原田正純先生の思い出

6月12日が原田正純先生の命日だった。原田先生とお会いしたのは一度だけ。それも、インドネシアでお会いしたのだった。

そのきっかけは、先生の著書「水俣病」のインドネシア語訳の出版だった。2005年5月3~5日、先生とジャカルタ、マカッサルをご一緒した。5月3日にジャカルタの空港でお会いして、5月4日にマカッサルで出版記念講演をしていただいた。
2003年以降、北スラウェシ州で工場の排水による環境汚染、住民の健康被害が問題となっていた。その症状から「水俣病でないか」との噂が高まっていた。しかし、インドネシア側には当時、水俣病に関する正確な知識が欠けていた。正確な知識を欠いたまま、水俣病という話だけが大きくなっていた。
そうした話をマカッサルの友人たちとしていたときに、彼らから水俣病についての本をインドネシア語に訳して出版したいという話が出てきた。そこで、原田先生の岩波新書での著書を紹介し、著作権その他の話を日本側で調整するという話のうえで、マカッサルの友人たちが英語版からインドネシア語へ翻訳して出版する、ということになった。マカッサルの友人たちのなかに小さな出版社を営む者がいたのである。
原田先生と実際に翻訳に関わったマカッサルの仲間たち
そうして、翻訳された”Tragedi Minamata”は出版された。その出版記念イベントに、著者である原田先生をお招きしたのである。
出版記念講演の後、”Tragedi Minamata”は、インドネシア国内の書店で一斉に販売された。書店によっては、平積みで売られたほど注目された。ところが、環境問題の発端となった北スラウェシ州では、販売開始直後、市中の書店からこの本が一斉に姿を消した。問題の発生元の企業が販売された分をすべて買い占めたと噂された。
原田先生のインドネシアへの招聘に当たっては、友人の島上宗子さん(現・愛媛大学准教授)とマカッサルにある国立ハサヌディン大学のアグネス教授らと一緒に実現させた。
あのとき、原田先生の魂のこもった講演を、私は懸命に通訳した。必ず伝えなければ、と力が入ったことを覚えている。
インドネシアでは、この出版の話のずっと前に、ジャカルタ湾で水銀などの重金属汚染の疑いが出て、水俣病ではないかと騒がれたことがあった。原田先生は、そのときにインドネシアへ来訪し、調査をされていた。今回の話もそうだが、水俣病と断定するにはまだ至らないとの慎重な立場に立っておられた。
6月12日が先生の命日だということを思い出させてくれたのが、永野三智さんのフェイスブックでの投稿だった。彼女が晩年の先生にインタビューした記事の再掲だった。それがきっかけで、2005年のインドネシアでの原田先生とのささやかな時間を思い出したのだ。
永野さんの記事は、とても心に沁みるインタビューの内容だった。多くの方々に読んでいただきたく、ちょっと長いが、私にとっての備忘録としても、謹んで、以下に再掲させていただきたい。
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■水俣病患者とは誰か
永野: 今日は原田さんの言葉を、しっかりと残させてもらいたいと思ってやってきました。まず、水俣病患者と一言で言っても、その言葉を使う人の立場や場合によって多様な水俣病が存在していますよね。原田さんが考える水俣病患者とは?
原田: 医学的には水俣病というのは一つしかないですよ。それを勝手に、認定や司法上、救済法上とつけている。これがまずおかしい。確かに重症、軽症の差はある。しかし、身の回りができる人が軽症で寝たきりが重症かって、単純に言えばそうかもしれないけど、患者の持っている苦痛からいけばどっちがひどいかは本当はわからないですよ。通説、通常、症状の重さによって患者を分けるというのは、世間一般常識的に受け入れられている。それだっておかしい。医学的には水俣病というのは一つしかないですよ。そこがまず矛盾ですよね。
永野: 矛盾というと、認定患者かどうかを判断するのはお医者さんではなくて、最終的には県知事ですよね。
原田: そういうことは他の病気ではありえないですよ。そしてまた、水俣病でもあり得ない。医師団というか審査会が棄却を決めている。医者の立場ならば有機水銀の影響があるかどうか判断すればいい。
ところが補償金を受ける資格を審査してる。だからおかしくなっちゃう。医学的な判断がベースにあっても、救済するかは社会的判断でしょう。越権行為ですよ。どっちかはっきりしないといけない。医学的な立場で貫くんだったら、認定は関係ないですよ。影響があるかないかを判断すればいい。そして医学的な立場だったら水俣病が三種類も四種類もあっちゃ困る。救済の判断だとするならば、医学の判断だけじゃなくてプラスアルファですよ。
だから当然、医者だけで審査会を作って救済するかどうか判断するのは違法ですよ。むしろ行政や弁護士や被害者が参加しながら決めていくべきです。
■言葉を残す
原田: この頃やたら取材の多かっですよ。
永野: 残しておかなければとは思っているんですね。
原田: 確かにそうだと思うよ。石牟礼道子さんと僕と話しておかないといけないこと一杯ある。宇井純さんも死んじゃって、あの頃のことをしゃべれるのは、桑原史成さん。道子さんは僕が診察に行くと取材みたいにしてついて来よった。この人は誰だろうと思っていたら、後で苦海浄土を書く時に医学用語を聞きに来たんですよ。それで「この人作家だったんだ」と初めて分かった。患者の診察に関心があるというのは保健婦さんかなと思ってたんですけどね。
その頃もう一人、人物がいて。大学で「東大の研究者が資料を集めて回ってる、謎の男だから用心するように」と言われてた。それが宇井純さん。だけど、面識があるようになったのは、第一次訴訟がおこってから。それから、桑原史成さんと僕は、当時接点がなかった。僕が現地にごそごそ入って行った時に、「学生さんが写真を撮りに来ているよ」という噂はあっちこっちで聞いたけどね。出会ったのは、ずっと後で、なんとなんとベトナム。僕がベトナムの調査に行ってる時に、桑原さんも来てて、ばったり。「あ、あなたが桑原さん」って感じでね。向こうもびっくりして。
永野: そこでの接点はあるんですね。そしたら桑原さんとぜひ話をしてほしいですね。
原田: あの頃、桑原さんの見た水俣をね。あの人まじめだから、「なんで水俣に関心持ったの」って言ったら、あの頃「飯が食えんかった。これで有名になろうと思った」。だけど僕に言わせると「これは大変な事件だから、ちゃんと記録しておけば飯が食えるようになる」と思ったこと自体がね。
永野: すごい嗅覚。
原田: すごい嗅覚ですよ。その頃の写真家なんて誰も関心持たなかったんだから。そこに目をつけたというのはたいしたもんですよ。宇井さんはまた別の意味で関心を持ったんだけどね。だから僕らが関心持ったのは、普通の当たり前。医者が病人に関心を持つのは当たり前でね。
僕はたまたま熊大の神経精神科に入った。その頃は熊大全部あげて水俣病に取り組んでいて、神経精神科の私たちの科が専門なの。イギリスからマッカルパインて言う人が神経精神科に来てて、本当は彼が最初に有機水銀説を言い出した。その時、通訳でついて来てたのが、その後神経内科の教授になる荒木淑郎ですよ。神経精神科の宮川太平教授が、マッカルパインを信用しとったら、ちょっとどうにかなっていた。マッカルパインの話を聞きに行くって言ったら、「あんな馬鹿な話聞くな」って言われてね。 昭和三三年、一九五八年。だからもう、熊大の大部分は有機水銀説に傾いていた。彼はイギリス出身だから、ハンター・ラッセルの論文を読んでいた。いろんな疑いの中の一つとして有機水銀があるというような話。一番早く言い出したんじゃないかと思うけど、もう分からない。ただ、我々の世界は誰が最初に論文を書いたかで、そこからいくと、武内忠夫先生ですね。
永野: 原田さんは、何故水俣病のことをやり続けられたんですか?
原田: 逆に僕は、なんでみんな続けんのだろうと思う。というのは、医者ですからいろんな病気にぶつかります。だけど、有機水銀中毒で、しかも環境汚染によって食物連鎖を通しておこした中毒なんていうのは人類史上初めてですよ。医学を選んで、世界で初めて経験したようなものにぶつかる確率はものすごく少ない。だから、なんでみんなもう少し関心持たんのだろう、あるいはもっと積極的に関係してこないんだろうって思う。関心持って来たら、政治的な目的だったり、それか全くその逆で、あれは政治的だとかね。大体医学界がおかしい。
今頃世界中では、何を議論にしているかというと、微量長期汚染の胎児に及ぼす影響でしょ? 日本で調べれば一番ちゃんと分かったわけでしょ。今となっては、だけどね。だから五〇代、六〇代が今どういう影響を受けているかというのが問題。そういう意味で僕は二世代訴訟に関心持ってるわけですよ。今までずっと関心持ってたけど、若い時代はみんな逃げちゃってましたよね。
■第二世代の障害
原田: やっぱりある時期が来ないと調査がちゃんとできなかった。差別とか、いろんな問題があって第二世代というのはみんな逃げていた。理論的には第二世代、胎児性世代というのは調べたかったんです。水俣病はハンター・ラッセル症候群を頂点にして、裾野の方が分かってきたでしょ。一つ、そこには「病像がはっきりしていないから救済できない」という行政の嘘がある。病像がはっきりしていないから、救済できない。感覚障害だけの水俣病があるかどうかとか。
でも実際は調べてみると、しびれだけなんていう人は少なくて。自覚症状を無視するから感覚障害だけになるけど、頭が痛い、からすまがりがある、力がなくなって途中で歩けなくなる、いっぱいある。ところがマスコミも含めて帳面上、感覚障害だけの水俣病があるかないかの議論になって。しかも、学問的にはまだそこがはっきりしてないみたいな風に。しかし今分かってることだけで、十分救済はできる。救済に支障ができるほどじゃない、「分からない」を理由に救済ができないなんて馬鹿なことないわけです。
今度は胎児性世代に関して言うと、これは全然手がつけられてない。見たら分かるような脳性小児麻痺タイプしか今のところ救済されてない、その裾野がね。じゃぁ、なにで救済されているかというと、大人の基準、つまり感覚障害で引っかかってる。それは当たり前ですよ。おなかの中でも汚染をうけて、たまたま生まれてからも魚を食べてるから、大人の基準でも当てはまる。しかし、そのこととおなかの中で影響を受けたことは別問題ですよ。そしてむしろ、それに当てはまらん人の方が深刻なんです。環境庁が作った判断条件の中に、胎児性の世代は感覚障害がない場合があることははっきりと明記している。それなのに大人の基準を当てはめる。そこの矛盾をちゃんと指摘しなきゃいかん。
被害者の会が大和解した時、僕は一所懸命反対した。今から一〇年も二〇年も裁判するというのは、年を取った人はわかる。だけど、若い世代を大人の基準で判断すると軽く切られてしまう。僕はそこにちょっと異議が、異論があったわけです。あなたが知ってる患者で言うなら、和解したAさんなんて感覚障害証明できなかった。一応高校まで行ってるってことになってるでしょう。あの人の持っている重大な障害というのは見えていない。おそらくその世代にはAさんだけじゃなく、たくさんいるはずですよ。
永野: そうだと思います。生伊佐男先生という方が、第一次訴訟の時に袋小学校にいらして原告の聞き取りをしておられた。私も小学校の時に、二年間担任をして頂いて。当時、ボールを投げても取れなかったり朝礼で倒れる子どもが多くて、教員たちは、「なまけてる」「気合いがたりない」と叱っていた。今になって考えたら、あそこは患者家族だし、魚も沢山食べている。症状があっておかしくない、そこに気がつくべきだった、っていうのを反省していらっしゃって。
原田: 反省はね、僕もしないと。一九六二-三年頃、僕は一所懸命、湯堂、茂道で胎児性の調査をしてる。知能テストをやったら成績がものすごく悪い。それで、あの地区には知的障害がものすごく多いという結論で終わってる。データを見てみると、Bさんなんて成績がものすごく悪かった。つまり従来の知的障害とは違う。Cさんだって、あのするどいセンスは、漢字が書けないのにね。症状がものすごいちぐはぐ、でこぼこがあるわけです。
永野: 脳の中に一個抜け落ちているところがある、そういう意味ですか?
原田: そうそう。だから障害が見えにくいんですよ。実はものすごくまだらになってる。それを一所懸命、若い世代はみんな隠してきたわけですよ。Bさんが一般的な知的障害者かというとそんなことないわけでしょう。ただどっかにちぐはぐな障害があって、それをやっぱり隠しているわけですよ。
永野: 本人にとってはものすごい努力ですよね。
原田: そうなんですよ。だから、Aさんは高校まで行ってる。どこがおかしいってことになるんだけど、おかしいんですよ。
■水俣病を続けるメリット
永野: 何をするにも自分自身にメリットがないとなかなか続けていけないと思うんですが、原田さんが水俣病に関わり続けるメリットというのは。
原田: メリットもいろいろあって。物質的なメリットや精神的なメリット。僕の場合はやっぱり好奇心ですよ。どうなってるんだろうと。これは別に、水俣病だけじゃないんです。三池だって、カネミ油症だって同じ。三池炭じん爆発の場合も、すごいトラブルがある。患者たちが医師団に対してすごい不信感を持ってつるし上げる。すると大部分の医者が怒っちゃって、「俺たちは患者のために来たのに、なんでつるし上げられるんか、もう知ったこっちゃない」みたいなね。「うそばっかり言うし」と、解釈しちゃう。
ところが、僕は好奇心があった。「なんでこの人たちはこんなにひねくれてんだろう」って。だって「向こうに注射二本してこっちに一本した、差別だ」って言うわけですよ。「あっちは第二組合で、こっち第一組合」って。こっちは、誰がどっちかわからないでしょう。そうすると、普通の、大部分の医者はそこで怒っちゃった。「何だこいつら、一所懸命やってるのに」って。だけど僕は、逆に興味があった。
永野: 医者として、というより、人としての興味って感じですか。
原田: 医者としてよりも、そうかもしれんね。むしろ知りたいと思う。一所懸命聞いてみたら、三池の炭鉱労働者たちの、二分されて、差別されての惨憺たる歴史があった。その差別される先頭に誰が立っていたか。
実は医者ですよ。天領病院って大病院があって、調べてみたら病院の組織はなんとなんと人事課の一部分だった。つまり、医療が人事管理に使われていた。そんなことは、調べてみなきゃ分かんない。医者対患者が、当然対立する。その対立がガス爆発の後まで引っ張ってきた。こっちは何も知らんで行ったことが、医者は体制側と、簡単に決めつけられてひとくくりですよ。しかし、歴史を遡ってみると本当に差別されている。例えば、風邪ひいたからと普通の病院に行くと「三日休みなさい」って診断書をくれて、会社に出すと「三日もいらん、この診断書は通用せん。天領病院の、会社病院の診断書もらってこい」っていう。会社病院に行くと、「三日も休まんでよか、一日でいい」ってね。全てそういうこと。労災もみんなそう。それで、医者と患者の中にものすごい不信感があった。そこに爆発が起こる。そこまで遡って調べてみれば、彼らがなんでこんなにひがんでいるのかがわかる。
僕がそれを話せば、知らずに反発してた医者仲間だってそれはよく分かる。それで、熊大は四〇何年もずっと追跡したわけですよ。水俣病だってそうなんですよ。チョロチョロっと調査に来て、しかも、第三水俣病の時なんか、九大の黒岩義五郎教授なんかが講習をやるわけでしょ。あの人は水俣病を見たことない。講習受けた人からちょっと聞いたけど、いかに嘘を見破るかという講習をやってるんですよね。「感覚障害は本人が言ってるだけだから信用できない」とかね。僕はいつも、裁判なんかでも言うんだけど、本来、医者が感覚障害があると言う場合は自覚障害じゃない。検査圧を強くしたり弱くしたり、何回もやってみて、これが診断なんだ。ところが、「感覚障害というのは本人が言うだけだから信用できん」ちゅうことは、自分の専門性をもう放棄してる、専門家じゃないと言ってるのと同じですよ。患者の言ったことを鵜呑みにするのではなくて、その中からどうあるのかということを確認するのが専門家でしょ。だから、馬鹿げた話ですよ。
そんなことも含めて、なんでみんな、もっと水俣のことに関心を持たないのかと。変な話だけど、世界で一人者になろうとしたらオンリーワンかナンバーワンですよ。医学の世界でナンバーワンになるのはなかなか難しい。だけどオンリーワンっていうのは、人がせんことをすりゃなるわけですよ。水俣病なんて、あんまりみんなせんからね。だから水俣病を一生懸命やったら、これはすぐ世界的にオンリーワンですよ、有名だから。売名行為でも何でもいいんですよ、とにかくやってくれれば。そこの違いがね。
永野: 最後に水俣病患者は誰か、の結論を。
原田: 少なくとも私の考える水俣病というのは、汚染の時期に不知火海沿岸に住んでいて、魚介類を食べた人は全部被害者ですよ。理屈からいけば、本当は認定審査なんていうのはおかしな話ですよ。ある一定期間、一定時期に住んでた人たちは全部水俣病として処遇すべきですよ。その中で重症者とか軽症者とか、それに応じたランクをつけることはある程度は合理性があると思うんですね。ただ、こっからここはだめよとか、年代に線を引くことは不可能と思うんですね。
感覚障害での線も本当は引けないはずですよ。特に胎児性世代というのは、感覚障害がはっきりしない人がいるはずだから。それは環境庁自身が認めてるんだもん。じゃあ何を入れるか。それはやっぱり、いつどこに住んでたか、家族がどんな状況か、そういう状況証拠しかないでしょ。本来なら、例えば体の中から水銀を高濃度に検出すればそれが証拠ですよ。ところがそれをさぼったわけでしょ。おそらく今度の裁判なんかで、被告は「住所を調べたり、近所に患者が出てるかどうかは、それは間接的証拠じゃないか」と言うに決まってる。しかし間接的な証拠しかないようにしたのは誰かと。本当はそういうことせんでいいのよ。生まれた時に、ちゃんと調査したり計ったりしとけば、もめなかったんだけどね。それがないというのは患者の責任じゃないでしょ。
永野: こないだ相思社に来られた方が、「みんなあそこのスーパーの卵が安いわよ、お得よという感じで、救済措置の申請をする。それが嫌なのよね」っておっしゃった。でもよく考えたら、誰がどんな被害を受けたかなんて、今や誰にも分からなくなって、ここまできてしまった。だったら、その「お得よ」って感じでも、それで被害を受けた人たちが本当に助かるんだったら、それでいいじゃないかと思ったんですね。それは今まで行政が何もしてこなかったことの結果であって。
原田: 原爆手帳と同じでね、曝露受けていることは間違いないんだから、それが症状が出てるか出てないか、ひどいかどうかという差だから、かまわないんですよね。ただね、そうはいっても、構造が非常に複雑なの。
今手を挙げてる人たちは、かつて差別した側にいた人たちなの。自分たちが被害者って分からなかったわけです。だから患者を差別してきた歴史がある。現に、僕らはそれを見てきたからね。だから感情的にはどうしても納得できんとこもあるんだけど。ひどかったですよ、さっきの学校の先生じゃないけど、湯堂や茂道の患者や家族に対する差別って。差別した人たちが今手を挙げる。間違いなく彼らも被害者なんだ、被害者なんだけども気持ちは非常に複雑なのよ。でも患者を差別したけども、その彼らはよそに出て行くと差別を受けたわけですよ。そういう意味ではまた複雑。もちろん今手を挙げてる人たちも被害者であることには間違いない。
今、あなたが言ったように、水俣病特措法では地域指定かなんかしちゃって、当時住んでいた人たちには最低でも医療費だけは出さんとね。そんなんいちいち診察の必要ないんですよ。その中で、プラスアルファの人たちもあるわけだから、ランク付けていろいろやっていけばいいわけでね。そうすっと解決するわけですよ。大体どれくらいの費用がいるのかも、見通しがきく。みんな審査をして、どんだけ費用使ってますか。その費用を分けた方がいい。というのが、一方にはあってね。しかし一方では、かつて患者を差別した人たちが今被害者だって言って、わぁってやってるわけだからね。最初の患者さんたちの気持ちを思うと非常に複雑ですよね。それを僕は見てきてるからね。どこを原点にするかというと、それは僕はもう一次訴訟の人たちですよ。
永野: それが例えば原田さんとか、袋小学校の生伊佐男先生みたいに、差別していたんだと自覚したり、苦しかったんだって反省したりすればまた全然違うんですけどね。
原田: だから、僕はもやいなおしに反対してるんじゃないんだけど、加害者と被害者といた時ね、殴った方が反省して「反省をしている」と。で、殴られた方が「あなたたちがそがん反省しとるならね、仲直りしましょう」って、手を出すならわかる。でも、殴った方が「もう時間が経ったけん、水に流そう」って言ったって、それは、もやい直しにならないんですよ。本当のもやい直しっていうのは、被害者が手を差し伸べるような条件を作ることでしょ。それは日本と朝鮮との関係を見てもそうですよ。日本がいくら「仲直りしよう」って言ったって、駄目ですよ。殴られた方が、「日本がそれだけ一生懸命やってくれるんだったら、もう仲直りしましょう」って、向こうから手を出してくるなら話はわかる。本当のもやい直しですよ。
永野: そのもやい直しも、その言葉ができた時は、違ったと思うんです。それが一人歩きしていったり、それを利用して水俣病を終わらせようという方向に持って行くことは嫌です。
原田: それはもう、今まで何遍も歴史の中であったわけですよ。これで終わりとかね。市民大会開いて、水俣の再建のためにって。よく読んでみると、もう水俣病のことはもうこれで終わらせようということでしょ。病気した人が終わるわけないわけたいね。いろんなことがあってね。
■歴史に残す
永野: 水俣病は一つしかない、でもやっぱり、地域の人たちはまどわされてますよね。「本当の水俣病とそうじゃない水俣病がある」なんて話、よく聞きます。「手帳だけの人は本当じゃない」とか。
原田: 手帳にも何種類かあるからね。
永野: とらわれている、信じてる。やっぱり行政がやることは大きい、その通りだというふうに思ってしまう。
原田: だから、我々のすることは、大したことはできないんだけど、そういう流れに少しでも抵抗すると言うか。今度だって、あの大和解をしたけど、たった何人かの大阪の反乱軍のためにひっくりかえったんだから。世の中を動かすのは、僕は多数派じゃないと思うんですよ。だからね、水俣のあの九人が問題をずっと明らかにしていくんです。だからって言って、彼らが救われるかどうか、思うような判決が出るかというのはまた別問題。厳しいですよ。だけど、異議申し立てた人たちが少なくともいたっていうことは、歴史に残っていくじゃないですか。
永野: その人たちのことを証言としてずっと残していく。
原田: だから、裁判のメリットというのは、そういうことでしょう。ほんと、裁判で救われはせんもん。ただね、きちんと歴史に残っていくというね。
永野: 何もしなければ捨てられていきますもんね。忘れられてなかったことにされてしまいます。
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原発事故後の福島や、今の新型コロナウィルスをめぐる状況においても、インタビューの言葉の一つ一つが投げかける内容が様々な示唆を与えてくれているような気がしてならない。改めて、原田先生の遺されたものに敬意を表し、自分のこれからの行動に魂を込めていきたい。合掌。

禅と瞑想

予定されていた仕事はほとんどすべてが延期または中止となり、出張に行くこともできず、インドネシアが恋しい気持ちが募るなか、今は東京の自宅で毎日を送っています。
このままで暮らしが成り立っていくのか、など悶々とする日もあれば、まあ何とかなるさ、と楽観とも諦めともつかないような日もありますが、精神的に揺れる私を家族が支えてくれていることをありがたく思う日々です。
そして、このブログやFacebookなどを通じて、また時にはZoom等での皆さんとのコミュニケーションにも支えられているなあと感じています。感謝いたします。
今日(6/10)は、今のところ、何か新しいことを前向きに、誰かのために、と思える日でした。そんな気分になるきっかけを得たのが、何気なく朝、視ていた「禅と21世紀」というテレビ番組でした。
様々な大事な言葉が語られていました。とくに、禅と瞑想はどう異なるのか、という話が心に沁みました。
禅を学んだ欧米の方々などのおかげで、欧米社会にも瞑想が根付いてきています。そこでは、瞑想は何のために行われるのでしょうか。マインドフルネスという言葉もよく聞きますが、それは、今、この瞬間を大切にする生き方、ということのようです。自分がどう自分らしく生きるか、ある意味、本当の自分をどう生きるか、という話なのかもしれません。
ところが、それは禅とは異なる、という話が出ていました。禅は、自分を開いていく、周りのものとの関係性のなかで開いていく、環境のなかに解き放ち、自分と周りの環境との境界がなくなっていく、自然や環境とつながっていく、ということが禅の根本の考え方だという話が展開されていました。
すなわち、瞑想やそれに基づくマインドフルネスは、自分をどうするか、自分を強くする、という自分の中へ閉じていくものである、と捉えられ、自分を開いていく禅とは反対の方向性を持つ、というのが禅の立場からの見方のようでした。
新型コロナウィルスの影響を受けた新しい社会という話の文脈で、私たちはどのように生きていくかが問われていることはたしかです。そのときに、私も含めて、自分をどうするか、自分はどう生きていくのか、自分をどう高めていくのか、という自分のことを考えることが多いような気がします。
同時に、物理的に他者と接触しない日々は、他者を思う想像力、自分が一人ではなく様々なものとの関係のなかで生きているのだ、という感覚をも再認識する日々のような気もします。
自分だけが生きているのではない。人間以外のもの、環境を含めた様々なものとの関係のうえで、自分が生きていて、周りのものや環境が心地よいもの、健やかなもの、楽しみや希望に満ちたものでなければ、自分の生も成立しない、と思い至ったとき・・・。
自分を他者や環境に対して開いていくのだなあ、と思ったのでした。自分が他者や環境をどうにかするのではなく・・・。
そこには、嘘・偽りや見栄、世間からの評価や勝ち負けなどは、必要ありません。ありのままの自分を受け入れ、他者や環境に対して自分を開いていく。もしかすると、富や名誉や名声などを得ることはなく、生活していくのも楽ではないことでしょう。
でも、自分が様々なものを世の中で構成している一つで、それらがすべて関係性のなかにあると自覚したとき、これまでの世間での常識や評価とは違う、勝ち負けや強弱を超越した、誰かが誰かを思う、他者や環境を想像できる、そんな生き方をすることで、今のやや悲観的な未来に、多少なりとも地に足の着いた希望をのこすことができるのではないか。
禅と瞑想の違いをつらつら考えながら、そんなことを想いました。
東京の自宅の庭は、いつの間にか、アジサイの季節を迎えていました。

あるツイートについてインドネシア語で訊いてみた

先週末、ツイッターであるツイートが多くの人々に取り上げられてバズっていた。それは、ある大学での試験で、インドネシア=日本関係に関する文章が示され、それを要約させる問題だった。
ツイート主は、その問題を自分の子どもから見せられ、文章の内容が事実と異なると批判し、その問題を出した大学の先生を糾弾する内容だった。そして、ツイート主の見解を支持し、試験に出された問題の内容と大学の先生を批判するツイートが数え切れないほど連なっていった。
参考までに、そのツイートへのリンクを貼っておく。
一応、インドネシアについて長年研究してきた人間として、この事件を無視することはできないと考えた。ツイートの話の前に、試験問題について若干コメントしておく。
このような内容の試験問題を出した意図は理解できるし、学生に何を求めているかも理解できる。ただし、要約というのは個人的にあまり好ましくなかったという気がする。要約ということは、問題の文章の内容をそのまま受け止めさせることを意味する。先生の意見を押し付けられたかのような感覚を学生が持ってしまう可能性は否定できない。
私ならば、学生に自分の意見を書かせる。それを書かせるために、どんな本でもインターネットでも参考にしてかまわない「持込可」としつつ、意見を書くにあたって参考にした文献などの出所をすべて書かせる。学生がどのようなソースから自分の意見を形成しているのかという傾向を把握することを重視したいと思う。
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それはともかく、ツイートの流れを見ていきながら、日本でのインドネシアに対するある一定の見方のオンパレードで、その歴史観を正しいと信じている人々が確実に存在することを改めて確認できたと思う。
その見方というのは、(1) 日本のおかげでインドネシアは植民地から解放され独立できた。(2) 日本の3年半の統治はインドネシアにとって有益であり、オランダ植民地支配より過酷だったことはない。(3) インドネシアが日本に恩を感じており、だから親日なのだ、というようなものである。この見方に立てば、日本の占領統治がオランダ植民地時代より過酷だったとか、日本軍が残虐行為を行ったとかいうのは誤りで、そうした間違った言説を唱える者は反日思想で子供たちを洗脳しようとしている、という主張になる。
私自身は、この見方も含めて、インドネシア=日本関係の歴史については、様々な見方が存在することを了解している。それは日本人の間でもそうであるし、インドネシア人の間でも様々な見方がある。その多くは、個人的な経験や近しい人々から聞いた話が元になっており、どれが正しくてどれが間違っていると一様に結論付けられるものではない。インドネシアの学校で使われる歴史教科書の記述だって、本当に正しいかどうかは疑問である。もちろん、同様に、先に上げた「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方が正しいかどうかも疑問である。
「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方が日本社会で一定の支持を受けていることを、インドネシアの人々は知っているのだろうか、という疑問が湧き上がってきた。彼らの一部は、先の試験問題が偏向していて、「日本とインドネシアとの友好関係にマイナスだ」と日本にあるインドネシア大使館・総領事館へ問い合わせるとまで言っているのだから。まあ、それに対してどう回答がなされそうかは、何となく想像がつく。
というわけで、私の英語・インドネシア語ブログ「Glocal Diary for Local-to-Local」のなかで、インドネシア語でこの話を書き、彼らの反応を見ることにした。6月3日に投稿して、今日(6/6)までに110回のアクセスがあった。
ブログの原文については、以下のサイトを参照してほしい。
このブログのリンクは私のfacebookページにも貼ったので、インドネシア人の友人たちからのコメントは主にFacebook上に寄せられた。そのリンクも以下に貼っておく。
コメントには、様々な意見が寄せられた。その多くは、自分の親や家族から聞いた話だった。彼らは、インドネシアの教科書で、日本軍政の過酷さやインドネシア側から見た独立正史を学んでいる。そのうえで、日本軍政にプラスの面とマイナスの面があったという者、日本軍政でも陸軍と海軍は違うのではないかという者、昔と今の日本は違うという者、など、冷静でバランスのとれたコメントが並んでいた。
なかには日本語をよく理解できる友人もいて、彼はツイートを「すべて読んだ」と言ってきた。彼はそれについての直接のコメントは差し控えたが、私が英語・インドネシア語ブログに書いたことを日本語でも書いて日本人にも伝えるべきではないか、とコメントした。
まだこの後も、インドネシア人の友人たちからコメントが届くと思うが、彼らからは、先の「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方への直接の反論・批判は今のところ出されていない。ただ、彼らがその見方と同じだとも断言できない。賛成とも反対とも言っていないのだから。大事なことは、そのような見方が日本にはけっこうあるということを彼らに分かってもらうことなのだと思う。
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先のツイートへの私なりのわだかまりについて、最後に述べておきたい。
第1に、自分たちの見方が正しくて、そうでないものは間違っている、とすることは賢明ではない。歴史で何が正しいかは、誰がどう関わったかによって異なる。教科書に書かれていることだって本当にすべて正しいかどうかは疑わしい。
第2に、彼らの依拠している情報ソースは、日本人が日本語で書いたものやインターネット情報が主であり、インドネシア語のものやインドネシア人の研究成果などにはほとんど触れられていない。インドネシア人がこう言っているというのは、すべて日本人が日本語で書いたもののなかにあり、書いた日本人の立場や意図を考えないわけにはいかない。
第3に、様々な見解が存在しうる歴史をただ一つの見解が正しいと決めつけ、その情報ソースもきちんと確認せずに、その見解と異なる見解を糾弾し、排除しようとする行為は、言いがかり以外の何物でもない。もし批判するならば、実名を名乗り、情報ソースを明示して、きちんと議論すべきである。
最初は、あのようなツイートを相手にする必要はないかと思っていた。しかし、そのツイートに1万を超える「いいね」がついている現実を見たときに、これはインドネシア人の友人たちにもこの状況を伝える必要があると感じたのである。
もしかすると、インドネシア側から見たら、「日本はすばらしい。だからインドネシアは親日なのだ」という見方に内心ではカチンと来るかもしれない、と想像できる。インドネシアは、自分たちで独立を勝ち取ったと信じているかもしれないし、そう思っているのが普通だからである。
私も、インドネシアで出会った様々な方々からそれぞれの日本との関わりや戦争のときの話を聞いてきた。インドネシアと言えども、場所によって、状況は様々だったはずである。おそらく、内心には色々な思いを持ちながらも、私に気持ちよく話してくれる人たちを大事にしたいと思う。そうしているうちに、彼らとの間で、インドネシアとか日本とかということが、いつの間にか溶けてなくなっていくのを感じるのである。
東京を訪れたインドネシアの高校生たちをサンシャインへ案内
(2019年3月19日)

差別における被害者と加害者

アメリカでは、ミネアポリスでの黒人男性ジョージ・フロイド氏の死亡事件を契機に、デモや騒動が全国へ広がったが、一向に収まる気配を見せていない。
彼を結果的に窒息死させた警官は、過去18年間に18件の抗議を受けた問題児だった。この警官とともにいて、その行為を止めなかった残り3人の警官も起訴された。
その3人のうちの一人は、東南アジアの少数民族であるモン族の出身で、ベトナム戦争のときに米軍に協力したのを契機にアメリカへ渡り、警官になった人物であった。この事件のすぐ後、モン族出身者の店舗などが抗議者たちによって焼き討ちにあった。
以上の話は、インドネシア語の新聞を読んでいて初めて知った。日本の新聞でも報道されていただろうか。
今のアメリカでの黒人差別への抗議運動は、そのなかに、別の人種差別意識を内在させている可能性を注視する必要がある。アメリカ社会のなかで、アジア出身者が黒人から受けてきた暴言や差別の経験もSNS上などで多数現れている。マジョリティによるマイノリティ差別という観点で見なければならない面もある。
アメリカは大統領選挙を目前に、白人票や黒人票を意識した表面的な政治的発言が目につく。黒人の経験したこれまでの苦悩や差別をしっかりと学び、理解することはもちろん必要だが、それが黒人だけを特別視して、黒人による他者への差別に目をつぶる結果となれば、社会の分断が解消へ向かうことはない。
同時に、アジア系だって差別されてきたというアジア系の人々も、果たして自分たちはこれまでに差別を全くしてこなかったのかという点を自問し、胸に手を当てて、謙虚に省みることも必要だろう。
誰でも、自分だけが可哀そうな被害者だと思っているが、もしかしたら加害者にもなっているかもしれないと思い至ることはなかなかできない。
そういえば、新型コロナウィルスは、他者から感染させられるだけでなく、知らぬ間に自分が他者へ感染させるかもしれない、ということを気づかせてくれた。被害者であると同時に、加害者でもあり得る、という感覚が徐々に普通に受け入れられるようになっている。
もっと謙虚になろう。差別されたと抗議すると同時に、自分も誰かを差別しているかもしれない、と。その差別は人種だけではない。学歴であったり、出身階層であったり、血筋であったり、職業であったり、容姿であったり・・・。差別の種は多種多様である。
差別することで、自分の存在を確認しているかのような。私自身も、振り返ると、そんなことが全くなかったとはいえない気がする。自分に自信がないときほど、他者を差別したくなるのかもしれない。
そして、自分よりも上でかなわない相手に対しては、服従という名の自分をへりくだる逆差別をするのではないか。前回書いた、白人だから職務質問をしない警官も、その一例なのではないか。
日本でもインドネシアでも、初対面の相手が自分と比べて相対的にどれぐらい上か下かを推し量って対応する、というケースに何度も出くわした。そうやって、人は常に差別または逆差別をしているように思える。
人間とは、自分を自分たらしめるために、たとえ明示的でなくとも、あるいは無意識に、他者を差別して生きている動物、とまで言ったら言い過ぎだろうか。
謙虚に自省する時間を持たなければ・・・。
インドネシア・南スラウェシ州の村で出会った
ある大家族の面々(2003年2月23日撮影)

アメリカの人種差別反対デモを見て思ったこと

アメリカでは今、ミネアポリスでジョージ・フロイドという名の黒人男性が警察官による拘束で死亡する事件がきっかけとなり、全国で黒人などへの人種差別反対デモが続いている。

新型コロナウィルス感染による死者数で、黒人の死亡率が白人ほかのそれの2倍以上という現実は、新型コロナ感染の危険性が高いなかで、底辺で社会を支える仕事で働き続けるエッセンシャルワーカーなどに黒人が多く就業していることを反映していると見られており、アメリカ社会における人種問題の根深さが大きく露呈された格好になっている。
為政者はこうした状況を率先して解決する態度を示さず、今の状況が次の選挙での自分への攻撃材料になることを極度に恐れ、アメリカ第一と言いながら、自分第一の態度を採り続けている。自分の再選しか頭になく、アメリカ社会の危機に正面から向き合おうとはしていない。ひどいものだ。でも、多くのアメリカ市民は、そんな為政者の態度を諦めの目で放置はしないだろう。健全な市民社会とは何か、を目の前に見せてくれる、他者への思いやりと尊敬を示す名もなき人々の勇気ある行動がSNSにどんどん流れてくる。
そうしたアメリカの現状を見ながら、少し思い出したことがある。
一つは、異端者であるが故に、違法性のある者という疑いの目で見られるということ。
アメリカでの黒人差別は、黒人であるが故に罪人や悪人に見られているのではないかとの怖れを常に黒人に強いている様子がある。多くの黒人がそうやってアメリカ社会のなかで恐怖を常に持ちながら生活していることを想像する。
東京の私の自宅のあるところは、昔から外国人が多く居住しており、日頃から普通に外国人と接している場所である。でも、ほぼ常に警察官がパトロールしていて、白人以外の外国人に対して次々に職務質問をし、場合によっては数人で取り囲んで、あたかも犯罪者をみつけたかのような態度で接している。
白人以外の外国人であるが故に、不法滞在者と見なされて職務質問され、たまたま在留カードを所持携帯していないと、罪人扱いされ得る。
私もインドネシアで、外国人であるが故に、疑われたことが何度もある。一番よくあるのは、入国時のイミグレでのやりとり。インドネシアへに出入国が多いことから、何か変なことをしているのではないかという疑いをかけられる。
ふと思ったのだが、政府高官、エリートなど社会的ステータスが高いと認識されると、黒人だからとか外国人だからとかいう理由で、疑いの目で見られることはまずない。私も、公用旅券で出入国する際には、イミグレの係官の対応がとても丁寧になるという経験があった。たしかに、私のふだんの格好では外交官にもビジネスエリートにも見えないだろう。
黒人でも社会的に有名な人を警察は疑ったりはしないだろう。日本で白人は、逆に白人であるがゆえに、疑わないということがあるのではないか。
日本も相当に人種差別意識が高い。しかしそれを日本人は認識しないし、正そうともしない。
もう一つは、暴動である。
アメリカで今起こっている暴動は、平和的なデモの後に、他地域からのよそ者が組織的に入り込んで略奪行為をする、というパターンだと報じられている。すべてがそうだとはいえないだろうが、暴動が自然発生的なものだけでなく、意図的に起こされている面があることは想像がつく。
インドネシアでも、そうした形の暴動はこれまでにいくつもあった。昨年5月のジャカルタ暴動も同じような構図だった可能性が高い。
ただ、暴動発生の構図が似ているということを指摘することはそうなのだが、私が不思議に思うのは、これだけアメリカ全土にデモや暴動が広がっているのに、アメリカが危険だという話が聞こえてこないことだ。
インドネシアならば、ジャカルタで暴動が起これば、ジャカルタ以外が平穏でも、インドネシアは危険だという認識が広まる。場合によっては、在留邦人の強制避難帰国、自衛隊機を派遣しての救援、といった話さえ出てくる。
この違いは何なのだろうか。
そうか、これも差別問題なのだ。
アメリカは先進国、インドネシアは発展途上国。だから、アメリカで暴動が起こっても危険ではなく、インドネシアで起こると危険になるのではないか。
そして、先進国としてみているアメリカは白人のアメリカなのだ。アメリカ社会の中の黒人など白人以外の存在は無視されているのではないか。
インドネシアも、見ているのはジャカルタのインドネシア。しかも、官僚やビジネスエリートなど華人やジャワ人のインドネシア。華人やジャワ人以外のインドネシア人の存在は無視されているのではないか。
アメリカ社会の複雑な構造を現実としてそのまま捉える。インドネシア社会の複雑な構造を現実としてそのまま捉える。
差別意識を基礎としたステロタイプな見方を脱し、様々な人々や社会の存在を寛容に当たり前のものとして受け入れられなければ、分断と差別に蓋をしたまま、薄っぺらい民主主義ごっこを続けることになる。
酒は飲んでいないが、今日はちょっと荒っぽく書きすぎた。

インドネシア研究と地域振興・地域づくりの二本柱

私自身は、元々、35年前からインドネシア地域研究を仕事としてきましたが、その途中で、25年前から地域振興や地域づくりについても自分なりに経験と専門性を深める努力をしてきました。
ですから、専門は何ですか、という質問に対しては、インドネシア地域研究と地域振興・地域づくりの二本立て、と答えるようにしてきています。
地域振興・地域づくりを強く意識するようになったのは、1995年に、インドネシア東部地域開発政策アドバイザーを務めてからでした。
それ以前の1993年から2年間は、日本の産業政策が東南アジア諸国の産業発展にとって有効かどうか、という課題に取り組んでいました。ちょうど、世界銀行から『東アジアの奇跡』(East Asian Miracle)という報告書が出て、市場原理主義だった世銀が日本型の産業政策に一定の評価を与えたことが注目されました。日本の産業政策のなかで、数社による寡占的な業種でいかにコンテストベースの競争政策を持続的に進めるか、という適切な政府介入、政府=民間の関係というものが議論されました。
その後、全く意識していなかった地域開発政策という分野へ入っていきます。それまでに行ってきた研究は、中央省庁よるマクロな政策が主であり、一国研究として「インドネシアは」というアプローチでした。
ところが、地域開発では、対象の地域が主語になります。それまで、日本の産業政策をサーベイするなかで、産業再配置政策の歴史的展開については調べていたのですが、インドネシアの各地域の状況については、一国という単位のなかで大まかにしか把握していませんでした。
実際にスラウェシ島最大の都市であるマカッサルに赴任して、インドネシア東部地域の各地や農漁村、離島部などの現場を歩きました。そこで地域開発政策の観点で重要なのは、政府と民間(住民)とがどのような関係をつくり、民間(住民)がイニシアチブをとれる環境をどう作っていくのか、それを促すための適切な経済的刺激をどのようにうまく入れて活用するのか、といった点であることを実感しました。それは、程度の差こそあれ、日本の産業政策における政府介入や政府=民間関係の在り方などとある意味共通するものであったことに気づきました。
地域開発政策アドバイザーとしてのメインの相手は地方政府であり、彼らの見解や考えが民間(住民)レベルでのニーズや意識を反映しているかどうか、どのように両者の適切な関係をつくることができるのか、それを彼ら自身が納得して自分たちでつかみ取れるか、といったことを考えながら仕事をしていました。
そして、アドバイザーであるから当然の提言や助言を出さず、彼らの気づきを促し、彼ら自身が作り出したと認識できるような、敢えて教えない、ファシリテーター的な政策アドバイザーを目指しました。
インドネシアでも、日本から来た専門家に対しては、すぐに効果の上がる、手っ取り早い解決策を求める傾向が強いものです。しかし、私は自分がその土地に馴染みの深くない「よそ者」であることを強く意識しました。解決策が必要であれば、それは、「よそ者」から与えられるものではなく、その土地の人々が自らのものとして編み出すものである、という態度で通しました。
インドネシアでのべ5年間の地域開発政策アドバイザー業務を終えて帰国し、派遣元のJICAで帰国報告を行ったときに、ある方から言われた言葉を忘れることができません。
曰く、あなたのやったことは評価できない。あなたが助言したから先方の政策に生かされたという検証ができない。何月何日に発した助言が何月何日にこのように政策に反映された、それは日本のおかげだ、というのがないと評価できない、と。
実際、私が提言した内容を地元政府高官が発言する現場には、何度も出くわしました。でも、それは借り物ではない彼の言葉でした。彼なりに私の提言を咀嚼し、自分の言葉で発言したのでした。それを「私がインプットしたからそう言った」と主張することは、自分にはできませんでした。
私は、ポリシーペーパーを書いてその通りやりなさい、と助言する政策アドバイザーにはなりませんでした。「よそ者」としてその土地に長くいる彼らと一緒に考え、ときには彼らからすれば頓珍漢なアイディアさえ入れつつ、議論の流れを見ながら再度私なりの意見を入れ、というプロセスを繰り返しました。
「よそ者」である自分が、その土地の未来に対して責任を取ることはできません。その責任を取るのはそこに暮らす人々であり、地元の地方政府です。ある意味、私なりの無責任を貫くことにしました。
それから今に至るまで、彼らとの関係はずっと続いています。ときには、アドバイスを求められることもあります。ただ、自分が果たしてどの程度彼らにとって役に立てたのかについては、胸を張って「これだけ役に立った」ということはできずにいます。
ただ、あのとき、あの時代を共有していた、一緒に課題の解決策を真剣に議論し合った、そんな経験が今も彼らを信頼する基盤になっているような気がします。おかげさまで、インドネシアでは、34州中28州を訪問し、地域振興等について真剣に議論してきました。
世間的にはこれでよいのかどうかは疑問ですが、これが自分のスタイルなのだ、と思うことにしています。
以上のような経緯を経て、今では、インドネシアでも日本でも、中央省庁と仕事をすることはあまりなくなり、地方自治体や地域コミュニティと一緒に何かをするほうへ比重が移ってきています。インドネシアへの出張も今や、ジャカルタではなく、ほとんどが地方への出張となりました。
果たして、日本でも上記のようなやり方や考え方は有効なのか、といつも自問しています。そのときに、参考になるのは、論文を多数書いた研究者ではなく、日本中の地域という地域を歩いてきた宮本常一氏のアプローチです。インドネシアの地方をまわる際にも、彼のやり方は本当に参考になりました。
そして、今、インドネシアの地域も、日本の地域も、その直面する根本課題が「地域アイデンティティをどのように持続・発展できるか」という共通課題であることを意識するようになりました。地域振興・地域づくりについて、インドネシアの地域と日本の地域とをパラレルに見ながら、この2国以外の地域についても同様ではないかと考えるようになりました。
国境を越えて、ローカルの視点から、地域と地域をパラレルに、あるいは複層的にみていくことで、国家単位では見落とされてしまいがちな、より本質的に課題に迫れるのではないか、という意識が自分には年々強まってきています。
というわけで、インドネシア地域研究(とくに政治経済の現状分析)は継続していきますが、それにプラスして、国家という枠組みを超越した地域振興・地域づくり(とそれが創る新しい未来像)を意識した活動を続けていきたいと考えていきます。
数え切れないぐらい堪能したインドネシア・マカッサルの夕陽。
自分にとって最も重要な景色の一つ。

英語・インドネシア語の個人ブログを開始

グローバルとローカルが交じり合う日々のくらしのなかで、思ったこと、考えたこと、感じたこと、伝えたいことなどを気ままに書きのこす、という目的で、この個人ブログ「ぐろーかる日記」を書いています。
そして、以前も書いていたのですが、英語・インドネシア語での徒然なるままにの姉妹版の個人ブログを書くことにしました。
名付けて、Glocal Diary for Local-to-Local というブログです。以下のリンクから見ることができます。
この英語・インドネシア語ブログでは、日本のローカルに関することやインドネシアに関する自分なりの見方・考え方を提示してみたり、日本語ブログを翻訳した内容などを書いていきたいと思っています。
英語・インドネシア語の個人ブログを始めたことで、6月以降は、1日おきに日本語ブログと英語・インドネシア語ブログを交互に書く、というペースで書いていこうかなと思っています。
だんだんに、日本語読者向けの内容と、英語・インドネシア語読者向けの内容とが違ってくるのではないかと思っています。
もっとも、日本語ブログでも、英語・インドネシア語ブログでも、グーグル翻訳できるようにしたので、どちらも同じような内容になることがあるかもしれませんが、それでも、別々に発信する意味があるのではないかと思っています。
以前、別名のブログで英語・インドネシア語での発信を試みましたが、もっと自由に徒然に書きたいと思い、今回のような形にして新スタートしてみました。
どこまで続くかは分かりませんが、とりあえず、これで始めてみます。よろしくお願いいたします。
東京の自宅のくちなしの花が咲き始めました。
いい香りを放っています。(本文とは関係ありません)

ペーパーレス化へ準備

先週、iPad Mini 5を購入し、Apple Pencilも揃えて、手書き入力できるノートアプリを二つ入れてみました。

最初に入れたのは、Nebo。このアプリは、手書きした文字や図形を認識して、すぐに変換してテキスト化してくれます。そのスピードと正確さにビックリしました。また、ダイアグラム・モードにすると、手書きで書いた図をきれいに正してくれます。
昔、7Notesというアプリで、手書き文字をテキストへ変換してくれたのですが、Neboはずっと進化していて、まだまだ進化していきそうな予感がします。
もっとも、ノートアプリを入れようと思ったのは、過去に書いたノートをPDF化して、一ヵ所で管理したい、と思ったことがあります。最近は、切り取り線の入ったA5ノートに記録して、それをプロジェクトごとに切り取ってまとめるという形だったので、結果的に散逸してしまいました。一ヵ所にまとめて、いつでも見返せるようにしたい、と思いました。
実は、それがiPadを新たに購入した第一の理由でもありました。
Neboは優れたアプリですが、上記のようなノート整理には、やや非力な面があるので、ネット上で評判の良いGoodnotes 5を入れてみました。これが大正解でした。
さっそく、過去のノートを1ページずつPDF化し、それを仕事ごとに細かく分けてひとまとめにする作業を続けてみました。
これで、過去に「よりどりインドネシア」の記事を書くために作った大量のメモや、出張時のメモ、面会メモなどを色々入れることができました。PDF化は、Goodnotes 5にスキャン機能があり、写真を撮るようにスキャンして、そのままPDF化されます。スキャン機能も優秀で、多少傾いていても、補正してくれます。
散逸していたノートをすべていつでも持ち歩けるようになるのが嬉しいです。
仕事ごと、内容ごとに、過去のメモやノートをさらにPDF化して加えるとともに、今後は、可能な限り、iPadに書き込んで、残していくようなスタイルにしてみたいと思っています。
iPadとApple Pencilに加えて、360度回転するiPadケースも用意。
iPadの縦置きができるようになって、新聞記事も読みやすくなりました。

都電荒川線沿いの可憐な花たち

我が東京の自宅の最寄り駅は大塚駅。JR山手線と都電荒川線(さくらトラムという別称があるらしい)とが交差する駅です。

大塚駅の周辺は、今の季節、地元の方々によって植えられた花々が咲き誇っています。とくに、大塚駅の南側、向原駅までの都電の線路に沿って植えられたバラは有名です。近年、大塚駅南口が整備され、駅を出てすぐの通路の両側にも、様々なバラが植えられています。
我が東京の自宅は、大塚駅の北側です。一昨日(5/26)、所用で郵便局へ出かけました。郵便局は都電の線路のすぐ脇にあります。たまたま、郵便局は混んでいて、ソーシャル・ディスタンスを守るため、郵便局の外に出て、順番を待っていました。
まだ10人ぐらい後だったので、外でブラブラしながら、都電の線路を眺めていました。子どもの頃から、電車を見るのが好きで、今でも、時間を忘れて、いつまでも電車を見続けていると幸せな気分になります。
よくみると、線路の間に、小さな黄色や白色の花がたくさん咲いていました。
それだけで春!という気分になるのですが、そこへ都電が来るのです。
こんな何の変哲もない風景、けっこう好きです。
足元に目を移すと、南口のバラほどは目立たないものの、色々な花が植えられていました。
そんな花々のなかで、特に目を引いたのが、次の花でした。
紅白の花で、上が白、下が赤。あまり見かけないようで、何だかよく見るような・・・。何という名前の花か、思いつかなかったので、調べてみました。
チェリーセージという花でした。
大輪のバラもいいのですが、こんな紅白の可憐な花もいいものだなと思いました。
春の大塚は、けっこう花を楽しめます。

今回の申告は郵送で完了

今年も法人税の確定申告の季節が来ました。会計年度を4~3月としているので、期限は5月末(今回は土日の関係で6月1日まで)です。

弊社(松井グローカル合同会社)は、福島市に設立したので、当然、法人税、県民法人税、市民税は、福島税務署、福島県県北地方振興局、福島市役所へ申告する必要があります。
私は、自宅のある東京と事務所のある福島を行き来するという仕事の形を模索してきました。2拠点での活動です(インドネシアも含めると3拠点?)。
例年はこの時期、福島市に居て、すべて処理してきました。書類を整えれば、福島市の旧市内が小さいので、3つの役所を自転車で半日かからずにまわって済ませることができました。
福島市の弊社の事務所と同じ敷地内にある古民家「佐藤家住宅」。
3月半ばに訪れて以来、事務所へは行けない状態です。
でも今年は、新型コロナの影響で、東京から福島へ行けなくなってしまいました。
福島に行ったとしても、2週間はホテル等(実家でもいいのかもしれないが)に籠って経過観察しなければならない、という話でした。また、弊社は、同じ敷地内に高齢者施設があることもあり、先方から来訪しないことを求められてもいました。
法人税の申告書類を作成する際には、前年の書類を参考にするのですが、それらの書類はすべて事務所に置いてありました。これは困った。税理士を使わず、自分で作成しているので、前年の書類が必要になるのです。
そんなとき、高齢者施設の担当者から、「事務所に入ることを許してもらえれば、当該書類を探して東京へ送ります」との申し出がありました。渡りに船、と申し出をありがたく受けたのですが、ここで問題発生。
「事務所の鍵が見当たらず、事務所へ入れませーん!」という連絡。
事務所の鍵自体、高齢者施設代表でもある家主から借りて、私が合鍵を作ったのだから、絶対、向こうにあるはずなのに・・・。
でも、放置しても埒が明かず、時間も限られているので、こちらで再び合鍵の合鍵をつくり、先方へ郵送しました。
翌々日、合鍵が届いたので事務所へ入ります、との連絡。しばらくして、先方からビデオコールがあり、事務所の机まわりを映しながら、「これですか、それともこれですか?」と、しばし、一つ一つ見せてもらい、ようやく、前年の書類の入った封筒が見つかり、東京へ送ってもらうことになりました。
2日後にその封筒を受け取り、申告書類の作成に取り掛かり、何とか終了。
すべての書類のコピーを取り、福島税務署、福島県県北地方振興局、福島市役所の3ヵ所宛の封筒を作成、それぞれに受取証を返送してもらうための返信用封筒を入れて、郵便局から簡易書留で本日(5/26)、送付しました。
その後、県民法人税と市民法人税を支払うために、福島の地銀である東邦銀行の新宿支店へ出向き、支払いを済ませました。
赤字決算のため、県民法人税と市民法人税の均等割分のみを支払う形でした。
というわけで、何とか、郵送で今回の申告を終わらせました。
電子納税も考えたのですが、法人税の場合、電子証明書の発行やICカードリーダーが必要なだけでなく、様々な明細書のすべてが対応しているわけでもないので、意外に面倒で厄介だと感じました。次回以降、電子納税のための準備をすすめるかどうか、ゆっくり考えたいと思います。
今年度の課題は、これまでと同様、いかにして売り上げを増やすか。クライアントに頼るのではなく、自分で何かを創りあげることをしっかり考えないといけない!
新型コロナの影響で、当面、収入源がほとんどない状態が続きそうですが、今は耐えるしかないのはやむを得ません。でもよい機会なので、今後の新たな展開について、もっと大胆に考えてみたいとも思っています。

オンライン講義用の動画を作成してみた

今年は、大学教師の友人からの依頼で、母校で2回、ゲスト講義を行う予定です。
ただし、このようなご時世なので、すべてオンライン講義に切り替えられました。このため、オンライン講義用の動画を初めて作ることになりました。
私としては、学生と直に対話したり、議論したりするのがとても好きなので、Zoomで授業をとも考えていたのですが、友人からZoomのセキュリティ上の問題が指摘され、また予想できない、様々な技術的なものを含むハプニングが起こるので、パワポ作成後、動画を録り、動画ファイルにして送ってほしい、ということになりました。オンディマンドでの配信となるようです。
きっと、大学などで授業を持っている友人たちはすでに当たり前となっていることに過ぎないのでしょうが、私自身は初めてだったので、ちょっと戸惑いがあり、なかなか作業に取り掛かれずにいました。
でも、オンライン講義を配信する日時が迫ってきていて、もうこれ以上放置するわけにもいかないと思い、ともかく、やってみることにしました。
動画で使った映像。講義内で説明しませんでしたが、バティックを着てみました。
ちなみに、今回の講義はインドネシアの話ではなく、地域振興の話でした。
実際には、取り掛かる前に思っていたよりも容易でした。
パワポで作ると、1つのスライドごとに動画を録り、それをつなげる形になるので、失敗しても、そのスライドだけを納得いくまで録り直せるし、後から特定のスライドだけピックアップして録り直すことで、全体の時間調整もできます。
ただし、パワポに入れたアニメーションは効かなくなるので、アニメーションを活かすのであれば、コマ送りのように、アニメーションの一つ一つをスライドに一つ一つ落としていく、ちょっと手間のかかる作業を入れなければなりません。
そして、そのスライドの一つ一つをナレーション入りで録画するので、ナレーションを簡潔にするなどの工夫もいります。アニメーション入りのスライドをそのように処理してみたのですが、意外にうまくいきました。
今回、ハンドセットなしのパソコンだけでやってみたのですが、幸運にもけっこうマイクが音声を拾ってくれました。ただし、スライドごとの録音を始めるときの最初の言葉の音が明瞭に出ないので、そこは敢えてゆっくりはっきりと発音するように心がけたほうがいい、と少し反省しました。
すべての作業を終えて保存すると、けっこうな重いファイルになってしまい、保存が終わるまでに時間がかかりました。そして、それをさらに動画ファイル(mp4)へエクスポートしてやるのですが、インターネット用の中画質でも、ずいぶんと長い時間がかかりました。
あとは、動画ファイルをデータ便で友人宛に送るだけ。実際に配信されるのは明後日ですが、何だかもう、授業は終わってしまったような、不思議な気持ちです。
作業自体は、コツを呑み込めばそれほど苦痛を感じるものではありませんでしたが、スライドごとに録画状態をいちいち確認しながら進んだりするので、長い時間がかかりました。
膨大な時間が費やされるだけでなく、直接の講義よりも、内容に正確さや論理性が求められるので、手を抜くことができない怖さがあります。
また、話が脱線したり、思いもかけない展開になったりすること(それが思わぬ気づきを教える側と教わる側に与えたりすることもあるはず)も、まずないと思います。臨場感はなくなります。ここでちょっと息抜き、というのも難しく、何だか一本調子での講義になってしまうなあ、と思いました。
大学教師の友人たちは、この作業を何本も何本も作っているのかと思うと、頭の下がる思いがします。本当にご苦労さまです。
ただ、自分なりに、まだまだ講義のつくり方に改善の余地があるとも思いました。それでも、学生と直接対面しての真剣勝負がしたい、とも思いました。

断食明け大祭を賑やかに祝えなかったムスリムの人々を想う

本ブログは5月1日以降、毎日更新していたのですが、昨日、諸般の事情で頓挫してしまいました。残念ですが、また今日(5/24)から、毎日更新を試みます。

本日5月24日は、ムスリムにとって喜びあふれる日である断食明け大祭の日。日本のお正月のように、大勢で一緒に礼拝をし、家族や親族が集い、喜びの濃厚接触が続く日です。そして、だからこそ、今年は、それらを行えない断食明け大祭となりました。
ロックダウンで、家族と離れ離れだったり、実家に戻れなかったりして、一人でこの日を迎えた人のことを想います。
年に1回、故郷へ戻ってくる子どもたちと会うのが最大の楽しみだったのに、今年は会えないという悲しみや寂しさを懸命にこらえている人々のことを想います。
断食月に施しをもらえた弱い立場の人々が、今回は皆、自分のことで精いっぱいで、施しをもらえず、厳しい状況となっていることを想います。
もしも自分が、新型コロナウィルスの影響で、お盆にも正月にも、実家の親や親族と会えないことを想像することで、今の、断食明け大祭で苦しい状況にあるムスリムの人々のことを想うことができます。
今、誰もが厳しい状態であり、他者のことを想ったり、支援したりする余裕は乏しいのが現状だと思います。誰もが助けてほしい状態、なのだと思います。
そんななかでも、たとえ自分の状況が厳しくとも、自分たちの食料の一部を他者のために提供する人々の姿が、インドネシアの新聞に報道されました。金持ちの施しではなく、貧しき者どうしのささやかな助け合い。
人間は一人では生きられない。誰も取り残さない、なんて上から目線ではなく、日頃から世話になっている隣人同士、自分がこの場所で生きながらえていくために助けるのが当りまえのような感覚なのでしょう。
イスラムの喜捨ということを、もう一度、本質的に考える機会になっているのかもしれません。他者のことを想ったり、支援したりすることを損得でしか考えられない社会こそが、きっと貧しい社会なのです。ついつい、インドネシアと日本を比較してしまいます。
賑やかに祝えなかった断食明け大祭ですが、フェイスブックなどのSNSでの挨拶のやりとりは、例年通り、全く変わりません。むしろ、例年よりも、家で静かに祝っているであろう友人たちのことを想いながら、自ずと心がよりこもったものになっているような気さえします。
面会など物理的なコンタクトが難しい今、それはむしろ、近年、社会的に劣化しているように見える、他者への想像力を錬成するよい機会なのかもしれません。それがコロナ後のより心地よい社会をつくっていく端緒になることを願いたいです。
東京の自宅近くの駅前のバラが満開だった

楽天モバイルに加入してみたが・・・

昨日はiPad Mini 5を購入したお話でしたが、それと併せて、楽天モバイルのUN-LIMITにも加入しました。

当初、楽天モバイルのUN-LIMITでは、Rakuten Miniという、eSIM内蔵の小さな携帯電話機を購入する予定でした。そのように申し込んだはずなのですが・・・。
サイトで確認すると、なぜか、SIMだけを申し込んだ形になっていました。私が間違えた様子。家にはSIMだけが送られてきました。
UN-LIMITは1年間無料、Rakuten Linkというアプリ経由で通話もデータ通信も、(1日10GBという制限がかけられるらしいけれども)使い放題、海外からも同アプリ経由で無料通話可能、など、後発組だけに、色々プロモーションをかけています。
ただし、この特典が使えるのは、1人1回限りです。 しかも、SIMと携帯電話機のセットでないと、割引価格にならないという仕組み。楽天モバイルで使える携帯電話機は数が少なく、SIMがあってもそれを使える携帯電話機を探すのは難しいのでした。
これは困った。どうしよう。すでに日本国内用のアンドロイド、インドネシア用のIPhone 5sがあるので、携帯電話機としてではなく、Wifiルーターとして使いたい、と思って、Felicaがあっておサイフケータイが使え、いざとなったら無料通話もできるRakuten Miniを狙っていたのですが、難しくなりました。
そこで試しに、以前購入した、世界各国で使えるWifiルーターのGlocalme G3に楽天モバイルのSIMを刺してみました。すると、rakutenとしてSIMは認識しましたが、やはり予想通り、通信はできませんでした。
やはり、楽天のSIMが使えるWifiルーターを購入するしかないか。そう思って、サイトに入ると、楽天モバイルで使えるルーターが軽量のとSIM2枚が刺せるものの2種類がありました。
もちろん、SIM2枚させるほうを所望。でも、サイトでは購入のボタンが押せず、購入できません。これはやむなく軽量のを購入しなければならないのか。購入しかけては止め、を数回繰り返して、しばらく放置しました。
しばらくして、再度、サイトで購入しようとすると、タイミングが良かったのか、今度はボタンも押せて、購入できました。
SIMが2枚刺せるAterm MR05LN RWというルーターが今日(5/22)届いて、早速、楽天のSIMを刺してみました。難なく開通、もちろん通信もバッチリでした。しかも、楽天モバイルのエリアのためか、速度も体感でかなり早く、自宅のWifiよりも早く感じるほどでした。
これまでは、WiMax 2+を使ってきていて、とても重宝していたのですが、屋内や地方では繋がらないことが時々あり、速さよりもつながりやすさを求め始めました。近いうちに、WiMax 2+は解約しようと考えているところです。
そして、さらに、iPad Mini 5用の縦置きのできるカバーケースも到着。
とりあえず、楽天モバイルのSIMをどうするかの懸案が片付いたので、一安心し、ウェブ情報マガジン『よりどりインドネシア』第70号の編集・執筆にとりかかりました。そして午後11時半過ぎ、無事に発行できました。

iPad Mini 5を購入しました

ずっと迷っていたのですが、iPad Mini 5を購入しました。

今まで使っていたのは、2014年、エアアジアの乗り換え時にKLIA2の免税店で買ったiPad Mini 3の32GBでした。SIMもさせるタイプで重宝していたのですが、このところ、32GBではちょっと物足りなくなっていたのと、スマホの性能がとても上がったので、iPadとスマホとのデマケができずに、ちょっとどうしようかなと思っていました。
iPadで、新聞を読んでいるのですが、これがとても快適。老眼の身としては、手でスワイプして簡単に文字を拡大できるので、紙のを読むよりも、ずっと読みやすいのです。
さらに、論文などのPDFを必要なときにパッと見られるし、論文もまた、やはり老眼の身としては、手で簡単に文字を大きくできるので、読むのが助かります。
いつでもどこでも、気軽にウェブ会議ができるように、ZOOMやらTeamsやらGoogle Meetやらを動かせるため、もっと性能のよいiPad、でも、持ち運びしたいからMiniだな、と思っていました。
どんどん欲は出てくるもので、せっかくなら、Apple Pencilも使えるようにしたいと思い始めて、iPad Mini 5 256GBの購入を決めました。
今回購入したのは、ピカピカの新品ではなく、Appleお墨付きの整備済製品(Apple Certified Refurbishedというのを知りました)。ピカピカの新品より割安の税抜52,800円で購入できました。
注文して2日ぐらいで届きました。素人目には、ピカピカの新品と全く変わりません。さっそく、iCloudと旧iPad Mini 3から必要なアプリやファイルを同期して、使い始めました。反応も早く、快適ですねえ。
来週には、Apple Pencil 第1世代も届く予定です。どんなふうに使いこなしていけるか、今から楽しみです。
それと、楽天UN-LIMITにも加入しました。その話は、また後ほど。

今ごろ、我が家にも来ました

本日(5/20)、とうとう全国1億2千万人の日本国民に1世帯当たり1袋2枚配られるという代物が、日本国民の端くれである我が家族にも送られてきました。

私たちが働いて納めたお金を勝手にたくさん使って、欲しくない国民も欲しい国民も関係なく、半ば強制的に、すべての国民に勝手に配られました。
為政者が国民のためを思ったふりをするために、勝手に配られました。
うん百億円は、これの製造者、全国民へ配達する日本郵便、そしておそらく国民の多くが知らない誰かに配分されました。
この袋の裏側には、ご丁寧に、国民へのお願いが書かれていました。
下々の者は、これを配られてありがたい、と思うと思ったのでしょうか。為政者はすばらしい、と思うと思ったのでしょうか。
日本国の劣化、ここに究めり、という感じがします。あーあ、アホらしい。

小松理虔著『新復興論』を読了

購入して読み始めたのはずいぶん前だったが、ようやく本日(5/17)、小松理虔著『新復興論』を読了した。

あいにくまだ同氏とは面識はないが、東日本大震災後の彼の活動は興味深く、ツイッターなどにおいて、自分で勝手に追いかけていた。
私自身、福島のことを考える際、「復興」という言葉を素直に受け止められなかったり、様々な現象を「福島」という地名で一般化されてしまうことに強い違和感をずっと感じていた。
自分の出身地である福島市における福島の人々と、いわき市を含む浜通りの「福島」の人々との微妙な心理的距離や、福島市在住の人々によるあたかも自分が福島全体を代表しているかのような言動が跋扈するなかで、インドネシアなど海外とも深く付き合ってしまって、福島については出戻りのような自分が自分の立ち位置をどこに置いたらいいのか、悩み続けるなかで、小松氏の発信になんとなく親近感を抱いていた。
『新復興論』は、よそからの借り物ではない、小松氏が地元での生活経験のなかから、自分の言葉で自分の思想を編み出していくプロセスを経ながら書き上げたもので、二者択一の単純な議論や政治性を排除した、他の専門家の真似のできない内容だと感じた。
とくに、リアリティとの関わり方に関して、地域づくりにおけるコミュニティデザイナーとアーティストとの役割の違いを明確にしていた点に思わずうなづいた。
いくつもの珠玉の言葉があった。いくつか自分なりにまとめてみる。
「アーティストは事実を伝えるのではなく、真実を翻訳するのだ」という古川日出男氏の言葉の引用。アーティストは課題を提示する人であり、そこには、現状に対する批判精神が込められているのが当然である。アーティストが社会的課題を解決するのではない。行政などの意図に応じて作品制作を行うなど、リアリティに囚われすぎると弊害が生じる。土地の歴史や文化を掘り起こし、そこだから存在するものを大事にする。それを進めるにもアートの力が有効である。
原発を含む福島のエネルギーをめぐる歴史は、外部から求められての「敢えての依存」が時が経つにつれて「無意識の依存」へ変わっていった歴史であった。それに伴って、福島では、自らが犠牲となって国策に貢献したのにその後結果的に差別を受けるという「方法的差別」を繰り返してきた。そうした福島と同様の経験を持つ人々は世界中に存在する。アートを通じて、それら世界の様々な場所で闘っている人々と連帯すべきだ。
外部者を排除した地域づくりは前に進められない。様々な人々に関わってもらうには、まじめの度合いを下げるしかない。復興事業の多くはまじめに行われすぎている。まじめの度合いを下げるのにアートの役割がある。徹底して楽しむこと、そして小さく展開すること。不まじめさによって、予期せず偶然に誰かへ情報が誤配され、その誤配から全く新しい何かが生まれる可能性がある。ゆるさの効用がある。
原発事故を障害として捉える。治癒して元に戻るケガではなく。障害としての原発事故をむしろ価値と捉え、共存を図る。
この最後の障害論は、まさに、今の新型コロナウィルス感染拡大の現状にも当てはまるものだろう。そうだとするならば、地域づくりの場合と同様、アートにも、閉鎖状態を和ませる以上の、何らかの果たせる役割があるような気がする。また、まじめすぎるのもよくないのかもしれない。
『新復興論』は地域づくりの現場に関わる方々はもちろん、地域づくりを教える教師やそれを学ぶ学生にとっても示唆の大きい内容である。そして、それぞれの経験に照らして、地域づくりにおける自分なりの思想や考え方を見つける良い材料になるものと思う。
小松氏の今後の活動や言論についても、引き続き注目していきたい。

ポスト・コロナはハイパーローカルの時代?

今日は、たまたま、ある方のNotesに刺激を受けて、自分の活動の今後の新しい方向性を示唆されたような気分の一日でした。
日経COMEMOというNotesのマガジンから毎日更新情報が届くのですが、今日来たもののなかに安斉洋之という方の「コミュニケーションの質と意味がさらに問われることになる「ハイパーローカル」の時代」という記事がありました。
ハイパーローカルという言葉からは、何かデジタル化やハイテクに関係したイメージを抱いたが、中身は全く違っていました。
ローカルというのは通常、自分の住む場所やその周辺という物理的な領域として認識されますが、個人の能力で規定される活動領域もローカルと規定できる、という意味での二重の意味でのローカルを「ハイパーローカル」と定義する、ということです。
インターネットやグローバリゼーションで活動領域が広がった個人が、ものを考えるスペースとしてのローカルを持つと同時に、そこにリアルな行動とそのフィードバックを物理的に受けるコミュニティに属している、という条件が組み込まれていて、この組み込みが弱いと、孤独感を感じる、といいます。
この感覚は、自分でも腑に落ちるものでした。
自分にとって、ジャカルタやマカッサルをも活動領域としてのローカルと認識しつつ、毎日のリアルの生活では東京が今は自分のローカルとなっています。
安斉氏が依拠しているのは、イタリアのソーシャルデザインの第一人者と言われるエツィオ・マンズィーニ(Etio Manzini)という方の議論です。
ハイパーローカルという捉え方からすると、個々人の能力の違いによって、ローカルの広さは異なってきます。このため、ローカルの広さの違う者同士では、コミュニケーションの質のレベルが違ってきて、うまく対話できません。フラットな関係をつくる必要があります。
彼によれば、コミュニティの基本は、対等で質の高い対話がどれだけ成立しているかどうか、にあります。対話を成り立たせるには、人とコラボレーションすること自体に価値を見いだす、すなわち「あの人たちと一緒に何かやって幸せを感じたい」という願いを持続的に満たすことに重点が置かれるべきだと説きます。
そのためには、お互いが弱い状態を作り出して出逢いを活発化させる一方、その出逢いが安全な場所で行われるようにする、という戦略を採るべきだとしています。
自分の弱さ、というか本音を出しても誰も蔑んだり糾弾したり嘲笑したりしない、安心して弱さや本音をさらけ出せる、生身の人間としてフラットな関係をつくることで、互いの信頼感を醸成する、ということになるのかなとも思います。
個々の能力の違いに由来するハイパーローカルの違いを意識したうえで、様々なローカルが経済的価値よりも「一緒に何かをやる幸せ」に価値を置いて関係をフラット化させ、弱さや本音をさらけ出せる環境のもと、質の高い対話を行う。
言い方は異なりますが、日頃から自分が思ってきたことと相通じるものがあるように感じます。
この後、以下の安斉氏の別のNotesも読んでみました。
ここでは、コロナの時代にたしかなことが分からない、という現実を認識し、「知らない」からこそ学びのコラボレーションが重要になる、という主張でした。その芯は先のNotesと同じです。
安斉氏の二つのNotesに触発されて、マンズィーニの著作をいくつか検索して調べてみました。そこからは、ソーシャル・デザインへの彼なりのアプローチ、すなわち、コラボラティブ経済への希求がうかがえました。また、開発途上国の現場で、どのようにステイクホルダー間のコラボレーションを促していくかという、ファシリテーションも重視されていました。
これまで、自分も、コミュニティ・ファシリテーションやコミュニティ・デザインの視点から、関係者間の信頼をどのように醸成し、本音で対話ができる環境をどう創っていくかを試みてきましたが、ハイパーローカルの時代のコラボラティブ経済でも、考え方の基本となっていると確認できました。
久々にちょっと興奮しました。勤務先の図書館に行って論文を漁って興奮した研究者時代を思い出しました。ソーシャル・デザインということを意識して、マンズィーニの著作をもう少し読み込んでみようと思います。

友人であるマカッサル市長代行が任期終了

5月13日、私の友人がマカッサル市長代行としての一年の任期を終えた。最後は、マカッサル市に大規模社会的制限(PSBB)と呼ばれるセミ・ロックダウン措置を発動し、新型コロナウィルス対策の陣頭指揮を採っていた。

彼と出会ったのは1996年4月、インドネシア国家開発企画庁(BAPPENAS)所属のJICA長期派遣専門家(インドネシア東部地域開発政策アドバイザー)として、マカッサルの南スラウェシ州開発企画局(BAPPEDA)に赴任したときだった。
BAPPEDAで職員全員を前に赴任の挨拶をした際、私は生意気にも「私にカネや援助を期待する人はこの場から去っていただいてかまわない」と述べたとき、そこにいた半数近くがゾロゾロと退場していった。その光景を今でもよく思い出す。
そのときに残った者たちと一緒に活動しようと思った。彼はその残った者たちの一人だった。
その後、彼を含めた若手職員とほぼ毎日夕方、寛いだ雰囲気の中で、地域開発政策に関する様々な議論をざっくばらんに行なった。それらの若手職員の多くが今、南スラウェシ州政府幹部として大活躍している。
彼もそうしたうちの一人だった。常に何か新しいことを考えようとしていた姿が今も脳裏に残っている。
BAPPEDAでの彼は、特定の部門に特化する対応ではなく、とくに総務・管理畑で重要な役割を果たした。その後、州知事選挙などを通じて、州政府内で政治的な派閥対立が先鋭化したときも、うまく立ち回って生き残り、着実に出世の階段を上がっていけた。
今の南スラウェシ州知事(彼も古くからの友人の一人だが)にも重用され、1年前、マカッサル市長代行に任命された。
マカッサル市長は空席だった。マカッサル市長選挙が行われたが、現職が汚職疑惑で立候補できず、立候補したのは1人(インドネシアの地方首長選挙は正副のペアで立候補するので正確に言えば1ペア)だった。彼は地元有力実業家の一族で、当選は間違いないと思われていた。インドネシアの選挙では無投票当選はなく、信任投票のような形で、立候補した1ペアは投票箱と戦う、という構図になった。そして選挙結果は、投票箱の勝利だった。
この結果、市長職は空席となり、2020年以降に改めて選挙を行うまでの間、州知事が任命し内務省が承認する市長代行が置かれることになった。複数の候補の中から、当時、州研究開発局長を務めていた彼が州知事によって抜擢された。
2017年1月、彼は家族を連れて、日本へ旅行に来た。そのとき、リクエストに応じて、1日、富士・箱根を案内し、新宿でハラルラーメンを食べてもらった。
彼の後任は、現職の南スラウェシ州BAPPEDA局長。国立ハサヌディン大学林業学部教授でもあり、同学部教授でもある州知事の後輩にあたる。市長代行の任期が当初の予定通りの1年で、延長されなかった理由は不明である。
ともかく、今は、市長代行を終えた彼にご苦労さまでしたと言いたい。次回、マカッサルへ行ったら、シーフードかチョト・マカッサルを一緒に食べたいものだ。

公文書が見事に軽んじられる国で

国家の正式文書である公文書を書き換えたり、破棄したり、元々なかったと嘘を言ったりする。
そのような国には、行政マネジメントをきちんと教え、国家をきちんと成り立たせる基本をしっかり身につけさせるような技術援助が必要だ。そんな国は、先進国にはなれない。
開発途上国の行政能力をどのように改善するように支援するか、という文脈から、そんなことを大所高所から議論していた昔。民主化や国づくりはまだまだ先のことだね、なんてため息をついていたものだ。
インドネシアで地域開発政策アドバイザーを務めていた頃、よくそんな議論をしていた。地方へ視察に行った際、県職員が農作物生産などのデータを鉛筆なめなめしている現場に何度か出会った。行政関係者と正しい記録を残すことの意味を何度も話し合ったものだった。
インドネシア・マカッサル市のパオテレ港で荷役する男性(本文とは関係ありません)
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冒頭の話は、もちろん、いまの日本である。でも日本は、行政能力が未熟だから、公文書管理をきちんとできないのではない(はずだ)。
逆である。能力があるからこそ、なのである。公文書の重要性やその役割など、官僚は誰よりもよく理解している。それでいて、公文書を書き換えたり、破棄したり、元々なかったと嘘をいったりするのは、彼らの能力が、真実をどう書き残すかということではなく、話のつじつまをどのようにうまく合わせるかに集中して使われているのである。
なぜか、私たちは、彼らがすべて記録をきちんと残している、と信じている。実際、いかなる会議でも議事録は作られ、詳細なメモがとられ、すべての記録(公文書をどう改ざんしたか、処分しようとしたかも含めて)は、何らかの形であるはずなのだ。
でも、それを表に出さない、知らないふをする技術を磨いてきたことも、忘れてはならない。
些細な私の過去の経験談だが、インドネシアでアドバイザーを務めているときに、対照的な二人の担当者がいた。そのころはまだ、メールも携帯もなかった。連絡は電話またはファックス。
一人は、私とのすべてのやり取りを、細かなことまで含めてファックスで残した。電話で話した内容も、すべてファックスに記して確認した。
もう一人は、ファックスでのやり取りを一切しなかった。こちらから「ファックスでお願いします」と言っても、絶対にファックスを使わなかった。電話のみだった。そして、言った、言わないの話が頻発した。私は、日時と内容を必ずメモしていた。でもその人は「そんなことは言っていない。証拠はあるのか?」とすごんでくるのだった。極めて不愉快だった。
自分の非を認めなければならなくなるような内容は、昔から、部外者には出ないように配慮されていたのだ。仲間内では口頭で共有し、場合によっては、自分たちに都合のいいようなお話をつくってしまう。自分たちが責められて、のちの評価や昇進にかかわってくるような内容は、あえて残さなかったのだ。そして、自分たちを守るために、部外者に責任や非を押しつけようとさえした。
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部外者である国民に公表されている公文書であっても、その内容が正しいと単純に信じてはいけないのではないか。議事録も詳細な内部用をつくり、そのなかで問題になりそうな個所や表現を省き、場合によっては骨抜きになったようなどうでもいい内容のものが外部用として残されたのである。
そう、そんな公文書だから、改ざんも、破棄も平気だし、その存在自体を消しさえしてもかまわないのだ。大事なことは、議論や発言の実際の中身を忠実に記録することではなく、外部から責められたり、批判されたり、問題になったりしないように「きれいに」した芯のない文書を残し、波風を立たないように平静を装うことなのだろうから。
そうしたことを可能にする能力や技術を何年も、何十年もかけて養って、社会の上層部に立ち続けている、公文書を扱う人々。政治家が重宝するのは、その専門的な知識や見識とは限らない。むしろ、政治家が何をしても、常につじつまを合わせ、綻びを隠し、世論を騒がせないようにする相当に専門的な技術なのかもしれない。
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時の権力者にとって不都合な事実は、記録として残されていかない。歴史は常に勝者を正当化する歴史である。その正当化の過程で、不都合な真実は無残なまでに残されない。為政者がどのような政治を行ったかは記録に残っても、下々の人々がどんな生活を送っていたのか、なぜ百姓一揆に至ったのか、そんな庶民のくらしの歴史は、ほんの一部しか残っていかない。
公文書を軽んじ、もてあそぶ国家は、到底、国家とはいえない。為政者が勝手に公文書をもてあそぶ政治を支持する国民とは、いったい、どのような国民であろうか。為政者を支持するかしないかで、誰を守り、誰を守らないかを決める政治。そのような為政者が、形式的にせよ、民主的な制度によって選ばれている。かつてのスハルト体制下のインドネシアは開発独裁と呼ばれたものだ。
民主化のパラドクス、という現象は、世界中で顕著に表れている。
日本もまた、その一つになっていることを自覚しておかなければならない。
でも、その公文書自体もまた、真実を正しく記録しているとは限らない。
私たちにできることは、公文書を軽んじる為政者への批判に留まってはならない。今起こっていることを、各自が自分なりに記録に残し、それが記憶に残っていくことである。もしかすると、新聞やメディアには残らないかもしれない。不都合な真実は消されていく。
SFにような、脳から記憶を強制的に奪うような事態が起きれば別だが、何が起こっているのか、人々はそれにどう対峙したかを、各人が記録に残し、記憶に刻む。どんな時代になろうとも、為政者がどんな手法を使って私たちを騙そうとしても、動じないために、自分なりの「真実」を残す努力を続ける。それを怠らず、自分なりの思想を深めていく。

庭の花々に安らぎを感じる



新型コロナウィルス感染拡大に伴い、事業自粛、雇い止め、ストレス増大、弱者への支援の削減など、明日をどう生きていったらいいか、悩みに悩んで苦しんでいる方々の存在を思う。本当に、どう暮らしていったらいいのか、途方に暮れてしまうだろう。
もっとも、それを伝える者も、対処する政府関係者も、明日の暮らしをどうしていったらいいかに日々悩んでいる人々ではない。今月も来月も、定期的に給与が支払われ、生活が保障されている人々である。
サラリーマン生活を辞めて12年。自分の思う人生を歩みたい、自分の納得のいく仕事以外はしたくない、とわがままな生き方をしてきた。いつも複数の原稿締め切りに追われていた日々とおさらばし、ストレスを感じない毎日を過ごしてきた。
でも、気がつくと、貯金は減り、毎月の家計が苦しい状態の日々。収入は安定せず、このままずっと暮らしていけるのか。将来へ不安を感じ、別のストレスと向き合う日々になった。
その意味では、新型コロナウィルス感染拡大によって、状況が急に悪化したというわけではない。その前も後も、厳しい状況に変わりはない。明日の暮らしをどう維持するか、という状況にはまだなっていない(いずれなるかもしれないが)だけ、前述の方々よりはまだ恵まれているのかもしれない。
そんな日々の中で、幸いなことに、自宅の庭に咲く花々が、つかの間にすぎないかもしれないが、自分にささやかな安らぎを与えてくれる。

色々とうまくいかないことがあると、どうしても落ち込んでしまう。自分には能力がないのだ、どうしてこんな生き方をしてしまったんだ、生きていて何か意味があるのか、などと自分を責めてしまう自分も出てくる。弱い自分が確かに存在する。
それでも、何はともあれ、家があり、家族と一緒に暮らせている。
外出自粛というけれど、庭に出れば、花々や緑色に染まる植物たちと戯れられる。もちろん、(人と接触しない形で)近所へ散歩に出かけたりもする。
ここにいるから、なんとかなっているのかもしれない。
自分の思う人生を歩みたい、自分の納得のいく仕事以外はしたくない、という私のわがままを、家族はまだ温かく見守ってくれている。
ありがたいことだ。その気持ちを忘れないように、日々を丁寧に生きていきたい、と改めて思う。
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