ジミー・チュウのFUKUSHIMA

先週、ジョホールバルに滞在中、地元の華人実業家と知り合いになった。

初対面にもかかわらず、彼はとても親切で、私の希望に添って、イスカンダル・プロジェクトの現場を車で案内してくれた。あいにくの雨で、写真も撮れず、車の中から見るしかなかったのだが、予想以上に広大かつ野心的なプロジェクトの様子がうかがえた。

ひと通りイスカンダルを見終わって、ショッピング中だった彼の奥さんも交えて、昼食をとった。いろいろと話をしているなかで、彼の奥さんが、「ジミー・チュウというマレーシア人の靴デザイナーが福島をテーマにした作品を作った」という話をしてくれた。彼女はジミー・チュウのデザインが好きで、マレーシアではたくさんのファンがいるという。

ジミー・チュウという名前も初めて聞いたが、その人が福島のために何かしているという話も、恥ずかしながら、初めて聞いた。もしかしたら、福島ではこの話は有名なのかもしれないが。

調べてみると、ジミー・チュウ氏は、実際に福島にも行っているようだ。彼は、靴の素材として、福島の伝統工芸品である会津木綿、会津漆器、川俣シルクの3つを使った。以下に、その記事がある。

福島の可能性ひらく靴 伝統工芸使い生み出す

この記事を読んで、次のような、心に響いた記述があった。

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ジミー・チュウの靴の中には1足10万円を超えるものもある。講演会に出席した官公庁や自治体などの関係者の中には、6足を売って復興支援にあてるアイデアもあったという。

だが、チュウ氏の思いは違った。「寄付だけで復興は成り立たない。風評被害やいろいろな困難や苦労を糧にし、反発し、福島の価値をどう高めるか考えた先に復興はある」

チュウ氏は、ふるさとのマレーシア・ペナン島で父親の下で修業した後、身一つで渡英した。どんなに売れなくてもこだわってきたのが、自分の名前を靴の中敷きに刻むことだった。それが自らの技術とデザインのすばらしさを世界に知らしめる最良の方法だ、と。その場所に今回、自分の名前ではなく「FUKUSHIMA」と刻んだ。

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ジミー・チュウ氏の靴を売って復興支援に充てる? そんなことを考えた福島の人間がいたとは、とても悲しい。

ジミー・チュウ氏が福島へ寄贈した6足へ託した深い思いを、我々はきちんと受け止めているだろうか。こんなにも深く、福島のことを思って行動してくれている人が世界にはまだまだいるのである。

福島出身の私を含めた福島の人間は、世界の人々からこんなにも思われている。そう思いながら、福島と外の世界とをもっともっと結んでいく必要を痛感した。

まさか、そんなことをマレーシアのジョホールバルで考えるとは思わなかった。ジョホールバルは、自分にとって忘れられない場所の一つになった。

ジョホールバルの新山華族歴史文物館

この一週間、シンガポール、ジョホールバルからジャカルタへ、スラバヤに戻ってからは朝早くから夜遅くまで来客対応、その合間に宿題のレポートを2本こなす、という状態で、ブログ更新を怠ってしまった。

5月17〜18日のジョホールバルは、1991年以来の訪問だった。旧市街のJB Sentral駅近くに宿を取り、周辺を街歩きした。その後、MM2Hプログラムを使ってジョホールバルへ移住した知人を訪ねて、そのコンドミニアムでの暮らしぶりを見てきた。

さらに、シンガポール在住の知人のツテで知り合いになった、ジョホールバルの華人実業家にイスカンダール計画のサイトを車で案内してもらった。イスカンダールは想像以上に規模が大きく、コンドミニアムなどの不動産売買が過熱気味とのことだった。上海の物件との抱き合わせ販売もあるらしく、華人実業家は本当に最終的に埋まるのかと心配していた。残念ながら、急激な雷雨に見舞われ、写真が撮れずじまいに終わった。

しかし、今回、最も興味深かったのは、ホテルから街歩きしたときに見つけた新山華族歴史文物館、すなわちジョホールバル華人博物館(Johor Bahru Chinese Heritage Museum)であった。

この博物館では、ジョホールバルの歴史に華人が深く関わってきた様子をうかがうことができる。

ジョホールバルは元々、正露丸や仁丹など口腔清涼剤に使われ、タンニンを多く含むガンビール(Gambier / アセンヤク(阿仙薬))の植えられていた土地だった。ここへ華人の入植が始まり、1855年にタンジュン・プトゥリという名前の港町が形成された。その後、ジョホールバル(新山)と改名されたこの町は、潮州人の陳開順(Tan Kee Soon)が設立した義興公司(Ngee Heng Kongsi)が主導して発展を遂げていくことになる。

町中には、義興通り(Jalan Ngee Heng)という形で名前がまだ残っている。

義興公司の祖である陳開順は、1803年に広東・海陽で生まれ、当時、中国全土を支配していた清王朝に楯突いてペナンへ逃亡、その後マラッカ、シンガポールを経て、1844年にこの地へ入植したということである。いずれ、清王朝を打倒し、明を復興させることを夢みていたようである。

この地の華人は大きく5つに分けられる。潮州人は主にガンビールや果物などを扱い、パサール(市場)を支配した。広東人は、建材、鉄、木材などを扱い、客家人は薬、洋服、質屋などに従事した。福建人はゴム農園などの労働者、海南人は飲食、写真屋などに従事した。

第2次世界大戦の頃の記述も興味深かった。ジョホールバルでの華人とマレー人とがいかに協力的であったかが強調される一方、日本軍に関する記述は、「日本軍は住民たちを勝手気ままに殺し、至るところで女性を強姦した(Tentara Jepun membunuh penduduk-penduduk dengan sewenang-wenang dan memperkosa wanita di mana-mana)」と、実に厳しい内容だった。こういう表現で、ジョホールバルの人たちに、かつての日本軍のイメージが作られてしまうのだろう。

もっとも、今回のジョホールバル滞在中、私が日本人だからといって、そこの人から差別的な扱いを受けたことはなかった。かつて、クアラルンプールで中華系の屋台で食べたとき、伝票に「日本人」と書かれ、他の人の値段の2倍を強制されたときには、マレーシア半島部の反日感情の一部を痛感したものだが、今回は、この博物館を含め、不快な思いをしたことはなかった。

博物館に話を戻そう。展示はなかなか興味深いのだが、一例として人力車の話を上げておく。展示によると、人力車は1869年に日本で発明され、それが上海、北京へ伝えられた後、1880年に上海からシンガポールへ伝えられ、そこからジョホールバルへ入ってきた。そして、第2次世界大戦中に、日本人がジョホールバルへ輪タク(トライショー)、すなわちインドネシアでよく見かけるベチャを入れたのだという。

輪タク(トライショー)、すなわちベチャの由来についてはいくつかの説があるが、そのうちの一つは、当時の蘭領東インド・スラウェシ島のマカッサル在住の日本人の自転車屋が第2次世界大戦少し前に発明し、それがジャワ島などへ渡った、というものである。もしそうだとすれば、その一部がジョホールバルに渡ったということになる。やはり、ベチャは日本人の発明だった可能性が高い。

このほか、華人の世界には様々な秘密結社があり、その結社内だけで通じる暗号のような身振り手振りがあるということも初めて知った。これらの秘密結社には、義興公司(Ngee Heng Kongsi)、天地会(Tiandihui)、松柏館(Tsung Peh Society)、松信公司(Hong Shun Society)、海山会(Hoi San Society)、大伯公公司(Toa Peh Kong Kongsi)、和●(月ヘンに生)館(Ho Seng)などがあるということである。もしかしたら、今もこうした秘密結社のつながりは有効なのではないか、と思ったりする。

博物館で、”A Pictural History of Johor Bahru”という分厚い本を買ってしまった。昔のジョホールバルの様子が写真入りで解説してあり、1844年に陳開順が入植して以降、現在に至るまでの年表が英語で付いている。彼らとインドネシア華人との接点がどのような形で見えてくるか、いずれ調べてみたいなどと思っている。

久々のシンガポール→ジョホールバル

今、マレーシアのジョホールバルにいる。昨日、シンガポールのブギスから高速バスでコーズウェイの橋を渡って着いた。ジョホールバルは1991年以来、23年ぶりである。

シンガポールでは、日本の都道府県・市町村や地銀の駐在員の方とお会いし、日本の地方とインドネシア(と他のアジア)の地方とをダイレクトに結びつけ、双方の主体的な地域振興にとってプラスとなるような関係づくりについて、色々と話し合うことができた。

合わせて、予期せぬ出会いもあった。まさに、動くと何かが起こる、という感じである。

そして、シンガポールが様々な面で効率的であり、快適であることを改めて感じた。チャンギ空港を降りて、ラッフルズプレイスまでわずか30〜40分、何より、東京と同じように、時間を計算して動くことができる、ということが、インドネシアから来た身にはありがたく感じた。

それにしても、シンガポールの物価は高い。東京並み、いやそれ以上である。しかし、インドネシアから来て感じるのは、移動経費の意外な安さである。公共交通機関が整っており、その料金がかなり安い。タクシーにあまり乗る必要がなく、移動経費だけを見ると、タクシーに乗らざるをえないジャカルタやスラバヤのほうがむしろ高く感じるほどである。

シンガポールでの予定を終えて、ブギス駅近くのバス乗り場からジョホールバル行きの高速バスに乗車。料金は2.5シンガポールドル。バスはエアコンが効いて快適、しかし、ブキティマ・ロードをしばらく行くと、けっこうな渋滞である。

渋滞のなか、乗客が次々に立ち上がり、バスが止まると次々に降りていく。シンガポール側の出国審査である。彼らに続いて荷物を持って下車し、出国審査場の”All Pasport”の列に並ぶ。すんなり出国手続きを終え、再び、バスに乗るが、さっきまで乗ってきたバスにどこで乗るのかが分からない。とりあえず、同じバス内で見かけた乗客の後を追っていくと、さっき乗ってきたバスが運よく?現れたので、再び乗車する。

発車後、5分もかからないうちにコーズウェイを渡り、高架上のまま、ゴテゴテ感満載の巨大な建物の中へ吸い込まれていく。マレーシア側の入国審査場のあるJB Sentralである。

たしか、23年前にジョホールバルへ来たときの入国審査場はコーズウェイの橋の上だった記憶がある。あのときは、マレーシアの入国カードを記入し、入国審査を受けている間に、乗ってきたバスが行ってしまい、しかたなく、橋の上を歩いてマレーシア側に入境した。今は、橋の上を歩いて入境することはできなくなった。

JB Sentralでの入国審査もスムーズ。入国カードもない。パスポートを提出するだけで、あっという間に入国。普通は、この後また、乗ってきたバスにもう一度乗って、バスの終点であるラーキン・バスターミナルまで行くのだが、私はバスに乗らず、ここで降りた。今回の宿をJB Sentralのすぐ近くにしたので、歩いていけるのではないかと思ったからである。

入国審査場から少し歩くと、両替商や様々な店屋が並んでいる。そこで、持ち合わせのシンガポール・ドルをマレーシア・リンギに交換。その先には、鉄道のジョホールバル駅があり、切符売り場もある。シンガポールへの戻りを鉄道にしようかと思い、ジョホールバル駅からシンガポール側のウッドランド駅までの時刻表を探したが、見当たらず、駅員に聞いても、時刻表はないという。ジョホールバル=シンガポール間はバスが頻繁に出ているので、わざわざ鉄道で行く必要はないなと理解。

駅を後にして、架橋をわたる。途中、下にタクシー乗り場やバス乗り場が見える。そのまま架橋を渡り終えると、ショッピングモールに直結。ジョホールバル・セントラル・シティー・スクウェアである。3階に着くので、モール内を通り抜けて1階までおり、一番南側の出口を出ると、目の前に今回の宿があった。

街の中心部の安宿である。今回は、JB Sentralの近くの宿に泊まろうと決めていた。昔、歩いたゴチャゴチャした中心部をもう一度歩いてみたいと思ったからだ。

でも、さすがに疲れた。着いてしばらくウトウトし、ショッピングモール内で夕食を済ませた。そこで食べた中華がなかなかの本格派。インドネシアではめったに味わえない美味しさだった。そして、誤って落とした箸を、イケメン風の店員が、顔色一つ変えずに、すかさず拾ってくれるその速さ。そんな些細なところに、インドネシアとの違いを感じてしまう。

土日はジョホールバル。しかし、連載原稿の締め切りが月曜と火曜にくるので、時間を見つけて作業もしなければ。今、ものすごい雷音の後、雨が降り始めた。