は、九州の産官学が共同で11年前に設立した研修期間で、40代の中堅管理職を対象に、アジアを視野に入れたリーダーとなる人材を養成している機関です。研修期間は11ヵ月で、そのなかに、海外への研修ツアーが組み込まれており、今年はインドネシアが対象となりました。

九州・アジア経営塾(KAIL)

ジャカルタでの2日間の滞在の後、一行は19日朝、スラバヤに到着。その後、ハウス・オブ・サンプルナで手作業による丁字タバコ製造の工程を見学し、併設のカフェで昼食をとった後、スラバヤ市美化公園局にて、スラバヤ市の環境美化やゴミ処理に関する活動について説明を受けました。住民主体のコミュニティレベルでのゴミ減量への取り組みに大きな興味をもった様子でした。

その後、スラバヤ市と北九州市の西原商事が協力して活動しているゴミ仕分け施設Beetleとコンポストセンターを見学し、西原商事からスラバヤに派遣されている武久さんから説明を受けました。

19日の夜は、野村在スラバヤ日本総領事、東ジャワ州投資局のリリ長官、東ジャワ州対外協力局のチプト部長、東ジャワ州商工局のリリ部長、インドネシア銀行スラバヤ支店のジュナント副支店長、西原商事の武久さんらを招いて、夕食会が行われました。

この席で、東ジャワ州投資局のリリ長官から「KAILというのはインドネシア語で釣り針という意味がある。誰かを助けるときに、モノやカネをあげるのではなく、釣り針のような道具を与えるほうがよい、というインドネシアの諺がある。KAILもこの意に沿って、今回が最初で最後ではない、ずっと続いていけるような関係を我々と一緒に作っていければと思う」という発言があり、出席者の胸にジーンと響いた様子が伺えました。

20日は、在スラバヤ日本総領事館で野村総領事からインドネシアや東ジャワ全般に関する詳細な講義があり、その後、私から東ジャワを含むインドネシアの地方でのビジネスチャンスについて講義を行いました。昼食会には、東ジャワ日本人会の西会長をお招きし、西氏の所属する味の素のインドネシアでの活動について、詳細な講義を受けました。

一行は、最後の訪問先として東ジャワ州商工会議所を訪れ、ディディ副会頭との質疑応答で、インドネシアの実業家が日本をどのように見ているのかの一端に触れることが出来ました。ディディ副会頭は、韓国や中国の台頭の実例を挙げつつ、「技術でいえばやはり日本」「日本企業はもっと果敢に競争して攻めていって欲しい」とのエールをもらいました。

研修ツアー参加者が病気になることもなく、元気に過ごせたのが何よりでした。お疲れさまでした。

当方は、通訳兼進行役という立場上、2日間の同行中はほとんど食事もとれない状態でしたが、一行を空港で見送った後、我慢できずに空港のカールス・ジュニアで食べたハラペーニョ・ハンバーガーとコーラが腹に沁みました。

 

東松島市への出張がJICA東北の記事に

2014年11月10日、宮城県東松島市で行った活動の様子が、招聘元のJICA東北のサイトで記事になりました。以下のサイトをご参照ください。

東松島市でインドネシア住民自治セミナーを開催(2014年11月10日)

記事にしてくださったJICA東北の皆様にお礼申し上げます。

震災経験自治体として、バンダ・アチェ市と東松島市との間で、さらなる学び合いの交流が深まっていくことを心から願っております。

 

日本政策金融公庫バンコク支店との会合

ホテル・オークラ・バンコクからみたバンコク市街。日本政策金融公庫バンコク支店の入っているビルの上階にある。

ホテル・オークラ・バンコクからみたバンコク市街。日本政策金融公庫バンコク支店の入っているビルの上階にある。

11月13〜16日にバンコクへ行ってきました。14日に日本政策金融公庫バンコク支店で打ち合わせがあり、日本からインドネシアへの中小企業の海外進出について、意見交換を行いました。

インドネシアでも、先の6月に、日本政策金融公庫の融資を受けている日系中小企業の懇話会が結成され、会員がお互いに情報交換を行える体制ができたということです。

それら日系中小企業の多くは二輪車・自動車関連だそうですが、この分野では、これまで何年にもわたって日系組立メーカーの下請を務めてきたインドネシア地場企業も存在し、この両者の共存・共栄関係をいかに構築していくかが、インドネシアにおける裾野産業構造の強化にとって重要であると考えられます。

このため、これら両者がお互いを知り、必要に応じて協力をし合う関係を作ることが大事ではないかと思った次第です。実際、インドネシア地場の自動車部品製造中小企業からは、日系組立メーカーとの面会・対話を求める声も上がっています。

日系と地場が対立関係ではなく、共存・共栄関係を築くという点では、日本政策金融公庫バンコク支店も同じような認識を持っていると感じました。今後、日本政策金融公庫とも連絡を取り合いながら、日系と地場との共存・共栄関係の構築へ向けて動いていける役割を果たせれば、と思っています。

 

バンコクで「マカッサル」を探す

11月13〜16日の日程でタイのバンコクへ来ている。

用務のほうは14日に早々に終わり、久々に8時間眠った後、15日は街歩きに出かけた。
最初は、博物館や美術館へ行こうと考えた。しかし、昔からバンコクへ行ったら行きたいと思っていたところを思い出した。バンコクにある「マカッサル」を見に行くことにしたのである。
バンコクの「マカッサル」(Makassar)とは、マッカサン(Makkasan)である。スワンナプーム空港からの鉄道シティラインの拠点駅の名前でもあるマッカサンは、マカッサルから由来した地名である。

その昔、17世紀後半、オランダとの戦いに敗れたスラウェシ島南部(現在の南スラウェシ州)のゴワ王国の人々は各地へ散り散りになって逃げたが、そのなかに、アユタヤ王国まで逃げてきた者たちがいた。彼らはアユタヤ国王に温かく迎え入れられた。そして、フランスが後にアユタヤ王国を攻めた際には、勇猛果敢にフランス軍と戦ったと言われている。その功績を称えて、彼らの居住地をマッカサンと名付けられたのだという。

この話はインドネシア側でいわれている話なので、タイでどのような話になっているのかは分からない。なお、マッカサンという名前は、オーストラリア北部のアボリジニーの伝承で、北から交易にやってきた人々の名前として知られてもいる。

さて、おそらく、マカッサルの面影を見つけることは難しいだろうと思いながらも、そのマッカサンを歩いてみた。20分に1本しか来ない空港鉄道のラチャプラロップ駅で降り、その周辺を歩いてみた。

まず、目に入ったのが、タイ国王らの写真が掲げられた「Welcome to the ASEAN Community」という表示板。インドネシアではこの種のものをまだ見たことがない。

大通りをしばらく歩くと、金物屋やガラス屋などが並ぶ。サイアム駅周辺やチットロム駅周辺などとは違う、私が昔来た頃に見たバンコクの雰囲気がよみがえる。

地図によるとマッカサン市場やマッカサン郵便局などがあるはずなのだが、見つからなかった。大通りから1本脇道に入ると、公園があった。公園の上を巨大な高速道路が通っていて、景観は台無しになっていた。

高速道路の高架の下は、静かな空間。人々の生活道路は確保されていて、高速道路で寸断されていない。

ラチャプラロップ駅へ戻って、マッカサン駅まで歩いてみることにした。タノン・ニッコム・マッカサンという名前の通りを歩いてみたのである。

ラチャプラロップ駅周辺の空港への高架鉄道の下には、タイ国鉄の線路が通っていて、その脇で生活する人々がいた。そこを列車が通って行った。

マッカサン駅までの道は、工事中の人々の小さな家々や工事現場の埃などの混じった単調な道だった。いくつかホテルはあるが、ショッピングセンターも歩道を歩く人々の姿も何もない。

炎天下に汗を書きながら、こんな道をひたすら歩いている自分が異常なのかもしれない。

入っては見なかったが、労働博物館、というのもあった。

沿道の屋台では、ちょうど昼食の時間だった。

ようやく、マッカサン駅に到着。駅の周りには何もない。こんなところが空港からの起点駅なのが不思議に思われる。

さすがに暑い。昼食前でお腹も空いた。ともかく、早くMRTかBTSに乗って涼みながら、昼食場所を探そう、と思った。

結局、マッカサンでマカッサルの面影を探すことはできなかったが、「ここでゴワ王国の末裔が暮らしていた」ということを思いながらの街歩きは、なかなか趣深いものであった。

シーロムのショッピングモールで昼食の後、今度は「ジャワ」を見つけに出かけた。

束の間の東京にて(2014.11.7-11.8)

ジャカルタ周辺での自動車部品に関する地場中小企業へのインタビュー調査を終えて、11月6日にジャカルタを発ち、トランジットしたクアラルンプールでラクサを食べてから、11月7日朝、成田に到着しました。

11月7日は、午後、東京のインドネシア大使館で行われた、インドネシア飲食品企業+インドネシア産品の輸入日本企業の計6社と日本のバイヤーとのビジネスマッチング行事に出席。プレゼンテーションのしかたをはじめ、商品の売り方などに関して色々と勉強になりました。

それに加えて、その場でもう何年もお会いしていなかった複数の旧知の方と再会することができ、昔話に花が咲きました。本当に、動くと何かが必ず起こるものです。

インドネシア大使館の後は、夜、国際交流基金でミーティングがあり、アジア全体を視野に入れた面白い試みが動き始めたことを知りました。いったい、どんな感じになるのやら・・・。

11月8日は、私の自宅近くに住んでいることが判明した友人と昼食。彼とも本当に久しぶりの再会でした。10年以上会っていなかったのではないでしょうか。

彼との昼食は、これを機会にと、北大塚ラーメンを食べに行きました。モンゴル人のご夫妻が経営する小さな店が満員。味は普通の醤油ラーメンですが、見た目よりもあっさりで、飽きない味でした。写真は、普通のラーメン。

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我が家に戻って、夕食はおでんと松茸ご飯。秋の味覚を味わいました。

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今回は、自宅で過ごすのは11月8日までのわずか2日。睡魔と闘いながら、原稿やら報告書やらを少しでも終わらせようとしていたら、深夜になってしまいました。

さて、11月9日は、宮城県東松島市へ。

真実とは一体何であろうか

(ルワンダ南部ムランビの虐殺現場にはフランス軍が駐留。しかし虐殺は放置された)

昨日、友人のFBでルワンダ虐殺20年に関するBBCの放送に対して、ルワンダ政府が反発し、ルワンダ内で放送を聴けなくする措置をとったことを知った。

Rwanda bans BBC broadcasts over genocide documentary

放送では、ルワンダ虐殺の真実を追求する調査プロジェクトを実施している2名のアメリカ人研究者により、ルワンダ虐殺で殺害された人数はトゥツィよりもフトゥのほうが多いという見解が紹介された、という。

ルワンダの現カガメ政権はトゥツィ主体の政権で、国民和解を進めているが、現政権がともすると取りがちな「虐殺の首謀者はフトゥで、自分たちトゥツィがそれを正して国家を救った」という見解に沿わないと政権側に判断されたようである。

アメリカ人研究者の調査内容についての詳細は未読だが、ウェブ上で、彼らの見解の幾つかをざっと見ることはできる。

What Really Happened in Rwanda?

彼らは「虐殺の否定者」とレッテルを貼られたりするようだが、上記のウェブを読む限り、虐殺を否定しているわけではないように読める。

虐殺はあった。でも、多数派のフトゥが一方的に少数派のトゥツィを殺害したのではなく、双方が殺し合った。虐殺が起こった場所と20年前の当時のフトゥ側・トゥツィ側の支配勢力地図とを照らし合わせると、トゥツィ側の支配地域でも虐殺は起こっている。

カガメがトップだったルワンダ愛国戦線がウガンダからルワンダ国内へ侵攻した後、虐殺がひどくなった。カガメは当時、フトゥ側の政権の軍の上層部と関係があり、大統領機の撃墜にカガメが関わっている可能性がある、などという話である。

これらを読む限り、アメリカ人研究者は、決して、「実はフトゥのほうが正しい」と主張しているわけではない。ただ、フトゥだけが非難されるのではなく、トゥツィもまた非難されるべきだ、というニュアンスは読み取れる。

彼らは、ルワンダ国内で調査中に、ルワンダ政府から何度かお咎めを受けたようである。おそらく、そこで感じた強権性への反発も、彼らの見解に影響を与えている可能性はあるだろう。

ルワンダ政府は現在、フトゥ政権を支えたとしてフランスに対して厳しい態度を示している。とくに、フトゥ政権に対して軍事援助を行っていたこと、フランス軍が虐殺の現場にいながらそれを放置したこと、などを非難している。

筆者は、ここで彼らの見解が正しいかどうかを論じるつもりはない。それよりも、研究者がインタビューなどを通じて明らかにしようとしている「真実とは一体何か」「真実を追求することは何よりも貴いことなのか」ということを問いかけてみたいのである。

上記のアメリカ人研究者2名は、ルワンダに100日間滞在し、各地で住民にインタビューをした。その結果、ルワンダ政府見解とは異なる様々な「事実」が発見された、ということのようである。

しかし、果たして、それは本当に事実なのだろうか。

筆者は以前、FASID主催の海外フィールドワーク・プログラムで、日本の大学院生を連れてインドネシアの南スラウェシ州のある農村で10日間を過ごした。そのなかで、参加者と一緒に、モスクで説教師のおじさんから村の歴史について話を聴く機会があった。

この村のある地域は、1950年代、中央政府に反発して反乱を起こしたダルル・イスラームの支配地であった。説教師のおじさんによると、村は「政府」軍に守られ、近くの町に迫ってきた敵を倒してくれた、政府が助けてくれた、という。史実では、町に迫ってきたのが政府軍で、この地域は反政府軍が支配していたはずである。

話を聴くうちに、村を守っていたのは反政府軍だったはずが、どこでどう変わったのか、説教師のおじさんは、その反政府軍を政府軍と認識していることが明らかになった。参加者の一人が説教師のおじさんの語りを遮り、「おかしいではないか」と言おうとしたが、筆者はそれを止めた。まずは話を聞こうではないか、と。

説教師のおじさんは史実を誤解している。おそらく、その史実を住民たちへ説いてきている。しかし、そのお蔭で、この村は、反乱軍の村だったという理由で政府から弾圧を受けることはなかった。村はそのまま存続できた。政府軍の高官か誰かは知らないが、村の人々に嘘の史実を伝え、それを人々が誤解して信じたことで、村の人々は自分たちの村を今までつつがなく存続させることができた。そういうことではないかと察した。

研究者が真実を追い求めることは重要である。しかし、この村の人々に真実を伝え、誤解していることを認知してもらうことは、果たして良いことなのだろうか。むしろ、安らかな村の状況に波風を立たせ、人々の間に疑心暗鬼を呼び起こしはしないだろうか。真実を告げる研究者は、その村の将来に責任を持てるのか。データだけを集めて、その村から去ってしまうのが普通なのではないか。

もしかすると、インドネシアはこうした多くの村という末端での様々な誤解によって、国としての統一を保たせているのではないかとさえ思った。

たとえ、その統一にヒビを入れてでも、真実を村の人々が知ることのほうが重要だと、我々外部者が言えるものだろうか。その真実を受け入れられるとしても、それまでには長い時間が必要とされるのではないか。あるいは、長い時間が経っても、真実を受け入れないほうが平和であったりするのではないか。

ルワンダに話を戻そう。果たして、ルワンダの人々はアメリカ人の研究者に「事実」を話しているだろうか。あのときに虐殺に関わった人々がまだ近辺に存在するとしたら、あの忌まわしい出来事をそのまま客観的に話すことは難しい。今の自分たちの生活を守ることこそが重要である。

カガメ政権のBBCへの反応は、そうした20年前の傷がまだ皮膚のすぐ下でうずいていることを示している。研究者が真実を明らかにしようとすることは貴いかもしれないが、それがルワンダの人々の何をプラスにするのだろうか。

カガメ政権を決して全面的に擁護するわけではないが、今は、生活を落ち着かせ、傷のうずきを減らすために皮膚を厚くすることが第一のような気がする。

決して、ルワンダ虐殺の真実を追求する研究者の活動を中止せよと言っているのではない。しかし、外部者としては、その調査内容の提示の仕方に、当事者への配慮があって然るべきだと思う。そうでなければ、たとえそうは意識していないとしても、何らかの政治的意図を持って、BBCを利用したと捉えられてもしかたがない。

それにしても、ルワンダ虐殺は、美しき誤解を作れないほど、国民に深い傷を与えてしまっているような気がしてならない。カガメ政権は、そうした美しき誤解を「真実」とするだけの時間を確保する長期政権となるのだろうか。

それはそうと、誤解がいつの間にか「真実」「事実」になるというのは、日本を含めて、どこの世界にもある話だろう。それは、思い込みというものと紙一重なのである。

誤解したままのほうが望ましい、と言っているわけではない。我々は、そうした「真実」「事実」に対してその真偽や意義付けを自ら判断できる、自ら考える頭を持っていなければならないのである。その判断のなかには、むしろ美しき誤解のままのほうがそこの人々にとっては望ましいのではないか、という判断もあり得るということである。

アジア経済研究所スラバヤ講演会のお知らせ

私のかつての同僚で、インドネシア地域研究のスペシャリストである佐藤百合さんと川村晃一氏がスラバヤへ来訪し、下記の通り、11月12日に、インドネシア新政権を分析する講演会を開催します。ご興味のある方は、是非ともご参集ください。

なお、本講演会では、6年前にアジ研を去った私は講演いたしません。前日(11月11日)にジャカルタで短い講演をする予定ではありますが・・・。

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ジェトロセミナー「ジョコ・ウィドド新政権の下でインドネシアはどう変わるか」開催のご案内をいたします。

今年7月の大統領選挙に勝利したジョコ・ウィドド氏が、10月20日に大統領に就任し、新政権が発足します。2004年に史上初の大統領直接選挙を勝ち抜いたスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領の就任以来10年ぶりの政権交代となります。当セミナーでは、アジア経済研究所におけるインドネシア専門家である佐藤氏、川村氏を講師として、ジョコ・ウィドド新政権の特徴や経済政策の方向性など、最新の分析結果を報告します。

皆様の奮っての御参加をお待ちしています。

1.日時:2014年11月12日(水)14:00〜16:50(開場 13:30)

2.会場:在スラバヤ日本国総領事館 講堂
Jl. Sumatera No.93, Surabaya TEL: 031-5030008

3.講師/テーマ:
「ジョコウィ内閣の特徴とその政治的課題」
川村晃一 アジア経済研究所 地域研究センター東南アジアI研究グループ

「経済課題と政策の方向性」
佐藤百合 アジア経済研究所 地域研究センター上席主任調査研究員

4.定員:30名(先着順。定員になり次第、締切とさせていただきます)

5.参加費:無料

6.主催:日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所、同ジャカルタ事務所
共催:在スラバヤ総領事館、東ジャワジャパンクラブ

7.申込:
別紙の申込書にご記入いただき、ジェトロ・ジャカルタ事務所宛に直接お申込み下さい。
(送付先 Email:Hideki_Fujie@jetro.go.jp)

8.問い合わせ先:
ジェトロ・ジャカルタ事務所 担当:藤江、デシー(日本語可)
TEL : 021-5200264

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