インドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会

1月13日、マカッサルでインドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会しました。

インドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)という組織は、技能実習研修生として日本に滞在し、インドネシアへ戻った後、起業したり、企業で働いたりしている方々が立ち上げたOB会のような組織です。この組織の立ち上げは彼ら自身のイニシアティブによっており、日本政府からもインドネシア政府からも立ち上げに関する支援は受けませんでした。

現在は単なる親睦団体としてだけでなく、IKAPEKSI会員間のビジネスマッチングや情報交換、日本から帰国した技能実習研修生に対する教育訓練や事業相談、なども行っています。現在、インドネシア国内の各州に支部をつくり始めており、南スラウェシ州支部もその一つとして昨年立ち上がりました。

南スラウェシ州からの技能実習研修生は、日本滞在中に行方不明になるなど問題を起こしたため、しばらく同州からの派遣が見合わされてきました。それゆえ、メンバーの多くはだいぶ前に日本に滞在した古い人がほとんどで、若いメンバーがいないという特徴があります。彼らとしては、何としてでもそうした汚名を晴らし、再び南スラウェシ州から技能実習研修生を派遣できるようにしたい、という強い願いがありました。

縁あって、私はIKAPEKSIのアドバイザーを務めており、真面目に活動している彼らの良き相談役でありたいと願っています。そして、技能実習研修生に関するマイナスのイメージを払拭し、彼らのような活動がもっと認知されるように、微力ながら努めていきたいと思っています。

【スラバヤの風-27】不動産を中心に変貌するマカッサル

先日、久しぶりにマカッサルへ行った。マカッサルはスラウェシ島唯一の人口100万人を超える都市で、南スラウェシ州の州都である。筆者は、これまでに合計8年半マカッサルに居住した。筆者にとってマカッサルは「故郷」のような大事な場所である。

この街の変貌は、行くたびに凄まじく感じる。南スラウェシ州の経済成長率はここ数年、7〜8%と全国の数字を大きく上回り、しかも州都マカッサルがそれを牽引している。なかでも不動産が活況で、地価は過去15年にわたって一本調子で上がり続けており、市の中心部の地価はジャカルタの一等地と遜色ないレベルの高さにまで跳ね上がった。

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1990年代にリッポー・グループが市西南部の海を埋め立てて開発したニュータウン「タンジュンブンガ」は、1998年の通貨危機の頃には閑古鳥が鳴いていたのに、今や最も人気の住宅地となった。リッポーはまた、市東部の高級住宅地パナクカン地区に高級コンドミニアム「セント・モリッツ」を建設中である。そこにはかつて、筆者も家族とよく行った会員制スポーツクラブがあったが、通貨危機の影響で倒産し、10年以上も放置されていた。

リッポーの競争相手であるチプトラ・グループは、パナクカン地区のさらに東の水田地域を買収し、高級住宅地「チトラランド」を開発した。この「チトラランド」は募集がかかったその日に全戸が売り切れた。また、リッポーと同じく、チプトラもパナクカン地区に高級コンドミニアムを建設した。これらの買い手には、地元だけでなく、スラウェシ、マルク、パプアなど東インドネシア地域の実業家や地方官僚などがかなりいると聞いた。

ホテルの建設ラッシュも尋常ではない。市内の至る所に3〜5つ星のホテルが建設中である。マカッサル市がMICE都市を目指していることや、州内や東インドネシア地域からの政府関係者の会議や研修をホテルで行う傾向が近年急増していることもあり、コンベンション施設や参加者の宿泊収容能力が急速に高まっている。この傾向はマカッサルだけでなく、どの州都でも見られ、いくつもの中級ホテルの全国チェーンが広がっている。

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マカッサルでは、通貨危機後から1階を店舗、2階を住宅にするルコと呼ばれる物件が市内のあちこちに乱立し、「ルコの町」という異名さえあった。今や、それにホテルやカフェが加わり、無秩序さに拍車がかかっている。 経済が上り坂の状況ではやむを得ないのかもしれないが、マカッサルはずいぶんとガサツな町へ変わってしまった観がある。街としての景観への配慮という点ではスラバヤを見習って欲しいが、もう手遅れかもしれない。

 

(2014年6月14日執筆)

 

 

【インドネシア政経ウォッチ】第59回 投資殺到のバンタエン県(2013年10月17日)

南スラウェシ州にバンタエンという名の県がある。面積395平方キロメートル、人口18万人という小さな県で、農業が主産業である。ジャカルタなどでは知られていないが、このバンタエン県に今、外国投資が殺到している。

10月のAPEC首脳会議に合わせて来訪した中国の習近平総書記とユドヨノ大統領との間で、さまざまな協力協定が締結されたが、そのひとつが、中国のYinyiグループによるバンタエン県のニッケルおよびステンレス精錬所への投資である。総額23兆ルピア(約2,000億円)で、300ヘクタールの工業用地に2015年から精錬所を建設する。Yinyiグループ以外にも、中国系2社を含む5社がニッケルやマンガンなどの精錬所への投資を計画している。

バンタエン県はニッケル鉱やマンガン鉱の産地ではない。しかし、南スラウェシ州北部から東南スラウェシ州北部にかけてニッケル鉱床があり、これまで主にブラジル系ヴァーレ・インドネシアや国営アネカ・タンバン(アンタム)が採掘し、日本向けに未精錬のまま輸出してきた。政府がインドネシア国内での加工を義務づける政策へ転換したことで、精錬所への投資が注目され、投資家は南スラウェシ州内で立地先を探していた。

バンタエン県が選好されるのは、県レベルでの投資許可がわずか1日で終了し、費用も無料だからである。電力も州都マカッサルに次ぐ37万キロワットを確保し、課題の港湾整備も急ピッチで進める予定である。約2万人の雇用機会が生まれることになる。

積極的な投資誘致は、ヌルディン県知事の功績である。九州大学で博士号を取得、日本語の堪能な実業家出身の彼は、日本との広い人的ネットワークを駆使し、日系の水産品・野菜加工工場を誘致し、すでに日本向けに輸出している。高品質の水と標高差を生かした農業で、低地では米作、高地では野菜、イチゴ、アラビカコーヒーなどの栽培を進めている。日本から中古消防車・救急車の受け入れも積極的に行ってきた。

地方でもやり方次第でいろいろできる。投資殺到のバンタエン県は、他の地方政府へのよい刺激となるはずである。

 

http://news.nna.jp/cgi-bin/asia/asia_kijidsp.cgi?id=20131017idr019A

※これらの記事は、アジア経済ビジネス情報を発信するNNA(株式会社エヌ・エヌ・エー)の許可を得て掲載しております。

【インドネシア政経ウォッチ】第43回 学生の石油燃料値上げ反対デモ(2013年 6月 20日)

補助金対象石油燃料の値上げを控え、全国各地で学生らによる反対デモが頻発している。とくに激しいのが南スラウェシ州の州都マカッサルで、州知事庁舎へ強引に突入しようとした学生らと警官隊が衝突したほか、連日、古タイヤを路上で燃やしたり、タンクローリーを襲ったりして、幹線道路を封鎖し、大渋滞を引き起こしている。

かつてマカッサルに長く住んだ筆者の記憶では、激しい学生デモがマカッサルで起こり始めたのは1996年頃である。発端は乗合バスの料金値上げ反対デモだったが、学生らが警察を挑発、それに乗った警察が発砲して学生が死亡、地元紙の1面にその遺体の写真が掲載された。これをきっかけに拡大したデモは軍や警察に対する反抗デモへと転化し、スハルト強権体制への批判につながっていった。振り返れば、あれがその後の体制転換への導火線だったとも思える。

その後も、事あるごとに学生デモが頻発し、マカッサルは「デモの町」というイメージが固定した。だが、学生に聞くと、理論武装のための学習会を行った形跡はない。何が目的か分からない者も多数いた。カネをもらったと白状する者さえいた。こうして、学生デモは一種の「伝統」となり、先輩らのそれを超えること自体が目的となる。渋滞を引き起こす自分らのパワーに酔っているのかもしれないが、住民には本当にいい迷惑である。

実際、デモで目立つ学生活動家は政治の世界へ入っていく。学生デモは政治家へのステップなのである。今回、全国各地でデモを主宰するのは、イスラム学生連合(HMI)やインドネシア・ムスリム学生行動連盟(KAMMI)など全国組織のイスラム系学生団体であり、多くの政治家の出身母体でもある。

マカッサルなど、デモの起こっている地方都市はまさに地方首長選挙の最中であり、学生の先輩である政治家がこの機会を利用する。同様に、石油燃料値上げ反対を標榜した福祉正義党(PKS)など政党の動きとも連動していることはまず間違いない。

 

http://news.nna.jp/cgi-bin/asia/asia_kijidsp.cgi?id=20130620idr020A

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バンコクで「マカッサル」を探す

11月13〜16日の日程でタイのバンコクへ来ている。

用務のほうは14日に早々に終わり、久々に8時間眠った後、15日は街歩きに出かけた。
最初は、博物館や美術館へ行こうと考えた。しかし、昔からバンコクへ行ったら行きたいと思っていたところを思い出した。バンコクにある「マカッサル」を見に行くことにしたのである。
バンコクの「マカッサル」(Makassar)とは、マッカサン(Makkasan)である。スワンナプーム空港からの鉄道シティラインの拠点駅の名前でもあるマッカサンは、マカッサルから由来した地名である。

その昔、17世紀後半、オランダとの戦いに敗れたスラウェシ島南部(現在の南スラウェシ州)のゴワ王国の人々は各地へ散り散りになって逃げたが、そのなかに、アユタヤ王国まで逃げてきた者たちがいた。彼らはアユタヤ国王に温かく迎え入れられた。そして、フランスが後にアユタヤ王国を攻めた際には、勇猛果敢にフランス軍と戦ったと言われている。その功績を称えて、彼らの居住地をマッカサンと名付けられたのだという。

この話はインドネシア側でいわれている話なので、タイでどのような話になっているのかは分からない。なお、マッカサンという名前は、オーストラリア北部のアボリジニーの伝承で、北から交易にやってきた人々の名前として知られてもいる。

さて、おそらく、マカッサルの面影を見つけることは難しいだろうと思いながらも、そのマッカサンを歩いてみた。20分に1本しか来ない空港鉄道のラチャプラロップ駅で降り、その周辺を歩いてみた。

まず、目に入ったのが、タイ国王らの写真が掲げられた「Welcome to the ASEAN Community」という表示板。インドネシアではこの種のものをまだ見たことがない。

大通りをしばらく歩くと、金物屋やガラス屋などが並ぶ。サイアム駅周辺やチットロム駅周辺などとは違う、私が昔来た頃に見たバンコクの雰囲気がよみがえる。

地図によるとマッカサン市場やマッカサン郵便局などがあるはずなのだが、見つからなかった。大通りから1本脇道に入ると、公園があった。公園の上を巨大な高速道路が通っていて、景観は台無しになっていた。

高速道路の高架の下は、静かな空間。人々の生活道路は確保されていて、高速道路で寸断されていない。

ラチャプラロップ駅へ戻って、マッカサン駅まで歩いてみることにした。タノン・ニッコム・マッカサンという名前の通りを歩いてみたのである。

ラチャプラロップ駅周辺の空港への高架鉄道の下には、タイ国鉄の線路が通っていて、その脇で生活する人々がいた。そこを列車が通って行った。

マッカサン駅までの道は、工事中の人々の小さな家々や工事現場の埃などの混じった単調な道だった。いくつかホテルはあるが、ショッピングセンターも歩道を歩く人々の姿も何もない。

炎天下に汗を書きながら、こんな道をひたすら歩いている自分が異常なのかもしれない。

入っては見なかったが、労働博物館、というのもあった。

沿道の屋台では、ちょうど昼食の時間だった。

ようやく、マッカサン駅に到着。駅の周りには何もない。こんなところが空港からの起点駅なのが不思議に思われる。

さすがに暑い。昼食前でお腹も空いた。ともかく、早くMRTかBTSに乗って涼みながら、昼食場所を探そう、と思った。

結局、マッカサンでマカッサルの面影を探すことはできなかったが、「ここでゴワ王国の末裔が暮らしていた」ということを思いながらの街歩きは、なかなか趣深いものであった。

シーロムのショッピングモールで昼食の後、今度は「ジャワ」を見つけに出かけた。

ティニさんの自立を妨げていたもの

マカッサルで借りている家の契約が2013年3月31日で切れる。Balla Idjo(緑の館)と名付けたこの家に私が滞在した時間は長くない。

この家を借りていた2年の間に、様々な方々がここに集い、料理名人のお手伝いティニさんの食事を堪能し、語らい、そして宿泊していただいた。主のいない家で、少しでもそうした機能が果たせたことがちょっと嬉しい。

プール付き、寝室が4つ、作業用の部屋が1つ、という広い家。ゆったりと佇めるスペースがいくつもあるこの家は、利用者が思い思いの時間をそれぞれのスタイルで過ごすのに格好の家だった。多少古いがとても居心地のよい家なのだが、住宅手当があるならまだしも、それもなく、わずかな収入で何とかやりくりしている現状では、残念ではあるが、自分が住むわけでもないこの家を借り続けることは困難、と判断した。

私は、自分の「故郷」であるマカッサルに自分や家族の居場所をずっと持ち続けたいと思ってきた。その思いは変わっていない。

しかし、物理的に家を借り続ける、ということは、誰かに管理をお願いし続けるということになる。現に、今もティニさん一家に住み込みで私の借家に住んでもらっている。彼女との付き合いはもう17年にもなろうとしている。彼女が所帯を構えてからでも10年以上が経つ。

過去に任期を終えてマカッサルを去るとき、いつもティニさんの自立を願っていた。ワルンや小食堂など、自ら小さなビジネスを始めて、独り立ちすることを願っていた。しかし、彼女はまだ私のお手伝いのままだ。主のいない家を健気に守ってくれている。

そうなのだ。彼女の自立を願っているはずの私自身が、彼女の自立を妨げていたのだ。

息子が小学校高学年になり、クラスでも1・2位を争う優秀な子に育って、これまでずっと潜むように生きてきたティニさんにも将来への希望が現れてきた。自分は小学校にも満足に行けなかったのに、びっくりするほどの教育ママぶりを発揮していた彼女。かつて、再度マカッサルに赴任したときに、貧困のどん底にあえいでいた彼女を救出し、私のお手伝いとして呼び戻したこともあった。そんな彼女が今ようやく、普通の家庭の幸せを見つけられるところに来たことがうれしい。

ティニさんは、自分の家族3人が身の丈にあった生活のできる質素な家を見つけてきていた。そして、私から離れて、そこに3人で住むことを望んでいたことを知った。やっと、やっと、今度こそ、本当に私から離れることができそうだ。

インドネシア料理、西洋料理、中華料理、日本料理(とくにトンカツ、酢豚、海老フライは絶品)の得意なティニさんの能力を、生かしてくれるところはないだろうか。

借家に残った机、椅子、本棚、テーブルなどは、マカッサルの友人たちに引き取ってもらう準備を始めた。インドネシア語書籍は、マカッサルの仲間のやっている簡易図書館に寄贈し、日本語書籍は自分の手元に戻そうと思う。日本語版映画DVDは、地元大学の日本文学科が欲しいといってきた。何とか3月中に片付きそうな気配である。

この借家をインドネシア人、日本人、その他様々な人々が交差する場にしたい、と思っていた。その意志を尊重してくれる大家が、何とかできないものか、日本文化を伝える場所のようなものができないか、などと考えてくれているようだが、どうなるだろうか。

3月末までまだ時間がある。できることなら私も何かしたい。もし、何かアイディアのある方は、私までお寄せいただければ幸いである。

マカッサル、わが「故郷」

この週末は、南スラウェシ州の州都マカッサルへ来ている。人口約120万人、インドネシア東部地域への玄関口でもあるこの町は、私にとって、インドネシアにおける「故郷」といってもよい。比べられるとするならば、自宅のある東京や生まれ故郷の福島と同じか、それ以上の意味を持つ町である。

私が初めてこの町に来たのは1987年、トラジャの日系コーヒー農園を訪問するときであった。海沿いのホテルのコテージタイプの部屋から観た夕陽の美しさに感激したのが最初である。その後、1990〜1992年のジャカルタ滞在中に、妻と一緒に何度か旅行に来て、二人ですっかりマカッサル(当時はウジュンパンダンという名前だった)に魅せられてしまった。

「この町に住みたい。でもきっとそんなの夢物語だよねえ」と妻と二人で思っていた。 当時勤めていた研究所の現地研究者ネットワークのなかに、この町に住む研究者の名前は一人しかなかったからである。もちろん、研究所の先輩方でこの町に馴染みのある方はまだいらっしゃらなかった。

そんななか、奇跡が起こった。1994年頃、研究所の先輩から「JICA専門家として、ウジュンパンダンに赴任しないか」という打診が来たのである。我が耳を疑った。こんなことって、あるのだろうか。半ば興奮状態のまま、「絶対に行きたいです」と答えてしまった。その後で、何の仕事で行くのかを聞き忘れていたことを思い出した。

仕事は「インドネシア東部地域開発政策支援」だった。ウジュンパンダンだけでなく、カリマンタン、スラウェシ、マルク、ヌサトゥンガラ、パプアを含む東部地域13州(当時は東ティモールも含まれていた)全体をカバーする内容で、JICA専門家チーム3人のうち、東部地域の現場に居住する1人として活動する、というものであった。

JICA専門家として、1996年4月〜1998年10月、1999年3月〜2001年3月は、ウジュンパンダンで妻子と一緒に一軒家で暮らした。娘は1歳半から5歳までここで過ごした。インドネシア自体は通貨危機の影響でこの20年のなかで最も厳しい時期だったが、私たち家族にとっては何物にも代え難い美しい日々を過ごすことができた。

その後も頻繁にマカッサルを訪れ、2006年9月〜2008年2月は国立ハサヌディン大学の客員研究員として、研究所を辞職した後の2008年4月〜2010年4月は再びJICA専門家としてマカッサルに滞在した。数えてみると、合計で約8年半、マカッサルに滞在したことになる。

マカッサルを「故郷」と感じる要因の一つは、1996年4月に住み始めたときから今まで、ずっとお世話になっているお手伝いティニさんの存在がある。乳幼児だった娘を我が子のように可愛がってくれる一方、料理の腕は素晴らしい。私の後任もお手伝いとして引きとってくれたが、そのときに、庭師で雇っていたシャムスル君と結婚した。今では息子のワフユ君も小学5年生になった。

実は、私は今もマカッサルに1軒の家を借りており、ティニさん一家に住み込みで家の管理をしてもらっている。この家の借家契約が今月末(2013年3月末)で切れる。実は、今回のマカッサル訪問は、この契約が切れた後どうするか、の方向性を決めるための訪問であった。