【ぐろーかる日記】8月の月例オフ会、テーマは若者とコレクティブ
いくつものインドネシアを伝え、学び、楽しむことを目的とした月2回発行の「よりどりインドネシア」では、購読登録者が参加できるオフ会をオンラインで毎月開催しています。
今回は2020年8月29日(土)、12名が参加して行われました。今回のトピックは、「音楽やアートを通じて社会変革を目指す若者たち」というもので、話題提供者は伏木香織さんでした。
いくつものインドネシアを伝え、学び、楽しむことを目的とした月2回発行の「よりどりインドネシア」では、購読登録者が参加できるオフ会をオンラインで毎月開催しています。
今回は2020年8月29日(土)、12名が参加して行われました。今回のトピックは、「音楽やアートを通じて社会変革を目指す若者たち」というもので、話題提供者は伏木香織さんでした。
2020年8月25日付のインドネシアの日刊紙 KOMPAS を読んでいたら、小さいが、興味深い記事が載っていた。「インドネシアの若者におけるナショナリズムの意味合いはより主観的である」(Pemaknaan Nasionalisme di Kalangan Anak Muda Lebih Subyektif)という記事である。
35年前の8月12日、東京発大阪行きの日航JL123機が御巣鷹山山麓に墜落し、520人もの人々が亡くなった。日本の航空機事故で最悪の惨事となった。35年経った今も、遺族の方々が慰霊登山をしたり、あるいはしずかに、あの日、命を奪われた大切な人々のことを深く思い続けている。
あの日、私は、インドネシアにいた。西ジャワ州チマヒにいた。
これまで私自身、地域研究としてインドネシアに関わってきた。地域研究が一国研究として捉えられていた時代だった。インドネシアという一国に関する政治・経済・社会を総合的に研究し、「インドネシアとは」という形で語り、分析することが求められてきた。
そのスタンスは、基本的に、今でも維持している。「インドネシアとは」という語りや分析が求められているときには、それを前提として対応するようにしている。
今日(7/15)、東京で新型コロナ特別警戒レベルが最高の4に引き上げられ、「感染が広がっている」という状況になりました。重症者の割合は減っているとしても、無症状の感染者が知らないうちに感染を広める状況が、ようやく見えるようになってきた、ということでしょう。
これまでも、感染が広まっている気配はありましたが、何せ確かなデータがないので、明らかなことはわからないままでした。そんななかで、様々な思惑から、緊急事態宣言が解除されると、あたかも、新型コロナはもう大丈夫だ、というような何の根拠もない雰囲気が街中にあっという間に広まりました。
その流れを受けて準備を進めてきた Go To キャンペーンを、政府は連休前の7月22日から強行する意向を示しています。
名もなき一市民としては、大所高所からその判断を正しいとも間違っているとも言うつもりはありません。ただ、私自身は、だからといってキャンペーンに乗って旅に出るつもりはありません。
このところ、色々とふさぎ込み、マイナス思考に陥る傾向が出てしまっていたが、何とか気持ちを切り替えて、今日は、オンライン講義用の動画を作成していた。
今回のも、5月に作成したのと同様、母校での講義用の動画である。さすがに、以前、1本作っていると、2本目はずいぶんと慣れた感じにはなるが、それでも、しゃべりの途中で言葉が出ずに止まってしまい、何度も録り直す場面も多々あった。
今回のオンライン講義は、当初、対面での簡単な2人1組の対話演習を入れたかったのだが、オンラインではそれも叶わず、その意味ではやや不本意な内容になってしまった感がある。まあ、それでも、対話演習のエッセンスは少し入れ込むことはできたので、講義としての体裁はとれたと思う。
ここ数日、香港のことをずっと考えていた。香港がどうなってしまうのか、答えのない問いについて考えていた。頭が痛くなった。
初めて香港へ行ったのは、大学を卒業して数年後だった。大学時代の恩師やゼミの仲間たちと一緒に、油麻池のYMCAに泊まり、地下鉄に乗りまくって、九龍地区も香港島も、あちこち歩き回った。よく歩き、よく食べた。
近代的なネイザンロードを一歩入った女人街の賑わい。その雑踏の中で、ミカン箱に座って、釣り下がった蛇の皮を主人が手際よく裂いてパッパッと鍋に入れた蛇肉のスープ、体の芯から温まった。女人街からさらに裏の路地へ入ると、夜の灯りが小さくなり、薄暗いなかで歌を歌う人や大道芸人が、誰もいないなかで芸を披露していた。
銅鑼湾から湾仔へ向かう大通りから山側に一つ入ると、そこは生活の匂いのする空間。高齢の方々しか見えない飲茶屋でとびきり美味しい点心を味わい、立ち並ぶ店という店に吸い寄せられそうになった。ヴィクトリアピークから見た香港の夜景、わずか数分の特別な風情を味わったスターフェリー。日曜日の中環(セントラル)の公園で出会ったたくさんのフィリピンからの出稼ぎ労働者。船で渡った長州島は、きっと昔の香港はこんな港町だったと想像できるような別空間だった。
これらは、今から35年前の私の記憶の香港のイメージである。その後も、数回、香港を訪れたが、やはり飲茶を味わい、エッグタルトを探し、時間さえあれば食べ歩き。書店へ行くのも楽しみだった。
民主主義を標榜する国家が国民を優劣で選別する。日本は、そんな国家だった。そして、もしかすると、今もそんな国家なのかもしれない。
戦後日本に、優生保護法という法律が存在した。優生保護法とは、優生学的断種手術、中絶、避妊を合法化した法律で、1948年から1996年まで存在した。制定の背景には、戦後の治安組織の喪失・混乱や復員による過剰人口問題、強姦による望まぬ妊娠の問題があったという。
そのなかには、不良な子孫の出生防止にかかわる条項というものがあり、1996年に優生保護法が廃止されるまで存在した。
今日(6/30)、かつて、不良ということで、本人の知らぬ間に断種手術を受けた男性らが国を相手に訴えた裁判の判決が東京地裁であった。東京地裁は、旧優生保護法下の強制的な手術について違憲性を指摘したものの、不法行為である手術から20年以上経過して民法上の賠償請求権が時効になっているとして、国への賠償請求を退けた。
原告の当該男性はすでに70代となり、人生の大半を不遇なままに暮らさざるを得なかった。国家によって「不良国民」と烙印を押され、本人の同意なしに手術を施された彼のこれまでの人生と人権は、取り戻せなかった。