大統領選挙結果発表が終わって

7月22日、総選挙委員会は大統領選挙開票結果を発表し、ジョコウィ=カラ組が勝利したことを確定した。

これに先立ち、対立候補ペアのプラボウォ=ハッタ組は、総選挙開票プロセスに様々な問題があるとして、大統領選挙自体の有効性に疑問を呈し、大統領選挙から引く(tarik diri)と発表した。その後、大統領選挙から辞退(mengundurkan diri)したわけではないとの弁明が出たり、「結果を問題にしているのではなくプロセスを問題にしているのだ」という発言が出たりして、プラボウォ=ハッタ組のなかで混乱が生じている。

この状況を、日本のマスコミも含めた多くの人々は、「プラボウォが負けを認めたくないのだ」「事実上の敗北を認めたのと同じことだ」と色々に捉えた。

大統領選挙の開票プロセスを問題にしたということは、プラボウォ=ハッタ組は総選挙委員会を批判・敵視したということである。実際、大統領選挙開票結果の発表に対して、プラボウォ=ハッタ組は証人を送らなかったし、陣営の誰も出席しなかった。

プラボウォ=ハッタ組は、不正があったと思しき投票所での投票のやり直しや開票のやり直しを求めている。これに対して、総選挙委員会は、不正があったという証拠をプラボウォ=ハッタ組に求めているが、これが証拠だというものがメディアには明確に現れてこない。それをもって、プラボウォ=ハッタ組には、憲法裁判所へ不服申立を行うよう求められている。当初は憲法裁判所へ不服申立しないという声も聞こえたものの、結局、プラボウォ=ハッタ組は不服申立を行なった。

これらの一連の不服行動で目につくのは、副大統領候補だったハッタの姿が見当たらないことである。プラボウォ=ハッタ組の名前で行動しているのだが、ハッタがいないのである。これにはいろいろな憶測が流れているし、ハッタ自身は、総選挙委員会での開票結果を尊重する旨の発言を行ったとされている。

プラボウォが「大統領選挙から引く」と演説した件についても、内部では誰がそれを進言したのかであたふたしている。ゴルカル党重鎮のアクバル・タンジュン元党首だという声が上がると、アクバルは「自分ではなく陣営内の法律チームだ」という始末。どうやら、「大統領選挙から引く」とプラボウォに演説させたこと自体が戦略的に間違っていたのではないかとの疑念が上がっている様子だ。

要するに、プラボウォ周辺は、総選挙委員会の開票プロセスや開票結果について反論し、自らが真の勝者であることを証明することにあまり自信がなさそうな気配がある。800万票の差を覆すには、どのような手法がありうるのか。現実的にそれは無理なのではないか。時間が経てば経つほど、プラボウォの周辺から機会主義的な政治家たちが去って行くことであろう。プラボウォを支えようという熱は急速に冷めつつある。

ブラックキャンペーンやネガティブキャンペーンも含めて、自分に有利なように事実を作り替えるという戦略、そうやって国民を洗脳できるという戦略は、ある意味、国民を愚弄し馬鹿にした戦略だったともいえる。この場に至っても、ジョコウィへの誹謗中傷攻撃は止んでいない。

シンガポールなど海外に多数のジョコウィ夫妻の隠し口座があるという怪文書が現れている。そんな話がまだ通じると思っている、それで世論を反ジョコウィへ転換できると思っている浅はかさこそが、今回のプラボウォ=ハッタ組とそれにすがった旧来エリートたちの態度を象徴している。

メディアは、嬉々としてジョコウィ「新大統領」を追いかけ回している。他方、どんな手段を使ってでも、どんなに資金をつぎ込んででも、大統領になろうと執念を燃やしたプラボウォは、「大統領選挙から引く」という発言によってかえって政治家としての未熟さを露呈させ、自滅の方向へ進んでしまった感がある。あの場で「敗北」という結果を受け入れ、自身が党首を務めるグリンドラ党を健全野党として育成するという姿勢を見せていれば、今頃、彼は素晴らしい人物だと賞賛されていたことであろう。

一部で懸念された暴動のような事態は、今回は起こらなかった。法規や手続きに従って物事を進めなければならないということが国民の間にしっかり浸透したことに加えて、騒ぎを起こしても国民の多くの支持を得ることはない、昔のようなすぐ暴動の起こるインドネシアへは戻りたくない、もう戻ることなどありえない、そんな空気が、経済発展の続くインドネシアで社会全体に共有されているのだと筆者は感じていた。

ジョコウィになったからといって、インドネシアのすべてがよりうまくいくとは限らない。旧来エリート層とのせめぎ合いは続くだろうし、経済が発展したからこその新たな困難な問題も多発するだろう。それを権力者が魔法使いのように解決してみせる時代が終わったことを国民は意識していくことだろう。

国民がデマや嘘情報で操作される時代は終わり、問題解決にあたって国民も傍観者として済ませるわけにはいかない時代に入ったのかもしれない。スハルト時代から言われてきた「浮遊する大衆」(floating mass)という、権力者の統治概念が変わり始めたともいえる。

スラバヤへ戻る

日本の各所での講演等を終えて、7月19日にスラバヤへ戻った。

今回は、新設のガルーダ・インドネシア航空の羽田夜0:30発のジャカルタ行きに乗り、ジャカルタでトランジットしてから、スラバヤへ戻った。この便は、全日空とのコードシェア便でもある。

羽田空港では、三連休をバリなどで過ごすと思しき家族連れやサーフボードを抱えた若者たちが並んでおり、インドネシア人らしき客は数人だけだった。何となく場違いな雰囲気を感じつつ、チェックイン。

すると、こちらから何もお願いしていないのに、ビジネス・クラスへアップグレードしてくれるという。ただし、席のみで、食事はエコノミー、という話。ガルーダ・マイルズのゴールドEC+会員だからなのかもしれない。

夜行便で、フラットシートになるビジネス・クラスへのアップグレードは、本当にラッキー以外の何物でもない。搭乗すると、2つに分かれたビジネス・クラスの客室には、私以外に乗客は一人しかいない。なのに、わざわざその乗客と隣どおしに座らされている。

ほどなく、スチュワーデスがやってきて、「空いているので、どこでもお好きな席へどうぞ」と言ってくる。そこで、いびきでもかいたら隣人に迷惑だろうと思い、他の席へ移動した。

夜食をお断りし、さっそく、フラットシートにして寝る。これはよい。エコノミーのディスカウントなのに、夜行便でフラットシートとは。夜行便にしてはかなりしっかり眠ることができた。

ジャカルタ到着の2時間前に朝食を用意すると言っていたが、持ってきてくれたのは1時間半前だった。乗客が少なく、寝ている私をギリギリまで起こさずに待ってくれたということか。トイレに行こうとすると、別のビジネス・クラスの席で、スチュワーデスがイスラム教の礼拝をしていた。

朝食は期待していなかった。当然、エコノミーと同じものが出るのだろうと思っていた。ところが、食事もビジネス・クラスのものだった。以前、ジャカルタの「父」を日本へ連れて行ったときに、ガルーダ・インドネシアのビジネス・クラスの食事に感嘆したのだが、それにまた出会えるとは。

朝食は、まず、ちょっと凝ったお粥。前回のタピオカ粥のほうが数段上。

次はオムレツ。添えられたポテトは今回のほうが美味しかった。

最後は、イチゴとクリームのデザート。甘い。レモングラスらしき葉っぱが真ん中に立っているのがおしゃれ、なのかな?

慌ただしく着陸準備に入り、午前6時に無事ジャカルタ到着。朝早いためか、到着時査証(Visa on Arrival)のカウンターも長期一時滞在許可証(KITAS)保持者向けのカウンターも閉まっていて、係員がいない。到着時査証が必要な乗客は戸惑っている様子。

KITAS保持者の私は、係員の指示に従って、そのままメインカウンターへ行き、難なく入国審査を終了。

羽田で預けたスーツケースは、税関申告がないのでそのままスラバヤまでスルーで行けるはずだが、ガルーダの職員が念のために確認してくれる。スーツケース無しで税関のグリーンランプを通り過ぎ、出口へ出ようとすると、左側に、トランジット用の入口が。そこを通って、外へいったん出ることなく、国内線出発カウンター・ロビーを通り抜け、エスカレーターで2階の出発階へ進む。

なかなかスムーズだった。対照的だったのが、日本へ行くときにトランジットしたバリのデンパサール空港。スラバヤから国内線で着き、国際線ターミナルへどう行けばいいのか、表示板が見当たらない。「私が案内しましょう」と何人もの若者が寄ってくる。空港は新しいが、当面は、デンパサールでのトランジットは避けたいと思った。

空港設備の悪名高きジャカルタのほうが乗換はスムーズだった。もっとも、人があまりいない朝だったということもあるのだろうが。

ラウンジで少し休み、1時間遅れのガルーダ便でスラバヤへ午前10時過ぎに到着した。

レバランにはまた、インドネシアから国外へ飛ぶ。久々の全く仕事なしの旅行。それまで1週間、スラバヤの予定だ。

大統領選挙投票日を過ぎて

7月9日のインドネシア大統領選挙投票日は、投票自体は大きな混乱もなく終わることができたが、予想通り、両陣営がともに勝利宣言をする事態となった。

これまで度重なる選挙でクイックカウントを行なってきた調査会社は、こぞってジョコウィ=カラ組の勝利と伝えたが、そのほとんどは、ジョコウィ=カラ組に与した立場を採ってきた。他方、プラボウォ=ハッタ組の勝利と伝えるクイックカウントを行なってきた調査会社は無名で、かつて南スマトラ州知事選挙の際にクイックカウントの数字を偽造した疑いのある会社や、陣営の選対関係者が関わっているとされる会社が含まれていた。

ここで危惧されるのは、これまでの選挙で培われてきたクイックカウントへの信頼が今回の大統領選挙で失われるのではないかということである。誹謗・中傷を含めた情報戦のなかで、クイックカウントまでもがその一端になってしまう可能性が明確に現れたからである。

その意味で、国営のインドネシア共和国ラジオ(RRI)が今回、クイックカウントを行なったことは注目される。RRIのクイックカウントは中立とみなされたからである。このRRIのクイックカウントの結果はジョコウィ=カラ組の勝利を伝え、これまで何度もクイックカウントを行なってきた有名調査会社のそれと変わらなかったことで、それら有名調査会社のプロフェッショナル度が逆に確認されることになった。

プラボウォ=ハッタ組が「クイックカウントはヤラセだ」と主張しても、RRIの存在により、辛うじて中立性が保たれた形になっている。

筆者の長いインドネシア・ウォッチ経験から言うと、これまで、「ヤラセだ」と相手を非難する側こそがヤラセを行なっているケースが極めて多かった。それは、自らが責められる前に相手を責めるための方便である。自らに有利なように情報操作をしているのだが、相手からそう指摘される前に、「相手が自分に有利なように情報操作している」と先制して非難をするのである。

今回も、どうやらそのような展開だったと推察できる。プラボウォ=ハッタ組の勝利を伝えたクイックカウントのデータの信ぴょう性が次々に暴かれている。彼らの勝利を最後まで伝えてきた民間テレビTV Oneは、信ぴょう性への疑問が高まったためか、株価が下落し、途中でプラボウォ=ハッタ組優勢のクイックカウントを流すのをやめてしまったらしい。

本当にそうなのか、圧力をかけるためにジョコウィ支持者が同株を売りまくったのか、真相はわからないが、実際、選挙運動期間中のTV Oneのプラボウォ=ハッタ組への偏向、ジョコウィへの攻撃ぶりには目に余るものがあった。ずっと見続けていると、容易に洗脳されてしまうような錯覚に陥った。もちろん、ジョコウィ=カラ組を支持する内容を流し続けたMetro TVも偏向していたが、相手への攻撃という観点からすると、TV Oneのほうが遥かにすごかった。

しかし、それを客観的に計測できない以上、メディアはTV OneとMetro TVを両成敗せざるを得なかったのである。

プラボウォ=ハッタ組は、クイックカウント攻勢での劣勢のなか、福祉正義党(PKS)の末端組織を使って情報を集め、「リアルカウント」の結果を発表し始めた。そして、そのリアルカウントでは、プラボウォ=ハッタ組の勝利を示し続けている。ところが、この数字が投票日よりも前に出された予測値に似通っているとの指摘も出ている。

ジョコウィ=カラ組も「リアルカウント」の結果を集計し始めた。当然、こちらではジョコウィ=カラ組の勝利という結果を出している。

情報操作合戦は、クイックカウントから「リアルカウント」へと移っている。

投票所レベルでの集計表は、総選挙委員会(KPU)のホームページにスキャンされたファイルで表示されていて、誰でも見られるようになっていた。ところが、そのなかに、両陣営の片方しか証人のサインのないものや、集計数字の合わないものなどが発見された。KPUは単なる技術ミスとしているが、不正の可能性がすでに指摘されている。理由は定かではないが、7月12日夜時点で、その投票所レベルでの集計表データがウェブ上で見られなくなった。

KPUは7月22日に最終得票結果を発表するが、7月10〜12日に村落レベル、13〜15日に郡レベル、16〜17日に県・市レベル、18〜20日に州レベルで集計作業が行われる。全国レベルの集計は20〜22日に行われる。

このそれぞれの過程で結果が出る前に、何らかの票操作が行われる可能性がある。なぜならば、今回の選挙で、少なからぬ行政の長がプラボウォ=ハッタ組への支持を明確にしており、その影響を確実に排除できるかどうかに疑問符が生じるからである。彼らもまた、ジョコウィが大統領になった場合に既得権益が維持できるかどうか、不安を抱く側にいる。他方、ジョコウィ=カラ組も何らかの票操作を行う可能性が絶対ないとは言い切れない。これらを監視するためにも、両陣営による「リアルカウント」の情報収集と票操作への監視が不可欠になるのだろう。

たとえば、マレーシアでは、投票所投票(9008票)でジョコウィ=カラ組が53.46%の得票で勝ったが、郵送投票では、プラボウォ=ハッタ組が3万9671票でジョコウィ=カラ組の3709票を圧倒した。その結果、合計では、プラボウォが4万3770票(得票率83%)で圧勝した。これをどう読むのか。投票所投票と郵送投票でこれほど極端に差がつくものなのか。

様々な状況で不利なはずのプラボウォ=ハッタ組の自信が気になる。すでに、「勝利」のための何らかのシナリオを用意しているのだろうか。ジョコウィ=カラ組も同様にシナリオを用意していることだろう。表面的な動きはあまり目立たないが、7月22日までに全国の隅々で起こる開票結果の正当性の確認作業が重要になる。

大統領選挙投票日前夜

7月5日から日本へ帰っている。私の知り合いのほとんどの日本人インドネシア政治研究者は今、ジャカルタに集結しているようだ。いつも自分は他人と違う行動を採るのが性分のようだ。

これまでずっと大統領選挙をめぐる動向を追いながら、情報というものについていろいろと考えていた。捏造・偽造情報を流したり、重箱の隅をつつくように小さなゴシップを大きな過ちとして大きく騒ぐようなことは、これまでの選挙ではあまり露骨に現れなかった。そして、それらを専門にやり続けながら、報酬をもらっている奴がいることを想像した。

インドネシア人は他人の間違いを詮索したり、揚げ足を取ったり、フォトショップを使って写真を偽造したり、根も葉もない噂をわざと流して他人を貶めたりすることに、こんなにも労力とエネルギーを使うことを厭わないのか、と悲しくなった。これだけの労力とエネルギーと「想像力」をもっとプラスに使えば、インドネシアはもっと活力のある良い国になっていくはずだと思い続け、インドネシアの友人たちへ向けてその気持ちをインドネシア語でツイートしてきた。

今回の大統領選挙はそういう選挙だった。情報合戦や心理戦争にどちらの陣営が屈するかの勝負だった。派手にやったのはプラボウォ陣営である。陣営が直接指揮した形をあえて採ってはいないが、ジャワ島のプサントレン(イスラム寄宿学校)へジョコウィを誹謗中傷したタブロイドをくまなく流すには、プサントレンの住所リストを持った宗教省、大量のそれを送付したバンドン中央郵便局などの、少なくとも間接的な協力がなければ不可能である。

プラボウォの個人レターが学校経由で教師へ送られた件も、教育文化省などによる学校の住所リストがなければ不可能である。

ジョコウィへの誹謗中傷は、目を覆いたくなるほどであった。実は華人だ、キリスト教徒だ、父親はシンガポールの金持ちだ、インドネシア共産党員の子供だ、といった話が次々に出され、死亡広告まで流された。温厚で感情を表に出さないジャワ人のジョコウィも相当に頭にきていた様子で、法的措置を関係機関へ求めたが、警察などの動きは予想以上に慎重だった。

他方、プラボウォへの批判は、彼の過去の人権侵害疑惑に集中した。とくに、1998年の活動家拉致事件やジャカルタ暴動への関与の疑いが題材となった。こちらは、本当の真実かどうかは別にして、軍のなかでプラボウォに対する措置が採られ、軍籍から離脱させられたという事実がある。プラボウォ側はその事実が嘘であって真実ではないと主張するが、彼がそのように軍から扱われたというのは、真実かどうかは別として、事実である。プラボウォ側はこれを誹謗・中傷とし、ジョコウィへの誹謗・中傷と同じレベルの話として、メディアなどで取り扱われるように仕向けた。

しかし、これは作り話と事実(真実かどうかは定かではない)との違いであって、誹謗・中傷の同列で扱えるものではない。だが、「中立」を装おうとするメディアは、それを並列で扱った。事実をねじ曲げて嘘話を捏造して流布させたプラボウォ側のほうがはるかに悪質と言わざるをえない。

5回のテレビ討論をすべて見た。内容的には中身の乏しい議論に終始したが、何か一つでも新しいことを言おうとするジョコウィ側と、テレビを通じて自分の強い指導者イメージを植え付けようとするプラボウォ側とがかなり対照的だった。そして、テレビ討論を見ている限りでは、プラボウォ側に考察の浅さと中身のなさが浮き彫りになり、果ては、ジョコウィ側の主張に同意を繰り返すことも度々だった。個々の議論は甲乙あるが、5回全体で見ると、ジョコウィ側の勝ちであった。

それでも、メディアはプラボウォの支持率が急速に上昇し、ジョコウィと僅差になったと報じる。筆者はそれが正直理解できなかった。プラボウォが選挙戦を通じて、なにか新しい画期的な主張をした記憶はない。「国富の漏れ」の話を繰り返すだけで、それを塞いでどのように効率的な政府を作るのか、政治マフィア間で山分けされないような仕組みをどう作るのか、彼は一言も話していなかった。それなのに、急速に支持率を上げているという。その理由は、ブラック・キャンペーンやネガティブ・キャンペーンを通じ、誹謗・中傷を広めることで、ジョコウィの支持率を落とす以外に理由は考えられなかった。加えて、一部ではかなり露骨にプラボウォ支持への強制や脅迫が行われているという話も伝わった。

もしこれでプラボウォが当選したら、プラボウォは嬉しいのだろうかと思った。相手を貶め、嘘八百の情報を流し、誹謗・中傷を繰り返した末に当選して、誇りを持てるのだろうか、と。プラボウォの周りには、「どんな手段を使ってでも勝てばいい」と公言する政治家も多数いる。彼らにとっては、自分の利益を守り、注ぎ込んだ資金の回収のためには、どうしても何が何でもプラボウォに勝ってもらわなければならないのである。そこには、モラルとか宗教上の教えなど、関係なくなっているのである。インドネシア人の友人は「この病気は相当に重い」と評した。

数日前から、一足早く海外で大統領選挙の投票が行われたが、その結果が伝わるなかで、風向きが大きく変わりだした。投票所の出口調査で、ほとんどの国でジョコウィが予想以上に票を取ったのである。その結果がメディアに乗り出すと、今度は、ほとんどの国でプラボウォが勝ったという出口調査結果が出回り始めた。ところが、面白いことに、プラボウォが勝ったという結果はいつの間にか消えてしまった。ジョコウィが勝ったという情報のほうがどうも正しかった様子である。

そうか、この手法でプラボウォの支持率上昇を演出しようとしたのかもしれない。若者たちが次々に面白い支持ビデオを連発するジョコウィ側に比べて、相変わらず、プラボウォのような強い指導者が必要、という以上の主張ができていない。ジョコウィ側のような自発的な勝手連の動きはほとんどなく、政党や組織が上から抑える旧来のやり方に終始している。ジョコウィの真似をしてプラボウォ側の選対も市場などへ出かけるが、相変わらずそこでカネを配るなど、住民目線ということがまるで分かっていない。

住民をコントロール可能と思ったか、住民が自発的に動くことを求めたか。プラボウォ側とジョコウィ側の違いを一言で言えば、そうなる。誹謗・中傷を信じてジョコウィに投票しないように仕向ける、ゆるければ政党や組織を使ってでも強制する、それがプラボウォ側のやり方だった。他方、ジョコウィ側は、政党や組織で動くところもあったが、それに加えて自発的な勝手連が勝手に支持活動を行うに任せた。

住民が受動から能動へ変わる、そんな動きが見え始めたジョコウィ側の選挙戦だった。そんな彼らの動きを、まだまだカネで動くインドネシアのメディアは残念ながら追い切れていない。

プラボウォが勝ってもジョコウィが勝っても、その先のインドネシアには課題が山積している。しかし、それをどう解決していくか、住民がどう関わっていくのか。そのアプローチに関しては両者に大きな違いがある。

大統領選挙投票日前夜。既得権益を守りたいエリートとそうではない非エリートの戦いは、メディアが伝えるよりも意外に大きな差がつきそうな予感がする。

さて、それが当たるのかどうか。

お詫びと今後の日程

ここのところ、体調がすぐれなかったのと、原稿やプレゼン資料作成に集中していたため、ブログの更新ができずにいた。先週も今週もジャカルタへ出張し、1日ほとんどフルで埋まってしまい、疲労困憊状態だった。

ブログを書けずにいたことをお詫び申し上げたい。

今日(7月3日)はジャカルタである。今、ジャカルタは朝7時で、8時半からアポがあるため、今後の予定のみを以下に期しておきたい。

7月3日 夜、ガルーダ最終便でジャカルタからスラバヤへ戻り
7月4日 スラバヤ→デンパサール→
7月5日 →東京
7月10日 日経BPインドネシアビジネス基礎講座で講義
7月17日 名古屋で講演
7月18日 日刊工業新聞インドネシアセミナーで講演
7月19日 東京→ジャカルタ→スラバヤ

日本には、7月5〜18日に帰国する。上記以外の日程もかなり埋まりつつあり、講演以外は自宅でゆっくり、というわけにはいかなくなってしまった。これも性分なのかと、ちょっと自分を責めたりもする。

7月9日は、インドネシア大統領選挙投票日。激しい一騎打ちの選挙戦という現状からすると、投票終了後に、2組の候補ペアのいずれをも当選とするクイックカウントが出る可能性がある。

情報心理戦争状態となっていることを踏まえて、それをどう判断するか。翌10日には、それをプレゼンしなければならない。帰国してゆっくり日本の味を、温泉を、景色を楽しめるのは、もう少し後の別の機会になってしまいそうである。

MIWFと『ディポヌゴロ物語』

昨年に引き続き、6月5〜8日、マカッサルでマカッサル国際ライターズ・フェスティバル2014(Makassar International Writers Festival [MIWF] 2014)に顔を出してきた。

このイベントは、私も関わっているRuma’ta Art Spaceが毎年開催しているもので、今回で4回めになる。国内外および地元マカッサルの小説家、詩人、文学者などが集まり、様々なワークショップを実施している。

今回は、東インドネシアの若手ライター6人が発表するセッションのスポンサー役を個人で引き受けた。彼らはなかなか個性的で、しっかりした考えの持ち主だった。

彼らのワークショップでは、彼らの地元に対するアイデンティティについて質問したが、ローカルであることをことさらに意識して自分の作品に盛り込もうとすることもなく、自分の身の回りの日常を淡々と語る姿がなかなか頼もしかった。

今回のMIWF2014の目玉の一つは、ジャワ戦争で宗主国オランダに対して反乱側の指導者となったディポヌゴロ王子(スルタン・ハメンクブウォノ3世の長男)の物語であった。

6月5日夜、ディポヌゴロ研究の第一人者であるオックスフォード大学のピーター・カレー教授(Dr. Peter B. R. Carey。現在、インドネシア大学文学部非常勤教授)の主宰で、ジョグジャカルタのランドゥン・シマトゥパン(Landung Simatupang)氏のグループが『ディポヌゴロ物語』(Babad Diponegoro)を、語りと音楽を交えたパフォーマンスとして演じた。なかなか見応えのある内容だった。

ディポヌゴロ王子は反乱の後、オランダに捕らえられ、マナドへ流された後、マカッサルに連れて来られ、マカッサルで亡くなった。まさに、今回のMIWF2014会場であるロッテルダム要塞で亡くなったのである。今回は、その話が題材となっていた。

ロッテルダム要塞には、ディポヌゴロ王子が囚われていたとされる牢屋がある。そこで亡くなったものと思っていたが、今回、ピーター教授の話で、亡くなったのは、要塞の左手奥の2階建ての建物の2階だったことが分かった。そこは今、要塞内の図書室として開放されており、学生や識者がよく利用している場所である。

ディポヌゴロ王子は、オランダによって家族とともにここに幽閉されていた。朝の散歩は認められていたが、要塞の外に出ることも、外部の者と接触することも、厳しく制限された。そしてここで『ディポヌゴロ物語』を執筆し、最期を迎えたのである。

パフォーマンスの最後は、ディポヌゴロ王子の最期を象徴する圧巻の舞が演じられた。そしてパフォーマンスは終了したのだが・・・。舞を演じていた男性の演技が止まらない。何かに憑かれたように、彼は演じ続ける。そう、彼はトランス状態になってしまったのである。あたかも、この場所で亡くなったディポヌゴロ王子の霊が乗り移ったかのように。

知人によると、このパフォーマンスではこういうことがよく起こるそうである。

翌日夕方、ピーター教授とランドゥン氏らは、ディポヌゴロ王子が亡くなった要塞内の図書室で儀礼を行うことになった。ディポヌゴロ王子の霊を慰め、鎮めるためであった。

儀式は30分程度で終わったが、ここでディポヌゴロ王子が最期を迎えたのかと思うと、何とも言えぬ気持ちになった。

ディポヌゴロ王子は、言わば、ジャワ世界とマカッサルとをつなぐ一つのシンボルである。オランダ植民地支配は、様々な種族を分断し、統一させないように統治したが、ディポヌゴロ王子がマカッサルへ流されてきたことで、逆に、ジャワとマカッサルが反オランダということで意識的につながる、そんな要素を間接的に創りだした、と言えなくもないような気がする。

今、ジャワ島のスラバヤに住み、マカッサルで『ディポヌゴロ物語』に出会ったことで、これまでとは違う新たなインドネシア像が自分の中に現れたような気がしている。

スラバヤの街角で、赤い帽子のおじいさんが

スラバヤの街角で、赤い帽子のおじいさんが、制服を着た屈強な男たち6〜7人に取り囲まれ、説教をされ、連れられてトラックに載せられ、どこかへ連れて行かれた。

ただ、それだけのことである。

様子を見ていたら、屈強な男の一人が説明してくれた。「見たらわかるだろ。オラン・ギラ(orang gila)だよ。放置しておいたら何するか分からない。危ないだろ」と。見たところ、おじいさんは酔っている様子も、また誰かに暴力をふるうような様子もない。

屈強な男は続けていった。「都市の景観を悪くするし・・・」と。ええっ、景観を悪くするという理由で、ちょっと「えへへ~」という感じでただ笑って座っているだけのおじいさんを街角から排除するのか・・・。

スラバヤは都市の景観を大事にする街として知られ、大通りには木々や花々が植えられて緑あふれている。清掃係が1日に何回も大通りを掃除している。見た目にはゴミの落ちていない、きれいな町である。

その一端は、異質なものを排除することで成り立っていたのである。スラバヤで見てはいけないものを見てしまったのだろうか。

多様性の中の統一を謳うこの国で起きている様々な少数派排除の動きのことを思った。多様性を強調する世界と「普通」から外れたものを排除する世界は、実は紙一重なのだ。いや、もっと言えば、表裏一体なのかもしれない。

いや、社会ではなく、我々自身にその両面性があるとはいえないだろうか。多様性の尊重をいう場合でもその許容できる範囲があり、その範囲を外れた異質なものを排除するのだ。スラバヤやインドネシア、もしかしたら日本も、許容できる範囲の大きさの差こそあれ、同じなのではないかと思った。

赤い帽子のおじいさんは、きっと、社会施設に連れて行かれ、家族がいるかどうか尋ねられ、いない場合はしばらくそこで引き取ってもらえているのだろう。そう信じたい。

マドゥラ(4):サンパンのバティック

サンパンの街なかで1泊した後、スメネップへ向かう前に、バティックの工房を訪問した。サンパン県観光局長の奥さんの工房で、ファウジル君が日頃からお世話になっている方である。

マドゥラのバティックには、バンカラン、サンパン、パムカサン、スメネップの4県ごとに異なる特徴のバティックがある。一般的に有名なのはバンカランのバティックで、これには細かい線が入る。ジャカルタなどでバティック・マドゥラとして売られているのは、多くがバンカランのバティックだそうである。

奥さんの説明によると、上の写真は、サンパンのバティックである。ここのバティックはほとんどが手書き、または手書き+ハンコ(インドネシア語で「チャップ」と呼ぶ)であり、プリント・バティックは扱っていない。

バティック・サンパンの新しいデザイン。花をあしらっている。

これは、パムカサンのバティック。なかなか斬新な色使いとデザインである。

最後に見せてくれたのは、昔のバティックで仕立てた服である。これは奥さんが自分で着るもので、大事にしているそうである。

ジャカルタなどの普通の店では、手描きのいいバティックを手に入れるのが難しくなっている。人件費の高騰で、完成まで2〜3ヵ月を要する手描きバティックの値段は以前に比べるとかなり高くなった。おそらく、根気よく手描きをする職人も年々少なくなっているのだろう。

バティックがユネスコ文化遺産に指定されて、国内では各地でバティック・ブームが起こったが、マーケットが求める安いプリント・バティックが幅を利かせるようになったのは皮肉である。ちなみに、インドネシア政府はロウケツ染めではないプリント・バティックをバティックとは認知していない。

この工房で、30年前ぐらいに作られた手描きバティックに出会い、素敵だったので購入してしまった。その値段が他のバティックとほとんど変わらないのが不思議だった。安く買えてしまったのである。インドネシアの古いバティックを求めて歩きまわる業者もいる。古くて価値のあるものは、それなりの価格をつけて売るほうがよいのではないか、と、安く買ってしまった後で、奥さんに話した。ちょっと罪悪感。

マドゥラ(3):サンパンの英雄王様カフェ

5月30日夕方、ファウジル君の自宅を出て、サンパンの町へ。町中で車を降り、坂道を登っていくと、Gua Lebarと呼ばれる、洞窟のある窪地をぐるりと囲む場所へ出た。ここからサンパンの町が一望できる。

Gua Lebarに着いて間もなく、夕暮れとなった。赤く染まってゆく西の空を眺めていると、夕暮時の礼拝を呼びかけるモスクのアザーンが聞こえてくる。いくつかのモスクを背景にしたサンパンの町のシルエットが美しく映えている。

一緒に来たファウジル君もリオ君も、サンパン出身でありながら、ここで夕暮れを見るのは初めてだという。それはそうだ。彼らはいつも、その頃にモスクで夕暮れの礼拝に務めているのだから。

Gua Lebarからちょっと歩くと、木造の小屋が見えてきた。そこにカフェを建設中であった。場所としてはなかなかいい場所だ。カフェを運営するグループの代表であるマフルス氏と出会えたのも、今回のマドゥラでの収穫の一つだった。

英雄王様カフェ(Kafe Raja Pahlawan)。日本語にするとちょっと陳腐な名前のカフェだが、周りに様々な果物の木を植えて、自然と調和したナチュラルなカフェを目指すという。

「売りは何か」と聞くと、「ココナッツジュースにしたい。Gua Lebarを訪れる人々が常に求めているから」という答え。でもココナッツは、遠く離れたスメネップから運んでくるという。まあ、それでもいいのだが、「周りに植えた木になる果物を活かすのもいいのではないか」と提案したら、考えてみるそうである。

マフルス氏の生い立ちが興味深い。彼は小学校を卒業していない。両親が離婚し、自分自身も荒れるなかで、イスラム寄宿学校へ入れられた。そこでは相当のワルだったようだが、何とか卒業し、大工仕事などを見よう見まねで覚えて、身につけてきた。ヒトに指図されるのが嫌いな性格だと言っていた。

話を聞きながら、ファウジル君やリオ君は、自分の師匠であり、インドネシア全国の村々でミニ水力発電を普及させる活動をしているトゥリ・ムンプニさんの素晴らしさや彼女から色々学ぶことを一生懸命勧めた。

すると、マフルス氏は突然、「実はここの仲間にも話していなかったことなのだが・・・」と言って、かつて、マドゥラ島のある電気のない村で、住民と一緒になってミニ水力発電を作ったことがあると話し始めた。

ファウジル君とリオ君に私は言った。トゥリ・ムンプニさんの活動は素晴らしい。しかし、インドネシアには、彼女以外にも、各地で名も知れず地道に住民のために何かをしている人々、何人もの「トゥリ・ムンプニ」さんがいるはずだ。マフルス氏もそんな一人。そうした人々を探し出し、彼や彼女の活動を尊び、同じような活動を行っている人どうしを横へつなげて、活動を広めていくことが大切ではないか、と。

彼の生き方そのものが、同じように学校教育のレールから外れてしまったり、報われない境遇のなかで育った若者たちに、彼らの人生への何らかのヒントを与えてくれるのではないか。このカフェをそんな若者たちのための場として活用することも考えたらいいのではないか。そんなこともマフルス氏に話してみた。

また必ず、このカフェを訪れることをマフルス氏に約束した。

マドゥラ(2):ラブハン村の朝

5月30日は、まず朝起きて、ラブハン村の朝市を覗きに行った。朝市と言っても、村の海岸沿いの道路沿いに商人たちが店を広げている、という至ってシンプルなものである。

全長わずか200メートル程度。有力キアイの息子であるファウジル君は、子供の頃から商人たちみんなが知っている。歩いているとあちこちから彼に声がかかる。

柿が売られていた。食べてみると甘い。でも、甘柿ではない様子。実のまわりが白いのが気になる。

料理の素がこんな形で売られている。街なかのスーパーで売られているものの中身だけ、簡易パッケージで売っているような感じだ。

この材料にヤシ砂糖を入れて混ぜると下のようになる。それぞれの素材の食感が異なって、なかなか美味しい。お菓子の名前を聞くのを忘れたが、マドゥラでは昔から普通に食べられているお菓子ということだった。

このお菓子を売っていたおばさん。

次は、この村で30年以上クルプック(魚せんべい)を売っているおじさん。クルプックは、スラバヤの南のシドアルジョから仕入れている。「日本語でなんというのか?」と聞かれたので教えたら、「センベーイ、センベーイ」と言って売り歩き始めた。

朝市を見て回った後、今度は、マドゥラサに呼ばれた。マドゥラサは、イスラム教をメインとする宗教学校で、小学校相当から高校相当まであり、インドネシアでは、教育文化省ではなく、宗教省が管轄する。マドゥラサでは、中学校相当の生徒を相手に、日本の話をしてくれと頼まれた。

生徒たちにまず、「マドゥラの誇るものはなにか」と尋ねた。きれいな海岸、スラマドゥ橋、美味しい料理、闘牛(カラパン・サピ)などが出てきた。でも、男子生徒は「経験を積むため」マドゥラの外へ出稼ぎに行きたいと言い、女子生徒は「卒業したら結婚して家庭に入る」というのが大半だった。

先生方とも記念写真。

イスラム教に基づいた宗教学校ではあるが、生徒たちはごく普通の子どもたちだった。このマドゥラサは、ファウジル君の叔父さんが校長を務め、ファウジル君の父親らキアイたちが所有・運営している。

見た目はのどかなラブハン村だが、開発の波が押し寄せてくる気配がある。この村を含む広範な場所に、コンテナ港や大規模な工業団地を作るという話が出ており、すでに、多くのキアイたちが用地提供になびいている。ファウジル君の父親曰く、外部からNGOと称するマフィアどもがやってきて、開発に反対する運動を始めているということである。キアイたちには、真に村人のことを思って開発反対を唱えているというよりも、用地価格のつり上げを狙った動きと捉えられているようだった。

キアイたちがまだしっかりと「統治」しているラブハン村。これからどう変わっていくのだろうか。ここではまだ、開発は「外からやってくるもの」と捉えられている。

マドゥラ(1):橋をわたると別世界

5月29〜31日は、マドゥラ島へ行ってきた。マドゥラ島はスラバヤの目と鼻の先にある、東西に長く横たわる島である。

2009年、スラバヤとマドゥラ島の間に橋「スラマドゥ」(スラバヤの「スラ」とマドゥラの「マドゥ」の合成語)がかかり、スラバヤから車で容易に行けるようになった。逆に言えば、マドゥラ島から人々が容易にスラバヤへ来れるようになったことも意味する。

今回は、社会起業家である友人のトゥリ・ムンプニさんからの勧めで、彼女が目をかけている若者たちの一人がマドゥラ島で地域おこしのような活動を始めたので是非見に行ってほしい、と言われたのがきっかけである。

トゥリ・ムンプニさんは、山間部などの僻地に住民参加型でミニ水力発電をつくり、そこで起こした余剰電力を国営電力会社(PLN)へ売電するというビジネス・モデルをインドネシア全土へ広げる活動を進めている。インドネシアだけでなく、世界的にも注目される社会起業家なのだが、会えばフツーの素朴な女性、しかし世の中の不正や政治の腐敗に対しては常に厳しい見解をいつも投げてくる。本当に、議論していて色々なヒントを得ることができる得難い友人である。

5月29日の夕方、スラバヤ東部のギャラクシーモールで待ち合わせて、彼女の「教え子」のリオ君とその友人たちと一緒にマドゥラ島へ渡った。目指すのは、トゥリ・ムンプニさんの別の「教え子」であるファウジル君の実家。ファウジル君とは、以前、東ジャワ州主催のセミナーで講演した際に、出席者の一人だった彼と知り合い、そのときに、トゥリ・ムンプニさんから彼が私に会うように言われていたことを知った。リオ君もファウジル君もスラバヤの国立大学生である。

ファウジル君の実家は、海に面したサンパン県スレセ郡ラブハン村にあった。彼の父親は地元で尊敬を集めるキアイ(イスラム教の指導者)の一人で、ファウジル君はその跡取り息子として村人から一目置かれていた。セミナーであったときには、ちょっと軽い普通の若者にしか見えなかったのだが、田舎に帰ると、かなりの存在感を示していた。すれ違う人が皆、ファウジル君にうやうやしく挨拶するのである。

てっきり、ちょっと彼の実家に寄ってからサンパンの町へ行って泊まるのかと思ったら、今晩は彼の家に泊まるのだという。そして、ちょうど、ムハマッド昇天祭(イスロー)で村人のほぼ全員がモスクに集まるイベントが夜あるので、それに出ることになった。

まずは、ファウジル君の実家で鶏肉のサテ(Sate Ayam)の簡単な夕食。

その後、イスローの会場となるモスクへ向かった。そこでまた食事。床に座って食べていると、次から次へと、白装束をまとったキアイたちがやってくる。そして、「インドネシア語は話せるのか?」「どこに住んでいるんだ?」「家族は一緒なのか?」などなど、初めて訪問した場所での毎度おなじみの質問が続く。

ひとしきり食事と話をした後、いよいよモスクへ。ファウジル君の父親(キアイ)はこのモスクを運営する幹部の一人なのだが、彼の先導で進む。モスクの中へ入る前に靴を脱ぎ、そのまま、モスクの一番奥の幹部席まで連れて行かれた。そして、異教徒なのにいいのか、と聞くと、「いいんだ、いいんだ」と、幹部席に座っていることを求められた。これは客として最高の待遇のようだ。

しばらくして、外は、雷と風を伴った豪雨となった。モスクの周りに集まった村人ら約3000人の一部がモスクの中へ移ってきた。モスクの外で説教していたキアイも中へ移り、マイクの調子をチェックした後、再び説教を始めた。

1時間ぐらい説教が続いた後、今度は、別のキアイが説教を始めた。最初のキアイよりは説教が下手だったが、彼もまた、1時間以上、ときには歌も交えながら、延々と説教を続けた。

イスローの集会が行われたモスク
(翌日の5月30日朝に撮影)

このキアイ、モスクに入る前に、一緒に食事をしていたのだが、そのとき、ふと見ると、彼は白装束をたくし上げ、サロン(腰布)を直していたのだが、まるでボクシングのチャンピオンベルトと見紛うような大きなベルトでサロンを止めているのをたまたま見てしまった。サロンはクルクルっと腰の位置で巻くものだと思っていたが、ベルトで止めるというのもありなのだと思った。その写真を撮らなかったことをちょっと後悔している。

彼らキアイの説教は、時々インドネシア語も交じるが、もちろん、ほとんどはマドゥラ語である。筆者はマドゥラ語が全くわからない。しかし、キアイたちと一緒に幹部席に座らされているため、スマホや携帯などをいじることなく、一生懸命に説教を聞いている態度を見せるのが礼儀だと思い、そう努めたが、さすがに限界だった。説教が早く終わることを願っていた。

イスローのイベントはようやく午後11時過ぎに終わった。雨も止んでいたが、人々が去った後には、大量のゴミが残されていた。自分の靴を探した。私以外は皆、サンダルなので、見つけるのは容易だった。が、靴は残飯を含むゴミまみれになって、打ち捨てられたようになっていた。もちろん、雨でビショビショ。ゴミをはらい、中に水の溜まった靴を履いて、ファウジル君の実家へ戻った。

それにしても、モスクのなかで白装束の集団と数時間一緒に過ごすという経験は、なかなか得がたいものだった。キアイは、予想以上に、地元の人々から尊敬を集め、キアイの息子であるファウジル君への人々の振る舞いも、普通の人へのそれよりも敬意を持った接し方だった。

ファウジル君の父親はキアイだが、1970年代から1999年までずっと開発統一党(PPP)の県支部長を務めていた元政治家でもあった。村人たちを動員して、サンパン県で焼き討ちをするなど騒乱を起こしたこともあるという。筆者自身はちょっと怖くなり、先般のサンパン県でのシーア派住民への迫害に加担したのかどうか、聞くことができなかった。

「キアイになるためにはどうしたらいいのか。何か資格認定のようなものがあるのか」と彼に尋ねると、「そんなものはない。皆がキアイ、キアイ、と言っているとキアイになるんだ」という答えだった。そんなものなんだろう。でも、長年にわたって村で信望を集め、その存在自体がキアイとして崇められるレベルと自然に認知されるのだろう。

もちろん、キアイの指示通りに、村人は動くのだ。だから、選挙では皆、キアイを自陣営支持のためにどうおさえるかが重要になる。今回の大統領選挙では、プラボウォ=ハッタ組とジョコウィ=カラ組のどちらを支持するか、キアイどうしでまだ決めていないが、いずれ決めることになるだろう、ということであった。

このラブハン村は、スラバヤからわずか1時間半だが、キアイたちが支配し、それに村人たちが従う、スラバヤとは別世界を形成していた。これもまた、インドネシアなのである。

してみると、スラバヤで大学へ通うファウジル君は、この大きく異なる二つの世界を行き来しながら生きている、ということになる。なんとなく、素朴に不思議な感じがした。

中ジャワ州・サユン総合エコ工業団地

5月28日、中ジャワ州デマック(Demak)県にあるサユン総合エコ工業団地(Sayung Integrated Eco-Industrial Park)の建設予定地を視察した。

この工業団地は、中ジャワ州の州都スマラン市のすぐ東隣のデマック県西部サユン地区に建設中である。渋滞がなければ、スマラン市中心部や空港から車で30分、タンジュン・エマス港から車で25分の距離である。スマランとスラバヤを結ぶ国道沿いに建設中で、道路へのアクセスはとても良い。

工業団地が全部完成するのはまだ先で、確保した用地面積は1600ヘクタールに上る。そのうちの300ヘクタールを第1期工事として建設中なのである。下の写真のようなサイトプランが計画されている。

現在の予定では、2014年後半までに用地を整備し、2014年末には入居者が工場建設を開始、同時にガスや電力や用水を供給するインフラ整備を進める。工業団地内の燃料は基本的に天然ガスを使い、それは中ジャワ州東部のチェプ・ガス田からパイプラインで供給されるそうである。

正式オープンは2014年6月を予定し、訪問した時点ではまだだったが、すでに地場企業が1社が用地を購入済みで、マレーシアからの外資系企業1社を含む3社が用地購入を検討中とのことである。

サユン総合エコ工業団地を管理・経営するのは、スマランに本拠を置く地場民間のムガン・グループ(Mugan Group)という企業グループで、同企業グループ内の企業PT. Jawa Tengah Lahan Andalan(通称:Jateng Land)が、スマラン市西部で工業団地を管理・運営する国営ウィジャヤクスマ工業団地(Kawasan Industri Wijayakusuma: KIW)と合弁を組んでいる。

ムガン・グループは、携帯電話のEverCossやタブレットAdvanなど、地場ブランド製品の製造・販売がメインである。これまでは、全面的に中国から部品を輸入して組み立ててきたが、7月以降は、部品調達もインドネシア国内から行う予定とのことである。

今回、たまたまエドワード社長に面会できた。社長は、「ジャカルタ中心ではなく、地方から地場ブランドの製造業を興していきたい」と熱く語り、サユン総合エコ工業団地を「インドネシアにおける本当の意味でのエコな工業団地にしたい」と述べた。

Jateng Landの担当者によると、今ならば、用地価格を特別価格として1平方メートル当たり100万ルピア(約1万円)前後で提供できるとのことである。

より詳しい情報については、下記の連絡先、または私(matsui@matsui-glocal.com)までご連絡いただきたい。

PT. Jawa Tengah Lahan Andalan (Jateng Land)
Menara Suara Merdeka, 8th Floor
Jl. Pandanaran No. 30, Semarang
Phone/Fax: +62-24-76928822
Email: jatengland@gmail.com
Contact Person: Mr. Setyo Adi

《お知らせ》大統領選挙に関する講演会(6月11日、ジャカルタ)

<インドネシア・ウォッチ講演会のお知らせ>
下記の通り、半年に一度、私が講師となり、インドネシアの政治経済状況を概観・分析する「インドネシア・ウォッチ講演会」を開催します。
皆様のご参加をお待ちしております。
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 大統領選挙と新政権の展望
 ~インドネシアの何が変わり、何が変わらないのか~
 講師 :松井和久(JACシニアアソシエイト)
 日時  : 2014年6月11日(水)16:30 – 18:30(受付開始 16:00)
 場所  : ホテル・サリパンパシフィック(ジャカルタ)
      Hotel Sari Pan Pacific, Jl. M.H. Thamrin No.6, Jakarta
 参加費: 600,000 ルピア + VAT 10 %
 お申し込み方法: 下記をご記入の上、メールにてお申し込みください。
 1)会社名 2)氏名および役職 3)メールアドレス 4)電話番号(できれば携帯番号)
 申込先: JACビジネスセンター(担当:田巻) tamaki@jac-bc.co.id
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インドネシアの大統領選挙は、プラボウォ=ハッタ組が「1」、ジョコウィ=カラ組が「2」と、候補者ペア番号も決まり、いよいよ6月3日から選挙運動が始まります。
巷のメディアによる「世論調査」では、ジョコウィ支持が底堅いものの伸びが鈍っているのに対して、プラボウォ支持が伸びていると評されています。現状では、まだジョコウィ支持がプラボウォ支持を上回っていますが、この選挙運動でどのような展開になっていくのか。ズバリ、どちらが勝つのか。
講演開始の直前まで、様々な動きが起こってくるものと見られます。講演では、その時点での最新状況を踏まえて、かつ、今回の選挙のインドネシアの政治史上の位置づけも意識しながら、今回の大統領選挙とその後のインドネシア政治・経済・社会について、私なりの見方をご披露したいと思います。

Alfa Martの赤い端末

一昨日(5月27日)、近所のAlfa Mart(インドネシア地場のコンビニ)へ行ったら、ATMの脇に赤っぽい箱のようなものが置いてあった。よくみると、赤い端末である。

ちょうど、スマラン行きの鉄道の切符を買いたかったので、操作してみた。端末の指示に従って、出発日や行先を入れていき、最後に支払いのところまで来た。

けっこう、いけるじゃん。と思ったら、最後が難所だった。自分のID番号を入れるのである。それがすべて数字。

私のKITAS(外国人一時滞在証)IDにはアルファベットが混じっており、入力できない。というか、一般の旅行客はこの端末で鉄道の切符は買えないのだ。パスポート番号にもアルファベットが交じるからである。もちろん、インドネシア国籍で住民登録番号を持っている人ならば買えるのだろう。

しかたないので、レジに行き、店員にKITASを渡して登録してもらい、無事に鉄道の切符を買うことができた。

今日(5月29日)は、来週、マカッサルへ行くライオン航空のチケットを買ってみた。まず、自分のパソコンでインターネット予約し、それをAlfa Martで買えるように指示。3時間以内に購入せよとのメッセージが出る。

Alfa Martへ出向いて、再び赤い端末へ。ライオン航空のところをタッチし、インターネット予約で出されたAlfa Mart用の予約数字番号(ブッキングコードではない)を入力。すると、「あなたの待ち合わせ番号は21番です」といった表示が画面に出る。でも、日本のようにレシートのようなものが出てくるわけではない。

しかたないので、レジのお姉さんに「ライオン航空の待ち合わせ番号21番ですよ」と告げると、「はい」と答えがあって、レジの横の端末で購入のための処理をしている。「あ、番号が消えちゃった!何番でしたか?」とお姉さんの声。もう一度、赤い端末に入力してやり直すと、待ち合わせ番号は22番になった。

今度は大丈夫。と思ったら、「もう一度入力番号を教えて」と言われて再々度伝える。待つこと5分、代金を支払うと、ようやくレシートが印刷された。そして、ほどなく、メールで電子チケットが送られてきた。

日本のコンビニに比べれば、とても質素な感じの赤い端末。でも、これでまだ十分なのかもしれない。インドネシアでの展開を模索している日本のコンビニは、こうした状況にどう切り込んでいくのだろうか。

ジミー・チュウのFUKUSHIMA

先週、ジョホールバルに滞在中、地元の華人実業家と知り合いになった。

初対面にもかかわらず、彼はとても親切で、私の希望に添って、イスカンダル・プロジェクトの現場を車で案内してくれた。あいにくの雨で、写真も撮れず、車の中から見るしかなかったのだが、予想以上に広大かつ野心的なプロジェクトの様子がうかがえた。

ひと通りイスカンダルを見終わって、ショッピング中だった彼の奥さんも交えて、昼食をとった。いろいろと話をしているなかで、彼の奥さんが、「ジミー・チュウというマレーシア人の靴デザイナーが福島をテーマにした作品を作った」という話をしてくれた。彼女はジミー・チュウのデザインが好きで、マレーシアではたくさんのファンがいるという。

ジミー・チュウという名前も初めて聞いたが、その人が福島のために何かしているという話も、恥ずかしながら、初めて聞いた。もしかしたら、福島ではこの話は有名なのかもしれないが。

調べてみると、ジミー・チュウ氏は、実際に福島にも行っているようだ。彼は、靴の素材として、福島の伝統工芸品である会津木綿、会津漆器、川俣シルクの3つを使った。以下に、その記事がある。

福島の可能性ひらく靴 伝統工芸使い生み出す

この記事を読んで、次のような、心に響いた記述があった。

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ジミー・チュウの靴の中には1足10万円を超えるものもある。講演会に出席した官公庁や自治体などの関係者の中には、6足を売って復興支援にあてるアイデアもあったという。

だが、チュウ氏の思いは違った。「寄付だけで復興は成り立たない。風評被害やいろいろな困難や苦労を糧にし、反発し、福島の価値をどう高めるか考えた先に復興はある」

チュウ氏は、ふるさとのマレーシア・ペナン島で父親の下で修業した後、身一つで渡英した。どんなに売れなくてもこだわってきたのが、自分の名前を靴の中敷きに刻むことだった。それが自らの技術とデザインのすばらしさを世界に知らしめる最良の方法だ、と。その場所に今回、自分の名前ではなく「FUKUSHIMA」と刻んだ。

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ジミー・チュウ氏の靴を売って復興支援に充てる? そんなことを考えた福島の人間がいたとは、とても悲しい。

ジミー・チュウ氏が福島へ寄贈した6足へ託した深い思いを、我々はきちんと受け止めているだろうか。こんなにも深く、福島のことを思って行動してくれている人が世界にはまだまだいるのである。

福島出身の私を含めた福島の人間は、世界の人々からこんなにも思われている。そう思いながら、福島と外の世界とをもっともっと結んでいく必要を痛感した。

まさか、そんなことをマレーシアのジョホールバルで考えるとは思わなかった。ジョホールバルは、自分にとって忘れられない場所の一つになった。

ジョホールバルの新山華族歴史文物館

この一週間、シンガポール、ジョホールバルからジャカルタへ、スラバヤに戻ってからは朝早くから夜遅くまで来客対応、その合間に宿題のレポートを2本こなす、という状態で、ブログ更新を怠ってしまった。

5月17〜18日のジョホールバルは、1991年以来の訪問だった。旧市街のJB Sentral駅近くに宿を取り、周辺を街歩きした。その後、MM2Hプログラムを使ってジョホールバルへ移住した知人を訪ねて、そのコンドミニアムでの暮らしぶりを見てきた。

さらに、シンガポール在住の知人のツテで知り合いになった、ジョホールバルの華人実業家にイスカンダール計画のサイトを車で案内してもらった。イスカンダールは想像以上に規模が大きく、コンドミニアムなどの不動産売買が過熱気味とのことだった。上海の物件との抱き合わせ販売もあるらしく、華人実業家は本当に最終的に埋まるのかと心配していた。残念ながら、急激な雷雨に見舞われ、写真が撮れずじまいに終わった。

しかし、今回、最も興味深かったのは、ホテルから街歩きしたときに見つけた新山華族歴史文物館、すなわちジョホールバル華人博物館(Johor Bahru Chinese Heritage Museum)であった。

この博物館では、ジョホールバルの歴史に華人が深く関わってきた様子をうかがうことができる。

ジョホールバルは元々、正露丸や仁丹など口腔清涼剤に使われ、タンニンを多く含むガンビール(Gambier / アセンヤク(阿仙薬))の植えられていた土地だった。ここへ華人の入植が始まり、1855年にタンジュン・プトゥリという名前の港町が形成された。その後、ジョホールバル(新山)と改名されたこの町は、潮州人の陳開順(Tan Kee Soon)が設立した義興公司(Ngee Heng Kongsi)が主導して発展を遂げていくことになる。

町中には、義興通り(Jalan Ngee Heng)という形で名前がまだ残っている。

義興公司の祖である陳開順は、1803年に広東・海陽で生まれ、当時、中国全土を支配していた清王朝に楯突いてペナンへ逃亡、その後マラッカ、シンガポールを経て、1844年にこの地へ入植したということである。いずれ、清王朝を打倒し、明を復興させることを夢みていたようである。

この地の華人は大きく5つに分けられる。潮州人は主にガンビールや果物などを扱い、パサール(市場)を支配した。広東人は、建材、鉄、木材などを扱い、客家人は薬、洋服、質屋などに従事した。福建人はゴム農園などの労働者、海南人は飲食、写真屋などに従事した。

第2次世界大戦の頃の記述も興味深かった。ジョホールバルでの華人とマレー人とがいかに協力的であったかが強調される一方、日本軍に関する記述は、「日本軍は住民たちを勝手気ままに殺し、至るところで女性を強姦した(Tentara Jepun membunuh penduduk-penduduk dengan sewenang-wenang dan memperkosa wanita di mana-mana)」と、実に厳しい内容だった。こういう表現で、ジョホールバルの人たちに、かつての日本軍のイメージが作られてしまうのだろう。

もっとも、今回のジョホールバル滞在中、私が日本人だからといって、そこの人から差別的な扱いを受けたことはなかった。かつて、クアラルンプールで中華系の屋台で食べたとき、伝票に「日本人」と書かれ、他の人の値段の2倍を強制されたときには、マレーシア半島部の反日感情の一部を痛感したものだが、今回は、この博物館を含め、不快な思いをしたことはなかった。

博物館に話を戻そう。展示はなかなか興味深いのだが、一例として人力車の話を上げておく。展示によると、人力車は1869年に日本で発明され、それが上海、北京へ伝えられた後、1880年に上海からシンガポールへ伝えられ、そこからジョホールバルへ入ってきた。そして、第2次世界大戦中に、日本人がジョホールバルへ輪タク(トライショー)、すなわちインドネシアでよく見かけるベチャを入れたのだという。

輪タク(トライショー)、すなわちベチャの由来についてはいくつかの説があるが、そのうちの一つは、当時の蘭領東インド・スラウェシ島のマカッサル在住の日本人の自転車屋が第2次世界大戦少し前に発明し、それがジャワ島などへ渡った、というものである。もしそうだとすれば、その一部がジョホールバルに渡ったということになる。やはり、ベチャは日本人の発明だった可能性が高い。

このほか、華人の世界には様々な秘密結社があり、その結社内だけで通じる暗号のような身振り手振りがあるということも初めて知った。これらの秘密結社には、義興公司(Ngee Heng Kongsi)、天地会(Tiandihui)、松柏館(Tsung Peh Society)、松信公司(Hong Shun Society)、海山会(Hoi San Society)、大伯公公司(Toa Peh Kong Kongsi)、和●(月ヘンに生)館(Ho Seng)などがあるということである。もしかしたら、今もこうした秘密結社のつながりは有効なのではないか、と思ったりする。

博物館で、”A Pictural History of Johor Bahru”という分厚い本を買ってしまった。昔のジョホールバルの様子が写真入りで解説してあり、1844年に陳開順が入植して以降、現在に至るまでの年表が英語で付いている。彼らとインドネシア華人との接点がどのような形で見えてくるか、いずれ調べてみたいなどと思っている。

久々のシンガポール→ジョホールバル

今、マレーシアのジョホールバルにいる。昨日、シンガポールのブギスから高速バスでコーズウェイの橋を渡って着いた。ジョホールバルは1991年以来、23年ぶりである。

シンガポールでは、日本の都道府県・市町村や地銀の駐在員の方とお会いし、日本の地方とインドネシア(と他のアジア)の地方とをダイレクトに結びつけ、双方の主体的な地域振興にとってプラスとなるような関係づくりについて、色々と話し合うことができた。

合わせて、予期せぬ出会いもあった。まさに、動くと何かが起こる、という感じである。

そして、シンガポールが様々な面で効率的であり、快適であることを改めて感じた。チャンギ空港を降りて、ラッフルズプレイスまでわずか30〜40分、何より、東京と同じように、時間を計算して動くことができる、ということが、インドネシアから来た身にはありがたく感じた。

それにしても、シンガポールの物価は高い。東京並み、いやそれ以上である。しかし、インドネシアから来て感じるのは、移動経費の意外な安さである。公共交通機関が整っており、その料金がかなり安い。タクシーにあまり乗る必要がなく、移動経費だけを見ると、タクシーに乗らざるをえないジャカルタやスラバヤのほうがむしろ高く感じるほどである。

シンガポールでの予定を終えて、ブギス駅近くのバス乗り場からジョホールバル行きの高速バスに乗車。料金は2.5シンガポールドル。バスはエアコンが効いて快適、しかし、ブキティマ・ロードをしばらく行くと、けっこうな渋滞である。

渋滞のなか、乗客が次々に立ち上がり、バスが止まると次々に降りていく。シンガポール側の出国審査である。彼らに続いて荷物を持って下車し、出国審査場の”All Pasport”の列に並ぶ。すんなり出国手続きを終え、再び、バスに乗るが、さっきまで乗ってきたバスにどこで乗るのかが分からない。とりあえず、同じバス内で見かけた乗客の後を追っていくと、さっき乗ってきたバスが運よく?現れたので、再び乗車する。

発車後、5分もかからないうちにコーズウェイを渡り、高架上のまま、ゴテゴテ感満載の巨大な建物の中へ吸い込まれていく。マレーシア側の入国審査場のあるJB Sentralである。

たしか、23年前にジョホールバルへ来たときの入国審査場はコーズウェイの橋の上だった記憶がある。あのときは、マレーシアの入国カードを記入し、入国審査を受けている間に、乗ってきたバスが行ってしまい、しかたなく、橋の上を歩いてマレーシア側に入境した。今は、橋の上を歩いて入境することはできなくなった。

JB Sentralでの入国審査もスムーズ。入国カードもない。パスポートを提出するだけで、あっという間に入国。普通は、この後また、乗ってきたバスにもう一度乗って、バスの終点であるラーキン・バスターミナルまで行くのだが、私はバスに乗らず、ここで降りた。今回の宿をJB Sentralのすぐ近くにしたので、歩いていけるのではないかと思ったからである。

入国審査場から少し歩くと、両替商や様々な店屋が並んでいる。そこで、持ち合わせのシンガポール・ドルをマレーシア・リンギに交換。その先には、鉄道のジョホールバル駅があり、切符売り場もある。シンガポールへの戻りを鉄道にしようかと思い、ジョホールバル駅からシンガポール側のウッドランド駅までの時刻表を探したが、見当たらず、駅員に聞いても、時刻表はないという。ジョホールバル=シンガポール間はバスが頻繁に出ているので、わざわざ鉄道で行く必要はないなと理解。

駅を後にして、架橋をわたる。途中、下にタクシー乗り場やバス乗り場が見える。そのまま架橋を渡り終えると、ショッピングモールに直結。ジョホールバル・セントラル・シティー・スクウェアである。3階に着くので、モール内を通り抜けて1階までおり、一番南側の出口を出ると、目の前に今回の宿があった。

街の中心部の安宿である。今回は、JB Sentralの近くの宿に泊まろうと決めていた。昔、歩いたゴチャゴチャした中心部をもう一度歩いてみたいと思ったからだ。

でも、さすがに疲れた。着いてしばらくウトウトし、ショッピングモール内で夕食を済ませた。そこで食べた中華がなかなかの本格派。インドネシアではめったに味わえない美味しさだった。そして、誤って落とした箸を、イケメン風の店員が、顔色一つ変えずに、すかさず拾ってくれるその速さ。そんな些細なところに、インドネシアとの違いを感じてしまう。

土日はジョホールバル。しかし、連載原稿の締め切りが月曜と火曜にくるので、時間を見つけて作業もしなければ。今、ものすごい雷音の後、雨が降り始めた。

「偉大」と「フツー」との戦い

昔、インドネシアと関わり始めた頃、インドネシアに行く前に、「ヒゲを伸ばしたほうがよい」というアドバイスをもらったことがあった。イスラム教徒が多いから、という理由とともに、相手から軽く見られないため、という理由も聞いた。

ヒゲを伸ばすと、どうして相手から下に見られないのか、自分にはさっぱり理由が分からなかった。結局、今に至るまで、インドネシアでヒゲを伸ばさなければ、と思ったことはない。

世の中には、自分を身の丈よりも大きく見せるということに執心している人々がたくさんいる。いつ頃からだろうか。面接で自己アピールをするほうがよい、などと教えるようになったのは。

昔の職場の内部誌では、5月号に新入職員の自己紹介が載る。あれは入所して10年ぐらい経った頃だったろうか。「自分はこんなことができる」「自分はいい性格である」などと書かれている新入職員の自己紹介を読みながら、私自身がとても恥ずかしくなった。新入職員が皆、スーパーマン、スーパーウーマンに思えたからである。

私が入所した頃は、自己アピールをしすぎるのをあまり良しとはしなかった。むしろ、できないことをできない、能力がないことを能力がないと分かっていることのほうが重視された。自分のありのままを見つめ、自分を客観視できること、ある意味、控えめであることが美徳とされた。

あの時からずっと、私自身は自分の能力が大したことはないとずっと思ってきたし、今でも、謙遜でもなんでもなく、本当にそう思っている。自分はフツーのただの人間で、いろいろやりたいことはあるけれど、それが必ずできなければならない人間だとは到底思えない。

ただ、振り返ってみると、その時その時を自分なりに一生懸命やってきた結果、神様の思し召しなのか、何となく自分がこういうふうになりたいな、こういうふうにありたいな、と思う方向へそれとなく進んできているような気がする。単にラッキーだったのだ、と思う。

たとえば、インドネシアに滞在するなら、他の人が住んだことのない街に住みたいと思っていたら、マカッサルに住む機会が向こうからやってきた。スラバヤに住む機会が向こうからやってきた。いつか、肩書や所属ではない、自分の名前で仕事がしたいな、と漠然と思い続けていたら、何となくそれに近い状態になっていった。

目標を決めて計画的に何かを目指したり、そのために自分を他人にアピールしたり、身の丈よりも大きく見せたり、そうした戦略をどう取ったらいいか、意識的に考えたほうが良いよ、と助言してくれる人はいた。でも、それは何となく嫌だった。自分は、ただフツーにやってきたら、何となくこうなった、という感じなのである。

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話は変わるが、昨晩、Metro TVの「Najwaの眼」というトーク番組を観ていたら、ジャカルタ首都特別州のジョコウィ知事とアホック副知事が出演していた。それほどシリアスな内容ではなかったが、番組の進行役であるNajwaさんが質問しても、ジョコウィがボソボソっと答える一方、アホックはユーモアを交えながら楽しげに切り返していた。

この二人の答えで、一番多かったのが「フツーだよ」(biasa)という言葉だった。中身だけ見れば、ただのその辺のどこにでもいるおっさん二人が出演しているかのようだった。何を聞かれても「フツー」という答えが返ってくる。俺はすごいんだ、州知事としてえらいんだ、という雰囲気は微塵もなかった。

こんな二人が、今、インドネシアで最も注目される政治家なのである。

ジョコウィは、州知事の仕事は問題を解決することであり、現場に行って実態を見れば、解決策は意外に容易に見つかるとさえいう。大統領候補人気ナンバーワンのジョコウィは、ビジョンやミッションを前面に掲げることを控え、とにかく仕事をするということに徹したい様子である。

実際、インドネシアで、あるいは日本で、政治家が選挙戦で掲げた公約がどのぐらい達成されたかをきちんと評価してきただろうか。いや、任期が終わるときに、その政治家が当選の際に何を公約としたか、覚えている人がどれだけいるだろうか。

ジョコウィは、トーク番組での受け答えがスムーズにいかない、「弁舌さわやか」というには程遠い、実にフツーのおっさんであった。番組にはジョコウィの妻とアホックの妻も後半で出演したが、どこにでもいる感じのこれまたフツーのおばさんだった。「州知事になって何か変わったか」という問いにも、「とくに変わらない」「前と同じ」という朴訥な答え。見た感じは、偉そうに見える閣僚夫人や政府高官夫人とは全く異なるおばさんだった。

ジョコウィらは、こうしたフツーさを演じているだけ、という話もよく聞くのだが、番組を見る限りは、それを見抜くことはできなかった。実にフツーなのである。こんなフツーの人が、多様性の中の統一を国是とする広いインドネシアを治められるのか、と正直思ってしまう人も多いのではないか。

これまで、カリスマ性があり、秀でた力と能力を持つ偉大な政治家でなければ、この広くて多種多様なインドネシアを治めることはできない、と言われてきたし、我々もそう思い込んできた。ほとんどの政治家や政府高官は、いかに自分に能力があるか、そしてカネがあるか、を誇示して、子分を作り、自分に忠誠を誓う子分を従えながら、その親分になってきた。「俺に任せればすべてうまく行く」、そう思わせられる政治家が指導者と見なされてきた。

たとえ実態はそうでなくとも、忠誠を誓う子分たちの存在によって、政治家はそう演じ続けなければならなくなる。演じ続けているうちに、自分は偉大な存在だと思い始めるのかもしれない。特別扱いされて当然の存在だと思い始めるのかもしれない。

ある意味、大統領候補として名前の上がるプラボウォもアブリザル・バクリも、また、ジョコウィを大統領候補に担いだ闘争民主党党首のメガワティも、そんな従来型の、「偉大さ」を見せつけようとする政治家である、といえるかもしれない。

その「偉大さ」で勝負する従来型政治家の世界に今、「フツー」のジョコウィが引っ張りだされ、能力がないとかカリスマがないとか、叩かれようとしている。

しかし、インドネシアの社会が、そうした「偉大さ」をどう見せるかで勝負する従来型政治家の世界から離れ始めていることに、従来型政治家が気づいていない。

政治家が自分たちの私利私欲のために政治を利用してきたことを有権者は厳しく見つめている。政党ベースの総選挙(議会議員選挙)は従来型政治家の世界であり、有権者はやむなくその仕組みに付き合ったにすぎない。

しかし、人を選ぶ大統領選挙では、従来型政治家の世界だけで話が済むわけではない。従来型政治家は、制度的にそうなっているように、総選挙と大統領選挙を連続したものとしてみているが、有権者は両者をむしろ切り離し、人を選ぶ大統領選挙により関心を向けるだろう。そこには、「偉大さ」を見せようとする従来型政治家の世界への不信感を高めた多くの有権者が存在する。

インドネシアはもはや、「偉大な」指導者が王様のように治める国ではなくなったのである。下々の者を従わせ、その見返りに下々の者へ施しを与えるような、「偉大な」指導者を求めなくなったのである。多くの従来型政治家はそのことに気づかないか、気づいたとしても「偉大さ」を見せようとする性向を変えることがまだできない。

そうではなく、インドネシアは「フツー」に仕事をする指導者を求め始めているようにみえる。大統領は王様ではなく、マネージャーあるいは仕事人に変わったのかもしれない。

ジョコウィにしろ、アホックにしろ、スラバヤ市長のリスマにしろ、自分はすごいんだ、自分は出来るんだ、これだけやって偉いんだ、だから俺について来い、などと言っているのを今まで一度も見たことがない。彼らは二言目には「仕事」、そして仕事をしているのが偉いのでも何でもなくただ「フツー」と思っているのである。

自分のためではなく、他人のために仕事をする。カネや名誉や名前ではない。ジョコウィはソロ市長、ジャカルタ首都特別州知事と来て、今度は大統領選挙に出るわけで、はたから見ると野心家のように見えるかもしれないが、「どこで仕事をしても、人のためにやるのは同じだ」と番組でもボソボソっと言い切っていた。

大統領選挙への立候補も、ジョコウィ自身が「俺が俺が」と言ったのではなく、世論が強力に後押しし、闘争民主党が総選挙での得票を当て込んで立候補を促し、なんとなくジョコウィが出ざるをえない雰囲気が作られた、というのが本当のところのような気がする。もちろん、立候補するからには、当選を目指して動いていくのだろうけれども。

今回の大統領選挙は、実は「偉大」と「フツー」の戦いなのではないか。それは、インドネシア社会の大きな変化の一面を表してもいる。もしも、予想通りに「フツー」が勝利した後、まだ時間はかかるだろうが、インドネシアがどのように「フツー」の社会へ変わっていくのか、注目していきたい。

もっとも、インドネシア・ウォッチャーとしては、インドネシア特有の何かがなくなっていくかもしれないという意味で、面白さが減っていくということでもあるのだが。

インドネシアのメーデーに思う

インドネシアは、今年から5月1日が祝日になった。メーデーとしてである。

インドネシアは、いつの間にか、労働組合が堂々と動ける国になった。堂々と動けるだけでなく、政治的な圧力団体の一つとして認知されるに至った。力を持ったと認識した労働組合は、数の力で自分たちの要求を通そうとすらする。そうした労働組合を、政党や政治家は自分たちの得票のために活用しようとしている。

スハルト時代、労働運動は基本的に制限され、SPSIのみが唯一の翼賛的な労働組合として認められていた。SPSIは政府に協力的で、労働争議が頻発するといったことはまずなかった。あったとしても、左翼的な行動と捉えられ、事実上、弾圧の対象となった。

大統領選挙を前にした時期が時期だけに、各労働組合連合体が自分たちの支持する大統領候補を表明し始めている。

最も活発にデモや労働争議を主導してきたKSPIは、グリンドラ党のプラボウォ党首の支持を表明した。5月1日にKSPIが主催したジャカルタのブン・カルノ競技場での集会にはプラボウォも出席、あたかもプロボウォ支持者の総決起集会の趣さえあった。

もともと、KSPIを率いるサイド・アクバル議長は、政治的野心があると指摘されている。かつては福祉正義党から総選挙に立候補して落選、その後、先の最低賃金引き上げ要求に係るブカシなどでの労働争議では、闘争民主党の政治家に擦り寄った。そして今、グリンドラ党のプラボウォ党首に近づいている。

KSPIは10項目の要求を提示したが、プラボウォはそれをすべて飲むことを約束した。念のため、10項目を以下に挙げておく。

1.2015年の最低賃金を30%引き上げ。最賃計算の根拠となる「適正な生活のための必需品」のアイテム数を現在の60品目から84品目へ増やす。
2.最低賃金の実施凍結を拒否。
3.2015年7月にすべての労働者への年金保証を実現させる。
4.全国民への健康保険の実施。料金を定めた2013年保健大臣令第69号の破棄、健康保険制度や労災制度への監査など。
5.アウトソーシング業務の廃止(とくに国営企業)、同従事者の正規社員化。
6.家事労働者法の制定と出稼ぎ者保護法の改訂。
7.社会団体法の廃止と集会法の制定。
8.臨時公務員・臨時教師の正規公務員化、臨時教師への月100万ルピアの補助。
9.労働者のための公共交通機関と住宅の整備。
10.義務教育12年間の実施、労働者子弟への大学までの奨学金供与。

プラボウォが大統領になったとしても、この約束を守るかどうかはわからない。しかし、今の時点では、KSPIを集票の道具に使いたい。

一方、もう一人の大統領候補のジョコウィは、全く違う行動をとった。大勢の人々が集まる集会には顔を出さず、何人かのインフォーマル部門で働く人々を訪ねたのである。

労働組合に属する労働者は、フォーマル部門で働く賃金労働者である。毎月、定期的に賃金をもらって生活する人たちである。しかし、インドネシアには、そうした正規労働者を上回る数のインフォーマル部門で働く人々がいる。もちろん、労働組合は彼らには遠い存在である。

ジョコウィは、そうした人々への眼差しを忘れていないことを強調するとともに、増長気味の労働組合の要求に対して自省を求めたのである。フォーマル部門の労働者がインフォーマル部門の人々のことをもっと気にしてもいいのではないか、と。

ジョコウィの行動もまた、プロボウォとは別の意味で政治的なパフォーマンスであろう。2014年のジャカルタの最低賃金を前年比10%台に抑えたジョコウィは、KSPIのサイド・イクバルからは敵視されているが、あのとき、結局、ジョコウィが強腕を使わずとも通ってしまったことはもっと注目されてもいいかもしれない。

KSPI以外の労働組合連合体であるKSPSIとKSBSIは、大統領候補としてジョコウィを支持していると言われる。KSPSIのトップは闘争民主党員であるが、分裂したもう一方のトップはゴルカル党員であり、一枚岩と見るのは控えたほうがいいかもしれない。

ところで、プラボウォはまだ、大統領候補として出られるかどうかが実は確定していない。他の政党との連立で、議席数の25%、得票数の20%を超えないと出られないのである。プラボウォが党首を務めるグリンドラ党と正式に連立を決めた政党はまだない。KSPIとの動きなどに、プラボウォの焦りが見られる。

他方、ジョコウィは、闘争民主党、民主国民党(NasDem)、民族覚醒党(PKB)の連立で上記条件をクリアしており、すでに大統領候補として出られることが確立している。ジョコウィのイメージを落とすためのブラックキャンペーンは激しさを増しているが、現段階ではまだジョコウィのほうが一歩リードしている。

トランスジャカルタ、JALANAN

先週、ジャカルタの「父」を連れて日本からジャカルタへ戻り、2日間、ジャカルタで過ごした。久々に、コタで行きつけの麺屋へ行って、ワンタン麺にナシチャンプルまで食べて、大満足で、来たときと同様、グロドックからブロックM行きのトランスジャカルタに乗った。

しばらくして、大きなバッグとギターケースを抱えた女性がトランスジャカルタに乗り込んできた。トランスジャカルタのバスの連結部に立ち、私のすぐ隣にいた。ふと、ギターケースを見ると、JALANANというステッカーが貼ってある。もしかして・・・。

女性は携帯電話で話を始めた。バスの連結部なので、ギターケースを抱えてバッグを手に電話するのはなかなか大変そう。その女性と目を合わせた後、ギターケースをそっと支えてあげた。

そう、この女性は、映画JALANANのティティさんだった。電話の内容からすると、スラバヤのモールで演奏した後、ジャカルタへ戻ってきたようだった。バンドンでも演奏したらしい。

JALANANについては、じゃかるた新聞に小川忠さんのエッセイがあるので参考にして欲しい。

夢と哀しみのスディルマン通り

ティティさんは、他の乗客とはやや違う雰囲気を持った女性だった。聡明な顔立ちの一方で、どこか翳のある表情を時おり見せた。

ブロックMでトランスジャカルタを降りた。別の降車ドアから降りたティティさんは、もう姿が見えなくなっていた。もしかすると、そのうち、テレビで会えるかもしれない、などと思った。

筆者にとって、数えきれないほど乗ってきたバスは、インドネシアについての様々な側面を学んできた場だった。

20年以上前に留学していたとき、バスに乗り込んできた歌い手のなかに、当時の27州の歌をメドレーでひたすら歌い続ける男性がいた。歌がうまいだけでなく、凄みさえ感じた。その男性とは、バスのなかで頻繁に遭遇したのだが、同じ歌を2回と聞くことはなかった。彼は今、どうしているのだろうか。

トランスジャカルタの車内はエアコンがよく効き、静かである。ピーナッツ売りも歌唄いも乗ってこない。「カーシーハーン(かわいそー)」と言いながら床を這ってくる物乞いも来ない。今となっては、そんな雑然としたボロボロの冷房なしバスが愛おしく思えるほどである。

豊かになるインドネシアの一つの側面ではある。ティティさんらは、そんなインドネシアをどう駆け抜けていくのだろうか。

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