スラバヤ・タンバックバヤン地区の中国正月

2月7日、肌寒い東京の自宅を朝早くに発ち、中華航空の台北、シンガポール経由でスラバヤに到着したのが夜12時前。途中の台北で、スラバヤの友人とFacebookメッセンジャーで面会の約束をしていたら、「8日朝、スラバヤの中国正月の様子を一緒に観に行こう」という話になった。

8日朝7時、英雄の像(Tugu Pahlawan)前に集合。日本との温暖の差が激しかったためか、肌の温度調節がうまくいかず、なかなか眠れぬままスラバヤ最初の夜が明けた。

眠い目をこすりながら、英雄の像前で友人と会い、彼の連れて行ってくれたのがタンバックバヤン(Tambak Bayan)地区。すでに、写真を撮りに多くの若者たちが集まっていた。スラバヤの写真愛好家にとって、中国正月の朝にタンバックバヤン地区に来るのは毎年恒例の行事の様子である。

タンバックバヤン地区は、1920年代頃、政治的理由で中国から逃れた人々が集まってできた集落で、その後、世界恐慌後の1930年代の経済苦境期には、カリマンタンやスマトラから失職した華人苦力らが駆け込んできた。もともとスラバヤで生まれ育った華人とは違う人々と言ってよい。華人とはいえ、生活は貧しく、あり合わせの材料で家を作って住んできた。

そんなタンバックバヤン地区だが、スラバヤの一般市民の知名度はさして高くはない。でも、スラバヤのなかで最も中国の雰囲気を残す場所として、写真愛好家らには知られているようだ。

このタンバックバヤン地区を友人と歩いた。まずは、住民のまとめ役を果たしているダルマ・ムリア財団(中国名:励志社)を訪問。ここは今、中国とスラバヤとの友好のシンボル的存在でもある。

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この励志社の向かい側に、タンバックバヤン地区の集落がある。集落の真ん中に大きな中心家屋(Rumah Induk)があり、その周りに約30戸ほどの小さい家々が長屋風に建てられている。

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中心家屋の中は小さい部屋に仕切られ、それぞれの部屋が仕事場(ワークショップ)として使われていた跡がうかがえる。ある部屋は台所の跡であった。真ん中に建ててある赤い柱は、バロンサイ(中国の獅子舞)が乗ったりするのに使うとのことだった。

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狭い路地に建てられた家々の軒先からは針金が貼られ、子供向けであろうか、中国正月の縁起物である赤い小さな祝儀袋(アンパオ)がつけられている。

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ここに住む人々はオープンで、訪れた人々を家の中に招いて、容易に写真を撮らせてくれる。住居は質素で、所得の低い人々が寄り添いながら生活している様子がうかがえる。昔から使われている井戸があった。この井戸はやや黄色く濁っているが、いまだかつて枯れたことはないのだという。

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タンバックバヤン地区は、2007年頃から土地収用問題で揺れてきた。近くにあるホテルが拡張するため、この地区の土地を収容しようと動いてきたからである。かつて、住む場所のない難民のような先代たちがようやくたどり着き、生活を取り戻したこの場所の記憶がなくなってしまうことに、多くの住民は耐えられなかった。激しい反対運動が起こり、それを大学生やNGO活動家らがアートの形をとるなどして支援した。でもすでに一部は買い取られ、駐車場となっていた。

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タンバックバヤン地区を歩いているうちに、そろそろバロンサイの始まる時間になった。バロンサイはこの地区の住民が演じるのではなかった。他所からバロンサイ演舞グループがやってきて、踊りながら地区を練り歩くのである。

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友人によると、バロンサイ演舞グループはスラバヤでわずかに5グループ程度しか残っていないのではないかという。中国正月は、彼らにとって数少ない稼ぎどきなのであろう。

バロンサイが終わると、集まっていた人々が去り、写真愛好家たちが去り、あたりは静かな中国正月の雰囲気になった。来年の中国正月も、今年と同じように、バロンサイを目当てに、瞬間的に人々が訪れることだろう。

スラバヤの街づくりは、旧来のカンポン(集落)を壊さずに、その居住空間を生かす形で長年にわたって進められてきた。外来の華人たちが作ったこのタンバックバヤン地区もそうしたカンポンの一つといってよい。しかし、都市の発展に伴って、かつては人間的な街づくりと賞賛された、そうしたカンポンを内包する形での街づくりにも限界が見え始めたように思える。

そしてまた、スラバヤの華人、あるいは「中国人」とは一体何なのか、ということも改めて考えることになってしまった。その出自や歴史的背景が異なることから、彼らをすべて華人、「中国人」として括ってしまうことの単純さ、浅はかさを感じたのである。ある意味、タンバックバヤン地区に集まった友人や写真愛好家の認識にも、なぜかそうした単純さや浅はかさを感じずにはいられなかった。

そうはいっても、興味深い機会に誘ってくれた友人には深く感謝している。友人は、スラバヤの町歩きの達人で、「Surabaya Punya Cerita(スラバヤは物語を持っている)」という本を出版しているダハナ・ハディ氏である。また近いうちに、彼とスラバヤの街を歩くことになるだろう。

私の別の友人で、Ayorek!という団体の主宰者の一人であるアニタ・シルビアさんが、タンバックバヤン地区について書いたエッセイがある。これも合わせて読まれることをお勧めする。彼女もスラバヤの町歩きの達人で、英語・インドネシア語のバイリンガル雑誌を発行している。

– Story from Kampung Tambak Bayan(英語)

– Cerita dari Kampung Tambak Bayan(インドネシア語)

Ayorek!のサイト(英語)はこちら

 

ジョホールバルの新山華族歴史文物館

この一週間、シンガポール、ジョホールバルからジャカルタへ、スラバヤに戻ってからは朝早くから夜遅くまで来客対応、その合間に宿題のレポートを2本こなす、という状態で、ブログ更新を怠ってしまった。

5月17〜18日のジョホールバルは、1991年以来の訪問だった。旧市街のJB Sentral駅近くに宿を取り、周辺を街歩きした。その後、MM2Hプログラムを使ってジョホールバルへ移住した知人を訪ねて、そのコンドミニアムでの暮らしぶりを見てきた。

さらに、シンガポール在住の知人のツテで知り合いになった、ジョホールバルの華人実業家にイスカンダール計画のサイトを車で案内してもらった。イスカンダールは想像以上に規模が大きく、コンドミニアムなどの不動産売買が過熱気味とのことだった。上海の物件との抱き合わせ販売もあるらしく、華人実業家は本当に最終的に埋まるのかと心配していた。残念ながら、急激な雷雨に見舞われ、写真が撮れずじまいに終わった。

しかし、今回、最も興味深かったのは、ホテルから街歩きしたときに見つけた新山華族歴史文物館、すなわちジョホールバル華人博物館(Johor Bahru Chinese Heritage Museum)であった。

この博物館では、ジョホールバルの歴史に華人が深く関わってきた様子をうかがうことができる。

ジョホールバルは元々、正露丸や仁丹など口腔清涼剤に使われ、タンニンを多く含むガンビール(Gambier / アセンヤク(阿仙薬))の植えられていた土地だった。ここへ華人の入植が始まり、1855年にタンジュン・プトゥリという名前の港町が形成された。その後、ジョホールバル(新山)と改名されたこの町は、潮州人の陳開順(Tan Kee Soon)が設立した義興公司(Ngee Heng Kongsi)が主導して発展を遂げていくことになる。

町中には、義興通り(Jalan Ngee Heng)という形で名前がまだ残っている。

義興公司の祖である陳開順は、1803年に広東・海陽で生まれ、当時、中国全土を支配していた清王朝に楯突いてペナンへ逃亡、その後マラッカ、シンガポールを経て、1844年にこの地へ入植したということである。いずれ、清王朝を打倒し、明を復興させることを夢みていたようである。

この地の華人は大きく5つに分けられる。潮州人は主にガンビールや果物などを扱い、パサール(市場)を支配した。広東人は、建材、鉄、木材などを扱い、客家人は薬、洋服、質屋などに従事した。福建人はゴム農園などの労働者、海南人は飲食、写真屋などに従事した。

第2次世界大戦の頃の記述も興味深かった。ジョホールバルでの華人とマレー人とがいかに協力的であったかが強調される一方、日本軍に関する記述は、「日本軍は住民たちを勝手気ままに殺し、至るところで女性を強姦した(Tentara Jepun membunuh penduduk-penduduk dengan sewenang-wenang dan memperkosa wanita di mana-mana)」と、実に厳しい内容だった。こういう表現で、ジョホールバルの人たちに、かつての日本軍のイメージが作られてしまうのだろう。

もっとも、今回のジョホールバル滞在中、私が日本人だからといって、そこの人から差別的な扱いを受けたことはなかった。かつて、クアラルンプールで中華系の屋台で食べたとき、伝票に「日本人」と書かれ、他の人の値段の2倍を強制されたときには、マレーシア半島部の反日感情の一部を痛感したものだが、今回は、この博物館を含め、不快な思いをしたことはなかった。

博物館に話を戻そう。展示はなかなか興味深いのだが、一例として人力車の話を上げておく。展示によると、人力車は1869年に日本で発明され、それが上海、北京へ伝えられた後、1880年に上海からシンガポールへ伝えられ、そこからジョホールバルへ入ってきた。そして、第2次世界大戦中に、日本人がジョホールバルへ輪タク(トライショー)、すなわちインドネシアでよく見かけるベチャを入れたのだという。

輪タク(トライショー)、すなわちベチャの由来についてはいくつかの説があるが、そのうちの一つは、当時の蘭領東インド・スラウェシ島のマカッサル在住の日本人の自転車屋が第2次世界大戦少し前に発明し、それがジャワ島などへ渡った、というものである。もしそうだとすれば、その一部がジョホールバルに渡ったということになる。やはり、ベチャは日本人の発明だった可能性が高い。

このほか、華人の世界には様々な秘密結社があり、その結社内だけで通じる暗号のような身振り手振りがあるということも初めて知った。これらの秘密結社には、義興公司(Ngee Heng Kongsi)、天地会(Tiandihui)、松柏館(Tsung Peh Society)、松信公司(Hong Shun Society)、海山会(Hoi San Society)、大伯公公司(Toa Peh Kong Kongsi)、和●(月ヘンに生)館(Ho Seng)などがあるということである。もしかしたら、今もこうした秘密結社のつながりは有効なのではないか、と思ったりする。

博物館で、”A Pictural History of Johor Bahru”という分厚い本を買ってしまった。昔のジョホールバルの様子が写真入りで解説してあり、1844年に陳開順が入植して以降、現在に至るまでの年表が英語で付いている。彼らとインドネシア華人との接点がどのような形で見えてくるか、いずれ調べてみたいなどと思っている。