中銀レートは7.25%へ引き上げ

9月12日、中銀理事会は中銀レートを7.25%へ引き上げた。中銀レートは、8月29日の臨時中銀理事会で6.5%から7.0%へ引き上げたばかりである。中銀によれば、インフレ率の抑制、通貨ルピアの安定、経常収支赤字の改善を目的とした措置であり、それは前回から引き続いている。

中銀による中銀レート引き上げの説明(9月12日、インドネシア語)

おそらく、タイミングを重視したのだろう。筆者は、9月末が一つのヤマになると見ている。2013年第3四半期末に当たるが、通常でも、四半期末にはドル需要が増大し、ルピアは軟化する。インドネシア政府や中銀がルピア防衛に対して毅然たる姿勢を示せなければ、9月末にはさらなるルピアの下落が起こることになる。

8月29日の中銀レート引き上げ後も、ルピアはやや下落傾向を見せているが、市場に大きな混乱をもたらしている様子はあまり見られない。政府は緩やかなルピア安を容認していると受けとめられており、現状でもそれに大きな変更はないと見られるが、何よりも、急激な変化ではなく、ソフトランディング的な展開へ持っていこうという意図が見える。

この度重なる中銀レートの引き上げを受けて、中銀は、2013年のGDP成長率予測を5.8〜6.2%から5.5〜5.9%へと再び下方修正した。同時に、2014年のGDP成長率目標も6.0〜6.4%だったのを5.8〜6.2%へ下方修正した。

雇用機会拡大の観点からすれば、今後、インドネシアでは毎年最低でも6%後半以上、7〜8%の成長が必要となり、5%台の成長では力強さに欠ける。

しかし、現在のアジア経済全体を見ても、5%台後半の経済成長はまずまずの値であり、決して低い数字ではない。経済減速ではあっても、失速ではない。やはり、今年はとくに、耐える経済運営をインドネシア政府は行っていかざるを得ない。

中銀の見通しでは、インフレ率は徐々に落ち着きを見せていくものの、2013年通年では9.0〜9.8%となる見込みである。もっとも、2014年は4.5%前後に落ち着くとしている。

中銀は同時に、金融システムの安定性は維持されていると強調する。2013年7月時点で、CARは最低基準の8%を大きく上回る18%と十分高く、NPLも1.9%と低い。貸付も2013年7月に前年同月比22.3%増、同年8月に同22.0%増と力強い。もっとも、今後、この傾向が維持できるかどうかは予断を許さない。

政府は、中銀と日銀との二国間通貨スワップ協定に基づく最大調達可能額120億ドルを含めた300億ドルの外貨を調達可能とし、それにはチェンマイ・イニシアティブ分は含まれていないと説明している。外貨準備高は現状で輸入の5ヵ月分相当を確保していることも強調し、十分な対策を行っているとアピールしている。

今日の中銀レート7.25%への引き上げは、さらに市場を安心させるためのダメ押し的な効果が期待されるのだろう。

とはいえ、やはり9月後半から月末にかけての動きは、注意深く見ていく必要がある。

台湾のインドネシア人労働者

台湾を旅行中に、何人かのインドネシア人に出会った。もともと、台湾には以前からインドネシア人の出稼ぎ労働者が働きに来ている。男性は建設現場などでの労働者として、女性は家事・介護労働者として、今や、台湾社会には不可欠な存在となっている。

8月16〜17日に台北を案内してくれたのは、前の職場の同僚である台湾研究者。私が台湾のインドネシア人に興味があると知っていて、彼女が用意してくれたのが8月12日付聯合報の1面トップ記事。何と、台北駅の地下コンコースを埋め尽くすインドネシア人労働者の写真だった。

最も多いときで約3万人の外国人労働者(ほとんどがインドネシア人労働者)が集結し、床に座って飲み食いをしたり、音楽を大音響で流したり、横になって寝ていたり。さながら無法地帯の様相を呈しているようである。

こうした状況に対して、賛否両論が出されている。「公共の場を勝手に外国人労働者が占拠し、台北駅の他の利用者の通行の邪魔になるのはけしからん。政府は何をやっているのか」という意見がある。その一方で、台北駅側は、外国人労働者の人権やその置かれた状況を尊重し、柔軟に対応するとのコメントを出している。

もしこれと同じような状況が日本の東京駅地下コンコースで起こるとなったら、どんな対応になるだろうか。新宿駅の路上生活者がどんな運命になったかを想像するだけで、日本ではこうした状況をきっと起こさせない、毅然たる措置(強制排除)が採られるものと容易に想像できる。

しかし、台湾においても、以前から外国人労働者に対して寛容だったのだろうか。私が以前、台湾を訪れた1990年代初めの記憶だと、インドネシア人労働者の存在は表面的にはさほど見られなかった。恐らくまだまだ数が限られていたのだろう。

元同僚の台湾研究者によれば、この10年ぐらいの間に、台湾社会はある意味急速に成熟してきたという。それが、地下コンコースを占拠した外国人労働者を強制排除しない台北駅側の態度にも表れているのだろう。台湾社会の「緩さ」という見方もできるだろうが、もはや社会にとって不可欠の存在となった外国人労働者の存在をきちんと認め、それを受け入れる融和な社会をゆったりと作っている、いや、そう出来上がってきているのだと感じるのである。

対するインドネシア人労働者の側には、成熟した台湾社会のなかで、むしろ、台湾の人々の寛容さに甘えてしまっているところはないだろうか。あたかも、台北駅地下コンコース占拠が当然の権利であるかのように振る舞うとすれば、それはやはり問題ではないかという気もする。

甘えという点では、8月4日に台中で出会ったインドネシア人男性労働者3名の話もしておこう。台中では、昔、マカッサルで一緒だった友人が大学教師をしており、彼女に色々と案内してもらった。春水堂にタピオカパール・ミルクティーを飲みに行こうと友人とバスに乗っていたら、彼らが乗り込んできた。

3人とも酔っており、うち1人は一番後ろの席でゲーゲーやり始めた。静粛な車内で、突然、彼らが大声で叫び始めた。「ジャカルタなんか怖くねえ!あの糞野郎!」と汚い言葉を連呼していた。さすがにうるさいので、「他の客の迷惑になるから、ちょっと静かにしてくれないか」とインドネシア語で話しかけると、彼らは一瞬びっくりして、すぐに「すみません」と素直に答えた。

まだ断食中のはずだが、彼らは昼間から酒におぼれていた。お金がなくて断食明けにインドネシアの故郷へ帰れないのが悲しいのか、ジャカルタの派遣元とトラブルがあって荒れているのか、私たちには全く知る由もない。車内の他の乗客は、そんな彼らを見て見ぬふりをしていた。

台北駅地下コンコースを占拠した最大3万人の外国人労働者も、台中のバスの中で荒れていた彼らも、自分たちが「余所さまの国に来させていただいている」という感覚が少ないのではないか。一人ではなく大勢になれば、何となく気分が大きくなり、数の力を背景に、「これぐらいのことをしても許される」と思ってしまうのではないか。

成熟した台湾社会とはいえ、数を背景にいつの間にか当然の権利にすり替わる感覚を持ったインドネシア人労働者の甘えがいつまでも許容されるとは限らないような気がする。

でも、この「既成事実化して当然の権利にすり替わる」というのは、インドネシア社会ではよく見かけることなのではないか。土地を不法占拠して居住権を主張する場合や、ダメもとで賃上げを要求してそれが通るとさらに賃上げを要求する態度とか。それが「小さき民」によるものだと、「小さき民」だから許されるという話が持ち出されてくる。しかし「小さき民」という立場が常に正しいとは限らない。免罪符にはならない。

そんなインドネシア人の「甘え」が台湾のインドネシア人労働者にも見えるような気がする。

マカッサルへ行ってよかった

前回のブログを書いた後、急にどうしてもマカッサル国際ライターズ・フェスティバル(MIWF 2013)へ行きたくなり、飛行機のチケットを購入し、6月29日の最終日だけ参加した。やっぱり、マカッサルへ行ってよかった。

午前中参加したセッションでは、3人が「10年後の自分のビッグ・アイディア」というテーマで話をした。ボディ・ショップ・インドネシアのスシ社長は、環境への関心を深め、本当に社会の役に立つビジネスを行いたいと10年前に思い、それを実現させようと努めてきた。

GEインドネシアのアリフ氏は、日頃、無味乾燥で効率性を求められる職場だからこそ、魂を忘れないために、毎週金曜日に、社員がインターネット上に詩を投稿しあう活動を続けている。現場のエンジニアが編み出す珠玉の短い詩に心を打たれた。

オーストラリアから来た詩人であり大学教師でもあるルカ氏は、アボリジニや虐げられた人々が自己のアイデンティティを回復し、尊厳ある生活を取り戻す手段として、詩の活用を進めている。企業内のチームワークを高めるために、詩を作って発表することの効用を熱く語ってくれた。

詩にはそんな力があるのか、という思いにふけりながら、ふと、故郷・福島のことが頭をよぎった。再生・復興へ向かう福島で、詩の果たす役割がもっとあるのではないか。福島を忘れないことを目的に詩を綴り続ける和合亮一氏や、小学校からの詩作活動を長年にわたって進めている「青い窓」という運動。福島にはたくさんの有名無名・老若男女の詩人がいるのだ。

午後は、「植えること、書くこと」というセッションに出席した。午前中も話を聞いたボディ・ショップ・インドネシアのスシ社長、自然と人間との共生について現実に即して書いた本の執筆者のポール氏、都市生活者が身の回りで植物・作物を植える活動を進める「植えるインドネシア」の地方支部「植えるマカッサル」に関わる大学生のシーファ氏、の3人が発表した。

セッションでは、友人で司会者のイダ氏から私もコメントを求められ、日本で都市の若者たちで農村へ向かう動きがあること、震災などを経て自分たちの「生きる力」を得るために農業が見直されていること、植えるという行為はすでに国境を越えて世界中に広がっていること、などを話した。

会場の外では、「植えるマカッサル」がペットボトルを切ってそこにホウレンソウなどの苗を植えたコーナーもあり、参加者が自分のツイッター名をつけ、その成長記録をツイートする、という試みも行われていた。この苗が大きくなったら、畑地に移植するのである。植えることが書くことにつながる、という試みでもある。

マカッサル国際ライターズ・フェスティバルは6月25日から開催され、29日夜がフィナーレ。いつものごとく、開始予定時刻の午後6時半から大幅に遅れ、午後8時半ごろから開始した。友人のリリ・ユリアンティ氏が主催者を代表して述べた挨拶は素晴らしかった。

デモなどマイナスイメージでメディアに取り上げられるマカッサルで、実はこのような創発イベントが行われていることを皆でツイッターやFBでどんどんゲリラ的に発信しよう。このイベントは国際的であると同時に、マカッサルのアイデンティティを深める意味も持っている。誰にでも開かれていて、若い参加者がどんどん増えている。もっともっと、皆でこのイベントを盛り上げて、世界中のライターが集い、マカッサルがより輝けるようなイベントにしてきたい、と。

リリ氏の圧倒的なスピーチの後、インドネシア東部地域の若い詩人たち5名が次々に詩の朗読をした。まだ20~30代の若者たちが生き生きと自分の言葉で詩を読み上げる。その勢いと若々しさがとてもまぶしく、インドネシアの未来、とくにインドネシア東部地域の未来を垣間見るような時間だった。

フィナーレの最後は、クリスナ氏による詩の朗読で締めくくり。マカッサルの伝統衣装をまとい、伝統楽器をバックに、熱のこもった朗読のパフォーマンス。マカッサルがうねりとなって、観ている者に押し寄せてくるような、そんな気がした。

マカッサル滞在は実質わずか1日。でも、マカッサル国際ライターズ・ワークショップの最終日に参加しながら、マカッサルの大切な仲間たちに再会できたのは至福の喜びだった。彼らといろいろ話をしながら、自分の心の中に何とも表現できない熱い想いがどんどん溢れてきた。

3月末に借家の契約を終了し、マカッサルに居場所がなくなった。今回は久々にホテルに泊まった。それでも、マカッサルは旅行で訪れる他のインドネシアの都市とは同じではなかった。今、住み始めて3ヵ月のスラバヤとも根本的に何かが違う。

そう、マカッサルはやっぱり、私が帰ってくる、私が本当の自分に戻れる、大事な「故郷」なのだ。改めてそう、深く思えた。

もう一度、マカッサルに住みたい、と心底思った。涙が出てきた。自分の深いところから出てくる涙だった。自分が忘れてはいけない「原点」をもう一度確認したような気がした。

学生と「ハウルの動く城」を観る

6月15日、スラバヤ市内の私立ドクトル・ストモ大学で、日本語科の学生さんと一緒に日本映画を観ながら語り合う会、に行ってきた。

今回、彼らが観たいといってきたのは、宮崎駿監督の「ハウルの動く城」。おっと、これは日本人監督の作った日本映画ではあるが、ストーリーには日本が何も出てこないではないか。この映画を観て日本を語ろうとしているなら、ちょっと認識不足ではないか、などと思いながらも、とにかく出かけてみた。

真面目な日本語科の学生さんなのだ。映画を観る前に、映画の中に出てくる日本語の台詞から単語を抜き出し、その意味を確認している。でも、あまりにも機械的な訳なので、黙ってみていられなくなり、大げさなジェスチャーを交えて、意味を説明してみた。すると、「初めて知りました」という反応で学生の目が輝きだした。あー、彼らは生きた日本語に触れていないのだな、と思った。

いよいよ映画上映。「ハウルの動く城」は前にも何度か観ているが、やはりいいものはいい、という感じがする。ソフィーの声を吹き替え分ける倍賞千恵子はさすがだなと感心しながら観ていたら・・・。

隣のモスクからアザーンが。学生は何の躊躇もなく、キリのいい場面かどうかも何も考えず、映画を途中で止めた。アザーンが終わると、何事もなかったかのように、再び映画を再生した。

映画を観終わった後、学生たちと感想を述べ合った。やはり思った通り、学生たちは表面的なあらすじを追うのに精一杯で、表現の裏にある作者の意図などまでは思いが至らない様子だった。それでも鋭い質問があった。「なぜ、最後は、戦争を終わらせようというハッピーエンドになるのですか」という質問である。たしかに、そこがこの映画のちょっと?マークの部分ではある。

学生たちと一緒に考えてみようということにして、意見を出してもらった。「サリマンの敵国の王子が案山子にされていた魔法が解けてしまったから」とか「対立するどちら側にも立たなかったハウルが生き残ったから」とか、いろんな意見が出た。この点については、私も確たる答えを持っていなかったので、その辺で話を終わらせた。

しばらく映画の議論をインドネシア語で続けた後、学生たちから「日本語で話をしたい」というリクエストがあったので、日本語に切り換えて話を進めようとした。日本語を勉強するインドネシア人の学生からは、もっと日本語で日本人と会話する機会を増やしたい、という希望があったので、これはいい機会だと思った。

しかし、学生たちから日本語での話しかけが出てこないのである。だって、彼らが日本語を話す機会を欲しているんでしょ、と心の中で思いながら。どうやら、ほかの友達の前で、自分が間違った日本語を話しているのを見られたくない、恥ずかしい、という気持ちがある様子である。この辺り、英語で悪戦苦闘している日本の学生にも共通するかも、と思うような態度であった。

我々日本人ネイティブからすると、インドネシア人にとって日本語は外国語なんだから間違って当たり前、恥ずかしく思えるほど日本語はまだできないだろうから、どんどん話してみたらいいのに、と思ってしまう。せっかく、日本人ネイティブと接触できる時間なのに。私としてはちょっと残念だったが、ヒトのことはいえないと思った。

なぜなら、日本人が英語やインドネシア語を学ぶときの態度にも、彼らと同じような部分があるのではないかと思ったからだ。大してできもしないのに、あるいはだからこそ、よそ様にその様子を見せるのがはばかれる、という態度である。日本人の場合には、英語と比べてインドネシア語を下に見たり、あるいはインドネシア(人)を見下しするような態度だと、なおさら、インドネシア語を学ぶという話にはなりにくくなってしまうかもしれない。

それにしても、こんな形の映画鑑賞会で、彼らには何か役に立ったのだろうか。その点については、私はあまり自信がない。でも、時々、こんな会があって、日本語を勉強したいという学生に何かやる気を感じさせるきっかけ作りになるのなら、そのお手伝いは是非したいと思うのである。

好き好んでインドネシアへ来た訳ではない方々へ

昨日、友人と話をしていて気づいたことがある。私のこのブログを読んでいる方々は、ある程度、日本とインドネシアとの関係について、それをどのようにしていったらよいか、考えている人であろう。しかし、今、日本からインドネシアにやって来る方々のなかには、自らのことで頭がいっぱいで、インドネシアのことを考える余裕のない方々もかなりいるのではないか。

好き好んでインドネシアに来た訳ではない、会社の方針で仕方なく来た、という方も少なくないと聞いた。多少言葉は悪いが、「来てやったんだ」という気持ちでインドネシアにおられる方もいるだろう。そして、彼らに対しても、「業績を上げよ」というプレッシャーが日本から矢のように飛んでくる。心静かでいられるわけもなく、イライラせざるを得ないことだろう。

そんな方々は、自分より下のもの、弱いものに対して強い態度を示すことによって、自分の不安定な心持ちやストレスを発散させなければ、やっていけないかのような気持ちに陥る。日系企業であれば、インドネシア人スタッフに対して居丈高に振る舞ったり、見下したりするような場面もあるかもしれない。

インドネシア人スタッフは、表面上はそれに従うかのように振る舞う。「どうしてこの日本人は怒りっぽいのだろう」と疑問に思いつつ。でも、実は内心では、居丈高に振る舞ったり見下したりする日本人を「残念な人」とシニカルに見ている。積極的に彼へ協力はしないが、何らかの危害を加えない限りは、それなりにお付き合いはする。このような表向きと裏の異なる状態がずっと続き、インドネシア人スタッフは、会社への貢献よりも給料を上げてくれることのみを求める方向へ動いていく。いつか爆発しそうな状況を保ちながら。

こうした日本人に、「もっとインドネシアのことを学んだほうがいい」と言っても、なかなか聞き入れられない。ここは他所の国で、日本ではないという基本認識はあっても、「日本」から出られない。「日本」を何とか維持しようとして、居丈高に振る舞ったり見下したりしながら、インドネシア人の日本人への信頼感や尊敬を失わせていく。

そんなことを、友人と話しながら思った。でも、本当にそんな日本人がインドネシアにたくさんいるのだろうか。にわかには信じられないが、日本企業の進出が増えれば増えるほど、そうした日本人が増えてくるということは想像できる。インドネシアについての事前準備なしに来てしまうケースもあるだろうからである。

そうした方々は、おそらく、私のこの拙いブログを読んでいただくことはないのかもしれないし、私の講演やワークショップやニュースレターにも関心を持っていただけないことだろう。いくらこちらから発信しても、そこにはなかなか届かない。こちらの届かないところで、そんな動きが増殖していないことを祈るばかりである。

でも、今からでもかまわないので、もしも、インドネシアのことをもっと知りたい、彼らの本音を知りたい、と思うことがあったら、いつでもいいので、私までコンタクトしてきて欲しい。時間の許す限り、そうした方のところへ飛んでいこうと思う。

ジョブローテーションの誤解

ある日系企業に勤めるインドネシア人の方とたまたま話をする機会があった。聞くと、転職を考えている様子だった。

さらに聞くと、企業のなかでいろいろな部署を数年でどんどん替わっている様子。「自分は仕事ができないから部署を替わらされているのではないか」という本音がホロッとその人の口からこぼれ出た。

話を聞いて、これは典型的なジョブローテーションだと思った。日本の企業では、様々な部署を経験して、会社全体が見渡せ、部署間の有機的関係が理解できる人材を育てるために、ジョブローテーションは普通に行われている。そうだとするならば、その日系企業はその人を管理職候補として育てるために、ジョブローテーションをさせているに違いない。

転職したいと言うその人に、「今までに、仕事がうまくいかなかったり、上司とトラブルになったことがあった?」と優しく問いかけてみた。「そういえば、そんな心当たりはない」という答え。「もしかしたら管理職候補生として期待しているのではないかな?」と続けると、しばらく間が空いた後、ハッと気がついたような表情をして、その人の目が潤んだ。

その人は、ずっと、自分は能力がないから部署をどんどん替えられたのだと信じていた(実際、インドネシアの国内企業ではそんな状況だという話を私は聞いたことがある)。けれども、もしかすると、企業側はそんな風には思っていなかったのかもしれない、ということに気づいた。企業のために役に立っていないと思い込んでいたその人が、実は期待されていたのかもしれない、と思えた瞬間の涙だった。

その人と話をしながら私も気づいた。日系企業で中堅幹部職員の人材育成が難しいという話の原因の一つは、このジョブローテーションの誤解にあるのではないか、と。日系企業側は、日本流にジョブローテーションをしながら幹部候補生に育てようとするが、当人たちにその意図が伝わっておらず、部署を替わるたびに企業から認知されていないという思いを当人たちが持ち、給料以外の評価基準を意識できなくなって、転職へ向かってしまうのではないか、と。

前に会ったインドネシア人の方は、仕事に給料以外の価値観を持っていなかった。果たして、日系企業で働くインドネシア人従業員たちは、自分たちの作っている製品がどのような社会的価値を持ち、いかに重要な仕事をしているのか、という意識を持てているのだろうか。

たとえば、ネジを作る工場で、そのネジがないと二輪車が完成しない重要な部品であること、そうした部品を作っていることを通して、従業員に誇りを持たせる。中堅幹部職員は、重要な役割を果たす現場従業員がいなければ企業や自分の存在が成り立たないことを理解して、従業員を適切な形でリスペクトする。企業や中堅幹部職員は、それを言葉で伝えるのではなく、一生懸命働いて結果を出したときに、従業員にそっと飲み物やスナックを振る舞う。そんな間接的な振る舞いを通じて、従業員たちは「自分たちがきっちりと見られている」「分かってくれている」と自ら認識するだろう。こうした、さりげない対応は、実はインドネシア人(とくにジャワ人)の得意とするところのはずである。

社員を大切にする、というのは、ほとんどの日系企業が日本で行ってきたことである。そして、インドネシアでもまた、社員を大切にしているというメッセージを、さりげない対応を含めながら、シグナルとして発信していくことが重要になると思う。

果たして、ジョブローテーションの誤解が解けた先のインドネシア人の方は、これからどのようになっていくだろうか。「月曜日の朝会で今日の話を仲間にしてみます」といって、その人は去っていった。

スラバヤの新交通システム計画

ジャカルタでは地下鉄(MRT)建設がいよいよ始まりそうだが、スラバヤでも新交通システムの導入、すなわちモノレールと路面電車の導入へ向けて動き始めた。

スラバヤに来て感じたことの一つは、320万人もの人口を抱えた大都市にもかかわらず、バスや乗合などの公共交通機関が極めて脆弱なことである。もちろん、乗合は何路線もあり、ジョヨボヨ・ターミナルというものもある。しかし、ジャカルタのビスコタ、メトロミニ、コパジャ、ミクロレットのような頻繁に走っている公共交通がほとんどない。バイクと自家用車が圧倒的である。

でも、スラバヤはもともと公共交通機関のあった街なのである。オランダ時代の1925年頃から1975年頃まで、蒸気で走る路面電車と電気で走る路面電車が走っていた。 料金は当時の額で3セン、オート三輪が25セン、タクシーが50センだったという。路面電車はバスに取って代わられた。しかし、そのバスも廃れて、本数が少なくなった。

スラバヤ市の道路延長距離は1426キロメートルで、個人所有二輪車・自動車の台数は2008年の140万9360台から2011年には699万3413台へ急増した。ところが、その一方で、バスの台数は250台から167台へ、乗合の数も5233台から4139台へと大幅に減少している。

当然、道路の渋滞は激しくなってくる。5年以内に、スラバヤの渋滞はジャカルタ並みになるという見方が強い。

そこで、スラバヤ市は、モノレールと路面電車を組み合わせたMRTを導入し、2015年に運転を開始したい意向である。両者の概要は以下の通りである。

<モノレール>(SUROTREM)
延長距離:16.7km
操車場駅:Joyoboyo
停車駅数:29
駅間距離:500-1,000m
年間予想利用客:2793万6900人
投資額:1.2兆ルピア
1車両当たりの最大乗客数:200人
車両編成:2両連結
経済的な料金:8,000-10,000ルピア
住民の支払可能額:6,000-10,000ルピア
車両数:21台

<路面電車>(BOYORAIL)
延長距離:23km
操車場駅:Kenjeren, Joyoboyo
停車駅数:23
駅間距離:500-2,000m
年間予想利用客:4371万7742人
投資額:8.5兆ルピア
1車両当たりの最大乗客数:400人
車両編成:4両連結
経済的な料金:37,000-40,000ルピア
住民の支払可能額:6,000-10,000ルピア
車両数:18台

予想されるのは、建設工事により渋滞がよりひどくなる、ということである。また、公共交通期間に乗り慣れていない人々が、果たして整然と乗り降りできるだろうか、という点も懸念材料である。

そもそも、民間が資金を出さなければ実現しない話だが、本当に資金を出す民間が出てくるのだろうか。実現できたらいいけれど、そう簡単ではないだろう。スラバヤと同時期にモノレール導入を予定していたマカッサル市は最近、計画の延期を発表している。

スラバヤのモノレールと路面電車については、友人のブログに詳しい情報が載っているので、そちらも参照して欲しい。

スラバヤのトラム(市内電車)のお話 その1
スラバヤのトラム(市内電車)のお話 その2
スラバヤのトラム(市内電車)のお話 その3
スラバヤのトラム(市内電車)のお話 その4
スラバヤのトラム(市内電車)のお話 その5
スラバヤにもモノレールだって!!

(参考)TEMPO, 2 Juni 2013.

インドネシア語版のマイ・ブログ

本日6月1日より、本ブログに加えて、インドネシア語での個人ブログを書き始めた。以前から、インドネシア人の友人に「インドネシア語でブログを書かないのか?」と言われていたこともある。

もっとも、2009年まではインドネシア語ブログ「Kabar dari Daeng KM」というのを書いていた。しかし、長い間、休眠状態となっていた。今回、改めてインドネシア語版ブログを書いてみようと思った次第である。

インドネシア語版新ブログは以下のとおりである。まだ1本、自己紹介しか書いていない。

Indonesia Campur

Campurというのは、インドネシア語で「混ざる」「混じる」の意味。沖縄料理のチャンプルーや、長崎のチャンポンと同じ意味の言葉である。

インドネシア政治・経済・社会、日本との関係、自分なりに出会った面白いこと、などを自由に、私なりの考えやコメントを付け加えながら、インドネシアの知人・友人たちに投げかけていきたいと思っている。

さっそく、インドネシアの友人たちが「読むよー」と言ってくれている。どんな反応があるか、楽しみである。

インドネシアの人々へ日本を伝える、ということも一つの役目と考えている。日本語での発信に加えて、インドネシア語でも発信していく。

ブログに加えて様々な媒体への原稿執筆で、1週間、毎日締切という状態になるかもしれないが、これも私なりの使命と心得て、チャレンジしていきたい(今日は、1時間ほど昼寝したせいか、ずいぶんと元気になった)。

スラバヤ空港でのGaruda Indonesia職員

5月25日、スラバヤからジャカルタへ日帰り出張した。5月20~22日に一組、5月23~28日にもう一組、視察同行中で、後者については、仏教のワイサックで祝日であることを理由に1日だけあけてもらうことをお願いし、日帰り出張を行った。

25日朝、スラバヤのジュアンダ空港でGaruda Indonesiaのカウンターでチェックイン。通常よりも一人一人のチェックインに要する時間が長いので何かおかしいとは感じていた。自分の番になって、その理由がわかった。カウンターの職員曰く「直前の便がキャンセルになって、その客がお客様の予約した次の便へ振り向けられたため、オーバーブッキングとなり、乗れません。さらに次の便に振り替えます」とのこと。

はあ? 前の便がキャンセルになると後の便に振り替えて、後の便に予約を入れておいた私が乗れないわけ? 午前11時からジャカルタで会議のため、遅れないようにこの便にしたのに、どういうことなのか? これがGaruda Indonesiaの通常のやり方なのか? カウンターの職員に詰め寄ったが、彼女はGaruda Indoensiaではなく空港サービス会社の職員なので、、「Garuda Indonesiaのカスタマーサービスに話してください」と取り合ってくれなかった。

ともかく、次の便に振り向けられ、その搭乗券をもったまま、Garuda Indonesiaのカスタマーサービスへ。同じような運命になったと思われる何人かの乗客がそこにいた。Garudaのネームタグをつけた男性職員に苦情を話す。するとその職員、「ご意見を言っていただいたお客様をとてもありがたく思います」「素晴らしい意見ですね」「ご意見賜ります」と、褒め言葉が並ぶ。それでさらにカチンと来て苦情を言い続けると、今度は何度も「申し訳ありません」を繰り返し始めた。頭にきたが、埒が明かないので、あきらめて、当初乗る予定の次の便を気長に待つことにした。

振り向けられた次の便だとジャカルタ着は10:20、土曜・祝日で空港からジャカルタ市内への高速が空いていたとしても、おそらく間に合わない。会議の相手にお詫びの連絡を入れた。

話はここで終わらなかった。

ジュアンダ空港内のカフェで、中華チマキとコーヒーの朝食をゆったり摂っていると、先ほど私が会ったGaruda Indonesiaのカスタマーサービスの職員が、息を切らせながら私のところへ駈け込んできた。そして言う。「お客様、当初お乗りになるはずだった便ですが、キャンセルが一人出ました。お客様だけ特別にご案内したいのですが」と。

私と同様の運命になった乗客はたくさんいたはず。なぜ私だけなのか。他の乗客にもちゃんと情報を流したのか。病人や急用のある人など、緊急性の高い乗客がいるのではないか。私だけが特別扱いされるのはおかしい。こんな風にまくし立てていると、「もう時間がないんです。1人分だけですから、どうか搭乗してください」と懇願される始末。

2個あった中華チマキを1個だけ食べ、コーヒーを半分以上残したまま、その職員に急かされながら、搭乗口へ向かった。搭乗券の便名やシート番号は手書きで直され、日帰りで手荷物のみだったので、そのまま搭乗。本来、自分が乗るはずだった便に結局乗ってしまった。

便は約30分遅れで出発。最後の乗客である私を待っていたためだろうか。

機内を見ると、同じ柄のバティックを着たウムロ(断食明け以外の時期に聖地メッカへ行くこと)に行くと思われる方々が多数乗っていた。見た感じ、政府高官やその子弟のような方々が多いように見えた。

もちろん、ジャカルタでの会議の時間には間に合った。きっと、素直にラッキーと思えばよいのかもしれない。でも、後味の悪い何かが残る顛末であった。

ブラウィジャヤ大学での特別講義

5月18日、朝5時起きして、スラバヤから車で2時間のマランにある国立ブラウィジャヤ大学へ行き、日本語学科の学生を対象に「インドネシアの日系企業」という題で特別講義を行ってきた。

集まった学生は約120人、正直言って、かなりたくさんの学生が日本語を勉強していることに改めて驚いた。聞くと、ほとんどが日本語検定3〜4級程度、2級以上の学生は少ないようだ。2級以上になれば、そのほとんどが日系企業に就職できている。

床に薄いカーペットを敷いて座る形。考えてみれば、日本もそうだが、椅子はもともと外から持ち込まれたもので、床に座って、低い机に向かって学んだり作業したりするのが一般的にみえる。

かつて、マカッサルにいたとき、我が家の4分の3を地元の若者たちの活動に開放した際、彼らの運営する図書館(実はマカッサルで最初の民間図書館といってもよかった)では、床に座って低い机で本を読む形式だった。椅子は夭死していたにもかかわらず、である。

ブラウィジャヤ大学の学生たちは、床に座る形式のほうがリラックスして和やかな雰囲気でよい、という。たしかにそう思う。私の特別講義も、いつもより容易に笑いがとれ、リラックスした気分で行うことができた。

ブラウィジャヤ大学の日本語学科は、日本語検定2級取得を目標としている。講師陣も充実しており、日本人の講師の方が2名活躍されている。大学では4年時点で実地研修(KKN: Kuliah Kerja Nyata)を数ヵ月間行うが、将来の自分の職業に合わせて、学生が自分で探す。日本語学科の学生たちは、日系企業でのKKN受入を希望しており、実際、経験者もいるようだ。

また、ブラウィジャヤ大学は、株式会社ニキサエ・ジャパンと協力して、スカイプによるインドネシア語講座を開設している。最近、じゃかるた新聞などでも取り上げられた。

日本インドネシア語学院

学生は講義をとても熱心に聞いてくれ、質問も活発だった。情報が行き交っているためか、以前に比べると、的外れな質問は本当に少なくなった。日本があこがれの国であることは確かだが、かつてのようなステレオタイプな日本イメージがいい意味で変わっていく様子がうかがえた。

ジャワ・ポス紙編集部訪問

5月15日、パートナーコンサルタントのM氏の紹介で、スラバヤを本社とする全国日刊紙『ジャワ・ポス』(Jawa Pos)の編集部を訪問し、編集長はじめ編集スタッフと面会してきた。その様子が、さっそく、5月16日付の『ジャワ・ポス』に掲載された。

実は、『ジャワ・ポス』の編集部へ行ったのはもう10年ぶりぐらいだった。あの頃からずっと、ジャワ・ポスの編集ルームはインドネシアで一番広いと言われていたが、どうも今もそうらしい。変わっていなかった。

この『ジャワ・ポス』紙は、全国の地方紙100紙以上にネットワークを持ち、記事を配信している。おそらく、全国をくまなくカバーしている新聞メディアといってよいだろう。

実は、首都ジャカルタに本社を置く新聞社で、『ジャワ・ポス』と同様のネットワークを持っているところはなく、クォリティペーパーとされる『コンパス』が『ジャワ・ポス』を追い上げようとしているが、全国地方紙のカバレッジでは、『ジャワ・ポス』に大きく後れを取っている。

『ジャワ・ポス』は、数は多くはないが、スラバヤがジャカルタを凌駕する事例の一つといってよいかもしれない。

この『ジャワ・ポス』に、定期的に日本=インドネシア関係に関するエッセイをインドネシア語で書いてみたいと考えている。その話を持ちかけると、編集部は大賛成。まずは、こちらで書いたものを読んでもらってから判断する、ということになった。

うまくいけば、この前のブログで呼びかけた「日本企業がインドネシアでどのような役割を果たし、どう貢献しているのか」をインドネシア語で発信する場を確保できそうである。しかも、うまくいけば、系列の地方紙にも転載されるようだ。

さあ、これから、である。

発信力を強化せよ

5月8日の第1回日本インドネシア経営者会議」で、インドネシア経営者協会(APINDO)のソフィヤン・ワナンディ会長が、「日本企業よ、発進力を強化せよ」と何度も力強く強調していたのが印象的だった。

ソフィヤン会長は、これまで長年にわたり、日本企業のよきパートナーであり、理解者である。彼は日本企業がこれまでのインドネシアの経済発展に多大な貢献をしてきたことを深く理解している。それをもっと、インドネシア社会にアピールすべきではないか、と呼びかけたのである。

何度かお会いし、お話をしたこともあるソフィヤン会長の気持ちは、察するにあまりある。日本に擦り寄るのではなく、かといって日本を利用して自分が、というのでもなく、パートナーとして、互いに確かな信頼を持って、ウィン・ウィンの関係を築きたい、というメッセージと受けとめた。

インドネシアの市場には、二輪車や自動車をはじめ、様々な日本製品があふれている。インドネシアの人々は意外に品質にこだわる。安ければいい、というマーケットでは必ずしもない。しかし、同じ価格帯のモノであれば、品質のよいほうを選び、同じ品質のモノであれば、価格の安いほうを選ぶのは、当たり前のことであろう。

そうやって、たまたま選ばれたのが日本製品だった、ということではないか。日本が好きだから、日本製品を信じているから、インドネシアの人々が日本製品を選んでいるのでは必ずしもないと考える。

しかし、日本製ならば必ず売れる、みんな日本が好きだから、と思い込んでいる向きは決して少なくない。日本を前面に出しているから売れるとは限らない。基本は、いいものを安く、というシンプルな原則である。

実際、日用品や家庭用品でかなりの市場シェアを持っている日本製品について、現場で話を聞くと、人々は必ずしも日本製とは意識していない。日本製と知らないケースも少なくない。彼らは、安くて品質の良いものだから購入しているのである。

フォーラムでは、ユニチャームの高原社長の講演も興味深かった。まず、一般家庭が家計のどれだけを生理用品や紙おむつに支出するかを調べると、わずか5%しか支出しない。一般家庭の平均月収から算出して、その5%内に収まるように製品の価格設定をする。売り方も一回分を小口でバラ売りする。村々までそうやってマーケティングをして、製品を浸透させていく。

しかし、そこで「日本だから」は売り文句にしていない。売り文句にする必要はないし、「日本製品は高い」と思い込んでいる消費者にかえって不信感を与えることになってしまうかもしれない。ユニチャームのやり方は、極めてオーソドックスで、当たり前に思えた。

それでも、日本企業との付き合いもあるであろう同フォーラムの参加者から、「日本企業は閉鎖的でよく分からない」という声を聞いたのは、今さらながら軽い驚きであった。そのイメージこそが、外国(日本)企業はインドネシアにやってきてコストを抑えて生産し、利益はすべて本国へ持ち帰ってインドネシアには何のメリットもない、というステロタイプ化したイメージを植えつけてしまう。

ソフィヤン会長は「日本企業よ、発進力を強化せよ」と訴えた。それは、「日本だから、を強調せよ」という話では必ずしもない。日本からインドネシアに進出して、インドネシアにどのような貢献をしてきたのか、インドネシアの人々にとってどのように役に立ってきたのか、それを淡々と発信すればよいのである。日本というイメージの陰にある、自分の顔を見せて欲しい、ということである。日本で、日本社会にどう貢献してきたのか、日本の人々にとってどのように役立ってきたのか、それを考えてこなかった日本企業はほとんどないと思う。インドネシアでも、それと同じことをすればいいだけの話、ではないだろうか。

日本企業の方々に個人的な提案がある。

日本からインドネシアに進出して、自分の企業はインドネシアにどのような貢献をしてきたのか、インドネシアの人々にとってどのように役に立ってきたのか、を、日本語でよいので、1〜2枚程度書いてみて欲しい。そして、それを私あてに送って欲しい。

それを基に、私は、自分のブログやFacebook、できれば地元新聞コラム等を通じて、インドネシア語でインドネシア社会へ発信する。ささやかながら、日本企業の発進力強化のお手伝いをさせていただきたいのである。

まずは、書いてみて欲しい。そして、それを私の個人アドレス(matsui01@gmail.com)へ送って欲しい。

微力だと思う。しかし、何もしないよりはよいだろう。少しずつ、少しずつ、我々がインドネシアで、インドネシアと何かをよりしていきやすい環境を作ることに関わっていきたい。

日本側の思い込み病

5月8日、ジャカルタで日経BP社とKompas Gramedia Groupの主催による「第1回日本インドネシア経営者会議(The 1st Indonesia-Japan Business Forum)」に出席した。

会議は日本語・インドネシア語の同時通訳で行われ、会場のケンピンスキーホテルには、多くの方々が集っていたが、残念ながら、日本側に比べて、インドネシア側の出席者の数が大幅に少なかった。一つのテーブルに6人いると、インドネシア人の出席者は1人、という感じだった。

タイトルは「生活革命」。インドネシアの消費市場に大きな変化が起きており、それをうまく取り込んで業績をどのように上げていくか。果敢に攻めるいくつかの日本企業のトップにお話をうかがうというのがメインであった。

一言でいうと、いかにインドネシア市場の現実を知るか、ということにつきる。よそから来た者が自分に都合のいい現実を探し、それに合わせるようにマーケットへ強要しても、マーケットがそれに反応するとは限らない。一度、真っ新な気持ちになって、インドネシア市場の現実から学ぶ姿勢が重要であろう。

日本でうまくいったものが、インドネシアでうまくいくとは限らない。それは、日本国内で、関東でうまくいったものが関西で必ずしもうまくいかないのと同じである。基本中の基本である。しかし、日本とインドネシアの関係になると、なぜか、日本でうまくいったものはインドネシアでも必ずうまくいくはず、だって日本のほうが製品の品質が優れているから、という話が聞こえてくる。それは、単なる思い込みにすぎない。

思い込み病は日本企業に限らない。私が研究所に勤めていた頃、理論に基づいて論文を書いた方に「現実はこうなっている」といくら説明しても、「そうなるはずがない」とわかってもらえなかった。私のような地域研究者は理論面が弱い、というのは認めるにしても、だからといって現実を見ないというのは、たとえ理論研究者であっても、許されることではないと思ったものだ。

また、援助専門家として働いていたときに、「インドネシア側はこのように変わった」といくら担当者に言っても、「あいつらがそんな風に変わるはずがない。うそだよ」と相手にされないどころか、担当者から疎まれた。「あいつら」という言葉にもびっくりしたが、せめて、その人には、自分が経験したインドネシアの実際の話をしてもらいたかった。ほとんどインドネシアの方とはお付き合いのない方だったからである。

思い込み病の患者さんたちは、その予備軍ともいえる方々に同意を求め、患者さんたちで閉じられたグループを作る傾向がある。そして、事あるごとにそれが「正しい」ことを、彼らの狭い世界で確認し合う。その間に、現実はどんどん変わっていく。早く気がつけば、現実に向き合って修正することもできるが、遅くなってしまうと、間違った認識を持ってきたことを素直に認められなくなり、逆に意固地になってしまうことさえある。

ビジネスの世界は正直である。意固地になったところに対して、現実は寛容に対応してはくれない。インドネシアは寛容だといわれるが、ビジネスの世界で甘めに見てもらえることはない。思い込み病が悪化した日本企業は、「こんなはずじゃなかった」状態に陥ってしまうだろう。

思い込み病は、実は、インドネシアでの自分たちの外の世界へ向けての発信力不足にも関わってくる。「第1回日本インドネシア経営者会議」で発言した数少ないインドネシア側スピーカーの一人、インドネシア経営者協会(APINDO)のソフィヤン・ワナンディ会長が何度も強調していたのが、「日本企業よ、発進力を強化せよ」だった。

これについては、別のブログで改めて論じたいと思う。

国内唯一の産業廃棄物向け最終処分場(訂正済)

ジャカルタ出張中の5月8日、午後から日経BPのシンポジウムに出席する前に、西ジャワ州ボゴール県チルンシにあるPT. Prasadha Pamunah Limbah Industri (PPLI) を訪問した。この企業は、日本のDOWAエコシステムの関連会社である。

企業自体は1994年に設立され、元々はアメリカのWMI社の子会社だった。それが2000年にMAEH社にとって代わり、2009年にはそれをDOWAエコシステムが買収し、日系企業となった。

このPPLI社は、産業廃棄物処理を行う企業である。産業廃棄物は、石油ガスなどのプラント現場や工場などから出る金属や化学物質など有害な廃棄物であり、家庭ごみなどの一般廃棄物よりもはるかに危険で有害な物質を含んでいる。このため、特殊な処理を施して無害化して最終処分場に埋めたり、一部は燃料化するなどしている。

インドネシアの都市部では近年、ゴミ問題が深刻な問題となっているが、それは一般廃棄物の問題であり、より有害な産業廃棄物についての関心はまだ大きくないのが現状である。

実際、インドネシアには産業廃棄物処理施設が何ヵ所あるのか。焼却や(廃油等の)再利用施設ほか、中間処理施設は複数存在するそうだが、最終処分場は、このPPLI社1ヵ所なのである。

ちなみに、日本での産業廃棄物処理施設は、中間処理施設が1万9417ヵ所、最終処分施設が2047ヵ所あるとされる(こちらを参照)。

PPLI社には、処理される物質の有害度に応じて2種類の最終処分場がある。さらに、ブカシのMM2100工業団地、スラバヤ、ラモンガン、バタムに産業廃棄物を収集する中継基地を設け、このPPLI社の最終処分施設へ産業廃棄物を搬送する専門のトラック部隊を持っている。

顧客のほとんどは、日系企業を含む外資系企業で、インドネシアの地場企業は少ない。有害物質を扱う企業は自社内で産業廃棄物処理をしている。しかし、少なからぬ企業が産業廃棄物として区別することなく、一般廃棄物として処理している可能性が高い。知らぬ間に、有害な産業廃棄物が一般ごみに交じって処理されている可能性が高いということである。

その背景には、PPLI社での廃棄物処理費用が相当に高いこととともに、産業廃棄物の有害性に対する企業や市民の認識がまだ高くないという事情もある。これは筆者の予感であるが、インドネシア各地で、実は産業廃棄物のまずい処理によって健康被害を被り、身体に異常をきたしている人々は少なからずいるはずだろう。しかし、彼らの多くはそうした知識もなく、それが普通の状態だと思っている可能性がある。そのため、いわゆる公害問題として表面化してこない。

環境問題を取り上げるNGOや市民団体は存在する。しかし、その多くは、科学的な調査に基づくデータ準備力が弱く、それが公害問題であることを立証できていない。一部には、住民をネタにして、政府に圧力をかけたり、個人的な政治的利害の材料に使ったりする場合もあり得る。

グローバル化の中で、企業はコスト競争力の強化を求められ、コスト削減を至上命題としている。市民の安全性への関心が低いことに助けられて、本来考えるべき産業廃棄物処理コストが無視される状態をいつまで続けることができるだろうか。そこにこそ、実は政府の役割があるはずなのだが、インドネシア政府は、民間顔負けの短期的な費用対効果重視の姿勢を見せ、民間にできないことを政府でという姿勢が薄い。それは、インフラ整備を民間資金に頼ろうとする姿勢にもつながる。

インドネシアが産業化していく中で、産業廃棄物処理の問題は益々重要性を持ってくる。社会が豊かになるコストを、関係ステークホルダーが適切に分かち合える方向性を明確にすることが求められてくる。

貧乏人は政治家になれない?

政治にはカネがかかる。政治家になるにもカネがかかる。これは、日本でもインドネシアでもある意味、同じかもしれない。民主主義を標榜し、国民主権を掲げ、政治家は国民の代表なのだが、誰もが国民の代表になれるわけではない。

「貧乏人は政治家になれない」というのが現実である。

インドネシア闘争民主党(PDIP)幹部のPramono Anung国会議員の博士論文からの引用という数字が先週の『TEMPO』に載っていた。曰く、以下の人々が議員候補になるために必要な金額はおおよそ以下の通りである。

・アーティスト、スポーツマン、宗教家:2.5〜8億ルピア
・活動家・政党活動家:6〜14億ルピア
・官僚・ 退役軍・警察高官:10〜20億ルピア
・実業家・プロフェッショナル:15〜60億ルピア

100ルピア=1日本円とすれば、最低でも2500万円の資金を用意しないと、議員候補にはなれないということになる。この額は、日本の衆議院議員選挙に出る場合に用意する費用とほぼ同じ額になるようである。

そんな大金をインドネシアのフツーの人が用意できるものだろうか。いろいろ話を聞くが、家や土地や不動産や財産を売却し、親類・縁者から借金をして、苦労して、それでも資金が足りなくて、といった話を聞く。

だから、いったん選挙に出て、勝てば、その借金や費用の回収にどうしても励まざるを得ない。汚職への強い誘因にもなる。 そして負ければ、すべてを失い、貧困生活に陥る場合さえある。

政党は、資金調達のために、できるだけ金持ちの大企業家を取り込みたいのである。資金力が選挙での勝敗の鍵を握るのは明らかである。

それにしても、日本円で数千万円の住宅を購入するために住宅ローンを組み、勤勉に働きながらせっせと返済しているサラリーマンや、急上昇したとはいえ、1ヵ月2万円前後の最低賃金で家族を養っている人々から見れば、選挙に出て議員になるために積まれる大金は、全く別世界のものであろう。

ここに挙げられた政治家になるために必要な資金額が本当ならば、普通に真面目にコツコツ働いてお金を貯めて政治家になる、ということはもはや現実的に困難である。普通の国民が政治家の世界を別世界と感じ、きらびやかなセレブリティの世界と同一視し、政治家に対する期待も関心も失う理由となるだろう。

余談だが、官僚や軍人・警察官になるためには、試験の成績だけでなく、いくらカネを払えるかが暗黙の条件になっており、採用されるためには、ここでも大金を払わなければならない。そのために、田畑や家や家畜や財産を売り払って資金を作っている人々が相当数いるのである。

貧乏人が政治家になれない国、それでも民主国家、共和国、である。

ジャカルタで5月2日のワークショップを終えて

5月1日夜からジャカルタに来ている。

5月2日の日系企業で働くインドネシア人スタッフを対象としたワークショップを何とか終了した。ほぼ予定通りに終わったとはいえ、主催側としては、ワークショップの進め方や手法について、まだまだ修正すべき点が多いことを痛感した。参加者アンケートの文面もきちんと読んで、しっかり反省したいと思う。

同時に、今回、参加者には、日本人とインドネシア人とのコミュニケーションをよりよくしていくために、日本人に対して求めるものと同時に、自分たちインドネシア人がどうしていく必要があるかについても議論し、書面に書いてもらった。まだ読み終わっていないが、その内容についても、いずれ、皆さんに日本語で公表したいと考えている。

昨日は、ワークショップの後、インドネシアの民間コンサルタント会社と、夜6時から別件での打ち合わせがあり、終わったのが夜8時過ぎ、さすがにどっと疲れてしまった。

今朝は5時半起きして、スラバヤに関する短い締切連載原稿を1本仕上げた。今夜の便でスラバヤへ戻る前に、また別の連載原稿の打ち合わせを関係者と行う予定である。こうした連載原稿やこのブログを通じて、スラバヤやいくつものインドネシアがもっと伝えられるように努めていきたいと思う。

来週も、5月8~9日にジャカルタへ出張する予定である。

5月2日のワークショップ・ジャパンを前に

明日(5/2)、日系企業で働くインドネシア人向けのコミュニケーション能力向上を目的としたワークショップを実施するため、今日(5/1)の夜から3日夜までジャカルタへ出張する。「ワークショップ・ジャパン」と名付けたこのワークショップを実施するのは今回が3回目、基本的な内容は同じだが、一部内容と構成を変えて実施してみる。

昨今の日系企業のインドネシア進出ブームの陰で、日本人経営者・管理者とインドネシア人中堅管理職・スタッフとのコミュニケーションのあり方が重要視されてきている様子がうかがえる。お互いに「相手はこう思っているだろう」という一種の思い込みを持ったまま、それを確認することもなく、物事を進めてしまう。しばらくは何も起こらないので、一種の思い込みが正しかったと錯覚しがちになる。

インドネシア人中堅管理職・スタッフの側からそれを確認しようとするのは難しい。彼らはこれまで、言われたことを忠実にその通りにやるように仕向けられてきたからである。その背景には「相手を喜ばせる」「相手を決して傷つけない」「相手が思うように自分を合わせる」という態度にも表れている。そうしている間、とくに問題が起こらなければそれでよい、のである。

実はそうでなかった、ということに気づいて、「すまん」「すみません」といって済ませられる状況で済ませられればよいのだが、それが放置されたまま、「実はそうでなかった」が幾重にも重なっていくと、ある日突然、何かのきっかけでそれが表面化する。表面化は、必ずしも、いきなり暴力的行動に出るアモック、日本流に言えばキレる、という形になるとは限らない。通常、それは最後の手段である。

その前に、欠勤したり、モノが無くなったり、誰かの悪口や変な噂が流布されたり、些細だがおかしなことが起こる。表面的には、全く関係のないことが多いので、それが見過ごされがちになるが、コミュニケーションがうまくいっていないことへの不満のサインであるケースも少なくない。

こうした状況を是正することは、実は企業内部の当事者同士では意外に難しい。なぜなら、彼らは日々接し、互いに分かっていると思いながら仕事をしているので、「まさか」という事態を想定していないし、それを期待もしていない。両者の本当の気持ちが表れるようにするためには、第三者による適切な働きかけが必要になってくる。

それは、その第三者が日本人経営者・管理者よりもインドネシア人中堅管理職・スタッフのことを良く知っている、あるいはインドネシア人中堅管理職・スタッフよりも日本人経営者・管理者のことを良く知っている、という意味では全くない。そんなことはあり得ない。しかし、両者がお互いにもっと本当の気持ちを知ろうとするきっかけ作りを起こすことはできる。それだけの話である。

この部分を放置したまま、表面的な友好関係を続けているうちに、インドネシア人は親日的だ、日本人はインドネシアと仲良くやっていける、と互いに思い込んだまま、表面的な友好関係で終わってしまうのではないか、という危惧を最近とくに感じている。

大きな話かもしれないが、こうしたことが日本とインドネシアの今後にとっても重要になるのだと思っている。

そんな気持ちを持ちながら、ささやかな試みではあるが、このワークショップを実施していくつもりである。

5月2日の次は、ジャカルタで6月3日、スラバヤで6月12日に実施することを予定している。定員はいずれも30名である。 企業向けの出張ワークショップも承っている。

もっとも、ワークショップをやりながら、この問題は決して日系企業や日本=インドネシア関係だけでなく、どこにでも起こっている問題だと感じている。インドネシア人同士の間でも、勝手な思い込みで会話がなされ、互いに誤解したまま話が進んでしまうケースが少なくない。言語が通じるからコミュニケーションがうまくいく訳ではないのである。

家の近くの福建麺

4月24日の夕食は、前から気になっていた家の近くの福建麺の店に行った。

この周辺には、メダンを冠する小さな料理屋が何軒かあり、米粉の平たい麺のクエティアウ(Kwetiaw)、蜂蜜漬けチャーシューなどを食べさせてくれる大衆的な店である。

皆、メダン出身の華人の店なのだろうか。何軒か行ってみたが、皆、それぞれに美味しい。レベルはけっこう高い。家の近くに手軽に入れるこんな店がいくつもあるのが嬉しい。

さて、この福建麺の店、Hok Kien Mie Akiatも、店の前にKweitiaw Medanと大きく書かれている。しかし、まずは福建麺を食べなければ。メニューを見ると、汁麺、焼きそばで麺の種類がMie、Bihun、Kwetiaw、Tamieといろいろあり、そのすべてが「福建麺」であった。ちなみに、Tamieというのは、玉子麺を油で揚げた麺である。

注文したのは、Hok Kien Mie Rebus。汁麺である。いつも食べる福建麺と同じようなもの。 出てきた福建麺は、ボリュームたっぷりだった。

このなかに、麺が見えないほどの量の海老、豚肉、豚耳、チャーシュー、もやし、青菜、魚団子などいろいろな具が入っている。途中まで食べて、次の写真のような感じである。

また、この福建麺のスープが何ともいえぬいい味を出している。 太い玉子麺とスープの絡みも絶妙である。

すっかり満足したここの福建麺。おそらく、インドネシアでは、私がよく通ったジャカルタの福建麺を凌駕していると思う。思わず、「最強の福建麺」とツイートしてしまった。

この店、実が創業が1932年。そんな昔からスラバヤにあったのだろうか。あるいは、メダンで創業したということなのか。

Hok Kien Mie Rebusは34,000ルピア。近所のワルンで1万ルピア程度で食べられることを考えれば、決して安い食べ物ではないが、たぶん、ジャカルタに比べれば安いだろう。

スラバヤ西部地区であれば、出前配達もしてくれるようだ。この店の常連になりそうな気がする。

Hok Kien Mie Akiat / Kwetiaw Medan
Jl. Mayjend Sungkono, Surabaya
出前注文:031-6031-5910, 031-838-77-168

 

バティックにロゴマーク

バティックといえば、インドネシアが誇るユネスコの世界無形文化遺産の一つである。

工業省は、インドネシア国産のバティック(蝋纈染め)に対してロゴマークを付けることを明らかにした。近年、中国など他国でバティックの生産が盛んになり、それとインドネシア国産とを区別する必要が出ていたことが背景にある。

もともと、工業省には国産バティックにロゴを付けることを決めてはいた。バティックマークの使用に関する工業大臣令2007年第74号、及びその実施規則である中小工業総局長令2009年第71号である。

バティックは大きく、手書きバティック(Batik Tulis)、型押しバティック(Batik Cap)、印刷バティック(Batik Printing)の3つがあり、価格も大きく異なる。もちろん、最も安いのが印刷バティックである。

工業省によると、手書きバティックはゴールド、手書き+型押しバティックはシルバー、型押しバティックはホワイトのロゴが付く。これらのロゴを使うためには、ジョグジャカルタにある国立工芸品・バティック研究所(Balai Besar Industri Kerajinan dan Batik)が行う認証試験にパスしなければならない。

どんなロゴなのかを探していたら、以下のページにそのサンプルらしきものが見つかった。

The simplest way to determine Indonesia original Batik

ここで注目されるのは、印刷バティックにはロゴがないことである。すなわち、印刷バティックはインドネシア国産バティックとして政府が認証しないのである。なぜなら、それは蝋纈染めではなく、バティックの模様を印刷したにすぎないので、バティックとは見なさないのである。

ところが、バティックが世界無形文化遺産に制定されてからというもの、インドネシア国内各地でご当地バティックが大流行となった。もともと、バティックを作ったり着たりする習慣がないところでも、地元産のバティックが作られ始めた。しかし、それを作る素地がないところは、デザインは地元風でも、実際の作成はジャワ島のジョグジャカルタやバンドンへデザインを送って作ってもらうという体制になった。

もともと、バティックの本拠はジャワである。ご当地バティックの背景には、政府が毎週金曜日、政府職員にバティック着用を求めたこともある。それまで、絣など地元の伝統服を着ていた地方でもバティックを着用するようになった。いつの間にか、ジャワ由来のバティックをその伝統がない地方でも着用し、しかもデザインは地元風でも、作る場所はジャワ、という状態が広がった。

今のところ、こうした状況への反発が地方で生まれているという話は聞かない。スハルト時代には、地方がジャワ風の押しつけに反対し、「ジャワ化」(Jawanisasi)への反発が強かったが、今とは対照的である。

ご当地バティックについては、以下の拙稿も合わせてご覧いただければと思う。

バティック・パプアについて

バティック・バンテン

リアウのバティック

ブンクルのバティック

マランのウベホテル

4月24日にマランへ行った際に、午後2時からウベホテルというホテルで面会者と待ち合わせをした。それまで、国立ブラウィジャヤ大学で用事があるので、その近くのホテルということで、ウベホテルで人と会うことになった。

マランのホテルといえば、1985年に始めてマランへ行ったときに泊まったスプレンディッド・インと、その後何度か泊まった、コロニアルな作りのホテル・トゥグが頭にすぐ浮かぶが、ウベホテルというのは知らなかった。

どんなホテルなのか楽しみにしていたら、そこはブラウィジャヤ大学にあまりにも近いところにあった。

なぜなら、ブラウィジャヤ大学のキャンパス内にあったからである。

ウベホテルというのは、ウーベーホテル(UB Hotel)だった。ウーベーはUB、Universitas Brawijayaの略称だったのだ。大学がホテルを経営しているのである。

たしかに、ジョグジャカルタの国立ガジャマダ大学も、バンドンの国立バンドン工科大学も、ホテルを持っている。当初は、大学への来訪者向けだったゲストハウスや宿泊施設をホテルに変えていったのだろう。

このウーベーホテルの「スアサナ・カフェ」(Suasana Cafe)には、ユニークなジュースがたくさんある。「ヘルシージュース」の項目に、ビタミン繊維ジュース、 スタミナ・ジュース、アスパラガス・セロリジュース、人参セロリジュース、尿酸値を下げるためのレモングラスと蜂蜜など、いろいろである。

私が頼んだのは、こちら。

緑キャベツ・パンチである。説明は英語で、「尿酸値を下げるためのチコリーとからし菜とオレンジとリンゴをブレンドした飲み物」とある。さっぱりしてとても美味しい飲み物だった。

ブラウィジャヤ大学の有名学部の一つが農学部で、ヘルシージュースのラインナップにその一端を見ることができた。

1泊の宿泊料金は以下の通りである(下記の料金に税・サービスが含まれているかどうかは要確認)。

Superior: Rp. 500,000
エアコン、テレビ、電話、コーヒーメーカー、冷・温シャワー、
朝食(2人分)、新聞、ツインベッド

Deluxe: Rp. 600,000
エアコン、テレビ、電話、ミニバー、コーヒーメーカー、冷・温シャワー、
朝食(2人分)、フルーツバスケット、新聞、ダブル/ツインベッド

Junior Suite: Rp. 700,000
エアコン、テレビ、電話、ミニバー、コーヒーメーカー、冷・温シャワー、
朝食(2人分)、フルーツバスケット、新聞、ダブル/ツインベッド
コネクティングルーム可

Executive Suite: Rp. 800.000
エアコン、テレビ、電話、ミニバー、コーヒーメーカー、冷・温シャワー付きバスタブ、
朝食(2人分)、フルーツバスケット、新聞、ダブル/ツインベッド

宿泊のほか、会議、結婚パーティー、テーブルマナーのパッケージもある。

連絡先は以下の通りである。

UB Hotel
Jl. MT Haryono 169, Malang 65145
Phone: +62-341-558585
Fax: +62-341-575810
Email: info@ubhotelmalang.com
URL: www.ubhotelmalang.com
Hotline Service: +62-81-252-11-222-5

なお、余談だが、ブラウィジャヤ大学は日本の様々な大学と協定を結んでおり、最近では日本語教育でも注目されている。現在、日本人ネイティブの日本語教師を募集中。詳細は当方までご連絡されたい。

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