【お知らせ】ASEAN最新事情ウェビナー「インドネシア産カカオを用いたソーシャルビジネスの実践~チョコレートブランドDari Kを事例に」開催(2/4)

2月4日(木)日本時間午後3時半より、ASEAN最新事情ウェビナー「インドネシア産カカオを用いたソーシャルビジネスの実践~チョコレートブランドDari Kを事例に」を開催します。

講師には、Dari K株式会社CEOの吉野慶一氏をお迎えし、私が進行役を務めます。

「カカオを通して世界を変える」という企業理念を掲げたDari Kは2011年3月、それまで欧米の金融取引の最前線にいた吉野慶一氏によって設立されました。産地から遠く離れたニューヨークやロンドンで決まるカカオ相場とカカオ農家の現状との乖離に疑問を抱き、大量の低品質カカオを産するインドネシア・スラウェシ島で、地元農家とともにカカオの高品質化への挑戦を始めました。地道な努力を積み重ね、Dari Kは日本国内で高級チョコレートブランドに育つとともに、パリのサロン・デュ・ショコラで4年連続銅賞を獲得、世界のインドネシア産カカオへの評価を変えることにも貢献しました。

本講演では、吉野氏から事業内容の説明のほか、気候変動などへの問題意識、スラウェシとの関わり、フェアトレードの実践例、ソーシャル・ビジネスの活動内容、ソーシャル・ビジネスを実践していくうえでのチャレンジなどについてお話しいただきます。常に現場のカカオ農家に寄り添い、日本の消費者とカカオ農家をつなぐカカオ農園ツアーやコロナ禍での医療従事者へのペイフォワードなど、新たな挑戦を続けるDari Kの実践から、様々な学びが導き出されることと思います。

以下のサイトから参加申込可能です。皆様の奮ってのご参加をお待ち申し上げます。

https://www.asean.or.jp/ja/invest-info/eventinfo-2020-33/

【ぐろーかる日記】中スラウェシ州のある親友の訃報

昨日(11/16)、友人のフェイスブック・ページに昨年、インドネシアの中スラウェシ州パルで久々に再会した仲間たちとの写真が掲載されていました。

フェイスブックには1年前の写真などがよく掲載されるので、きっとそれかと思ったのですが、たしか彼らと会ったのは、中スラウェシでの震災(地震、津波、液状化)から1年経った10月2日だったはず。日にちが合わないなあ、と思って、ポスティングを読んでいたら、お悔やみの言葉がたくさん並んでいます。

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【ぐろーかる日記】マナド料理はもっと知られてもよいはず

前回のソトベタウィ宮本の記事がけっこう読まれていて、ちょっとびっくりしています。私もそうですが、あのインドネシアの味を懐かしく思い出して、食べに行こうと思った方もけっこういたようです。

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スラウェシとジャカルタへ出張(2019年8月4~7日)

弊社は、石川県庁訪問団に同行し、インドネシアの農業の現況を見るために、南スラウェシ州(ワジョ県、マカッサル市)及びジャカルタを訪問しました。石川県は、今後、ワジョ県を中心とする、農業開発に関する長期的な協力関係の構築を提案しました。

石川県はとくに、農業機械化、農民を対象とする研修、農業面の所得向上に貢献したいと考えています。

スラウェシ中部地震被災地支援募金、第2弾開始

スラウェシ中部地震被災地支援の第1弾は、インドネシア海洋学士会(ISKINDO)宛の募金でした。この募金は10月3日(水)午後0時で終了し、早速送金いたしました。ご協力ありがとうございました。

第1弾の活動状況は、随時、本ブログやフェイスブックでお伝えしていきます。

第1弾募金受付終了後も、送金していただいたり、協力の意思を示していただいたりする方がいらっしゃり、すぐに第2弾を始めることにいたしました。

本日(10/5)より、募金受付の第2弾を開始いたします。第2弾の支援対象は、INSISTネットワーク(Disaster Response Team INSIST Networks)です。

ジョグジャカルタのNGOであるINSISTが中心になり、マカッサルのNGO連合体であるイニンナワ・コミュニティを実働部隊として、中スラウェシ州パル市やドンガラ県で活動するNGOであるBantayaやKarsaと協力し、被災者支援に取り組んでいきます。

イニンナワ・コミュニティについては、以下のサイトをご覧ください。

 イニンナワ・コミュニティ(Komunitas Ininnawa)(インドネシア語)

イニンナワ・コミュニティは、実は私とは15年近くの付き合いがあります。私が2006〜2010年にマカッサルに駐在した際には、自宅の4分の3を開放して彼らに使ってもらい、民間図書館事業、出版事業、アドボカシー活動を行う彼らの事務所が置かれたほか、映画上映会、セミナー、討論会、アート展覧会など様々なイベントが私の自宅で行われました。私も彼らの活動を側面支援してきました。

イニンナワ・コミュニティと私との関係については、過去の私のブログをご笑覧ください。

 イニンナワ・コミュニティと私との関係

私の離任とともに、彼らは自立し、マカッサルの郊外、マロス県バンティムルン近くに本拠を移し、そこに農民・若者向けの教育訓練センターを開設しました。傘下のNGOの一つパヨパヨ農民庶民学校(SRP Payo Payo)は、農民の自立や有機農業化を促し、農民と消費者との関係構築を図る地に足のついた活動をしています。

その彼らが10月1日、彼らの指導的役割を果たしてきたINSISTと組んで、INSISTネットワークを結成し、救援物資を募ってすでにパル市へ向けてトラック1台を出発させました。

彼らの活動の様子は、フェイスブックの以下のサイトに随時掲載されています。

 Tim Relawan Kemanusiaan – Jaringan Insist

パル市・ドンガラ県・シギ県などで、彼らは現地で根を張って活動するNGOであるBantayaやKarsaとともに、まずは救援物資の配給に関わると同時に、被災状況を把握するためのデータ・情報収集を行い、今後、中長期的に支援すべき対象地域を定めていきます。その後は、コミュニティの再構築や再生へと活動を継続していくものと思います。

まだまだ若者が中心のNGO主体ではありますが、私が信頼できる彼らを支援の第2弾としていきます。

彼らのインドネシアの銀行口座は以下のとおりです。インドネシア在住の方などは、直接振り込んでいただいて結構です。入金は現地通貨(ルピア)となります。

 口座番号:3419-01-017682-53-2
銀行名・支店名:BRI Unit BTP Tamalanrea
銀行支店所在地:Ruko BTP, Jl. Tamalanrea Raya No. 16D,
Tamalanrea, Makassar 90245, Indonesia.
口座名義:Yayasan Payo Payo
銀行SWIFTコード:BRINIDJA

なお、日本からの募金などは、第1弾と同様、銀行口座振込とPolcaの二本立てにしたいと思います。銀行口座振込は、ご信用いただけるならば、以下の私の口座宛にお振込いただき、お手数ですが、振り込んだ旨をメールにて matsui@matsui-glocal.com へお知らせください。

 銀行名:みずほ銀行大塚支店(支店番号193)
口座番号:2268635
口座名義:マツイカズヒサ

また、クレジットカード決済をご希望の方向けに、Polcaでも募金を募ります。以下のサイトにアクセスされてください。募金は一口1000円から受け付けております。なお、下記サイトは1ヶ月間のみ有効となっております。

 スラウェシ中部地震被災地支援第二弾、INSISTネットワークへの支援

以上、皆様のご理解をいただき、支援活動の第2弾を始めていきたいと思います。引き続き、ご協力のほど、よろしくお願い致します。

なお、この第2弾のほかにも、私からお勧めできる支援先がございます。それらについては、別途、皆さんにお知らせしていきたいと思っています。

スラウェシ中部地震の被災者支援に船で向かう海洋学士会への支援呼びかけ

9月25日頃から群発していたスラウェシ中部の地震は、28日午後、マグニチュード7.4の大地震を引き起こし、沿岸部は最大6メートルの津波に襲われました。

9月29日現在、中スラウェシ州パル市だけで死者384名、行方不明者29名、負傷者540名と報じられていますが、通信手段が途絶したため、隣のドンガラ県や西スラウェシ州北マムジュ県の被害状況は不明のままです。30日までに死者420名という報道もあり、2004年12月のスマトラ沖大地震・津波の時のように、今後、被害状況はますます大きくなることが予想されます。

パル市のムティアラ空港もパントロアン港も施設が崩壊し、機能不全に陥っているほか、ドンガラ県やパル市へ向かう陸路も、東方のポソからも南方のマムジュからも、土砂崩れ等により、車が通行できない状況が続いており、救援物資や人員の派遣を大きく妨げています。

こうしたなかで、私の真に信頼できる友人たちが関わっている、海洋学を学んだ大卒者の団体であるインドネシア海洋学士会(ISKINDO)とマカッサルの地元NGOであるYayasan Makassar Skalia(YMS)より、マカッサルから救援物資とボランティアを乗せた船でドンガラ県・パル市へ向かう準備を始めた、との連絡がありました。彼らの計画の詳細は、以下のサイトで公表されています。

 https://maritimenews.id/09/KxLLjmbvx/

彼らは次の4つのチーム活動を予定しています。
(1)ドローンにより被害状況を地理的情報として把握し、他団体の救援・復興活動に提供できる情報を収集するチーム。
(2)医療チーム、及び食料、医薬品、飲料水、テント、毛布、生理用品、発電機など、緊急に必要とされる物資を届けるボランティアチーム。
(3)食べ物や食料品を提供する炊き出しチーム。
(4)今後の支援活動に資する的確なデータや情報を提供するチーム。

彼らは10月5日早朝、マカッサルを出発して現地へ向かう予定です。彼らの活動はあくまでも初期段階のものであり、今後、支援活動が長期化するなかで、次の段階に沿った新たな支援活動が行われていくことが予想されます。

インドネシアではすでに、国軍やインドネシア赤十字が迅速な救援業務を進めているほか、クラウドファンディングを通じて多額の寄付が集まっています。また、様々な社会団体が募金活動を進めており、私自身もどのように協力すべきか、色々と考えてきました。

また、被災地であるパル市やドンガラ県にも信頼できるNGOや団体があります。しかし、通信手段が遮断され、彼ら自身も被災者である現状を鑑み、まずは、信頼できる外部者が被災地を支援する活動に協力すべきではないかとの結論に至りました。すなわち、今後、被災地の信頼できるNGOや団体が動ける状態になれば、今度はそこを支援していきたいということです。

以上の趣旨にご賛同いただける方に、募金のお願いをしたいと思います。彼らの指定した振込先口座(インドネシア国内)は以下のとおりです。

 銀行名:BRI
口座番号:2136-01-000098-56-7
口座名義:Ikatan Sarjana Kelautan Indonesia

上記に直接振り込んでいただいて構いませんが、日本国内での振込をご希望の方は、私を信用していただけるのであれば、私の銀行口座へ振り込んでいただければ幸いです。なお、「振り込みました」との連絡を matsui@matsui-glocal.com 宛にご一報いただければ幸いです。

 銀行名:みずほ銀行大塚支店(支店番号193)
口座番号:2268635
口座名義:マツイカズヒサ

また、クレジットカード決済をご希望の方向けに、Polcaでも募金を募ります。以下のサイトにアクセスされてください。

 https://polca.jp/projects/tEPiWIAha0p

以上、皆様のご理解をいただき、腰を据えた支援活動を始めていきたいと思います。ご協力のほど、よろしくお願い致します。

2009年8月26日、当時のパル市長と一緒に、断食明け前の賑やかな特設市場を訪問した時の写真を掲載します。当時の市長には本当によくしていただきました。パルでの恩人の一人でした。

今朝、彼、ルスディ氏が現市長とともに亡くなられたとの知らせがありました。故人の善意を改めて思いつつ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

南スラウェシ州ピンラン県、バンタエン県を訪問

2017年10月23~24日は南スラウェシ州ピンラン県、10月25~26日は同州バンタエン県を訪れ、農業の現状についての情報を得るとともに、県政府や農民グループとの意見交換を行いました。

カカオツアーに同行しました(2017年8月20-27日)

2017年8月20〜27日、通訳兼コーディネーターとして、ダリケー株式会社主催のカカオツアーに行ってきました。行先は、インドネシアのスラウェシ島西部、西スラウェシ州のポレワリ・マンダール県です。あまり知られていませんが、インドネシアは、世界第3位のカカオ生産国です。

チョコレートの消費者としての日本からのツアー参加者55名が、おそらく初めて、チョコレート原料のカカオを作る農家と直接に出逢う旅となりました。

【スラバヤの風-44】中国のスラウェシへの投資攻勢

中国はインドネシアへの投資よりも貿易を選好する。筆者はそんな印象を持っていたが、昨年後半から様相が変わり始めた。2014年第4四半期の中国からの投資額は5億ドルとなり、シンガポール、マレーシア、日本に次いで4番目、初めてトップ5に顔を出した。

とりわけ、スマトラ、カリマンタン、スラウェシといったジャワ島以外の地域への製錬、セメント、電力などインフラ関連投資が目立ち、投資調整庁は2015年には中国からの投資がさらに伸びると見ている。地方への投資分散を掲げるジョコウィ政権は大歓迎である。

2015年に中国からの大型投資が見込まれるのは、スラウェシ島である。まず、中国の徳龍ヴァーチュー・ニッケル公司は、東南スラウェシ州コナウェ県に50億米ドルを投じてニッケル製錬工場を建設する。第1期は年産60万トンだが、第2期で120万トン、第3期で120万トンを追加し、最終的に年産300万トン体制を目指す。

また、南スラウェシ州バンタエン県には、中国企業8社がニッケルやマンガンなどの製錬工場を各々建設する予定で、投資額の合計は40億米ドルになるものとみられる。スラウェシ島はニッケルの主産地であり、中国からのこれら巨大投資は、政府の未加工鉱石の輸出を禁止し、国内での製錬を奨励する政策に沿った動きである。

一方、2015年1月、北スラウェシ州政府は中国交通建設公司との間で、ビトゥン特別経済地域(KEK)開発に関するMOUを締結した。インドネシアのなかで地理的に最も東アジアに近いビトゥンは、国内外物流のハブ港としての役割を期待されるほか、州都マナドとを結ぶ高速道路建設、及びその沿線での工業団地開発が計画されている。ビトゥン特別経済地域に対する中国からの投資額は、インフラ、海洋、薬品など少なくとも3兆ルピア(約23万米ドル)が見込まれている。

中国はなぜスラウェシや東インドネシアを重視するのか。それは、南シナ海から南太平洋へ抜けるルートを確保するためである。実際、そのルートの先にある東ティモールでは、政府庁舎の建設などを中国が丸抱えで進めている。東インドネシアでのプレゼンスを高める同様の戦略は、韓国やロシアも採っていたが、中国が一歩先んじたようである。

とはいえ、中国からの投資がすべて順調なわけではない。西スラウェシ州では、スラウェシ島全体の電力需要を賄える規模の水力発電事業に中国が参入したが、ダム建設をめぐって地元住民の反対にあい、撤退を余儀なくされた。

日本はこれまで、人材育成などの経済協力をスラウェシや東インドネシアで地道に続けてきたが、日系企業の大半がジャワ島内のジャカルタ周辺に立地することもあり、中国に大きく遅れを取ってしまったことは否めない。

 

(2015年2月28日執筆)

 

【スラバヤの風-33】変わるスラウェシのカカオ生産

インドネシアのカカオについて学ぶ大学生のスタディツアーのお手伝いをする機会があった。ジャカルタやスラバヤでチョコレートの生産・販売・消費を調べた後、西スラウェシ州ポレワリでは、京都でチョコレートの製造・販売を行うダリ・ケー社のスタディツアーに便乗し、カカオ農家の現状を学んだ。

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インドネシアのカカオ農家のほとんどは小農である。農家から集配商人、輸出業者へ至る流通マージンは小さく、国際価格の変動が買い取り価格へ直結する。なお、アフリカ諸国のようなカカオをめぐる児童労働の問題は存在しない。

インドネシア産カカオは未発酵の低級品で、これまでほぼ全量が豆のまま輸出されてきた。国際市場での評価が低いためか、国内で発酵カカオ豆と未発酵カカオ豆の価格差はなく、発酵カカオ豆を生産する動機がなかった。実際、未発酵カカオ豆にも化粧品材料などの国際市場が存在する。

今、その状況が変わりつつある。きっかけは、2010年にカカオ豆の輸出に5〜15%の輸出税が課せられるようになったことである。これに伴い、輸入元の外国企業がインドネシア国内にカカオ加工工場を立地させ始めた。

ところが、加工工場の要求水準を満たす発酵カカオ豆は、国内から量的にまだ調達できず、輸入が必要となる状況である。そこで加工工場は、買い取り価格にプレミアムを付け、発酵・未発酵を問わず、カカオ豆の確保へ動いた。なかには、未発酵カカオ豆を買い取って自前で発酵させるところさえ現れた。その結果、加工工場による未発酵カカオ豆の買い取り価格が、仕向地への輸送コストを引いた国際価格を上回る事態が生じた。

こうして、カカオ豆の流れは、従来の輸出向けから加工工場向けへ大きくシフトした。加工工場は発酵・未発酵カカオ豆の価格に差を付け、農家レベルでも発酵カカオ豆を生産する機運が生まれ始めたのである。

インドネシアはガーナを抜いて世界第2位のカカオ生産国となった。低級品といわれたカカオでも、しっかり発酵させれば、良質のチョコレートになることは、ダリ・ケー社の高級チョコレートが証明している。

そのダリ・ケー社は、西欧製のチョコレート製造機械をポレワリのカカオ農家に設置した。利幅の最も大きい最終工程を農家の手に委ねるのである。さらに、カカオの滓を使うバイオガス発電構想もある。これからスラウェシのカカオにどんな変革が起こるのか注目される。

 

(2014年9月19日執筆)

 

 

Dari K カカオ農園ツアーに同行

8月22〜27日、京都のチョコレート会社であるDari K主催のカカオ農園ツアーに同行した。日本からの参加者は45名、2台のバスに分乗して、南スラウェシ州マカッサルを出発し、Dari Kの提携カカオ農家のある西スラウェシ州ポレワリ県へ向かった。

ポレワリ県では、カカオ農園を訪問して苗木を植樹したり、カカオの実を割って中の果肉を味わったり、カカオ農家から栽培の苦労談を聞いたりした。また、カカオの接ぎ木の仕方、カカオの発酵や天日干しの様子、集荷と分別の作業、農家と商人との取引状況なども観察した。

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カカオの実を取った残り滓(カカオポッド)を利用したバイオガス発生装置も見学し、今後はバイオガスから電気を作り、チョコレート製造機械やカカオ農家へ配電する計画がある。

ほかにも、カカオ農家のお宅で心づくしの食事を振る舞われ、郷土菓子作りの体験もあった。

島まで渡って海遊びもした。

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地元の郷土芸能「踊る馬」に参加者の女性6人が挑戦したり、伝統楽器の体験・演奏もあった。

ポレワリ県にとっては、外国人観光客が一度にこんなに大勢で来ることは滅多になく、県観光局を中心に県をあげての歓待となった。

ポレワリ県からマカッサルへ戻り、マカッサルの夕日を拝むことができた。

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通訳兼コーディネーター役を担った同行で、最後には声が枯れてしまったが、このツアーが今後一層中身の濃いものとなるための材料も色々と得ることができた。

日本のチョコレート愛好者たちが原材料のカカオを作る農家を訪ねる旅は、参加者にとってチョコレートやカカオをより深く知る機会となった一方、カカオ農家にとっても、日本からお客さんが来ることで、自分たちのカカオが美味しいチョコレートになることを改めて感じて、質の良いカカオ作りに意欲が湧く、という話があった。生産者と消費者の信頼関係は、国を超えてもしっかり作ることができる可能性を強く感じた。

45人の参加者の満足度が気になるところだが、彼らは自ら「ダリケーキラキラチョコ大使」を名乗り、ツアーの経験とDari Kの良さを発信する役目を果たすと勝手に動き始めた。

次回のツアーは、さらにパワーアップした内容で臨みたいと今からワクワクしている。興味のある方は、是非、次回のツアーへご参加を。

 

【スラバヤの風-07】東部地域との結節点

筆者が東ジャワ州やスラバヤに注目する理由の一つは、インドネシア東部地域(以下「東部地域」と称す)との結節点となっているためである。東部地域とは、カリマンタン島、スラウェシ島、マルク諸島、パプア、バリ島以東のヌサトゥンガラ諸島の広い地域を指す。

ジャワ島内で生産された生活物資・消費財は、州都スラバヤのタンジュン・ペラッ港から東部地域の各地へ運ばれる。一方、東部地域からは、木材、鉱物、商品作物、水産物などがスラバヤに集まり、一部は加工され、一部は海外へ輸出される。

遠い昔からスラバヤは物流交易都市であった。ジャワ島で生産された生活物資・消費財は、東部地域にある中心港(スラウェシ島ならマカッサルやマナド、マルク諸島ならアンボンやテルナテ、パプアならジャヤプラやソロンなど)へ大型船で運ばれ、そこから小・中型船ないし陸送へ小分けされて中小都市へ運ばれる。最終的には、客と一緒に乗合自動車に積まれたり、バイクや馬、果ては人力で運ばれたりしながら、生活物資・消費財が東部地域の末端の村々まで到達する。

一方、東部地域の豊富な天然資源を求めて、地域の隅々までスラバヤなどから商人が入り込んでいる。現場で買い付け、用意した船で一次産品などをスラバヤまで運ぶ。あるいは、スラバヤからの商人が現場で注文し、現場の元締めや商人が物品を用意して、船でスラバヤへ送る。カカオやコーヒーなどの商品作物も、マグロやロブスターなどの水産物も、木材や鉱産物も、東部地域の各地からダイレクトにスラバヤへ運ばれてくるケースが多い。そして、その船で生活物資・消費財を積んでスラバヤから東部地域へ戻るのである。

こうした東ジャワ州やスラバヤと東部地域との相互経済関係を意識して、東ジャワ州政府と州商工会議所は、東部地域の各州政府と協力協定を結び始めた。そして、東部地域各州に東ジャワ州の連絡事務所を開設し、両者の相互経済関係を一層緊密化させ、東ジャワ州が東部地域の発展に積極的に貢献しようとする姿勢を示している。そこでは、東ジャワ州の実業家が東部地域でのさらなるビジネス機会を求めていることはいうまでもない。

南スラウェシ州の州都マカッサルも、東部地域での経済センターを目指すが、物流の搬入量が搬出量よりずっと大きく、港湾施設も非効率なため、スラバヤを使うほうが低コストとなる。東部地域との結節点としての役割は、スラバヤのほうがまだ大きいのである。

 

(2013年7月26日執筆)

 

 

「Dari Kと行くカカオ農園ツアー2015」のお知らせ

いつもお世話になっております。松井グローカル代表の松井和久です。

今回は、私がアドバイザーを務めるダリケー株式会社が企画・実施する「Dari Kと行くカカオ農園ツアー2015」(8月22〜28日)へのお誘いです。

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このツアーは、Dari Kが提供するチョコレート・カカオ加工製品の原料である西スラウェシ州・ポレワリ県のカカオの生産現場を単に訪れるだけではありません。

カカオ生産農家やカカオ商人の方々と直に話し合ったり、カカオの苗木を植えたり、発酵カカオを使って実際にチョコレートを作ってみたり、カカオの滓を使ったバイオガス生成の様子をみたり、盛りだくさんの内容です。

カカオのことを学ぶ以外にも、農村を歩いて色々なことを発見したり、沖合の島でくつろいだり、地元の方々の作る心づくしの食事を堪能したり、と、普通のツアーでは体験できない面白さを感じてもらえるはずです。

是非、皆さんにもご参加いただき、カカオとスラウェシの魅力を存分に味わっていただきたいと思います。私も、このツアーにフルで同行いたします。

ツアーへのお申し込みは、以下のサイトからお願いいたします。
http://www.jeps.co.jp/tours/indonesia/darik_cacao.html

なお、参加者多数の場合には、8月15〜21日にも実施する可能性があります。こちらの日程のほうが都合が良いという方も、ご連絡いただければと思います。また、「全日程ではなく3〜4日ぐらいなら参加してみたい」という方も、私までご相談ください。

8月、スラウェシでお会いしましょう!

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【インドネシア政経ウォッチ】第80回 政府、工業団地開発に積極的関与へ(2014年3月27日)

2013年工業法の成立を契機として、政府が工業団地の量的・質的向上へ積極的に関わる姿勢を見せ始めている。インドネシアでは工業団地の9割以上が民間主導で開発されたことから、政府には、マレーシアのように政府主導で開発を進めた国に比べて土地収用が遅れ、用地価格も高めになったという認識がある。

政府は、14年から、品質基準を定めて工業団地を評価し、2年間有効の認定証を出すほか、優秀な工業団地を表彰することを検討している。また、ジャカルタ周辺から地方への産業分散を図る観点から、25年にジャワ島外の工業生産比率を40%以上にすることを目標に、特にジャワ島外での工業団地開発を促す意向である。

工業団地は現在、全国に74カ所・約3万ヘクタールあるが、そのうちジャワ島には55カ所・2万2,796ヘクタールが集中する。しかもそのほとんどはジャカルタ周辺に立地する。残りはスマトラ島に16カ所、スラウェシ島に2カ所、カリマンタン島に1カ所である。今後、少なくとも20カ所、合計約3万ヘクタールの工業団地開発が計画されている。

ジャカルタ周辺の工業団地拡張の余地は限られている。西ジャワ州カラワン県は、空間計画による工業向け用地2万ヘクタールが満杯となったとして、新たな工業団地向け認可を行わない方針を示した。全国有数の米作地でもある同県には、農業用地を確保する狙いもある。今後の工業団地開発では、まだ余地の大きい東ジャワ州、中ジャワ州、ジャワ島外への注目度が増すだろう。

ジャワ島外の工業団地は、経済特区(KEK)指定と絡めた展開となる。中国などが工業団地開発に興味を示しているが、経済特区といえども、投資企業自身がインフラ整備をせざるを得ないのが現状である。

インドネシアの工業団地開発は、実は1989年まで国営企業が担っていたが、需要増加に追いつけず、民間の参入を認めて対応した経緯がある。政府の積極的な関与が民間の事業意欲を圧迫しないことを願うばかりである。

【インドネシア政経ウォッチ】第68回 全国と各州での経済成長率の乖離(2013年12月19日)

2014年のインドネシアの経済成長率予測は、時がたつにつれて低下してきた。中央銀行の当初予測(6.4~6.8%)は8月に6.0~6.4%、11月には5.8~6.2%、現状では6%いくかいかないか、という線へ後退した。国内では「13年よりも14年は好転する」という楽観的な見方が多かったが、10月に世界銀行が5.3%と13年予測値(5.6%)を下回る数字を出した頃から、インドネシア政府も下方修正せざるを得ない状況となった。

経済成長率の下方修正は、政策金利(BIレート)引き上げによる金利上昇の影響への懸念が背景にある。これは、政府が経済成長よりもマクロ経済の安定を選択したことを意味し、14年の経済成長率が13年を下回るのもやむなしとのシグナルを市場へ送った。今の政府の期待は、低いインフレ率と14年総選挙による国内消費である。

確かに、総選挙で喚起される国内消費はそれなりにある。おそろいの政党Tシャツなどの選挙グッズ、政党や候補者のポスターや垂れ幕などの印刷、集会で出される食事。それでなくとも選挙ではさまざまなカネが動き、それが消費需要を促す。有権者の選挙への関心が低下し、大衆動員型選挙が難しくなっても、ある程度の需要は喚起される。

そのためか、各州レベルでの14年の経済成長率見通しは相当に楽観的である。中銀の予測は、カリマンタンを除くジャワ島外で高成長が続くと見ている。なかでもスラウェシ島では、中スラウェシ州の9.7%を筆頭に、西スラウェシ州が9.1~9.5%、北スラウェシ州が7.7~8.1%、南スラウェシ州が7.4~7.8%と続く。スマトラでも各州で6%以上の成長を見込む。

ジャワ島内でも、東ジャワ州は6.8~7.0%と依然として高成長を見込み、製造業が集中する西ジャワ州(5.8~6.4%)やバンテン州(5.6~6.0%)とは対照的である。首都ジャカルタも6.1~6.5%と強気である。

インドネシアは「内需主導のためリーマンショックの影響をあまり受けなかった」と評されたが、そのときも各州の経済成長率は全国のそれを上回っていた。来年も内需の動向が経済成長の鍵を握る。

トンプの人々と陸稲

先ほど、フェイスブックで友人から興味深い投稿があった。インドネシア・スラウェシ島の中央部、中スラウェシ州のトンプという村での人々と陸稲との関係についてのエッセイである。

トンプについては、以前から、友人たちと様々な話を聞き、実際にトンプの人々ともお会いして、いかに人間が自然とうまく調和しながら生きてきたかを学んだ。

今回は、投稿者のサレー・アブドゥラ氏から許可をもらい、その内容をインドネシア語から日本語に訳したものをここに掲載する。

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「近くに見えても、歩けば遠い」。パル市からも見える丘の上のトンプの人々の場所をルン・ラチュパ氏はこう説明する。我々が立っている足元からわずか17キロなのだが。

トンプの人々の住む場所が政府によって一方的に保護林に指定されたために、人々が自分たちの故郷を追われた後、トンプの人々は様々な陸稲の固有種を失うことになった。ルン氏の記録によると、故郷を追われる前に、トンプの人々は50種類以上の陸稲の固有種を持っていた。人々は最終的に故郷へ戻れたのだが、そのときに集められたのはわずか10数種類に過ぎなかった。

「それらの種の一つを他の場所で育てられないか」と聞くと、ルン氏は「トンプの人のやり方に従って陸稲を取り扱うことが確実にできなければならない。そうでなければ難しい」と答える。なぜなら、それらの種々の陸稲はトンプの人々の生活の一部だからである。しかも、それらの固有種の多くは一代種なのである。このため、畑からの陸稲の収穫にはかなりの注意を向ける。適当には扱えないのである。陸稲はアニアニ(2つの石斤をハサミのように組み合わせた石器)で穂のすぐ下の部分を刈り取り、米倉に注意深く保管する。彼らは脱穀機を使わない。なぜなら、それが陸稲に痛みを与えるからだ。そして、これらすべては、儀式のもとで行われる。

もしもまだ刈り取られていない残った陸稲があると、トンプの人々は涙を浮かべながら刈り取るというのである。次のように歌いながら。

旗のように残ってしまった我が同胞よ
涙がもう流れてきます
涙がもう溢れてきます
涙とともにお迎えに参ります

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インドネシアにいると、半ば強制的に、故郷を追われた人々が実にたくさんいることが分かる。トンプの人々のように、ある日突然、「ここは保護林だ。国立公園だ。出て行け」と言われた人々もいる。火山の噴火や地震などの災害で、二度と故郷に戻れない人々もいる。あるいは、地方反乱などで村全体が焼かれ、命からがら逃げて、全く見ず知らずのところに村をもう一度作るようなケースもある。

そうして故郷を追われたそのときに、彼らがそれまでに代々培ってきた様々なものがなくなっていったことだろう。それはトンプの人々にとっての陸稲の固有種であったり、その土地を基盤とした様々な言い伝えや物語であったり、人と人との絆であったり・・・。

インドネシアでかつては日常茶飯のように起きていた、故郷を喪失させられた人々の物語を、原発事故で故郷を追われた人々の物語とダブらせている。

とりあえず、さらば「緑の館」

3月22日に、初の試みとして、SMSを使ったアンケート調査ノウハウを持つハローG社と一緒に消費市場セミナーを実施し、夜は東北6県出身者の集まりである「みちのく会」の夕食会に顔を出した後、3月23・24日の土日は再びマカッサルへ行き、引越荷物の整理をしてきた。

先のブログにも書いたように、マカッサルにずっと借りていた家「緑の館」の契約が3月31日で切れ、今回は諸般の事情で契約を更新しないことにした。2006年にアジ研の海外調査員として国立ハサヌディン大学の客員研究員になって以来、2008〜2010年の在マカッサルJICA専門家(地域開発政策アドバイザー)の時代を経て、今に至るまでずっと置きっぱなしの本、資料、その他様々なものを、今回は仕分けして、整理してきた。

本は本棚4本分+据置棚2本分、資料は据置棚2本分あって、これをどう処分するか、頭が痛かった。結局、日本語の本(本棚1本分)はスラバヤへ送ることにし、残りは、地元の友人たちが主宰している図書館カンプン・ブク(Kampung Buku)に全部引き取ってもらうことにした。さっそく、24日にトラックと一緒に本の回収にやってきて、全部持っていってくれた。

南スラウェシに関する海外の研究者は、マカッサルに来ると必ずカンプン・ブクに立ち寄る。そこには、スラウェシに関する様々な書籍が集まっているからである。また、カンプン・ブクは、南スラウェシに関する海外の研究書をインドネシア語翻訳して出版するイニンナワ出版(Penerbit Ininnawa)が運営しており、マカッサルの本好きの若者が集まる場所でもある。私も、6年以上前からイニンナワ出版の活動を支援している。

こうした出版活動や書籍収集活動を通じて、自分たちの地元であるマカッサルや南スラウェシを見つめ直す活動を地道に行っている彼らの元に、私がこれまでに収集してきたマカッサルやスラウェシに関する書籍コレクションが加わり、地元の若者たちに活用されるならば、それは私にとっても大きな喜びである。

彼らはまた、「マカッサル0km」というサイトも持っており、マカッサル地元学とでもいうべき活動を進めている。これについては、いずれ別途、書いてみたい。

机、椅子、本棚などは、私の友人たちが立ち上げたコミュニティ・ファシリテーションを進めるファシリテーター集団COMMITに引き取ってもらった。彼らの活動についてはこちらのサイトを見て欲しい。COMMITについても別途書いてみたい。

テレビ、洗濯機、オーディオスピーカー、自転車などは、お手伝いのティニさんとイナさんらでうまく配分して引き取ってもらった。

こうして、何とか2日間で、スラバヤへ送る本などが段ボールで11箱となり、ティニさんにお金を渡してマカッサルからスラバヤへ送ってもらうことにした。

昨晩、23日の夜は、マカッサルの日本人の友人たちを招いて、ティニさんの最後の晩餐を楽しんだ(メインがトンカツだったもので・・・)。友人の一人があらかじめ我が家の冷蔵庫に缶ビールを1ダース冷やしておいたのにはびっくりした。ビールの酔いと疲れからか、たびたび睡魔に襲われつつも、夜11時近くまで、マカッサルに関わる様々な話題が途切れず、楽しいひとときを過ごせた。

ちなみに、23日の昼はMie Masak(チャンポンのような肉や野菜の入った汁そば)、24日の昼はナシゴレン、そして24日の夜は豆のスープ(下写真)、焼き魚、野菜の炒め物だった。

お手伝いのティニさんやイナさんに3月分の給料と退職手当を払い、やっと来たタクシーに苛立ちながら、「緑の館」を後にした。ティニさんの息子のワフユ君が「もう会えないのかなあ?」とちょっと寂しそうだった。

大丈夫だよ、ワフユ君。君も良く知っている友人の結婚式に顔を出すため、4月にまたマカッサルへ来るよ。君が中学生になり、高校生になり、大学生になっていくのを、私はずっと見守っていくよ。ティニさんが私の娘のことをずっと思い続けてくれているように。昔、私がHさんから買った白い自転車を大切に使ってね。

とりあえず、さらば「緑の館」。

 

マカッサル、わが「故郷」

この週末は、南スラウェシ州の州都マカッサルへ来ている。人口約120万人、インドネシア東部地域への玄関口でもあるこの町は、私にとって、インドネシアにおける「故郷」といってもよい。比べられるとするならば、自宅のある東京や生まれ故郷の福島と同じか、それ以上の意味を持つ町である。

私が初めてこの町に来たのは1987年、トラジャの日系コーヒー農園を訪問するときであった。海沿いのホテルのコテージタイプの部屋から観た夕陽の美しさに感激したのが最初である。その後、1990〜1992年のジャカルタ滞在中に、妻と一緒に何度か旅行に来て、二人ですっかりマカッサル(当時はウジュンパンダンという名前だった)に魅せられてしまった。

「この町に住みたい。でもきっとそんなの夢物語だよねえ」と妻と二人で思っていた。 当時勤めていた研究所の現地研究者ネットワークのなかに、この町に住む研究者の名前は一人しかなかったからである。もちろん、研究所の先輩方でこの町に馴染みのある方はまだいらっしゃらなかった。

そんななか、奇跡が起こった。1994年頃、研究所の先輩から「JICA専門家として、ウジュンパンダンに赴任しないか」という打診が来たのである。我が耳を疑った。こんなことって、あるのだろうか。半ば興奮状態のまま、「絶対に行きたいです」と答えてしまった。その後で、何の仕事で行くのかを聞き忘れていたことを思い出した。

仕事は「インドネシア東部地域開発政策支援」だった。ウジュンパンダンだけでなく、カリマンタン、スラウェシ、マルク、ヌサトゥンガラ、パプアを含む東部地域13州(当時は東ティモールも含まれていた)全体をカバーする内容で、JICA専門家チーム3人のうち、東部地域の現場に居住する1人として活動する、というものであった。

JICA専門家として、1996年4月〜1998年10月、1999年3月〜2001年3月は、ウジュンパンダンで妻子と一緒に一軒家で暮らした。娘は1歳半から5歳までここで過ごした。インドネシア自体は通貨危機の影響でこの20年のなかで最も厳しい時期だったが、私たち家族にとっては何物にも代え難い美しい日々を過ごすことができた。

その後も頻繁にマカッサルを訪れ、2006年9月〜2008年2月は国立ハサヌディン大学の客員研究員として、研究所を辞職した後の2008年4月〜2010年4月は再びJICA専門家としてマカッサルに滞在した。数えてみると、合計で約8年半、マカッサルに滞在したことになる。

マカッサルを「故郷」と感じる要因の一つは、1996年4月に住み始めたときから今まで、ずっとお世話になっているお手伝いティニさんの存在がある。乳幼児だった娘を我が子のように可愛がってくれる一方、料理の腕は素晴らしい。私の後任もお手伝いとして引きとってくれたが、そのときに、庭師で雇っていたシャムスル君と結婚した。今では息子のワフユ君も小学5年生になった。

実は、私は今もマカッサルに1軒の家を借りており、ティニさん一家に住み込みで家の管理をしてもらっている。この家の借家契約が今月末(2013年3月末)で切れる。実は、今回のマカッサル訪問は、この契約が切れた後どうするか、の方向性を決めるための訪問であった。