MIWFと『ディポヌゴロ物語』

昨年に引き続き、6月5〜8日、マカッサルでマカッサル国際ライターズ・フェスティバル2014(Makassar International Writers Festival [MIWF] 2014)に顔を出してきた。

このイベントは、私も関わっているRuma’ta Art Spaceが毎年開催しているもので、今回で4回めになる。国内外および地元マカッサルの小説家、詩人、文学者などが集まり、様々なワークショップを実施している。

今回は、東インドネシアの若手ライター6人が発表するセッションのスポンサー役を個人で引き受けた。彼らはなかなか個性的で、しっかりした考えの持ち主だった。

彼らのワークショップでは、彼らの地元に対するアイデンティティについて質問したが、ローカルであることをことさらに意識して自分の作品に盛り込もうとすることもなく、自分の身の回りの日常を淡々と語る姿がなかなか頼もしかった。

今回のMIWF2014の目玉の一つは、ジャワ戦争で宗主国オランダに対して反乱側の指導者となったディポヌゴロ王子(スルタン・ハメンクブウォノ3世の長男)の物語であった。

6月5日夜、ディポヌゴロ研究の第一人者であるオックスフォード大学のピーター・カレー教授(Dr. Peter B. R. Carey。現在、インドネシア大学文学部非常勤教授)の主宰で、ジョグジャカルタのランドゥン・シマトゥパン(Landung Simatupang)氏のグループが『ディポヌゴロ物語』(Babad Diponegoro)を、語りと音楽を交えたパフォーマンスとして演じた。なかなか見応えのある内容だった。

ディポヌゴロ王子は反乱の後、オランダに捕らえられ、マナドへ流された後、マカッサルに連れて来られ、マカッサルで亡くなった。まさに、今回のMIWF2014会場であるロッテルダム要塞で亡くなったのである。今回は、その話が題材となっていた。

ロッテルダム要塞には、ディポヌゴロ王子が囚われていたとされる牢屋がある。そこで亡くなったものと思っていたが、今回、ピーター教授の話で、亡くなったのは、要塞の左手奥の2階建ての建物の2階だったことが分かった。そこは今、要塞内の図書室として開放されており、学生や識者がよく利用している場所である。

ディポヌゴロ王子は、オランダによって家族とともにここに幽閉されていた。朝の散歩は認められていたが、要塞の外に出ることも、外部の者と接触することも、厳しく制限された。そしてここで『ディポヌゴロ物語』を執筆し、最期を迎えたのである。

パフォーマンスの最後は、ディポヌゴロ王子の最期を象徴する圧巻の舞が演じられた。そしてパフォーマンスは終了したのだが・・・。舞を演じていた男性の演技が止まらない。何かに憑かれたように、彼は演じ続ける。そう、彼はトランス状態になってしまったのである。あたかも、この場所で亡くなったディポヌゴロ王子の霊が乗り移ったかのように。

知人によると、このパフォーマンスではこういうことがよく起こるそうである。

翌日夕方、ピーター教授とランドゥン氏らは、ディポヌゴロ王子が亡くなった要塞内の図書室で儀礼を行うことになった。ディポヌゴロ王子の霊を慰め、鎮めるためであった。

儀式は30分程度で終わったが、ここでディポヌゴロ王子が最期を迎えたのかと思うと、何とも言えぬ気持ちになった。

ディポヌゴロ王子は、言わば、ジャワ世界とマカッサルとをつなぐ一つのシンボルである。オランダ植民地支配は、様々な種族を分断し、統一させないように統治したが、ディポヌゴロ王子がマカッサルへ流されてきたことで、逆に、ジャワとマカッサルが反オランダということで意識的につながる、そんな要素を間接的に創りだした、と言えなくもないような気がする。

今、ジャワ島のスラバヤに住み、マカッサルで『ディポヌゴロ物語』に出会ったことで、これまでとは違う新たなインドネシア像が自分の中に現れたような気がしている。

マカッサル、わが「故郷」

この週末は、南スラウェシ州の州都マカッサルへ来ている。人口約120万人、インドネシア東部地域への玄関口でもあるこの町は、私にとって、インドネシアにおける「故郷」といってもよい。比べられるとするならば、自宅のある東京や生まれ故郷の福島と同じか、それ以上の意味を持つ町である。

私が初めてこの町に来たのは1987年、トラジャの日系コーヒー農園を訪問するときであった。海沿いのホテルのコテージタイプの部屋から観た夕陽の美しさに感激したのが最初である。その後、1990〜1992年のジャカルタ滞在中に、妻と一緒に何度か旅行に来て、二人ですっかりマカッサル(当時はウジュンパンダンという名前だった)に魅せられてしまった。

「この町に住みたい。でもきっとそんなの夢物語だよねえ」と妻と二人で思っていた。 当時勤めていた研究所の現地研究者ネットワークのなかに、この町に住む研究者の名前は一人しかなかったからである。もちろん、研究所の先輩方でこの町に馴染みのある方はまだいらっしゃらなかった。

そんななか、奇跡が起こった。1994年頃、研究所の先輩から「JICA専門家として、ウジュンパンダンに赴任しないか」という打診が来たのである。我が耳を疑った。こんなことって、あるのだろうか。半ば興奮状態のまま、「絶対に行きたいです」と答えてしまった。その後で、何の仕事で行くのかを聞き忘れていたことを思い出した。

仕事は「インドネシア東部地域開発政策支援」だった。ウジュンパンダンだけでなく、カリマンタン、スラウェシ、マルク、ヌサトゥンガラ、パプアを含む東部地域13州(当時は東ティモールも含まれていた)全体をカバーする内容で、JICA専門家チーム3人のうち、東部地域の現場に居住する1人として活動する、というものであった。

JICA専門家として、1996年4月〜1998年10月、1999年3月〜2001年3月は、ウジュンパンダンで妻子と一緒に一軒家で暮らした。娘は1歳半から5歳までここで過ごした。インドネシア自体は通貨危機の影響でこの20年のなかで最も厳しい時期だったが、私たち家族にとっては何物にも代え難い美しい日々を過ごすことができた。

その後も頻繁にマカッサルを訪れ、2006年9月〜2008年2月は国立ハサヌディン大学の客員研究員として、研究所を辞職した後の2008年4月〜2010年4月は再びJICA専門家としてマカッサルに滞在した。数えてみると、合計で約8年半、マカッサルに滞在したことになる。

マカッサルを「故郷」と感じる要因の一つは、1996年4月に住み始めたときから今まで、ずっとお世話になっているお手伝いティニさんの存在がある。乳幼児だった娘を我が子のように可愛がってくれる一方、料理の腕は素晴らしい。私の後任もお手伝いとして引きとってくれたが、そのときに、庭師で雇っていたシャムスル君と結婚した。今では息子のワフユ君も小学5年生になった。

実は、私は今もマカッサルに1軒の家を借りており、ティニさん一家に住み込みで家の管理をしてもらっている。この家の借家契約が今月末(2013年3月末)で切れる。実は、今回のマカッサル訪問は、この契約が切れた後どうするか、の方向性を決めるための訪問であった。