誰が得をしているのか
一連のいわゆる「イスラム国」をめぐる動きをずっと眺めていた。日本人人質やヨルダン人人質を殺害したとされるビデオが流れ、政府発表やメディアを通じて殺害されたと報じられている。
その一方で、これまでの何年もの間に、イラクで、シリアで、その他の中東の場所で、無数の人々が誰が得をしているのか様々な形で殺害されてきたことを思った。
亡くなった方々すべてに哀悼の意を表したい。
報復が報復を呼ぶ。平和だった暮らしを奪い、近しい者たちを無残な姿に変えさせた敵に対する復讐に燃える人々。それが生きる意味となってしまった人々。日々の平穏な暮らしに浸っている我々が「平和が第一」と言っても、聞く耳を持つ余裕などないだろう。
「有志連合」という名前がいつから使われたのか。誰が言い始めたのか。日本はそれに入っているのかいないのか。入っているとすればいつからなのか。入ったことを国民に伝えたのか。単なる勉強不足なのかもしれないが、筆者自身は明確に覚えていない。
一連の動きを見ながら、疑問に思ったことがいろいろある。
第1に、今の動きは、少し前までの「欧米対イスラム」という単純構造で動いていないことである。イスラム世界のなかで互いに戦い合っている。大きく捉えるならば、おそらく、アメリカ、ロシアなどによる国際社会全体のパワーゲームも絡んだ、イスラムのスンニ派とシーア派との戦いに近似する。すなわち、この戦いが続く限り、スンニ派とシーア派をまとめた「イスラム」として、欧米に対抗するという構図は立てにくい。イスラムは、「欧米憎し」で一つにまとまれない。
第2に、いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の影響が中東地域に広がる脅威がいわれているにもかかわらず、なぜイスラエルが具体的な行動に出ないのか。かつて、フランスの援助でイラクに原発が建設される際に、イスラエルは国境を超えてそれを破壊したではないか。イスラエルは「有志連合」に加わっていない。いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織に対しては、一体と言われることも多いアメリカとは別行動を採っている。
第3に、日本の安倍首相はなぜイスラエルを訪問した際に、ネタニヤフ首相と並んで「テロとの戦い」を宣言したのか。通常考えれば、イスラエルはイスラムの敵とみなされる。イスラム教徒の多いアラブ諸国との関係も良好な日本にとって、決して「テロとの戦い」を宣言するのにプラスの場ではない。しかも、日本の「テロとの戦い」がいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織を念頭に置いていたことは明らかだとしても、果たしてイスラエルもそうだったのか。
素朴なシロウトの疑問で、専門家の方々からは全く相手にもされない戯言に過ぎないと思う。そこで、見方を変える。今回のいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の蛮行によって、いったい誰が得しているのだろうか。
第1に、戦争が続くことで儲かる武器商人や軍需産業である。安倍首相のイスラエル訪問に同行した26社の多くが、直接・間接にこの分野に関わっている可能性がある。彼らはイスラエル側とのビジネス面での協力関係を探っている。だから、安倍首相は日本・イスラエル両国の国旗を前に声明を出さなければならなかったのだろう。幸か不幸か、イスラエルはいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織との戦いには大っぴらに加わっていない。パレスチナ問題とは別次元とみなされているなかで、声明を出しても大した影響はないと判断されたのかもしれない。
第2に、イスラムが一つにまとまって文明の衝突が起こるのではないかと恐れている欧米(日本も?)とイスラエルである。いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織の蛮行も加わって、スンニ派とシーア派との激しい対立はエンドレスになりつつある。中東地域が激しい戦闘に明け暮れ、共通の敵だったはずのイスラエルに対して圧力を掛けることができない状態となれば、それとは一見関係のないイスラエルが自国の安全保障を確保し、中東地域で影響力を維持できる。
とはいえ、欧米や日本では、普通のイスラムもいわゆる「イスラム国」も同じものと見てしまう単細胞な人々が多く、かつ、日常生活の中での彼らの存在がとくに(失業が深刻化する)EUでは社会問題を引き起こしかねない状態であるため、イスラム教徒に対する冷たい視線が変わるのは難しい。イスラム教徒の人々も、そこから逃れてイスラムとして一つになり、欧米に対抗することは難しく、それが本当にイスラムかどうかは疑わしくとも、いわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織に惹かれてしまうという状態が出る。
いったい誰が得をしているのか、ということで思い出すのが、2002年に起きたバリ島爆弾事件である。ジュマア・イスラミヤに関係するイスラム過激派の青年たちが実行し、死刑となったが、彼らにとって、ジハードという一種の自己満足以外に何が得になったのだろうか。洗脳された人間はそうなるのだといわれても、その疑問が今も解けない。
あのときのインドネシア政治を振り返ると、2004年に予定される初めての大統領直接選挙を前にして、世俗的・民族主義的な政治勢力とイスラム主義・イスラム国家建設を待望する政治勢力がしのぎを削っていた。当時、民主化を進めるインドネシアで、イスラム主義の政治家が大統領となることを危険視する見方が欧米や日本に見られた。
あの事件が起こって、イスラム政党がイスラムの色合いを弱め、世俗的・民族主義的な色をむしろ打ち出していった。2004年に初めての直接選挙で選ばれたユドヨノ大統領は、アメリカで軍事教育を受けた経験があり、「アメリカは自分の第二の故郷」というほどの親米だった。インドネシアがイスラム国家となる可能性は遠のいた。
素朴なシロウトの疑問で、専門家の方々からは全く相手にもされない戯言に過ぎないと思う。でも、人質の殺害、報復・復讐といった、ミクロの感傷的な部分がクローズアップされる今だからこそ、大局的な流れのなかで、何が起こっているのか、それが起こっていることの意味は何か、ということを自分なりに見よう・考えようとすることが大事ではないかと思う。
誰が敵で誰が味方か、白黒つけることへ殊更にエネルギーを費やすことは有益だろうか。特定個人に対する中傷や誹謗ではなく、建設的な意見や批判をなぜ自粛すべきなのか。
我々は忘れてはならない。求めるべきは平和である。戦火で明日生きられるかどうかもわからない人々を含めた、みんなの平和である。
だから、蛮行を繰り返すいわゆる「イスラム国」と呼ばれる組織も、戦争が起こり続けて欲しいと願う勢力も、みんなの平和を願わないどんな勢力をも批判しなければならない。
もちろん、日本がそんな戦争に加わろうとするならば、それに対しても、である。じゃあどうすればいいのか、対案はないのか、という批判もあるだろう。対案などすぐには出ない。嫌なものは嫌だ。そう言うことの何が間違っているのだろうか。
戦争をしても誰も得をしない世の中を作れないものだろうか、と夢想してはいけないのか。「あれはしかたがなかったんだ」としたり顔で子どもや孫に言って済ませることだけはしたくない。