ジョグジャカルタの「ローカル」

ジャカルタ出張の後、いったんスラバヤへ戻ってから、1月16〜17日にジョグジャカルタへ出張しました。地場企業のインタビュー1件の予定でしたが、もしかしたら可能かも、と思っていたもう1件の地場企業インタビューも行うことができ、強行軍でしたが、充実した出張でした。

今回、ジョグジャカルタで泊まったのは、Lokal Hotel & Restaurant。知人が泊まったときの写真を見て、泊まってみようと思いました。

名前からわかるように、立地や質感や食事にローカルを意識している様子です。なかなか居心地のいい部屋でした。

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レストランも、長時間いても空きなさそうな居心地の良さです。食べ物ももちろん、地元の食材で作っていて、味も良かったです。

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次回もまた泊まってみようかな、と思える場所でした。

 

Lokal Hotel and Restaurant

– Jl. Jembatan Merah No. 104C, Yogyakarta 55283

– Phone: +62 (0) 274 524334

– URL: www.lokalindonesia.com

 

プトラくんとプトリちゃん

今回の「父」との日本旅行中に、京都で西本願寺の聞法(もんぼう)会館という宿に宿泊した。和洋室に「父」とその妻、私の3人で泊まり、私は和室で寝た。なかなか快適だった。

そこのお土産物屋コーナーで見つけたのが、この文房具セット。

プトラくんとプトリちゃん、とある。これは、本願寺のキャラクターらしい。しかも、ゆるキャラで、着ぐるみまであるようだ。

天真寺日記

インドネシア語では、プトラといえば「息子」、プトリといえば「娘」である。たとえば、スハルト元大統領の3男はフトモ・マンダラ・プトラという名前であり、スカルノ初代大統領の娘で闘争民主党党首の名前は、メガワティ・スカルノプトリ、である。

プトラもプトリもサンスクリット語起源ということで、本願寺のキャラクターとして愛されているようだが、「息子」「娘」との思いがけない「出会い」であった。

「父」と日本旅行中(2)

後半は、「父」とその妻を連れて大阪・京都へ行った。毎日、ホテルが変わるなど、84歳の「父」には厳しいスケジュールで、さすがにちょっと疲れが溜まってきた様子だった。

大阪のメインは、20年前、私の前の職場へ客員研究員として来ていたときに、ホームステイした先のご夫妻との再会である。正確にいうと、大阪ではなく宝塚である(宝塚は兵庫県だし・・・)。

実は、数か月前、「父」からこのご夫妻の連絡先を探せとの求めがあった。分かっていたのは名前と宝塚に住んでいるということだけ。「日本人だから全ての日本人を知っているはずということはありえない」と何度も言って諦めさせようとしたのだが、「それなら電話帳を使って探せ」とまで言われた。

日本へ帰国した折に、宝塚まで行って電話帳で探さなければならないのか、とあきれていたら、「ほれ、これが電子メールアドレスだ」と「父」から連絡があった。早速、そのアドレスへメールを送ってみた。一度戻ってきた。そのアドレスのドメインが新しく変わっている可能性がありそうなので、新しいドメインにして送ったら、戻ってこないので、それで安心していた。しかし、インドネシアを発つ数日前になっても何も返事がない。

と思っていたら、再び「父」から「メールはどうした? これがメールアドレスだ。ちゃんと連絡しろ」と再度の連絡があった。メールアドレスが前のと違っていた。新しいアドレスへ送ったところ、翌日、戦法から「是非お会いしたい」とのメールが帰ってきた。

そんなこんなで、宝塚のホームステイ先と4月20日に再会することができた。そして、翌21日、ホームステイ先の奥様と「父」とその妻の3人で、宝塚大劇場で宝塚歌劇を堪能した。最初は「父」だけ行けばいいと乗り気でなかった「父」の妻も、「とってもきれいな人がたくさんでてきたのよー。ステキ~」と大感激の様子。「父」も満足の様子だった。

宝塚の街は、宝塚歌劇の存在を前提にし、かつての遊園地などがなくなった今、景観を重視した落ち着いた住みやすい街となっていた。市の花であるハナミズキが沿道に咲き誇り、宝塚大劇場周辺は、色合いを統一して美観を保っている。時々、すらっと姿勢の良い背の高い女性が街なかを歩いているのに出会う。宝塚歌劇の女優さんである。

宝塚でホームステイ先のご夫妻と別れを惜しんだ後、京都へ移動。ちょうど帰宅ラッシュ時で、荷物もあるので、時間はかかるが、JR宝塚からJR京都線の高槻まで普通電車に乗り、高槻で京都行へ乗り換えた。ちょっと長旅で疲れた様子。

4月22日、京都では、歩くのが辛い「父」のためにタクシーをチャーターし、金閣寺と龍安寺に行った。金閣寺は外国人観光客でごった返しており、すごい人数だった。そんななかで「父」はインドネシアから来た観光客を見つけ、満足そうだった。

龍安寺では、石庭の良さが今ひとつよく分からなかった様子。京都の寺院を巡って様々な庭を愛でるには、あと数日は必要だと納得してもらった。

蕎麦屋で昼食の後、京都大学東南アジア研究所を訪問。旧来の知人である水野教授の案内で図書館をまわり、最後はインドネシア語で歓談。久々にインドネシア語全開で、思う存分語り合った後、タクシーで京都駅へ送ってもらい、新幹線で東京へ戻った。

東京では、東京スカイツリーの見えるホテルにチェックイン。雨で見えないかと思ったスカイツリーは、最上部を除いておおかた見え、「父」は満足。でも、「父」が初めて東京を訪れた1959年の東京タワーにまつわる思い出とどうしても混ざってしまうようだった。

ちょっとお疲れ気味の「父」だが、20年前と日本は大きく変わった、と繰り返していた。鉄道がより便利になったこと、あちこち花がきれいに植えられていること、エレベーターやエスカレーターが備えられて歩きやすくなっていること、外国人の姿がずっと多くなったことなど、いろいろ「父」なりに感じたことがあったようだ。そして、今回の旅を題材に、昔と今の日本についての印象を書いてみたいとまで言っている。その意欲には脱帽するしかない。

4月24日のガルーダ便で、インドネシアへ戻る。筆者も「父」と一緒に戻る。

「父」と日本旅行中(1)

4月16〜23日は、ジャカルタの「父」ハリリ・ハディ氏とその奥様と一緒に日本に来ている。

「父」にはすでに30年近くお世話になっている。インドネシアには何人かの「父」や「母」がいるが、そのなかでも最も長くお付き合いしている方である。

初めて「父」が来日したのは1959年、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校で学んだ帰りに3ヵ月間立ち寄ったときである。当時、一橋大学の板垣與一先生(故人)にお世話になったそうである。

その後、1969年に、できたばかりのアジア経済研究所(アジ研)のインドネシアからの初代客員研究員として滞在、1991〜1992年には2回めの客員研究員でアジ研に籍をおいた。当時、筆者は、アジ研の海外派遣員としてジャカルタにおり、インドネシア大学大学院で学んでいた。「父」に保証人をお願いしていたので、滞在ビザ延長のための保証人レターを書いてもらうのに、ちょっと苦労したことを覚えている。

「父」はインドネシア大学の先生だったが、後にインドネシア国家開発企画庁(バペナス)に移り、最後は、バペナスの地域開発担当次官で定年退職となった。

今回の「父」の訪問はそのとき以来、20数年ぶりである。「父」はすでに84歳、毎年、メッカへウムロー(巡礼期間以外にメッカを訪れること)で行っているが、今回はどうしても日本へ行きたくなり、私がフルアテンドで付き添うことになったのである。

私には、「父」にフルアテンドをしなければならないと思う理由がいろいろある。私にとっての恩人なのである。

16日に到着し、17日は、サクラをみるために、東北新幹線で筆者の故郷・福島へお連れした。花見山は全山満開で、福島の春の美しさを堪能できた。

花見山の後は、信夫山の第1展望台にのぼって、福島旧市街を展望した。福島の空は、ちょっと白く曇っていた。

「父」をお連れしながら、福島のことを思っていた。福島へいろいろな人が訪れるということが、今後の福島にとってどんなプラス・マイナスの意味を持っているのか、と。でも、富士・箱根や鎌倉へ行きたいと当初言っていた「父」が、「お前の田舎を見てみたいから、福島へ行きたい」と言ってくれたのは、正直いって嬉しかった。

「父」には筆者の実家にも寄ってもらい、母にも会ってもらった。あまり人と会うこともない母が一生懸命付き合ってくれた。わずか30分の帰省だったのが残念だったが、福島は日帰りで、筆者も東京で夜、予定が入っていたのでやむを得なかった。

福島の春の花々の美しさとともに、実家に寄ったのが、まるで夢だったかのような気分になった。

18日は、筆者の昔の職場であり、「父」が客員研究員として籍をおいたアジア経済研究所を訪問した。筆者自身ももうだいぶ訪問していなかったが、会う方会う方、皆、昔の仲間で、本当に懐かしかった。

仲間たちに心のこもった接待を受け、「父」はとても満足そう。途上国研究としては世界最大級の蔵書数を誇るアジ研図書館では、かつて、「父」が最初に客員研究員だったときの客員研究員レポートがみつかり、大喜びだった。

日曜からは、大阪、京都へ「父」をお連れする。

スラバヤ観光地図2014完成!

「スラバヤについて興味はあるけど、どこに何があるかよく分からないんだよね」という声を時々聞く。日本語で書かれた観光ガイド地図のようなものがあればいいのになあ、と思っていたら・・・。実は、それがあった。

日本語で書かれた「スラバヤ観光地図2014」。作ったのは、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科の大学3年生。同学科では、日本語教育の一環として、この地図を作っている。次も、新3年生がこの地図の改訂版を作る、とのことだ。

一見したが、意外によく出来ている。施設の説明などでは、住所、電話番号、営業時間も書かれている。筆者がこれまでさんざん見たことのある地方政府の日本語観光パンフレットよりもはるかに出来がよい。

もちろん、最新情報に基づいて、訂正すべき箇所がないわけではない。それは指摘して訂正していく必要がある。でも、スラバヤについて日本語で書かれた地図はおそらくこれが最初ではないだろうか。

筆者としては、この地図を電子データ化して、少なくともPDF化して、タブレット端末でも見られるようにするとよいと思った。そうすれば、スラバヤを訪れる人たちが前もってダウンロードして使えるようになる。

さて、地図を作ったら、その次はどうするのか。そう、もちろん、地図を使って、スラバヤの街を歩くのである。その際、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科の学生たちが日本人の方々をガイドする用意がある、とのことである。できれば、古い建物をめぐるコース、地元の市場の探検コース、宗教寺院をまわるコース、食べ歩きコース、などのコースを作って、この地図を片手に街歩きできるといいなと思う。

この地図を入手されたい方、大学の学生たちと一緒にスラバヤの街歩きをされたい方は、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科までご連絡を。もちろん日本語OKである。

国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科
Tel: +62-31-5035676, Fax: +62-31-503-5808
Email: japanologyunair@yahoo.com
担当: 清水千恵さん(JICA青年海外協力隊員)

日本へ行くのはちょっと・・・という印象

先日、スラバヤの街なかを歩いていたら、以下のような看板が目に入った。

北京・上海ツアーは8日間で650米ドル、日本歴史ツアーは7日間で1650米ドル。

このように並べられてしまうと、「日本へ行くのはちょっと・・・」という感覚にどうしてもなってしまうだろう。

何かもっと、中身をアピールする手立てはないものか。

インドネシアの人々は決して安さだけを重視しているわけではない。日本の良さを丁寧に、しかしインドネシアの人々が納得するように、アピールしていくほかないのではないか。

日本に行ってみたいというインドネシアの人々は数多い。逆に、最も安く日本へ行くのにこれだけで済む、というアプローチもありではないか。

一つの方法は、もっと、個人と個人のつながりや触れ合いを重視するようなアピールの仕方かもしれない。ホームステイや擬似的な家族づくりなど、まだまだ試すべき方法はいろいろあるだろう。

もっとも、東京の自宅は狭く、とてもお客さんを泊められるような状態ではないので、あまり大きなことも言えないのだが。

ともかく、フツーの個人どうしがもっとフツーにつながり、触れ合うことが、日本とインドネシアとの関係を深めていくのに最も効果的であると思っている。