福島、山形、仙台、新宿

10月4〜14日の予定で日本に一時帰国している。

さっそく、10月6〜7日に福島、7〜8日に山形、8日に仙台に寄ってから東京、という日程をこなしてきた。

福島では実家に帰るとともに、前から会いたかった方々3名にお会いした。震災後、たくさんやってきていた外部者による支援、潮が引くように減っている状況がうかがえた。今後の活動は、おそらく外部者による支援という形ではなく、様々な人々による共創になっていくのではないか。そんな思いを強くした。

山形では、山形ビエンナーレを駆け足で見学した。見学できたものはわずかだったが、東北、山、門といったものが「ひらく」ということを象徴するように思えた。表現の一つ一つに、粗削りではあるが、ふつふつとほとばしる力を感じた。

山形ビエンナーレを見学しながら、東日本大震災のとき、真っ先に支援物資供給などで動いたのが山形だったことを思い出していた。青森、岩手、宮城、福島は交通が遮断されて孤島になっていたとき、物資輸送の後方支援基地として山形が果たした役割を忘れることはできない。

東北芸術工科大学。以前、筆者はこの大学の『東北学』のシリーズを購読し、友の会の会員だったが、その頃から一度来てみたかったキャンパスだった。ほんのわずかの滞在だったが、キャンパスから見た夕日は、建物の前にある池にも映えて、とても美しかった。

この大学に着いたとき、バス停の前は学生たちの長蛇の列だった。時刻表を見ると、山形駅行きに加えて、何と仙台行きのバスもある。仙台からだと、きっと1時間ぐらいで着くのだろう。

東北芸術工科大学内で「東北画は可能か?」という展示を見た後、山形駅行きのバスの時間を気にしながらバス停に来ると、バスは停まっているが、学生の長蛇の列は消えていた。あの学生たちは皆、仙台行のバスに乗ったのだった。

山形駅行きのバスの乗客は、私を含めてわずか2名だった。

後で聞いたら、山形の大学で学ぶ仙台出身の大学生は、ほとんどが仙台から大学へ通っているとのことである。たしかに、繁忙時の山形=仙台間の高速バスは5分おきに運行されている。片道930円、通学定期券ならもっと安いだろう。

他方、福島出身の学生は、山形に下宿する傾向が強い。福島から通学できる交通手段が鉄道ならば山形新幹線しかなく、費用もかかる。福島=山形の高速バスは、夜行以外はない。事実、福島から山形へ車で行く場合は、仙台経由の高速道路で行くのが普通なのである。

山形の夜は、ジャカルタでお世話になって以来、約15年ぶりに知人との再会を楽しんだ。3種類の日本酒冷酒の飲み比べをしたが、十四代の吟醸酒というのがとても美味しかった。後で聞いたら、なかなか手に入れられない高価な日本酒なのだとか。日本酒に詳しくない自分が飲んでしまって、飲んべえの皆様にちょっと申し訳なかった。

最後の締めの肉そばが格別に美味しかった。

8日は、山形駅前から高速バスで仙台へ出た。1時間。快適なバス移動だった。JICA東北で1時間ほど打ち合わせ。東北ともじっくり関わっていく予感が沸いた。

駅前の利久西口本店で牛たん定食を堪能した後、初めて乗る「はやぶさ」で東京へ戻った。仙台=大宮がわずか1時間、早さを本当に実感した。

8日の夜は、友人の原康子さんが出した『南国港町おばちゃん信金:「支援」って何?”おまけ組”共生コミュニティの創り方』という本の出版記念トークイベント(紀伊国屋書店新宿南口店)を覗いた。

コミュニティ開発などの開発援助の現場では、よそ者がそこの人々の自立をどのように促すかがもっとも重要である。そのための「支援しない」技術を体得した原さんの面白トーク炸裂だった。「支援しない」技術が求められるのは、開発援助の現場だけではない。日本でも、職場でも、家族でも、どこでも。もちろん、東北でも。

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東日本大震災から3年

先週から母校の先生方をインドネシア大学とガジャマダ大学へお連れし、アポのアレンジのほかに、ボロブドゥールへの案内などをこなした後、3月11日昼12時過ぎに、鉄道でスラバヤへ戻った。

静かな場所で一人、黙祷したかった。そこで、普段なら誰も客のいない、あるカフェで昼食をとる前に、黙祷したかった。

あいにく、普段とは違い、その場所には大勢の客が来ていた。彼らのざわめきから少し離れた席に着席し、その時を待つ。

頼んでいたアイスティーが運ばれてきたその後、西インドネシア時間午後12時46分、静かに手を合わせた。亡くなられた方々のご冥福と、生かされている私たちがこれから創っていく未来を、祈った。

この3年間、自分はどれだけ真剣に生きてきただろうか。どれだけ、新しい未来を創るために動いてきただろうか。そして、またあのいつもの問いが頭をよぎる。自分はインドネシアにいて本当によいのだろうか、と。

復興、再生、いや新生なのか。コミュニティという言葉の持つ心地よさと危うさ。生きていくための理想と妥協。賛成か反対かしか聞こえてこない意見の二者択一化。自分で考える力の衰退。

希望なんて、簡単に生まれるものではないことぐらい分かっている。それでも、誰かが希望のタネを様々な形で撒き続けなけれなばらない。

3年前、私たちが諦めなければならなかったものは何だったのか。私たちがしなければならなかった覚悟とは何だったのか。

諦めなければならなかったのは、たとえば、亡くなった家族や友人、失われた家や町や故郷。しなければならなかった覚悟は、たとえば、亡くなった方々に恥じない人生を歩んでいくこと、もっと素晴らしい家や町や故郷を作り直していくこと、原発に依存しない未来を作っていくこと。

だとするならば、これからの人生は本気の本物の人生を歩んでいかなければならない。本物の家や町や故郷を作り直していかなければならない。

諦めろ。覚悟しろ。本物をつくれ。

私が地元学を学んだ水俣の吉本哲郎氏が福島へ送ったメッセージである。

私たちは本物をつくってきたのだろうか。作ろうとしてきたのだろうか。本物はそこにいる者の中からしか生まれない。よそ者が何かをつくっても、そこにいる者の魂が込められなければ、本物にはならない。

今でも、復興や再生や新生へ向けての様々な活動が取り組まれている。大事なことは、それが本物であること。もし、そうでなければ、それを本物にしていくことである。

このことを、改めて、肝に銘じている。

とねりこ made in Fukushima

先週、福島へ行っているときに、すてきな雑誌と出会った。のはら舎という、福島の小さな地元出版社が発刊した『とねりこ』という雑誌である。リンクページをご覧いただき、是非、皆さんにも購読していただきたい。

とねりこ

「ちいさくても思いたかく」という副題がついている。そこに、この雑誌を出版した側の思いが深く込められている。

とねりこのページには、創刊にあたって次のようなメッセージが書かれている。

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 東日本大震災と原発事故から、間もなく丸3年を迎えようとしています。現在、メディアで取り上げられる関連ニュースはめっきり減り、時間とともに風化していくことが危惧されます。そうしたなか、いまの福島の人々の姿や声を伝える使命を持って、「とねりこ」を創刊します。今後10年、20年と続くであろう原発震災との闘いを前に、いま起きている出来事を、いまの時代を生きる私たちが、歴史の証人として記録することが大切だと考えました。

 とねりこは「いのちの木」と言われ、野球のバットの材料になるほど強く、しなやかな木です。激変する環境のなかで、多くの人々の声を聞き、伝えることで、1本の木が林になり、やがていのちの循環を支える森になるよう、スタッフ一同願っています。

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福島から発信し続けることの重要性を体現した雑誌である。そして、それをがんばりすぎず、しなやかに継続していこうという意思が見える。福島に住む地元の人間が、自ら主体的に、しかし息長く発信を続けていくこと、そしてそれを、福島の外にいる人々が息長くキャッチし続け、見守りながら、他の方々へ発信していくこと、大したことではないかもしれないが、重要なことだと思う。

創刊号のなかに、東北学を提唱してきた福島県立博物館長の赤坂憲雄氏の言葉がある。少々長いが、自分の備忘のためにも、以下に引用させていただく。

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震災のあとに学んだこと

赤坂憲雄


震災のあと、なんだか、とても多くのことを学んできた気がする。

一生分の涙はとっくに使い果たしたはずだった。でも、この間は久しぶりに、夜更け、ひとしきり声を殺し、泣いた。その前の日の午後、なにひとつ残っていない駅舎の跡に立って、ひとりの少女が語ってくれた家族の物語を思い出していたのだった。

諦めたときに、すべてが終わることも知った。それでも、ほんのまれに、落ち込むときがある。顔には出せない。そんなとき、かたわらに元気な仲間がいてくれると、助かる。どん底をやり過ごし、また、少しだけ前を向いて、歩を進めることができる。思えば、そんな仲間のほとんどは、震災のあとに出会った人たちばかりだ。

世界はすっかり変わってしまった。でも、後ろ向きになったら負ける。意地でも前を向いてみせるしかない。そして、今度はこちらが世界を変えてやるぞ、と心に決める。世界はどうやら、待っていても変わらないようだ。ならば、こちらが変わるしかない、世界が変わるために働くしかない、と思う。

それでは、なにをなすべきなのか。たとえば、弱き人々を基準として社会をデザインし直すこと。あえて経済効率に抗い、隙間や無駄をあちこちに作ること。やわらかく壊れる方法を学ぶこと。眼の前に横たわる境界の自明性を疑うこと。縮小と撤退のシナリオを、あくまで前向きに受け入れること。三十年後への想像力を鍛えながら、いま・ここに生きて在ること。そんなことを、ひとつでもふたつでも、ささやかに実践に移してみる。そこから、何かが始まるはずだ。

勝てずとも、負けない戦いを。それぞれの場所から、きちんと引き受けていきたいと思う。

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赤坂氏の著作はいろいろと読んできたが、上記はとても分かりやすい言葉で書かれている。しかも、福島の教訓から忘れてはならない姿勢を思い起こさせてくれる。

あのとき、何かが終わり、何かが変わる予感がした。政府に頼るのではなく、自分たちで生き抜いていかなければならないと心底思った。自分の子供の世代、孫の世代、その先の世代に対する想像力を求められた。

そして、あれから3年、自分たちは自ら変わろうとして動いてきたのだろうか。

福島からの発信を受けとめ、それを再発信していくということは、あのときの自分や子孫のことを思い起こし、自分から変わり、生き抜いて、少しでもましな未来を子孫へつないでいくために働き続けることを、深く自覚し、実際に行動に移していくことにほかならない。

勝てずとも、負けない戦いを引き受けていく。その覚悟を持って、動いていく。

福島でルワンダ

福島でルワンダに出会った。

震災前から福島で活動しているカンベンガ・マリールイズさんと知り合いになった。彼女は、福島に「NPO法人ルワンダの教育を考える会」を設立し、福島や日本とルワンダをつなぐ活動を通じて、ルワンダでの子供への教育機会の拡大を実践する活動を続けている。
うちの家族では、3年前に亡くなった父が留学生だったマリールイズさんをお世話していたほか、弟が国際交流の会を通じて彼女と懇意にしていた。それに加えて、叔父夫妻が今も活動のお手伝いをしているだけでなく、すでに70歳を超えた叔母が彼女のNPO法人の理事になり、1年半前にルワンダへ移住していった。
福島へ帰省中、ちょうど彼女らによるルワンダ写真展があり、のぞいてきた。そして、幸運にも、マリールイズさんご本人と会うことができた。面会をとても喜んだ彼女は、さっそく、ルワンダの私の叔母へ電話したそうだ。私もすぐに、叔母へメールを送ったところ、すぐに返信が来た。とても嬉しそうだった。
写真展では、ルワンダで子供に音楽を教える叔母の元気そうな写真が何枚も展示してあった。写真の中の叔母はとても生き生きとしていて、ルワンダの人々にいろいろとよくしてもらっている様子がうかがえた。叔母もこれまでに様々な経験を経てきているが、「もう日本へは帰らない」と言い切って1人で渡航し、ルワンダに残りの人生を捧げる覚悟なのだった。ルワンダでは、日本大使館やJICAの方々にいろいろとお世話になっている様子もうかがえた。叔母に代わって感謝の意を表する次第である。
そんなルワンダの叔母に「会いに行きたい」とメールで書いたら、「来なさい」と命令されてしまった。ルワンダは、内戦や紛争、虐殺といった過酷な経験を必死で乗り越えようと努め、その悪夢を引きずりながらも、懸命に新しい国づくりへ向かっている、アフリカでは近年最も注目される国の一つ。ルワンダほどではないのかもしれないが、かつて、インドネシアのアンボンやポソでイスラム教徒とキリスト教徒が憎しみ合い、殺し合いをした過去が重なって見える。
マリールイズさんは、東日本大震災の後も、ずっと福島に留まり、福島に寄り添いながらルワンダとつなぐ活動を続けてきた。そんなマリールイズさんと一緒になった叔母は、自分の残りの人生をルワンダの子供たちの未来づくりのお手伝いに捧げている。
そんな彼女らを見ていると、私がもやもやと頭の中で思っている活動もありだし、どんな活動でもありのような気がしてくる。大事なことは、何のために活動するか、ということなのだ。
余談だが、折しも、新年早々、NHKで故やなせたかし氏についての追悼ドキュメンタリーをみた。アンパンマンの主題歌の一節「何のために生まれて何をして生きるのか」「行け、皆の夢守るため」がなぜかじーんときた。
福島でルワンダ。世界は遠くにあるのではない。マリールイズさんと関わった人々は、ルワンダが自分の心の中に入ってくる。反対に、マリールイズさんの心の中には福島が入っている。そして、双方が双方を思い合い、対等な立場の仲間として、その輪を広げていく。フツーの人々どうしをつなげていくそんな関係が縦横無尽に広がっていけばと思う。
今年、本当にルワンダへ行って、叔母に会ってこようかな?

福島帰省2日目

福島帰省2日目。午前中に弟の車で福島の街中をドライブしたが、ビックリしたことが2点あった。第1に、旧市街に空き地が一段と増え、駐車場がさらに増えたこと。第2に、郊外は住宅建設ラッシュとなっていることだった。

福島市の人口は依然として減少傾向にあり、旧市街の虫食い現象はそれを象徴するが、その一方で、相当数の住宅が新たに建設されている。親と同居していた子供がそのまま親の家に住みたくない傾向が強いことと、原発事故の影響で避難を余儀なくされて仮設住宅に入っていた人々が住宅を購入するという傾向が強まっていることが背景にあるようだ。

午後は、既存メディアがなかなか伝えない話を独自メディアで発信する独立ジャーナリストの方にお会いして、色々とお話をうかがった。組織にとらわれない自由な立場から見た福島の現状について、様々な角度から話をうかがうことができ、大変有意義だった。

復興に伴う外部者による新たな搾取的状況の発生、官によるNPO活動への不信と官主導の事業実施へのこだわり、大学と住民との距離、などの話題が出た。その方の話からは、福島にどっぷり浸かることによる閉塞感のようなものがあるように感じたが、それは福島の現状に起因するある意味の複雑さから来るものかもしれない。

全国全ての都道府県に散らばった福島出身者の新しい地元に福島を自然に埋め込んでいく動きをつなげて、福島出身者による新たな一種のディアスポラ的ネットワークが今後の日本にとって新たな何かを作り出していくのではないか、といった希望も語り合えた。

福島にどのように取っかかりを作ることができるのか。まだ確証はないが、新しい地元を念頭に置いた複層的な地元学の展開可能性を考えることができるのではないか、という気がした。

2年前のあの日、2011年3月11日

2年前のあの日、私は珍しく東京の自宅にいた。

前々日の3月9日までの10日間、インドネシアからの研修のコースリーダーを務めていた。研修場所が横浜で、しかも中部地方へ数日間出張だったため、自宅にはほとんどいなかった。3月10日は、人と会う約束が3件あり、夜も渋谷で知人と夕食をとり、夜遅く自宅に帰った。

3月11日。午前中に、JETROで私の帰国報告会があった。2月末まで務めたJETRO専門家(インドネシア商工会議所アドバイザー)の活動報告で、これを終えてようやくJETRO専門家としての任務が完了した。報告会終了後、アジ研時代の先輩の佐藤百合さんと昼食を共にした。

この日は夜、目黒で人と会う予定があった。しかし、所得税の確定申告書類の作成をまだ行なっていなかったことに気づき、とりあえず、自宅に戻って夕方まで作業することにした。

平日の昼間の自宅で、妻と一緒にいるなんて、今にしてみても、本当に珍しい時間だった。領収証を仕分けしながら、帳簿を付け直していた。まだやや寒くはあったが、春の気配を感じる素敵な午後のひとときを妻と一緒にいられる幸せを感じていた。

そのとき・・・

急に強烈な横揺れが襲ってきた。1分経っても終わらない。2分過ぎ、ちょっと収まりかけたかなと思った瞬間、再び大きな横揺れがやってきた。なかなか収まらない。このままでは、下手すると築40年の我が家が潰れるかもしれないと思い、妻は玄関から、私は縁側から庭へ出た。なぜか、二人とも別の方向から外へ出た。大地が揺れている。本当に揺れている。

5分以上経って、揺れはようやく収まった。そしてその後、数分おきに余震が襲ってきた。つけっ放しのテレビからは緊急地震速報が次から次へと流れ、そのたびに強い余震が何度も続いた。ずっとその状態が続いていた。

別の方向から外へ出た妻とまた一緒に部屋に戻った。上の棚からモノがザザーッと落ちていた。幸い、その程度で済んでいた。そして、築40年の家が幸運にも潰れなかったこと、自分たちが生きていることを確認した。

余震が続き、緊急地震警報が鳴り続くなか、中学校の卒業行事でディズニーシーへ行った娘の安否が気になった。学校の方針で携帯電話は持っていないし、先生とも連絡はつかない。何としてでも娘を迎えに行かなくてはならない。どうやってディズニーシーの近くまでたどり着けるか。でもこの頃、すでに東京の交通機関は麻痺し、膨大な数の帰宅難民が発生していた。やむを得ない、娘の無事を祈るしかない。

テレビでは、津波が仙台平野を飲み込んでいく映像が流れていた。福島市の実家とは何度電話しても連絡がとれない。福島は相当に揺れたはずだ。そうだ、福島・浜通りの原発は大丈夫なのだろうか。急に気になってきた。テレビでは異常なしと言っているのだが。

余震が続き、緊急地震警報が鳴り続くなか、夜遅く、娘の学校から「帰宅できないので全員で浦安体育館に宿泊する」との連絡があった。どうやら娘も子どもたちも皆無事だったようだ。

もしまた昼間のような大地震が来たらもうおしまいだ、と怯えるように眠れない夜を過ごした。

3月12日、翌朝、疲れきった姿の娘が帰宅した。液状化現象で地面が割れて水が吹き出すなかを浦安体育館に避難し、皆で励まし合いながら夜を過ごしたとのこと。娘は、自宅を見てものすごくホッとしたようだ。彼女は、築40年の家は間違いなく潰れていると確信していたし、父母も生きているかどうかわからない、と思っていたからだった。

午後、福島の弟からようやく電話連絡があり、母を含む我が家族はみな無事であることが確認できた。ただ、弟の家の塀が崩れた。それでも私たちは幸運だった。

地震と津波でたくさんの尊い命が一瞬のうちに亡くなった。誰かを助けようと津波の方向へ向かっていって、犠牲になった方々もたくさんいた。そうした方々に助けられたお年寄りが「私が死ぬべきだったのに。助けてなんかくれなくてよかったのに。私なんかにかまわず逃げて欲しかったのに」と号泣している姿が目に焼き付いて今も離れない。彼らが今もそんな思いを抱きながら日々を暮らしていると想像するだけで、何とも言えない辛い気持ちになってしまう。

3月12日午後3時36分、福島第1原発1号機で水素爆発。3月14日午前、福島第1原発3号機で水素爆発。「直ちに影響はない」が繰り返されていた。