【インドネシア政経ウォッチ】第83回 闘争民主党20%割れをどう見るか(2014年4月17日)

国会(DPR)、地方代議会(DPD)、州議会(DPRD Provinsi)、県/市議会(DPRD Kabupaten/Kota)の各議員を選ぶ総選挙は、4月9日に投票が行われた。ランプン州ではさらに州知事選挙の投票も重なった。一部では、投票用紙の取り違えや不正の発覚などがあり、投票のやり直しを行ったところもあるが、大きな混乱もなく終了した。

総選挙委員会(KPU)による投票結果の確定までは約1カ月あるが、KPUに登録された56社が行なったクイックカウントは投票後から始まり、数日でおおよそ結果が固まった。ジャカルタ首都特別州のジョコ・ウィドド(ジョコウィ)州知事を大統領候補に推す闘争民主党(PDIP)が第1党となり、ゴルカル党、グリンドラ党、民主党が続いた。

PDIPは目標得票率を27%、ジョコウィ効果を踏まえて、あわよくば30%以上という強気の目標を掲げていた。ただ速報値では20%を割る結果に終わり、第1党にもかかわらず、まるで敗者のような落胆を見せた。得票率が20%を超えれば、単独で大統領候補を擁立できるが、それが無理となり、他党との連立を余儀なくされたからである。PDIPの期待外れの結果は、大統領候補としてのジョコウィの立場を弱めただろうか。

実はそうではない。PDIPはジョコウィを使って得票増を目指した。同党員であるジョコウィは立場上、総選挙ではPDIP支持を訴えなければならない。しかし、「ジョコウィは好きだがPDIPは嫌い」という人々が相当数存在する。もし、総選挙でPDIPの得票率がもっと高ければ、ジョコウィはPDIPの占有物とならざるを得なくなったはずである。PDIPが20%割れしたおかげで、ジョコウィは再びジョコウィとして動けるようになった。

それは、PDIP幹部ではなくジョコウィ自身が、直接に他党指導者に接し始めたことにも現れている。そして「副大統領候補は自分が決める」「(当選後の)次期内閣はプロフェッショナル人材を多用する」とも言い切った。ジョコウィ人気の裏に、政党や政治家への国民の強い不信感があることを忘れてはならない。

【インドネシア政経ウォッチ】第39回 ユドヨノへのネポティズム批判(2013年 5月 23日)

ユドヨノ大統領に対するネポティズム(縁故主義)批判が現れている。5月初めに、各政党から2014年総選挙立候補者名簿が選挙委員会(KPU)へ提出されたが、民主党の国会議員候補者560名のうち、ユドヨノの親族が15名含まれていたためである。

15名には、息子のイバス(東ジャワ州7区名簿順1番)をはじめ、従兄弟のサルトノ・フトモ(同州同区2番)、義弟のハルタント・エディ・ウィボウォ(バンテン州3区1番)、義弟のアグス・ヘルマント(中ジャワ州1区1番)とその息子や甥が2名、義弟のハディ・ウトモ元民主党党首の息子や甥(おい)など5名、などが含まれる。

インドネシアにおける家族の範囲は日本よりも広い。今回の15名についても、義弟の甥まで家族に含まれている。とくに、ユドヨノの妻のアニが故サルウォ・エディ将軍の娘であり、この系統の人物が15名の大半を占める。サルウォ・エディは過去に数々の軍事上の功績を上げ、今も軍人中の軍人として尊敬されている。

ネポティズム批判に対して、民主党は「有能な候補者を選んだら、たまたまそうなったに過ぎない」と反論する。これは、ネポティズム批判をかわす常套(じょうとう)文句である。

スハルト時代のファミリー・ビジネスは、この常套文句で正当化された。最初は「たまたま」でも、それが繰り返されると「定評」へ変化する。スハルトの子供のビジネスは、「プリブミの代表」という意味も加えられ、特別扱いされていった。

ユドヨノも、09年にジョージ・アディチョンドロ著『グリタ・チケアス』(訳:チケアスのタコ)でファミリー・ビジネス批判を受けたことがあり、とくに妻のアニが関わる財団が標的となった。しかし、この本はマスコミでほとんど注目されず、ファミリー・ビジネス批判は立ち消えとなった。

大統領再選のないユドヨノは、「名誉ある大統領」として歴史に名を残すため、自身への人気を気にし続けている。もちろん、ネポティズム批判の広がりを注意深く監視していくはずである。

 

http://news.nna.jp/cgi-bin/asia/asia_kijidsp.cgi?id=20130523idr020A

※これらの記事は、アジア経済ビジネス情報を発信するNNA(株式会社エヌ・エヌ・エー)の許可を得て掲載しております。