ワークショップ進行役(2015.1.28)&バンコク(2015.1.29-1.31)

今週は私の誕生日から始まりましたが、怒涛のような一週間でした。ふーっ。

1月27日に某日系企業でインドネシア人職員を相手に、インドネシア語で午前午後2回の講演&ワークショップを行なったことは、一つ前の活動報告で書きました。

翌28日は、経済産業省主催の「インドネシア日本、新たなパートナーシップ」(知日派セミナー)と題するワークショップで、午後の経済分科会のパネルディスカッションにおいて、日本語とインドネシア語で進行役を務めました。

パネルディスカッションなので、台本はなく、パネリストがどんなことを話すかも予め分からず、出たとこ勝負。果たして、3時間の間にうまくまとまるのかどうか、ハラハラのし通しでした。

それでも、中身のある議論をしたいと思ったので、パネリストの話した内容を咀嚼しながら、議論を深めようと努めた結果、「インドネシアの製造業競争力強化のために、インドネシアと日本が協力して人材をどのように育てるのか」という一点に絞った議論とならざるを得ず、他の想定トピックは割愛せざるを得ませんでした。いったい、会場の200名以上の出席者の方々には、どのように受け止められたのでしょうか。

これだけでもうヘロヘロで、終わった途端にどっと疲労感が溢れかけていたのですが、すぐに気を取り直し、休みもとれないまま、ワークショップのレセプションでも進行役を続けました。パネルディスカッションと比べれば、こちらはずいぶんと気が楽。

2人の友人に登壇してもらい、TEDx風にプレゼンをしてもらいました。2人ともインドネシア人と日本人のハーフで、両者の架け橋になるという思いをプレゼンに込めてもらいました。これからの新しいインドネシアと日本との関係の拡大・深化のなかで、彼らのような両者を体現する方々にどんどん活躍していただきたいと願いました。そして、進行役の私は「彼らこそがインドネシア=日本の未来そのものです」と叫んでしまいました。

28日のワークショップとレセプションが終わったら、もうダメでした。27日から連日の疲労がどっと押し寄せ、ベッドの上に横たわったら、翌朝まで眠り続けてしまいました。

29日はジャカルタからバンコクへ移動。同乗したジャカルタの英国国際学校の生徒たちが機内で大騒ぎしていたため、ゆっくりと休むこともできないまま、バンコクに到着。

夜は、束の間の楽しみでした。以前の職場の後輩や知人たちと久々に再会し、沖縄料理屋で飲んで語り合いました。私も含めて、以前の職場を離れてから様々なことがありました。でも、こうやって集まると、あたかも昨日も会ったかのような気分になれるのは、本当に嬉しいことです。ただし、疲労困憊の身に泡盛はちょっと辛かったです。

20150129-02

30日は、バンコクで朝から夕方まで会議。アジア各国で活動するジェトロの中小企業海外展開現地支援プラットフォーム・コーディネーターが一同に会した会議でした。会議の内容はともかく、素晴らしい方々に出会えて、とてもよい刺激になりました。

さて、今日(31日)は、バンコクからジャカルタへ向かいます。今晩はジャカルタで1泊し、明日、来客アポを1本こなしてから、夜便でスラバヤへ戻ります。その後は、少しゆっくりしたいです。本当に。

 

バンコクで「マカッサル」を探す

11月13〜16日の日程でタイのバンコクへ来ている。

用務のほうは14日に早々に終わり、久々に8時間眠った後、15日は街歩きに出かけた。
最初は、博物館や美術館へ行こうと考えた。しかし、昔からバンコクへ行ったら行きたいと思っていたところを思い出した。バンコクにある「マカッサル」を見に行くことにしたのである。
バンコクの「マカッサル」(Makassar)とは、マッカサン(Makkasan)である。スワンナプーム空港からの鉄道シティラインの拠点駅の名前でもあるマッカサンは、マカッサルから由来した地名である。

その昔、17世紀後半、オランダとの戦いに敗れたスラウェシ島南部(現在の南スラウェシ州)のゴワ王国の人々は各地へ散り散りになって逃げたが、そのなかに、アユタヤ王国まで逃げてきた者たちがいた。彼らはアユタヤ国王に温かく迎え入れられた。そして、フランスが後にアユタヤ王国を攻めた際には、勇猛果敢にフランス軍と戦ったと言われている。その功績を称えて、彼らの居住地をマッカサンと名付けられたのだという。

この話はインドネシア側でいわれている話なので、タイでどのような話になっているのかは分からない。なお、マッカサンという名前は、オーストラリア北部のアボリジニーの伝承で、北から交易にやってきた人々の名前として知られてもいる。

さて、おそらく、マカッサルの面影を見つけることは難しいだろうと思いながらも、そのマッカサンを歩いてみた。20分に1本しか来ない空港鉄道のラチャプラロップ駅で降り、その周辺を歩いてみた。

まず、目に入ったのが、タイ国王らの写真が掲げられた「Welcome to the ASEAN Community」という表示板。インドネシアではこの種のものをまだ見たことがない。

大通りをしばらく歩くと、金物屋やガラス屋などが並ぶ。サイアム駅周辺やチットロム駅周辺などとは違う、私が昔来た頃に見たバンコクの雰囲気がよみがえる。

地図によるとマッカサン市場やマッカサン郵便局などがあるはずなのだが、見つからなかった。大通りから1本脇道に入ると、公園があった。公園の上を巨大な高速道路が通っていて、景観は台無しになっていた。

高速道路の高架の下は、静かな空間。人々の生活道路は確保されていて、高速道路で寸断されていない。

ラチャプラロップ駅へ戻って、マッカサン駅まで歩いてみることにした。タノン・ニッコム・マッカサンという名前の通りを歩いてみたのである。

ラチャプラロップ駅周辺の空港への高架鉄道の下には、タイ国鉄の線路が通っていて、その脇で生活する人々がいた。そこを列車が通って行った。

マッカサン駅までの道は、工事中の人々の小さな家々や工事現場の埃などの混じった単調な道だった。いくつかホテルはあるが、ショッピングセンターも歩道を歩く人々の姿も何もない。

炎天下に汗を書きながら、こんな道をひたすら歩いている自分が異常なのかもしれない。

入っては見なかったが、労働博物館、というのもあった。

沿道の屋台では、ちょうど昼食の時間だった。

ようやく、マッカサン駅に到着。駅の周りには何もない。こんなところが空港からの起点駅なのが不思議に思われる。

さすがに暑い。昼食前でお腹も空いた。ともかく、早くMRTかBTSに乗って涼みながら、昼食場所を探そう、と思った。

結局、マッカサンでマカッサルの面影を探すことはできなかったが、「ここでゴワ王国の末裔が暮らしていた」ということを思いながらの街歩きは、なかなか趣深いものであった。

シーロムのショッピングモールで昼食の後、今度は「ジャワ」を見つけに出かけた。