政府エリートはなぜISへ合流しようとしたのか
1月26日、ISへ合流しようとしたインドネシア人とその家族が逮捕されたというニュースがありました。最初に報じたのは、シンガポールのチャンネル・ニュース・アジア(CNA)でした。
このニュースが注目されたのは、このインドネシアネシア人が元財務省職員だったという点ででした。報道によると、彼の職位はIII/c級で、2016年2月に財務省を退職。疑惑が立たないように、8月15日にインドネシアを発って、まずタイに到着。その3日後にイスタンブールへ飛んだ、とのことです。
イスタンブールで彼らはイニシャルがIのインドネシア人と会い、隠れ家に連れて行かれた後、イスタンブールで家々を転々とします。そして、2017年1月16日にトルコ軍に逮捕されて警察へ連行され、1週間後にインドネシアへ送還されたのでした。
彼はオーストラリアのフリンダース大学に留学して公共政策の修士号を取っています。もし財務省でそのまま勤務していたならば、将来は安泰で、昇進も約束されていたはず。経済的にも恵まれていたのに、なぜ、ISに合流しようとしたのか、謎に包まれたままです。
ただ、これまで、インドネシアではエリートがイスラムへ傾斜する場面がいろいろありました。
1990年代以降、経済的に豊かになった華人系企業グループやそれを擁護する市場重視型エコノミストへの批判を強めたのは、イスラム知識人連合(ICMI)に集結した学者や知識人でした。ICMIは1990年に設立された知識人組織で、市場競争激化とそれに伴う格差拡大の原因は世銀・IMFによる自由主義的経済政策であると批判しました。
中央政府や地方政府では、ICMIに所属する官僚が徐々に主要ポストに就き始め、ICMIは単なる知識人連合ではなく、政策や人事にも大きな影響を与えるようになりました。そして、イスラム教徒とキリスト教徒の人口比が拮抗している地方では、両者間のポスト争いが激化し、それが火種の一因となって、暴動が起こるような場面も見られました。
組織の中心メンバーには、欧米留学組も多数いました。でも、留学した者でICMIに加わらなかった者も少なくありませんでした。留学中、彼らに何があったのかは知る由はありません。でも、留学中の何かが、イスラムへ傾倒する者とそうではない者とを分けたに違いありません。
私の経験でもそうですが、福島の高校から東京の大学へ入ったときに、まず驚いたのは、福島にいたのでは想像もつかないような優秀な同世代の若者が東京には多数いるということでした。自分とは別世界の人々でした。そして、インドネシア大学に留学したときにも、まだインドネシア語がよく分からないなかで、優秀な学生たちの存在がとても眩しく見えました。
もしかすると、欧米などへ留学した者には、そうした優秀な学生たちがまさに「欧米」を体現した存在と映ったのではないか、と想像します。自分の国では優秀な学生だったのに、一生懸命勉強しても「欧米」に叶わない彼らは、どのようにして自分のプライドを守ろうとするでしょうか。
おそらく、そんな彼らを惹きつけるオルターナティブが、イスラムであるような気がします。すなわち、そこで改めて、自分がイスラム教徒であり「欧米」とは異なる者であるという自覚が強まります。そして、自分の努力が足りないのではなく、「欧米」であること自体が間違っている、その代替はイスラムである、といった感情が、イスラム知識人というカテゴリーを生み出したようにも思えます。
実際、インドネシア人留学生が海外でイスラムへの傾倒をむしろ強めていくという話は、よく聞きます。彼らがその社会から疎外されていると感じるほどに、自らのアイデンティティをそこに求めようとする傾向が強まるようにも思えます。
トルコで逮捕された元財務省の彼もそうだったのかどうかはわかりません。でも、留学先のオーストラリアで、あるいは財務省の中で、彼自身が自分の存在を否定されたり、認めてもらえなかったりしたとするならば、その代替となるアイデンティティのありかをイスラムに求め、そこに何らかの勧誘や洗脳が加われば、自分を虐げた社会への報復に自分自身を向かわせる可能性があるのではないかと思ってしまいます。
こうしたことには、おそらく、エリートであるかないかはほとんど関係ないのではないでしょうか。
どんな人間でも、自分のアイデンティティが一つしかない状態になると、極端な行動へ走る可能性が高まるのではないか、と考えるとき、その人のアイデンティティと思えるものを複数持つような状況を作ることが大事になってくるように思えます。
例えば、宗教以外に、自分の出自種族や、生活している場としての地域。出身校やサークルなどを含めても良いかもしれません。こうした複数のアイデンティティが確認できることで、自分の情緒も安定し、自分を極端な行動へ追い込む必要もなくなるのではないか。
そんなことを考えながら、改めて、様々な自分を内包して生きていくことの意味をかみしめたいと思うのでした。
はじめまして。記事を読んで感銘いたしました。アラブ中東研究者です。中村先生のご指導を戴き、最近インドネシアも現地調査をしております。「オルタナティブの対象として、ただ一つのムスリム・アイデンティティが選択されていく」ことが、「欧米キリスト教的な宗教」に影響されている過程だと思います。そうでなかったインドネシアのイスラムが変容していく危機的状況の発端になるのではないかと思います。すでに中東各国では、それが先行して進んでおりましたが(サラフィー主義が典型)、ついにインドネシアにも到来したかと畏れております。「一つ、混じりけのない、純粋、オリジンに直結」するものが善。それ以外は、シンクレティックというとネガティブさを帯びるが、たとえばハイブリットなどというとポジティブになる。インドネシア本来の多様な価値観が、今後どう対応していくか注目が必要だと思います。