普通の人ジョコウィは只者ではない

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選挙戦の時の闘争民主党のジョコウィを使ったポスター。闘争民主党のお陰でジョコウィが当選したのではなく、ジョコウィのお陰で闘争民主党は票を集められた、という面が強い気がする。

10月20日、ジョコ・ウィドド(ジョコウィ)新大統領とユスフ・カラ新副大統領が就任した。

就任式でのジョコウィの簡潔な就任演説、就任祝賀パレードで埋め尽くされた人々から次々と揉みくちゃにされている笑顔のジョコウィ、カラ。

警備という言葉がどこか飛んでしまいそうな、権力者と庶民の近さである。

大統領はもはや雲の上の人ではない、自分たちと同じ人間だという感覚。大統領になるなんて思いもしなかったジョコウィには、自分も沿道の人々と同じだという思いがある。

大統領は仕事。大統領は成り行きでなってしまったもの。自分は自分。

多くの政治家が権力者になりたがるのとは対照的な、覚めた自分を持っているジョコウィ。今日のそんな笑顔のジョコウィには、自分を選んでくれた国民に対する感謝の気持ちがあふれているように見えた。

これまでのインドネシアの支配体制では、権力者が王様のように振る舞いがちであった。地方首長選挙の弊害の一つは、当選した地方首長が家族を重用し、王国を作ってしまう傾向にあった。

 

ユドヨノ前大統領は、10年間でそれを露骨にできる立場にあったにもかかわらず、自ら率先して王国を作るところまでは行かなかった。ユドヨノもまた、権力欲をむき出しにするタイプではなかった。

その意味で、ユドヨノはジョコウィに近い。ユドヨノも、自分が普通の人間であることを自覚していたように思える。アニ夫人のインスティグラムの写真はとても微笑ましいものだ。

そう、10年前、ユドヨノがインドネシアで初めての公選大統領に就任するときも、決して偉そうに振る舞ってはいなかった。自分も普通の国民の一人という感覚を持ち合わせていたと思う。あのときも、人々は自分たちの目線で物事を捉えられる指導者を求めていたのだった。

しかし、政治家の多くは、まだまだ自分を特別視していた。選民意識が強かった。特権を持った自分たちがなんでも決められると錯覚した。政党は政治家個々人の思惑を実現する装置にとどまり、成熟するには至らなかった。ユドヨノはこれら幼稚な政党を、赤子をあやすように相手にしなければならなかった。

10年が過ぎ、国民は今も自分たちの目線で物事を捉えられる指導者を求めている。政治家は今も選民意識が強く、一般国民との距離は開いたままである。彼らは「国民の代表」という顔をしながら自分の利益の実現を欲している。

政治エリートが自らを変えていけるか。これがインドネシア政治の最大の課題である。

その意味でも、ジョコウィ=カラの祝賀パレードが映像として全国へ流れたインパクトは無視できない。なにせ、インドネシアでこんなことをした指導者は初めてであるし、世界的に見ても、警備上の問題などで、まずあり得ない出来事だったからである。

映像に映し出されたのは、「みんなのジョコウィ」だった。特定の政治勢力の専有物ではない、インドネシアのみんなのための大統領だった。

大統領就任を前に、ジョコウィは、大統領選挙で敗北し、リベンジに燃えていたはずのプラボウォの家へ誕生日のお祝いのために駆けつけ、双方が敬意を表した。大統領就任式のときには外国へ出かけている予定だったプラボウォは、急遽帰国し、就任式に出席。ジョコウィの就任演説でも再度プラボウォに敬意が表され、なかなか敗北を認められず、落とし所を探りあぐねていたプラボウォの矛を自ずと収めさせることができた。プラボウォは自分のプライドを傷つけられずに収められた。

このような、敵を自分の側へ取り込めるジョコウィの能力は、今後の政局運営との関係で、見過ごすことができない重要な能力である。プラボウォは、もうリベンジに精を尽くす必要はなくなった。

そしてジョコウィは、政党色のないプロフェッショナルな内閣を作ることを約束している。

反ジョコウィでリベンジに燃えているとされた議会での「紅白連合」は、ジョコウィが政党に縛られている限りにおいて、その存在意義がある。ジョコウィ政権が政党色を出さなければ、紅白連合は攻めるのが難しく、自ずとその意味を失っていくだろう。

実際、プラボウォに密着していたゴルカル党のアブリザル・バクリ党首は、ジョコウィの就任演説後、ゴルカル党がジョコウィ政権を支持する意向を示した。プラボウォが党首を務めるグリンドラ党でさえ、ジョコウィ支持を言い出すかもしれない。それは、ジョコウィが特定政党の意向に沿った政権を作らない考えだからである。

これまでのプロセスを見ると、ジョコウィは実に巧みに自分が動きやすい環境を作ってきている。議会の話が中心の間は、様子をうかがいながら、自分の所属する闘争民主党など、選挙戦のときの与党側を立てていた。しかし、闘争民主党が圧勝しなかったからこそ、ジョコウィが政党の縛りから外れる状況が現れた。

おそらく最初から、ジョコウィは内心、それを表には決して出さなかったが、与党だけで政権運営をするつもりなどなかった。政党を超越したプロフェッショナルによる政権運営を考えていた。それを出せるタイミングを上手く見計らいながら、大統領就任にこぎつけた。

さあ、いよいよ、ジョコウィが真骨頂を発揮できるときが来た。まずは、どんな布陣で内閣を組織するかが見ものである。新閣僚は、たとえ政党幹部であっても、幹部職からの離脱が条件である。もちろん、ジョコウィ自身も、闘争民主党の一般党員ではあるが、党のために動くという姿は見せないはずである。大統領となった今、もはやメガワティ党首の下僕とはならない。

普通の人であるジョコウィ新大統領。実は、なかなかの巧者である。決して侮れない。只者ではない。ユドヨノのときとは違って、政党は彼に相当振り回されるだろう。そして、鍛えられるであろう。そう望みたいところである。

 

福島、山形、仙台、新宿

10月4〜14日の予定で日本に一時帰国している。

さっそく、10月6〜7日に福島、7〜8日に山形、8日に仙台に寄ってから東京、という日程をこなしてきた。

福島では実家に帰るとともに、前から会いたかった方々3名にお会いした。震災後、たくさんやってきていた外部者による支援、潮が引くように減っている状況がうかがえた。今後の活動は、おそらく外部者による支援という形ではなく、様々な人々による共創になっていくのではないか。そんな思いを強くした。

山形では、山形ビエンナーレを駆け足で見学した。見学できたものはわずかだったが、東北、山、門といったものが「ひらく」ということを象徴するように思えた。表現の一つ一つに、粗削りではあるが、ふつふつとほとばしる力を感じた。

山形ビエンナーレを見学しながら、東日本大震災のとき、真っ先に支援物資供給などで動いたのが山形だったことを思い出していた。青森、岩手、宮城、福島は交通が遮断されて孤島になっていたとき、物資輸送の後方支援基地として山形が果たした役割を忘れることはできない。

東北芸術工科大学。以前、筆者はこの大学の『東北学』のシリーズを購読し、友の会の会員だったが、その頃から一度来てみたかったキャンパスだった。ほんのわずかの滞在だったが、キャンパスから見た夕日は、建物の前にある池にも映えて、とても美しかった。

この大学に着いたとき、バス停の前は学生たちの長蛇の列だった。時刻表を見ると、山形駅行きに加えて、何と仙台行きのバスもある。仙台からだと、きっと1時間ぐらいで着くのだろう。

東北芸術工科大学内で「東北画は可能か?」という展示を見た後、山形駅行きのバスの時間を気にしながらバス停に来ると、バスは停まっているが、学生の長蛇の列は消えていた。あの学生たちは皆、仙台行のバスに乗ったのだった。

山形駅行きのバスの乗客は、私を含めてわずか2名だった。

後で聞いたら、山形の大学で学ぶ仙台出身の大学生は、ほとんどが仙台から大学へ通っているとのことである。たしかに、繁忙時の山形=仙台間の高速バスは5分おきに運行されている。片道930円、通学定期券ならもっと安いだろう。

他方、福島出身の学生は、山形に下宿する傾向が強い。福島から通学できる交通手段が鉄道ならば山形新幹線しかなく、費用もかかる。福島=山形の高速バスは、夜行以外はない。事実、福島から山形へ車で行く場合は、仙台経由の高速道路で行くのが普通なのである。

山形の夜は、ジャカルタでお世話になって以来、約15年ぶりに知人との再会を楽しんだ。3種類の日本酒冷酒の飲み比べをしたが、十四代の吟醸酒というのがとても美味しかった。後で聞いたら、なかなか手に入れられない高価な日本酒なのだとか。日本酒に詳しくない自分が飲んでしまって、飲んべえの皆様にちょっと申し訳なかった。

最後の締めの肉そばが格別に美味しかった。

8日は、山形駅前から高速バスで仙台へ出た。1時間。快適なバス移動だった。JICA東北で1時間ほど打ち合わせ。東北ともじっくり関わっていく予感が沸いた。

駅前の利久西口本店で牛たん定食を堪能した後、初めて乗る「はやぶさ」で東京へ戻った。仙台=大宮がわずか1時間、早さを本当に実感した。

8日の夜は、友人の原康子さんが出した『南国港町おばちゃん信金:「支援」って何?”おまけ組”共生コミュニティの創り方』という本の出版記念トークイベント(紀伊国屋書店新宿南口店)を覗いた。

コミュニティ開発などの開発援助の現場では、よそ者がそこの人々の自立をどのように促すかがもっとも重要である。そのための「支援しない」技術を体得した原さんの面白トーク炸裂だった。「支援しない」技術が求められるのは、開発援助の現場だけではない。日本でも、職場でも、家族でも、どこでも。もちろん、東北でも。

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地方首長選挙法成立は明らかに民主化の後退

インドネシアの地方分権化・地方自治を、その芽生えから現在に至るまで、15年以上見続けてきた者として、やはり書かなければなるまい。

9月26日(金)未明、5日後に過去5年間の任期を終える国会は、地方首長選挙を「国民による直接選挙」から「議会による間接選挙」へ変えることを骨子とした地方首長選挙法を可決した。間接選挙への変更に賛成した議員が226名、直接選挙を堅持すべきと反対した議員が135名だった。

賛成議員の党会派は先の大統領選挙で敗北したプラボウォ=ハッタ陣営に属し、反対議員のそれは当選したジョコウィ=カラ陣営に属する。すなわち、地方首長選挙法をめぐる激しい議論は、結局は、大統領選挙の両陣営の戦いであり、プラボウォ=ハッタ陣営がある意味リベンジを果たした格好となった。

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プラボウォ=ハッタ陣営が地方首長選挙を間接選挙へ変えることに執心したのは、同陣営が大統領選挙後もジョコウィ=カラ陣営に対して負けた恨みを晴らすという一点で結集した「紅白同盟」(Koalisi Merah Putih: KMP)を、今後も維持し続けるためである。

彼らは国の重要政策について決して同じ考えを持っているわけではない。それをつなぎとめるには、カネやポストで釣るだけではなく、単純な主張が必要となる。今回、彼らの地方首長選挙法をめぐる議論でも、「インドネシアの民主化を西洋的なやり方から取り戻すため」「西洋民主主義ではなくパンチャシラ民主主義に戻すため」「直接選挙の結果、国富が外国勢に牛耳られる要素が高まった」といった、外国を敵視する主張が、何の論理的な脈絡もなく、繰り返された。

これは、とても危険な徴候である。「紅白同盟」の仮想敵は外国勢であり、外資とみて間違いではない。大統領選挙の候補者討論会で、プラボウォは国富の漏れが外国へ流れているのを止めて、それを開発へ活用すると述べていたが、その活用先として彼が真っ先に挙げたのは、高級官僚や政治家の待遇改善であったのを皆さんは覚えているだろうか。まず彼らの待遇が改善されないと汚職はなくならない、と彼は主張したのである。

国富の漏れを止めた後、それを誰にどのように配分するかは、大統領に選ばれた自分が適切に行う、と言わんばかりのプラボウォの演説であった。民主主義では、その配分が適切に行われるかどうかをきちんと第三者がチェックする仕組みが必要になる。でもおそらく、それは西洋的な民主主義の仕組みで、インドネシアにはそぐわない、と片付けることだろう。翻って言えば、自分たちの権益を守り、反対者の口を封じるために、外国(西洋)が仮想敵として活用されるのである。

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今回の最後の国会での議論を見ていても、中身の議論はほとんどなかった。

賛成派を勢いづかせたのは、民主党会派の退場であった。ユドヨノ大統領が党首を務める民主党は、当初は間接選挙に賛成していたが、先週、ユドヨノ党首が直接選挙の堅持を支持する方向性を示したことを受けて、条件付きで直接選挙の堅持という立場を採るに至った。民主党が提示した10項目の改善条件は、ジョコウィ=カラ陣営に属した政党会派も合意し、それら会派は民主党も間接選挙への変更に反対するものと思い込んでいた。

ところが、直接選挙か間接選挙かを投票を決める段になって、「州知事は間接、県知事・市長は直接というオプションが認められなかった」という理由で民主党会派が議場から退出した。これで、投票の結果は決まった。

多くの人々は、ユドヨノ党首が二枚舌を使ったと見なした。ユドヨノは最後の最後で自分が作り上げてきた民主的なシステムを自分で壊したという批判が出されたりもした。

しかし、国連総会に出席中のユドヨノは、民主党党首として「直接選挙を堅持」という自分の出した方針を貫徹せず、退場した民主党会派を厳しく批判し、犯人探しを始めた。留守を守るシャリフ・ハッサン党首代行は「民主党会派が勝手にとった行動だ」とユドヨノに同調した。

結局、民主党会派のヌルハヤティ代表が「退場」という決定を下したことが明らかになった。彼女はこれまで、頻繁に「紅白同盟」幹部とコンタクトしており、10月から発足する新国会での副議長ポストを「紅白同盟」から約束されていたという話が流れている。

それでも、ユドヨノの優柔不断さや二枚舌を念頭に、結局はユドヨノが自分を守るために嘘を言っているという声も強い。それほど、ユドヨノはもはや信頼を得られていないのである。

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それにしても、地方首長が議会で選ばれるというのは、2004年以前、スハルト時代の仕組みに戻るということを意味する。地方首長直接選挙は、言ってみれば、インドネシアの制度的民主化の一つの到達点だった。34州、550以上の県・市のトップが住民の一票で選ばれる。選挙自体で死者が多数出たりすることはない。

もちろん、不特定多数の有権者を念頭にカネを配り、かなり末端に至るまで候補者とその支持者どうしの対立が深まり、相当に根深い感情的なしこりをあちこちに作ってしまったことは確かである。当選した地方首長は地方ボス化し、選挙で使った資金回収のために、裏金作りなどの汚職に励むことが大きな問題となっていた。候補者どうしの対立が激しくなると、そこの地域社会が分断されることも多々あった。こうした状況を改善するために、以前のような議会で地方首長を選ぶ形に戻せば、住民どうしが対立することもなく、選挙資金も少なく済ませることができ、官僚も本来の業務に専念できる、という声も決して少なくはなかった。

しかし、それでも、住民が自らの手で地方首長を選ぶ経験を日常化したことの意味がある。普段の選挙では投票率が低いかもしれないが、いざ何かあれば、自分が投票できる、という機会をキープしていること自体に意味があるのである。住民は議会の議員も比例代表制による政党経由で選んでいるが、その議会をコントロールする役目を託して地方首長を選んでいる面がある。とりわけ、議員たちが汚職に走る現状を憂い、地方首長への期待が高まることもある。

地方首長が議会によって選ばれるとなると、改革派の地方首長はもはや現れないだろう。住民よりも先に、議員たちの機嫌を取らなければならないからである。車やら、家やら、ノートパソコンやら、様々なものを議員に提供し、業者がバックに付く議員に配慮してインフラ案件などをさばくことになる。しかも、うまくさばかないと、次の選挙では支持しない、といった脅しも地方首長は受けることになる。かつて、多くの地方首長が議員たちの懐柔に頭を悩ませ、住民のことなど考えていられない状況になった。住民のために動き、議員たちへの配慮の乏しい地方首長は、間違いなく次の選挙では立候補できなくなっていた。

現在のインドネシアには、議会との対決も辞さず、改革を進めていこうとする地方首長の人気が高まっている。だからこそ、ジョコウィのように、地方首長で実績を上げた人材が大統領にまで上り詰められる時代になったのである。もしも、地方首長が議会によって選ばれ続けていくならば、ジョコウィらはインドネシアの民主化の徒花として終わる運命となるかもしれない。地方首長選挙の次は、大統領を国会が選ぶ仕組みへ変えようという動きが出てくることが予想される。

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しかし、スハルト時代と違うのは、そうなってはならないと思う人々の数が圧倒的に増えたことである。

彼らはまず、憲法裁判所へ地方首長選挙法の違憲審査を求めるだろう。「間接選挙は民主化の後退」と明言したユドヨノ大統領は、自分の任期が終わる10月20日までに同法には署名しないものとみられる。ただし、法律の施行には大統領の署名が必要だが、署名なしでも、法律は可決から30日目で自動的に施行される。

30日目といえば10月25日、すでに10月20日にジョコウィが大統領に就任している。違憲審査請求が10月初めまでになされれば、それから結果が出る1ヵ月は法律は動かない。もちろん、ジョコウィ新大統領が法律の施行に反対を表明することだろう。制度的に地方首長選挙法への異議申立が進められるだろう。

一方、プラボウォ側は、国民の代表たる国会が成立させた法律の施行を迫るべく、様々な形で力を見せつける示威行動を行うかもしれない。地方首長選挙法の成立は、いまだジョコウィへのリベンジに燃えるプラボウォやその周辺にとっての第一幕にすぎない。第二幕は大統領選挙の間接選挙化であり、それを成立させる前であっても、ジョコウィを任期途中で引きずり下ろす戦略を考えるだろう。そのときに、外国敵視の話が使われることを危惧する。

たとえ間接選挙になっても、議員の態度や質に変化が起こり、有権者の代表としての意識が行動に現れれば、それなりによい地方首長を選出できるだろうが、そうなると期待している人々はほとんど居ないと思われる。

地方首長選挙法成立は明らかに民主化の後退である。それは、政党という今だに中央集権的な組織が、地方分権化の申し子とも言える改革派地方首長出現の可能性を摘んでしまうものである。

悲観的な論調の多いインドネシアのメディアだが、「地方首長選挙法は国民の権利を剥奪するという面で違憲である」といった判断が憲法裁判所から出され、法律が撤回される、ということもまだ起こりそうな気がしている。楽観も持ち合わせつつ、事態を注視していきたい。

地方首長選挙法案の議論に寄せて

「もしも住民が直接県知事を選べるならば、私は絶対に当選するはずなのに」。

この言葉は、2001年に南スラウェシ州の某県知事から出た言葉である。当時、県知事は県議会が選ぶ仕組みだった。

この県知事は、今でいうところの改革派の県知事だった。南スラウェシ州で下から2番目に貧しい県でありながら、県予算の3割を使って、インターネットを駆使した許認可手続のワンストップ・サービスを全国に先駆けて導入した。これにより、住民登録や事業登録などの手続期間が大幅に短縮し(たとえば住民登録は書類が整っていれば窓口で15分)、しかも費用も少額(たとえば住民登録はわずか5000ルピア)となった。今、話題となっている住民サービス改善をすでに15年近く前に実現していたのである。また、「健康野菜」の名前で有機肥料を使った野菜作りも始めた。

反面、この改革によって、許認可手続の仲介を行なっていた業者は仕事を失い、県の役人はそれら業者からリベートをもらうこともできなくなった。今までと違うことを始めると、従来のやり方で恩恵を受けてきた人々が必ず反発するものである。

県知事に対して最も不満に思っていたのは、実は県議会議員たちであった。自分たちが選んでやったにもかかわらず、県知事は彼らに公用車や公営居住宅の便宜を図らなかっただけでなく、公開入札を進めたため、彼らの親族らの経営する土建屋などへ事業が下りなくなった。当然、県議会議員は県知事の再任に反対し、彼らのボスとも言える県議会議長を公認の県知事に選んだ。

当時、他の県でも、住民のために汗水流した県知事が県議会で再任されないという事態が続出した。当時、JICA専門家だった筆者は、そうした優秀な県知事の名前を売って、新しい地方分権化時代の旗手になってもらおうと奔走したが、足元の議会がそれを許さない結果となってしまった。

今、国会では、地方首長直接選挙をやめ、議会が選ぶ形へ変える、いや戻す、地方首長選挙法案が議論されており、6会派がそれに賛成、3会派が直接選挙の堅持を求めている。議会が選ぶ形へ戻す理由は、直接選挙はコストが掛かり過ぎるというものだが、昨今では「リベラルな制度にし過ぎた」という理由も出されている。賛成の6会派はいずれも先の大統領選挙でプラボウォ=ハッタ組を支持した政党からなり、地方政治からジョコウィ=カラ次期政権を追い込もうとしている、と言われている。

純粋な議論ならば歓迎だが、政治的・感情的なリベンジのために制度が強引に変えられることはナンセンスである。議会が地方首長を選ぶ形へ戻ることは、もちろん、これまで築いてきた民主化の後退であり、いずれは大統領も議会が選ぶ形へ変えられてしまうのではないかという懸念さえ出ている。

地方首長直接選挙があったからこそ、ジョコウィは大統領になれたといっても過言ではない。インドネシアにはもっと多くの改革派の地方首長が必要である。過去の失敗を繰り返すことのないよう、そして民主主義の後退とならないよう、地方首長選挙法案の議論を早急に進めることなく、じっくりと議論していってほしいと個人的に思う。

日本企業のインドネシア進出について

30年近くインドネシアを見てきて、不思議なことがある。それは、日本におけるインドネシアへのイメージの急速な変化である。

2000年代半ば、日本では「インドネシアは危険な国」というイメージがとても強かった。1998年前後の通貨危機、反華人暴動の連鎖とそれに伴う政治社会危機、スハルト退陣などに続いて、アチェ紛争、イスラム強硬派とされる人々によるテロや爆弾事件などが続いたためであろう。

講演などで、私がいくら「それらの影響は全国に及ばない」「多くの人々は通常通り暮らしている」と言っても、「怖い」「危ない」と思い込んだ人々には信じてもらえなかった。いつになったら、インドネシアのネガティブ・イメージが改善するのか、と途方に暮れた覚えがある。

それが今、一転して、多くの人々がインドネシアを礼賛している。それまで海外事業をしたことがなかった事業者までもが、あたかもバスに乗り遅れまいとするかのように、インドネシアへ、インドネシアへとやってくる。

わずか数年の間に、こんなにもインドネシアへのイメージがひっくり返るものなのか。

私はほんとうに驚いている。

そして思う。多くの方々は、きっと過去のインドネシアのことをよく知ることなく、インドネシアへの期待を勝手に高めてしまったのではないか、と。

30年近く連続してインドネシアを見ているが、急に良くなったという印象はない。ある意味では、「怖い」と言われた時代と変わらない面も残っている。今起こっている「変化」は、これまで少しずつインドネシアの人々が変えてきたもの、努めてきたものの結果にすぎない。

たしかに、インドネシアでは、インターネットなどを通じて日本への関心や理解が高まってきていることは疑いない。とくに、アニメやコスプレなどのポップカルチャーが牽引役となって、日本への親近感を高めていることは確かである。帰国研修生の役割などもあるだろう。

しかし、日本はすべて素晴らしい、というイメージでインドネシアの人々が捉えているのは、昔から全く変わっていない。日本人のインドネシア・イメージは急転したが、インドネシア人の日本イメージ・礼賛は過去30年以上、変わらず続いている。

日本人はラッキーなのである。日本人なら恥ずかしくなるほどの、インドネシア人による日本礼賛のイメージの上に胡座をかけるからである。

しかし、その日本礼賛イメージが崩れたらどうなるのか。日本の現実は彼らが想像するものよりもずっと厳しいし、社会問題も深刻化している。その現実に目をつぶったまま、日本礼賛イメージを保持できるかどうか。

日本とインドネシアが真の友人になるためには、ネガティブな現実を含めて、双方がもっともっと相手をまるごと理解する必要があるだろう。人が誰かを愛するとは、プラスもマイナスも合わせて、相手を受け入れることだろう。

日本もインドネシアも自らを卑下する必要はない。しかし、双方の持つマイナス面に目をつぶり続けてはならないと思う。

いったい、インドネシアに進出する日本企業は、どこまでインドネシアのことを分かろうとしてやってきているのだろうか。いや、分かる必要などない、事業がちゃんとできればどこでもいいのだ、という反論も聞こえてきそうである。日本企業の進出支援は、日本企業さえよければそれでいいのだ、という考え方もあることだろう。

そういった考え方があるとすれば、それをインドネシア側はどう見るのだろうか。

想像力を働かせてほしい。日本に外国企業が進出してきた場合、日本人はそれをどのように見るだろうか。外国企業でなくともよい。米軍基地の存在とそこで起こる様々な事件を我々はどう見るだろうか。

インドネシアの日本企業は、インドネシア人から見られているのである。

多くのインドネシア人が、日本は好きだが日本企業には就職したくない、といっている現実がある。トップに就けない、給与や手当が低い、といった理由に加えて、自分たちの持っていた日本イメージと日本企業の現実とのギャップが彼らにそう思わせている面はないだろうか。

インドネシアへ進出してくる(きた)日本企業(とくに中小企業)の地元は、その企業の海外進出でどのような影響が出ているのか。地元経済はどうなっていくのか。このことにも、筆者は大きな関心をもつ。

その企業は本当にインドネシアへ進出しなければならなかったのか。海外へ行かずに地元に踏み留まって何らかの展開を開くことは難しかったのか。このことにも、筆者は大きな関心をもつ。

インドネシアで進出企業支援をするのなら、そんなことはどうでもいいことなのだろう。進出したいという企業のお世話をして、それごとにコンサルタント料をいただくのが仕事、と割りきってやればよいだけだろう。でも、筆者は、その企業の地元のことが気になってしまう。

むしろ、日本で、インドネシアへ進出したいと思っている企業とじっくりと話し合い、海外進出自体の是非や地元経済への影響(経済的影響だけでなく地域を形成する企業価値としての文化的影響も)を含めて、真剣に考えるところから、コンサルティングを始めたいのである。

そして、やはり本当にインドネシアへ進出しなければならないとなったら、全力で支援する。その企業だけでなく、進出先のインドネシアの地域にとってもプラスとなる形を作り出すために、全力で支援する。

その際に、その日本企業がインドネシアで生きていくことをどこまで深く考えているか、考えようとしているかをしっかりと見極めたい。

日本企業の日本の地元も、進出先のインドネシアの地域も、企業進出によってプラスの価値を共に生み出せるように、全力で支援する。

そんなコンサルティングをしたい。

もちろん、将来は、インドネシア企業の日本進出、といった事態も現実化してくるだろう。そこでも、日本企業に対してと同様の形で、コンサルティングをしたい。

インドネシアに進出した日本企業がインドネシアとともに生きていく。日本に進出したインドネシア企業が日本とともに生きていく。

それをひとつひとつ積み重ねていくことで、単なるイメージを超えた、日本とインドネシアとの間の本当の理解と相愛が深まっていくことだろう。

そのためには、まだまだ数量が少ない。交流人口が少なくとも現在の10倍以上に高まるよう、私なりのお手伝いをしていきたい。

9月12日スラバヤで講演

下記のとおり、スラバヤでのジェトロ中小企業セミナー(無料)において、ジェトロ中小企業海外展開現地支援プラットフォーム・コーディネーターとして、「ジョコウィ時代の到来と地方経済・投資環境の行方」と題する講演を行います。よろしければ、是非ご参集ください。

とき:2014年9月12日(金)14:30〜17:30
ところ:JWマリオット・スラバヤ
定員:40名

新メールアドレスのお知らせ

9月3日にジャカルタから出国し、タイガーエアウェイズ+スクートという、シンガポール経由のLCC乗り継ぎで4日昼に帰国した。スクートは、さすがSQのLCC、という感じだった。

今回のLCC乗り継ぎはなかなか良かった。コストパフォーマンスで考えたら、エアアジアの乗り継ぎのオルターナティブとして十分に使える。

そして、インドネシアでお世話になったスポンサーとの契約が終了し、9月4日からフリーとなった。当面、個人事業主としての屋号「松井グローカル」という名前で活動を行なっていく。

たまたま最近、私のメールアドレスからスパムメールが送られるということがあった。もしも、matsui01@gmail.comを発信元とする怪しげなメールがあれば、すぐに削除していただきたい。この場を借りて、ご迷惑をお掛けしたことを深くお詫び申し上げます。

こうしたこともあり、メールアドレスを以下へ変えることにしたので、変更していただければ幸いです。

matsui@matsui-glocal.com

独自ドメインを取り、「松井グローカル」の名前で、近いうちに個人コンサルタント会社として法人化することを検討している。

東京の自宅には今回、わずか5日間の滞在。でも、パフェも、ウナギも、日本そばも、冷やし中華も、刺し身も、秋刀魚の塩焼きもしっかり食べた。ぎゅっと凝縮したためか、ちょっと過剰摂取の気配はあるが・・・。

明日(9月8日)深夜のエアアジアで羽田からジャカルタへ発ち、10日夜にジャカルタからスラバヤへ戻る。

次回の日本への帰国は10月3日の予定で、10〜14日程度の滞在を考えている。

旅をするということ

今、母校の大学生によるスタディツアーのお供をしている。ジャカルタ、スラバヤ、マカッサル、西スラウェシ州ポレワリ、と移動する、学生にとってはけっこうハードかつ長期のツアーになった。

同行しながら、彼らがどんどん変わっていく姿を見るのが嬉しい。最初は日本から持ってきた常識や固定概念でインドネシアを見ていたのが、数日もすると、現場の視座を意識するようになってくる。現場を歩きながら、自分たちの持っていた先入観やイメージがことごとく覆っていく。その驚きを彼らの生の声で聞きながら、旅は続く。

感受性の強い彼らだからこそ、良いもの・悪いもの、好きなもの・嫌いなもの、様々なものを吸収していく。

私の役割は、彼らがただ単にそれを吸収するのではなく、現場から発信される様々な情報を、自分の頭で一生懸命に考え、それをつなげて自分なりの新たな考えを作る作業に適切なヒントや気づきを彼らへ促すことである。そう、静かに、ファシリテーションをしているのである。

私自身も、こうしたツアーに同行することで、新たなヒントや気づきを得ている。常に新しい刺激を求め、思考回路をリフレッシュさせながら、物事を批判的かつ建設的に見ていこうとすることで、自分が生きていることを実感するのである。

旅とはまた、学びである。自分の常識や思考を研ぎ澄ませるためには、新たなものを吸収し、学びを続けていく。自分にとって、それはいつどこでも行なっていきたいものなのだが、旅はまさにその刺激を得られる最たるものである。そして、それは自分だけのものではなく、旅で出会う様々な人々との交わりの中で、当人たちが意識するとしないとを問わず、新しい学びをあちこちに引き起こしているような気がする。

旅は出会いを引き起こす。旅は自分が動いていることでもある。動いていると、それに触発されて別の何かが絡まりながら新たに動き出す。そして、新しいつながりが生まれ、新しい何かが生まれてくる、と期待できる。

これでいいのだ。もう全部分かった。偉い人の言うとおりにすればよい。旅は、そんな言葉を打ち消す。変わらなければならないのは他人ではなく、自分なのだということを自覚できる。

自分たちの大事な世界を守るためには、「高い塀」や「ガードマン」に囲まれたその世界に閉じこもっているだけでは十分ではない。新しい世界を知り、そこと知り合うことで、自分たちを受け入れてくれる世界を広げていく。それが本当に広がって定着したときに、「高い塀」や「ガードマン」は何の意味も持たなくなる。

旅ができることに感謝し、自分の知らない世界を知り、新しい自分を作り続けるために、今日も旅を続けていく。

皆様へのご報告

インドネシアでのスポンサーであるJACビジネスセンターとの契約が9月3日で終了することになりました。これに伴い、「JACシニアアソシエイト」としての活動は9月3日までとなります。

皆様にはこれまで大変お世話になり、誠にありがとうございました。

なお、9月3日にいったんインドネシアを離れますが、9月9日に戻ってくる予定です。今後も、基本的に、スラバヤを中心としたインドネシアでの活動を当面、継続したいと思っています。

とくに、「在スラバヤJETRO中小企業海外展開現地支援プラットフォーム・コーディネーター」として、インドネシアでビジネスを行う日本の中小企業のサポート活動を来年3月まで努めます。

また、独立コンサルタント・ファシリテーター・カタリストとして、インドネシアおよび日本などでの講演、研修講師、コンサルティングなどの活動も、引き続き行なっていく予定です。ご希望の方は、直接、私宛にメール等でご連絡いただければ幸いです。

今回のJACビジネスセンターとの契約終了に伴い、「JACビジネスセンターのインドネシア情報ニュースレター」(無料版・有料版)の配信も本日号で終了とさせていただきました。長らくのご愛読をありがとうございました。

なお、ニュースレターの代わりに、インドネシアの最新情報と私のエッセイを中身とする有料メルマガの創刊を検討中です。詳細は別途、ブログ、フェイスブック、ツイッター、メール等でお知らせする予定ですので、もうしばらくお待ちいただければ幸いです。また、ご希望の方は個別にメール等でお知らせください。

以上、ご報告でした。

アフリカ雑感

今回、タンザニア、ルワンダ、ウガンダを旅してきて思ったのは、まるでインドネシアの15〜20年前のような感じ、ということだった。

どの国も長期政権で、反政府勢力を力で押さえ込んでいる。その合い間に、経済を発展させ、国民を豊かにさせる。国民が成熟するのにつれ、近い将来に、大統領を公正な民主的な選挙で選ぶことをすでに想定しているようだった。

すでに、民主的な大統領選挙を3回実施したインドネシアは、そんな彼らよりもずいぶん先を歩いているようにも見えるが、今でも、ジャカルタの憲法裁判所前の騒ぎのように、嘘や陰謀で情報を操作し、力づくで民主的な結果を変えてしまおうという勢力がまだ存在する。

自分たちの主張が聞き届けられないとなると、直接の利害関係にない外国や特定の種族を敵視して、論点をずらしてまで自分たちの存在を多々鼓舞するような、非生産的なことを今だにやっている人々がいる。万が一、こうした勢力が権力を手にするようなことがあれば、インドネシアは一気に20年前へ戻っていってしまうだろう。民主化とは、普段の努力によって維持されるものであり、いったん間違えると、簡単に逆戻りしてしまう繊細なものでもある。

それは、種族の違いを無理やり強調し、自分たちを守るために相手を攻撃し、簡単に民主化への芽を摘み取ってきたこれら東アフリカ3国を見ているとよく分かる。その意味で、インドネシアは今のゴタゴタにきっちりケリをつけ、アフリカの国々に民主主義の定着を身をもって教えられる立場を確立しなければならない。

それはそうと、アフリカの旅でもう一つ印象的だったのは、アフリカの人々は意外にきちんとしている、ということだった。真面目といってもよい。ホテルの設備などで、基本的なアメニティや設備がしっかりしている。給仕の振る舞いもそつがなく、無駄にブラブラしているようなところがない。インドネシアでは、目に見えないからといって手を抜くことが頻繁にあるが、そういう素振りをあまり見かけなかった。

インドネシアからアフリカへ出かけて、そろそろ日本=インドネシア、日本=アフリカという形ではなく、インドネシア=アフリカという関係を促していける時代が来ているのではないかという予感がした。それは、ともすると日本に見られがちな上から目線ではなく、インドネシアとアフリカとが対等な立場で新しい何かを作り始めていく、という関係を構築できるのではないかと感じた。

実際、東アフリカ経済におけるインド系、パキスタン系、アラブ系商人の活躍は目を見張った。ルワンダのキガリで見た「エキスポ」には、パキスタン・コーナーやエジプト・コーナーが広く取ってあり、盛んに商売をしていた。中古車輸入・販売を手がけているのは、多くがパキスタン系で、おそらく彼らが日本からの中古車輸出をも手がけているのだろう。我々の知らないところで、彼らはすでに東アフリカ経済にとって不可欠な存在となっている。

第1回アジア・アフリカ会議は1955年、インドネシアのバンドンで開かれた。しかしそれ以降、インドネシアはアフリカからずっと遠い存在になってしまったような気がする。

インドネシアでアフリカの話になれば、ナイジェリア人が麻薬や覚醒剤を持ち込むといった話になるし、タクシーの運転手は、体臭がきついといってアフリカ人の乗客を毛嫌いする。あまりいいイメージで語られることはない。しかし、実際にインドネシアの人々がアフリカに行って人々と交われば、こうしたイメージは変わってくるだろう。

相手を知るということから相互理解と尊敬が生まれる。そして自分自身を深く知ることも重要である。忙しい、時間がないと言いながら、物事をインスタントに考えてしまう、知識が単なるレッテル貼りになってしまう、空気が支配しているとうそぶく世の中を、もう一度当たり前の普通の世の中へ戻していきたい。

あなたが私のことを知り、
あなたが本当にあなた自身のことを知っていたならば、
あなたは私を殺すことなどなかったはずなのに。
If you knew me
and you really knew yourself,
you would not have killed me.

キガリのジェノサイド記念館の壁に貼られたこの言葉を見ながら、人が人をもっとよりよく知り合える機会づくりをしたい、人と人をもっとつなげる人になりたい、そのために、自分自身を常に開いていきたい。そう、真に思った。

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